エッセイ集 3
「もういいのだ」
かけがえのない人生を私は、この狂奏曲の老人ホームで終わることになるのだろうか?。昨日隆一君から電話があり、今朝は富夫から電話があった。そのようにして、一日一日が過ぎて行き、やがては己の人生もここで埋もれることになるのか、と思えばいささか淋しい。ただ今は、八十歳まで書き続けたい。それだけが目的だ。何も必要ない。もうこれ以上望むものは無い。
ただ一ツ渡邊氏の作品だけは歴史に残しておきたい。四十数枚の氏の作品をコレクトした身にとっては、四十年間の積み重ねがあって、独創的な絵になって、個性的なモチーフを持ち、技術で描かれた作品は、これからどうなって行くのだろう・・・。
あまりにも長い年月が経って行く。私の作品は、もうどうでも良い。渡邊氏の作品は本物だ。私の作品はダメだ。もういい、もういい、諦観を識ってしまった二人の末後は、何処にあるやら!。
もういい、もういいのだ、全てが終わるのだ。こんな生活も。こんな境遇も有りなんだ。孤貧に溺れ、貧乏に流され何処へ行く?、何処へでも行けるが、この体では、何の行動も取れない。
私の描いていた有限会社「コーノス」、は今の年で画廊を開いているはずだった。そして、十店舗の店を展開しているはずだった。そして派遣業をやってるはずだった。
もういい、もういいのだ。疲れた。孤貧も悪くはないが、もう疲れた。もういい。もういいのだ!。姉から三度の電話があり、もういいのだ!。何をして良いやら判らない。もういいのだ!、もういい・・・。これ以上、私に悪疫が及ばないのなら。もういいのだ!。もういいのだ。もう何も望まない。姉が言う通り、私が足腰立たなくなったら特養に入れば、いいのだ!。もういいのだ。
「到達点」
知行、電話に出てくれ!。
お父さんがすべてを諦める前に、出てくれ!。お父さんは、お前たちを心配しているのだ。遺書も書いておいた。
幸穂、知行、志歩よ、三人はこの先何を頼って行きていくんだ!。私の子等、幸穂、知行、志歩、お父さんが何を頼って名前をつけたのか?。判るか三人の子供等ヨ!。今は幸福かい。お父さんは、孤塁を守って生きているのだ。見難い争いも見てきた。私の持ってる全財産は三人のもの。絵は志歩のもの。土地建物は知行。お父さんが眠る御墓も三人のもの。お母さんに残す物は無い。何も無いのだ。最初から何も無いのだ。貴女は三人の子供を得た。それだけでいいだろう。貴女には、私の血が流れる優秀な子を三人も得たではないか。もういいでしょう。私を孤独にしてくれて有難う。私は、もうやり残したことはない。もういいでしょう。これ以上何を望むんですか?。あまり欲をかくと、また裁判になります、と言っておかないと。私は最初から愛は感じませんでした。今もそうです。私の愛の全ては中川恵美子さんに預けてしまいました。彼女は、私が一番苦しかった三畳一間の時に付き合った女性です。貴女は、私が上野に店を構えてからの女性。そのころの私は、女性に苦しんだことはありませんでした。
今は、全てが終わった終焉の時期です。私は何も望みません。あるがままの己で生きて行くつもりです。その日が、いつまた来るやら!、判りません。もう何もいらないんです。後生はどうでもいいんです。有る無きに等しいんですから!。
山頭火のように自堕落な人間が居たという事でいいんじゃないか?。そして終わる。投了です。
平成二十八年五月四日 風の強く吹く荒れた日。私は全てをやり終えた気がします。
「自然に帰れ」
今の安倍政権に望むことは、何もありません。せいぜい好き勝手にやってください。今はもう末法の世ですよ。己の事は、己で始末しなさい。荒れた風潮も貴兄が始めたことですよ。昨日の憲法の国、貴兄は何をしていましたか?日本の外貨が、再び上がりましたね!。貴兄の留守にしていた二日間の出来事ですよ!。貴兄は、何をしようとしているんですか?、七十年間続いたこの平凡な時に貴兄は安保を変えるんですか。支持率が下がりますよ!。貴兄が望むような高度経済成長などやって来ませんよ!。どうするんですか?。来年の消費税は、上げられないでしょう。貴兄は今後何をしようとしているんですか?。民衆は今、この先の希望が見えて来ませんよ!。早くスローガンを作ってください。誰もが、何処へ何故進むべきかを迷っていますよ!。
今、野辺に咲く花を飾っているが、これのどこが良いやら、私にも判りません。今、陛下の玄関先には、バラとすみれが咲いておりますが、今一ツ花の中の華がありません。早く龍ケ崎の実家に帰りたい。そうすれば庭には、すみれや、あやめが咲いているだろう。芽吹きの時期だし、様々な緑を楽しめるのだが・・・。
全てが自然のままに、なるがままに、流される他ない。川の流れのように。急流だけは避けて歩きたい。私は今の孤貧が一番心地いいのだ。
「他人の一生を書いて思うこと」
昨夜から鴻巣功収さんを書いていたが、思いつきで書いていたので、三十六枚しか書けなかった。予定では百枚書く予定でいたのだが、その半分にも満たなかった。それでも一階の狂気に付き合うよりはいい。
功収さん、お世話になりました。私もそう遠くないうちに行くから、待っててください。地獄でも良いです。何も望まないです。あるがままに受け入れてください。何も書けなくて御免なさい。
私の文章なんて、この程度ですヨ!。
最初に書いたのは二十歳の時であったが、石井から批判されたあの時よりは、上手くなっていると思いますが、まだまだ練習と深読みが足りません。今、夏目漱石のこころを読んでいるが、あの中学生の時のような感受性があるかどうかは未知数です。
功収さん、ごめんなさい。
「ブレンドの苦い味」
それでも書くのですか?、と注意されそうです。
何故か水曜日のこの時間(三時)にのど自慢が流れているが、私の文章と一緒で下手な人が多い。私はカラオケだけで充分だ。もう五月蝿いだけで何も他にはいらない。本当に今日は下手な人が多い。新居浜で行われているらしい。
今朝はすごく荒れた天気だったが、今はその風に雲を吹き飛ばされて晴れている。愛媛県だそうです。面白い人が多い。
それで良いのだ。いいのだ!。何を望む!。そのままでいいんじゃないか。いつか味が出て来ると思う。
今回の本屋大賞の「羊と鋼の森」の作品を読み終えて、文章のリズムが私と似ていた。内容も面白かった。作者は四十五年もピアノを学んでいたらしい。私もそれ位になる。しかし、私は国士舘、彼女は上智の同じ哲学部だが、力は天と地の違いがある。やはり、運動と一緒で、感性の違いかも知れない。作者の名は「宮下奈都」、これを書いているのが『鴻巣 幸男』段違いだ!。仕方ない。実力の違いだ。私は次の作品を決めねばならないだろうが、やはり喫茶店の話を書く以外無い。
確か六曜館のブレンドは、ブラジルが三で、モカが四で、マンデリンが三の割合だったと記憶している。
「幼年時代」
私の高校時代を振り返ると、あまり幸福ではなかった。
私は工業高校を選択し、大学進学という暴挙に出た。目標は東京理科大の工学部電気化であった。
私が高校二年生ぐらいになると、母が精神病院へ入ることになってしまった。それは意外性も無く私は、それを受け入れてしまった。確か昭和四十三年の二日、大雪の降る日だった。私は二階で寝起きして、勉強部屋も二階の八畳間にあった。当時としては広い勉強部屋であった。その部屋をカーテンで仕切り弟の机を持ち込んで二人で使っていた。
私は中学生時代とは代わりガリ勉であった。高校の一年間は常にトップクラスであった。期末試験や中間試験では、廊下に張り出された試験用紙が常にトップであった。中学生のころの三十三位とは、全く違っていた。中学時代は、野球部のキャプテンをしてい、私は受験勉強との両立が困難であった。
当時の私は身体を動かすだけが野球と思っていた。今の方がはるかに野球を知っている。それは、ツーアウトに一塁に立った時、必ず盗塁のサインが出るのであった。今の私なら、バッターボックスに立つ選手の癖とか相手選手の思考を考え、勝手に盗塁するのである。今ならそうするが、当時の私は頭を使わなかった。ただ惰性で野球をしていた。アウト・カウントで守る位置を変えてみたり、相手の監督の動きも考えなかった。それが今の年になってくると、その動きが読めるのである。ツーストライクであったり、ワンストライクであったりすると、動きが変わる。一挙手一投足で作戦は変わるのである。中学時代は、ただ守り、ただ打って歩くだけであった。それは龍ケ崎のT中学校との練習試合で、私は、二塁打を打った時だった。その時の手の感触はセンターフライぐらいだったと思った。私は精一杯の気持ちで全速力で一塁ベースを駆け抜けた。しかし、私のセンターフライは、センターを越え二塁打になった。私は中学二年生であった。そして三番を打っていた。そのころの監督である国語の教師山田先生は、打てない、守れない、走れないの三拍子が揃った私を贔屓にしていた。
その経緯はその前年にあった。小学校から中学校に入った野球部員は六十名。そして三年間続いたのは私だけであった。私には特別な才能があったわけではなかった。ただ三年間残っただけであった。私以外の五十九名は先輩のシゴキで辞めてしまった。私だけが残ったのは、英語の教師佐藤正臣先生の贔屓でも会った。氏は、私を長距離ランナーとしたかったらしい。当時の県道は砂利道。佐藤先生は愛車のスバル三百六十の車を走らせ、十キロごとに三十キロ先まで道程を決めていた。中学二年生の私は、その佐藤先生の併走で、三十キロを走らせるのであった。それに従ったのは、全校三百名足らずの生徒の中で私だけであった。そんな努力もあって、私は外野・内野・ピッチャー・キャッチャー・と回されたのである。その結果私に与えられたのは、レフトの守備とセカンドのそれであった。肩が弱い私は外野守備には不向きであった。さりとて打撃が良いわけでは無かった。結果、打てない・守れない・走れないの三拍子が揃った抜け作の私であった。
しかし私は最初に皮のグローブを与えられ、スパイクまで最初に揃えられた。それは、他の生徒の家は皆が皆百姓の子供であった。私の家の父親だけが復員後サラリーマンであった。父には、毎月決まったサラリーが入るのであった。百姓の貧乏は、そのころ最悪であった。まだまだ、牛や馬を飼って、その動物に田をうなわせていたのである。
私は幼稚園のころから牛車や馬車で二キロの距離がある、禅寺の幼稚園に通うこともあった。私は当時五才、泣き虫の幼児であった。そのある朝、私はいつものように吉原のジッチャンの牛車で通園したのである。その余路のある焼き芋屋の前で、牛が急に暴れ出したのであった。私は後の荷台の手摺りに腰掛けていたのであった。私は牛のいななきの声で振り落とされてしまった。私はその日、朝から夕方まで泣き通してしまった。あれは園舎の門前にあったもちの木の木陰であった。泣いてばかりの私に担任の川北先生が付き合ってくれ、夕方まで一緒に泣いてくれていた。
あの女性の先生は、今は川北洋品店の娘さんであったがその店は廃業してしまっている。地方都市の通例のように、年の空洞化現象で、当時あったそば屋の大阪屋や、味噌醤油店の小野瀬忠兵衛店でさえ倒産してしまったのである。その広大な庭に赤レンガの倉庫があり、それを私に喫茶店として使ってほしいと言う話があったのは、今から十年前だった。
当時の名残りで残っているのは、常陽銀行と矢口生花店や、もも屋化粧品店と、長い付き合いのあった菅井書店ぐらいであった。
コロッケのおいしい内田精肉店まで無くなり、私の師の割烹居酒屋「磯吉」の跡にはコンビニストアーが出来ている。後に残ってるのは髙見質店ぐらいである。その質店でさえ、年中戸が閉まってる有り様である。祖父があれ程通いつめた西川酒店は、夜逃げしたそうであり、同じ根町の中村魚店は、老父母と嫁のいさかいで、今は急激に客が逃げ出しているようである。幼稚園の登下校で寄り道した山中文房具店は、今は太田谷になっている。それぞれに生きる道を探しているんだろうが、あの大きかった鍵林のせんべい屋でさえ、郊外へ引っ越してしまった。残っているのは、私の幼年時代を一緒に生きてくれている角俊成。その彼も、今はさる大会社の役員ということで、時々会い旧交を暖めあっている。今は老人ホームに居る私の元へ、池澤がビッコで来、鈴建の鈴木君は、春夏秋冬来てくれている。池澤は交通事故で左足を失ってしまっている。鴻巣元治君は定期的に見舞いの手紙をくれている。その手紙のやりとりが面白い。彼は、六十五才になるが、昨年郵便局を定年し終えて元気に生活している。山崎一里君も来てくれたが、彼は小企業の幹部社員であり、まだ会社を留守には出来ないみたいだ。
私の本来の文章は工業高校時代であったが、私は本ばかり読んでいた。授業中にエミール・ゾラを読んでて叱られた事もあった。私は、中学時代に世界文学全集を読んで、二十歳で日本文学に目覚め、毎月群像や野性時代を読んでいた。私は四十歳、いや六十五歳になる今でも乱読である。好きな作者は立原正秋であり、忘れられない作者はヘルマン・へッセであり、夏目漱石の「こころ」等は今でも忘れられない感動を持っている。
ニーチェやプラトンは中学時代に読んだが、今は何も覚えていない。
進学校へ行けなかった私は、理科大の入試試験の数学で微分積分の回答欄に何も答えられなかったのを覚えている。その問題は、たったの一行であったのだが、答えの用紙が二枚もあったのに驚かされたが記憶の奥底に残っている。苦い思い出である。
私の小学生時代は、六年生の時に両手の十本の指を全て突き指してしまい、初めて接骨院なる病院に行ったことを覚えている。
「狂人日記」
私が、この狂人達の住む老人ホームに入ったのは、平成二十六年八月二十九日であった。
入所当日の夕飯で私は驚かされた。当日のヘルパーは、牛久の青山さんだった。簡単な挨拶を交わし合うと、私を待っていたのは、その日の夕食の御粥であった。「私はこれでは不満なんです」。と言うと古参の古藤さんが出て来て、「俺がおにぎりを買ってきてあげるヨ!」と言われた。私はその老人に千円札を渡そうとすると、青山さんが「それは駄目だヨ!」、「私が買ってくるから待っててネ!」、というと、私は彼女に千円を私た。それで買ってきたのは、梅のおにぎりと鮭のおにぎりのそれが二個であった。
「何故古藤さんではいけなかったのか?」、と私が質問すると、「後で判るヨ!」、と言われた。その意味が判ったのは翌日だった。
その日は、私は古藤さんに千円を渡し、タバコを買ってきてもらった。すると、「お釣りだヨ!」、と渡されたのは五百円玉一枚だけだった。彼は微に入り細に入り良く気のつく気質のごく普通の老人だと思っていた。「あと百円は?」、と問いかけると、彼は「駄賃に貰っておくヨ!」、と平然と答えるのである。
彼はそのような方法で、他の住居人にも、金をねだっている事が知れた。その青山さんは、その後三ヶ月で辞めてしまった。
古藤さんに限らず、他の入居者も狂っている。認知患者者ばかりであった。私は、その異様なデイルームの様子を一日見ただけで、呆れてしまった。
認知度が四と五の八十五才の老夫婦が居たり、自殺未遂の若者が居るのだ。
この老人ホームには、何の規律も無い。私はそれを良いことにして、自由を満喫している。それを良いことにして、布勢明のコンサートに牛久まで行ったり、小説の書き方の講義を受けに行ったりしている。明後日は母の見舞いとして、ももチャンを訪ねてみるつもりだ。六時までに帰ってくれば、何をしても良いのだ。
来月は吹奏楽を聞きに行ったり、クニコのコンサートを見学に行く。私は一週間に三冊の本は読む。図書館まで歩いて三十分の所に位置している。私は毎週一、二回通っている。それに散歩も欠かさない。生まれて二度目の寿司屋にも入った。
気楽なもんさ。私はその気楽さを堪能している。
今日は四月二十七日(平成二十八年)である。渡邊氏の作品を買ったので、彼が八千円を送ってきてくれた。こんばんは寿司者に行こうと思っている。散歩途中に仲良くなったはま寿司という美味な寿司屋を見付けておいた。夕方五時開店だと言うので、これから出掛けようと思っている。せいぜい豪勢な料理を食べてこようと思う。赤貝のつまみを取り、日本酒を三杯飲んで来た。予は満足じゃヨ!。今日の一日も無事に終わり、寝ようとしている。
今午後九時である。隣の群司君は一銭も無しのスッカンピンだト!。彼のシャープでの勤続三十年はどうなってしまったんだろう。好きなようにしたら良い。私は関係ない。それと六十代と覚しき鈴木女史は、総入れ歯だと聞く。南無阿弥陀仏である。これから何年生きるやら・・・。腰も曲がって来ている。南無阿弥陀仏である。
ここに幸あれ歌詞!、と願うつもりも無い。ここの五名の入居者は全員地獄に行くべきだ。
ここで隣の群司君に愛の手を差し伸べてやろうと思う。安いものだ、ビール一杯でいい気になるのだから!。シャープの部長も水戸一髙も無しのつぶてである。
「隣の貧乏人に向かって」
ここで一番、私は群司氏に愛の手を差し伸べたが、彼は酒を飲んでも懐旧の念にひたるだけだろう。「私は人間そのものを見る!」、と強い調子で、ケーズ電気や伊勢甚の開拓をしたのは己の力である、と言うであろう。
私はコーヒーを注文した。今日はもうアルコール等飲むつもりはない。もう百万遍も聞いた。恩師大原先生の話と、中村女史の話を聞いてやろう。アル中とは記憶を忘れる事だろうか?、私は判らない。その私も二十代は深酒をして何度も危険な目にあっている。
神田駅のホームから落ちたのは、四百円の時給で働いていた、舟団の外神田店に勤務している時であった。
「憐憫」
隣の住人群司氏は、水戸一高を出た後、茨大の受験に失敗して、シャープに入社したという。当時は社長の早川徳司氏が面接したと言うけれど、どこまでが本気なのか判らない。
群司君は、もうどうしようも無い。私の金で缶ビール(大)を五本飲んでいるが、全然酔わない。六日の年金日からは、すべての金を自分自身で管理すると言っている。が、しかし水戸一高とシャープの話をするあたりが、甘い。まだまだ一人立ちは出来ないだろう。
氏は、毎晩良く眠れると言うが、夜明け前に難破船の夢をよく見ると、言っている。それは、何を意味しているんだろうか?、私には全く判らない。
しかし、失禁したり、脱糞して眠っている行為が、彼のアル中の原因であろう。両親が学校の先生だったことを誇りにしてる辺りが、彼の病の巣だろうと思っている。過去に拘泥しすぎではないだろうか!。
今月は、熊本大震災でペットの問題が出来ている。私には、それらを可愛がり、己が生き死にの危機に瀕している。バカバカしさに私は人間の弱さを感じてしまう。寿司屋での日本酒は三杯、いくらか飲みすぎたかなー、胃がムカムカする。
「狂人日記(Ⅱ)」
「チョット、アンター、コッチへ来てヨ!」。とまた今日も始まる。照子の叫び。
これがこの夫婦の毎日のスタート。
「チョット、アンターウロチョロシナイデー、こっちに座っていなさい」。は挨拶の二人。こんな夫婦でも子供は二人居る。私ならいたたまれない。あの苦虫を噛み潰したような照子の顔。独占欲の強い照子。年中わめいている!。
私はこの夫婦を見ていると、生きて行くのが嫌になる。諦められない認知症の妻。アーア、嫌だ。見難い二人の一日。今日もあの二人の顔を見なければならない。つくづく、夫婦の業の深さを見せ付けられる。夫の正の自由時間は全くない。だから、朝から歌ってる他無い。逃げる術は無いのだ。アーア、嫌だ。醜いし汚い。この夫婦の五十年はどんなだったろう・
「チョット、チョット、こっちへ来て座っていなさいヨ!」と言う照子。もう死ぬべきだ。死んだほうが良い。「チョット、チョット」、と途切れる事の無い照子の叫び。早く死ぬべきだ。生きている価値など無い!。死ぬべきだ。業が深い。
私は、そんな狂人と、あと五年は過ごさねばならない。アー、ウンザリの狂人館。明日にでも倒産してほしい。切に願う。この狂人館。何処もかしこも狂ってる神立。タガログが大声を張り上げる神立。私は居たくない神立。もう、うんざりだ。
近いうちに日動画廊を訪ねてみよう。
鴻巣幸男コレクション展をやれないか。
「今時の若者」
生涯コンビニ店員の話。彼は三十五才で百キロの体重を維持している。彼の興味は一にも二にもテレビゲームである。毎日朝から出かけるときには、アイ・パッドを持ち歩いている。それはテレビゲームをするためだ。
周りの大人達は「生業に就け!」、と盛んにいうけれど、失われた二十年の経済状況に生きてる私には、アルバイトか派遣社員に甘んじるしか方法は無い。
実家では、父親が五半歩の畑を耕作し、二ヘクタールの田圃を管理しているが、「お前は長男なのだからこの家を継ぐか生業に就け!」と言うが、彼には、そのどちらも決め兼ねている。自分では、「こんな生き辛い世の中を作ったのだーッ」、と恨んでみたところで、彼の力では自活できない。
毎日三食を食べてい、コンビニで三時間働いて貰う給料は5万円と言うが、それでこれから生きていけるのか、と危ぶんでいるが本人は「これが僕の生き方、誰にも文句は言われたくない」。「こんな生き方しか出来ない」、「世の中誰が作ったのか」と詮索する気にもなれない。
今の世は先途に希望も期待も持てない人間(若者)しか輩出できない仕組みになっている。彼等難民は、どこへ向かうべきなのか・・・。金は無くとも、この情報社会でスマホを持ちアイパッドを持ち歩く彼は、孤独では無いと言い張る。
父親からは「本気で百姓になれ!」、と言われているらしいが、今も彼は体重百キロを持て余している。さあ今日は朝六時に出勤だと言っていた。
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