エッセイ集 2

  「己の人生の行き止まり」

 私が人生の行き止まりに迷った時に、いつでも手にする本は、立原正秋の「幼少時代」だ。そこには、私を奮い立たせる何かがあるのだ。禅宗に興味を持っているのもそのせいかも知れない。良寛や一休、それに山頭火の生き様に触れたのも、全ては諦めの為だろう。

 生きるものは全て死ぬ。そんなやるせない人生観を持って孤独で生きて行く事に何の不安も持ってない。

 私の、幼稚園時代の過ごし方が孤独を好きにさせてしまったのだろう。

 そのころから、私には父も母も存在してなかった。両親の愛情を全く感じずに過ごして来た。今では、それで良かったと思っている。こんな孤独に浸りきって生きられるのだから。

 私の父と母は、祖父と祖母だった。何故にあんなに気の弱い私が世渡りできたのも厳しい祖母と優しい祖父の愛情の賜物だったろう。朝から夫婦喧嘩ばかりしてたその二人の愛情たっぷり受けてきた私は、これ以後はその死に方だけ考えている。今年の十月に離婚して、好きな一人暮らしをしてる方が、どんなに嬉しい事か!、と思う。世捨て人のようになってしまったこの私。私は、どのような老後を送って行くのだろう・・・。

 今、アル中の初老の男は、私から百三十円を持ってビールを買いに行った。彼の両親は学校の先生だったと聞く。そんな彼は孤貧が我慢できなかったらしい。まだ一度も結婚せず、子供も居ず兄弟には三下り半を下されてるらしい。私よりもっとひどい孤貧者である。



  「死者三昧」

 ここの老人ホームは、死相が多い。

 私がここに来てから一年半になるが、入所して一ヶ月目に斉藤さんという品の良い八十歳の老人が亡くなっている。そして去年の十二月には建築設計事務所を経営していたという、チョンマゲ頭の小林さんが死んでる。その後は剽軽者の九十歳の老人が亡くなっている。彼は枯れ方も上手だった。多少神経質すぎたくらいもあったが、その枯れ方は、私の手本のようだった。私もああいうふうに逝きたいものだと思っている。その後七十二歳の内山氏が死に大和田氏も死んでしまった。

 次は暴れ者の鶴岡だと云う。どうりで、このところ、かなり痩せて来ている。

 高齢者住宅では何があるのか知らないけれど、奥さんはアスカのデイサービスには、トンと来なくなっていて、高齢者住居の方へ行っているらしい。



  「差別部落民」

 差別部落民で、叔父の部下のドカタが一人居た。酒好きで、市の臨時職員で、叔父と同じ建設課に配属された五十数才の男で、やはり世の中を斜に構えていた人物で、酔うと必ず、「俺等が犬畜生並みの生活しか出来ないのは、非情な情け無い生き方だ!」、と大声で喚いていた。その口調も品がないけれど、その身なりも、決して良くない。

 その彼が言うのには、「エタのどこが悪い!」「同じ人間じゃないのか?」、「どうなってるんだ!」



 「ある画伯との出会い」

 渡邊氏から電話が入った。「何とか生きてる」とのことだったが、耳も遠くなったのか?、私の話が、全ては聞こえないらしい。それでも今度は新潟の画廊で個展をやるらしい。氏は今年で、七十九歳になる。1月生まれだと言うから、私の年の差は十四歳になる。付き合いだして、もう四十年になる。何故に私が渡邊氏と気が合うのか、今でも定かでないが、私は、氏が胃腸が弱く常に血便が出ていると聞いてから、氏に親しみを感じた。同じ同類の仲間だと思った。

 氏には別に何も求めはしないが、やはり私が思っていたように自立心あり、自制心がある人だった。私は、氏の絵を最初から受け入れられたのでは無い。当時の私は、彼の描く暗い作品を見て嫌悪していた。それらの作品はエセ、シゴンエーゼに似ていた。

 それから二十年程たったある日、私は現代画廊の洲之内さんが、「面白い絵を手に入れたので見ていかないか?」、と私を六階の小部屋に連れて行ってくれた。その時初めて渡邊氏の抽象画を見たのであった。

 当時の私は、上野で二店舗の喫茶店を経営していた。羽振りも良かった。洲之内さんの絵を見た私は、駄目かも知れないが、渡邊氏のアパートへ電話を入れ、二枚の作品を二枚欲しいと言ってみた。すると、「今夜、僕のアパートに来ないか?」、という誘いの話があった。

 それは、新宿の落合の古い木造の二階建てアパートだった。私はすぐに地下鉄で氏のアパートへ向かった。そこはトイレが臭う、自分のアパートとそっくりな、臭いがして『これは同類の人間ダ!』、といきなり思った。

 氏の詔きで、そのアパートに入ると、氏は一人静かに白い絵を部屋一枚広げて墨絵を描いていた。私が来意を告げると、十枚ぐらいの絵を部屋一杯に広げてくれた。私はその中から二枚を選び出し、確か一枚を六万円とし、二枚を買い求めたと覚えている。

 氏と私は、横田海さんからの紹介で既に二十年を経ていた。同類の人間、渡邊氏は、当時五十歳代に手の届く年代ではなかったのではないだろうか。私の思っていたとおりの顔立ちと姿を見せてくれた。私と氏との間に長話は必要なかった。もう既に挨拶は必要無かった。二人共(私の勝手)旧交を温める必要のない、勝手知ったる友人同士になっていた。

 私は、何の躊躇いも無く即決でその二枚の代金を払った。私は、それを持って電車で宝物でも買ったかのように、それを小脇に抱えて帰宅するのであった。あの時の様子は、私の記憶に間違いが無ければ、映像に映っているような残滓が固く私の頭にこびり付いて離れない。

 あれから、もう既に四十年もたっている。お互いが、お互いに歳を重ねたものだ。最初に出会ったときには、私が二十代で渡邊さんが四十代だった。今では、私は脳梗塞で倒れ、老人ホームに入居して、渡邊さんは癌に罹患して老いて今なお描き続けている。

 今度の個展が楽しみだ。



  「差別部落」

 「物が欲しいから、貧乏だから同和事業を要求するのではなく、部落差別をなくすための基礎として必要なのだ。物が取れて運動が終わるのではなく、そこからが部落差別をなくす本当のたたかいなのだ」

 一九九三年二月、同盟京都市協などが中心になって開催された研究集会では、分科会の講師から「部落の全般的貧困を基盤として行われてきた個人施策は、その事業の性格からいって、一般事業に移行すべきであり、同和事業としては原則的に全廃すべし」という趣旨の提起がなされている。

 坂野は土浦工業高校へ入学したが、わずか一年で水戸工業高校へと転入している。

 坂野は、中学生のころは県主催の学研試験では、常に三百番台に載っているほどの成績良好な生徒だった。勿論、土浦工業高校での入試は一番良かった。坂野は阿見中学出身。性格は音無しく、どこかに憂いを含んだ暗い性格であった。私が坂野の出生にこだわったのは、彼が阿見中学出身の同じ学年の黒田から陰惨ないじめを受けていたからであった。二年生の五月に坂野は転校していった。春の五月は、一番いい季節であり、農作業の開始も、その時期にあった。

 坂野の父の仕事は、黒田に言わせると、「牛の屠殺場で働いている」との事であった。私は思った。「それが何故に差別されねばいけない仕事なのか?」、と。

 五月は意外と外気が荒れる。強風も受ける。しかし、そのころには、水仙が花を咲かせ木瓜の花も咲く。もうすぐすると、チューリップの季節になり、山々の緑も様々なグラデーションを見せてくる。私はこの既設が、一番好きである。

 新聞配達をしていたころは、沈丁花の花と香りが春の到来を知らせてくれた。そのころから蝋梅が咲き始め、次に梅の花が咲く。それ等が終わるころ桜の花が咲き出す。桜は、その花びらが散り始める頃が丁度いい見頃だと思う。

 私の家の裏山に一本の山桜が咲く。その開花時期は五月だ。そめいよしのや南陽が咲き終わってからのことである。そのころになると躑躅や紫陽花、菖蒲や五月の花が咲く。竜胆の花が咲くのもこの時期ではなかったか?、と思う。ポピーや水仙は、今では年中見られるが、昔はこの春の時期の春の花ではなかったかと思う。

 そんな季節の移ろいの中、坂野は何を思って転校していったのか、は私は知らされていない。彼が居なくなって目立ってきたのが私であった。私はその春に学級委員長を仰せつかった。私は、小学校・中学校でもそれを経験しているが、私は何もしないそれであった。特別成績が良かったわけでもないが、規律に従順であり自制心もあった。そこへ行くと、坂野は特別成績が良く、規律も守る。彼こそが学級委員長になるべき人間であった。

 私が部落差別を知ったのは、石川達三氏の小説に出た水平社結成の成り立ちの小説であった。阿見の黒田電気店を知らない物は、阿見町ではいなかった。そこの次男坊である黒田勇の坂野へのいじめは、すこぶる陰湿なものであった。土浦駅からバスに乗り込む時、もしも坂野が乗っていると、「俺はアイツが嫌いダ!」と言ってバスを降りるのであった。そのころの黒田は馬鹿だった。野球部に入りキャッチャーをしていた。そのころの野球部は弱かった。今もそうであるらしいのだが、県大会では私の在席中に一度も勝った試しがないほどの弱小チームだった。学校の方針もそうであって、ハンドボールに熱い視線を送っていた。当時の高校は何の取り柄もなかった。唯一物理分だけは、リニアー模型の電車を走らせていた。

 私はその後の坂野の行方を知らない。何せ、私は孤独主義それ由、高校の同窓会になどは一切出席した事が無かった。当時の私は、両親の看病に明け暮れていた。私の今あるのは、そんな孤独癖がある所以にあるのではなかろうか・・・、とも思う。坂野の後ろ姿にも孤独を感じたが、私の方がはるかに一人が好きになってしまっている。私はその後住井すゑさんの息子さんである犬田氏と同和問題を話しているのだが、私は「自然の流れのまま時が過ぎ行けば、いずれは部落の問題も解消するのでは?」というのが持論の私と、その当事者である犬田氏とは、最後まで話しが噛み合わなかった。

 その犬田氏の行方も判らない。まだ高校生のころの話であった。その後の坂野の行方を知りたいとも思わないが、部落解放運動は、今では、その姿を変えエセ同和行為の実態は暴力団との結束とともに変質してしまったようである。

 第二次世界大戦の前も、貧しさや学校に対する不信から、部落の中には小学校や中学校に行けない人達がいた。特に女性にはそのような人が多くいた。「女性に学問はいらない」という女性差別の考え方もそのことを助長した。子供達は、学校に行かず、家の仕事を手伝ったり、子守奉公に出たりしていた。そのため、部落の中には、読み書きを学びたいという人が沢山いた。

 日本には、アイヌ問題にしても、朝鮮人問題でも棚上げにし、一過性の問題としか捕らえないで遣り過ごしてきた。いずれは、それ等を清算せねばならない時がくる。



  「今の私」

 今朝起きたのが六時半、散歩に行こうとしたが、何となく気怠くて、近い散歩コースを歩いて、ポピーの花をつみ帰ってきた。

 私の気怠さは病気ではない。こういう気怠さは、前日文章を書きすぎたからに違いない。昨日は合計百枚近く書いている。

 もういい。もういいのだ。全てがナッシング。そうありたい。と思いながらも、今日も生きていく。支離滅裂な行動を取って来た己の生きる場を持ちたい。支離滅裂で気怠い人生を、生きた行く他ない。私は今日は、何の目的もなく生活している。

 今、腹筋運動を二十回やったが、何も変わらない。いつもなら便意を感じるのだが、それもない。今日の私は怠惰に過ぎていくのだろうか・・・。


  

 「青の時代」

 つれづれながら、その日暮らし、何を今更と思うが、高校生だったことを思い出しながら書いてみようと思った。

 私は、そのころから集団でいることを忌避して生きて来た。その学校は土浦にあった。龍ケ崎の家からは二十キロ北にあった。そこは工業高等学校であった。その高校に入ったのは、競争率が0、99倍で、誰でも入れたからに他ならない。工業などに興味など無く、電気等にも無縁だった。当時の私は、ただ一日、本を読んでいれば満足だった。

 「そうだ!」、私は逃げていたのである。私が本を好きになったのは、サラ・サーテの愛の妖精を読んでからだった。そのころ私は、友人の石井悟から世界大全集を借りて読んでいた。その全集は三十冊ぐらいあったと思う。そのころは、エミール・ゾラやヘルマン・ヘッセの小説を好んで読んでいた。国語の授業中、エミール・ゾラを読んでいて、後ろから佐藤先生に怒られたことを思い出す。それでも、私の本好きは止まらず学校の帰りに土浦駅前の石井書店へ入るのが楽しみだった。私は、その書店に毎日通った。

 龍ケ崎の地には、まだ図書館等は無く読みたい本は、全て買わざるを得なかった。当時の私は、小遣いとしていくら貰ってたかは忘れてしまったが、単行本が一冊七・八百円だったから、私の小遣いも、その二倍。三倍だったろうと思う。そのころの私は、その小遣いをほとんど本に使っていたのだ。

 私は小心者でその上繊細で気弱な性格であった。軟弱でもあった。「軟弱」とは、やわらかで、か弱いこと、確固たる信念がなく弱腰なこと、と辞書に書かれていた。本当にそうかと云うと、半分は合っている。

 私は、中学生の頃は野球部のキャプテンをしていた。中学二年生の頃は、新人戦で優勝もした。私のキャプテンとしての役割は何もせず、打っても駄目守っても駄目、走っても駄目な選手であった。何故にキャプテンになれたかは、私はただ先輩方の支持を守り抜いた、という事にあった。当時、新学年の中学生は八十名程いた。そのうちの六十名が野球部に入った。私もその内の一人だった。

 私の父は、当時としては珍しく、サラリーマンをしていた。ある雨の日、先生が「鴻巣君、お父さんが傘を持って来てくれたヨ!」、と言われ、出ていくと祖父が私を待っていてくれた。私は落胆したのを覚えている。当時の父は、出張ばかりしていて家を留守にしているのが常であった。父に会えると思ったのであろう私は、祖父を見てひどく落胆していた。

 当時の私は、通知表はほとんど五で、学校では優秀とみなされていた。それは、出来の良い姉の弟であるとの先入観によるところが大きく影響している。当時の私の学年は、バカばかりであった。私のオール五も、私のカンニング手腕によるところが大きかった。

 そのころの友人は、同じ町内に住む元治君と一里君、それと、県議員の息子であった栗山和男君だった。それぞれが真面目な生徒の集まりだった。そんな中で異才を放っていたのは私だったろう。文武両道を守っていたのだから・・・。後の三人は卓球部に入っていた。そんな中で、学習の優秀なのは、和男君と元治君だった。私と一里くんは、そろばん塾に通っていた。一里君は、そこで三級の免許を得た。私はと言えば、そこでもやはりカンニングの手法を使った。当時から私は本気で打ち込めるものを模索していた。当時の私は、穏やかで小心者だった。野球部のキャプテンになってからも、私は下級生を怒った事など、一度も無かった。それは、従業員を使う立場になっても同じだった。人は恫喝で動くものではないのを良く知っていた。

 それは、野球部に入って判っていた。当時は、上級生の命令が絶対であった。何でそうなったかは忘れてしまったが私達一年生が上級生の「グラウンド五十周走れ!」という指示を受けた。当時の田舎の校庭は広い。中央に二百メートルのトラックがあり、校庭の外側は一周目、五百メートルあったろう。そのトラックを五十周である。至難の業だった。それに耐えきるのは、私以外になかった。十周もすると、一人止め、二十周もすると回ると残りは五十人程になっていた。それを命じた上級生は勿論帰ってしまっていた。五十周目を回ったのは、私一人になってしまった。そうだろう、早夕日が落ちかけていた。

 そのころ私の好む女生徒は、山崎正子さんと沼崎ゆき江さんだった。両人共真面目で英語の出来が良かった。

 それより前の小学六年の時には、荒井紀子さんが好きだった。しかし、彼女はいじめられていた。私は見て見ぬ振りをしていた。何故いじめられていたのかは、今でも知らない。知ろうとも思わないが、己の娘二人共いじめられていたのを聞くと義憤を感じざるを得ない。私の二人の娘は、それをどういう方法で遣り過していたのだろう・・・。

 荒井さんへのいじめは、中学生のころは、どうなっていたのかは覚えていない。しかし、女生徒は群れたがるのかは、今でも判らない。判ろうともしない。私は、常に一匹狼であった。群れが嫌いなのだ。

 小学生のころは、よく一人で山道を帰ってくるのが常だった。私は自作の鼻歌混じりで帰ってくるのが常だった。当時は、学校への通学は、今のように集団でのそれではなかった。それが良かったのだろう。素朴で牧歌的だった。野にも山にもいくらでも遊びがあった。今では暗渠になってしまった谷川の小さな清流には沢蟹が居、目だかが群れ泳いでいた。その小川にはセイゴやビタが住みついていた。丸太一本の橋だった。

 小学六年生の時には、跳び箱をしていた手の指を全て捻挫して、パンパンに膨れ上がって、初めて接骨医院なるものにかかったこともあった。

 当時の担任は高田先生という男教師であった。小学三年生の時は大貫先生だった。厳しい先生で、私は机に頭を何度も叩きつけられたのを覚えている。そんな日、家に帰り母親に事の顛末を語ると、母は「もっとしかられて来い!」というのであった。そして翌朝母が私に小袋を渡し、「これを大貫先生に届けるんだヨ!」、と言うのであった。「叱られたお前の方が悪い」と決めつけるのだった。

 父親の留守をいい事にして、長兄制度の残るころ、私は遊び呆けていた。

 後に、小学生の家庭教師をやり、算数のページを開くと、中学生の時にはXやYなる問題が図解入りで書いてあった。

 私は、家で勉強する習慣が全くなかった。石蹴りやベーゴマ、あるいはメンコや杉鉄砲や水鉄砲を作って遊んでいた。

 そんな五年生の時、市役所に勤める照夫叔父が職務旅行へ私を連れて行ってくれた。その日、私は車酔いをしてしまった。隣の博君と同席だった。私は、その博君吐瀉物を掛けてしまった。その日は千葉の谷津遊園地への日帰り旅行だった。そのバスの中で、気持ち悪くなっていた私に・・・課長が「何でこんな汚い汚物を博君に吐瀉したんダ!」、と難詰して来た。その戸惑いを私は決して忘れない。その日は叔父が私につきっきりで介抱してくれた。

 その叔父も五十才から目が見えなくなり、先の一月十八日の十五時五十二分に息を絶ってしまった。心優しい叔父であった。その叔父の四十九日も済んで、私は今、老人ホームに居る。しかし、ここで「色即是空」「空是空」を覚え、一人暮らしを満喫している。

 これから先に私を待っているのは何であろうか?。その期待で十一月が待ち遠しい。その月には、私の駄文が入選してるか、どうかが発表になる。



 「私というまぬけた存在」

 あの町が嫌だとか、父が嫌だとか母が嫌だとか、そんな単純な話ではなかった。

 だいいち私はあの町も父も母も嫌いじゃない。じゃあ、なんだ。なんなんだ、と自分でも思う。なんだろう、私はどうしてこんなことになってしまったんだろう。自分を痛めつけたい、壊してしまいたい、そうすることでしか自分を確認できない。だめになった自分をせせら笑う。せせら笑っている自分を激しく憎む。憎まれて初めてほっとする。ほっとしたそばから、情けなくて、涙が出そうになって、鼻水を啜り上げてる自分を自分でまた笑うのだった。

 自虐的ともとれるその行為にどう対応するかは、自分で決めねばならない。死ぬまでの二・三十年間を枯れさすための時間と空間が無駄と思っている。いっそのこと電車で飛び込むべきではないかと思ったりする。しかし、電車を止めたら、その保障に四千万円も請求されるという。止めた方が良い。もういいのだ。空の世界に空で生きてれば!。



  

 「己の自伝書」

 自分自身の純粋培養の言葉だけで、文章で書きたい。それがなかなか難しいのだ。立原正秋さんのような感受性を持ちたいものだが、緑や花の少ないこの神立で出来ることは限られてしまう。せいぜい書いて自叙伝ぐらいだろうと思っている。立原さんが使っていた、花の中に物語があるという風な簡単なものではない!。その立原さんだって、奥様に言わせると、全ての嘘の作り話と言う。それでも、私がいつも思い出す彼の「幼少時代」、という小説は、彼の自伝ではないか、と思う。

 


 「隆チャン」

 ヨッちゃんらしいというのは、つまり、私の知っているヨッちゃんには私の知らないところがきっとあって、それは小学五年生だったあの日にお互いの家を行き来しなくなってからどんどん大きくなった部分かもしれない。サッチャンに何が判るのかと、もしも言われたら返す言葉もない。それを恐れた。

 私は隆一君が心配だ。この流れの一件は大きく、彼の行為は許されざる行為だが、終わった事はどうしようも無い。これから付き合う気はないし、顔も見たくないが同じ隣組なので、そうもいかないだろう。

 こんな気持ちにさせられるとは、創造もしていなかった。

  

  

 「コンビニと私」

 今散歩のついでにコンビニへ寄って来た。ついでに真赤なアマリリスの枝を折って来た。そこの店長の態度は、いつも気に入らない。仏頂面で「千円足りないよ!」というのである。それなら、そこでクオカードを買うのを止めようとなる。

 それが石塚さんだと全く違う。あの可愛い顔で、端っぱな声で、「いらっしゃいませ」と言って来る。そういえば彼女をこの一週間見かけない。何処かに行ってしまったのか知れない。彼女だけでなく、早朝の小倉さんもいい青年である。彼は、ゆくゆくは、あの店の後を継ぐんだろうと思っている。彼なら大丈夫。上手くやって行けるんじゃないかな。私は一日三回は行く常連の客だよ!。



「死が見える」

 私は、まず葬式の日から始めねばならない。あれは、平成の二十五年六月十一日の梅雨空に泣かされた日だった。列席者は五・六十人と思ったより多くいた。私はその前年に脳梗塞を病み、今から十年前の六十代には、胃癌にやられている。それから死を迎えた七十二年間は、いかばかりであったのかは、私のほうが聞きたいくらいである。

 私は中学を卒業したその日から、伯母の住んでいる東京の新橋へ出た。働くのが目的だったが、三人の友と第一タイプという印刷会社に入った。私を除いた二人は、東京への通勤に耐えられず、二年程で辞めている。私は四十五年間、龍ケ崎の片田舎から、東京のド真ん中新橋へと通い続けたわけである。春夏秋冬おりおりの季節を乗り越え、龍ケ崎の小さな駅舎から小さな二両しかない関東鉄道で佐賀で乗り換え、そこを朝の七時十五分発の上野行きの電車に乗り、片道二時間かけて会社へ着くのであった。雪の日も、晴れた暑い日も同様であった。

 私は、その間に結婚し三人の子を育てている。私の妻はとき江という、これも龍ケ崎の在所の長沖新田の出身で、これまた遠い長戸の保育所保母だった。彼女はおしゃべりで、良く気のつく出来た妻君であった。近所に妹が来てい、それは仲良しであった。その姉妹の明るさに助けられた。私は幼児から身体が弱く、暗い音無しい社交性の無い一介の田舎者だった。その私が四十五年間も東京へ通えたのも妻のとき江の理解あったればこそと思っている。

 私の先祖は、同じ田舎町の庄兵衛で、大正時代に新宅していた。当時庄兵衛の常次郎さんは、三河島に会社を作り二棟のサイダー瓶の工場を持ち、大正三年にそこを追い出されるように逃げ帰ってきていた。その常次郎の従兄が、私の父であった。

 その父は、六十五歳で胃癌で死んでいる。

 母いそは八十八歳まで生きた長命であった。まだ、コミュニティーが連帯していて強い絆で結ばれていた。

 当時の葬式のことは良く覚えている。あれは、冬場の二月の一番寒い日であった。名残り雪の降ったドロ混じりの土がはねた汚い雪が路肩に残っていた。

 私の隣組は、数が少なくてたったの三軒だった。五軒あったのは、昭和の三十年代で二軒の家は夜逃げ同然で今でもその空き家が残っている。

 一軒は山崎隆一という麻雀気違いで、すべての財産をその博打で使い切っている。バカな男のバカな生き様を見た。彼は妻に逃げられ、六十五歳まで一人住まいであった。彼はアル中で毎晩のように朝方まで酒を飲み飲み麻雀を遊んでくる。手のつけられぬバカだった。

 彼は、ほんの一時岡本理研に勤めていたが、怪我が元で片目を失っていた。それも原因は酔っ払い運転事故の軽挙妄動のせいで、自業自得で江戸崎の国道十一号線を速度オーバーで走ったのが原因であった。彼の右目はその際、己のメガネの破片で右目を突いてしまったのだ。時速九十キロで走っていて、路肩の三メートルの高さがあった土手に乗り上げて、太さ三十センチの杉の木にぶつけてしまい、フロントガラスまで砕いてしまうほどの事故だった。それはエンジンまでをも壊す大事故であった。深夜の道なので対向車が少なくて助かった。それでもその修理に六十万円を要していた。その車には庄兵衛のバカ息子も乗ってたらしい。その夜は、二人で一本のウイスキーを空にした程飲んでたと云う。

 その後三十年経過して、やはり事故で、右目を失明したバカな庄兵衛の失踪事件があり、今も続いている。次の葬式はいつだtろうと思っていたがそれは助川博さんの父親だった。それもやはり助川の久士さんだった。彼は農業専属の彼だった。その彼の家は、やはり庄兵衛の新宅で庄兵衛の常次郎の負債の肩代わりをして、その本宅の跡地を分取っている。何日の日にか問題に上がるのではないか・・・と思い、絵図面を描いてある。その絵図面の制作年月は、大正の十三年四月とある。

 庄兵衛の事業が傾いたのは関東大震災のあった翌年であった。あのマグニチュード6,8は、古い工場立地をも破壊したらしい。

 一時はシボレー四台を持つ身となりながら、今では落ち武者の如き静かな余生を送っている。

 庄兵衛は、その昔四丁八友もの田圃を持ち、助川家には居宅と二半歩の畑を残していた。

 常次郎の助川家への借金は十円程であったらしい。その返済がかなわなかった場合には、千坪の宅地と千坪の竹林を担保として差し押さえるという念書が取り交わされていた。

 その助川のとなりには、やはり千坪の梅林が私の家の財産として残っている。私は定年後、そこで畑仕事をして余生を送ろうとしていて、その準備もしていた矢先だった。脳梗塞で左片身不自由になったのは。胃癌の手術に耐えた私の身体は、もうガタガタであった。

 私の癌が発見されたのは、長男が三十一才で次男が二十才の大学生の時だった。長男は愛知県のトヨタに勤め、研究所に入り、今ではロボットの開発に携わっていて、家の跡を告げなくなってしまった。三人の子を持つ長男は、それでも年に二回は帰省と称して帰ってき、いくばくかの野菜と米を持っていく。私は、その長男の生き方は自由奔放にさせている。二男悟が家の跡を取ると言うから気が楽である。しかし二児を作った今では、龍ケ崎ニュータウンの松が丘に新居を構えている。我が子ながら私は彼を誇りに思う。何故なら、息子はラガーマンとし、東京に職を得、いっぱしの大人として働いている。彼は毎日のようにやって来、孫の顔を見せてくれるのだ。ラグビー部は強く、大学の学生選手権では四年の時優勝している。彼も親思の優しい心根の持ち主である。ラグビーで鍛えられた彼の肉体は、まるでサイボーグである。二人の子も真面目で一生懸命勤めに出ている。その子の名前は、私の考えたことで、上が功助という男児であり、下が和音という名前であった。

 私ばかりが病を得続けるのか・・・、と思うと嘆かわしい。しかし、盛者必衰の理の通り、私は精一杯働き、精一杯家族に尽くして来た、という自負がある。私の人生は満足だ。しかし、私の生は七十二年間で終えるのであるのだが、短い一生であったとも思ったりしている。

 この片田舎からは、鴻巣姓の男が残り二人東京へ通っているが、一人は庄兵衛の長男で、これも常次郎さんの意欲持ちで上野で商売を手がけた可愛い孫が欲に溺れて「コーノス」という有限会社を経営している。

 もう一人の鴻巣は郵便局に勤める元治君だった。彼は実直で真面目で音無しく、才覚のある人間だった。彼が郵便局の組合の書記長になったのは、昭和五十六年であったと思う。朝の出勤時電車の中でその方書きの付いた名刺をもらった記憶があった。そのころの私は六十代、行き来し方を考えていた。『いつまで続けよう』、この通勤地獄を。一時は、この山手線の地獄ラッシュに揉まれて失禁することもあった。

 会社の仲間とゴルフに興じたのは、三十・四十代だった。主に接待ゴルフだったので、私のスコアーは百前後で他者を喜ばせた。接待ゴルフの主催者は、あまり上手でないほうが良い。これが八十代だったなら、接待される方も興をそがれていたであろう。私のように、右に走り左の林に走っていた方が楽しくさせる。一度だけ上手に行った事があった。一七五ヤードのグリーンへ、私は三番のクラブで思い切り振ったのであった。その時奇跡は起きた。そのボールは、グリーンの手前から転がって、カップに入ったのである。ホールイン・ワンだった。皆が皆、拍手してくれ、「これじゃー、祝い酒を飲まなきゃー!」と、皆でハシャイでいた。

 酒のせいでもあるまいが、その帰り家まで後十分の龍ケ崎の馴馬の坂上で衝突事故を起こしてしまった。車の前面、バンパーが破損してフロントガラスが粉微塵に壊れてしまった。信号で右折する私の車が交差点の右折側の奥深くまで進入してしまった。二トントラックが対向車線を走ってきて私の車に当たったのであった。対向車はプロ。私の意見等聞こうともしなかった。「貴方が悪いんですヨ!」、強い口調で言い、「保険証を見せてくれないか!」と、さもプロが言いそうな早口言葉で私に反論するきっかけも与えてくれずじまいだった。警察の実況検分もせず、彼の言うがままに私の責任になってしまった。私にすれば飲酒運転が発覚せず、結果的に良かった。

 それからも私の事故は多くなり、羽原町の山道では正面衝突事故を起こしているし、冬のある早朝には砂町で電柱に正面衝突事故を起こしている。

 その後、私は黒のクラウンの中古車に乗り換えたが、車は傷だらけになるのだった。何せ私は女や車には無頓着で、車は常に中古車。義理の従兄には、いつも面倒をかけっぱなしだった。

 私が新車を買ったのは、脳梗塞で倒れてからの第一号車が初めてだった。それも一番安い小型の車だった。今の私は運転をしない。もう外出する気力も無い六十五歳の無職者だ。昔の言葉で言えば、『役立たず!』、だ。畢竟者は、無役無趣味のろくでなしの生きる屍のごとく生きる要介護二の不遇者であり、そろそろ、二男の家に引きこもるかという矢先だった。何の生きる望みもなかった。人とは何の為に生きるのだろう。必要なのは衣食住で、私は心筋梗塞でとどめをさされてしまうのだが、もう日常の生活が苦しいのである。

 「生きて有ることの恍惚と不安二ツ有り」、とは誰が言ったんだっけ。アーッ。太宰の言葉だ。太宰は引用が多いから、ギリシャ時代の哲学者でも言ったのだろう。プラトンかニーチェでも言ったのだろう。あるいは西田幾太郎でも言ってたのか、サルトルのものであるかも知れない。

 アーアッ、恋しき人ヨ。私の後悔を察しておくれ。何故人は死なねばならぬのか。今生に生きとし行けるまま、この苦渋を察しておくれ。空即空・空是空の悟りをください。

 中学を出た十五才の私は、龍ケ崎の北三やTCMに就職しようとは微塵も考えてなかった。それは、ただ単に給料の多寡では無かった。東京へ出てみたかった。ただ単純にそう思ってただけではなかった。叔父の会社を大きくしたかった。それだけでも無く、地元の会社では同級生が多く居た。その延長線上では生きたくなかった。それに私には本は無くてはならない物であった。私は通勤の行き帰りに本を読んだ。近所の工場に勤めていれば、その喜びも得られない。学歴の無い私は配属先が営業部だった。しかし当時から会社では、電車の吊り広告が主な売上であった。ゆえに、営業先も慣例に従っていれば、レールを踏み外すことはほとんど無い。昭和の四十・五十年代は忙しかった。会社の成長もそのころにあった。

 虎の門に第十一森ビルの一階に会社を移したのもその頃だった。そのころには営業は出向くものではなかった。ただ会社に来てくれるお客の対応をしていればよかった。余計な仕事は必要なかった。週刊誌の売上が最高だったのはそのころだった。女性週刊誌に運勢相談欄が載ったのもその頃だった。ニギニギしく、誰もが走っていた。経済も環境も。全てが忙しかった。

 そのころ庄兵衛の長男は上野に店を持つことに決めた。愚弄である。「生き馬の目を抜く東京で!」。「何故ダ?」、と私は思った。私の勤める第一タイプでさえその起源は、三代前の大正年間である。それだけの歴史を踏まなければ堅牢な会社は作れないということだ。ただ単に四・五軒の店で働いたと言うだけでは、そう簡単には生き残れないのであるのだ。どうすれば心滅入楽の世界に入れるのかは懐疑的にならざるを得ない。

 私は四十二才で課長になり、国鉄からJRになる時期にその厳しさを知った。JRという民間企業になると、より一層会社の運営は厳しくなった。もう人が週刊誌を読まなくなりはじめてゆくのであった。それに変わって、IT産業がのし上がってきた。ソフトバンクの孫社長が有名になったのもそのころだった。今では、その会社が野球・球団まで経営している。楽天の営業がマスメディアを賑わすのも、昭和の末期からである。それ等が大きくなると共に私の会社の売上は減ってゆくのであった。

 平成三年に携帯電話がスマートホンに切り替わると、会社の成績は悪化していくのであった。

 そのころ私は、家庭菜園に熱中した。庄兵衛から受け継いだ猫の額ほどの小さな面積であるが、地味が良く季節の作物は、それなりに良く出来た。五月には夏野菜の種を撒く季節である。昨日はキュウリを植え、来週はトマトの苗を植えるつもりでいる。その次は西瓜・南瓜・ナスもいいな。

 私は六十五才になっても通勤している。定年が無いのだ。親戚の誼だ。定年がないかわりに茶飲み客は増えた。私はそこのたった一つのソファーに座り、客を待つのだ。それがまるで、己の生き甲斐になっている。

 私が入社して四十年で配下の企業の数は、裁断から平版工場も持つことになった。しかし、凸版や大日本印刷へ回す品が多くなるばかりで、実質的に我が社「第一タイプ」、の営業成績は減るだけであった。なんでもインターネットで済む時代である。旧壊の仕来りでは、印刷や広告業界は立ち行かなくなるだろう。小説本や音楽までも、スマホ一台で済む時代である。今や、パソコンとインターネットを駆使できない者は、生きるな!、とでも言ってるようだ。

 協同印刷が産経新聞の印刷を手がけるようになったのは、印刷業界がIT産業の傘下に入りかねなくなった平成の十年だった。

 その後私は胃癌を手術し、半分の大きさに切り取ってしまった。私の身体は、みるみる痩せて来、体重が五十五キロまで減っていた。ボクシング選手ならいざしらず、素人の私が二十キロも減量したのだから、体力の減少も火を見るより明らかである。私は、朝六時に起きて顔を洗い散歩をしたいのだが、今ではそれさえできない。脳梗塞が原因である。血便が出て大騒ぎしたのは、四十二才の厄年であった。

 あれ以来の私の人生は変わってしまった。些細なことから私の生き方は変わった。六十八歳で、私は東京へ通うのも止めた。

 今の私は、胃癌で手術した二分の一の胃袋と、左片側が不自由な身体を持て余している。そんな己が今成さねばならない事は、自己保身と余後の年月をどう過ごすのか?、である。

 七十歳になった今、私は午前中は老人ホームのデイサービスに通っている。庄兵衛の息子は、脳梗塞の上に片目だという。このごろになって良く見る夢は、五才ごろの野山を駆け回っていた記憶だけである。

 私の生涯は、何であったのか。中学を出ただけで、まだ背広も着こなせない子供が、一人前のしごとを覚えられたのも平衡な感覚で生きてこれたのも、全ては伯父のお陰であった。あの暑い昭和三十九年の八月は私の誕生日で、伯父はパーティーを開いてくれた。それまでは己の誕生日等意識してなかったけど、何をしても何を見ても面白かった。新橋駅に初めて降り立った日、機関車が展示されてる事にまず驚かされた。街並みそれに付随した会社、この五十年ですべてが変わった。しかし機関車だけは何一ツ変わっていない。平成二十六年になる今も変わらず在り続けることの確かさは、今の私にはもう無い。これ以上何を望めというのか?。私の命も消えかかっている。この感覚は、今を一生懸命生きてる者には絶対わからないだろう。己には、明日が判る。この世に居ないことだけは・・・。最後の時まで冷静でありたい。こんなにも死後の事が判るものか?。何も無い。空なのだ。空是空、空即空。全てがナッシング。そんな人生を歩んできて、あの世に生きる。五歳の私が金色に実った広大な田圃の中を走り回っている。小学生のときの桜吹雪が舞う中をエッチャンを追いかけていた。あんな楽しいこともあったのだ。初めて抱いたくに子の表情が今でも良く覚えている。あの時が長男の逸男を創り、三年後の愛の発露が悟を育てることになった。ああ、いい人生だったと思う。


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