第6話
東の空が、白みかけてきた。隅田川の土手を、吉兵衛は一人歩いていた。
初めて人を殺した。相手は殺されても仕方のない人間だった、と何度も吉兵衛は自分に言い聞かせた。それはそうかもしれない。
しかし、市蔵の首を描き切った手の感触は、ぬぐい切れるものではなかった。
吉兵衛は何度も川っぷちまで降りていっては、その手を川の水で洗うのだった。
そんなことを繰り返しているうちに、日は昇り始めた。薄暗かった足元も、光が差してきた。
川で手を洗った吉兵衛は、またよろよろと土手を昇っていった。
土手の斜面に、小さな白い花はひっそりと咲いていた。名前は分からないが、雑草なのだろう。小さな白い花が、おやえと重なった。
不意に、吉兵衛の目から、涙が溢れた。
親はなく、育てられた先でこき使われ、年頃になるとすぐ女郎屋に売り飛ばされた。身体は汚れてしまったかもしれないが、心は清らかだったおやえ。それにひかれて吉兵衛は身請けしたのだった。
自分が、けちな助平心を出して手許に置かなければ、あるいはおやえは生きていたのかもしれない。こんな雑々とした江戸ではなく、少しばかりまとまった金でも持たせて、どこかの田舎にでも出してやればよかった。
真面目で気立ての良いおやえの事だ。どこかに奉公口でも見つけて、そのうちいい男とめぐり会って所帯を持てただろうに。
贅沢はできなくとも、子供の二、三人でも授かって、穏やかに年齢を重ねていけただろうに・・・・・・。
吉兵衛は肩を震わせてむせび泣いた。
こんなに涙が出たのは、もう何十年かぶりだろうか。
思えば自分も、貧しさからぐれて、まっとうに働くことより、盗人の道を選んだのだ。
盗んだ金を独り占めして逃げようとし、当時の頭からこっぴどく殴られても、涙一つ出なかった。
金が全てだった。自分に大切なものなど、何ひとつなかった。自分自身でさえ、大切に思えなかった。
そんな自分が、涙を流している・・・・・。
ひとしきり泣いた後、吉兵衛はやっと顔を上げた。
日の光が眩しかった。
「すまなかった」と呻くように吉兵衛は言った。
吉兵衛は、足元の小さな花をそっと手折ると、ゆっくり歩きはじめた。
おやえの家に、この花を手向けよう。
吉兵衛は、思った。
吉兵衛 @kounosu01111
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