第5話
「おきぬさん、あんたが見た二人連れの男だがね。こんな顔じゃなかったかね」
吉兵衛は「岩五郎」で一杯やりながら、おきぬに松葉楼の番頭のことを話してみた。おきぬと話している間に、何となく気持ちにひっかかったその男は、吉兵衛が松葉楼を出てしばらく歩き、ひょいと振り返ってみると軒下からじっと吉兵衛を見送っていたのである。
しかし、後をつけて来たというのでもないから、怪しいとまでは言えなかった。
「そんなふうに言われても、あたしはそんなにはっきりとまでは言えないんですから、どうもピンと来ませんね。本人を見たらどうかわからないけど、だいたい、あの時はもうあたりがうす暗くてねえ。人の顔なんかはっきりしなかったねえ」
「おきぬ。めったなことをしゃべるんじゃねえぞ」
何かこしらえている「岩五郎」の亭主が、うつむいたまま言った。亭主は吉兵衛の詮索めいた物言いを迷惑がってる態度を露骨に見せている。
「お上さんにも話してねえことを、ぺらぺらしゃべるもんじゃねえ」
「ぺらぺらなんかしゃべってないよ」
「変なことって、おやえちゃんが殺されたのよ」
「かまうなとは言ってねえよ。だがそういうことはお上に任せるのが良いんじゃねえか」
亭主は顔を上げて、ちらと吉兵衛を見た。迷惑な気持ちが顔にありありと出ていた。
路地を出て堅岸の方に歩きながら、吉兵衛は『そのとうりだ』、と思った。相生町三丁目のあたりまで来た時だった。
それまで、吉兵衛は少し急ぎ足になったり、ゆっくり歩いたりするが、その後ろをつけてくる奴がいることに気付いた。『十手持ちか』、吉兵衛は、ぞっとした。
深川の大新地を訪ねてきたのが、いけなかった。
歩いていると、後ろをつけているのは、男だった。
男は辻番所に眼を配りながら、素早く軒から軒へと身をうつした。足音を立てずに吉兵衛は隠れて男を見た。
四つ(午後十時)少し前。吉兵衛は男の入っていった家の前に立っていた。場所は両国の南の橘町四丁目。看板に「上方古手処」と書いてある大きな店だった。
『古手屋』にしちゃあ、店が大きすぎないかと思いながら、吉兵衛は裏通りに回ってみることにした。裏は高い塀がめぐらせてあって、大阪屋というその店の、途方もなく大きな家から、やはり商いの匂いが少しも押し寄せてこないのを確かめた。
それは夜だからでも、店が閉まっているからでもなかった。大阪屋は、盗人としての吉兵衛が乗り込みたくなるような物が、まったく欠けている家だったのである。
ざっと一月後の、月のない夜を選んで、吉兵衛は大阪屋の裏塀の外に立った。今は目の前の大きな構えの古手屋の正体がわかっていた。主人の半左衛門というのが、蝮の市蔵という別の名前を持つ盗人だった。吉兵衛より、五つ、六つ歳上の男だった。目つきのきつい大男だった。
橘町や河岸向うの富沢町あたりは、古手屋の看板を上げておけば一番目立たない商売ということだ。
だが市蔵はきちんと商いをしているわけではなかった。ひと月近く外から様を見たが、店は戸を締めていることが多かった。
市蔵はよく外に出かけた。時には朝から出掛けて一日中戻らないこともあったが、夜更けには必ず戻った。やはり橘町のその家を本拠にしているのだろう。
吉兵衛は腰に巻きつけていた縄をはずすと、高い塀を見上げた。
半刻後、吉兵衛は、縛り上げ、猿ぐつわを噛ませて夜具の上にころがした市蔵のそばで、行燈に灯をいれていた。
「聞きてえことがあるから猿ぐつわをはずすが、声を立てるなよ、いいか」
吉兵衛は匕首で市蔵の頬を叩いてから、口に噛ませた布をはずした。市蔵は痩せて見えるが骨太な男だった。怒気で赤くなった眼で吉兵衛を見た。
「てめい、こんな真似をして無事で済むと思うなよ!」
「まあ、そう凄まずにきくことは聞かねえと、蝮の市さんよ」
市蔵の眼が、驚愕で大きくなった。じっと吉兵衛を見つめていたが、低い声で聞いた。
「何がのぞみだ、おやじ」
「じゃ、聞けよ」
「本所の回向院裏で、女を殺したのはおめえだな」
「それがどうしたんだ」
「何であんなむごいことをしたんだ」
「手下と顔合わせしているところを見られたのでね。悪いことにあの女、手下が俺の名前を呼んだのも聞いちまったんだな」
「それだけかい」
「何とかしようと思っているうちに、女は姿を消しちまったんだが、二年程して東両国で顔があっちまったのさ、むこうが俺の顔を忘れているようだったら、手は出さねえつもりだったが、顔を見るなり真っ青になりやがった。生かしちゃおけねえ女だったのさ」
「俺に眼をつけて来たところをみると、松葉楼の番頭、あれも手下か」
「ちがう。金をやってときどきあそこを使わせてもらっているだけよ」
「さあ、聞かれたことに返事したぞ。縄をときやがれ」
「そうはいかねえな」
吉兵衛は市蔵に顔を近づけた。
「おめえ、昔むささびの吉てえ同業の名前を聞いたことがねえか」
市像の顔が急に青くなった。
「おめえが?」
「そうだ、おめえ、俺の女を殺しやがった。ただじゃ済まさねえ」
「やめろ、おい」
市蔵の顔に、恐怖の色が浮かんだ。
「派手なことをしやがると、てめえも捕まるぞ」
「うるせえや」
吉兵衛は言うと、逃げようとする市蔵の肩をつかんだ。すると市蔵は縛られた身体のまま跳ね上がって、吉兵衛に噛み付こうとした。吉兵衛はすばやく市蔵の首を掻き切るとその上に夜具をかぶせ、そのまま上から押さえ込んだ。人を殺したのははじめてだった。だが、悔やむ気持ちはまったくなかった。
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