第4話

 松葉楼のおかみは、吉兵衛の顔を忘れていた。おやえの名前を出すと、ようやく身請けの時に法外な金を取ったことを思い出したらしく、太ってはちきれそうな顔に笑いを浮かべた。

 「あの節はどうも」

 愛想笑いの裏に、わずかに困惑した気配がちらつくのは、顔は思い出したものの、吉兵衛の名前を思い出せないでいるらしい。

 「おやえ、どうしてますか。元気ですか」

 「いや、それがね」

 吉兵衛はほっとした。まだ奉行所はここまで来ていないのだ。

 「あの子は殺されたんですよ」

 「殺されたって?おやえが?」

 おかみは流石に仰天した顔になった。ちょうど帳場に入ってきた若い男に、ちょっとあんた、聞きなさいよと言った。

 「ほら、おやえという娘がいただろう。ほんの小娘だったよ。あの子、殺されたんだってよ」

 「へーえ?」

 若い男は眼を見張って吉兵衛を見たが、すぐに机に向き合って帳簿に何か書き始めた。

 「それで、誰に殺されたの?」

 「それが判らないので、ちょっと来てみたのですがね」

 と吉兵衛は言った。若い男はそろばんを入れ始めた。だが、その肩がこちらの気配に耳を澄ましているように見えた。

 「おやえがまだこちらに厄介になっていたところに、こわがっていたお客さんなどというのに心あたりはありませんか?」

 「こわがっていた?」

 おかみは煙管に煙草を詰めて、深々と吸い付けた。険しい顔をした。

 「変な話だねえ。すると何ですか、殺したのはここのお客だとでも?」

 「いや、そうはっきりしたわけじゃありませんが、働いていた飲み屋で聞いた話では、思い当たる節などあるかと思いまして」

 「でもあの子は、客を取るようになって二年かそこらで、あんたに身請けされた子ですからね。まだ馴染みというものもない小女郎だったし・・・それに大体何でしょ。あのとおり気立てのやさしい娘でね。他人に恨まれたりするようなことをやる娘でもないし、ちょっと」

 おかみは、帳場兼茶の間を出ていこうとする若い男に声をかけた。

 「あんた、おらくが暇だったら、ちょっとここに呼んできてくれないか」

 「わかりました」

 と言って、若い男は部屋を出ていった。

 「いまのは?息子さんかと思ったら、奉公人ですか?」

 「番頭ですよ、うちの」

 「番頭さん?ずいぶん若いですな」

 「若いたってあなた、もう三十を過ぎてますよ」

 「へえ」

 吉兵衛はうなずいた。どう見てもまだ二十代にしか見えなかった若い男の、目つきの鋭さを胸の中にしまいこんだ。東両国に現れた二人連れのどちらかでないか、あとでおきぬに聞いてみよう。

 「おっかさん、何か用?」

 ぺたぺたと引きずるような足音を立てて来た女が、部屋に入るとだらしなく横座りになった。

 「なんだね、今からそんなくたびれたような恰好をして。商売はこれからなんだから、今少ししゃんとしてな」

 「だって、眠くて」

 女は吉兵衛の眼もはばからず、大きなあくびをして、あわわとその口を手のひらで叩いた。

 「この人がね」

 と、おかみは、今度は吉兵衛に言った。

 「おやえとずっと一緒だった子でね。一番仲良しだったから、何か知ってるかもしれませんよ」

 「それはどうも」

 吉兵衛は礼を言った。そして、身請けされて松葉楼を出る前に、おやえの様子に何か変わったことはなかったかと聞いた。

 「変わった様子といったってねえ」

 おらくは首をかしげている。

 「たとえば誰を怖がっていたとか、なにか怖い思いをしたことがあったようだとか、一緒に居て、そういうことで気づいたことはなかったかね」

 「だって、おやえちゃんが出て行ってからもう二年ぐらいになるでしょ?昔のことは覚えてないなあ、あたい」

 「でも、どうしてそんなことを聞くのさ」

 「おまえ、おやえは殺されたんだそうだよ」

 おかみが言うと、おらくという女はえ?と言って眼を丸くした。背中を伸ばして吉兵衛を見た。

 「ほんとなの?おじさん」

 「肝心のことを言うのを忘れたが、ほんとなんだ。それで、誰が殺したかはお上もまだわからないでいる様子なので、ちょっとさっき言ったような事で、心あたりがないかどうか、聞きに来たのだがね」

 「ちょっと待って」

 おらくは吉兵衛を制するように手を振った。

 「ちょっと待ってね。今、ちょっと思い出したことが有るんだ」

 「・・・・・・」

 「あの時のことかしら、おっかさん。ほらおやえちゃんが何か客に粗相して、ぶたれたことがあったじゃない?」

 「あれはお前、客を取るようになって間もなくの事で、怖い思いをしたというほどのことじゃないよ。この旦那が聞いているのは、受けだされてここを出る頃の事じゃないのかね」

 「そう言われてもわかんないなあ」

 おらくは首を垂れたが、また何か思い出したように顔をあげると吉兵衛を見た。

 「ひょっとしたら、あれかも知れないよ。おじさん」

 「何か思い出したかね」

 「ある晩、おやえちゃんがあたしの部屋に飛び込んできたことがあるのよ。もう真っ青な顔をして、あたしゃ馴染みのお客とひとつ布団にいたからね、固まっちゃったんだけど、仕方ないから起き上がってわけを聞いたの」

 「ふむ、それで」

 「そしたら人相の悪い男が五人もいて、お金を山分けしていたんだって」

 「・・・・・・」

 「あたしのお馴染みさんも笑ったのよね。おやえちゃんは寝ぼけたんじゃないかって、ここは泥棒宿じゃなくて、大新地松葉楼だよって笑ったんだけど、おやえちゃんが気味悪がるから、あたいの馴染み、清太郎さんと言うんだけど、その人がつい部屋を見に行ったんですよ。あたしゃよしなよと言ったんだけど、清ちゃんて人そういう話が好きだったからね」

 「なるほど、そしたら」

 「その部屋には、誰も居なかったんだって。空部屋だったのよね。もっともたった今行燈を消したという様子にも見えた。なんて清ちゃんは言ってたけど」

 吉兵衛は、女将を見た。

 「何か心あたりありませんか」

 「とんでもない」

 女将はまた機嫌の悪い顔になった。

 「ここは女郎屋ですよ。男どもが金を山分けしてたなんて、おめえはいったい、何を見たもんだろうね」

 

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