第3話

 貸座敷の三河屋の横を入った路地に、間口の狭い飲み屋、けんどん屋、一膳飯屋などが軒を並べていて、それぞれ結構商売になっているようだった。歩いて行くと中からにぎやかな人声がする。「岩五郎」と看板が出ている店もその中の一軒で、昼は焼き魚やとろろで飯を喰わせ、夜は酒を飲ませる。

 「ここで働いてた人だそうだね」

 「この間相生町で殺された姉ちゃんは、知ってるかい」

 と吉兵衛は言った。

 「やえちゃんのことかね」

 眼と鼻の先で手を動かしていた、赤ら顔の肥った男が、顔を上げて吉兵衛を見た。頑丈そうな男だが髪は白くて、五十半ばぐらいに見えた。

 「そうそう。そういう名前だったな」

 「かわいそうなことをしたよ」

 「岩五郎」の亭主は、吉兵衛の眼が届かないところで器用に包丁の音を響かせた。

 「何の因果かしらねえが、十九やそこらであんた、殺されるなんてね。あたしゃ夢にも思わなかった」

 「いい子だったんですぜ。気立ての優しい子でね、客にも可愛がられてた。なァ」

 亭主は、奥にいる職人風の男達に酌をしている女に声をかけた。女は吉兵衛を振り向いて、ええ、と言った。

 その女が、おやえと入れ替わりに夜の店に手伝いに来ていた女なのだろうが、吉兵衛は初めて見る顔だった。齢は三十前後で、水商売の波をくぐり抜けて来た疲れのようなものが、顔にも身体つきにも滲んで見える。しかしそのわりには、物腰のおとなしそうな女だった。おやえが働きに入る前には何度か来たことがある吉兵衛を、見覚えていなかった。

 はい、お待ちどお、と言って、亭主は板場から伸び上がると、吉兵衛の前に焼き魚とかぶらの浅漬を並べた。

 「お酒は?」

 「いや、まだいい」

 と吉兵衛は言った。

 「男かね?」

 「え?」

 「いや、そこのおやえさんという娘さんのこと」

 吉兵衛はうつむいて、盃からこぼれそうになる酒を口に運びながら、全身で亭主と女の気配を探っている。女がまた、自分を振り向いたのがわかった。

 「男だって?」

 「岩五郎」の亭主は、吐き出すように言った。

 「あの娘は、そういうたちの娘じゃなかったよ。男出入りで殺されたなんてことは、まずないね」

 「ふーん。そうですか」

 たしかに、そういうたちじゃなかった。

 「裏店の人が言ってるのを聞いたんだが、ここんとこを、こう・・・」

 吉兵衛は南岳坊の女房がやったように、手真似を使った。

 「やったんだって言うね。凄いもんだね」

 「あんた、おやえちゃんの近所の人?」

 「そうそう。同じ町内です」

 と吉兵衛は言って、もう一度平手を首のそばで動かした。

 「しかし、こんなことをやるって言うのは、たとえばいたずらを仕掛けて騒がれたから殺したとかじゃなさそうだね。本当におやえさんに降られて怨んでた、なんて若い男なんかはいなかったのかい?」

 「そんなのはいなかったなあ。そりゃ多少は、あの子に気の有りそうなお客さんというのはいたけど、刃物三昧といった陰険なのはちょっとね」

 「旦那、お酌しましょうか」

 奥から戻ってきた女が、吉兵衛のそばに腰掛けると、銚子を持ち上げて酒をついだ。

 「若い男じゃありませんけどね、あたし一度だけ変な男がおやえさんに絡んでたのを見たことがありますよ」

 女は吉兵衛と亭主の話に耳を澄ましていたらしく、すぐにそういった。

 「変な男?」

 「変な男というのもおかしいかしら。お店の旦那とお供にみえる二人連れで、そのひとたちに変なところはなかったんですけど、おやえちゃんがとっても怯えてね」

 「なんだい、おきぬ」

 顔を上げた亭主が咎めるように言った。

 「お奉行所のひとがここに来た時は、そんなことは言わなかったじゃないか」

 「ええ。面倒なことになると嫌ですからね」

 おきぬという女はさらりと言った。

 「男二人を見て、やえちゃんという娘が怯えてたと言うんだね。ふむ、おもしろそうな話だ」

 吉兵衛は女に盃をさして、酒でついでやった。女は気持ちよく盃を受けた。

 「もうちょっと、くわしい話を聞きたいものだね、おきぬさん」

 「でも、大した話じゃないんですよ」

 「それ、いつごろのことです?」

 「あんなことが起きる五、六日前かしら」

 その日、おきぬはいつもより家を出るのが遅れた。走るようにして東両国に来たが、「岩五郎」がある路地はもううす暗くなっていた。そして、店の前に帰り支度をしたおやえが立っているのが見えた。

 「ごめん、ごめん」

 おきぬは小走りにおやえのそばに寄った。おやえの後ろ姿をおきぬは首筋にかいた汗を拭いながら、ちょっとの間見送ったのである。

 路地に入ってきた男二人が、おやえとすれちがい、そのうちの一人がおやえに声をかけたように見えたのはその時だった。おきぬが見ていると、おやえはしきりに首を振っていたが、そのうちに急にばたばた走って店に戻ってきた。

 その顔色が、薄闇の中でもわかるほど血の気を失っているので、おきぬは思わずおやえをかばい、店の中に押し込んだ。その間にも、おきぬはおやえに話しかけた二人をじっと見つめていた。二人が追って来るようだったら、店の奥にいる主人を呼ぼうと思ったが、男達は追っては来なかった。

 男達は路地の人通りの中に立ち止まったまま、おきぬの方をじっと見ていたが、やがてうなずき合うようにすると、急に背を見せて表通りの方に引き返していった。

 「お前さん達、そこで何をしているんだなんておやじさんに怒られていた。しかし、あたし、おやえちゃんが本当に怖がっているように見えたので、その後表通りまで送って行ったんです。おやえちゃんが、少しでも明るみが残ってる内に帰りたいというもんだから、ええ、表へ出ましたけど、さっきの二人はいませんでしたね」

 「その二人だけど・・・」

 吉兵衛は聞いた。

 「ここに飲みに来たことがある人かね?」

 「いいえ、全然見かけたことのない人でしたね」

 「どっかのお店の旦那のようで、身なりもよかったし・・・」

 「ふーん、お店の旦那ねえ、それでおやえちゃんという娘は、その二人の事をなにか言ってましたかな?」

 「それが何にも・・・」

 おきぬは首を振った。

 「妙な話だな」

 吉兵衛が言うと、亭主もおかしいな、と言った。

 「そういう大事な話は、やっぱりお上が来た時に言わなきゃだめじゃないか」

 「でも、あたしははじめは出会い頭におやえちゃんが何か粗相でもして、あの二人連れに怒られたのかと思ったんですよね」

 「本当にそんなふうにも見えたし、ほら、よくあるでしょう?」

 「まあな」

 うなずいた吉兵衛に酒をつぎながら、おきぬが言った。

 「考えてみると、おやえちゃんとあの二人は、以前に顔見知りだったのじゃないかという気がしてきましたね」

 『やっぱり』、と吉兵衛は思った。

 

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