第2話
祈祷師の南岳坊は、吉兵衛がお礼の金を余分に包むのを横眼で見ていた。
「ああ、こっちへいらっしゃい」
南岳坊は金を受け取ると、祭壇の前から火の気のない火鉢のそばに吉兵衛を誘った。ばあさん、お茶、と怒鳴ると、台所から連れ合いと思われる色の黒い中年女が出てきて、吉兵衛にお茶をすすめた。
「あと二、三度も祈祷を上げれば、足腰の痛みはさっぱり取れるはずよ」
「ありがとう存じます」
と吉兵衛は言ったが、別に足腰など痛くはなかった。ただ、この裏店に近づく口実を作っただけである。吉兵衛は出がらしのお茶をすすった。さりげなく聞いた。
「この間、ひとり暮らしのおやえという娘が殺されてな」
南岳坊は髭面をしかめた。
「いやはや無残なことであった」
「それで、殺したやつは捕まりましたか」
「まだらしいな、なあ、ばあさん」
南岳坊が声をかけると、台所からさっきの色の黒い女が現れて、部屋の入口に座った。南岳坊は吉兵衛よりひとつふたつ年上かと思われるが、女は十ぐらいは若く見え、ばあさんと呼ばれる歳には見えなかった。
「まだのようですよ」
と女が言った。
「二、三日前まではお役人が裏店を一軒一軒聞いて回ってね、それはもう大変だったんですよ。でも昨日あたりからばったり見えなくなりましたね」
「ははあ」
「でも、ここの者から話を聞いたってしょうがありませんよね。あたしゃ、無駄なことをするもんだと思って見てましたがね」
南岳坊の連れ合いは、かなりのおしゃべりのようである。人を自分の話に引き込む呼吸を知っていた。
「と、言いますと?」
「おやえちゃんは、東両国の『岩五郎』という飲み屋で働いていた娘ですがね」そこから家に帰りの時刻を、吉兵衛は聞いてみた。
本当は吉兵衛は知っている。「岩五郎」では、若い女の子だからと、遅くとも六つ半(午後七時)には、あがっていいことになっているのだが、気のいいおやえはどうしても半刻(一時間)や四半刻は酒の方も手伝ってから帰っていたようである。もっとも吉兵衛という旦那がいると言っても、月に二度しか訪ねてこない旦那だから、ふだんは退屈していたのかもしれない。
「それで?」
吉兵衛は南岳坊の女房を見た。
「刃物ですか?それとも・・・」
「刃物ですって。と言っても、あたしゃ死んだおやえちゃんを見たわけじゃないけれども、話じゃあれだってね、ここを・・・」
女房は仕方噺で、自分の喉を掻き切る真似をしてみせた。色の真黒い無愛想な女だと思ったはじめての印象とは打って変わって、女房はいきいきした顔色になり、口は滑らかに動いている。
「場所は?」
「ついそこの表通り。相生町の四つ角から回ってきてすぐの道端だそうよ」
「このあたりの者が怖がってた」
と南岳坊が口をはさんだ。
「近頃は暗くなると、この近所はばったりと人通りが途絶えてしまうようだの」
「どっかの頭の変なのの仕業でしょうからね」
と女房が言って肩をすくめた。
「あんな気立てのいい子が、殺されるほど他人に恨まれているなんてことは、ちょっと考えられませんからね」
「なあるほど」
と言って吉兵衛は、空になった茶碗を盆に戻して腰を浮かした。
「それじゃあたしも、暗くならないうちに退散しますかな」
「あんた。忘れずにもう二度、三度来なさいよ」
いい客とみた南岳坊が、見送りに立ちながら言った。
「この際すっきり治してしまうことです」
吉兵衛は裏店から路地を抜けて、表通りに出た。
・・・・・・喉か。
と思った。犯人は南岳坊の女房がいったように頭のおかしな奴か、そうでなければ玄人かもしれないと吉兵衛は思った。
『このあたりかな?』
相生町と松坂町の四辻の手前で、吉兵衛はあたりを見渡した。道はもう薄暗く、南岳坊が言ったように歩いている人もいない。それを幸いに、吉兵衛はちょっと手を合わせてから四辻に出た。
相生町の通りには、店先にかけ行燈を出してまだ客を呼んでいる店もちらほらあり、人の姿も見えた。さて、どうしようかと吉兵衛は四辻に立ち止まった。
『男か?』
その筋もあるだろうと、吉兵衛は思った。身請けして店賃を出してやり、月々の小遣いを渡していたけれども、吉兵衛はおやえを縛っていたわけじゃない。
十九のおやえを縛りきれるものじゃないと思い、男が出来たら、その時はその時だとも思っていたのである。おやえは男のことで殺されたのだろうか。そういうことは、「岩五郎」に行かなきゃわからないだろうと思い、吉兵衛はやっと気持ちを決めて、歩き出した。
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