吉兵衛

@kounosu01111

第1話

木戸を入ったところで、吉兵衛はすぐに異変に気付いた。時刻は五つ半(午後九時)。いつもは暗く静まり返っているその裏店に、灯のいろが溢れていた。家々のマドに灯がともり、路地の中を慌ただしく提灯が行き来している。

 本能的に、吉兵衛は引き返そうとした。盗人家業を切り上げて十年ほどになるが、灯を嫌う習慣は身体に残っていたようである。

 だが吉兵衛は踏みとどまった。思い返したのは、異変があったのが吉兵衛が訪ねて来たおやえの家らしく思われたからだ。そこだけが、家の中の光が路地まで流れ出ていて、その光の中に寄り集まっている人の黒い頭と肩が浮かんでいる。

 吉兵衛は、足音を忍ばせて人々の後ろ寄って行った。やはりおやえの家だった。おやえの家は戸は開け放したままになっていて、その前に集まった裏店の住人と思われる男女が、ひそひそとささやき声をかわしている。中には寝床から起き出して来たという恰好の者も混じっていた。季節は夏の終わりで、寝巻き一枚でも寒いというわけではない。

 人々の後ろから、吉兵衛はおやえの家をのぞいた。男がいた。一人ではなく、家の中には二、三人いる気配だった。吉兵衛が身体を横にずらすと、家の中がもっとよく見えた。畳に膝をついたまま動かない男もいたし、狭い家の中を行ったり来たりしている男もいる。男のうちの一人は、上がり框まで出てきて、集まっている裏店の者を威嚇するように眺めたりした。

 その男の前腰に、鈍く光る十手が挟まれているのを見て、吉兵衛はどきりとした。だが何か言うかと思った十手持ちは、そのまま背を向けて部屋の中に戻って行った。人の後で伸び上がって見たが、おやえの姿は見えなかった。吉兵衛の胸が、強い不安に騒いだ。

 「何かあったんですか?」

 吉兵衛は、腕組みしてそばに立っている男にささやきかけた。

 「人が死んだのよ」

 聞かれた男は、前を向いたまま言った。吉兵衛は一瞬、心の臓が止まったような気がした。少し気分が悪くなったのをこらえてから、また低い声でたずねた。

 「死んだのは、この家の人ですか」

 「そう。お姉ちゃんとここじゃ言ってたがね。まだ若い娘だよ。かわいそうに、何ぞ殺されたのかね」

 「殺されたんですか」

 「そうらしいや。よくは判らねえが・・・・・・」

 職人風の歯切れの良い口をきく、三十半ばのその男は、その時になってやっと腕組みを解いて吉兵衛を見た。

 「おや、とっつぁんはここの人じゃねえようだ」

 「はい、ちょっと人を訪ねて来た者で・・・」

 「誰だい?」

 「え?」

 「いや、誰を訪ねて来なすったかと聞いているんだよ」

 「南岳坊さんです」

 吉兵衛はとっさに、おやえから聞いていた近所の祈祷師の名前を出した。

 「ああ、拝み屋さんか。拝み屋さんなら、そのへんにいるはずだよ」

 「いえ、出直しましょう」

 吉兵衛は急いで言った。

 「まさか、こんな取り込みがあるとは思わなかったもので、それに出掛けてくるのが、ちょっと遅すぎました」

 と、弁解するようにつぶやいて、吉兵衛は人垣を離れた。話をかわした職人が、怪しむように自分を見送っているのを感じたが、振り向かずに木戸に向かった。

 木戸を出ると、吉兵衛は自然に急ぎ足になった。灯を嫌う習性が身体に残っているように、十手持ちを恐れる気持ちも、心の奥深い場所に息づいているのを吉兵衛は感じている。

 実際には、吉兵衛は盗人稼業から足を洗うと間もなく、小さな小間物屋の店をたたんで隠居した。そしてあまりはやらないことを別にすれば、その小間物屋は小僧が一人いて、ちゃんと商いをしていたので、誰にも怪しまれることがなく商いをしまって隠居し、そのまま十年近い年月が経てしまうと、吉兵衛はいまは自分をただの隠居じいさんだと思うことが出来るようになっていた。

 だから、昼の明るい道で十手持ちとすれ違ったとしても、格別気持ちがうろたえることはなかった。吉兵衛が昔盗人だったことを知るものは誰もいない。誰も知らなければ、それはなかったと同じことだ。

 しかし暗い夜の道を歩いている時は、気持ちがぺたりと貼り付いているように思うことがあった。

 たった今見てきたばかりの十手持ちとすれ違っても、全く気持ちがうろたえることはなかった。

 昼ならいくらでも言訳が出来るが、夜は駄目だ。

 夜は言訳を裏切って俺の身体や顔つきに染み付いた匂いを怪しまれたら、それでおしまいだ。

 だが吉兵衛の恐怖は杞憂に終わった。呼び止められることもなく、後ろから首筋をつかまれることもなく、吉兵衛は堅川の川岸の通りに出ていた。見えてきた二之橋を向う岸に渡れば、家は橋から間近のところにある。

 吉兵衛は足をゆるめ、深い吐息をひとつついた。この深夜にも、まだ外を歩いてる人がいて、二之橋を吉兵衛が行く常盤町の方に渡って行く提灯がひとつ見える。その頼りないほどに小さい灯のほかは、町は闇だった。

 わずかに足元の道がほの白く見え、そばを流れる水が、岸辺にささやくような音をたててるだけである。水の面は暗くて見えなかった。

 吉兵衛の心に、やっと殺されたおやえのことを思いやるゆとりが戻ってきた。なんという無残なことだ、と思った。おやえは十九である。これからまだひと花もふた花も咲かせられる年頃の娘が、何で殺されたりしなければならなかったのか。

 『こんなことになるのなら・・・』

 いっそ、一緒に暮らせばよかったのだ、と吉兵衛は思った。おやえに回向院裏の裏店を借りてやり、そこからほど近い東両国の飲み屋に働きに出られるようにしてやったのは吉兵衛である。

 後悔に苛まれながら、吉兵衛は二之橋を渡った。いったい、殺したやつは何者だろうと思ったのは、常盤町二丁目に有る自分の家の前まで来た時だった。

 暗い土間に入って戸を閉める。部屋にあがって行燈に灯りを入れてから、吉兵衛は台所に立って水瓶から水をすくって飲んだ。生ぬるい水だったが、喉がかわいていたのでうまかった。

 部屋に戻って、火の気のない火鉢のそばにあぐらをかくと、吉兵衛は煙草盆を手元に引き寄せた。行燈から火を吸い付けて、ゆっくりと煙草をくゆらした。そしてぼんやりしていると、さっき一度は納得したはずのおやえの死が、どうにも信じかねる出来事のように思われて来るのだった。

 おやえは物静かな女で、笑うときにも大きな声を出さなかった。うつむいたり、手で口を覆ったりして、小さな笑いを洩らすだけだった。明日の朝、さっきの裏店を訪ねていけば、ひょいおやえが顔を出して、「いやだねえ、おじさん。殺されたのはあたしじゃないよ」と、笑顔でいいそうな気もした。

 おやえと出会ったのは二年前である。場所は深川のはずれにある遊所大新地の女郎屋松葉楼だった。吉兵衛は二、三年は酒もあまり飲まず、女遊びにも賭け事にも一切手を出さなかった。家主には、女房に死なれて商いも嫌になったのでと、世間的には少し早めの隠居の言訳をし、その作り話に似つかわしい陰気くさい顔をして、時折町を散歩するくぐらいにとどめた。

 しかし、そうして散歩しながら、吉兵衛は実は自分を取り巻く世間に油断なく眼を配っていたのである。盗人稼業の足を洗い、小間物屋の店を畳んで土地を移すことにしたのは、気のせいかも知れなかったがその少し前から、静かに暮らしを見張られているような気がしたからだった。

 その誰かが、引っ越してきた町にも現れるのかどうかを、吉兵衛は最新の注意を払って逆に見張っていたのだが、それらしい人影はついに現れなかった。そして、二、三年経つうちには町にも数は少ないが顔なじみが出来た。

 『上手く行けば・・・』

 このまま小間物屋の隠居で世を終ることが出来そうだと思える頃になって、吉兵衛はやっと、東両国の飲み屋に足を運んだり、遠い深川まで女を買いに行くようになった。盗みためた金はたっぷり持っていたが、奢ることは一切しなかった。酒を飲むのも小さな店、女を買うのも場末の女郎屋と決めていた。

 だが、一年ほど前に大新地の松葉楼でおやえに出会った時、吉兵衛はほとんどためらいなくおやえを身請けする決心を固めたのだった。

 どこがどう気に入ったというのではなかった。おやえはただ、場末の岡場所で女郎などさせておくに忍びない、と吉兵衛に思わせるような、ある痛々しさを持っていたのである。

 身体がまだ細かった。気持ちもまだ汚れたりねじ曲がったりしていなかった。身内はなく他人に養われて育った娘で、その他人はおやえが身体で稼げるほどの年頃になると、ためらいなく女郎屋に売って、それまで育てた恩を取ったのだった。

 おやえは天涯孤独だった。そこのところも吉兵衛は名前を偽っておやえを囲い、月に二度、日を決めて通った。そして二年が過ぎたのである。

 おやえは飲み屋で仕込まれた煮物つくりの腕が上がり、それで酒がうまくなった。万事上手く行っていたのである。

 『・・・いったい、誰に殺されたのだろう・・・』

 おやえを殺したやつはもう捕まったのだろうか。それとも、まだどこの誰ともわかっていないのだろうか、と思った時、吉兵衛ははっとした。

 犯人も殺されたわけもはっきりしているのなら、かわいそうでも諦めるしか無いが、奉行所が犯人を探しているということになると、さしずめ疑われるのはこの俺かも知れないと思い当たったのである。

 吉兵衛は、仔細にこれまでのことを振り返ってみた。身請けのときは金をたっぷり使ったから、松葉楼では名前を偽った。だが、松葉楼では、格別こっちの身分を詮索したりはしなかったはずだ。そして回向院裏の家と東両国の飲み屋は、見つけてはやったが吉兵衛が顔を出したわけではない。どっちもおやえ自身に掛け合わせてやっただけだ。

 裏店に入ったときの身元の請人は、松葉楼の女播になってるはずである。

 月に二度、吉兵衛は裏店に通ったが、大抵は五つ(午後八時)過ぎに行って、四つ(午後十時)前には引き揚げている。時には行くのが五つ半になったことさえあって、泊まったことは一度もないから、裏店の者には顔を見られていないはずだった。ひょっとしたら、おやえは吉兵衛のことを誰かに話しているかも知れないが、おやえも吉兵衛の偽名しか知らないし、顔を見せたことがなければ、そんな男はいないも同然なのである。

 『大丈夫だ!』

 と吉兵衛は思った。まさか、こういう出来事を予想して用心したわけではなかったが、これまで念を入れた用心が役立ったと思った。

 あとは知らないふりをすれば、俺が疑われるようなことは何もない。吉兵衛は胸の中でうなずいたが、あのおやえが何で殺されたりしたのだろうと、納得出来ない気持ちがこみ上げてくる。それはほとんど、無念の思いと言ってもいいものだった。知らないふりはできそうになかった。

 

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