第五話.初めての……
後から考えてみれば、前日の晩、確かに「それ」の予兆はあった。
しかし、本人は元より他の“当事者”2名もそれに気づかなかったのも、ある意味、無理のない話と言えるだろう。
まさに、いわゆる「想定外」の事態だったのだから。
* * *
その夜。
田川邸お抱えドライバーの運転するベンツで自宅に送り届らけられたちはやは、いささか興奮気味だった。
「すごいよね~、庭にプールとテニスコートもあるんだもん」
「ハイハイ」
当然そんなことは先刻承知なのだが、馨は苦笑しつつも優しく“妹”の話を聞いてあげている。どう考えても千剣破より大人な対応なのだが──コレでいいのか?
「あ! そ、それでね、馨兄さん。そのぅ……もし明日25メートルちゃんと泳げても、元に戻るのは日曜の夜でもいい、かな?」
日曜日にククルの家で撮影会があるのだと聞いて、少々渋い表情になる馨。
撮影会そのものはちはやが行くとしても、元に戻ったらその「ちはや」がしたことは「かおる」がしたという形に置き換わるのだ。
可愛い服などにあまり興味のない馨にとっては恥ずかしいばかりで益のない話だが、それでも馨は最終的には承諾した。せっかく“妹”が楽しみにしているのに、それに水を差すような真似は“兄”としてしたくなかったからだ──つくづく大人な判断である。
はしゃぎ過ぎたせいか、少し気疲れづかれしている風にも見えるちはやに一番風呂を譲り、自室に戻った馨は、やれやれと困ったような、けれど同時に慈しむような複雑な表情を浮かべている。
「元気になってくれたのはいいけど……ちぃちゃん、すっかり女の子してるなぁ」
天真爛漫で、“兄”として見るぶんには微笑ましい限りなのだが、自分があの立場にいた時は、もう少し分別くさかったような気がする。
『まぁ、そのヘンは汝らの性格の差よ。正直我も、お主が兄な方が性格的には合っておる気はせんでもないが』
ポムッと現れた守り神様も、ちょっと困ったような顔をしていた。
「一応参考までに聞いておきたいんだけど……僕らがこのまま元に戻らないと、何か問題あるのかな?」
『カオル、汝まさか……』
「いや、あくまで仮定の話だよ」
アルカイックな笑みからは、“彼”の本心はいまいち窺えない。
『ふむ。あると言えば無論ある。なにしろ人ひとり、いやふたりの運命をある意味捻じ曲げるのだからな。しかし、本人達が心底同意しているなら、見方によってはさして大きな問題はないと言えないこともない』
その真意をはかりかねつつ、ナミはそう答えた。
「──ふーん」
それっきり、ふたり(ひとりと一柱)の会話は途切れた。
* * *
翌朝のちはやは、少し体調が優れないようだった。
とは言え、以前のように立場交換に伴うストレスで不調だった時とは異なる。どうやら昨晩、遅くまで親友ふたりとメールでやりとりしていたようなのだ。
「パケホ〇ダイだから電話代は気にしなくていいけど……あまり夜更かししてちゃダメだよ、ちぃちゃん。今日も水泳の授業あるんでしょ?」
「あ、うん。ごめんね、兄さん」
もっとも、多少の寝不足程度でどうにかなるほどヤワな身体は、兄妹ふたりともしてないはずだが。
「あの、たぶん、だいじょうぶだとは思うんだけど……もし、さ。もし、うまく泳げなかったら……」
今週の体育の授業は今日で終わりだ。次の機会は来週の月曜の4時間目になる。
「いや、僕は別に構わないんだけどね。ただ、再来週は期末試験だよ。ギリギリになって戻るのはヤバいんじゃない?」
「うッ……そう言えばそういうモノもあったんだっけ」
座学が苦手なちはやは、その単語を聞いてゲンナリした。
「こうなったら、いっそ期末試験までこのままで……」という悪魔の囁きを、頭をフルフルと左右に振って振り払う。
「──そうだよね。さすがに、そこまで馨兄さんにメイワクかけるのも悪いし、がんばるよ」
心なしか元気なくトボトボと学校に向かう“妹”を見て、「朝から脅し過ぎたかなぁ」と馨は頭をかくのだった。
馨に言われたことが心の奥に引っかかっていたから──という理由も無いわけではないが、それを別にしても、今日のちはやはどうやら本気で体調が悪いようだ。
「あの、天迫先生、ちはやさん、具合が悪いみたいなのですけれど……」
2時間目が始まったあたりで、蒼い顔をしているちはやを見かねた隣席のククルが、手を挙げて教壇の星乃にそのことを告げる。
ハッとした星乃がよく見てみれば、確かにちはやの顔は苦痛に歪み、額からは暑さのせいではない汗がにじんでいる。
慌ててクラスの子達に自習を告げると、星乃は小柄な体に似合わぬパワフルさを発揮し、ちはやを背負って保健室へと向かう。
「大丈夫、武内さん?」
「すみません、あんまりだいじょうぶじゃないかも。あの、おトイレに……」
蚊の鳴くようなに声で返事するちはやのリクエストに応えて、そのまま女子トイレまでちはやを送り届けた星乃だったが……。
「──う、うわぁあああ!」
個室から聞こえて来たちはやの叫びに、ドンドンドンと扉を叩く。
「どうしたの、武内さん!? 痛いの? 苦しいの?」
「せせせせ、せんせぇ! ちちち、ちが……」
扉の向こうのちはやは、尋常でなく動転しているようだ。
それでも辛抱強く声をかけて話を聞き、状況を把握した星乃は、足早に保健室へ向かい、目当てのものを見つけると、すぐさまとって返す。
「武内さん、恥ずかしいとは思うけど、ドアを開けてくれる? キチンと適切な処置をしないといけないから」
「──わ、わかりました」
一瞬の躊躇いの後、ちはやは個室のドアの鍵を開いた。
恥ずかしそうなちはやの表情に気付かないフリをした星乃は、スカートをまくりショーツを下ろした“彼女”の下半身に視線を向け、予想が当たっていたことを知る。
「やっぱり、ね」
持って来たモノで、てきぱき“処置”すると、星乃はちはやを促してトイレから出て、そのまま保健室へと送り届ける。
運がいいのか悪いのか、養護教諭は留守にしているようだ。
「せ、先生、やっぱり、ぼく、病気なんでしょうか?」
ベッドに横たわり、心配そうに尋ねるちはやの問いに、星乃は緩やかに首を横に振った。
「いいえ、そういうワケではないわ」
「でも、あんなに……」
「武内さん、生理とか月経って言葉は知ってるかしら」
「はい、保健の授業で……え?」
まさかという顔になる表情になったちはやに、星乃は視線で肯定の意を示す。
「「おめでとう」と言っていいのかわからないけど……武内さん、どうやらあなたの身体は今日、初潮を迎えたみたいね」
──その日、武内ちはやは、生まれて始めて体育の授業を休み、4時間目まで保健室で過ごすことになったのだった。
* * *
「あれ、母さん、今日何かお祝い事?」
夕食の席で出されたご飯が赤飯だったことに、ちょっとした疑問を覚える馨。
「ふふふ……内緒よ。ね、ちぃちゃん」
意味ありげに笑う母のウィンクを受けて、真っ赤になるちはや。
それだけで理解したのか、なんとも言えない感慨深げな顔をしている父と異なり、馨はわかっていないようだ。
「??? ま、美味しいからいいけどね」
「それにしても、ちぃちゃん、やっぱり具合悪いのかな?」
何故かいつもよりおとなしく、また小食だった“妹”の様子に首を傾げながら馨は“自室”に戻った。
『汝にしては珍しく勘が悪いの。いや、今の“兄”という立場上やむをえぬことか』
卓上に姿を見せたナミが、肩をすくめる。
「え、ナミは何があったかわかってるの?」
『無論。チハヤからするほのかな血の匂いと格段に強まった陰の気、そして何よりあの恥じらいの表情を見れば、おのずと答えはひとつじゃろうて』
「?」
はてなマークを浮かべたままの馨に溜め息をつき、ナミはより直截的な表現に切り替える。
『つまりじゃ。チハヤは今、間違いなく月のモノを迎えておるのじゃろう』
「つきのもの……って、もしかして、生理のことォ!?」
さすがにここまで言えば、現在、“男子高校生”としてのメンタリティを持つ馨にも通じたようだ。
泡を食った馨は、部屋を飛び出して“(本来は自分のものである)ちはやの部屋”に押しかけ、真偽を確かめる。
ちはやは、頬を染めつつ、馨の疑問を肯定した。
「そ、そうなんだ……ちぃちゃんが生理にねぇ」
「も、もぅ……はずかしいから、ハッキリ言わないでよ、兄さん」
「あ! ご、ごめん」
実は、長身の割に第二次性徴が遅れ気味だった「かおる」は、いまだ生理を迎えていなかった。そのため、ソレに関する机上や伝聞の知識はあっても、どうにも実感が伴わないのだ。
「その……やっぱりお腹とか痛いの?」
「うん。なんて言うか、オヘソの下の方にズ~ンと重たいものが入ってるみたいな……って、説明させないでよ!」
耳まで真っ赤になって、ちはやはアワアワしている。
「じゃ、じゃあ、ナプキンとかも……」
チラとちはやのスカートに視線を走らせる馨。
「だーかーらー、聞かないでってば! 兄さん、デリカシーないよ!!」
「ごめん」
反射的に謝りながらも、馨は複雑な気分になった。
先程も述べたが、「かおる」は未だ初経を迎えていない。しかしながら、現在、ナミの術によって、“兄”と“妹”の立場を入れ替えているせいで、本来は兄であるはずの“妹”ちはやの方が、先に「女の子の日」を迎えてしまうという奇妙な逆転現象が発生したのだ。
ちはやに先を越されて悔しい……という気分も確かに皆無ではない。
だがそれ以上に、“妹”が自分の知らない「女としての第一歩」を踏み出したと考えると、何かこう背筋がゾクゾクがくるような興奮を内心覚えずにいられなかったのだ。
(あ、あれ?)
ふと、馨は自らの下半身に違和感を覚えた。
ショートパンツの下、ブリーフに包まれた自らの股間で、何かが堅く尖っているような感覚がするのだ。
(まさか!?)
早口でちはやに再度謝意を示すと、馨はそそくさと「自室」に戻り、おそるおそるパンツの中を覗いてみる。
「う、うわっ、何これ」
そこには、小さいながらも思い切り充血し、ピンと尖って自己主張している陰核の姿があった。
「コレって……もしかして勃起ってヤツ?」
男子高校生ともなれば、友人達との会話でそのテの猥談ネタには事欠かない。その性格上、馨は比較的そういう話に巻き込まれにくいタチだが、知識が皆無というわけでもなかった。
ゴクリと唾を飲み込むと、ベッドに腰掛け、うろ覚えの友人からの情報を元に、そっとソレを触ってみる馨。
「ッ!!」
(うはぁ! 何コレ……気持ちイイっ!!)
かろうじて声をあげることは押さえたが、その未知なる快感は馨を強く魅了した。
女の子時の「かおる」が自慰未経験だったこともあってか、馨はたちまち初めてのソレの虜になる。
普段理性的な“彼”とは思えぬほど……いや、いつも理性で押さえているからこそ、腹の底に色々「溜まって」いたのかもしれない。
その夜、馨は、思春期の少年の欲望を表すのによく用いられる「サルみたいに」という言葉通りに、ひたすら自らのソレを弄り回して快楽を得る行為に没頭したのだった。
──翌朝、生理中の“妹”ちはやはともかく、“兄”である馨まで寝不足気味な目をして食卓に現れたため、両親は揃って首を傾げることになった。
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