第3章
昭和三十一年頃から私は幼稚園へ通い始めた。家から園までは二キロメートルもあった。
当時五才の私は、良く歩いて砂利道を行き来した。その園は曹洞宗の禅寺であった。
そこへ羽原町から通うのは難しかった。
あっちに寄り、こっちに寄り通園している私には、やさしく私を見守る山中文房具店があり、
大正川のへりにある駄菓子屋の中嶋店の主は、いつも行き帰りを見守ってくれた。
それは私の住む田舎町から遠くあった。
私は泣き虫だった。年中泣いて歩いていた。
まだ終戦直後で物資が乏しかった。我が家では肉といえば鳥肉しか手に入らなかった。
それは我が家で飼う鶏で、毎日四、五個の卵を産む。その卵がけご飯が美味であった。
卵焼きは、最高のご馳走だった。私の料理は、私と弟が取ってくる小魚やしじみだった。
母が作る小魚の佃煮、キュウリやナスのぬか漬け、それに高橋精肉店のコロッケが加わると、最高のおかずになった。
私と隣に住む信一君と行く釣りでは、良く鰻が釣れて、家で祖父の手でさばかれた魚の料理は美味だった。
我が家の庭には、鶏や豚を飼っていて、それ等が売れる日は、近所に住むが叔父が来て食卓が賑やかになるのだった。
しかし祖父と照夫叔父は多量の酒を飲んで暴力を振るうのである。私は叔父チャンが酔っ払って、
「女の陰部はチーズの味がする」と言ったのが私の耳から離れなかった。そういう話は、私も恥ずかしかった。
その二人の親子に喧嘩腰で棒を振り上げるのは、祖父の役目で、朝からドブロクを飲んでいる祖父と祖母は、いつも喧嘩していた。
気むらの常次郎は、百姓仕事が身に付かず、怠け者の通称になっていた。
当時は、鍬や万能で農作業をするので、長男の私は良く手伝わされた。
十一月の麦ふみは、私の慣例になっていて、六月・七月の麦刈りは楽しかった。
畑は古代人も使っていたらしく、土器の破片が良く出来てきた。
二つ上の姉の威光は、弟の私には大きな光明となって記憶している。その威光は五十年経った今でも力強いものとなっている。
あまりにも多かった古代の器に触れていると、私は考古学者になりたいと思うようになり、その関係の大学へ進もうとしたりした。
その頃から、私は近隣の家へテレビを見に行くようになった。
学校で、洗濯機を買った家は良く、テレビを買った家は悪い家と三年生の頃、小貫先生が言っていたのを覚えている。
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