第2話

 そうすると、必ず反論があります。これを読んでいる読者のうちにも、きっと私に向かって反駁する片が多いのだろうと思う。「人生は無意味」と言うのであれば、お前はなぜ生きているのか!? それじゃあ、自殺すればいいではないか!? なぜ死なないのか!?

 それが、反論です。「予想される反論」です。

 最初のうちはその反論に対して、

 「だって、人生に意味があると思っているから、その意味に絶望して自殺するのではないか。人生に意味がないと判っていれば自殺する必要さえない」と応じていたのですが、そのうち上手な言い方を考案しました。それは、人間は、

 ──ついでに生きている──

 という言葉です。私達はたまたま人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。別段、それ以上の意味なんてない。私は開き直って生き続けている、田舎の小さな老人にすぎないのです。

 人生に意味があり、目的があるとすれば、わたしたちはその目的に向かってまっしぐらに邁進したくなります。そうすると、競馬的人生になってしまいませんか。

 まさか金儲けだけが人生の目的、生き甲斐だと思っている人はいないでしょうが、企業の発展を目指す経営者は、結局は金儲けが願望です。が、いくら巨億の富を積んでも、あの世には持っていけないのです。金儲けなんて、人生の目的になりません。

 立派な政治家になりたいと言う人がいます。だが、立派な政治家って誰なんですか。日本の現在の総理大臣と、ヒトラーと、東条英機と昭和天皇とインドのネール首相と、日本に原爆を落としたアメリカのルーズヴェルト大統領とトルーマン大統領と、いったい誰が立派な政治家なんですか? 仮にあなたが日本の総理大臣になれたとして、それであなたの生き甲斐が達成されたことになりますか?

 偉大な芸術家になることが人生の目的だとして、では誰が偉大な芸術家ですか? 一号何百万もする日本画家と、生きている間は売れなかったポール・ゴーギャンと、どちらが偉大な芸術家と思うと残虐な思いがしております。そんな現場でコレクターとして生きている、己が一番悔やまれてしまう。古代や中世の社会では、ほとんど職務選択の自由がなかったのです。そうすると、職業選択の自由を前提として人生の目的を議論することはおかしいことになります。だって、現代人には人生の意味があり、昔の人たちの大半は人生の意味がなかったことになってしまってます。だとすると、職業選択の自由を前提に「人生の意味」や「人生の目的」、「生き甲斐」を論じてはいけないのです。それは、一生を狂わせた本人が充分に、この世の矛盾を経験しているのだから、私は、まだいい方だ。何故なら、脳梗塞で死んでしまう人がいるのだから!。今の私には、どんな本でも読める本があるのだから!。

 意味のない人生だからこそ、私は生まれてきたついでにのんびりと自由に生きられる。しかし昔の日本には士、農、工、商といった身分差別がありました。それは日本に限ったことではなく、古代や中世の社会では、ほとんど職業選択の自由がなかったのです。そうすると、職業選択の自由を前提として人生の目的を議論することはおかしいことになります。現代人には人生の意味があり、昔の人たちの大半は人生の意味がなかったことになってしまいます。本当は、私は古代人に生まれたかった。何故なら、今の私のようなノイローゼで苦しむこともなかったはず。だとすると、「無意味」だというのが、真の「人生の意味」なんです。そういう自分流の「哲学」を持っています。

 そしてその「哲学」で、まあまあの人生をおくってきました。私は、自分の生き方を、それで良かったと思っているのですから・・・。

 ──驢馬が旅に出かけたところで、馬になって帰ってくるわけがない──

 西洋にはそんなことわざがあるそうです。驢馬というのは変な動物です。本当に愚かかどうかは知りませんが、英語だと゛ass ゛には「馬鹿」の意味があります。その愚かな驢馬が旅に出て見聞を積んだところで、賢い馬になれるはずがない。旅は必ずしも人間を賢明にしてくれない。そんな意味のことわざです。「インドは貧しい。だからインドに旅した日本の旅行者の大半が、驢馬が驢馬のまま帰ってくるのです」。それじゃあ、旅行した値打ちがないようです。

 私達は常識や既成観念、世間の物差しを持っています。そういう殻を背負ったカタツムリです。旅をするのは、そうした殻を捨てるため。殻を捨ててナメクジになって帰る。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅なんです。

 たとえば、そのインドの貧困だって、貧困を悪いものだと見るカタツムリではなく、貧しくたっていいんじゃないか、といったナメクジの目で見ることができれば、すばらしい旅になるはずです。

 あるとき、同行講師として行ったインド仏跡参拝ツアーで、ツアー参加者の一人の老人「先生。見てください。インドの子供たちは裸足ですよ、可哀想に・・・」と言われました。

 〈裸足のどこが悪いんだ?〉私だって中学の時の運動会で裸足だった。

 「先生、インドの牛はどうしてあんなにやせているのですか?」

 すると、その老人は、「そう言われると、たしかに私の子供の頃、私は田舎の小さな町で育ったのですが、農耕用の牛はみんなやせていました。牛はやせているほうがまともなんです」

 と、私の意見に同調する者も何人か居る。

 人生の旅もナメクジになった方がいいと思います。カタツムリのように、大きな殻を背負ってはいけない。

 大きな殻というのは、目的地で、人生の旅には、目的地があってはならないのです。

 目的地に到達できるかできないか、わからないからです。人生の旅には、目的地があってはならないのです。

 最近の日本人は、旅を目的地主義的に考えてるようです。昔の旅人は道中が楽しかったのです。

 ところが、最近の旅は、目的地にあります。私の主張は、本当をいえばサルトルの哲学とそれ程違っている訳ではありません。

 サルトルの主義は、どちらかといえば「人生は無意味論」と同じなのです。それが私の語る孤貧主義なのです。

 私は、そんな旅の途中をはい回っているところです。今はまだ目的地は見つからないのです。それでも良い、と思っています。中庸が一番いいと思っています。

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