バブル崩壊

@kounosu01111

第1話

 平成十四年に失敗したのである。コーヒーの安さ、と行き届いた早さ。衛生的な調理、タバコの分煙化等の処理に、勝ち組と負け組を住み分けている。しかし、私の店では、そんな時流に乗り遅れたのである。妹と古橋君の店が残って営業している。食事の影響メニューにおいては勝っている。今では、コンビニの増殖が大きなライバルになっている。先立って上野へ出たが、私の知ってる上野ではなかった。近所に、コンビニが二つも増えていた。それ等の店では、安価なコーヒーと弁当が売っている。私と共に開店した「そばや」は潰れていたし、ガソリンスタンドは、ビルになり、その一階には、これもコンビニが入っていた。道の反対側にあった喫茶店が無くなっていた事が幸運だった。私が待っていた自社ビルの中華料理屋も潰れ、長年私と一緒にゴルフに行っていた貴金属店も無かった。最近は、働き手が足りない時代になった。戦後のベビーブームの人たちは、ほとんどが定年になって職を離れてしまった。そのベビーブームでは年間三百万人もの出産があった。それが現在では、年間の出生は百万人ぐらいに低下している。私の小さい時は、休みには野球、ドッチボールや石蹴りなどをしていたのに、今は、外で団体で遊ぶ子など見たことがない。コンピューターゲームの登場で室内での遊びがなくなっている。そんな時代の子供達が、今後の時代のリーダーになって行くことが怖い。一年前の静岡県の障害者施設での殺人事件や、十年前の秋葉原でのトラック暴走事件等が、私が思うゲーム世代の行為だと思う。それらは、無差別殺人事件にあらわれているのだろうと思う。その意見に同調する我々団塊世代の心配事である。もはや、自然も人間の心も、天変地異をもたらせているのではないか?と、危惧している。毎年のように洪水や地震で家屋が倒壊したり、多くの人が亡くなったりするすることを悩んでいる。東北大震災や熊本大震災などが今も長く人民を苦しめている。世界中で地震、洪水、貧困が蔓延している。情況に戦火が加わり、仏界で言う天変地異の崩壊時代の始まりではないか?、と思っているのは、私だけではない。それに加えてブラック企業で働かざる得ない何十万もの若者は、年金が出るかもわからない。何せ、日本国の借金が一千兆円になるのだから、日本の将来に危険を覚えるのが当たり前である。その上、政治家の認識不足に、その他大勢の我等市井の人生はどうなってしまうのだろうか?。自然破壊に、人心破壊が加わると、もう天変地異の崩壊だけでは済ませられないだろう、と思う。東北大震災や熊本地震の復興事業では、モラルを持たない、大企業が入札でカルテル行為をしているらしい。そんな国家構造に、我々国民は、命を委ねなければならない。

 やはりサマセット・モームを語っておきます。彼の小説「人間の絆」で人生の意味を語っている。人間は何のために生きているのか?人間はなぜ生きねばならないのか?、彼も私も考え続けている。私はモームの「人間の絆」が大好きなので、当然この本について書きました。しかし、そのとき゛人生の危機 ゛といった言葉にいささか引っ掛かりを感じたのです。

 というのは、私自身大学受験に失敗したり、事業を縮小したり、老年になって病気を持ったり、失職したりしている。たぶん、ほとんどの人がそう考えるでしょう。でも、そららは「生活の危機」であって、「人生の危機」ではありません。私はそのことに気付いたのです。

 多くの人は、生活の危機にあたふたとします。私の場合、それが元でノイローゼになってしまった。どうしてよいか判らなくなりました。会社人間になって奴隷のような生活しようにも、私の場合は出来なかった。脳梗塞になっていることさえ気づかずに、十年も働いて来たのですから。しかし、村上春樹氏によると奴隷制度でも起こらなければ、新しい文学は生まれない、と言う日本を代表する作家がそうまで言っているので、そうかも知れない。なぜなら中東産油国の大金持ちの多くは、安賃な家政婦を何人も使っていると聞く。

 会社人間になってはいけないと言っているのではありません。

 多くの人は、会社をクビになる心配をして会社に隷属する生き方をしています。最近では電通の女性社員が、働きすぎて自殺したのを今でも検証しようと思ってます。にもかかわらず会社はそんなあなたを冷酷無残にリストラします。あなたは絶望して自殺する。あまりにも惨めではありませんか。我々の「危機」は、会社をリストラされた時点にあるのではなく、我々が隷属する生き方を選んだ時点にあります。

 私が言いたいのは、意識の問題です。

 世間に隷属して生きようとする奴隷根性が問題です。

 世の中の役に立つ人間になろうとする、その卑屈な意識がいけません。

 今の若者は、森林業に従事しようとする人がボツボツ出てきたり、過去の遺産である廃墟を観光地化するような動きもあったりします。やはり、この百年のうちに歯車が狂ってきたのだと思う。片方では電話詐欺で騙されて自殺をする老人も居る程です。

 人間は生きているだけで、世の中の役に立っている。世の中の役に立たない人間なんて、誰一人いないのです。このことについては、また後に書くことにします。

 何となれば、住民税や固定資産税を払っているからだ。

 話を元に戻して、私達は世間から押し付けられる「生き甲斐」なんて持つ必要はありません。

 私達の子供の頃、お前たち少国民の命は天皇陛下のために死ぬことが「生き甲斐」なんだ、と学校の先生は教えました。そんなものに引っかかってはいけない。

 そして、大部分の人間は、世間から押し付けられた「生き甲斐」を後世大事に守っています。その結果、会社人間になり、仕事人間になり、奴隷根性丸出しで生きています。

 あるいは私のように病気になって働けなくなり、それを「人生の危機」だと言っては騒いでいます。おかしいですよ。それは奴隷が遭遇する「生活の危機」でしかないのです。本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられた時なんです。まさにその時、あなたは奴隷になったのであり、それが本当の意味で「危機」だったのです。

 「人間の絆」の中でモームは、「人間の歴史」を知りたいと思った東方のある国王のアネクドートを紹介しています。国王は人間の歴史を書物で読む暇がありません。で、国王は学者にそれを要約するように命じます。

 だが国王は、ある程度政務から離れていたので、それを読む時間はあるのですが、今度は気力がありません。だから学者に、もっと短く要約してくれと命じました。

 また、さらに二十年が経ちました。学者の頭髪は真っ白になっています。杖をつきながら、一冊の書物を携えて学者は宮廷にやって来ました。

 ところが国王は、臨終のベッドにいます。一冊の書物すら読むことが出来ないのです。

 そこで学者は、国王の耳に「人間の歴史」をわずか一行に要約して聞かせました。

 そこのところを引用しておきます。 

 賢者は、人間の歴史を、わずか一行にして申し上げた。人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ。何もない。そして人間の一生もまた。何の役にも立たないのだ。私や彼が生まれてこようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ。

 五百巻に及ぶ「人間の歴史」も、要約すればたった一行になります。

 ──人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ──

 そうだとすれば、人間は苦しむために生まれてきたのであり、死ぬために生まれてきたのです。そうして、それは天皇陛下であろうと総理大臣であろうと、ホームレスであろうと、まったく同じです。人間は誰もが苦しみ、死ぬ。死なない人間はいません。そうすると、みんな平等です。

 そして、人生に意味なんてありません。みんな苦しみ、死ぬ。「人生の意味」や「生き甲斐」なんて、世の中が我々を誑かすために作ったペテンですよ。「人間の絆」の主人公フィリップはそこに気づきました。気づいた途端、彼は楽になります。

 それを知ってはじめて生きる意味の無意味さが、かえって一種の力に変わった。そして今までは、迫害されてばかりいるように思った冷酷さを奪われたも同然だったからだ。

 これを知って、皆が己が開放された気になりました。

 私たちは人生に意味があるかのように思っています。いえ、正確に言えば、思わされているのです。世間が、世の中が、学校教育が、寄ってたかって我々を束縛しているのです。

 しかし、私は全て無意味の「空」であると思っています。

 そういえば、モームの「人間の絆」の原題はたしかに「絆」と言った意味もあります。けれども、普通はこの語は「束縛」「隷属」と訳されるべき言葉です。

 私は「人間の絆」から、「人生は無意味だ」といった大きな真理を教わりました。

 私が店を始めた頃は、まだ、バブルの気の抜けない高度経済成長時代だった。

 ──人間は何のために生きているのか?──といった議論の迷題に入った頃は、二十歳ころだった。私の仲間は、真剣に口角泡を飛ばしたものです。

 でも、一生活者に過ぎない私は、独創的な哲学は持っていませんでした。ニーチェを読んでも、フロイトを読んでも判らなかった。それが種田山頭火の作品を読んだ時に、心の放浪をすることによって得られると思った。それは良寛を読み、一休宗純を読むようになって、この世は空即空や「無」と言った現実を開明することによって、この日本という国の行末を知った。それは、世間という価値基準にありました。しかし、その世の中で誰も自分の独創的な哲学は持っていません。みんな世界の大思想家に依存しています。私はサルトルやエンゲルスを読んでいましたが、真理の謎には、不分明だった。その問に答えてくれたのは、各類の仏教書であった。私は一度は自分で自殺した人間である。そんな中でも、「空」や「無」を知ることによって、この世が全て生きるものが、それ等であることを知った。

 それは、この世に生かされている事の奇知だったのである。あの当時のモームは大衆小説家だったこともあり、それほど芳しくなかったからです。モームの評価は一人の小説家でしかないと思われていた。私がモームを読んだのは主に高校か中学生であったことで、強烈な意図は、感じなかった。モームといえば「受験英語」といった風に受け取られているだけだった。当時の学生はサルトルの哲学とそれほど違ってませんでした。能無しの私はサルトルの「人生は無意味論」に近いそうです。彼は神の存在認めない無神論者ですが、サルトルの主張は、仮に神が存在していて、その神が人間を創ったとしても、神は何らかの目的を持って人間を創ったのではない、ということなんです。たとえば、靴屋が靴を持っています。それと同じように、神が人間を創ったとしても、神の頭の中には何も目的なり用途なりがなかったのだから、人間は自由に生きて良いのです。ましてサルトルは神の存在を認めないのだから、人間は自由に生きて良いのです。人間を束縛するものは何もないのです。それが実在主義の主張です。

 ということは、人生は無意味なんです。誰かがその「意味」を決めるなどしたら、いったい誰が他人の生きる「意味」を決定する権限を持っていますか?戦前の日本だと、天皇陛下が国民の生きる「意味」を決定する権限を持っていますか?それは昭和の大戦まででした。しかし、今でも国粋者の街宣車が時々、大きな声を流して走っていますが、人間の生きる「意味」があるのでしょうか?、私の生きる「意味」が多数決的に決まるかのような風潮が生じました。しかし、それもペテンです。私の生きる「意味」を、私以外の人間が決定する権限を持っているはずがありません。だとすれば、それは「無意味」です。人生の意味なんて、ありっこないのです。

 ところが、実は私からすれば、サルトルはいささか逸脱してしまったのです。

 というのは、サルトルはアンガージュマンといったことを考えました。゛アンガージュマン゛ というフランス語は「契約」あるいは「拘束」といった意味ですが、サルトルはこの言葉を「社会参加」、「政治参加」の意味に使ったのです。勿論、サルトルはサルトルで、それで正しいのです。私はどうも世間が信用できない。世の中が胡散臭くてならない。どんな社会であろうと、理想の社会なんてないのであって、社会参加だなんてどうだっていいと思えてならなかった。それでもモームに引きつけられたのです。

 「人生は無意味」なんだ。

 私は、例の作家たちに、そのように主張し続けました。

 

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