第6話

 路は伴の杢平を上がり框に残すと、一人で曾根の家に上がった。兵六が茶の間に導こうとしたのを制して、自分から奥の客間に参りましょうと言った。兵六の家は狭く、客間は茶の間に続く一間だけである。

 兵六が行燈を持ち、二人は客間に入った。

 「他に人がおらぬので、何のおもてなしも出来ません」

 向かい合って座ると、兵六がそう言った。

 「ご新造とお子は?」

 「妻の実家に」

 「なぜですか」

 「家を明け渡すようにと、藩に言われたもので・・・」

 「数年は帰国出来ぬということでやむを得ません」 

 「兵六どの。これから私が申すことを聞いても驚かれぬようだ」

 兵六は顔を上げた。怪しげに路を見た。

 「上片への出発は明日ですね」

 「はあ、明けの七つ半(午前五時)に発ちます」

 「藩では、始めは減石と蔵屋敷への役替えを決めて、それで済ませるおつもりでした。ところがある向きから苦情が持ち込まれ、処分が変わったのです」

 「ある向きとは?」

 重苦しく兵六が問い返した。

 「瀬田さまのご一族の片からです」

 兵六は小さくほうと呟いた。

 「おそらく、あなた様が無傷で戻られたのを快からず思われたのでしょう。兵六でのには何の落ち度もございませんのに」

 「・・・・・・」

 「納得が行きましたか」

 「多少は、瀬田さまのお気持ちも判らぬではありません」

 兵六の顔が、突然に真っ赤になった。兵六は腕を高くさし上げてうんと伸びをした。そしてその腕をゆっくり下ろすと、ご無礼をいたしましたと詫びた。燃え上がろうとした憤怒を。辛うじて体内に閉じ込めたように見えた。

 兵六は低い声でつづけた。

 「それでは、最早逃れる道はありませんな」

 「藩命とは申せ、あまりに理不尽ななされ片とは思われんですか。私は兵六どのに逃げ延びて頂きたいと思って、こうして訪ねて来たのです」

 「斬り抜けるのです。宇佐甚九郎殿でさえ、斬り抜けてどこぞかに姿を消したではありませんか。私はその為風籟の型を伝えに来ました」

 「風籟の型・・・」

 兵六は眼を見張った。真実驚いた事が顔に出ている。

 「およそ四が三まで来たところで、父はその型を伝えるのを中止したそうですね」

 「ところが父は、亡くなる前に残る四が一を口伝えに私に残しました。兵六殿の事を気遣っていたようです。もしあなた様に、絶体絶命の時が訪れた時に伝えるようにと言い残されました」

 「・・・・・・」

 「残るところは口伝で十分に会得できる筈だと父は申しましたが、そうでしょうか」

 「その通りです」

 兵六がしばらく呆然と路を見つめたが、やがて素早く部屋を出ていった。そして水屋の方で含嗽の声がした。部屋に戻って来ると、兵六は深々と一礼して形を正すと、お願い致しますと言った。

 「では、申し上げますよ」

 「はい」

 「一ノ太刀青眼ヨリ左足ヲ踏ミコミ、右腕ヲ斜メニ打チ下ゲル時、二ノ太刀ハ下ヨリ撥ネテ一ノ太刀ニ合シ、転ジテハ草ニ引キ上グル形ナリ。右足ハ浅ク引キ、左足ハ浅ク踏ミ越シ、ソノトキ二ノ太刀ノ位ハ星宿ニアリ、一ノ太刀ノ位・・・」

 口伝が終わり、刀をつかんだ兵六が庭に降りるのを見届けてから、路は杢平をうながして組屋敷を出た。

 組屋敷や小禄の藩士の家が固まっている町は、灯の色も稀で、暗い塀の内にも外にも虫が鳴いていた。そして河岸の道に出ると、今度は馬洗川のせせらぎの音が高く聞こえてきた。橋を渡っている時、路は不意に眼が涙に潤んでいるのを感じた。全てが終わったのは、長い間心の重荷だった父の遺言と兵六に伝えたという事だけではなかった。父がいて兄の森之助がいて、妹がいた事、曾根兵六が水たまりを飛びそこねて袴を泥だらけにした事。終わったのはそういうものだった。その頃の末次家の屋敷を照らしていた日の光、吹きすぎる風の匂い、そういうものだった。

 「私、兵六さんのお嫁になりたい」

 と妹の節が言った。

 「どうして?」

 「だって、あの人面白いから」

 「だめ。身分が違うでしょ」

 路は叱ったが、路自身も粗忽で、面白い兵六の嫁になりたかったのである。路は十五で、節は十三だった。そういう時は終わった。そして巣を壊されたつばめは、もう来年は来ないだろう。全てが変わったのだった。

 路は杢平が持つ提灯の光を避けて、そっと指で涙を押し拭った。昔を懐かしんで涙ぐむとは不覚なことである。

 「杢平、来年はつばめは来ないでしょうね」

 「へい、今度は来ますまい」

 曾根兵六も、だしぬけに巣を取り上げられたつばめのようだとも思った。

 そうぽつんと言うと、しわの寄った口元を、きゅっと引き締めた。

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つばめ @kounosu01111

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