第3話
やはり路の思惑通り、二人まで討手を出した普請組の方が、消息をつかむのに早かったようである。それとも叔母が言ったようなことはもう家中に知れ渡っていて、自分の耳に入らなかっただけだろうと思いながら、路は胸の動悸がはげしく高ぶるのを感じた。
「無傷の一人こそ・・・兵六どのに違いあるまいと」と、おつねを連れて叔母の家からもどる道すがら、路はやがてその確信に達した。
三人もの、それも家中に名を知られた剣の遣い手が、ただ一人の宇佐甚九郎に敗れた事情は判らなかった。だがその中に無傷の者がいるとするなら、それが曾根兵六であるのは自明の事だと思われて来たのである。そう言っても路のその確信は神がかりといったものではなく、多少の根拠に支えられていた。
曾根兵六がはじめて路の家に現れたのは、兄の森之助がまだ病気知らずに元気だった頃である。兵六は城下の鳥井町にある一刀流の道場で森之助に推められて父の三左衛門に弟子入りして来た。
その頃路の父は、物頭を勤める傍ら、数人の兵法の弟子を取って、末次の家に伝わる無外流を指南していた。道場というものはなく、稽古は土を踏み固めた前庭でしていた。
曾根兵六は色が残黒く丸顔で、狸を思わせる顔をしていた。そして路の見るところ、なかなかの粗忽者だった。ある秋、路と妹の節が庭隅の柿の実を取るのに苦心していると、見かけた兵六が寄ってきて、それがしがもいで進ぜましょうと言った。
兵六は二人が持っている竹竿が、柿を捥ぐのに何の役にも立たないものであることがわかると、二人に刀を預け袴の股立ちをとってするすると木に登っていった。少し小たりの身体に似合わない身軽さだった。兵六は目指す梢から熟れた柿を捥ぎ取ると、また軽々と枝から枝に移りながら降りてきたが、おしまいに女たちにいいところを見せようとしたようである。
猿のように最後の下枝に飛びついて、そのまま地面に飛び降りようとした。その下枝が兵六が飛びつくのを待ち受けたようにぽっきりと折れて、兵六は枝を握ったまま地面に落ちて尻を打ち、路たちの介抱をうけなければ立ち上がれないほどの目にあったのである。古来から、姉の実は、木を切って取れ、と言われていた。介抱しながら路と節は笑いこけたが、あとにも先にもあんんあにはしたくなく笑ったのは初めてだった。
またある年の梅雨の頃、路の家の門と玄関の間の道に、大きな水たまりが出来た。とたんに泥に足を取られ、さしていた傘を片手に尻餅をついた恰好で、兵六が三尺も地面を滑るのを、たまたま壺にいける花菖蒲を切りに出ていた路が目撃した。
立ち上がった兵六は路には気づかず、べっとりと泥に濡れた尻を手で触りながら思案にくれている。その姿を見ながら、路は笑うに笑えず、こみ上げてくる笑いを噛み殺すのに苦労したのであった。
しかし曾根兵六の粗忽は、ごく少数の者がぼんやりと感づいている程度のもので、大方は素朴な風貌に覆われていた。現に路は兵六を極め付きの粗忽者と思っているのに、父や兄はその事に気づいているようには見えなかった。風采も立場も垢抜けているように見えなかった。森之助の友人の中では極めて異色の素朴さは、森之助も三左衛門も、その人柄を珍重した。兵六もまたその優遇に応えて、無外流の稽古で非凡の剣才を示した。
路の父末次三左衛門が、弟子を取って無外流を教える気になった時、胸の中に一つの目論見を持っているのを、後に路は父の口から聞く。三左衛門は家に伝わる無外流の研鑽につとめるうちに、たまたま新しい一つの型を工夫した。そして数年工夫を重ねている内に、やがて新しいその型が不敗の剣であることを確信するに至ったのである。
そのもっとも優れた弟子が、次の末次家を継ぐことになる森之助であれば、それはそれでよいと思っていたのだが、森之助はふとした風邪が元で急死してしまった。
秘伝の型の伝授が行われた頃の緊張した日々を、路は今も思い出すことが出来る。伝授は末次家の奥の間で行われた。深夜激しい気合が立て続けに聞こえ、次の日の未明に、疲れ果てた二人が足運びもおぼつかなく蹌踉と外井戸まで歩き、そこで獣のように地面に這って水を貪り飲むのを路は物陰から目撃している。後で見た奥の間の襖は、斬られてささらのようになっていた。
だが伝授は結局行われなかった。三左衛門が突然に中断したのである。その理由を、三左衛門は自分が病いの床に臥すようになった頃に、初めて路に明かした。曾根兵六は粗忽者だと、三左衛門は言った。秘伝を伝えても、かえって無外流の名を汚すおそれがあるために思いとどまったとも言った。秘伝を伝えるという厳しい所に来て、三左衛門の眼に初めて曾根兵六の中にある奇妙な虚の部分が見えてきたのであったろうか。
その言葉を裏書きするような事件が、三左衛門の死後に起きた。
藩内に抗争があって、一方の重職が失脚した。そして失脚側の派閥の怨嗟の的になった。刺客が放たれるだろうという噂が流れ、裏切った男は家に閉じこもり、警護の者が付けられた。その警護人が曾根兵六だった。
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