第2話

叔母の茂登を訪ねる度に、路はこの叔母が幸せなのか、測りかねるという気持ちになる。

 物頭の家の末娘に生まれた茂登は、一度は良縁を得て同じ二百石の御徒頭石塚家に嫁いだが、一年とたたぬ間に夫の石塚が急死したので実家に戻された。そこで歓迎されない出戻りとして二年余も実家にくすぶった後で、今の夫、守谷喜兵衛に再婚した。

 喜兵衛本人はわずか四十石の普請組勤めだった。

 出来良く育った子供達は、すぐに長女と二人の男女が望まれて、しかるべき家に片付き、長男は算勘の才を認められ、勘定方見習いの名目で藩から江戸遊学を命ぜられて、今は江戸にいる。残る末娘の多加の緑組が決まれば、伯母夫婦は間もなく子育てとのわずらいから全く解き放たれることになる。

 何不自由のない路の家でさえ、母ははやく病死し、また学問も剣もよく出来る兄の森之助が急死して、その跡継ぎの死が父の三左衛門の患いの種になったことを考える。

 路は守谷の家に来るといつも家の狭さと同時に、その狭い家に漂っている人が沢山いた暖かみのようなものを感じ取って心打たれるのだった。その賑やかな暖かみこそ幸せと呼ぶものの実態であり、末次の家から次第に欠けて行ったものであることを路は承知していた。

 一時は歩行もかなわないほどの腰痛で寝込んでいたが、訪ねると叔母はもう起き上がって立働いていた。路は夫に、叔母は床に起き上がるほどになったと告げた時、路は叔母が今見るように元気になっていることを予想していたのである。叔母を見舞いに来た理由は別にあった。

 従妹の多加は、町隣りの寺にある茶の稽古所に行っていて留守だった。連れてきたおつねに命じて茶をいれさせ、路は叔母と二人きりになった。

 「小鯛はまだ高かったでしょうに」

 叔母は路が持ってきた見舞いの魚のことを言い、守谷のような貧乏所帯では小鯛などめったに喰えないと笑った。

 城下には、朝のうちに漁師の女房たちが魚を売りに来る。海辺から二里半の道を、舟から上がったばかりの魚を大急ぎで運んでくるのだ。そのころの龍ケ崎藩の魚市場は新町裏の田圃の所にあった。

 小鯛は季節の魚で、これから梅雨にかけて味は最上のものになる。二人はしばらく、農業の話等をしていた。それから路は本題に入った。

 「叔母さま、その後、上意討ちの旅に行かれた方々の消息を聞かれましたか」

 と路は言った。

 叔母の茂登は、路のその質問を予期していたようだった。それがあなた、と叔母は姪を見返しながら声をひそめた。

 「どうやら不首尾に終わった様子ですよ」

 「不首尾ですって」

 路は仰天した。

 「にげられたのですか」

 領内の山のあちこちにまだ夏雲が残っていた。その年の領内は、天候不順であった。七月は盛夏、お盆過ぎからは、度々の嵐となった。稲も実りの時期に、台風にやられてしまった小作人達の苦悩の色があらわになっていた。龍ケ崎の産物は米しかない。その稲が不作になってしまった。

 川原代等は、小貝川の氾濫で四、五年は田植も出来なくなるほどの痛手を受けてしまった。その一件では、僧俊覚の働きが大きく現れていた。

 その頃、一人の藩士が城下から逐電した。御兵具役の宇佐甚九郎である。宇佐はその夕刻、下城する上役を町の路地に待ち受けて斬り伏せ、家に駆け戻ると、日頃気が合わず口論ばかりしていた妻も刺殺し、そのまま城下から姿を消したのである。斬りつけた上役との仲違いが、この凶行の原因だと思われる。

 宇佐に斬られた上役は、深手を追ったものの命を取りとめた。しかし宇佐は脱藩した上に、行きがけの駄賃とばかり妻を刺殺している。緊急の重職会議のあとで、藩は慣例に従い宇佐に上意討ちの討手を放った。討手に選ばれたのは馬廻り組の瀬田源八郎、普請組の加治彦作、曾根兵六の三人である。曾根兵六は無外流の剣士としても高名だった路の父、末次三左衛門の秘蔵弟子だった。このことは茂登も知っている。

 「逃げられただけならまだよい」

 と茂登は言った。

 「相手に切り込まれて討手側の一人は死に、一人は手傷を追って今一人無傷でいた者の介抱をうけ、ようやく江戸屋敷にたどりついたのだそうです」

 宇佐甚九郎の行方について、藩では心あたりがあった。遠州掛川の城下に、甚九郎の縁者に当たる富裕な商人が住んでいた。甚九郎はそこに立ち寄って資金を整え、その後上片も直行するのではないかという意見が、大目付を加えた重職会議で出された。甚九郎は家督を継いだばかりの頃、数年大阪の藩屋敷に勤めたことがあり、上片の地理にも明るかった。掛川の縁者から暮らしの金を仕入れ、上片に行けば数年一人で暮らして行けると予想していた。

 やはり路の思惑通り、二人まで討手を出した普請組だが、消息をつかむには難しそうだった。

 「亡くなられたのはどなたでしょうか」

 「馬廻りの瀬田さまだという話ですよ。噂だから確かではありませんけれども」

 「怪我をされた片は?」

 「それはまだ聞いていませんね」

 「曾根兵六どのではありませんか」

 叔母は黙って首を振った。判らないという身振りだった。

 路は失望したが、手傷を負ったのが仮に兵六だとしても、その男は江戸屋敷まで戻っていることに思い当たった。曾根兵六はいずれにしろ生きてはいるのだ。無論、無傷の一人である可能性もあると思うと、固くなっていた胸が安堵に緩んだ。路は呼吸が楽になるのを感じた。

 名前を呼ばれて顔を上げると、怪しむように自分を見ている叔母の眼にぶつかった。

 「はい?」

 「川向うの曾根のことを、随分気にかけておいでのようだね」 

 「それは・・・」

 と路は言った。普請組は市中を流れる馬洗川をはさんで二ヶ所に組屋敷があり、曾根の家は川向うにあった。

 「曾根兵六どのは、叔母様もご存じの通り父の秘蔵のお弟子でしたから。それに兄とも大層仲が良かったのです」

 「それだけでしょうね」

 それだけだと路は言った。末次の家と曾根の兵六との間に兵法の上のことで未だに切れない繋がりがあり、その鍵は路が握っているのだが、その真相は叔母に言うべきことではなかった。

 そして叔母も無論、そんなことを疑ったわけではないことは路にはわかっていた。叔母は単純に、路の曾根兵六に対する肩入れが尋常でないことに不審を持ったのだろう。

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