つばめ
@kounosu01111
第1話
「つばめが巣作りをはじめました、と弟が申しております。いかが致しましょうか」
路は天に背を向けたままで言った。長身だが肉の薄い背である。
「あれは追い払ったはずではないか」
「また、戻ってきたそうです」
「場所は同じ所か」
「はい。門の軒下です」
「巣はこわせ」
夫はにべもなく言った。はっきりと不機嫌な声になっていた。夫は袴の紐をしめ終わり、路が差し出した白扇を受け取ると、畳に座っている路を見下ろして念を押した。
「杢平が戻ったら、捨てさせろ」
わかりました、と路は言った。予想した返事だったのでさほど落胆はしなかった。
それでも路は、この時昨日見た二羽のつばめが嬉々として鳴き交わす声が、鋭く頭の中に響き渡ったような気がした。しかし下男の杢平が戻ったらつばめの巣を壊すように言わなければならなかった。
刀を下げ持って玄関に出る途中で、路はまた夫の背に話しかけた。
「昨日お願いしましたけれども、今日は昼過ぎから守谷の叔母を見舞いにやらせて頂きます。おつねを連れて行きます」
「・・・・・・」
「見舞いには小鯛を焼いて持っていこうと思いますが・・・」
「それでよかろう。叔母御の具合はどうだ?」
「床に起き上がれるほどになったそうですから、全快も間近いと思われます」
「わしからもよろしくと伝えてくれ」
「恐れ入ります。そのように申し伝えます」
玄関には二人の婢と娘の百合が見送りに出ていた。夫が門をくぐって姿を消すところまで見届けてから、路は二人の婢に食事を済ませるように言い、百合の手をひいて庭に出た。
路の家は代々物頭を勤め、藩から二百石をいただく家柄なので、屋敷は五百坪ほどもある。屋敷の中は樹木が多く、場所によっては薄暗いほどに枝葉が茂っている。龍ケ崎藩は、その多くを常緑樹の森に囲まれてい、椎や樫の木や、杉、松の木が城の回りを取り囲んでいた。
今は、新葉の季節だった。隣家との塀際に並ぶ杉やさわらの常緑樹を除く他の木々は、多少の遅速は見えるものの大方は一斉に新葉を付け始めたところで、その明るさは眼にまぶしいほどである。ことに前庭から門に行く途中にある欅の大木は、朝の陽を浴びて中空まで柔毛を光らせて立っていた。
二歳になる百合は、突然に走り出して転ぶことがあるので、路は手をひいたままで門まで行った。門の壁に沿って、一列の躑躅の植え込みがあり、躑躅は赤と白の小さなつぼみをつけていた。つぼみを見ながら行くと、昨日杢平に言われて見に来たつばめの巣が見えた。
巣といっても、軒下に見えているのは短い藁しべが混じるほんのわずかの赤茶けた泥の盛り上がりに過ぎない。まだ巣の体をなしていなかった。しかしそれでいて、巣は互いの泥の固まりではなく、そこで何事かが進行しつつある感を濃密に漂わせながら板壁に貼り付いていた。つばめの姿は見えなかった。
「昔はつばめの赤ちゃんが沢山生まれて、それはそれは賑やかだったものだけれど」
路は二歳の子供に話しかけた。一人で今立っているあたりに来て、小つばめが泣き騒ぐ巣を見上げたことを路は思い出していた。
「でも、お父様がいけないとおっしゃるから、仕方ありませんね。つばめの赤ちゃんの巣は捨てましょう」
路が言うと、しっかりと手を握っている百合が、母親を見上げてまだ十分に回らない舌でつばめの赤ちゃんと言った。しかしそれは何かがわかってそう言ったわけではない。つばめの子を見たことがなかった。
百合の興味はすぐに、ふわふわとそばを飛び過ぎた白い蝶に移り、ちょうちょうさんと連呼しながら母の手をひっぱった。意外に強い子供の手の力にひかれて、路は植え込みの間を蝶が飛んでいった隣家との塀境いの方に歩いていった。
つばめがいつ頃から来るようになったのかを路は知らないが、物頭を勤めた亡父の三左衛門をはじめ、末次家の者は誰一人として門のつばめを気にしなかった。したいようにさせていた。
つばめの訪れは季節の風物詩だった。そして長く冷たい冬のあとに来る春が、野山にいっぱい花を咲かせながらまだどこか油断のない寒さを残す頃、つばめの訪れは、少しの曖昧さもなく夏の到来を告げる出来事でもあった。
しかし三左衛門が病死して、御奏者の矢野家から婿入りした路の夫、仲次郎が跡目を継ぐと、つばめの巣は門から取払われた。家の門は城からの使者もくぐれば上役が来ることもある場所である。つばめ等を住まわるべきではないというのが、仲次郎の言い分だった。御奏者という家柄のせいか、それとも三百五十石の上士の家は作法は物頭の家とまた異なるのか、仲次郎はこの種の些末なことに異常に細かく神経神経を遣う人間だった。
無論末次家の新しい当主は仲次郎で、家から婿入りした路の夫、仲次郎が跡目を継ぐと、とりあえずは近習組に出仕しているものの、いずれは三左衛門を名乗って物頭を勤める人である。言うことに従うのは当然であったが、仲次郎がそういい出した時、折柄門のつばめが子を育てていた。路は巣を取り払うのに少なからず心を痛めたのであった。
巣の始末は杢平が一人でした。路は見るに忍びなくて外にも出なかったが、杢平が子の入った巣を門から外し、外に捨てて出て行くまでの間、鳴き交わしながら屋敷の上を飛び回る親つばめの声は、耳を塞ぎたい程に切なく聞こえたのを覚えている。
隣家の杉浦家との境のあたりは、杉の他に朴の木、李、えごの木などが寄り集まって鬱蒼とした木立ちになっている。白い蝶は小暗い木陰に入り込み、やがて姿が見えなくなった。
つばめの事が、まだ心を去らなかった。
『戻って来なければ良かったのに』
と路は思い、巣を取り除かねばならないことを考えて心を痛めた。百合をうながして、路は木立の下を抜けると門に出る道まで戻った。
道に出ると同時に、空につばめの声がした。ふり仰ぐと、二羽のつばめが前後して欅の梢をかすめ、そこから逆さ落としに門の方に飛び去った。三年前に巣を取り壊されたつばめが戻って来ているような、あり得ない考えにとらわれながら、路が思わず見送っていると、折しも杢平が帰ってきた。白髪の杢平は、背に茄子の苗をいれた籠を背負っている。買ってきた苗は、裏庭の菜園にもう出来上がっている畑に植えるのである。
杢平も空をかすめたつばめを見たらしい。首をねじって巣の方を眺めたが、すぐに路に近づいて来て「ただ今戻りました」、と言った。そして声をひそめた。
「旦那さまはいかがおっしゃいましたか」
「やっぱり捨てろということですよ」
「さようですか」
杢平は眼を伏せた。すると眉毛まで白くなっている顔に苦渋の色が浮かんだ。気持ちはわかるが、杢平がそういう顔をすることを許しておくわけにはいかない。
「不平に思ってはなりませんよ、杢平」
「いやはや、もちろん」
杢平はあわてふためき、顔の前でうちわのように大きな手を振った。
「めっそうもございません」
「どうして不平と思いましょうか。爺の面がそのように見えましたら、どうぞお許し願いまする」
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