第83話 僕とボク -13

    一三



「……」


 鳥が鳴く声が聞こえた。天井が見えた。

 つまり、ボクは目を覚ましたのだ。


「……」


 頭が、ぼーっとしていた。

 まだ、夢の中にいるようだった。

 無意識に――自分の唇に指を触れた。


「――っ!」


 その瞬間に、全てを思い出した。

 いや、夢だったから、思い出したとは言わないのかもしれない。

 だけど、思い出した。

 英時がこの病室にやって来ていて。

 ボクは彼に甘え。

 ボクは英時と――キスをした。


「くはぁ!」


 何ていう夢を見ているんだ!

 恥ずかしい。

 恥ずかしすぎて、顔が真っ赤だ。

 地上のお母さんごめんなさい。

 あなたの娘はこんな妄想馬鹿です。


「……………………でも」


 ボクはもう一度、今度は自分の意思で唇に指を触れた。


「……リアルな夢だったな」


 唇の感触とか、まだ残っている気がする。

 あの妄想は、絶対に森さんのせいだ。森さんのあの言葉のせいで、こんな夢を見たんだ。夢の中であんな態度をとったんだ。うん。後で森さんを責めよう。


「……そういえば、ああいうの、何デレっていうのかな? 『ボク』って一人称が甘えたら『私』になる……『ボクデレ』?」


 そう思考した瞬間、ボクはぷっと吹き出してしまった。


「あはは。そんなのないよね」


 ボクは、笑っていた。

 昨日、寝たときは泣いていたのに。

 間違いなかった。

 これは、あの夢のおかげだった。

 英時に会えた。

 それだけで、ボクは決意し直した。


「ボクは……生きる」


 生きてやる。

 どんなに絶望を感じても

 どんなに希望が少なくても

 どんなに怖くても

 生きるためなら、やってやる。

 生きて、必ず会うんだ。

 今度は本当に、会うんだ。


 ボクが大好きな人

 遠山英時に――


 と。

 コンコンというノック音。


「やぁ、大丈夫か?」


 伊南先生が笑顔で病室に入ってきた。

 しかし、ボクのせいだろうか。

 その顔は――少し曇っていた。


「佑香、手術の時間だ」

「はい? 朝からですか? いきなりですね」

「ごめん。急遽決まったんだ。先にちょっと診断するけど……今から台持ってくるから、待っていろ」

「……はい」


 唐突だが、来てしまった。

 これが最後の時かもしれない。

 でも。

 そんなことにはさせない。

 ボクは生きる。

 最後の時なんかには、絶対させない。

 例え誰かがミスをしても、ボクが自分で何とかしてやる。

 気合いで何とかしてやる。

 夢の中でも結局、英時はボクが好きなのかは言ってくれなかった。

 キスをしてくれたけど、言ってくれなかった。

『好きじゃない』の後を言ってくれなかった。

 所詮、あれは夢だ。

 ボクの想像だから、あの言葉の続きがなかったんだ。


 だから、訊くんだ。

 英時に、訊くんだ。

 生きて、訊くんだ。


 ボクのことを、どう思ってくれているの、って。


 そして、伝えるんだ。

 英時に、伝えるんだ。

 生きて、伝えるんだ。


 今度は夢の中じゃなくて

 本当に、伝えるんだ。

 英時のことが大好きです、って。

 だからボクは頑張る。


 頑張って……生きてみせる。


 そして数分後。

 ボクを運ぶ寝台が到着した。

 英語だったために分からなかったが、看護師さんのジェスチャーに従って、そこに横たわった。

 ボクの準備は全て整っている。

 そう思っていた。


 しかし――その時。

 ボクは病室の机の上に、何かがあるのに気がついた。


「STOP!」


 ボクは叫んだ。看護師さんはそれに従ってくれた。でもボクが立ち上がろうと身体を起こすと「NO」と止められた。

 だからボクは、ジェスチャ―でそれを取ってくれ、と頼んで取ってもらった。

 それは――薄っぺらい大学ノート。


「……これは」


 その表紙に書いてある題名。

 それに聞き覚えがあった。

 どこで聞いたのかは、覚えていない。

 ただ。

 その下に書いてある名前の人に、聞いたような気がする。


 その本の題名は『Novel title Boku』。

 作者の名前は『遠山英時』。


 それだけで分かった。

 内容を見なくても、分かった。


 これは、幼い日のボクと英時の約束。

 ボクのために――英時が書いてくれた作品だった。


「……」


 中身が見たかった。

 しかし開こうとしたその矢先に、その本を取り上げられた。


「……っ! 何をするんですか!」


 ボクはその本を取り上げた人――伊南先生に向かって叫んだ。

 先生は静かに首を振った。


「今、見ては駄目だ」

「な、何でですか?」


「作者からの、指示だ」


 先生のその言葉で、一瞬で理解した。

 先生が、その本をここに置いたのだ。今、取り上げる理由が分からないが、それなら、ここにその本がある理由が分かる。


「……」


 一つ、考えついた。

 もしかして今取り上げるのは、ボクに希望を持たせるためではないか、と。

 この本を読みたいと思わせて生きさせるために、英時はこういう指示をしたのではないか。

 それなら、全てが納得出来る。

 ……ありがとう。英時。

 これでまた一つ、生きる理由が増えたよ。


「佑香……」


 突然、先生はボクの名を呼んだ。ボクが少し戸惑いながら先生の呼び掛けに反応する。

 先生はぽつりと、ボクに言葉を落とした。


「奇跡が……起きたんだ」

「……はい?」


 話の内容のあまりの唐突さに、ボクは困惑した。


「奇跡……ですか?」

「あぁ。今朝になってな……」


 しかし、そういう先生の表情は、少し暗かった。


「先生、どうしたんですか? 表情が暗いですよ?」

「あ、あぁすまん。今朝早くに、急患が出たもんでな……」

「寝不足なんですか?」

「……まぁ、そんなところだ。でも手術には影響ないよ」


 大丈夫だ、と先生は頷き、「で、さっきの話の続きなんだが……」と続けた。


「佑香、お前……奇跡ってあると思うか?」

「……」


 奇跡。

 嫌いな言葉だった。

 だけど、今は嫌いじゃない。

 色々あって、嫌いじゃなくなった。

 だから、客観的に見ることが出来た。

 そしてボクが出した、結論は――


「あると思いますよ」

「……っ!」


 先生は驚いたのかどうか分からないが、一瞬言葉を詰まらせた。


「……どうしてだ?」

「だって先生。奇跡って、起こったことがあるから『奇跡』って言葉があるんじゃないですか」


 そう。

 奇跡は、ある。

 奇跡は『奇』妙な『跡』じゃない。

『希』望の『跡』でもない。

『奇跡』って言葉で、一つなんだ。

 ボクと同じだ。


『私』と『ボク』を合わせて『鈴原佑香』だ。

『私』と『ボク』が単独では意味がない。


 だから、奇跡の『奇』が『奇妙』という意味でも関係ない。

 だから、希望の跡って理由付けもいらない。

『奇跡』はそれ自体で『奇跡』という意味を持つのだから。


「……そうか」


 先生は目を閉じて首を縦に動かした。


「お前達は……本当に仲がいいな」

「どういうことですか?」

「俺は、あいつにも同じ質問をしたんだよ。そしたらな……」


 先生は、にこっと笑った。


「同じ答えを返したよ」

「……」


 どうしてだろうか?

 先生の笑顔が、とても悲しい表情に見えたのは、どうしてだろうか?

 ……また、ナーバスになっているんだな。杞憂だ。

 ボクは小さく二、三度首を動かして、軽く手で頬を叩いた。



「先生」


 ボクは――微笑んだ。

 先生に微笑んだのではない。


 未来に――微笑んだのだ。


「行きましょう」


 そして――生きましょう。


 先生は力強く、頷いた。

 ボクも力強く、頷き返した。



 こうしてボクは――手術室へと運ばれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る