第81話 僕とボク -11

    一一



 再び目を覚ました時、ボクは汗でびっしょりだった。


「……」


 覚えていないが、夢を見ていたようだ。

 どんな夢だかは覚えていない。

 しかし、一つだけ覚えていることがある。

 それは、とても怖かったということ。


「起きましたか?」


 突然、ボクの横から機械のような声がした。その声の方を向くと、森さんが椅子に座ってそこにいた。というよりもあったという雰囲気の方が正しかった。

 汗が纏わり着いて気持ち悪いと思いながら軽く手を広げ、ボクは答えた。


「見ての通り」

「そうですか」


 森さんは、淡々と答える。

 周りを見渡すと、すっかり外は赤色になっていた。


「森さん……今、何時ですか?」

「米国時間で午後四時二五分四五秒です」

「……ありがとうございます」


 っていうか、そんな秒単位で答えられても……まぁ、慣れているからいいけど。

 しかし、森さんの答えから一つの事実を認識した。

 あれから一日が経っていた。

 手術を受ける日にちを告げられてから。

 ということは、

 手術は――明日だ。


「佑香さん」


 唐突に森さんはボクの名を呼び、机を指差す。


「食事を取ってください。その間にわたくしがあなたの身体を拭きます」

「……分かりました」


 そんな急がなくてもと思いながら、ボクは言われるがままにした。


「……」

「……」


 食事をしながら肌を拭かれるなんて、何か変な感触だった。その間ずっと森さんはボクに話し掛けず淡々と作業を行っている。ちょっと気まずいので、日本の病院ではいつもやっていたように、森さんに適当に質問した。


「ねぇ、森さん。元気ですか?」

「わたくしは元気です」

「ボク、綺麗ですか?」

「綺麗というより、可愛いです」

「嘘をつかないで下さい」

「嘘じゃないです」


 こういう風に、返答してくれる森さんはいい人だ。どんなに答えにくい質問でも、答えてくれる。

 ただ、一つを除いては。


「森さん。ボク、好きな人に会いたいんですけど……」

「そうですか」

「その人って……伊南先生なんですよ」

「っつ!」


 ボクを拭く手が、止まった。

 彼女に伊南先生関係のことを訊くと、手が止まる。それが森さんのウィークポイントだった。


「あ、でも……それは……」

「あはは。嘘ですよ。ボクが好きな人は、別な人です」

「……そうですか」


 明らかに、ほっ、という声が聞こえた。

 森さんは、伊南先生のことが好きなのだ。それを指摘されると、こんなにも可愛く反応する。こういうのをクーデレというらしい。ちなみにこの言葉も、森さんに教えてもらった。


「からかうのはやめてください」


 森さんの声は、また平坦に戻ってしまった。


「すいません。だって森さん、伊南先生のことになるとこんな風になって可愛いんだもの」

「……いいじゃないですか」

「え?」


 その森さんらしからぬ言葉に驚いて振り向くと、森さんは顔を赤らめて顔を横に向けていた。


「好きな人のことで反応しようが、好きな人に甘えようがいいじゃないですか。我慢なんか出来ませんよ」

「え……?」


 好きな人に甘える……?


「……ってことは、先生の前では……」

「――っ! 失言でした! 忘れてください!」


 森さんは見るからに慌ててボクの身体を一気に拭くと、ボクの食べかけの食事を持って「し、失礼します!」と部屋から高速で出て行ってしまった。


「……」


 ボクは唖然とするしかなかった。

 というか森さん。ボクの背中しか拭いてくれなかった。


「……自分で拭くか」


 森さんが忘れていったタオルを手にし、ボクは自分の身体を拭きながら考えていた。

『好きな人には甘えてもいい』。

 この言葉に、引っ掛かりを――というよりも、魅力を感じていた。


「甘えても……いいのか……?」


 唐突に、英時に甘えている自分の姿が浮かんできた。


「……」


 よだれを垂らしそうになった。

 天国のお父さん、ごめんなさい。

 あなたの娘は、こういう娘です。


「でも……」


 ボクは拭くのを止め、タオルを横に置く。


「でも、甘えるためには……手術を受けなければならないんだよね……」


 手術を受ける。

 それは、もう――明日。


「明日、ボクは手術を受ける……受ける……」


 そう思うと、急に怖くなった。

 突然、イメージが湧いてきて怖くなった。

 胸を開く。ざっくりと。

 麻酔を掛けるから痛くないだろうが、怖い。

 ボクは、自分を抱き締めた。

 これが――ボクという魂が入った人間が、無くなるかもしれない。

 それが、とてつもなく怖くなった。

 抱きしめる腕を強くしてみた。

 感触は、あった。


「……大丈夫。ボクはいる」


 そう呟きながら、ボクはベッド上の布団にくるまった。

 ボクの身体は、震えていた。

 どうした?

 覚悟しただろ?

 生きるために、受けるんだろ?

 分かっている。

 でも。

 震えが止まらない。

 覚悟はしていた。

 生きたいと思っている。

 だけど……怖い。


「怖い……怖いよ……」


 明日が来るのが怖かった。

 ボクは、泣いていたと思う。

 泣きながら、自分の身体の存在を確かめるために、自分の身体を抱いた。

 やがて、あんなにも寝たのにも関わらず眠たくなって、意識が薄れていくのを感じた。

 しかし。

 その薄れゆく意識の中で、ボクが最後に口にした言葉は――「怖い」じゃなかった。

 それは

 たった三文字。


「えいじ……」


 最愛の人の名前だった。

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