第80話 僕とボク -10
一〇
「……って、感動的な別れをしたのが、昔に感じているなあ。実際、結構経ってはいるのだけど」
ボクはそう呟きながら、手足を伸ばして上を向く。
「暇だ……」
ボクは暇を弄んでいた。
アメリカの病室は、ほとんど日本と変わらないように見えた。違ったのは、テレビ放送の中身ぐらいだった。
だけど、その違いは大きかった。
何故ならボクが一番苦手な教科は、英語だったからだ。それ以外は並以上だったが、それだけは駄目だった。
だから他の病室に遊びに行ったり、現地の看護師さんと話したりすることが出来なかった。お母さんはほとんど傍にいてくれたが、アメリカでの仕事を条件にこっちへ来たので時折仕事に行ってしまったし、森さんと先生は何やらボクの手術の準備で忙しいらしく、なかなか会えなかった。
暇だった。
とにかく、暇だった。
だけど。
暇だったから、色々と考えることが多かった。
今のボクが考えていたのは、このことだった。
「……何故ボクは、英時を好きになったんだろう……?」
それが、全ての始まりだった。
最初は、一目惚れだった。
彼は、高嶺の花だった。
男に使うのはおかしいかもしれない。
だけど、彼は正しくそうだった。
ボクは、近付くことさえ許されない感じがした。
でも――何故か。
どこか懐かしい感じがしていた。それは昔に『私』を『ボク』に変えた少年だったからなのだが、しかし、その当時はそんなことは気が付いておらず、無性に彼のことが知りたくなっていた。
そういう意味では、一目惚れとは違うのかもしれない。
だからボクは彼を見始めた。彼と同じ席になった時は、ドキドキして堪らなかったものだ。
でも、席が隣になっただけでは、親しい仲にはなれなかった。
積極的に話そうともしなかったし、話をされることもなかった。
親しい仲になったのは――あの出来事。
電車に落ちた英時を助けようとして、勇気を出して飛び降りた、あの出来事。
あれが、ボクと英時の距離を縮めた、最大の勝因だった。
勝因と言っても、他の誰かに勝った訳ではない。
うじうじしていた自分に勝ったのだ。
そのおかげで、ボクは英時の傍に行くことが出来た。
――だけど。
傍に行った際に、思い出してしまった。
ボクは、病気なのだと。
だから、無理矢理離れようとした。
忘れようとした。
でも、駄目だった。
言葉で突き放しても、彼を追ってしまっていた。
何て身勝手なんだろう。
自分で振っておいて、今更「好きです」はない。
それでも――彼はボクを見捨てなかった。
あんなにひどい言動をして。
あんなにひどい態度を取ったのに。
それでも――彼は微笑んでくれた。
だけど……今も彼は、ボクを見捨てないでくれるだろうか?
恋愛なんて、所詮は一時の感情に過ぎない。少し距離を置いたら冷めるなんてことはよくある。現に彼は、ボクのことを『好きではない』と言っていた。
それでも仕方がない。
ボクは見捨てられるようなことを、してきたのだから。
……だけど。
ボクは彼を、今でも想っている。
彼がボクのことを好きでなくてもいい。
ボクは彼のことが好きだ。
むしろ……そうだ。ボクだって彼のことを『好き』なんかじゃない。
『大好き』だ。
だから彼がボクを好きじゃなくても、諦めない。
絶対に諦めない。
英時を絶対、もう一度好きにさせて見せる。
今度は気持ちを偽らない。
何の心配もいらない。
そんな自分になるために、ボクは手術を受ける。
手術を受けて、生きる。
生きる。
生きてみせる。
「……頑張ろう」
ボクは小さく「押忍」と気合を入れた。
「って、何で英時が好きかを考えていたのに、決意しちゃうんだろうね。こう、何度も何度も」
ボクの中の決意は、こまめに更新しないといけないらしい。
ただ、決意を確認するのは大事だ。
ボクは生きる。
こんな当たり前のこと。
当たり前だからこそ、忘れてしまいがちになる。
だから、覚えていなければならない。
こんなにも単純で。
そして――大切なことを。
そう心の中で言葉の咀嚼をしていると、
「トントン」
「……」
ドアを叩く『声』がした。
「トントン。KnockKnock」
「……先生。日本人でしょ?」
「もう、入っていいか? 大分恥ずかしいんだが……」
「どうぞ」
その開いたドアの向こうにいたのは、声の通り伊南先生。しかし先程まで冗談を言っていたにも関わらず、その表情は、ひどく真剣なものであった。
すると、先生はその表情のまま一言。
「カナディアンハムスター」
「……」
「……」
「……何が言いたいんですか?」
「ごめん……分からない……」
気まずい沈黙が流れた。こういう時には時計の針が進む音が聞こえるものだが、アメリカの時計は空気が読めなかった。
この状態が嫌だったので、ボクは息を短く一つ吐いて先生に言う。
「とりあえず、そこに座ったらどうです?」
「あ、あぁ。そうだな」
そう先生は頷き、ぎこちない動きで椅子に座った。
「先生……お疲れなんですね」
椅子に座った先生は、明らかにぐったりしていた。先の言動も疲れから来ているのだろう。
「文字通り、お疲れ様です」
「ああ」
先生は力なく答えた。
「英語って難しいよな……」
「それは分かります……」
英語だけは、なかなか理解できない。構文とか面倒くさく感じてしまう。構文じゃないのも構文扱いになっているし。
例えば「Not‘A’But‘B’」って構文だったら、「AではなくB」となる。
そのまま和訳しただけじゃん。
「テストで英語だけは平均点を下回っちゃうんですよ」
ボクが笑いながらそう言うと、先生は「そう意味じゃないけどな」と微笑した。
「別に英語が苦手というわけじゃないんだぞ。俺、英検一級持っているくらいだしな」
「え? それって凄いんですか?」
「凄いんですか? って、お前……」
「だって、英語嫌いだからそんなこと知らないんですよ。本当は英語の『英』の字も見たくなかったんです……昔は」
「昔?」
「英時も『英』の字じゃないですか。だから今はむしろ見たいとか……」
「あーはいはい。惚気るなぁ」
呆れられてしまった。惚気ているつもりがなかったのだが、そう言われてハッと気が付き、赤面した。どう見ても惚気だった。
「……惚気てごめんなさい」
「いや、別にいいぞ」
先生はにやにやしていた。
「人の聞くのは楽しいからな」
「……オヤジ」
「おいおい、まだ二〇代後半の俺に向かってそんなこと言うなよ」
「え? 先生、まだ二〇代なの?」
「ギリギリな」
「若い若いとは思っていたけど……でも、嘘でしょ? ボクが幼い頃からずっと担当じゃん」
「あの頃は研修生だったんだよ」
先生は、思い出すように天井を仰ぐ。
「実を言うとな、お前さんがやっかいな病気だったから、俺みたいなペーペーに担当させたんだよ。失敗させても構わないってな」
「……」
「ひどい話だよな。患者を何だと思っていやがるんだってな」
本当に、ひどい話である。
新人なのに、こんなやっかいな病気の娘を押し付けられて……相当苦労しただろうし、苦悩しただろう。先生にとって、ボクは厄介な存在で――
「……その、先生……ごめ――」
「おっと謝るなよ」
先生はボクの心を読んだかのようにそう言った。
「どうせお前、俺がお前を押し付けられたとか思ってるんだろ?」
「ええっ? 違うんですか?」
「違うよ。俺は志願したんだよ。お前の病気がやっかいだったからこそ、逆にペーペーの俺でも担当させてもらえたんだよ。どうせ無理だからってな。責任逃れのためもあったんだろう……あの上司は本当にひどかったな。まあ、だから辞めさせられたんだろうけど。でも……こればかりは感謝する必要があるな。あいつのおかげで、佑香を担当させてもらえることになったんだから」
「でも……何でボクを担当しようと思ったんですか?」
「あぁ、別に語る程じゃないさ」
「……ロリコン?」
「違うって」
先生は苦笑いを浮かべると、ゆっくりと長く、息を吐いた。
「……俺の親父の担当は、お前の親父だったんだよ」
「え……?」
知らなかった。
ということは、幼い頃のボクは、先生のお父さんに会っていたということだ。
どんな顔だっただろうか。覚えていない。
「親父はな……お前の親父を治すのに必死だった」
先生は、淡々と続ける。
「親父は頑張った。お前の親父が心臓病だということを周りにバレないように気遣ったりもした。そんな、人のことを思える親父のことを、俺は尊敬していた」
だが、と先生は顔を顰めた。
「親父は、お前の親父の病気が再発する前だったんだが……死んじまった。結果、俺はの親父は、お前の親父を完治させることが出来なかったんだ」
「……」
だから、覚えていないのか。
ボクがお父さんの死に立ちあった時には、もう違う人だったから。
「だからな……」
先生は顔を上げる。
「俺はお前を治そうと思ったんだよ。親父が出来なかった、『鈴原さんの病気を治すこと』をしてやろうと思ったんだよ」
「だから、ボクを……」
「そう。お前の担当になったんだよ」
先生はそう言うと肩を竦めた。
「だから分かったか? 俺はロリコンじゃないってことが」
「それは分からないです。だって世の中の男性の半分は、ロリコンなんですから」
「そんな世界、潰れちまえ」
先生はそう吐き捨てると、ゆっくりと深い溜め息を一つ吐いた。
「どうしたんですか? 先生。ロリコンがばれてショックを受けているんですか?」
「……佑香」
しかし先生のその声は、とても真剣だった。ボクは咄嗟に調子に乗りすぎて怒られるのかと思って、身体を強張らせる。
先生はボクの目を真っ直ぐ見て、そして――告げる。
「明後日、お前の手術をする予定だ」
あまりにも突然の告知だった。
ボクは戸惑った。
「え? 手術って……?」
「移植手術だ」
先生は当たり前だろというようにそう言うと、椅子から立ち上がった。
「執刀医は俺がやる。助手は森だ。お前のお母さんにも了解を貰っている。今、少し問題があるが……明後日までには何とかする。あの南部訛りのクソ野郎をな」
「……」
ボクは呆然として、先生をただ見ることしか出来なかった。
理解出来ていなかった。
「先生……どういうことですか?」
「まぁ、お前は心配するな」
そう言って、ボクは頭を優しく撫でられた。
「お前は俺が治す。絶対にな」
「……」
先生は、にかっと笑って、自信満々にこう言った。
「俺を信じろ」
「……」
いつも頼もしかった先生だが、その時は――いつもより数倍頼もしく見えた。
「……はい。分かりました。信じます」
「よし。それでいい」
先生は満足そうに頷くとボクに背を向け「そんじゃな」と、ヒラヒラと手を振って部屋から出て行った。
「……しっかし」
部屋の中に一人残されたボクは、眼を瞑りながらポツリと呟いた。
「ついにこの日が来ちゃったか……」
手術は明後日。
今の今まで、実感がなかった。
病が再発したとは言われても、怒鳴れるし泣けるし、こんなに元気に動ける。
だから時々、ボクは病気じゃないんじゃないか、死なないんじゃないかと思ってしまう。
でも、ボクは間違いなく病気だし、このままでは人より早く死んでしまう。故に手術を受けるのだが……。
「……そうか。受けるんだな、手術」
頭で確認しても、やっぱり実感は湧かなかった。
「……」
湧かないまま、いつの間にか、ボクは眠りについてしまった。
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