第49話 僕と懺悔と怒りと白い世界 -03
三
「……その言葉を聞いた瞬間、愕然としたよ」
佑香のお母さんは長い語りで疲れたのか――いや、その時のことを思い出したのだろう、深い溜息をついた。
「だけど幸いなのか分からないが、あの人が衝撃的な事実を告げた直後の検査では、佑香は全くの異常なしの健康体と診断された。そのこと知ったあの人は『そうか。僕の代でこの病気は終わったのかもしれないね。本当に良かった』と微笑んで」
だけどね、と声が沈む。
「その一週間後に夫は、安らかな笑みを浮かべながら死んじゃったよ。そしてあの人の替わりに――莫大な保険金が家にやって来た」
佑香のお母さんの声は悲しそうだった。
言わなかったが、よく判った。
お金よりも、夫の方が何倍も大事だったということが。
そして――とても幸せな家庭だったのだということが。
「だからその後の生活に困ったことはなかった。でも、私は仕事をし始めた。なるべく佑香と一緒にいたかったけど、もしかしてのことを考えてお金を貯めなければならなかった。幼い時に急激に接する機会が少なくなったから、ずっと私のことを恨んでいるだろうね。きっと」
「それは絶対ないです」
僕はきっぱりと言った。
「文化祭の後、佑香の口から聞きました。『いいお母さんだ』って」
「……」
「今のあなたは、過去の佑香のお父さんと同じです。信じていない。いや、信じる自信がない。不安になっているんです」
「……」
「でも胸を張っていいんです。だってあなたは……『いい母親』なんですから」
「……そうか」
佑香のお母さんは首をゆっくり振ると、
「全く、馬鹿だねぇ、私も……」
小さく息を吐いて、僕に向かって微笑んだ。
「ありがとう……話がずれたね。修正するよ」
佑香のお母さんは一つ頷いて続ける。
「私はあまり構ってあげられなかったんだけど、佑香は元気に明るく成長していってね。幼稚園ではクラスの半分、つまり男子ほぼ全員からラブレターを貰っていたよ。まぁ、全部断っていたけどね」
ませているよね、と佑香のお母さんは小さく笑う。
「そんな風に可愛く、大きな事故も起きることなく過ごしていたよ。佑香は小学生になってもたくさん友達が出来てね。もてていたけど、女の子からの人気も高くてね。家によく連れてきていたらしい。まぁ、その時によく散らかしたままにしていたから、よく叱っていたけどね。その頃には私も結構……というかすごい出世していて休日が前よりは取れるようになったから、洋服を買いに行ったり、動物園に行ったりした。とても楽しかったよ。そう――佑香の病気の可能性なんてすっかり忘れる程に」
佑香のお母さんはそこで上を向き、さっきまでの嬉々とした声とは一転して、暗い声で呟いた。
「神様ってのは残酷だってつくづく思うよ。衝撃を大きくするために、高く舞い上げてから……地に落としやがった」
「それって……」
「そうだよ」
佑香のお母さんは顔を歪ませた。
「ある日、学校から連絡があった。突然、佑香が倒れたってね。急いで病院に行って治療した医者の口から出たのは……あの人と同じ、原因不明の心臓病だった。あれだけ、前には見つからなかったのに……」
歯軋りの音が、ここまで聞こえた。
「その日から……佑香の辛い入院生活が始まったんだ」
そう下を向く、佑香のお母さん。その表情は見えなくても、悔しそうにしているのは判った。
「毎日毎日検査があった。まずい病院食も。点滴も注射もした。どれもこれも、病状をこれ以上悪化させないためのもので、佑香の病気は一向に治らなかった。あの人の時も同じ対応だった。この病気が治せるのはもう……心臓移植しかなかったんだ」
治すって言い方はおかしいかもな、と乾いた声で短く笑って、佑香のお母さんは続けた。
「あの人の時はもう時間がなかったけど……この子にはまだ時間がある。まだ生きている。だから私は佑香に、辛いことをさせた。外を走り、友達と遊んでいたあの子を、病室に縛り付けた。何年か、いやもしかしたら何十年も待たなくてはならないかもしれないのに、病室に縛り付けた」
……それは辛い。
でも、この人はもっと辛かったんだろうな。
想像もつかないくらい、苦悩したんだろう。
神様は本当に残酷だと、強く感じた。
「佑香は、段々と元気が無くなっていったよ」
辛そうに言葉を吐きながら頭を抱える、佑香のお母さん。
「段々と眼に力がなくなってね。私ともあんまり話さなくなった。私はどうすることも出来なかった。治療費のために仕事は続けなくちゃいけなかったから、一週間に一、二回しか、起きている時間に病院に行けなかった。本とかを買ってあげることしか出来なかった。その本も、最初は漫画とかだったのに、段々と暗い本を望むようになってきてね。例えば……太宰治とかさ」
「……太宰治?」
何かが引っ掛かり、僕は思わず声に出してしまう。佑香のお母さんは不思議だという表情をしながら、顔を上げる。
「あぁ、そうだよ。『人間失格』だとか『斜陽』だとか、晩年の暗い作品をね。あ、でも一個だけ……『走れメロス』があったなぁ」
「走れメロス……」
太宰治の……『走れメロス』……
何故か……これに引っ掛かりを感じる。
何が引っ掛かって――
「あぁ、そうだ。確かこれだわ」
と、佑香のお母さんは思い出したように手を打った。
「この後、何があったかは知らないけど、『走れメロス』の本を持ちながら佑香は、こう言ったんだ。『私……ボクは頑張って生きるよ。だから我慢して頑張る。お母さん、ボク、頑張るよ』って力強い目で言ったんだよ」
「……っ!」
その言葉の瞬間――身体に電流が走り抜けた様な衝撃を覚えた。
……思い出した。
完全に、思い出した。
僕は彼女に――会っていたのだ。
線路の下じゃない。
教室の中じゃない。
高校生の時じゃない。
もっと幼い頃。
この――病院で。
「……そしてね」
佑香のお母さんは続ける。
「その後の佑香は、必死に辛い治療に耐えていたよ」
佑香のお母さんのその言葉を聞いて、僕は嬉しくなった。
僕との約束を守ろうとしてくれたんだな、と。
そして同時に――腹が立った。
そのことを忘れていた自分に。
「そして――その一年後にね」
佑香のお母さんは嬉しそうな声で僕に視線を向ける。
「『奇跡』が起きて、佑香の心臓病は治っ――」
――と。
そこで佑香のお母さんは、突然、言葉を切った。
不思議に思い、彼女の目線の先を追うと――その理由はすぐに判った。
手術中のランプが――消えていた。
「……っ!」
佑香のお母さんが、座っていた椅子を吹き飛ばさんとする勢いで立ち上がる。それに二・三秒遅れて手術室の扉が開き、医者が一人出てきた。
その医者は、僕には見覚えがあった。
あの遊園地の時の『先生』だった。
「伊南先生! 娘はどうなったんですか!」
佑香のお母さんは震えた声で、先生に訊ねた。
先生は、短く答えた。
「大丈夫です」
その言葉に僕は安堵する。佑香のお母さんは、その場に崩れ落ちるように椅子に座った。
「……良かった。死ななくて、本当に」
「ただ……」
先生は厳しい顔で続ける。
「容態は安定していますが、いつ急変するか分かりません。また、おそらく二、三日は意識が戻らない可能性が高いです」
「先生、それって……」
佑香のお母さんが言わんとしていることは、僕にも判った。
先生はゆっくりと頷いた。
「残念ながら佑香は――あの心臓病が再発しています」
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