フレミング

うにまる

フレミング

 「左利きって偉いよなぁ」

  達也は何の前触れもなくそう呟いた。隣に座っていた美沙希は、お酒のせいでほんのりと赤く染まっている達也の頬に視線を送る。達也は美沙希の左手をぼんやりと見つめていた。日曜日の居酒屋はお祭り騒ぎよろしくわいわいがやがやと盛り上がっていた。カウンター席に並んで座る二人の空間は、まるで祭りばやしにくたびれて、ちょっとひと休み、と石垣に腰を下ろしているような、こじんまりとした静謐に包まれていた。周りは神輿を担いでいる男たちや浴衣を鳴らす女たちで騒がしいのに(もちろんこれは比喩であって、居酒屋に神輿などあるはずもなく、ただのイメージである)、美沙希が達也のか細い声を聞き逃さなかったのは、自分が左利きだったからにほかならなかった。

 「どうして?」

 美沙希は思ったことをそのまま隣の赤い右耳に伝えた。

 「だって、世の中右手が有利すぎだとは思わない? いいかい、僕はふと思ったんだよ、駅の改札を通る時にさ。あれ、切符って必ず右手に持ってないといけないでしょ。僕は右利きだから今まで何の感情も抱かなかったんだけど、こうゆうのはあるときパッと気づくものだよね。そして考えているうちに駅の改札以外にも左利きに不利なことってたくさんあるじゃないかって思ったんだ。でも、右利きとか左利きとかって、自分で決められることじゃないでしょ。ある日勝手に決められてるんだ、あなたは右利きですとか、左利きですとか。これって理不尽だけど、仕方ないことだよね。つまり僕が言いたいのは、左利きって相当偉いと思うんだ」

 達也はかなり酔っている、美沙希はそう読み取った。酔っ払いの独白ほど内容の薄っぺらいものはない。しかし、達也がお酒に弱いことを知っていて飲ませた自分にも責任があるなと美沙希は感じ、無理に話を止めることはできなかった。

 「でも、私はそこまで左利きを苦に感じたことはないわよ? もちろん、改札だって左にも対応していたら嬉しいけど、別に右側だけっていうんだったらそれはそれでかまわないけどなー」

 「そこらへんが偉いんだよなぁ。世の中の理不尽に臆せず、堂々たる面持ちで対抗する姿、かっこいいよなぁ」

 「そこまで大そうなことではないわよ」

 美沙希は思わず笑ってしまう。いつもは自分が達也をからかう立場なのに、今は逆転しているみたいだった。びっくり箱の中身を演じている自分が、小さな箱をプレゼントされているようなそんな感覚。おそらく達也のことだから、その箱の中身にギミックが仕込まれてるわけではないのだろう。でも、だとしたら中身はなんなのか。

 からっぽだったら飲み代はおごってもらおうと頭の中で企てている自分もなんだかおかしかった。

 「それにさ、フレミングだって左利きだ。だから偉い。」

 「フレミングってあのフレミング? 電磁力とかなんとかの? あれってたまたま左手の方が法則を説明しやすかったからであって、フレミングが左利きだって保証はどこにもないよ」

 やっぱり酔っ払いのハチャメチャな語りの一つにすぎなかったのかな、美沙希は期待が外れたことを紛らわすため、、左手の親指、人差し指、中指をそれぞれ別方向に立ててみた。どの指が何を表したのだったか、と考えようと思ったとき、あることに気付いた。試しに指を三本立てている左手を上下に少し動かしてみると、やはりそうだった。達也が酔い眼ながらもずっと視線を送っていたのだ。思えば、左手の話をし始めてからずっとだ。美沙希は左手の指を戻し、箸に持ち替えておもむろに尋ねる。

 「もしさ、私が右利きだったらどっちが偉い?」

 「えっ?」

 「私は左利きなんだけど、もし右利きだったら、右と左どっちが偉いと思う?」

 「それはもちろん右利きだよ。だって右利きは……」

 達也がから揚げを、美沙希はフライドポテトをつまもうとしたが、達也の伸ばした右手のひじが美沙希の左手のひじとぶつかった。

 「やっぱり、逆に座ったほうがよかったよね」

 達也がばつの悪そうな顔をする。もうさっき言いかけたことを続けようとはしなかった。

 「だから私が右利きだったらよかったんじゃないかなって尋ねただけよ」

 もちろんこのセリフは真っ赤な嘘なのだが、美沙希は達也の真意を確認できたことだけで満足だった。

 「美沙希が右利きになることはないよ、そのままで十分だ」

 達也は左手でグラスを持ち上げ、一気にお酒を飲み干す。弱いくせに、かっこうだけつけたがるのは、高校時代からほとんど変わらない。

 「ちなみにね、フレミングは右手の法則もあるのよ。だから、右利きも偉い」

 「え、そうなの? 美沙希はなんでも知ってるなー」

 達也がこのことを知らないはずがないのだ。しかし、達也はあたかも自分が褒められたかのように照れながら、右手の指三本をゆらゆらと揺らしている。

「すみませーん、おかんじょー!」

 美沙希は勢いよく左手を真上にあげた。この格好は何か宣言をするようでもあるな、美沙希はそう思わずにはいられない。今後、絶対に、会社の愚痴を達也に聞いてもらうなんてことはしない、そう心の中でからかい誓ったのは美沙希だけの秘密だ。

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フレミング うにまる @ryu_no_ko47

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