第2話 アカル姫と八咫鴉

 太陽は天上から水面に浮かぶ小さな船へと、眩しい光をふりそそいでいた。

 海は幸い凪いでいる。この天気なら無事に和國へといけるかもしれない。しかし、小さな櫂一つではたいして前へと進まない。それに船に乗っているのはパムとソシモリ二人。それも子どもである。ソシモリがいくら力があるとはいえ、どこまで遠くにあるのかもしれない和國まで、子ども二人で漕いでいくのだろうか。いや、だいたいこのソシモリという男は自分で漕がないかもしれない。となると自分一人で漕ぐことになるのか

 ソシモリとともに船に乗ってしまったあとで、ぐるぐると頭の中で考えがめぐる。


「ソシモリ、ちょっと聞きたいんだけど、この船、どうやって和國まで漕いでいくのさ」 


「うるさい」と、一言でパムの質問をさえぎると、ソシモリはふたたび指笛を吹いた。

 なんのための指笛だろうと見ていると、間もなく水面の一部が泡立ち、白いしぶきが近づいてきた。そして、何かがひょいと水面に顔を出した。

 鰐鮫わにざめだ。

 クリクリとした丸い目で、こちらを見ている。人を襲うだろうサメであるのになぜか親しみを感じる表情である。


「ソシモリ様、おひさしぶりっすねー。なんかようすか?」 


 鰐鮫はこちらがずっこけるほど軽い調子でソシモリに話しかけた。


 サメが喋っている! 

 

 ソシモリはそんなことは一向に気にしなかった。


「ワニ、オレ様は今猛烈に急いでいるんだ。あのクソ女の船を、追いやがれ!」


 ソシモリは鰐鮫に対しても上から目線で命令を下す。

 サメは「はいなー」と軽く返事をすると、ソシモリから縄を受け取り、それを口に挟んで船を引っ張り出した。要領を得たものである。サメは水の上を滑るように泳技、ひっぱられる船も気持ちいいほどぐんぐんと進んで行く。パムは今まで櫂で漕ぐことしか知らなかったが、こんな方法があったとは、目から鱗っていうやつである。


 それにしても、この少年は一体なんなんだろう。


 昔から不思議だったのだが、今こうして顔をあわせると、あらためて不思議な少年だと思う。

 自分の知っているソシモリというのは、子どものくせにタチの悪い盗賊だ、ということだった。

 ソシモリのやらかした伝説は山ほどある。

 ソシモリは山に住んでいるのだが、その山の縄張りに入ってきた人間はまず、追い剥ぎにあう。身ぐるみ剥がれて裸で山を降りてくる旅人は数知れず。

 道でソシモリとすれ違い、通りがかりに目があったといっては、連れていた牛を持っていかれる。

 腹が減ったといっては、田んぼで働く人が置いていた弁当を食う。

 つい最近の大きな盗みは、この金海の一角に住みついた騎馬族の長の天幕に入りこみ、トクサノカンダカラとかいう宝を盗んでいったということだった。


 村では有名なヤツだから、そこまではよく聞いて知っていた。


 そのソシモリが今目の前に立っているのだ。

 パムはソシモリの牛のようなツノをマジマジと見つめた。本当にツノが生えているらしい。触ってたしかめたいが、怒られそうなのでやめる。

 

 このとても重たくて引きずるのもやっとな船を軽々と持ちあげていたこともそうだし、それに狼や、鰐鮫までも指笛ひとつで呼び、そして鰐鮫に至っては言葉をかわしているなんて、人間業とは思えないことばかりだ。

 こんなヤツと一緒に船に乗っている。

 パムはふと不安がよぎった。


……勢いで来てしまったけど、大丈夫か?


 鰐鮫の曳く船は、みるみるうちに赤い服の少女の船へと近づいて行く。

 あまりの速さに、どうやら少女は焦っているようだった。船上で少女が「早くなんとかしなさいよ! グズね、あんた!」と黒い衣の男に罵声を浴びせているさまが、もう手でさわれそうな距離で繰り広げられているのだ。


「きゃー! もう来ちゃったじゃないの! どうするのよ、八咫鴉からす!」

「いやはや、鰐鮫とは斬新な船ですな」

「感心してる場合じゃないわ!」


 少女は眉毛の上でまっすぐに切りそろえられた髪を振り乱して、黒い衣の男に怒鳴る。見たことのない異国の真っ赤な衣を身にまとい、胸にはおたまじゃくしのような青い玉を連ねた首飾りをつけていた。彼女が怒るたびに、後ろ髪に縛った烏の濡れ羽色の黒髪がぴょんぴょんと跳ねる。綺麗できちんとした、高貴な身なりをしているのに、なぜか不似合いな、うすよごれた麻の袋を背中に背負っている。

 

「もう逃げられねえぜ、クソ女。さっさとスサノオの居所を、教えやがれ」

「あんたなんかに死んでも教えるもんですか」


 やはり、この少女がスサノオのことを知っているらしい。

 少女は背負っていた麻の袋を開けると、何やらこれまた薄汚い青い比礼を取り出した。


「アカル姫、まだ修行中の身でございます。無理をなさいますと体に差し支えますから、おやめください」

「うるさい、八咫鴉」


 八咫鴉と呼ばれた黒い衣の男が青い布を取り上げようとするが、少女はかまわずに比礼を降った。


「ひのふのみのよななむここのつよは開けず。海のひろきに身をゆだね、海のみちるを知らぬ間に。海よ、大いなる綿津見の神よ、いざ海を開かん」

 

 何やら呪文を唱え出した。

 その呪文が和語だと気付いたのは、しばらく後のことである。

 少女は呪文を口の中でゴニョゴニョと唱え、最後に青い比礼をえいとばかりに振り上げた。


 しばらくの間、波が泡立ちながら、チャプチャプと船の弦を叩く音だけが聞こえていた。そして不意に、


 ぽんっ


 と船の間の波が魚のように跳ね上がり、ぽちゃんと落ちた。

 

「……ソシモリさま?」


 沈黙に耐えきれなくなったサメが、ソシモリに小声で声をかけた。


「あの、何かあったのでしょうか?」

「さあな。知らん」

「何か、『やーっ素晴らしいですなあ!』とか『いやいやこれは見事な腕前』などと驚いて差し上げた方がよいのでしょうか?」

「ほっとけ」


 八咫鴉が、こちらに聞こえぬように叱咤する声がする。


「アカル姫、ほれ言ってたではありませぬか。なんですか、あのポチャンは。ですから、無駄なことはやめてくださいまし。無駄な体力を使うばかりですぞ。もう私めが船をひっぱりますから、それでなんとか和國までゆきましょうぞ」


 聞こえぬように、のつもりだろうが、パムたちには丸聞こえであった。

 何しろ、目と鼻の先にいるのである。

 八咫鴉は、羽織っている長い装束を体に巻きつけると、クルンッとひとつトンボ返りをした。と思うと、あっと思う間に普通のカラスへと変化した。

 いや、普通ではない。

 

 足が三本あるカラスであった。


 その三本足が青い比礼を掴み、その端をアカル姫が掴む。カラスは重そうに船を引っ張り出した。


「八咫烏、急げ」

「姫、もう少し痩せてください」

「むっ。こんのアホ鴉。後で羽をむしり取ってやるんだから、覚えてらっしゃい」


 小さなカラスの力では船はなかなか進まない。

 ソシモリは大笑いして、鰐鮫にあの船にこのままぶつかるように指示を出した。


「ほいな」

 

 こちらは気持ちのいいように進んでいく。ほおに風を受けてカラスの曳く船へとみるみる近づいていく。


「ぶち当たれ!」


 ソシモリの掛け声とともに、船は突進していく。


 その時。


 ゴゴゴと海が大きな音を響かせはじめた。


 今まで凪いでいた水面に大きな波がたち、船に乗っていたものはみな、船底に転がった。ソシモリもパムも倒れた。向こうの船でもアカル姫が転んでいる様子。

 パムは弦に捕まり、船の縁から顔を出してあたりを伺うが、今まで味わったことのない波が海に広がっていた。

 大きな聞いたことのない低い、地鳴りのような音が響きつづける。


「もしかして……」


 アカル姫はそう呟くと立ち上がり、青い比礼を天に向かって構えた。カラスは掴んでいた比礼を離し、宙で羽ばたいていた。

 ソシモリは揺れる船の中立ち上がり、アカル姫の船を見据える。


「ワニ、もう一度行け! ぶっ壊せ!」


 アカル姫はこちらを見て青い比礼を左から右へと振り、


「海よ、大いなる綿津見の神よ、いざ海を開かん」


と叫んだ。


 刹那。

 

 アカルの振ったただの青い布切れが閃光を放ち、周囲が暗くなった。




ゴゴゴゴゴゴ……




 という海鳴りがさらに大きく響き、そしてさらに波が大きく立つ。パムは揺れる船に必死で捕まった。

 ソシモリもさすがにあまりの揺れに立っていられなくなってしまった。

 波が振動によって細かく上下に跳ねる中、鰐鮫はただ、言われるがまま前へと進んだ。  


 アカルの船にぶつかる!


 その時、海が割れた。

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