和國大乱

てらっち

第1話 駕洛國(からこく)の金海(キメ)より

 凜と天に向かって伸びている、芽吹いたばかりの稲の葉が風に揺れていた。

 見渡す限り広がる稲が波のように揺れるさまを見ていると、まるで海のように感じることがある。西の果てから東のじいちゃんが住んでいる洛東江ナクトンガンのあたりまで、稲の上を風がザザーッと吹きすぎていくさまは、見ていて爽快だった。


 青い稲穂の海の間を、パムは全力で走っていた。

 後ろを振り向きながら、とにかく全力で走る。足元に田んぼからカエルやバッタが飛び出してくる。いつもならカエルを見つけると、捕まえては、皮をひっぺがしたり、土に埋めたりして遊ぶのだが、そんな余裕はない。


 まっすぐ。


 前に立ちはだかる大きな岩に向かって、これ以上早く走れないと思われる速さで走った。


 捕まってはいけない。


 岩場に着くと、すぐに一艘の小さな船を引きずり出そうと岩陰にもぐりこんだ。この奥にあるのがいつも漁に行くときに使っている船だ。

 じいちゃんが丸太をくり抜いて作った船。


「じいちゃんはな、これと同じ丸太船に乗って、海の向こうからこの村へとやってきたんじゃ」


 毎朝漁に出るために、この船をひきずりだすのだが、船を見るたびに頭に浮かんでくる言葉だった。小さい頃からじいちゃんの家に行くと、必ず聞かされてきた話で、じいちゃんがいつどうやってこの村に来て、ばあちゃんに出会ったのかまで丸暗記してしまっている。

 話はだいたいこうである。


 わしはな、暑い夏の日に和國わこくという国から海へと漕ぎ出した。それはそれは大冒険で、サメと戦ったり、タコと戦ったり大変な目に遭ったんじゃ。それが途中嵐にあって難破してな、気がつくとこの浜へと着いていた。とうとう海の向こうの国へと来たんだとその時は嬉しかったなあ。そこで美しい女性が自分を見つけてくれて、介抱してくれた。

 その美しかった女性が、信じられないがおばあちゃんだという。

 じいちゃんは海の向こうから、無鉄砲にも勢いだけで海へと漕ぎ出し、この駕洛からへとたどり着いたのだ。言葉もわからずに結婚したというのだから、おばあちゃんも物好きだといつも思っていた。


 パムはこんなことを考えている場合ではないと首を横に振った。


 岩場の陰から船を引きずり出そうとするが、今日はやたらと重くてなかなかでてこないのだ。昨夜の雨でも溜まっているのか、それとも焦っているからか、今日はとても重く感じる。じいちゃんでも来て一緒に引きずり出してくれればいいけれど、今はそんなことは言っていられない。引きずり出してくれる大人など期待してはいけない。

 

 自分は独り立ちするのだ。


 早くこの村を出てしまおう。


 汗びっしょりになりながら砂浜にやっとのことで船を引きずり出し、櫂を中に放りこむ。顔をあげると、穏やかに揺れる波がキラキラと陽の光を浴びて反射している。思わず目を細める。

 この海の向こうに、じいちゃんが住んでいた和國があるのだ。

 一度唾をごくりと飲み込んだ。


 ちょっと待て。

 果たして本当にそんな国に行けるのか?

 いやいや、その前に和國なんて、本当にあるの?


 海を眺めてしばし佇む。

 と、突然高い波が足元まで打ち寄せた。

 パムは飛び上がって驚くと、


「いやあ、今日のところは波も荒いからな、これは神様が、今日は行くのをやめろと言っているに違いない」


 とひとりつぶやいて、ま、今日のところは海へ出るのを止めよう……と後ろを振り向いた、そのときである。


「ゴウッ!」


という力強い音が、岩に反響して浜に響いた。

 波の音かと思ったが、違う。

 海に似つかわしくない音に肩をすくめ、どこから聞こえるのか、亀ように首を引っ込めたまま目を巡らす。

 もう一度「ゴウッ」という音が岩場に響くと同時に、パムは何かに押し倒されて砂浜に突っ込んだ。


「ブワっ!」


 顔中砂まみれになり、急いで砂から顔を上げて、砂をはたく。

 砂が入らないように顔を振りながら目を開けると、目の前には……


 なんと大きな狼がいた。


 獣臭い息が顔にかかるほど、狼が目の前にいる。狼が大きな口を開けると、


「ゴウッ」


と吼えた。神魚山シノサンに住むという狼だろうか? 白く鋭く尖った牙が今にもパムに喰らいつきそうである。「ひっ」と声をあげ逃げようとしたパムの背中にずっしりと重い狼の前足が乗ってきた。

 なんとか首だけ振り向いて狼を見た。途端に狼の赤い口から垂れたよだれが、パムの左目にたらりと落ちてきた。ぬぐいたいのだが、重たい足に押さえつけられて動けない。

 よだれでよく見えない左目はあてにせず、首を反対に向け右目で狼を見る。

 日は天高く昇っていた。

 狼を見上げるが、太陽が眩しくて目を細める。真上からの日の光に堅そうな毛並みを光らせたその背には、どうやら何かが乗っているように思える。

 それをさらによく見ようとさらに目を細めると、狼の背に乗っていた影がみるみるうちに大きくなり……パムの顔にぶつかった。


「グエッ! なっ、なにすんだよ!」


 狼の上から飛び降りてきたその影は、パムにぶつかるなり「てめえ、船を出せ」とパムの首根っこを掴んで締めあげ、脅してきた。


「早くしねえとどうなるかわかってんだろうなぁ?」

「な、なに?」

「これはてめえの船だろ。船を出せ。早く!」


 しゃがれた声で怒鳴りつけるからどんな恐ろしいおっさんかと思ったら、まだ少年である。パムは自分より幼いと思って睨みつけた。が、「あっ」と思わず声をあげる。

 頭にツノが二本生えているのだ。

 ツノのある少年といえばこの辺りでは有名ないわくつきの少年である。そして……。

 パムにとっても、心に刻まれた深い傷とつながる少年であった。


「そ、ソシモ……リ」


 ソシモリ。


 この辺りの言葉で、「牛の頭」という意味である。

 本名は誰も知らない。

 なぜならこいつの母親は、幼い時に死んでしまったので、本人もその時呼ばれていた名前を知らないのだと、だいぶ前にパムの母が言った。

 だから、周りの人間が言う「ソシモリ」がこいつの名前として通っているのだ。

 その名の通り、この少年の頭には、2本の牛のようなツノがある。パムも小さな頃から、ソシモリには近づくなと強く言われて育ってきた。言われなくてもなるべくそばに寄りたくはない理由もあるのだが……。


 そのソシモリが今、目の前にいる。


 正直、狼より、そのソシモリが目の前にいるという恐怖の方が強かった。


 ソシモリはパムの襟ぐりを掴むと、狼の前足の下敷きになっているパムの体を引きずり出し、さらに凄む。体は小さいのに、異常な力だ。さらにその凄んだ目の迫力は人に恐怖心を植えつける力があった。


 ソシモリは海の方へと親指を差した。


 海は岩だらけだった。

 大きくそそり立つ岩と、小さく散らばった岩が点在している。

 よだれのついた左目を袖で拭き、その指差す方を見ると、遠くに小さな船影が見えた。小さな船にかすかだが白い服の少女が乗っているのが見える。その横で、せわしなく櫂を動かす黒い衣の男もおり、少女に何か言われながら船を沖へと漕ぎだそうとしていた。


「早くしやがれ! あのクソ女が逃げちまうじゃねえか! 船を出せ!」


 何事が起こっているのかはわからないが、どうやらパムの船を欲しがっている。わけもわからないから、パムが答えあぐねていると、その時。


「うちの子に近づくんじゃない」


 パムのじいちゃんが、ゼエゼエと息を吐きながら、手に木切れを持ってソシモリに向けていた。その手は震えている。

 どうやら家を飛び出したパムを追いかけてきたのだ。

 体力もないのにずっと走ってきたのだろう。息も絶え絶えなパムのじいちゃんが浜に立ち、力の無い声を張り上げ、ソシモリに向かって手にした木切れを振りまわしている。全く迫力はない。かるくつつけばすぐに倒れそうである。

 ソシモリの後ろに控えていた狼が立ち上がり、じいちゃんに向かってゴウと一声吼えると、じいちゃんは「ひゃっ」と砂の中に尻もちをついた。飛びかかろうとする狼をソシモリは右手一つで制する。狼はおとなしい仔犬のように、不服な顔をしながらもその場にまた伏せた。


「ジジイに用はねえんだ。引っ込んでろ」


 ソシモリはよたよたと木切れを持ち、また立ち上がろうとするじいちゃんを鼻で笑ってつついた。じいちゃんはまた転ぶ。


「じいちゃん……!」


 パムはじいちゃんに駆け寄りたかったが、ソシモリに襟を掴まれたままで一歩も動けなかった。

 じいちゃんは、自分を心配して来てくれた……。もう漁はしたくないと家を出てきたのに、ここまで走ってきてくれたのである。

 そう思っただけで涙が溢れてくる。


 ここ数日、じいちゃんには迷惑をかけてしまっていた。


 パムが家出を決意したのも、3日前のことである。


 パムは毎朝漁に出ていた。

 毎朝毎朝毎朝毎朝、漁に出ていた。

 両親と、7人の兄弟という家族を養うため、漁に出ていたのである。

 

 前はまだ良かった。


 父親が一緒に漁に出ていたのだ。幼い頃から父親に連れられて漁に出、そしてたくさんの魚を獲って帰って来ていた。父は厳しかったけれど、その時はとても楽しかったし、自分が魚を獲ってきたことも誇らしかった。


 しかし、今は辛いだけだ。


 パムが一人で漁に出られるようになると、父親は一緒に行くことはなくなり、そして家で酒びたりの日々になってしまったのだ。

 父はある日突然変わってしまった。

 酒に溺れ、暴力を振るうだけの、存在になってしまった。 

 それじゃあ他の兄弟は漁に出ないのかといえば……そう、出ないのだ。

 すぐ下の弟は病弱でずっと寝たきり。その下の弟は引きこもり気味で、海に出しても気分を悪くして吐くばかりで仕事にならず、最近は磯で貝を捕るばかりになってしまった。その下の弟はといえば、まだ小さくて問題外である。

 後はみんな女ということで漁には出ない。

 

 自分だけ、なんでこんな辛い目にあうのだろう?


 ここ数日、じいちゃんの家にしばらく逃げ込んで、隠れさせてもらっていたのだ。でもじいちゃんとも喧嘩をして家を飛び出した。

 そして家を飛び出して海へ来たら、こんな目に遭っている。


……やっぱり運がないんだなあ。

 

 体はパムより頭一つくらい小さいのに、とんでもない力で襟を締め上げ、そしてまっすぐ上に伸ばした腕の上で、パムを全く抵抗させない。

 じいちゃんは「イタタタタ」と腰を抑えながら、それでもまた起き上がろうとしていた。


「じいちゃん!」

「パム。そいつに船をくれてやろう」


 じいちゃんは和語で話し始めた。パムも和語で返す。


「でも、じいちゃん、コレ大事なフネ……」

「こいつはまともな人間じゃあないことは知ってるじゃろ。わしももう10年若ければこんな小僧一ひねりじゃが、まあしょうがない。パム、このチンケな船くらいそいつにくれてやれ」

「う……」

「こんな丸太船なぞ、またわしが作ってやるわ。お前がもし海の向こうに行きたいときには、わしがもっと大きな船を作ってやるわ。」


 ソシモリは怪訝な顔をして二人を眺めた。


「てめえら、何を話してるんだ?」

「何って?」

「何を二人でこそこそと話してるんだ!」

 話していると、さらに首を締めつけてくる。パムは顔を赤くし、ソシモリの襟を掴む手を叩き、抵抗しながら、なんとか言葉を発した。


「まず、この手をはな……してくれ……」


 ソシモリはパッと手を離したため、突然自由の身になったパムはそのまま浜に倒れこんだ。倒れたままむせ返る。


「てめえら、何を話していやがったんだ」

「何って、ソシモリに船をくれてやれってじいちゃんが言うから……」

「違う。なんだ、その言葉」

「? ああ、僕が話していたのは和語。じいちゃんが和國の人だから、教えられて覚えたんだよ」

「わ? ご?」

「和國って知らない? この海を隔てたとおーい向こうにあるんだって」


 ソシモリはじっとパムを見つめていた。


「和……」

「じいちゃんはそこからきた人間なんだ。だから、和語を話せる。ぼくはその言葉を教わって育ったから、ぼくも少しだけど話せる。だってじいちゃん、和語でしか話してくれないからさ」


 ソシモリは横で木切れを杖代わりにしてもたれかかっているじいちゃんを見た。


「ジジイ、スサノオを、知っているか」


 ソシモリはじいちゃんに向かって話しかけた。

 じいちゃんは眉間にしわを寄せた。


 パムは「スサノオ」の言葉に顔を暗くした。

 この言葉をどこかで聞いたことがある。


……いつ、どこでだっただろう。


「その名を聞いたことはある。だが、金海きめに来た後に噂で聞いたくらいじゃ。今は和國の王だと言う話じゃな」


 じいちゃんが和語で返したので、ソシモリは「何を言ってるのかさっぱりわからん」、といった。じいちゃんは駕洛語を聞くことはできるが、なぜか話すことはしないのだ。

 パムが、


「その人、今は和國の王だって聞いたことがあるって」


 と説明した。

 ソシモリは、しばらくパムの顔を見て考えていた。


「漁師、船を出せ」


 ソシモリが横で暗い顔をしているパムを見た。パムはソシモリの視線を受けると、そのまま背を向けた。


「持っていけよ。じいちゃんにまた作ってもらうからさ……」


 ソシモリは背を向けて歩き出したパムの首根っこを掴むと、船の中に放り込んだ。


「な、何すんのさ」


 ソシモリはとても子どもとは思えない馬鹿力で浜の船を押し出した。中にはしかもパムが乗っているのである。


「お前も行くぞ」

「は?」

「和に行く」

「なんだって?」

「何を言うんじゃ、船はいくらでもくれてやるわ! パムは、パムは、連れて行くな!」


 じいちゃんは和語で叫んでいた。当然ソシモリにその言葉は届かなかった。いや、もし駕洛語を話していても、ソシモリは聞く耳を持たなかったかもしれない。


「あの女、スサノオを知ってやがんだ。オレ様は……スサノオを見つけ出して、ぶっ殺す」


 パムは身体中から血の気が引くような気がした。

 昔の思い出が突然頭の中を駆けめぐったのだ。


……スサノオは、あの時の!


 ソシモリは、薄汚れた服にすがりつき、孫を守ろうと必死なじいちゃんを振り払い、何事もないかのように平然と船を持ち上げ、海へ向かって歩き始めた。


「パーム!」


 海の上には小さな岩が点々と散らばっている。その合間を縫うように赤い服の少女の船が進んでいた。少女は船を持って海へと向かうソシモリを見つけたらしい。こちらから見ていても、何やら騒いでいるのがわかる。黒装束の男に向かって何かを叫んでいる。

 ソシモリは船を両手で掴むと、じりじりと持ち上げる。そして海に向かって、船を放り投げた。

 そして、おとなしくそばについて歩いていた狼を愛おしそうに呼ぶと、頭を優しく撫でた。狼はソシモリに頭を撫でられるがまま、じっと頭を差し出している。

 それが済むと、ソシモリは指笛を吹いた。


 船に縄を引っ掛けると、自分も船に乗り込む。パムはどうしていいのか困ったまま、船に乗っていた。もう船は海の上に浮いている。じいちゃんを見る。

 じいちゃんは帰って来い、はやくそこから逃げろと騒いでいる。

 後ろを振り向き、海を見た。

 海は、いつものように美しかった。

 陽の光に照らされてキラキラと輝き、遠くどこまでも続く海。岩にぶつかる波がしぶきを上げ、その上を海鵜が飛んでいた。


 その岩のちょっと向こうまでが、いつもの漁場であった。

 毎日父親とともに漁に出、魚を獲り、貝を採り、海藻を採っていた。母親と、7人もの兄弟のために毎日出ていた海だ。

 その向こうにあるものは、まだ知らない。

 じいちゃんがポツリポツリと「昔、海の向こうでな……」と語り始めるときに、少しだけ海の向こうの物語を知ることができた海。

 

 どうせ旅立とうとしていたのである。こうなりゃあ、行ってやろうじゃないの。パムは一人うなずくと、じいちゃんの方を向いた。


 パムは今旅立とうとしていた。


 少しずつ離れて行く陸地では、じいちゃんが大声で何事か叫び、その横でソシモリとの別れを惜しむように狼が遠吠えをしているのが見えた。


 不思議と、ここから逃げようとは思わなかった。このまま行ってしまおう。

 あの家と別れて、自分がどこまでいけるのか、試してみるのも面白いかもしれない。


 ただ。


 パムの人生が和國の戦乱に巻き込まれ、壮絶なものになることなど、この時は思いもよらなかったのだった。


 

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