fantasia
リュートの一家がピアノタウンを出てから八年が過ぎました。
町は変わらずに閉鎖的なままでしたが、人々の繋がりはあれ以来どこかぎこちないものになっていました。
もし病気にかかったら、もし怪我をしたら、ピアノが弾けなくなった途端にあの一家のような目に遭うのではないだろうか……そんな不安が誰しもの胸に息づき、どれだけ親しく付き合っていても心から他人を信頼することが出来なくなってしまっていました。
そして実際、誰かを貶めることで優越感と安心感を得ていた人々は、次々と新しい対象を探しては互いの心や生活を傷つけていったのです。
ニーナの家も、苦しい想いをしていました。
ニーナはあの日以降、家でピアノを弾くことを拒み毎日のように外へと飛び出してしまうようになりました。
演奏会にも全く参加せず、まれに人に聴かせることがあっても小さい頃のような活き活きとした演奏は影をひそめてしまいました。
そんな彼女に町の人々は当然失望の色を隠しません。
残されたたった一人の希望が失われ、彼女のことや両親をひどく非難する者もいれば、リュート一家を追い出したことが彼女を変えてしまったのだと今更ながらに嘆く者もいました。
町中が殺伐とした空気を漂わせ、もはや何処から流れてくるピアノの音色もまるで美しくありませんでした。
そんな折、珍しく来訪者の噂が流れました。
莫大な富を築き上げた実業家が町を観光しにくるという噂は、にわかに人々に活気をもたらします。
今やピアノタウンとは名ばかりで、良い演奏者がいなければ良いピアノ職人も調律師も生まれず、町の財源は枯渇していました。
今度来る実業家にこの町の素晴らしさを見せることができれば、もしかしたらここで暮らしたいと思うかもしれないと考えました。そうなれば町のさらなる発展のために投資してもらえる可能性があります。
そして来訪の日、町は精いっぱい美しく磨かれ、その外れで有力者や住民が媚びた笑みを浮かべて実業家の高級車を出迎えました。
正装姿の運転手が後部座席のドアを開けると、立派な装いに身を包んだ中年の夫婦が優雅に現れます。
早速走り寄って機嫌を取ろうとした町の有力者達でしたが、夫婦の顔をまじまじと見つめると凍りつきました。
その男性は口髭を生やしてはいるものの、紛れもなく八年前に町から追いやったリュートの父親ジェイクでした。
エレガントな衣装を見事に着こなしている女性も、間違いなく彼の妻アリアです。
二人は十日後の演奏会を楽しみにしているとだけ言い残して、予約していた宿のスイートへと消えていきました。
あとに残された人々は固まったように動けない者や、絶望的な表情で座り込んでしまう者もいました。
ニーナの両親の元にもその報せはすぐに届きました。
二人は蒼褪め、頼りない足取りで家に引っ込んでしまいました。そしてそこにニーナは居ませんでした……。
封鎖された古い教会に、ひとつの人影が辺りを窺いながら隠れるように吸い込まれていきました。
ぼろぼろに朽ちた床板をいたわるように丁寧に踏みしめながら、暗い教会の中を人影は進んでいきます。
聖堂奥には小さなステージがあり、この空間でたった一つだけ綺麗に輝いているピアノがありました。
そのピアノの前には一人の女性が腰を下ろし、とても悲しげな曲を奏でていました。
ふと、通路のきしむ音が耳に飛びこみ、女性は驚いたように指を止めました。
暗がりの中から誰かが近づいてきているのが見えて、彼女は緊張しながらピアノの残響を消しました。
椅子から立ち上がると、無意識に胸元で手を重ね不安そうな顔で見つめ続けます。
やがて窓からステージに差し込む光の中に現れたのは穏やかな微笑みを浮かべる青年でした。
清潔そうな白のシャツとコルク色のベスト、合わせたズボンをスマートに穿きこなし、脱いだベージュの帽子を胸の前に抱えたその姿は初めて見るものでしたが……彼女には一目で分かりました。
十八歳の立派な青年に成長したリュートがそこにいました。
彼女は何かを言おうと口を開いても、何をどうやって伝えれば良いのか分からずに、ただただ見開いた双眸で彼を見つめ続けます。
もしいつか再会できたなら伝えたいと思っていた沢山の想いは何一つ言葉にならず、永遠のような数秒の果てに彼女はやっと愛おしそうに彼の名前だけを呼びました。
彼はそれに表情だけで応え、笑みを浮かべたまま小さく会釈をすると、今度は手話を交えながら口を二回動かします。
ニーナ…… 音のない声が確かにそう彼女の耳に届きました。
彼と同じ十八歳で町の誰よりも美しく成長したニーナは、八年前のあの日と同じように彼に駆け寄るとためらわずに抱きつきました。
ひとつだけ大きく違うのは、あの日は顔の横に彼の頬があったのに、今は彼の肩に額をおしつけていることでした。
自分よりもだいぶ背の高い彼を見上げて、ニーナは時の流れを感じ、そして自分が募らせていた想いの深さも知りました。
降りそそぐ光の中、きらきらと瞳を潤ませながら彼女は彼の眼差しを紡ぐと、静かに踵を浮かせます。
リュートは何度も自分の名をくり返すニーナを優しく抱き、とても丁寧に重ねた唇で彼女の言葉を盗みました。
忘れられ朽ちゆく教会を今、穏やかな静寂が包んでいました……。
ニーナが家に戻ると、両親はそわそわと落ち着きのない様子で彼女の顔を見ました。
夕食の席でふたりが切り出せずにいると、彼女は自分からリュート一家のことを口にしました。
その直後、両親の驚いた表情に降りかかるように呼び鈴が鳴り響きます。
ニーナが玄関に出ると、そこにはリュートの両親がいました。
三人は僅かな曇りもなく再会を喜び合い、そして応接間から姿を見せたニーナの両親の顔を見ると、一度懐かしそうな表情を浮かべてから笑顔で会釈をしました。
ジェイクとアリアはあの頃のことを話題にはせず、恨み事も一切言いませんでした。
彼らの今回の来訪目的は成長したニーナの演奏を教会で観ることでした。そして彼女のためなら幾らでも金銭的協力をしたいと申し出たのです。
ニーナの両親は過去の罪悪感に胸をさいなまれながら、その話には心底驚きました。ですが同時に、今はピアノを弾くのをやめてしまい演奏会にも出ていない彼女のことをどう話したらいいのか悩みました。
しかし、そんな彼らの苦悩を全く想像もしない様子で、ニーナは是非聴かせたいと満面の笑顔で応えてしまいます。
そして呆気に取られる両親をよそに彼女は一つだけお願いをしました。
それは、演奏会は中央の教会ではなく、今は封鎖されている古い教会でさせて欲しいという望みでした。
ジェイクとアリアは少し驚いた顔を互いに見合せて、それから嬉しそうな微笑みを彼女に向けながら頷きました。
年に一度の伝統の演奏会に向けて、町中が戸惑いとざわめきに包まれました。
ジェイク達が事業を成功させて舞い戻ってきた途端に、数十年ものあいだ封鎖されていた旧教会の改修工事が始まったのです。
よほど危険な箇所以外は極力壊さずにもとの姿のまま補強され、内装の椅子なども安全性を考えて念入りに検査されました。
建物の外も荒れ放題になっていた雑草を専門家が手入れし、敷地内のあらゆるものが美しく甦っていきました。それらの費用はもちろん、ジェイクが全額負担したのです。
何も知らない子供達はその光景を好奇心のまま眺め、あまり近づきすぎないようにと大人たちの手を焼かせました。
昔を知る老人たちは永い時を経て目覚めようとしている思い出の教会を見上げながら、あの頃のことを語り合い懐かしみました。
それ以外の大人たちはこれから何が起こるのか想像がつかず、不安な気持ちに落ち着かない日々を過ごしていました。その憂いが八年前の負い目からくるものであることに誰しも胸の奥で気づきつつ……。
そして遂に訪れた演奏会の日、旧教会は見事に在りし日の姿を取り戻していました。
両壁のステンドグラスが美しく輝き、陽光の柱がきらきらと降りています。
普段は祈りを捧げるための席も、今日に限っては観客として演奏を楽しむための場所です。既にひとつの空きもなく埋まり、立ち見客も含め町中の老若男女が様々な想いを胸に抱きながらつめかけていました。
昔から音楽中心の町であったために、祭壇は各種の台を移動させることでステージにもなるように造られていました。
もはや知る者も少ない遥か昔の演奏会で起きた悲劇のあと、ステージはその姿のまま放置され数十年の歳月を流れてきたのです。
脇にはパイプオルガンではなく常にピアノ。それはこの町ならではの風習といえました。
演奏会は例年のように幼年の部から進んでいきました。
今年は驚くほどの素質を見せる子供はいませんが、長い歴史を持つ教会の音響はいつもの演奏会とは違い、深みのあるものに思えました。
少しずつ発表者の年齢は上がっていき、ニーナが登場しないまま最後の大人の部の演奏が行われます。
その中にはニーナが脚光を浴びるまでは町一番の才能ともてはやされていた若い女性がいました。
彼女自身は自分の方が遥かに優れていると思っていました。それゆえにニーナのことを疎んじていましたが、八年前に彼女が演奏をやめたことで返り咲いた地位は今や揺るぎないものとなっていました。あの頃、ニーナを積極的に貶めようと噂を囁きだしたのは彼女なのです。
八年間まともにピアノに触れていないはずのニーナに負けるわけにはいかず、また恐れてはいませんでしたが、今日の演奏は満場の人々に自分の実力を再認識させる最高の機会であるために、その気持ちの入りようも大きなものでした。
羽飾りも豪華な黒いドレスを身にまとい白い鍵盤に向かった彼女は、今までの演奏者とは明らかに格の違う実力で指を躍らせました。
古典の名曲を彼女が見事に演奏しきったとき、割れんばかりの拍手が雨のように降りそそぎました。
誰もが今年の最優秀ピアニストを確信し、勝ち誇ったように満面の笑みでお辞儀をくり返す彼女を讃えました。
拍手が鳴りやむと、今しがた素晴らしい曲を奏でたピアノがステージの脇へと運ばれていきました。
観客も参加者もこれで終わりなのかとざわめきだします。今夜のステージはニーナのために用意されたという話は誰もが知っていました。
先ほど今日一番の演奏をした女性は、ニーナが何処かでそれを聴いていて自信をなくしたのだろうと笑いました。
しかし、係りの者がステージ奥で黒い布を被っていたピアノを慎重に運んできます。
布がはがされると、それは艶やかに磨かれてはいるけれどよくよく見ればかなり古そうなピアノでした。
そして皆のざわめきが続いている中でついにニーナが登場しました。
リュートの両親の厚意で仕立てられた上品な光沢のある白いドレスが、彼女の凛とした美しさをさらに高めています。
彼女が客席を向いて立つと、雑談は蝋燭の火を消すようにおさまりました。
ニーナは一度深く頭をさげ、ゆっくりとピアノに向かいました。椅子に座ると白金の長髪が腰のあたりで柔らかく揺れます。
しばらく愛おしそうに指を這わせ、それから両手を止め、ゆっくりと目を閉じました。
誰もがその空気に呑まれるように音を殺し、あたかも教会の中から全てが消えてしまったかのような静けさが広がります。
そして彼女の指が、まるでこの八年間の想いをすべて込めるかのように最初の鍵盤を沈めました……。
いまこの瞬間に聖堂に生まれた、深く深く響き渡る、たったひとつの和音。
その音はメロディーという名の命の始まりを予感させ、全ての人の腕や首筋に鳥肌を誘いました。
彼女が動くたびに新たな鼓動が生まれていきます。
母親の胎内に誕生した確かな命…… それが光あふれる世界を求めて成長していく奇跡……
その指が紡いでいく旋律は生命への慈しみにあふれ、何もかも包みこんでいく優しさと強さはこの教会を愛の揺籠のように錯覚させ、誰もが言葉も思考も失い彼女の演奏に心を奪われました。
しわぶきひとつ立たない聖堂。
壁や床や高い天井へと吸い込まれる穢れのない音律。
今日初めて、数十年の眠りから目覚めたように心を歌う教会。
厳かに止まっていた時計の針は、やがて彼女が最後の一音の残響を名残惜しむように消え入らせて、追いかけるように澄ませた鼓膜の震えが終わることでようやく再び動き出しました。
このたった数分間に皆の胸の中には、誕生した命が育ちゆき、晴れ渡る空の下や冷たい雨の中を歩み、いつしか年老いて人生に感謝しながら永遠の眠りに就く……そんな物語が確かに描かれていました。
拍手は起こりません。
静かに体が震え、胸の奥から熱いものがこみ上げ、この感動を身じろぎもせずに抱え続けていたいから……誰も拍手をすることができませんでした。
最前列に座るニーナの両親も、ジェイクもアリアも、そして彼女に勝ちたかったあの女性も……。
静寂の中、突然、ステージの脇から一人の青年が姿を現しました。
タキシードに身を包んだその青年は、丁寧に床を踏みながらピアノの傍まで進むと客席に向きなおりました。
始めは言葉一つなかった人々ですが、やがて何人かが彼の顔を見て小さく声をあげました。
隣の人と確かめ合い、そこに居るのが成長したリュートであることを知りました。
彼の耳が聴こえないということはこの場にいる大人達の誰もが知っています。だからこそ、彼が何のためにステージに現れたのか分かりません。
そんな戸惑いの空気は見るだけで感じ取れるはずですが、彼はただにっこりと笑みを浮かべるととてもエレガントにお辞儀をしました。
そして、何のために置かれているのか不思議だったニーナの左隣の小さな椅子に腰を下ろしました。
呆気に取られる観客の前で二人は一度顔を見合わせると柔らかく微笑み、ニーナは鍵盤の三分の二を、リュートは残る左の三分の一を確かめて、合わせて四本の手を添えました。
周囲は再び小さくざわめきます。
生来耳が聴こえず音感もない彼はただ鍵盤を叩き続けるだけの素人だったはず。
先の感動を台無しにするであろう不協和音を想像して思わず耳を塞ごうと身構えました。
しかし、彼がそっと反動をつけて鍵盤を押し込んだ瞬間、低く重々しく、しかし見事に絡み合う和音が鼓膜を……この聖堂を揺らしたのです。
ジェイクとアリア以外の、その場に居るすべての観客が驚きに言葉を失いました。
最初の音を追うように、同じ和音がゆっくりと打ち鳴らされます。
何音かそれが続いたころ、そのリズムが信じられないほど正確であることに人々は気づき始めました。そして彼のしていることが伴奏であることにも。
リュートはニーナの顔を見ると目配せをしました。
ニーナは心から嬉しそうに笑み、そして両手を一度ふわりと浮かせると軽やかに鍵盤に下ろしました。
見事に絡み合う伴奏と主旋律。
最高のピアノは二人の喜びを受け止めて、奇跡のような歌を歌い始めました。
リュートの伴奏は今まで聴いたどんな演奏よりも完璧なリズムを作り、そして彼の感情をどこまでも繊細に表現する強弱はまるで生命の鼓動を思わせます。それはもはや曲という物語を導くストーリーテラーのようでした。
その隣でリュートと溶け合うように感情の波を共有し、彼の音に手をひかれて旋律を踊らせるニーナ。
リュートの伴奏が語り部なら彼女の独奏は物語を彩るすべての風景です。それも鮮やかに目に浮かぶほどの。
観客は目の前の出来事が信じられず、夢の中にいるようにただただそれに聴き入っていました。
驚くことにリュートはいくつもの和音を奏でます。
彼には聴覚がない代わりに、実は誰よりも優れた一つの感覚が備わっていました。
それは触覚、振動を全身で感じ取る力。
どんなに些細な振動も、耳を傾けるように心を開けばたくさんの表情で肌を撫でていることを彼は知っていました。
だからいつでも自分の奏でる音の震えを、そしてニーナが奏でる旋律に宿る美しさを感じていたのです。どんなに素晴らしい聴覚を持つ人よりも正しく。
さらに彼は、鍵盤によってまったく同じように叩いても返ってくる震えの深みが違うことをずっと考えていました。
やがてどんな重なりが人にとって不快で、どんな重なりなら受け入れられるのかを、あの頃のニーナや両親から、そしてその後の八年間という時間の中で自ら見つけていったのです。
リュートは再びニーナに視線を送り、彼女がうなずくと伴奏を速く強く高め始めました。
その上で踊るニーナの演奏はまったく遅れることなく彼についていき、同時にメロディーは荒々しく情熱的な姿へと変わっていきます。
観客は自分でも気づかないうちに拳を握り、或いは自分の足や腕や肩を強く抱き、激しく高鳴る鼓動にじわりと汗を浮かべていました。
まるで目の前で紡がれている物語。それが序章を終えてそのページを捲ってゆく。今や誰もがその物語に固唾を呑んで引き込まれています。
壮大な旋律の中に展開されたのはなんと幻想的な英雄譚―――。
リュートが調子を変えればニーナの描く世界は季節を移し、栄華を誇った国に盛衰の翳りが訪れ、その傘の下で人々は明日への不安に怯え今日を生きることに苦しみ、そして諍い合う日々にかつての美しかった姿を失っていきます。
失われた誇りは大切なことを忘れさせ、失われた絆はそれを思い出す力も奪い去り、やがて誰の未来にも希望の光は映らなくなっていきます。
リュートの伴奏がドラマチックに変化すると、ニーナは高音の輝きを硝子の欠片のように舞わせ、神々しい光を天から降らせます。それはまるで……国を離れていた若き王子の帰還でした。
客席で子供達は目を輝かせ、英雄と言う名の希望に胸の中でエールを送ります。
今や衰退につけこむ侵略を恐れて荒んでいた人々の心を、精悍な王子と美しき姫君の出会いが強い光で照らしました。
希望はかつての誇りを思い出させ、人々はすべてを取り戻すために互いの手を握りました。
その手を信じること。この手を信じてもらうこと。何よりも大切な強さとは誠実さであることに誰もが気づきました。
一瞬ニーナの演奏が途切れ、リュートの伴奏は壮大な戦いのドラを打ち鳴らしました。そしてニーナの指が返ってきた時、聴衆の心には鮮やかに、英雄のもとで国中が一丸となって強大な侵略者に立ち向う瞬間が描き出されました。
客席では男は自分もこの戦いに挑み、女や子供や年老いた者は見送る背中の無事を祈ります。
そう、もはや全ての聴き手が物語の登場人物であり、一人一人が主人公でもありました。
圧倒的な異国の力に一人また一人と傷つき倒れながら、戦友の想いを汲み、背中をあずけ合う仲間を信じ、人々は顔をあげ希望に手を伸ばし続けます。
そして遂に、王子の剣が永き戦いに終止符を打ちました。
終戦を告げる鐘の音。
リュートの和音は厳かな響きをもたらし、徐々に霧が晴れるように軽やかに転がり始めます。
ニーナの奏でる鐘の音は重なり合うように跳ねだし、いつしか国中をあげた祝宴の歌声へと姿を変えていました。
町中に降り注ぐフラワーシャワーと青空に放たれた真っ白な鳩の群れ。
勝利の歓声。涙を流して抱き合う国民。弾ける笑顔。
そして壮大な舞踏会。
幸せを謳うニーナのメロディーはリュートの飛び跳ねるような伴奏の上で縦横無尽に歓びと輝きを解き放ちました。
気づけば観客は誰からともなく手拍子を始めていました。
誰もが体を揺らし、手を叩き、幸福の満ち溢れる笑顔でニーナとリュートの演奏に参加していました。
リュートは全身を叩く振動のその熱い喜びに、誰も知らなかったような美しい笑顔で天を仰ぎました。
そして伴奏をしながら足でもステージの堅い床板を叩き、やがて弾きながら立ちあがり、全身でリズムをとってついには打鍵とタップダンスを同時に奏で始めました。
驚きと興奮が老若男女全ての胸を叩き、人々は弾かれるように次々と立ち上がり、力一杯の手拍子が教会を震わせました。
ニーナはリュートを見上げました。
リュートはニーナを見つめました。
体中を駆けぬける感動に最高の笑顔でうなずき合うと、ついにリュートは鍵盤をニーナに明け渡して翼を広げた鳥のように自由に踊りだしました。
ニーナの弾けるような振動は彼の中を跳ね続け、自分の中に流れ続けるリズムと教会を揺らす熱い手拍子の響きに乗って、鮮やかなタップダンスでステージを舞いました。
歓声があがり、総立ちの観客は前の席から次々と歩み出て男女が手を取り合い、どこまでも高まり続けるニーナのメロディーに酔いしれながらステップにステップを重ね舞い踊りました。
数十年の時を経て、音楽を愛する本物の心と、華やかな舞踏会が命を取り戻した瞬間でした。
愛する両親の最高のステップとこの上なく幸せそうな笑顔を見て、リュートはステージを叩きながらニーナの隣に戻ると再び伴奏を受け取りました。
さらに熱気が昂るのを肌で感じながらニーナを覗きこむと、微笑みながら見上げる彼女の青い瞳で涙が薄い膜を震わせていました。リュートの胸の奥から、ずっと抑え続けてきたたくさんの想いが強く強く込み上げます。
彼は伝えたい言葉の代わりにそっと顔を寄せ、柔らかな唇を合わせました。
胸に閉じ込めきれない想いが美しい輝きとなって、いつまでも二人の頬を伝い続けるのでした……。
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