Play of Life
仙花
ouverture
世界の片隅に、小さくて素敵な町がありました。
ピアノタウンという町です。
その昔クラシックが貴族のたしなみとして広まり始めたころ、ここはまだ小さな村でした。
しかしとても優れたピアノ職人と調律師を輩出し、やがてピアニスト御用達の町へと成長しました。
ここで造られるピアノは世界一と言われ、職人は多くの優れた弟子を育て、この町に住みたがる音楽家も増えました。
生まれてくる子供達は例外なくピアノに触れて育つのでした。
やがて長い年月とともに世界中で様々な楽器が生まれ、音楽はその幅を広げていきました。
優秀な職人の集まる都がいくつも生まれ、ピアノタウンには昔ほど製作依頼も来なくなり、町は発展を止めてしまいました。
それでも代々ここで暮らしてきた人々はこの土地を愛し、ピアニストとして生きることを誇りに思ったのです。
いつしか、ピアノを弾けるということが呼吸したり歩いたりすることと同じ意味合いを持つようになり、幼い頃からそれを身につけるのが掟のようになっていました。
そうして折り重なる時間の中で、町は自然と閉鎖的になっていったのです……。
ある年のある月のある日のこと。
隣り合う二つの家で子供が産まれました。
片方は比較的裕福な家庭に生まれた女の子。
片方は少し貧しい家庭に生まれた男の子。
同じ日に生まれたことで町の人々も大いに喜び、盛大に祝いました。
女の子はニーナ。
男の子はリュートと名付けられました。
二人の誕生をきっかけに家族ぐるみの付き合いになると、二人はまだ起きあがることもできないうちから揺籠を並べられて、いつも傍にいる幼馴染みとして育ちました。
二歳にもなるとこの町では父や母の膝の上でピアノに向かわされることが自然でした。
まだほとんど言葉は喋れませんでしたが、二人は自分から鍵盤を叩くようになりました。
そのうちニーナの両親は気づきました。
彼女は自分から音と音を繋いでメロディーを奏で始めたのです。それは心地好くなるような綺麗な連なり。
この子は天才かもしれない、二歳の娘を見ながら驚きました。
一方リュートの両親も気づきました。
彼はニーナのように音階を紡ぎはしませんでしたが、叩いているリズムがとても正確だったのです。思わず手や足が拍子をとってしまうような刻み。
この子は天才かもしれない、二歳の息子を見ながら驚きました。
その話は閉鎖的な町の中であっという間に広まりました。
同じ日に誕生した二人の子供がどちらも稀有な才能を持っている。
彼らが将来世界に羽ばたき、忘れられつつあるこの町を甦らせてくれるかもしれない……そう期待を寄せるのも無理からぬこと。人々は町の宝だと大いに讃えました。
二人の両親は子供たちを誇らしく想い、互いに親友として育てながら、同時に相手に負けてほしくないという気持ちも強くなっていきました。
しかし四歳になった頃、状況が大きく変わります。
ニーナは十分にピアノを理解し、それはもう完全に演奏になっていました。ぎこちなさが消えて軽やかに転がる白い指は、見る者に彼女の輝ける未来を確信させます。
しかしリュートは違いました。
いつまで経っても彼は鍵盤を選ばずにただ叩くだけで、まるで音楽というものに対する感性を見せてはくれません。両親は息子の才能を疑い始めていました。
そして、心配事はそれだけではありませんでした。
ニーナはすでに言葉を理解して多くの会話が出来るようになっているのに、リュートは未だ呻き声しか発してくれません。
周囲からの評価は日増しに開いていき、両親は我が子の将来が心配になって医者に診せました。
そこで知らされたのはあまりにも辛い事実でした。
リュートは耳が聴こえなかったのです。
ピアノタウンと呼ばれるこの町においてピアノが下手な者はいつでも笑い者でした。
音感がないのではと言うだけでも随分と陰で噂されていたリュートでしたが、そもそも耳が聴こえない子だと判明するとその報せは大教会の鐘のように瞬く間に広まりました。
一度は町の希望とまで思われただけに皆の落胆は大きく、それはやがて理不尽な怒りに変わってしまいました。
彼の評価は一転して地に落ち、周囲はリュートと両親に冷たくあたるようになったのです。
元々暮らしは楽ではなかったのですが、両親は職場での扱いも日ごとに悪くなり、辛い仕事ばかりさせられながらも給料は上がることがなく……むしろ何かと理由をつけられては少しずつ減らされていきました。
徐々に貧窮していく生活。生きていくためにも、息子を育てるためにもお金が必要です。
両親は意を決し、恐る恐る隣人を頼りました。
しかし悪い予感は的中し、ニーナの両親は蔑む眼差しで彼らを追い返したのです。
ニーナは周囲の期待通りに音楽の才能を見せ始め、たくさんの後押しが家をさらに裕福にしていきました。
もはやすぐ隣に並んでいながら天と地の暮らしに分かれていたのです。
何も分からないリュートが相変わらず不協和音を正確なリズムで鳴らし続けると、母親は時に堪えきれなくなり彼を無理やりピアノから引きはがしました。
穏やかで忍耐強く賢明な彼女も、あなたの耳さえ普通だったらと感極まり怒鳴り散らしてしまうことがありました。
しかしそんな嘆きもリュートにはやはり聴こえません。
それがいっそう彼女のやり場のない気持ちを膨らませ、不思議そうに見上げる彼から眼を逸らすと苦悶に歪む顔を両手で覆い隠すのでした。
世間の空気は変わることのないまま時は流れ、リュートとニーナは七歳になっていました。
ニーナだけはずっとリュートのことを変わらない気持ちで見ていました。
彼女は自分の親の目を盗み、たびたびリュートの手を引いて外へ連れ出します。
彼は彼女に何を言われても聞こえないし、言葉を覚えられないのでまともに喋ることもできません。
でもニーナにとっては初めからそれが彼なのです。
誰よりも早く親友がそうであることに気づいていましたが、おかしなことなのだとは思ってもいませんでした。
町の中央辺りに、立派な教会がありました。
人々はいつもその聖堂で神様を傍に感じ、幸せな日々を祈ります。また、そこでは毎年大きな演奏会が開かれていました。
町の片隅には、もう一つ教会がありました。
そこはとても古く、すでに放置された場所。新しい立派な教会ができたときに役目を終えて封鎖されたのでした。いまでは誰も訪れることなく、忘れ去られた建物の周囲では雑草が高々と背を伸ばしています。
ニーナが親の目を盗んでリュートの手を引くとき、目的地はいつもここでした。
秘密の入口から中へ入り、奥の方にある小さなステージに残されたピアノの前に座ります。
ニーナはこのピアノが大好きでした。
建物はぼろぼろで床板も壁もひどく傷み、差しこむ光も弱くて聖堂は常にしっとりと空気を湿らせています。
ですがこのピアノだけはほとんど埃をかぶらず、錆つきもせず、美しい黒に輝いていました。
それはある一人の年老いた調律師が手入れを続けていたからでした。
老人はこの町で身寄りもなく、他者と関わりを持たずにひっそりと暮らしていました。
そんな彼ですがニーナのことは気に入り、訪れるたびに色々な話を聞かせてくれるのでした。
彼の若かりし頃はこの教会で華やかな演奏会や舞踏会が開かれ、たくさんの人達が今よりももっと希望に満ちた瞳で楽しんでいたのです。
その頃は誰もが本当に音楽を愛していました。そして素晴らしい演奏家がたくさんいたのでした。
懐かしそうに語る彼の思い出の中で、ニーナの心にいつまでも残り続けることになる一つの物語がありました。
多くの名演奏家が育っていた当時、その中でも唯一無二と讃えられた一人のピアニスト。
それは非常に美しい女性でした。
背中を流れ落ちる白金の長髪。早く摘みすぎた桃のような淡い紅の頬。
静かに伏せられた長い睫毛。その下で青味がかる澄んだ瞳に映ればどんなものも穢れを失い、いつも瑞々しく潤う柔らかな唇から鈴のような笑い声が転がれば、まるで世界が光に満ち溢れているかのように感じさせてくれました。
触れることも躊躇われる細い首筋、開いたドレスが晒す雪のように白い肩、そこからピアノを繋ぐしなやかな二本の腕は紛れもない神様からの賜り物で、ひとたび鍵盤を沈めれば時間すら息を潜めたのです。
老人はまるで神話の女神を描くかのように、思い出の眩しさに目を細めながらニーナに彼女の姿を伝えました。
あの頃、誰もが彼女の演奏を聴きたがり、その姿を憧れの目で追いました。
そんな彼女にもいつしか恋の季節が訪れます。愛したのは一人の調律師の青年。
彼の調律は町の誰よりも繊細で美しい仕事でした。そして演奏を聴く者としても豊かな感受性を持っていました。
彼女の演奏に込められた様々な想い……喜び、悲しみ、言い表せない複雑な気持ちも、彼だけがいつも正しく受け止めることができました。
そして彼女の指先が表現したい音を完璧に支えられるのも彼だけだったのです。
確かな運命を感じながら二人は結ばれ、この教会で町中の人々から祝福を受けました。
誰もが認める二人……誰もが羨む二人…… 彼は彼女の演奏を支え続け、彼女は彼に最高の演奏を聴かせ続けました。
しかし、その幸せは唐突に失われてしまったのです。
ある年の舞踏会の日、彼女はナイフで刺されて呆気なく命を落としました。
彼女に恋慕を抱いていた一人の男の嫉妬心が、調律師の見ている前で彼女のドレスを真っ赤に染め変えたのです。
その男はその場で捕まり、翌朝には刑に処されました。
血に穢れた教会は間もなく封鎖され、新しい教会へとその役目を渡して打ち棄てられてしまったのでした。数えきれない幸せな思い出と、忘れてはならない悲しい記憶を閉じ込めて。
その後も調律師は彼女への愛を片時も失うことなく、たった一人で彼女が愛したピアノをずっと守り続けました。
静かに光の差しこむ聖堂の中、ニーナを見守る老人の瞳はいつも愛情に満ちています。
遠い過去の悲劇的な事件から半世紀ほどを経て、このピアノはいま再び音楽の神の祝福を
ニーナは自宅にあるピアノよりも遥かに繊細な音を奏でるこのピアノを心から愛していました。
リュートを連れてきた時はいつも、彼を隣に座らせました。
そして彼にいくつかの鍵盤を与え、自由にそれを叩かせます。
彼が作り出すリズムに乗せてニーナが残りの鍵盤で旋律を奏でるのです。
時々めちゃくちゃなハーモニーになってしまっても、ニーナは彼と演奏するのが楽しくて堪りませんでした。
そんな彼女の隣で、彼も全身でそれを楽しんでいました。日々の中で彼がこんなに眩しい笑顔を見せるのはこの時間だけでした。
観客はいつも誰も居ないか、老いた調律師が一人居るだけ。
彼はいつでも眼を細めて二人の演奏会を心ゆくまで堪能してくれます。
捨てられた古い教会は、この時だけ命を甦らせているようでした……。
リュートが十歳になった時、両親は遂に仕事を失いました。
あまりに理不尽な世間の風当たりにとうとう堪え切れなくなった父が喧嘩をしてしまったのです。
誰にでもあるような些細な失敗で彼はひどい叱責を受け、その差別的な態度には無心で耐えていた彼でしたが、お前も息子と同じでこの耳は飾りなのかと言われると怒りで目の前が真っ赤になりました。
激しい口論になり、ついには殴りかかろうとしたものの周囲に止められ、なんとか矛を収めました。
しかし悪いのは明らかに相手だったのにも拘わらず、その報を受けた上司の判断で父は仕事を辞めさせられました。
この町では事件は小さくても大きくてもあっという間に知れ渡ります。
後日このことを意地悪く言われた母も職場で父を庇い、結果的に追われるように辞めてしまいました。
そして家族はもうこの町には住んでいられなくなりました。
彼らは旅立ちの日を敢えて年に一度の演奏会に合わせました。
この日ならその背中を見送る人も、冷たい眼で見つめる人も、誰もいません。
父と母はリュートの手を引きながら必死で涙を堪えていました。
悔し涙、悲しみの涙、寂しさの涙……
町のはずれに辿り着き、今日までの日々に別れを告げようと振り返りました。
すると遠くから二つの人影が近づいてきます。
それは見知らぬ老人と、演奏会用のドレスを着たニーナでした。
彼女はリュートの名を叫びながら駆け寄り、彼に抱きつきました。
別れを悲しんで耳元で泣きじゃくる彼女の声はリュートには聴こえませんが、彼は彼女を優しく抱きしめました。
それを見て母は思わず口元を覆いました。
彼を愛しながらも、彼の耳さえまともだったらと思わずにはいられなかった自分。
周囲の視線や空気に軋む心をぶつけるように彼を責めてしまった日々が脳裏を駆けぬけます。
でも目の前の少女がこんなにも彼を想ってくれているのを見て、息子はやっぱり何も恥じることのない世界一の子だと知りました。
母親の瞳には自責の涙が溢れそうなほど浮かび、その場に崩れると彼に何度も謝りました。
ニーナに遅れてゆっくりと辿り着いた老人は、小さな二人の頭を優しく撫でました。
父が名前を尋ねても自分は名も無い調律師だとしか答えず、四人を見つめながらしわがれた声で言います。
人生は一曲の演奏のようなものだと。
長調だけが続いても心は躍らず、短調だけが続いても心は震えない。
時に強く、時に弱く、消え入りそうな静かな日々もあれば、跳ねまわるような賑やかな日々もある。
何よりも大切なのはどんな時も心を込めて演奏すること。
その一曲を愛すること。
そして時には誰かの聴き手であり、誰かの調律師であることも忘れてはいけない……
そう言いながら、老人はリュートの頭をもう一度優しく撫でました。
母はリュートを、父は二人の肩を、次々と込み上げる想いに頬を濡らしながらしっかりと抱きしめます。
それからニーナを引きよせ、彼女と老人に心からの感謝を何度も何度もくり返し伝えました。
その年の演奏会は、最も期待されていた天才少女を欠いたまま幕引きとなったのでした。
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