第16話

 成城学園前駅で、降りた時、君太の目の前を、でっぷり肥えた若者が横切った。分厚いコートを着込み、首を縮めて、ブルッと震えている。いや首は縮めるまでもない。何重顎にもなっていて、あごと胴体の境目がないに等しい。

 脂ぎった丸鼻に、たるんだ頬。豚の要に小さな目で神経質そうにあたりをきょろきょろ見渡している。まるで刑事につけられていることを警戒している犯罪者のようだ。

 寒風が吹く中で、額には、脂肪分が凝縮されていそうなべっとりとした汗をかいていた。

 君太は唖然として、しばし、その場に立ち尽くした。

 そのデブ男が歩いていることに、驚いたのだ。そいつが、徒歩で移動することはあり得ない。ましてや、電車を使うなんて――。


 君太の風貌はどこにいても目立つ。

 デブ男も、すぐに君太の姿を見出した。

 チッ!というあからさまな舌打ちが、響いた。

「お前!なんでここにいる!」

 デブ男が脂でべっとり濡れたごつい人差し指を君太に突き付けてきた。君太はニヤリとする。

「こんにちわ。信一郎ちゃん」

 そう。このデブ男が、君太の義理の兄ともいうべき信一郎。

 信一郎のことは、好きではなかったが、君太の左眼を見てもギョッとしない数少ない一人だった。心置きなくからかえる貴重な相手なのだ。

「その呼び方はよせ!俺はお前より、二つも年上なんだぞ!二十歳だ!」

「でも、今は、同じ大学一年生だね」

「兄には敬意を払え!」

「それより、兄さんこそ、なんで歩いているんだい? いつも使っている新車のベンツはどうしたんだい?」

 もちろん、新車のベンツも、信一郎が自分で稼いだお金で買ったわけではなく、田沼伯父さんに買ってもらったものであることは言うまでもない。

 今では、信一郎は家から一歩出る時はいつでも――10メートル先のコンビニに行く時でさえ――、ベンツで移動しているはずだ。電車に乗ることなどありえない。

「お前には関係ない!」

「あっ。わかった。事故を起こしてベンツを壊してしまった。だから、今から、パパとママに新しい車を買ってもらうんでちゅね。信一郎ちゃん」

「黙れ!妖怪野郎!」

 信一郎は吐き捨てると、どかどかと足を踏み鳴らしながら、高級住宅街へ続く道へ足を向けた。


 図星だ――。

 君太は、笑いをこらえるのに、腹を押さえ、歯を食いしばらなければならなかった。

 記憶が正しければ、信一郎が車を大破させたのは、これで三度目である。にもかかわらず、他の人を巻き込んでの死亡事故を起こしていないのが不思議なくらいだ。

 過去二回に起こしたの事故のいずれも、間抜けな物損事故で済んだのだ。一度目は電柱に衝突し、二度目は、歩道の階段に突っ込んで下にでんぐり返し状態で落ちた。

 いずれの事故でも巻き込まれた人はいなかったし、信一郎自身もほぼ無傷で助かった。

 まったく強運な男だよな。と君太は、あきれ返った。

 そして三度目も事故を起こしたのだろう。これだけ事故を起こしているなら、もう、自分には運転は向いていないとあきらめるべきだろうが、また、新しい車を買ってもらうつもりらしい。

 今日は、パパとママのところにおねだりに行くのだろう。

「お前は、いったい、なんでついてくる!」

 人通りがまばらになったところで、信一郎は振り返って、怒気を爆発させた。

「田沼伯父さんに呼び出しを受けたんだ」

「なんだと!うそつくな!パパが、お前のことなんて、呼ぶわけないだろ!」

「本当だよ。さっき、電話があったんだ。何か、僕にプレゼントをくれるんだってさ」

 信一郎が、ギョッとして息を飲んだのが分かった。

 それから、地面に根が張ったように棒立ちになり、わなわなと、体を震わせた。驚き、恐れ、怒りの混じった醜悪な表情が浮かんでいる。

 君太は、信一郎の思考を即座に見抜いた。

 恐れているのだ。

 ――もしかして、パパは、出来の悪い俺のことを見捨てて、こいつを跡取りにしようと考えているんじゃないだろうな――と。

 あるいは、心変わりして、こいつを正式な養子にするつもりじゃないかと。

 養子になるということは、万が一、田沼伯父さんが亡くなった場合、子供の取り分を君太が半分もらえるということだ。その分、信一郎の取り分が少なくなる。

「ありえねえ!」

「本当さ。嘘だと思ったら、先に行って、パパに確かめて来いよ」


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