第7話 幼馴染

 翌朝、新出家の居間は静かだった。まるで、世界が終る前の日のよう……いや、路太の母にとっては正しく世界が終ってしまった朝である。

 信じていた息子の醜行。よりにもよって幼馴染の雪、互いにある程度の信頼関係にあったはずの相手に。

 「……木羽は?」

 暗鬱の食卓に雪の姿はなかった。一体どこへ行ったのだろう。

 「雪ちゃんは家に帰ったわ」

 「……」

 朝の挨拶もしないことを、普段の母であれば注意するはずだ。日常のささやかな注意さえ忘れるほど、余裕が無くなっているのが分かった。

 「……ねえ、路太。気持ちが落ち着いたらでいいから……何があったのかちゃんと教えなさいね」

 「……」

 今、言ってしまおうか。路太は迷う。だが同時に、一抹の不安があった。

 雪との約束、彼女が泊まるようになってから見る悪夢。まるで雪の思考に染まったかのようなクラスメート、小柏――全てを母は理解し、路太を助けてくれるだろうか。

 逆に、路太を生徒指導室へ呼び出した教師よろしく、路太を気に掛けながら騙しているとしたら。もしそうならば、もう何も信じられなくなってしまう。

 二つを天秤に掛け、結局路太は後者の恐怖に負けた。何も言えなくなる。

 「学校には、ちゃんと行くのよ。……ほら、ご飯」

 ジュウジュウ音を立てるフライパンから、料理が皿の上へ盛り付けられる。

 「……うっ」

 炙られた肉。焦げ目の付いたピンク色は、昨晩の夢を想起させた。脳裏に蘇る肉の断面、白いトレー、グラム単位で切り売りされた雪。雪。

 「路太、どうし……」

 「う……ぉええええっ」

 込み上げる吐き気を耐え切れず、路太はフローリングに嘔吐した。母親の悲鳴、父親の絶句。何もかもが遠い。

 

 

 体調不良を案じ、休むよう勧める母を振り切るのは少々骨が折れた。

 ろくに食事もできないくせに登校しようと思うのは、家にいても何も変わらないからだ。逆に学校に行ってどうなるということもないけれど、まずは雪に謝りたかった。昨晩、雪に暴力を振るったのは紛れもない事実なのだから。

 「……行ってきます」

 自分でも声が落ち込んでいることが分かる。情けないを通り越して惨めな気分になりながら、家の敷地と公道とを区切る門を開けた。

 「おはよう、新出くん」

 「木羽……?」

 門の外で待ち構えていたのは、雪だった。

 首にはまだ赤い跡が残っていて、痛々しい。だが紛れもなく路太が付けたものだ。

 「こ、木羽、昨日の夜は本当に……」

 改めて罪悪感が込み上げてくる。細いそれは、一歩間違えば折れていたのではないかと思う。

 「いいの、怒ってないわ。新出くん、きっと寝ぼけていたのよ」

 まるで気にしていないという風に、雪は首を横に振った。

 「さ、それより急ぎましょう。遅れちゃうわ」

 「あ、ああ」

 何だこいつは。聖人か。昨晩の所業に怒っていないどころか、加害者である路太が謝るより先に、許してしまうなんて。彼女の大らかさに路太は感動さえ覚えた。

 いや、もしかしたら強がっているだけかもしれない。昨夜の今日で雪に気を遣わせては、かえって気まずいではないか。

 路太は雪の顔色を窺って内心ハラハラしていたが、傍らでニコニコしている雪を見ていると心配は杞憂だったのだと理解し始めた。少し気持ちが軽くなる。

 「おーっす、デジター。と、木羽もー」

 「おっはよー、キヨちゃーん」

 タイミングよく掛けられた挨拶。クラスメートたちだ。

 「おはよう」

 声の主を探しながら路太たちも挨拶を返す。暗い表情を見せずに済んでよかった。

 男女二人連れの彼らには見覚えがある。女子生徒の方は、確か爾(に)香(か)、男子生徒はその恋人だ。雪の姿を見止めた爾香は、きゃあきゃあ高い声を上げながら駆け寄ってくる。今だけは、恋人でも二の次のようだ。

 「なあなあ、見ろよアレ」

 にぎやかに前を行く爾香を、クラスメートが小さく指さした。

 「?」

 見慣れた制服、校則に違反しない程度にいじられた髪。代わり映えしない姿がそこにある。一体何を見ろと言うのか。化粧が変わったとかいう話ならば、親しくもない路太に分かるはずがない。

 「首だよ、首!」

 どきりとした。昨晩の出来事を咎められたような。けれど、隣の彼がそのことを知っているはずなどない。

 「首が、何?」

 尋ねて気付く。爾香の首に何かが巻き付いていた。

 頭が動くたびに見え隠れするそれは、彼女の首に真一文字を描くように付いている。まるで……

 「……首輪?」

 細身の首輪にしか見えない。たるみもせず皮膚にぴったりとくっ付いていて、窮屈な印象さえ受ける。

 「あいつがあんまり木羽が羨ましいって言うからさ~、プレゼントってやつ? あいつすっげー喜んでたよ!」

 喜色満面。恋人を喜ばせたことへの自賛を含んだクラスメートの声は、もう路太の耳には届かない。

 彼は、恋人の爾香が雪を羨んでいるのだと言っていた。そして、雪に何をしてやっているのか路太に尋ねてきた。その問いに路太が答えることはできなかったが――今、爾香が付けている首輪が、彼の出した答えだと言うのだろうか。

 「へへ、プレゼント作戦は俺の方が早かったみたいだな」

 「……」

 爾香が首元を雪に見せている。喜びに輝いた、誇らしげな顔。

 にこりと微笑んだ雪。彼女もまた、長い髪をかき上げて自身の首を露わにした。うっすらと残る路太の手の跡。赤みを帯びたそれも、歪(いびつ)ながら首輪のようだった。

 「キヨちゃんも貰ったのぉ?」

 甘ったるい声が聞こえる。

 それは路太の悪夢の、恐怖の痕跡だ。良いものではない。それなのに、雪は大切な贈り物を貰ったようにうっとりとしていた。

 「お揃いね」

 「お揃いだね」

 顔を見合わせてクスクス、上機嫌な笑い声を上げる二人。路太には、異世界の住人のように映る。

 彼女らが何を喜んでいるのか、さっぱり理解できない。

 首輪を贈られて、それを身に着けて――誰かの所有物に、ペットになったことを喜ぶなんて、正気の沙汰ではない。正気の沙汰ではないはずなのだ。

 ならば、今路太がいるのは、狂気の世界なのか?

 たった一人、正気を保ったまま別の世界へ来てしまったのか?

 「な、なあ……」

 正気の住人であることを確かめたくて、必死の思いで呼びかける。

 「あ、いつら、ちょっと変わって、るよな? あんな……首輪貰って、喜ぶなんてさ……」

 期待した。賛同する返答があることを。

 「え、そんなことないだろー?」

 しかし、それはあまりにもあっけなく裏切られた。

 「あんな風にお互いの繋がりを目に見える形にするのって、悪い気持ちじゃねーし。それであいつも喜んでるし」

 照れくさそうに視線を泳がせながらの、淀みない答え。

 「……」

 隣のクラスメートは……それから彼の恋人である爾香も、その友人の雪も、幸せそうに笑っていた。路太の知らない基準の幸せを味わっていた。

 「お、お前……」

 『おかしいよ、どうかしている』――言えずに飲み込む。

 言ってしまえば最後、彼らと自分との間に境界線ができて、二度と同じ世界では生きられないような気がした。一人ぼっち、どこに同じ倫理観の住人がいるかも分からない世界で生きていかなければならなくなる。そんな予感がした。

 その予感は、とても恐ろしかった。

 

 

 まだ短い高校生活で顔馴染みになったクラスメートたち。授業の話をしたり、部活の話をしたり、あるいは噂話に興じたり。

 廊下と教室とを区切る数センチ幅のレールは、いまや路太にとって異世界への境界線だ。踏み越えた先にいつもの教室が広がっているのか、確証がない。

 「キヨー、ニカー! おはよー」

 境界線の向こうから呼ぶ声に応じ、雪たちはいとも簡単に教室の中へと入って行く。境目を超えて行く。

 「デジタ、どうしたんだよ? さっさと入ろうぜ」

 「あっ」

 背中を押され、教室の中に入ってしまう。ぺたり。薄い上靴が床を鳴らす音。

 「おはよう」「おはよう」交わされる挨拶は呪文だ。雪や爾香が受け入れられるための呪文。路太は知らない言霊。

 ふと不安になる。

 ここにいても大丈夫なのだろうか。路太が、周囲の人間をまるで別の生き物に感じるように、彼らもまた路太を異物のように思っているのではないだろうか。

 怖くて仕方がない。

 小さくなって、目立たないように、誰かに異物だと気付かれないように……その思いは、路太を悄然とさせた。

 「元気がないようね」

 昼休み。雪が昼食を共にするべく路太の席にやって来た時も、やはり彼は消沈していた。

 「私、本当に何も気にしていないのよ? だから新出くんも……」

 「違うんだ。そうじゃなくて……いや、木羽にしたことも、本当反省してるんだけどさ……」

 どう言えばいいのだろう。そもそも、誰かに話していいのだろうか。もし、

 「まあ、うん……色々、な」

 もしも、話を聞いた雪やその他の連中から、おかしいのは路太だと言われたらどうしよう。多数決の力は存外大きい。こと学校という限られた空間、限定された人間関係の中では、簡単に少数派を押し潰すことができる。

 結局、路太が心情を吐露することはなかった。雪に混乱していることを打ち明け、自分こそが『異物』なのだと認識させられてしまうのが怖かったのだ。

 

 放課後、路太はもう一人謝らなければならない人物、小柏のことを思い出した。

 正直なところ、謝らないで済むのならばそうしたい。彼に頭を下げるのが癪(しゃく)だ、というのではなく、昨日の、あの言動がずれている小柏のままだったらどうしようという不安故だ。しかも、昨晩の夢がそれに拍車をかける。

 一日何事も無く終わらせることもできるはずだ。なのに、不安の種に自らつっこんで行くべきか、どうしようか。

 結局、不安や恐怖と折り合いをつけられない自身の事情と、小柏に迷惑をかけてしまった件とは別だと自分に言い聞かせながら、路太は部室のドアを開けたのだった。

 「……お、小柏」

 既に来ていた小柏は、さっさと道具を並べている。その背中に声をかけた。

 「あ、新出。お疲れ。今日は、その……調子どうだ?」

 路太が戸惑ったように、小柏もまた言葉を選んでいる。

 互いに距離を取りかねているのだ。昨日の今日、当たり前と言えば当たり前なのだが。

 「昨日はごめん。色々押し付けて帰って、俺……」

 率直な謝罪の言葉が、今の路太の精一杯だ。

 「いいよいいよ。……あー、そうだ、新出が帰ってから作ったのがあってさ」

 それを理解しているからこそ、小柏も昨日のことには言及しない。作品作りの話題へ変えたのはやや強引だけれど、そういうやり方が小柏の気遣いなのだ。

 路太もそれを理解しているから、出された話題に素直に乗っかる。

 「見てもいいか?」

 「勿論。これなんだけどー」

 和箪笥から二つ分の引き出しが抜かれようとした、その時だった。

 「新出、ちょっといいか?」

 一人の先輩が路太を呼んだのだ。昨日、雪を金で好き勝手させるよう言ってきた先輩だ。

 「……はい」

 先輩後輩の関係の手前、渋々だが応じる。隣の小柏が眉間に皺を寄せた。彼も昨日の出来事を不快に思っているらしい。

 「何ですか?」

 「新出、昨日は悪かったな。すまん」

 「え?」

 一瞬何を言われたのか分からなかった。

 確かに、先輩の「いくらで雪とヤらせてくれるのか」という発言は謝られて当然のものなのだが、言い放った直後の本人には反省している様子もなかった。

 今日になって態度を改めるとは、どういうことだろう。

 「な、何なんすか……マジで」

 口先だけの謝罪だとしたらかえって受け入れ難い。真意を探るべく、路太はじっと彼の表情を観察する。

 「……俺、新出にもあの子にも、すっげー失礼なこと言ったから。謝るべきだって思っただけだよ」

 「……」

 なら最初から言うな。どうして言う前にその考えに至らなかったのだ――言ってやりたいことは山ほどあるが、今は彼の言葉の続きを待つ。

 「今まで二人の関係のこと、誤解してたよ。てっきり、新出が好き勝手できる約束をしたんだと思ってたけど、違ったんだな」

 「は?」

 たった一言の疑問符には、今までとは違う意図が込められていた。もっとも、相手はそれに気付かない。

 「いいよなー、互いにとって掛け替えのない存在になるってのは。まあ、過程はどうあれさ」

 「せ、先輩……?」

 「あー、皆まで言うな! 俺の認識が悪かったんだ。新出はなんも悪くないからな!」

 言うだけ言うと、彼は混乱する路太を残して自分の活動に戻って行ってしまう。

 「……」

 彼もおかしくなってしまった。

 たった一日、太陽が一巡りする間に、彼は丸っきり変わってしまった。

 (そんな、馬鹿なこと……)

 目の前の人は、姿だけ同じくして別の世界の生き物になってしまったのだろうか――じゃあ、この先輩は先輩の姿をした偽者なのか? 気持ち悪い。

 いや、違う。人間がそう簡単に変わるものか。先輩は反省したふりをしているのだ。だから、突然手の平を返したように見えるだけだ。そうに違いない。

 (……嘘つきめ)

 思考が一日にして塗り替えられたと思うよりは、嘘つきだと思う方が楽だった。

 嘘つき、嘘つき。先輩は嘘つき。

 何度も自分に言い聞かせると、気持ちが落ち着く。

 「ごめん、小柏。待たせたな。で、どれだって?」

 そう、落ち着いて自分の部活動に励むのだ。手を動かして、作品作りに心を傾ける。そうすれば、路太の気は紛れていく。

 紛れていく、はずだった。

 「……何だよ、これ」

 草原を模した緑の土台。丁寧に貼り付けられた繊維素材の中に立つ小さな人形。作りものの男女の姿。その容姿は、

 「それ、新出と木羽に似せてみたんだ」

 小柏の言葉通り、知る者が見れば、路太と雪を連想できる見た目をしていた。

 「……何で」

 「一種のお遊びっていうか、こういうのも面白いかなって」

 何故、自分たちに似せたのか――路太が聞きたいのはそこではない。

 雪に似た人形は、地面に四つん這いになっているのだ。路太に似た方は、膝を曲げてそれを覗きこんでいる。まるで犬猫を、動物を見下ろしているような恰好。

 「何で……この恰好なんだ?」

 今度こそ疑問を最後まで言葉にする。

 「え、だめだったか?」

 「だ、だめって言うか……」

 ダメだ。

 だが、草原で遊んでいるだけの図だと言われれば、そういう風にも見える。小柏はきっとそのつもりで作ったに違いない、多分。しかし単純にそう思えないのは、昨晩の夢のせい、つまりは路太の心に引っ掛かるものがある故である。

 そんなこと小柏には知りようも無いのだから、頭ごなしにだめ出しをされては困ってしまうだろう。

 「えっと、小柏、ごめん。その……この恰好だとさ、動物っぽいって言うか……」

 どうにか遠回りに、否定的な意見を伝えようとする。自然と口の回りも悪くなる。

 「うん? だから、木羽と新出っぽいだろ?」

 「……は?」

 だが小柏の答えを聞いて、路太の口は回るどころか止まってしまった。

 彼は今、何と言った?

 動物と飼い主を連想させる構図が、雪と路太には似合いだと言ったように聞こえたが、まさか。

 「いいだろ? 家畜と飼い主、穏やかに過ごしてる感じが出せたと思うんだけど……どう?」

 「どうって……」

 答えられない。いや、答えたくない。

 だって、路太の知る小柏はこんなことは言わない。昨日、妙だと感じた変化はそのまま、夢のように覚めることはなかった。一時的なものでは、最早なくなっていた。

 「小柏?」

 「ん? 何?」

 それでも、何かの間違いだと、路太自身の思い違いだと信じたくて口を開く。

 最後の質問をするために。

 「俺にとって、木羽は家畜か?」

 答えを聞かせまいとするように、心臓が鳴る。耳の奥、血の流れが一際速くなる。

 「違うのか?」

 ああ、嫌だ嫌だ。最も恐れている答えを聞いてしまった。

 だが待てよ――路太は考える。

 この小柏は偽者なのではないか。こんなことを言うなんて、偽者に決まっている。本物の小柏をどこかにやってしまったに違いない。

 そうだ、きっとさっきの先輩もそうなんだ。皆、知らない間に挿げ替えられてしまったのだ。そして、路太一人がおかしいかのように錯覚させようとしているに違いない。

 悪い奴。ひどい奴。皆。

 思うが早いか、路太は右手で拳を作ると、小柏の頬に向かって振り下ろした。

 「誰だよ! お前は!」

 肉が守る骨まで届くよう、もう一発。

 バランスを崩した小柏に馬乗りになって殴る――それは夢の中で女を殴打した時とそっくりの姿だった。もっとも、今の路太には気付かない。

 変わってしまった友人を殴るのに、思考する必要は無いのだ。打ち付ける拳の一発一発が、偽者の小柏の化けの皮を剥がすのだと信じて、路太は殴る。もっと、もっと。

 「やめろ! 新出、何やってんだ!」「落ち着け! 離れろ、おい!」

 すぐに異常を察して、室内の部員たちが集まって来た。力づくで引きはがされても、路太は必死に小柏に向かって腕を振るう。

 届かないと分かると、路太の衝動は手近なものへと移った。小柏を庇おうとする先輩、同級生、そして小柏と共に作り上げてきた作品――全部、路太の目には偽りの存在として映る。

 見慣れた姿をしているが、全て別の世界のものだ。路太を騙そうとしているのだ。

 騙されるもんか! こんなもの!

 「やめろっ!」

 倒れた箪笥。古い木材は衝撃に耐えきれずひび割れる。小柏が悲鳴を上げた。ざまを見ろ。

 引き出しから飛び出した小さな模型は、足で踏みつける。偽者の友人と作品を作り上げても意味は無い。

 ゴミ。これはゴミだ。

 「ひどい……どうして……」

 小柏の悲鳴は、最早啜り泣きに変わっていた。原型を失って床にへばりつく模型たちを拾い集め、涙を流している。

 馬鹿野郎。泣きたいのはこっちだ。友人にすり替わった挙句、路太が気付かないと思って愛想よく振る舞うなんて、やってくれる。騙されるところだったじゃないか。

 人を騙そうとすると、それだけの報いがあるのだ。偽者め。

 「へ、ざまみろ……!」

 「新出くん!」

 誰かに頬を打たれた。

 「……木羽」

 痛みはほとんど無かった。けれど、相手が雪だということが路太の動きを止めた。止めることができた。

 「なんで……」

 「あなたの様子がおかしいって聞いたから」

 「……」

 雪の頬は赤く上気している。余程慌てて駆けつけたからか、怒り故か、あるいは。

 それは路太のために? 別の理由で?

 熱が抜けかけた体に、再び仄暗いものが宿る。だが、もう手当たり次第に攻撃しようという気持ちは無くなっていた。

 「……すみません。新出くんは連れて帰ります」

 雪は敏感に何かを察したらしい。路太の鞄を掴むと、路太の手を引いて半ば強引に部室から連れ出した。

 追いかけるように聞こえてくる路太への罵声。大きくなる小柏の泣き声。痛ましいそれを聞いても、路太は表情を変えなかった。

 それを確認して、雪はこっそり微笑んだ。

 

 

 校舎を逃げるように飛び出し、知らない道を行く。方向からすると、遠回りをしながら自宅に向かっているようだ。

 「……一体、何があったの?」

 小さな公園で足を止める。あまり手入れがされていないらしい、ペンキが剥げかけたベンチに並んで腰かけた。

 しかし雪に促されてもなかなか話す気になれず、好き勝手に繁茂する雑草を踏んでみる。さっき踏みつけた模型の感触が蘇るような気がした。

 「……小柏くんと喧嘩でもしたの?」

 答えようとしない路太に、雪はやや突っ込んだ質問を試みる。

 「喧嘩するにしても、暴力はだめよ。ちゃんと謝った方がいいわ、とも……」

 「友達じゃない」

 路太はきっぱりと言い放つ。雪の眉間に皺が寄った。

 「何言ってるの? 友達でしょう?」

 「違うんだ。あいつ、あいつは……」

 覚悟を決めるため、一度大きく息を吸って吐く。

 「あいつは……小柏だけじゃない。昨日から、色々おかしいんだ」

 「……それ、詳しく聞いてもいいのかしら?」

 もし雪が「それは勘違いじゃないか?」と言ったら、路太は彼女に話す気を失っていただろう。だが幸いにも、雪は路太を否定せず事情を知りたいと言ってくれた。

 「その、信じてもらえるか、分かんないんだけど……」

 促されるまま、路太は昨日の出来事を、そして今日何があったかを話し始める。

 突然態度を変えたクラスメートたち、雪と路太の関係への羨望、小柏や先輩の変化――自分を取り囲む人々がどんなに変わってしまったか、雪に知ってほしくて路太は必死に喋った。それはもう、説明どころか説得する勢いで。

 雪はその全てを静かに、時々相槌を打ちながら聞いてくれた。決して否定せず受容しようとしてくれる雪に、路太も次第に落ち着きを取り戻す。

 「つまり、みんなが急に『家畜』としての私を受け入れるようになって、それがおかしいことだと言うのね? それこそ、突然別の世界に来てしまったと感じるくらい」

 「だって、部活の先輩も昨日は……その、気持ちのいい話じゃないんだけれど、木羽のこと、すごく馬鹿にした言い方してた」

 思い出して気分が悪くなる。

 「でも、今日は全然違ったんだ。木羽と俺の関係が、すごく良いものだって考えが変わっていたんだ。一日で、こんなに人って変わるか?」

 金で雪を好き勝手しようとしたことだけではなく、突然言動が変わってしまったことも、路太の気分を害する要因だ。知らず、眉間に皺が寄る。

 「……でも新出くん。私、言ったじゃない」

 「何を?」

 雪の指が、路太の眉間を優しく撫でた。まるで「そんなに思い悩んで苦しむような問題ではない」と言うように。

 「私は『家畜』であることに幸福を感じてるって。きっと皆、その話を聞いて納得してくれただけよ」

 「……それ、木羽は前から言ってるけど、俺はそうは思わない」

 「どうして?」

 もうこの際だ。隠すこともない。路太は本音を打ち明けることにした。

 「だって、やっぱり、家畜は家畜だ。人間が管理して利用する動物のことで、人間のことじゃない。人間が、そう呼ばれるべきじゃない」

 本来、人間が『家畜』として扱われることは、屈辱であるべきだ。少なくとも、路太はそう考えている。そうでなければ、勝負に負けた相手へのペナルティにならないではないか。

 「……新出くんは、私が幸せを感じるのが嫌?」

 「そんなことない。完全に予想外だったって感じ」

 そう、ただ意外だっただけだ。敗者である雪が、ペナルティをそうと感じていないことに自体に不満はない。

 「ねえ、『家畜になる』という条件は、私が負けた時点で意味をなさなくなっていたようだけれど、新出くんはどうしたいの?」

 「どうって?」

 「私は自分が家畜であることに不満はないのだけど、新出くんはどうなのかなってこと。あなた、勝負に勝って飼い主になったのに、今全然幸せそうじゃないんだもの」

 「……」

 なるほど、こんな気持ちは幸せと程遠い。

 でも、それは路太が『飼い主』になったからではないし、ましてや雪が『家畜』だからでもない。もっと根本的な理由に、路太はようやく向き合おうとしていた。

 「……俺、木羽に家畜になって欲しかったんじゃない」

 「じゃあ、何に?」

 「昔のように……仲良くなりたかったんだ」

 『女と仲良くするのはダサい』と考えていた時期を乗り越え、どうにか雪の気を引こうと画策した日々を経て、路太は一つの答えに辿り着く。

 「恋人じゃなくて、ただの友達でもいい。一緒に昔を懐かしんだり、これからの高校生活を楽しんだりしたかったんだ。木羽と」

 ぱっと目の前が明るくなるほど、路太が吐露した答えは希望に満ちていた。

 共に過ごす時間、傍らにいる雪は『家畜』なんかじゃなくていい。木羽雪、その人のままでいい。

 雪に、雪のまま向き合ってもらえれば、それでよかったのだ。

 「それは今からでもできないの?」

 路太の心の奥底から、ようやっと正体を現した願い。雪もそれに向き合おうとしてくれている。

 嬉しい。願いが叶う瞬間の高揚。幸福とはこういうものだ、本当は。

 「木羽、いいのか?」

 「ええ。新出くんが、私の知っている新出くんのままだって分かったから」

 「……ああ、でも……」

 幸せを前に現実という暗雲が立ち込めることを思い出す。太陽のように路太を照らしてくれた幸いを、あっという間に陰らせた。

 「でも、皆、そう思ってくれないんだよな……もう」

 クラスメート、小柏、先輩――既に雪のことを路太の『家畜』だと考えている人々。どんなに雪と路太の間柄が変わったのだと説明しても、彼らの理解はきっと及ばない。

 誰からも理解されない友人関係。あるいは将来的に恋に発展したとしても、誰もそうとは思ってくれないなんて。

 「俺と木羽に何があっても、飼い主と家畜としか、思って貰えないんだ……」

 きっかけが自身にあるだけに、路太は誰も責められない。

 でも、事ある毎に訂正を繰り返していく日々を思うと悲しくなった。自然と頭も垂れていく。

 「私が知っていれば、いいじゃない」

 「え?」

 項垂れていた顔を上げると、まっすぐに路太を見据える雪と目が合った。微かに微笑みを湛えた穏やかな瞳。

 「新出くん言ったわよね? 急にみんなが私のことを家畜と認め始めたって。突然、変わってしまったって」

 「ああ」

 「じゃあ、私は?」

 「木羽は?」

 「私は最初からそう言っていたじゃない。そして、今は新出くんの話を聞いて、きちんと理解できているでしょ?」

 「あっ」

 皆が変わっていく中、雪だけは変わっていない。

 とても、とても重大なことに気付いた。ずっとずっと、皆が変わる前から、雪だけは言動を変えずにいるのだ。

 そのあまりに単純な発見は、路太にとって大きな衝撃だった。目の前の少女こそ、唯一同じ世界に住んでいる人間だという事実。

 雪だけだ。路太の生きている場所と同じ所に立ってくれるのは、雪だけ。こういう存在のことを、きっと救世主と称したり、後光が差している人物と例えたりするのだろう。今の路太にとって、雪はそういう存在だ。

 「木羽は……変わらないでいてくれたんだな」

 「ええ。私、何か変わったかしら?」

 「いいや。……じゃあ、これからも変わらないでいてくれるんだよな?」

 「ええ」

 雪の手が路太のそれを包む。血の温度。温かいものが流れ込んで、路太を満たしていく。

 ああ、同じものを共有してくれる誰かがたった一人いるだけで、こんなにも満たされる。

 「俺、馬鹿だな……」

 最初から素直になっていればよかったのだ。約束だの家畜だの、つまらないことで雪を傍に置いておこうとした。そんなもの、必要なかったのに。

 「ふふ。人間一度や二度、馬鹿なことをするものよ。……それに」

 指が絡みつく。妙に艶(なま)めかしい動きは、触手のようだ。

 「その馬鹿みたいなことが、思いがけないことに繋がったりもするわ」

 それは、遠回りを経てここに至る二人のことを言っているのだろうか。それとも――いや、今はそんなこと、どうでもいい。些事だ。今や路太の脳は、目の前の少女がもたらす幸福に蕩(とろ)けてしまっている。

 「ね、新出くん。ずっと一緒にいましょうね。色んなものを共有するの。時間も、思い出も」

 「ああ、木羽さえいいなら」

 この誘いに応じれば、雪は傍にいてくれる。それが分かっているから、路太は何も考えずに是と返した。

 それ以上に重要なことは無い。たった一人、路太と世界を共有してくれる存在以上に、何を尊重せねばならないのだ。

 「嬉しいわ。ね、じゃあ一緒に×××にも行きましょうよ」

 「え……」

 嫌な地名を聞いて、幸福が薄まる。雪の思い出の地だと知っていても、やはり良いイメージが出てこない。悪夢ばかりが先行する。

 「行ったことないから、新出くんにはあそこの良さがわからないのよ!」

 不満が顔に出ていたのだろう。雪は自身の思い出の地について、熱弁するべく身を乗り出す。赤みの増した頬が、ぐっと近付いた。

 「行ってみればきっと好きになるわ。私が過ごした場所、新出くんにも知ってほしいの」

 「俺にも?」

 「ええ、共有しましょう。私の思い出」

 思い出――雪の世界。それを雪は共有しようと言う。でも、×××はやはり怖い。でも……

 「ああ、いいな。いい」

 でも、雪と同じ世界にいれるのは素敵だ。一人きりではない世界にいたい。

 「じゃあ、私と同じところに進学しましょう」

 「……大学ってことか?」

 「ええ。知ってる? 大学生の夏休みって高校生より長いの。その時間をつかって、一緒に思い出を作れるのよ」

 「でも……」

 雪の期待に満ちた目が見つめてくる。実際、未来の夏休みの提案は魅力的に聞こえた。

 でも、こればっかりは、路太でもすぐに返事はできない。

 「俺……」

 路太にだって、大学でやりたいことがある。

 工学部に進んで、機械工作の勉強をしたいのだ。本当は、芸術や美術を学べる大学で模型や立体作品について学びたいけれど、自分のセンスと学費を考えれば工学部が無難だと判断しての選択だ。それでも、第一希望ではなくても大切な夢だ。将来の夢。路太が、自分自身のために抱えているたった一つのもの。

 「新出くん……?」

 「お、俺……」

 覗き込む雪に、何と言えばいいだろう。言えば傷つくだろうか。彼女を悲しませたくない。それに何より――

 「……じゃあ、私たちまた離れ離れになるのね」

 「……っ!」

 再びの離別が恐ろしい。雪がいなくなったら、また一人の世界に放り出されてしまうかもしれない。

 嫌だ。怖い。一人になった後、友人や先輩がまたおかしくなったら? 誰が、路太と同じ世界にいてくれる?

 雪しかいないではないか。

 「寂しいわ……」

 しおらしい呟きが、路太の背中を押す。

 「俺も、寂しいよ」

 一人の世界になってしまうのは。

 「新出くん? ……じゃあ」

 「一緒に行くよ、俺」

 どこでも。雪の行くところならば。雪のいる所に、路太の世界もあるのだから。

 「嬉しい、新出くん!」

 人目もはばからず、雪は路太に抱きついた。

 「お、おいおいっ」

 突然のことに驚き、次いで抱き返すかちょっと迷う。やはり少々恥ずかしい。だが、子供っぽくも情熱的な感情表現に悪い気もしない。

 「ずっと、ずっと一緒よ!」

 路太の首に回った腕に力がこもる。

 

* * * * *

 

 捕まえた。

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