第6話 幼馴染と家畜と平穏
いつもより陽が高い通学路を、路太はのろのろと進む。まるで今の気分をそのまま表したような足取りだった。
けれど、一歩一歩、歩を進めるごとに自宅という親しんだ空間に近付けているのだと思うと、次第に軽くなってくる。気持ちも、先のやり取りから、この後の予定の方に向き始めた。
今日はろくに部活もできなかった。代わりに、自室で作りかけのラジコンを作るのはどうだろう。
確か先輩たちが、文化祭の催し物の一つとしてラジコンレースをやろうという話をしていたはずだ。元々は自作の駆逐艦や戦艦の模型を好きに動かしたいという趣旨だったようだが、学校のプールを使えるよう交渉も進めていると聞く。
そして勿論、そんな面白そうなことには、路太だって当然参加したい。お気に入りの船を大きな二十五メートルプールで縦横無尽に走らせられたら、きっと爽快だ。
よし、そうしよう。今日はラジコン艦の準備をしよう。
楽しい計画で頭がいっぱいになってくると、足取りはいよいよ軽快に……なるように思われた。新出家の門前で待つ、雪の姿を見つけるまでは。
「おかえりなさい」
「な……んで?」
「私がここにいるのが、何かおかしい?」
「だって俺、木羽のことおいてきた、はず……」
廊下で雪を振り切った。それから昇降口、そして家に到着するまで、路太は雪と出くわさなかった。追い抜かれているはずがない、はずだ。
「そんなこと、どうでもいいじゃない。それより、あんなことするなんて飼い主失格よ?」
「そんなことって、いや、おかしいだろ。どう考えても」
雪は汗をかくどころか、息も切らしていない。どこかで路太を追い抜いていたのだとしても、尋常な速さではない。まるで……。
「……お前、『人間』なのか?」
一つの可能性が生まれる。ひょっとしたら、本当に雪は人間ではないのかもしれないという、突拍子もない可能性が。
「……」
探るように雪が路太を見つめる。きっと、路太も同じ眼差しで雪を見ているのだろう。
「……そ」
しばしの対峙。ついに雪が口を開こうとした瞬間、
「あらやだ、二人とも家の前で何してるの?」
母の声が二人の間に飛び込んできた。
「路太? 今日は随分早いじゃない」
何も知らない母は、買い物袋を揺らしながら近付いて来る。どうやら出掛けていたようだ
雪が門前で待ち構えていたのも、家に誰もいなかったために入ることができなかったからなのだろう。
「おばさま、荷物を運ぶの手伝います」
先に動いたのは雪だった。
「あら。ありがとう、雪ちゃん」
手伝いを申し出られた母は嬉しそうに笑い、それから路太に向かって「雪ちゃんはこんなに気がきくのにうちの息子ときたら……」と言いたげな視線を寄越した。
ドアの向こうに先んじて進んで行く雪は、路太を振り返らない。薄暗い家の中に、化け物が滑り込む錯覚。
「ほら、何してるの。早く入んなさい」
何も知らない母が呼ぶ。
怪物のいる家になど入りたくない。けれど、路太の家はここだ。ここだけなのだ。
「……」
自分の家に入るために勇気を要する日が来るなど、考えもしなかった。
「……ついて来んなよ」
とんとんと階段を上がる足音は二つ。台所に荷物を置いた雪は、無言のまま路太に続いた。言葉での抵抗では、その歩みを止めることはできなかった。
「……家畜よ」
自室にまで入り込んだ雪は、ドアが閉まると同時に口を開いた。
「私が人間かって訊いたわね? 家畜よ。新出くんと約束したとおり、私は『家畜』」
「あっそ」
自分で尋ねておきながら、もう雪の答えには興味がない。返事もそっけなくなる。
「じゃあ出てけよ。家畜は家畜らしく」
「いやよ」
明確な拒否の意思。雪の意思による拒否。
「新出くんが、私のことを屋外に置くのが妥当な家畜だと言うならそうするわ。でも、新出くんはまだ、私をどういう家畜にするかも決めてないじゃない。良い飼い主になるって言ったんだから、無責任にそういうこと言わないで」
「じゃあもうやめるよ! あんな約束は無かった! これでいいだろ!?」
責める雪へ、路太は一番の切り札を突き付けた。書面に残してまで交わした約束を反故にするという、最も効果的な切り札を。
そうしてでも、今は雪から解放されたかった。
「そんなこと絶対させない!!」
だが、雪はそれを拒む。
「絶対に守らせるわ! 勝っても負けても守るつもりだった約束なのに、簡単に無効になんかさせない!」
「お前っ、勝ったのは俺だって分かってるんだろうな!? どっちに主導権があるのか!」
「勝ったのは新出くんよ! 分かってるわ! でも、約束そのものは勝った方と負けた方、双方が遂行してこそ意味があるものじゃない!」
あの書面に名を記したのは路太と雪。片方だけが約束を果たしても意味が無い。
それは同時に、約束を無効にするためには双方の同意が必要だということを意味していた。
「でも、俺、もう……!」
守るつもりがない約束はただの重荷だ。自ら背負ったそれを、路太は振りほどこうともがく。けれど、逃がすまいと圧し掛かる雪の言葉は存外力強い。
困った。助けてほしい。この足枷から解き放たれ、楽になりたい。
「……ねえ」
一日のうちに憔悴していく路太を、雪がどう感じているのかは分からない。しかし、静かに彼を見つめた雪の呼びかけには、確かに労りの色があった。
「もし、『飼い主』でいることが辛いなら、今はただの幼馴染になりましょう。ただの高校生同士に。ね?」
雪が提示した妥協案は、彼女の気遣いなのだろう。それが理解できても、受け入れて納得できるような状態ではないのだけれど。
「……」
尚無言の路太に、雪は軽く溜息を吐く。
「もしかして……私があなたより早くここにいたから、怖がってるわけじゃないわよね?」
まさかね、と上目使いで探ってくるが、実際にそれも路太を混乱させている一因である。非常に、不本意なのだが。
「……私、自転車通学してる友達を捕まえて送ってもらったのよ。まあ、友達が捕まらなければ、タクシーでも呼ぶつもりだったし」
思っていたよりも路太を驚かせたのだと、雪はようやく理解したらしい。少しばかり申し訳なさそうに、先回りの種明かしをしてくれた。
「ふーん……」
言われてみれば、全く妥当な答えだ。一つ疑問が解決しただけで、ふっと頭が軽くなったような気がする。「疑わしいながらもその答えを受け入れようか」という意味の「ふーん」も、心なし緩んだ音をしてた。
いやいや、それでも、小柏やクラスメートの言動がおかしかった理由は分からないではないか。全てが解決するまでは、簡単に気を許すわけにはいかない。
「とりあえず、高校生らしいことをしましょう」
雪が座卓に広げた何枚かの紙には、『全国高等学校総合文化祭』とやたら長ったるい、その割りに聞いたことがない催しの名前が印刷されている。
「……なんだそれ?」
「やだ、貰って来なかったの? 文化庁と市町村で主催する……うーん、文系のインターハイ、みたいなものね。その案内よ」
「そんな大掛かりなのがあるのか」
『文化祭』を名乗ってこそいるが、規模は学校単位で行うそれとは大違いのようだ。内容も学術的、芸術的要素が強いことが想像できる。
「これ、弁論の部もあるのよ。各部門の都道府県代表になれば、この『総文祭』に出ることができるの」
「あ、なるほど、分かった」
そこまで言われれば、皆まで聞かずとも分かった。
校内の学年代表から県代表に、そして学校の名前を背負い『総文祭』に参加する。それが、教師の言っていた『学外の大会』というやつの、最終目標なのだろう。
「県代表なんて、なれるとは思えないけど」
プリントの端をつまんで目の前にかざす。畏(かしこ)まった小さな文字で記された案内を見ると、読むより先に嫌になってしまいそうだ。
「でも、こういう催しに参加できれば内申に書けるじゃない。入試面接の話題にもなるし」
「まあ、そうだよな」
案内によると、弁論以外にも囲碁や書道、音楽など幅広い分野が総文祭の対象になっている。心からそういうものに打ち込んでいる生徒には申し訳ないが、路太にしてみれば、大学入試に使える箔押しくらいの認識だ。打算なしにはやる気も起こらない。
「個人的には、県代表まで行けたらラッキーってとこだな」
だから、そんなに高望みもしない。
「なら、まずはそこを目指して頑張りましょう」
白い指が別のプリントを指す。『選考会』と印字されたそれは、また別の弁論大会の案内のようだ。
「テーマもだけど、読み方や読む速度も大事よ。緊張で早口になった程度で、評価を下げてもつまらないもの。喋るときはしっかり顔を上げて前を向いて」
「そっか、そういうのも考えないとダメなんだな」
雪との勝敗を賭けた弁論大会では、テーマと指定された原稿用紙枚数以上に気に掛けるべき条件はなかった。学年内での発表故に、発表者も聴衆もお互いに知った中、緊張感など皆無だ。
しかし、見知らぬ何十人もの大人を前に読み上げるとしたら、同じようにはいかない。
光の抑えられた檀上。一斉に向けられた知らない誰かの視線。一言一句を逃さないよう聞き入られ――考えただけでも心臓が冷える。
一度は雪の言を誤魔化すため、母に「弁論大会に向けて準備をする」と言ったが、協力してもらうのはあながち悪手ではなかったようだ。
それに、気が紛れる。
雪は「高校生同士のように振る舞う」という言葉通り、家畜だの飼い主だのとは言い出さず、路太が読もうともしないプリントにじっと視線を這わせている。
(……そうそう、こういうので)
こういうのでいいのだ。
普通の高校生同士、プライベートな空間で立場相応の問題に頭を悩ませ、話し合うなんて、理想的な過ごし方ではないか。
けれど、路太と雪に限っては『よくある光景』にはなりえない。今はただ、そういう風に雪が振る舞っているだけなのだ。
(……むなしい)
作られた理想ほど空虚なものもない。気付いてしまうと、一生懸命プリントを読んで頭を捻っている雪までが白々しく見えてくる。
「……やっぱ、いいわ」
「え?」
「そんな考えなくていいよ。こないだ書いた弁論を書き直せば」
学年で最優秀に選出された時の原稿はまだとってある。ちょっと手直しすれば、路太一人でも多少マシなものにできるだろう。
「あら、そう? てっきり、あのテーマはもう嫌だって言い出すかと思ったわ」
「別にそんな……」
そんなこと言うはずがない、と続けようとして気付く。
「テーマって言えばさ……俺とお前、同じテーマで書いたよな?」
「ええ。だって勝負だもの、当然よ」
そう、別々のテーマで書いたのでは公平さに欠けると言って、二人で勝負をするときには共通のテーマを選んだ。
何を選んで弁論を書いても同じだと思っていた。だから、あの時の路太は、
「木羽が決めたんだよな?」
雪にテーマの決定を任せたのだ。そして彼女が指定したのは『現代社会と食』だった。
「……そうね」
返事の前にある、僅かな間に邪推してしまう。
どうしてそれを選んだのか。何か彼女なりに意図するものがあったのだろうか。
「どうしてこれを選んだのか、聞いていいか?」
確かめるために質問を続ける。雪の目が泳いだ。
「おかしなテーマではなかったでしょ? それに、私に任せたんだから、今更気に入らなかったとか言わないでよね」
結果が出てから不満を言うな、と――雪の言うことはもっともだが、それは路太の求める答えではない。かえって不審を抱かせる返答だ。
けれど、そこに食いつくことはしない。そんなことをしたら、今、せっかく穏やかになってきた空気が壊れてしまう予感があった。
まるで、おっかなびっくり渡る綱渡りの上にいる気分だ。
「文句はないけど。……ああ、そういえば、木羽の書いた弁論がさ」
「私?」
「そう。それが分かり難いんじゃないかって。あ、俺じゃないぞ、言い出したのは」
慌てて付け足したが、雪の眦がつり上がるのを止めることはできなかった。
「じゃあクラスの男子がってことね。最優秀どころか箸にも棒にもかからない弁論書くくせに、随分な口のきき方をしたものね」
「そう言うなよ」
棘のある言い方だが、確かに一理ある。と言うのも、路太を除いた上位表彰者はほとんどが女子生徒だったからだ。その中には、勿論雪も含まれている。つまり雪にとっては、弁論の出来で負けた男子生徒からケチを付けられた状況というわけだ。
「でも、口に出さなくても新出くんもそう思ったんでしょ?」
「いや、俺は……」
否定しようとして口を噤む。
クラスメートの「雪の弁論がコーショーで分かりにくい」という意見に、同意こそしなかったが、否定もしなかった。その事実があるのに、雪の機嫌をとるために「ノー」と言う嘘をつきたくない。
「……確かに、ちょっと分かりにくかったとは思うな」
「ふーん、そう」
「もしかして、木羽の弁論がそうなったのって、選んだテーマと関係してたりするのか?」
どういう繋がりがあるのか見当もつかないが、ふと思いついたものを意識せず口にする。
そして、目を丸くした雪の顔を見た。
「え、木羽?」
図星だったというのだろうか。
答えを待っても、雪は言葉を発するどころか、目を見開いたまま微動だにしない。じっと路太を見つめたまま、
「……覚えてないの?」
気が抜けたように言った。
「は?」
一体何のことだろう。
「いえ、覚えてないなら……いいの」
まるで何のことか分からない。一人困惑する路太に対し、雪は、理解できなくても構わないのだと言うがそうはいない。
覚えていないなら――そんな言い方をされたら、気にならないわけが無いではないか。
「何だよ? 俺、何か忘れてる?」
「そうだったとしても、気にしなくていいわ。その程度のことよ」
「……」
台無しだ。
折角、雪が作ってくれた『幼馴染同士』の空気なのに、彼女は自ら壊してしまった。
もしかしたら、本当に些細な話なのかもしれない。けれど、今の路太にとっては、再び猜疑心を大きくしてしまうのに十分な原因だった。雪が何かを意図的に隠そうとしている。その行動に悪気が無いのだとしても、我慢できない。
「新出くん?」
抑えられない。
「……言いたくないなら」
「え?」
「言いたくないなら、そういう言い方するなよ」
言えば雪を傷つけるだろうと分かっているのに、口が勝手に動く。
「気を引くような言い方して、困ってる俺を見るのが楽しいのか?」
「そんなんじゃないわ」
「じゃあ、なんで言わない? 秘密にしなければならないような何かがあるのか!? やっぱり木羽は……」
自分の言葉で勝手に高揚していくのが分かる。同時に、言葉と言う形を与えたことで、勝手な推測に過ぎなかったものが確信へと変わっていく。
「……木羽は、俺を騙してるんじゃないか?」
騙しているなら、雪にやましい気持ちがあるということだ。
「そんなこと……」
眉根を寄せて首を横に振る雪。気に障る。一言「ごめんなさい」と言ってくれれば、路太の気は収まるというのに。
「いや、信じない。信じないぞ、もう!」
「やめて! そんなこと言わないで!」
「なら、信用されるような言動してみればどうなんだよ!?」
雪が顔に苛立ちを浮かべる。それは路太も同じだ。見なくても分かる。一触即発、次に出るのは言葉か拳か、最早分からない。
そこに第三者の声が割って入った。
「ちょっと路太、大声出して何してるの?」
やや乱暴に階段を駆け上がってくる音は、母親の不機嫌を露わにしている。ノックとほとんど同時にドアが開いた。
「二人とも、喧嘩なんかしてないでしょうね?」
こういう時、一方的に路太に原因があると言わないのは、やはり母親として息子を信じているからだろう。乱入してきた母の一声を聞いた瞬間、声を荒げたことへの罪悪感を覚える路太もまた、彼女の息子だった。
「別に……」
「大丈夫です、おばさま」
雪も吊り上げていた双眸を平時のものに戻していた。大人の一声で矛先を収めてしまえるのは、やはりお互いどこか子供だからなのだと思う。
「……もう高校生なんだから、喧嘩なんかしてないでね」
どう見ても大丈夫じゃなかっただろう――母親の顔にははっきりそう書いてあった。実際、路太たちは落ち着きを取り戻しこそすれ、恰好は仁王立ちで向かい合ったままなのだ。
けれど、この場は二人の言葉を信じてくれるらしく、気にしながらも再び階下へと戻って行く。
「……ごめんなさい、怒鳴ったりして」
「ああ、いや……」
謝るのは怒鳴ったことだけかよ――心の中のくさくさしている部分から、そんな声が聞こえた。でも、謝ることさえできない自分よりましだろう、つくづく恰好悪いったらない。
「俺も、悪かった」
雪より恰好悪いのは嫌だ。意外にも、プライド故に路太は謝罪を吐き出すことができた。
「これでこの話はおしまい、ね」
「ああ」
肩が軽くなる。やはり変に意地になるよりも、素直になってしまった方が良い。
「じゃあ、次はこれね」
「え?」
新たに取り出された一枚の紙の上には、
「進路意識調査よ。提出、もうじきだし」
高校一年生の顔を顰めさせる文字があった。
「そんなんあったな……」
何が面白くて、高校に入って数か月で大学進学のことなど考えなければならないのか。こちとら数か月前まで受験生をやったばかりなのに。
「大事よ。大学進学を希望してるなら、今のうちから意識しておくべきだわ」
路太たちの通う高校は決して進学校ではない。それでも、大学を目指す生徒には、教師陣もそれなりに協力してくれる。早いうちから進学の意図を示しておいて不都合はないのだ。
「それとも、新出くんはまだ決めてない?」
「や、一応な……」
どこそこの学部に、と言えないのは成績が足りないことを自覚しているからだ。こういう時のプライドは、口を割らせようとしない。
「あら、決まってるの? へえ、そう……そうなの」
「何だよ、またそうやって」
気になる言い方をしてくるではないか。
「違うわ。もし決めかねているなら、同じ学部に誘おうと思っただけよ」
「お、木羽ももう希望決めてるのか」
「農学部よ」
「それ、絶対……」
絶対、畜産なんとか学科とか続くやつだろう。
秘密を感じさせるような物言いは嫌だが、こうも明け透けにされても調子が狂う。一周回って元に戻ってしまったような。
「……家畜が家畜のことを学ぶってか……」
「なに?」
小さな小さな呟きは、幸いにも雪の耳に届かなかった。
「何も」
追及を避けるように首を横に振る。路太自身、ふと口を衝いた冗談にしては性質(たち)が悪いと感じたくらいだ。わざわざ雪に聞かせたいものではない。
「あー、そろそろ母さんが夕飯の準備始めると思うぞ」
「あらそう。じゃあ私、お手伝いに行ってきていいかしら?」
「どうぞどうぞ」
願ったり叶ったりである。雪が出て行き、ドアが閉められる音を聞いて、ようやく本当に緊張が解けた気がした。
「ふぅ……」
知らず安堵の息が漏れる。
「……まさかあいつ、今日も俺の部屋で寝るのか?」
強制的に二人きりになる時間を考えて、再び気が重くなり始める。
「いや、木羽は本当は嫌かもしれないし……」
母親の手前、何が嫌だとかこうして欲しいとか言い難いだけで、本当は路太と同じ部屋では眠りたくないと思っている可能性だってあるはずだ。……勝手にベッドに入り込んで来たりされたけれど。
それはそれとして、一度確認してみる必要はあるだろう。できれば少しでも早く、夕食の時にでも。
しかしながらどう切り出したものだろう。味噌汁を啜りながら頭を捻り、やっと思いついたのが、
「ところで木羽、幼馴染の高校生同士が一つの部屋で夜を過ごすのって、どう思う?」
という非常に遠回りかつ、色々含むものがありすぎて誤解を生む質問だったのだからよろしくなかった。
言った後、すぐにしまったと気付いたが、冷たい母親の視線が既に向けられていた。「やっぱりあんたを信用しすぎだったかしら」と考えているのが、ありありと伝わってくる。
「そうね……」
雪は箸を付けようとしていた手を止めて、考える素振りを見せた。言葉の裏を読もうとしているのか、素直に言葉通りに受け取っているのか、その表情からは窺えない。
「さっさとやることを終わらせれば、早く眠れると思うけど」
そして返されたのは、やはり色々な解釈ができそうな意見だった。母親の視線がますます厳しくなる。どうしてそれは雪には向かないのだろうと、路太は割と真面目に考えた。
「ヤ、ヤること……?」
「ええ。宿題とか、意識調査のプリントとかね」
「ああ……うん、そうだな」
雪の言葉こそ、そのまま受け取るべきだったようだ。色々勘繰りかけていたのが、かえって恥ずかしくなってくる。
「あら、そういうのはちゃんと提出しなきゃダメよ。内申に響いたら困るじゃない」
追い打ちをかける母の言葉。全くその通り。ぐうの音も出ない。
「大丈夫ですよ、おばさま。宿題はしっかり私が見ますから」
「あらぁ。雪ちゃん、ありがとうね」
ここでしっかり株を上げていく雪である。自分の家にいるのに路太の肩身が狭くなるのは、母の中で雪の株が高すぎるからなのではなかろうか。
「それに意識調査も、新出くんは志望校が決まっているようですから、すぐ終わりますよ」
母を安心させるために雪が続けた言葉に、路太は内心で舌打った。
「え、そうなの路太?」
「あー……まあ」
路太は、志望校や学部についてまだ家族と話し合ったことはなかった。
雪へ口止めをしておかなかったのは、路太のミスである。いずれ話すと思えば黙っておくような話でもないのだけれど、それでも、時期を見て路太自身が伝えるのが筋だっただろう。
「やだ、あんたそういうのは教えなさいよ」
「ゴメンナサイ。言おうかどうか迷ってて……」
言い訳を考える路太を、雪が申し訳なさそうに見つめている。まさか大学進学という人生の重要な選択の一つを、家族に相談していないとは彼女も思わなかったようだ。気にするなと視線で伝える。
「まあ、いいわ。でも、後で教えてね。ここから通える距離かとか、私立か公立かとかね」
「あ、はい」
路太の希望はどうであれ、諸々の費用を負担するのは親で、母がそれを気にするのは至極当然だ。経済的なことを考えず、気持ちの整理ができないという理由で言い出せなかったことを、路太はこっそり恥じた。
成績は頑張り次第である程度何とかなるが、稼ぎは簡単には増やせないのだ。増やそうと思えば、親にそれなりの負担が増える。勉強にはそういうリスクはない。サボればそれがそのままリスクになるだけだ。
「そういえば、雪ちゃんはどうするの? もしかして、×××にある大学とか考えてたり?」
「!?」
何気なく母が口にした地名――×××。
雪と、あの夢の中で目指していた場所と同じ名前。
「ど、どうして……?」
何故母がその名前を知っているのだろう。
まさか、路太の見た夢を知っている? そんなはずはない。そんな馬鹿なこと、起こり得るはずがない。でも、ならば何故?
もしかして、これは夢なのか?
母と雪と食卓を囲んでいる夢。平和でありながら現実でない景色。幻。
また、気分が悪くなってきた。
「そちらの問題はひと段落したので。大学はこっちにしようと思っています」
目の前の雪は、何でもないように過ごしているのは、夢の住人だからだろうか。
では、路太は何者だ? いつから夢に入っていた? 路太自身が夢の住人ではないと、どうして言い切れる?
(嫌だ、嫌だ……!)
呼吸が荒くなっていく。視界が歪む。
「あの時はまだ小学生だったけど、大変だったわね……雪ちゃん」
「あ、あのさ……」
何やら感慨深い様子の母に、ようやっとの思いで声をかけた。
「木羽、何かあったっけ?」
回答次第で、確信が持てる。
これが夢か否か。夢だとしたら、路太ですら目覚めと共に掻き消える泡沫(うたかた)になってしまうけれど、それでも確かめずにはいられなかった。
「やだ、忘れちゃったの? ×××にいた雪ちゃんのおじいさんが急に亡くなって、遺ったものを色々片付けるために、雪ちゃんたちは引っ越したんじゃない」
「え、え? そうだっけ?」
完全に忘れていた。それどころか、何も思い出せない。
では夢の中の二人は、かつて雪が暮らした場所を目指していたということか。
「おばさま、決まってから実際に引っ越すまで間がなかったので、覚えていなくても仕方ないですよ」
雪がとりなしてくれたが、やはり思い出せないのは薄情な気がした。仮にも幼馴染なのに。フォローしてくれた雪の声も、どことなく寂しそうだ。
「もう、この子ったら。晴(てる)さんが送ってくれたお菓子にはいつも一番に飛びついていたのに」
「……あ!」
記憶が蘇る。
半年に一回ほど、箱入りの菓子が届いていたこと。少し上等なそれを楽しみにしていて、どこから送られたのかも気にせずに食べていたのだ。
いつからか届かなくなったそれは、やがて記憶から忘れ去られてしまっていたけれど、胃袋はきちんと覚えていたようだ。
「あれ、木羽んちからだったのか」
「ええ。思い出してくれた?」
「これで思い出さなかったら、あんたちょっと冷たいわよ、路太。あんなに喜んで食べていたのに」
「ほ、本当ですか?」
嬉しそうな雪の声。いつになく高揚して聞こえるそれが、路太には引っかかる。
「嬉しいです。頑張った甲斐がありました」
「え? 木羽があれ作ってたのか?」
きちんと包装までされたあの菓子が手作りだとしたら、かなりの腕前なのではないだろうか。驚きを隠せない路太は、遠い記憶の彼方から芳醇なバターの風味を思い出す。甘い香りが鼻腔の奥をくすぐって、
「やだ、あんたやっぱり思い出せてないじゃないの!」
しかし、そこへ母親が水を差す。今度こそ、呆れたと言わんばかりの表情をしている。
「雪ちゃんのおじいさんが牧場を経営していたのよ。乳製品を扱うお店で加工してもらって、お菓子として販売していたの」
「あ、ああ、そういう……」
つまり、雪が頑張ったのは菓子作りではなく、その材料作りの方らしい。
母の言により、急逝した祖父の牧場のある×××と、木羽一家の引っ越しとが路太の脳で繋がった。
×××は夢の中の地名ではなかったのだ。かつて雪が暮らした場所として、現実に存在している。そのことが、ようやく実感できた。
「新出くんにも喜んでもらえていたみたいで嬉しいですわ、おばさま」
「でも、木羽がこっちに戻って来たってことは、牧場はどうなったんだ?」
「……」
雪が唇を噛んだ。母親が責めるような眼差しを投げる。どうやら、踏み込んではいけない類の問題だったらしい。
「閉鎖、したの。少しだけど雇っていた人たちもいたし、動物のこともあったからすぐには片付かなくって。でも、中学二年の冬、正式によそへの譲渡が決まったわ。だから、あの牧場はもう……」
「……そっか」
色々なものが結びついていく。
雪があれほどまでに『家畜』としての権利や立場を主張したのは、実際に家畜たる動物たちに触れることで、彼女なりに考えるものがあったからではないか。
×××という地も、幼い頃耳にしたその名前が無意識に残っていて夢に出てきたのだと考えれば、何ら不思議はない。
「……よかった」
ようやく現実に生きているという実感が湧いてきて、思わず安堵の言葉が零れる。
「ちっともよくないのよ?」
すると、ムッとした雪の声が飛んできた。
「私、長い休みにはよくそこで過ごしたの。思い出が沢山ある場所が無くなって、どんな気持ちになったか、新出くんに分かる?」
雪にしては珍しく露骨に不機嫌な物言いだ。口調も棘を隠していない。
「そうだよな。……すまん」
路太にとっては不気味な夢に出てきただけの地名だが、雪にとっては、楽しさも悲しさも学んだ大切な場所なのだ。
「そうか、だから木羽は農学部に行きたいって言ってたんだな」
今ならば、閉鎖してしまった牧場への未練が彼女にその決断をさせたのだと思える。
「ええ、何か動物に関わる仕事をできればって思ってるわ」
「素敵ねぇ、夢があるって」
既に『将来の夢』というものから疎遠になっている母は、勝手にうっとりとしている。
「新出くんは……」
「ん?」
「新出くんは、何か夢があるの? それとも、とりあえず大学には行っておきたいだけ?」
「……秘密」
それはそのまま『ある』という答えだったが、しかしどうしても言えなかった。
「ちょっと路太! とりあえずで行く大学にお金は出せないわよ?」
「だ、大丈夫だからさぁ」
勿論、そんな理由で進学したいわけではない。
「ふーん?」
知りたそうにしている雪と、僅かに疑わしげな母の視線を無視するために、路太は夕飯を摂ることに集中した。そんな凝視に負けるほど、路太だって押しに弱いわけではないのだ。
ところで、路太は重要なことをすっかり忘れてしまっていた。
雪に今夜も路太の部屋で眠るつもりがあるのか、確認することを失念していたのだ。
それを思い出したのは、食後にのんびり風呂まで済ませ、すっかり寛いだ様子の雪が自室へ入ってきた時だった。
「……忘れてた」
「何を?」
ドライヤーで乾かしたばかりの髪をいじりながら、雪は首を傾げる。
「だから、木羽が俺と一緒の部屋で寝るのってどうなんだって話だよ」
「そういえば、そんなこと言ってたわね」
雪はさして気にした様子でもない。夕食の席では完全に話題を変えられてしまったし、どうやらあまりこの状況への不満はないようだ。
「まあ、ほら……新出くんが変な気を起こしたら、先の二日で何か起こしてるはずだし。全然、心配してないわよ」
「あ、そう」
それは信用されていると思うべきか、据え膳に飛びつけない腰抜けだと思われているのか、判断に困る答えだ。一応、良い方に受け取っておくことにする。
「そういうわけだから、やること終わらせてさっさと寝ましょう」
「ま、そうだな」
雪が気にしていないのなら、路太がこれ以上言及することはない。元より、寝込みを襲うつもりもないのだから、雪の言うとおり彼女の身の安全と、同室で就寝することは何の関係も無いのである。
それに、今の雪ならば大丈夫な気がした。
今夜はごくありふれた高校生同士として過ごせる。今夜こそ妙な夢に悩まされることなく眠れる――そんな気がしたのだ。
だが、現実はそう甘くはなかった。
「新出くん、見て……」
幸せそうな雪の声。一体どこから聞こえるのかと頭を動かした路太は、自身が見たこともない場所にいることに気付く。一見大きなプレハブに見える建物。内部は、おおざっぱな仕切りで区切られているだけの簡素な造りだ。
そんな所にいること自体には覚えない違和感。やはり、夢の中だからだろう。もっとも、今の路太は自分が夢の住人であることに気付けない。夢の中とはそういうものだ。
「ほら、新出くん、こんなに……」
雪の声は足元から聞こえた。薄汚れた布団の上に横たる彼女は、腕に何かを抱えていた。一つ、二つ……いや、三つ。もぞもぞと緩慢に動く。
蠢く奇妙なピンク色のそれらは、赤ん坊だった。生まれたてを思わせる水っぽい肌、その下を流れる血が透けて見える。
「うわ、あ、ああ……!」
肌蹴た雪の乳房に群がろうとするそれらは、路太には、ただただ不気味に映る。
生まれたばかりの赤ん坊を、薄汚い場所で寝ころび、あやしている雪。その姿は人の様子ではない――まるで『家畜』。
「どうしたの? 私、頑張って産んだのよ?」
「けど、でも……!」
人間が出産する状況ではない。周囲には路太以外の人影もなく、「ここはちょっと変わった病院」だなんて冗談を言ってくれる者も、当然いない。
「さ、早く連れてって」
「え?」
赤ん坊が差し出された。ぬくもりを求めるように身を捩って近付くそれを、雪は無情に突き放す。
まるで「もうこっちに寄るな」とでも言いたげな仕草。路太は不快感を覚えた。
「子供が母親を認識するようになると、引き離す時に泣き喚いてかえって手間になるの。だから産まれたらすぐに母親とは別に飼育して、出荷するのよ」
「出荷……?」
雪は何を言っているのだ? 出荷?
馬鹿な。だって雪が差し出したのはどう見ても、人間の赤ん坊なのに。
「……生後間もなく親から引き離すのは、この子たちに限ったことじゃないのよ。だから、新出くんが一々気にすることないわ」
「……」
違う。路太が困惑しているのは、そこではない。
この赤ん坊を――見た目が人間のそれを、出荷するというのか? 彼らを売って、生活の糧にしろというのか?
「新出くん?」
いつまでも赤ん坊を受け取ろうとしない路太を、雪が不思議そうに見上げた。その目には一点の疑いもない。この状況がおかしいなんて、彼女は思ってもいないのだ。
「おーい、遅いぞ。難産だったかー?」
背後から何者かの声が聞こえた。
いや、聞き覚えがある。知っている。この声の主を。
「どうしたんだよ、新出」
「小柏……」
よく見知った顔の男が、路太の背後からひょっこり姿を現した。汚れた作業着に身を包んだ小柏は、路太と雪を見比べ、次いで赤ん坊たちに目を向ける。
「ああ、生まれてるな。じゃあ、持ってくか」
「お、おい」
無造作に首根っこを掴んだ手を、路太は押し止めた。
「新出?」
「い、いや……その……」
どうして、小柏は当たり前のように赤ん坊を連れて行こうとする?
連れて行ってどうするつもりなのだ?
どうして、どうして――尋ねたいことばかりなのに、一つも口から出て来てくれない。嫌な汗だけが全身から吹き出て、路太の異常を伝えていた。
「新出、顔色ひどいぞ? 具合悪いなら、ちょっと休んでろよ」
「違う、違くて……」
「そうか? じゃあ、こいつら運ぶのだけでも手伝ってくれよ」
ほい、という気軽さで、路太の手に赤ん坊が1つ乗せられた。
「無理するなよ?」
心配しながらもテキパキと作業を進める小柏。彼の背中を見ながら、路太はただただ震えていた。腕の中の赤ん坊をどうすることもできず、震える足でどうにか立っていた。
「新出くん、早く行って。ぐずるわ」
雪の言葉通り、赤ん坊がうめき声に似た泣き声を上げ始める。母親を求めるその声は、妙に耳障りだ。
「おい、新出!」
少々苛ついた小柏の声も聞こえる。不快感に拍車がかかった。
「遅いぞ? 具合悪いなら、変にやるとか言わずに休んどけって。かえって仕事が遅れるだろ」
「……仕事……」
泣く赤ん坊の襟首が捕まれる。無造作に、愛情のかけらも無く。
「そう、仕事。これで俺たちは飯を食わせてもらうのさ」
これ。ぶらんと持ち上げられた赤ん坊。商品。飯のタネ。路太たちの。
「……そいつで、俺たちは金をもらうのか?」
「ああ。良い商品になるよう、しっかり管理しないとな」
小柏は明るく微笑む。自らの仕事に自負を持っている者の笑顔だ。眩しい。なのにどす黒い――路太にはそう見えた。
「お、おかしいだろ……?」
「は?」
「そ、それは……木羽が、生んだんだし、それを……」
しどろもどろ、どうにか心情を吐露しようとする路太の脳裏に、雪の言葉が蘇る。
「か、家畜は持ち主の財産だろ? だから、そう簡単に切り売りするような言い方は……」
「財産だからこそ、金銭で取り引きできるだけの価値があるんだろ?」
「……でも」
雪は家畜。彼女が自らを称するように家畜。そうだとしても、受け入れられない。それ故に自分が困窮することになっても、路太には。
「小柏くん、もういいわ」
黙って二人のやりとりを聞いていた雪が、立ち上がった。
「新出くんにその気がないなら、私が……」
「え? 木羽?」
伸ばした手は、他でもない雪によって振り払われる。
「いいの。そんなにそれを出荷したくないなら……私は新出くんの財産。私がその役目を果たすわ」
「な、それ、どういう……?」
「それでいいのか?」
雪が何を言っているのか分からない路太。理解しているらしい小柏。
「ええ。お願い」
困惑する路太を素通りし、雪は小柏の元へと向かう。
「じゃ、そいつ頼むな」
小柏は路太の抱える赤ん坊を指さすと、そのまま雪とどこかへ行ってしまう。
「お、おい……なあ……」
振り返りもせず去ってしまう彼らを、路太の弱い呼び掛けでは引き留めることはできなかった。地面に縫い付けられたように動かない足は、追いかける役には立たない。
腕の中で、赤ん坊の泣き声が大きくなった。
うるさい、うるさい。泣きたいのは自分の方なのに。泣けば誰かが助けてくれると思って泣いている。
「っ!!」
イライラする! やめろ! 何とかして欲しいなら、せめて泣き止め! 苛立たせるな!――どういう衝動が路太にそうさせたのかは分からない。
だが、次の瞬間に赤ん坊を、苛立ちの原因を地面に叩き付けたのは、まぎれもない事実だった。
「あ」
ぐしゃり
まだ柔らかい骨が砕ける音、骨に守られていたはずの内臓が崩れ、皮膚を破って溢れるのが見えた気がした。ひょっとしたら、路太の脳が見せた幻だったのかもしれない。
それを確認できないのは、いつの間にか路太はただ一人、白い床の上に立っていたからだ。
「……え?」
つるりと白い床材が、天井の光をほんのり反射している。
さっき叩き付けたはずの赤ん坊はいない。雪が横たわっていたあの粗末な布団も無くなっている。もっと清潔で明るい雰囲気のそこは、
「……スーパー?」
何に一番近いかと言われれば、スーパーマーケットの通路だった。
いや、周囲を見渡してみれば、種々の食料品が陳列された棚が壁を成していて、間違いなくスーパーマーケットなのだということが分かる。
「なんで……?」
雪は? 小柏は? 赤ん坊は?
夢の舞台としては、先ほどより余程身近な場所のはずなのに心細い。
「やだぁ、半額になってないじゃない!」
「いいじゃん、三〇パー引きで」
助けになる物を探して周囲を見渡すと、若い男女を見つけた。大学生くらいだろう、路太よりも大人らしい背格好をしながら、子供のように通る声で話し込んでいる。
男が買い物かごを片手に、女が棚から品物を取っては、値段を確かめていた。
「だって、もう夕方だよ? もっと下げて当たり前じゃん」
白色灯が照らす店内は時間を感じさせないが、どうやら時刻は夕刻らしい。
ふいにざわざわと騒がしくなり、行き交う主婦たちの影が見え始めた。なるほど、タイムセールの時間も終盤、更なる値下げが期待される時間のようだ。
「半額まで待つぅ! 高いよこんなの! 誰が買うの!?」
商品の値下げ率が気に入らないと喚く女の声。きいきい響く不快音。夢でも聞きたいものではない。
しかし、感情剥き出しの文句は、路太の興味を引いた。
そんなに高価な品物を買いたいのだろうか。もしくはこのスーパーがひどいぼったくりで、値引きシールでも貼ってなけりゃ購買意欲も起こらないのかもしれない。
好奇心が、路太を陳列棚まで動かした。
(?)
肉だ。
一見、それ以上の印象はなかった。非発泡スチロールの白いトレーに乗った、切り売りされている生肉。
本来真っ赤だっただろう切断面は僅かに色がくすんでいて、鮮度が落ちていることが分かる。なるほど、定価のままでは買いたくないと思うだろう。
さて、如何にも値引きされて当然のそれは、三〇パーセントの値引きでもまだ高価なものなのだろうか。バーコードの付いた値札へ視線を移す。
『木羽雪 一〇〇g 一九八円』
無機質な印字の中に、良く知った人物の名前を見た。
「あ……ああ……!」
豚、鶏、牛、羊。生肉として売られる一般的な動物のどれでもない。雪の名前。
「まさか、そんな……!」
あの時、小柏と共に去った雪は、雪の末路は――問わずとも、目の前の肉片が全てを語っていた。「役目を果たす」と言う言葉通り、雪は。
自らの肉体を切り売りすることを選んだのだ。赤ん坊を売ることを渋った路太のために。他でもない、路太のために。
「ってかさぁ、もう
耳鳴りの向こうから、甲高い女の声が響く。
「売れ残ったらどうせ廃棄するんでしょ? こんな肉、無料でいいわよ! ゴミにならないだけマシじゃない!」
やめろ――制止の言葉より早く、路太は女を殴っていた。
「肉じゃない! 木羽はっ……、木羽を……!!」
あいつをゴミのように言うな!
あいつを価値のないもののように言うな!
あいつがどういう気持ちで目の前の肉になったか、お前に分かるのか!
昂る感情が拳を激しいものに変えていく。背後から誰かが路太を羽交い絞めにする。それでも、がむしゃらに腕を振り回して、引き離された女に拳をぶつけようと試みた。
そうせずにはいられなかった。
いくらか歯が抜けたのだろう。倒れた女の顔が赤に塗(まみ)れている。ざまを見ろ。雪を馬鹿にするからだ。報いを受けろ。
「……ざまみろ」
息を荒くしながら、動かなくなった女を見下ろす。
おかしい。女の体が随分小さい。成人に近い年齢だったはずなのに、両手で収まるほどにまで縮んでしまっている。
「あ……うあああっ!」
まるで生まれたばかりの子供。ついさっき、雪が産みおとし、路太が地面に叩き付けた。
「なんで! なんでっ!」
夢だと分かればすぐに訪れるはずの安堵は、しかし路太が目覚めない限りやって来ない。
夢の中にいる路太にとって、どんなに不条理でも不可思議でも、目の前にあるものは現実なのだ。
「……新、出くん……」
息も絶え絶えの赤ん坊の口が動いた。そこから漏れるのは、他でもない雪の声。
「木羽……?」
「……」
目から光が消えた。
「っ……!!」
空気を吸い込みながら叫んだような、不格好な声を上げながら路太は両目を見開いた。
「あっ」
そして、自分を見下ろす雪と目が合う。路太の顔の横に手をつき、覗き込むようにしている雪と。
壊れんばかりに脈打つ心臓。目が回る。
見下ろす二つの目は雪のもの。いや、見下ろしていたのは路太のはずだ。見下ろしていた。床の上の女を、赤ん坊を。そう、路太のはずだったではないか。
ならば今、見上げているこの目は誰のものだ。あの赤ん坊の、下品な女の、雪の、家畜の。
夢と現が混ざっていく。
「うわああああっ!!」
雪を突き飛ばして跳ね起きる。
違う。違う。雪が見下ろしているはずがない。だってその役目は路太のものだったはずで……そうか。
一つの結論に至る。
「お前、お前が……!」
雪のせいだ。取り戻さなくては。見下ろされるのは、叩き付けられるのは、ゴミと呼ばれるのは、制裁されるのは路太ではない。路太の役割ではない。雪がその役目を奪ってしまったから、今、見下ろされているのだ。
突き飛ばされた格好のまま、呆気にとられていた雪に飛び掛かる。
「っにぃ、……く……」
細い首に両手で力を加える。白く、ぐにぐにした温かい感触は、否が応にも夢の中の出来事を思い起こさせる。あの、路太が投げ捨て、路太が殴った赤ん坊の肉塊。
不快だ。夢から出て来るな。ここはお前の世界ではない。
「……っ!」
雪が路太の手に爪を立てた。ささやかな抵抗。けれど、それは路太の心に食い込んで、彼を追い詰めた。
「お、お前……っ」
どうして? どうして、夢から出て来た? どうして、どうして、こんなに俺を追い詰めようとする?
「っ……お前のせいなんだなあああっ!?」
きっと何もかも雪のせいだ。夢から出てきて尚、路太を責め立てる存在。忌々しい。
無遠慮に馬乗りになって、喉への圧迫を強めた。
「に、で……く……っ」
苦しみながら、それでも必死に呼ぶ雪。張り倒したくなった。お前が苦しんでいるくらい、俺も振り回されているのだと、言葉にせず手の力で伝える。細い骨が軋む。
「お前なんだろ!? 小柏やクラスの奴がおかしくなったのも、俺の夢がおかしいのも! お前が夢の中から出て来たから!!」
「っ……ち、が……ぁ」
手の中で雪の首が動く。必死の力で横に振ろうとしているようだ。信じるものか。
いい気味、いい気味だ。雪も少しは苦しめばいい。雪がもがくほど、路太の心はどす黒いもので満たされて、その分、恐怖や苦悩を追い出してくれるような気がした。
「路太!! 何してるの!!」
母の悲鳴。皮膚を打つ乾いた音。
決して強い力ではないのに、頬に受けた張り手が路太の全身から力を抜くほどの威力があった。暴力的な衝動が霧散していく。
「母さ……」
「雪ちゃん、大丈夫?」
路太の声を無視して、母は雪を助け起こす。ひどく悲しかったが、当たり前だ。傍から見れば気遣うべきは雪で、路太はただの加害者なのだ。
「っ……だ、じょ……です……」
咳き込みながらも、雪は無事であると自ら示した。落ち着くのを待って、母は雪に立ち上がるよう促す。
「雪ちゃん、今日は私たちの部屋で寝なさい」
「……はい」
ちら、とだけ路太を窺うも、雪が母の指示に反対する理由は無い。勿論、路太にも。二人が出て行った後、聞きなれた音を立てながら閉まるドアをただ見つめていた。
* * * * *
皮膚に彼の熱が焼き付いている。首に掛けられた指の形に。雪が眠る路太へ与えていたものと同じ、輪の形に。この首輪は、きっと赤く色付いているのだろう。雪が路太に残したものとは比べ物にならないほどはっきりと、濃く。
嬉しい。私たちは首輪を掛け合った。
あとはそう、それを決して外れないようにするだけだ。
爾香に、以前手に入れたものを使うよう伝えなければ。
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