第5話 幼馴染と家畜と幸福

 「おいおいおい、デジター! お前、木羽に何やってんのか教えろよぉ」

 「は?」

 雪と一緒に登校して来て、教室で別れる。

 すぐさま掛けられたクラスメートの第一声に、路太は間抜けな声を上げた。

 「だーかーら、木羽と何してんのさ?」

 再び尋ねられても質問の意図が分からない。推測できることと言えば、

 「い、いや、今日はたまたま登校途中で会っただけ」

 一緒に登校してきたことへの疑問だということくらいだ。けれど、相手は呆れたように首を横に振る。

 「誤魔化すなよ。爾香が羨ましがってんだよ。少しくらい教えてくれたっていいじゃん」

 「え? え?」

 いよいよ訳が分からない。かろうじて理解できたのは、雪の友人である爾香が、何かを羨ましがっていて、そのために目の前のクラスメートが何か困っているらしいことだ。

 「ごめん、マジで分かんないんだけど」

 「だからさぁ爾香が……あ、俺あいつと付き合ってるんだわ。でさ、言うんだよ。『私もキヨちゃんみたいになりたい』って」

 「は? ……何だよ、それ」

 「俺だって女の考えてることなんか理解できねぇよ。だから、お前が何やってんのか聞いてるんじゃん」

 「……」

 へーお前彼女いたんだー、と呑気な反応ができればどんなに良かったか。

 一体何を言い出すのだと、問い詰めたい衝動を抑えて言葉を探す。心臓の音が耳の中でうるさい。

 どういうことだ? 雪が羨ましい?

 馬鹿な。

 昨日の謝罪どおり、今後路太を悪く言うつもりがないにしても、どうしてそういうことになったのか。

 ただ一つ思い当たるのは、雪が答えを知っているだろうことだけだ。

 (あいつ一体、何言ったんだよ!?)

 女子からの風当たりを改善してくれたのは感謝するが、余計なことまでしでかしてくれたに違いない。

 「……デジタ? おーい?」

 返答なく固まってしまった路太は、不思議そうなクラスメートの呼びかけでぐちゃぐちゃに絡み合った思考からようやく引き上げられる。

 「あ、ごめん……っと、えーと、特に何もやってないかなーって」

 「そうか? まぁ、また今度詳しく聞かせろよ」

 ぽんと肩を軽く叩いた手には、どんな感情が込められていたのだろう。路太が回答を誤魔化したと思ったのか。それとも、急に黙って変な奴だと思ったのか。

 いずれにしても、路太が選ぶ行動は決まっている。

 「お前、何か変なこと言いふらしてないか?」

 問題の当事者、つまりは雪に尋ねることだ。

 「何の話?」

 例によって昼休みを共に過ごすべくやって来た雪に、路太は開口一番問う。

 弁当を広げようともしない路太とは対照的に、雪はせっせと弁当を広げ始めている。その、路太など意に介さないという態度が、癪に障る。

 「お前、女子から俺が責められないように言った以外に、何か言っただろ?」

 「私は何も言ってないわ。昨日、新出くんに話したので全部よ」

 嘘吐け。感情を目に集めて雪を睨む。

 「そんな顔しないで」

 「でも、お前がいくら幸せだーって言っても、羨ましいとまで言う奴が出てくるか? あり得ないだろ?」

 「そんなことないわ」

 雪は視線こそ弁当のおかずに注いでいたが、自信に満ちた否定を返す。

 「なんでだよ」

 「誰だって幸せになりたいもの」

 「そりゃ……」

 それはそうだ。けれど、だからといって『家畜になる』という約束をした者を羨ましがるのは、おかしい。倒錯的だとさえ思う。くらくらする頭を抱えた。

 「新出くん、幸せになることは正しいのよ」

 「ただしい?」

 「そうでしょ?」

 路太が尋ねていたはずが逆転してしまう。

 「それとも、現代の世の中で、個人が幸福を追求することは間違っているかしら?」

 「いや、それは……」

 間違っていないと思う。それでも、雪の言への違和感は拭えない。

 「そうでしょ? 幸せになることは正しいの。私はそれを見つけた。そして皆も、私のように幸福を手に入れたくなった……正しくなりたくなっただけなのよ」

 「……」

 「だから、そのために私の真似をしようとしても、大目に見てあげて? ね?」

 「……」

 了解、なんて言えるはずがない。

 どんなに雪が幸せでも、幸せを求める人間の本能として雪を羨んでも、それは雪の生き方を模倣することでは――家畜になることではないはずだ。

 「……新出くん?」

 「あ、いや……うん、ちょっと、あのさ……」

 足りない脳みそを振り絞る。雪の主張に飲まれないよう、必死に言葉を探った。

 「なあに?」

 「お前の真似をすれば、他の女子やつでも幸せになれるとは、限らないんじゃないかなー、と」

 「そんなの分からないじゃない!」

 語気が強くなる。教室に残っていた生徒の視線が、二人に集まった。

 「それとも、新出くんは私が幸せになれないって思ってるの?」

 「そんなことはないけど……」

 「けど、何? まさか、私が幸せだって言うのがそもそも嘘だとでも!?」

 「思ってないって!」

 強くなる糾弾に、思わず路太も大声で返す。目だけで窺(うかが)っていたクラスメートたちがひそひそと勝手な推測を囁き合い始めた。

 「……大丈夫、信じるわ。お昼、食べちゃいましょう。新出くんは部活もあるんだから、食べないとお腹が空いちゃうわよ」

 「……ああ」

 返事をした手前、箸をつけはしてみるが食欲など消え失せてしまった。弁当箱の中の冷めた白飯をほじりながら、路太はこっそり溜息を漏らす。

 どうして、こうなるのだろう。

 

 

 暗い気持ちのまま迎えた放課後、それでも部活には勤しまなければならない。路太の気持ちと作品作りは別なのだ。

 「新出くん。今日は私、どうしてればいいのかしら?」

 だから、折角気持ちを切り替えようとしたところにイレギュラーな事態が――例えば、呼んでもいない幼馴染が部室にやって来るようなことがあると、出鼻を挫かれてしまう。

 「な、何しに来たんだ?」

 「何しに、じゃないわよ。昨日は待ってるように言ったくせに、今日は何も言わずに部活に行っちゃうんだもの」

 手持無沙汰に鞄を揺らしながら、雪は口をとがらせた。

 「ねえ、私はどうしてればいいの?」

 微かに膨らませた頬はやはり愛らしく、部員たちの目を引く。ただでさえ珍しい女子生徒の訪問だ。部員のほとんどを占める男子生徒たちは興味津々である。彼らが耳をそばだてているのが、路太には分かるのだ。

 「ん、じゃあ、また図書室かどっかで……」

 適当に待っていてくれるよう頼もうとした時、背後から覗く影があった。

 「何々、この子が噂の子?」

 「あ、先輩」

 突然現れた彼は、路太の肩に肘を乗せ、いかにも寛いだ様子で雪を眺める。まるで品定めをするように、雪を頭の天辺から足の爪先まで視線を這わせた。

 不躾なそれに、雪が眉間に皺を寄せた瞬間、

 「けっこー可愛いじゃん! 羨ましいぞー新出!」

 彼は明るい声で手放しに雪を褒め始めた。

 相手から不満が出る前に、好意を見せることで予防するやり方だ。もっとも、雪はそれで流されるような女子ではない。

 「どうも。じゃあ、新出くん、図書室にいるから」

 だが、こういうタイプは得意というわけでもないらしく、存外あっさりと部室から出て行った。

 「あ、ああ。後でな!」

 「まーた来てねー」

 ひらひらと陽気に手を振る先輩。彼が路太の肩に預けている腕に、重みが加わった。路太の動きを妨げるようなそれは、態度に出ているとは裏腹な仄暗さを含んでいた。

 「なあなあ、あの子に家畜になるって約束取り付けたってマジ?」

 「……」

 やっぱり。口から出そうになった言葉を飲み込む。

 この先輩も――どういう経緯か知らないが――路太と雪の間で起こったことを知っているのだ。その雪がやって来たものだから、好奇心であれこれ探るつもりで話しかけたのだろう。まるで野次馬だ。

 「じゃあ、あの子は新出の言うこと何でも聞くわけ?」

 「何でもって……」

 嫌な言い方をする。無邪気で明け透けな質問なんかではない。言葉の裏には害意がある。

 「何だよ、いきなりイイ子ぶるなよー。……そんでさ」

 続きを聞きたくなかった。だが、嫌な予感で固まった体は、動かない。

 「いくら出したら、あの子とヤらせてくれる?」

 「っ……冗談やめてください」

 吐き気がした。予想され得る最悪の問いをした先輩は、路太の反応こそ理解できないというように目を瞬かせる。

 「何? 潔癖ぶるなよ、家畜にするって約束したんだから、どっちもどっちだろ」

 どっちもどっち――路太も雪も『敗者は勝者の家畜になる』という約束を、互いに了承の元結んだのだから、どういう扱いをしてもされても自己責任だと。確かにその通りだ。

 けれど、主導権は路太にある。

 「それでも、だめです。絶対」

 例え先輩でも、部活で世話になっていても、雪に関しては言えば完全に外野だ。例え何をどう言われようとも。

 「あっそ。変態野郎がお高くとまりやがって」

 意地でも路太が融通しないと分かると、悪態を残して離れていく。

 「……」

 彼の言動は雪のみならず路太をも馬鹿にしたものだ。腹が立たないわけではないが、今は質の悪い犬に噛まれたと思って、さっさと忘れることにしよう。

 雪がさっきの会話を聞いていないことだけが、不幸中の幸いだ。

 (……幸せなのか?)

 ふと、雪の言葉が蘇る。

 幸せだと言った、満ち足りた表情の雪――けれど、『家畜』となることを受け入れた人物へ、世間の人間が多く向ける目は、先輩が向けたものと同じものだろう。

 果たして、それに晒され続けることは幸せなのか。そんなものなど気にならないほどの幸せがあると言うのか。

 (分からない……)

 きらり、手元の工具が光る。

 金属の表面に、縮小されて映った路太の顔。平凡な男子高校生の、大人になりかけの男の顔。

 (……あるいは俺が)

 女だったら違ったのだろうか。

 雪の幸せも、家畜になった雪を羨む女子生徒のことも、理解できたのだろうか。

 「おい、何やってんだよ!」

 「!」

 小柏の声で、夢想の淵から我に返る。今まさに肌を傷つけようとしている工具を、慌てて握り直した。

 本当に、何をやっていたのだろう。色々なことがありすぎて、参っていたのかもしれない。早くいつもの部活動に戻ろう。そうすれば、少しは気も紛れるはずだ。

 「先輩の言ったこと、気にすんなよ?」

 「ああ、ありがとう」

 小柏は口出しせずに聞いていたらしい。労りの言葉が身に染みる。

 「新出と木羽の関係、俺はいいと思うよ。色んな形の関係があって、悪くないんだし」

 「え?」

 違和感に震える喉が、声を嗄らす。

 「家畜と言っても、木羽を大事にしていくことには変わらないだろ?」

 「え……?」

 「木羽はさ、イヤな奴じゃないし。うん、大事にしてやれよ。今後、何かあっても家畜だからって簡単に見放したりするなよ?」

 違和感が、その形を露わにする。

 「小柏……何、言ってんだ?」

 「あ、違うからな。俺が木羽を好きだったから、こういうことを言うんじゃなくてだな」

 「いや、違う。……お前、今自分が言ったことおかしいって思わないのか?」

 きょとんと目を丸くする小柏。見慣れた顔なのに、路太が知っている小柏とは明らかに違う。

 「全然おかしくないだろ? 俺、何か変なこと言ったか?」

 背筋が粟立った。

 「だって、お前、昨日までは……」

 雪が好きなのか分からなくなった路太の相談に乗ってくれたり、彼なりの意見を提示したり――少なくとも、雪を『家畜』として扱ってはいなかったじゃないか。

 ごくり。乾いていく喉で無理矢理唾を飲み込んだ。少しでも言葉が吐き出しやすくなるように。

 「昨日、好きな奴ってのは、自分の時間や手間をかけてもいい相手だとか、普通のこと言ってたじゃん。何だよ、今日になって……」

 「だから新出は、木羽が家畜でも好きなんだろ?」

 また口が渇いていく。言葉で殴られたように頭が痛い。

 「まあ、なんつーか、人ぞれぞれだし。俺はそれでいいと思うんだ」

 こめかみを抑えた路太を、小柏は更に言葉で殴りつける。笑みを形作る口から、防ぎようのない一撃が発されるのだ。

 「家畜と飼い主って言っても、お互いが築く関係次第だもんな」

 「や、め……」

 「あ、でも大学進学とか就職結婚って考えると、やっぱり……」

 「やめろよ!」

 とうとう路太が遮る。

 悲鳴じみた叫喚(きょうかん)。それが室内にいる皆の注意を引いてしまうと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。それ以上、話してほしくなかった。

 忘れかけていた夢が、頭の片隅で蘇る。

 「何で、何で小柏まで……」

 雪みたいなことを言うな!

 まるで見た夢まで知っているような口をきくな!

 俺を混乱させるな!

 続けたかった言葉はどれだったのだろう。全てだったのかもしれないが、いずれにしても路太は一つを選ぶことができなかった。

 「おい、新出に小柏。何やってんだ」「喧嘩ならやめろよ」――路太の叫びを聞いた先輩たちが集まってくる。二年も三年も。ある者は心配そうに、ある者は少々苛立ちながら。

 「だ、大丈夫ですから! ……大丈夫です! 本当に!!」

 両手を突き出して制する姿勢を作る。その実際の心情は拒絶だ。

 妙なことを言い出した小柏。もし、事情を聞いた先輩たちまで、彼の肩を持ったらどうなる?路太の方がおかしいことになるのか?

 いや、そんなことはあり得ない――思いながらも、確信が無い。せめて腕を伸ばした範囲、路太の世界である範囲には、これ以上入って来てほしくなかった。

 「そうか? でも、今日は無理せずに帰ったらどうだ? な?」

 気遣う声よりも、彼らの歩みが止まったことにほっとする。路太の小さな世界は守られた。

 「……はい、すんません」

 思わず項垂れてしまったのは、先輩たちへの申し訳なさからではない。怖かったからだ。

 「じゃあ、俺、残りの分、できるだけやっとくからさ」

 背中にかけられる小柏の声。微かなよそよそしさを含んでいる。でも、それに罪悪感を抱くことも、今の路太にはできない。

 「……頼むな」

 どうにかそれだけ伝えると、鞄を掴んで部室を後にした。

 どうしよう。きっと雪は図書室なり教室なりで待っているはずだが、会いたくない。一人で静かに、ひと息つきたい。

 「どこに行くの、新出くん」

 だが、現実はひと時の安寧さえ与えてくれなかった。

 「おいていくつもり? ひどいじゃない」

 背後から迫る雪。薄い上靴が廊下を叩く音。振り向けなかった。

 「おい、木羽」

 背を向けたまま雪を呼ぶ。足音が止まった。

 「なあに?」

 「お前、何かやったんだろ」

 「なにかって?」

 「とぼけるなよ!」

 勢いよく振り返る。冷淡なまでに落ち着き払った雪と、目が合った。

 「お前のせいなんだろ!? 小柏がおかしくなってるのは!」

 「新出くん? あなたが何を言っているのか、私にはさっぱり分からないのだけれど」

 突然怒鳴られても、雪は慌てようともしない。その姿が、かえって路太に確信させる。こいつが原因だと。

 「そうか……、そうやって俺が混乱するのが面白いのか!? 仕返しのつもりかよ! そうなんだろ!?」

 「新出くん! ちょっと、落ち着いて!」

 「やめろよ! そうやって俺がおかしいみたいに言って! おかしいのは、お前の方だろ!?」

 「あっ!」

 雪を突き飛ばし、廊下を走る。背後から咎める声が聞こえたが、構うことなく一直線に昇降口へ向かった。

 汗でシャツが張り付く。気持ち悪い。しかし、大きな安心があった。あの怖いものから離れられたという、恐怖から逃れようとする生物の本能が満たされていくのが分かる。

 「た、助かった……」

 知らず呟く。一体何から逃げ切ったというのか――雪自身か、あるいは雪の思考か。正体は路太にも分からなかった。

 

* * * * *

 

 全部聞いていた。路太は気付いていただろうか。雪が図書室になど行かず、ずっと廊下で聞き耳を立てていたことに。

 慌てて去って行った路太は、雪にいくつかの問いをぶつけて、そして勝手に走って行ってしまった。恐らくは気付いていない、だが……。

 ――『小柏くん、新出くんと……』

 メールを打つ指を止める。だめだ。何も知らない風にしなければ。

 ――『小柏くん、新出くんに何かあった?』

 恋のキューピッド気取りの小柏。路太の友人として振る舞いながら、知らず雪に加担する小柏。まだ、使える。

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