第4話 幼馴染と家畜と誤解

 「あれ? 木羽は?」

 「あんたが寝坊してる間に、学校行っちゃったわよ!」

 寝ぼけ眼の路太が起きだしてきた時、雪はすでに部屋にはいなかった。ダイニングテーブルには一人分の食事だけが残されていて、路太の生活サイクルだけが遅れているのが分かる。

 でも、あのひどい夢の続きを見てしまわないか不安で一晩中浅い眠りと覚醒を繰り返したのだ。誰にも言えないが、寝坊しても仕方ないではないか。声に出さずに言い訳をする。

 付け加えると、雪の眠っているベッドに戻ることもできず、本来雪が使うはずだった客用の布団で眠ったことも寝つきを悪くする原因になっていた。慣れない寝床に感じる、あの妙なよそよそしさは何なのだろう。

 「お弁当、忘れずにね。遅刻しないよう走りなさい!」

 「へいへーい」

 正直、雪がいなくてほっとしていた。あんな夢を見た後に、雪をどんな目で見ればいいのか、まだ分からないのだ。

 確かにあれはあくまでも夢だ。脳が見せる幻に過ぎない。

 しかし、それを作っているのは路太自身の脳だ。他の誰かが見せているのではない。その事実にめまいを覚える。まるで本人の意思には関係無く、脳は雪を、彼女の望む『家畜』として認めようとしているのではないか――そんな考えが浮かぶ。

 「いってきまーす、っと」

 雪は、今日の昼休みどうするだろう。

 彼女を気に入っている母のこと、雪の分の弁当くらい喜んで作っているに違いないが……。

 「……でも念のため」

 もし万が一、雪が昼飯を用意していない時のために、遠回りをしてコンビニに寄りながら路太は学校へと向かった。

 

 

 いつもよりいくらか遅れて到着した教室には、当然、雪が先にいた。友人たちに囲まれて何かを談笑しているらしく、すぐにこちらには気付かない。

 先に路太に気付いたクラスメートが、雪をつついた。まるでそれが合図だったように雪を含む女子の視線が一斉に路太へ向く。

 (……なんだ?)

 違和感を覚える。昨日、同じようにじろじろ見られたのに、今日は決定的に何かが違った。

 (……笑ってる?)

 昨日、あれだけ敵意を剥き出しに睨みつけていた彼女らは、皆一様に笑っているのだ。

 馬鹿にしたり見下したりする笑いではない。何と言うのだろう――そう、噂話に興じる時のような、含みのある笑いだ。

 (……?)

 雪は友人らとじゃれついて、こちらに来る様子はない。チラチラと寄越される視線が気にならないわけではないが、「何か用か」と彼女たちの中に入っていくこともできない。

 その時はただ、雪が元気そうで――夢の中とは違って、よかったと思うことにしておいた。

 もやもやした気持ちに答えが出たのは、昨日と同じく、昼休みと同時に路太の元へ雪がやって来た時だった。やはり弁当を持たされていた雪は、少々不満気ながらも路太の母お手製のそれに箸を付けている。

 夢の中では食べられる側だった雪が、弁当を食べている。

 どこもおかしな光景ではないのに背中がざわつくのは、ボロボロに傷ついた夢の中の雪を思い出してしまうからか。

 あるいは、夢で食われる者だった雪が、現実では食(は)む者であることへの違和感か。……いいや、まさか。これは論外だ。

 「そういやさ、朝、木羽と話してた奴ら。なんか俺のことじろじろ見てたんだけど、何話してたんだ?」

 脳裏を過った妄想を打ち消すように、努めて明るい声で尋ねる。

 「え? 爾香ちゃんたち? 私たちの関係を勘違いしているみたいだったから、ちゃんと教えておいただけよ」

 さっきまでとは違う意味で、全身がちょっと冷えた。本当に雪は、常に見ていないと何をしでかすか分からない。

 「い、言ったのか?」

 「だって新出くん、クラスの女子の目が気になるって言ってたじゃない。でも、もう大丈夫よ。皆分かってくれたわ」

 「え、言って、え? マジで理解したって?」

 「そうよ。いいじゃない、誤解が解けたんだから。何か不満なの?」

 「いや、だって……それでいいのか?」

 「いいも悪いもないわよ。私には」

 「そ、それにしたって……」

 雪と路太の家畜と飼い主の関係を、ひいては雪の家畜としての主張を受け入れたから、女子たちの見る目が変わっていたと言うのか。

 「そんな馬鹿な」

 「馬鹿ってなによ。新出くんの不満を解消してあげたのに、そんな風に言われる筋合いはないわ」

 「いや、あー多分それさぁ……」

 冗談だと思われているんじゃないか。

 もしくは、路太を庇うために雪が『斜め上』のことを言っているとか。

 「もういいわ。とにかく、私は私ができることをやったからね。あなたのために!」

 最後を強調して言い捨てると、雪は食べ終えた弁当を片付けて離席する。

 「……そんなこと言ったって」

 その後ろ姿を見送りながら、路太はコンビニで買った菓子パンの袋を開けた。

 雪が気を遣ってくれたらしいことは分かった。その気持ちもありがたい。けれど、あの雪の『家畜と飼い主』の考え方を聞かされて、皆が納得するだろうか。

 少なくとも、路太はあんなことを聞かされたら「こいつちょっとおかしい」と思う。そして、この意見は比較的一般的なものだと思う。

 (でも、まあ……)

 おかしな奴と思われるリスクを冒してまで、雪が庇おうとしてくれたのはちょっと嬉しい。

 もっとも、雪は自身の考えに何の疑問もなくて、おかしな奴と思われる可能性など考慮していないのかもしれないけれど。それこそ、雪にしか分からないことだ。

 

 

 「新出くーん、ちょっといい?」

 放課後、例によって部室へ向かおうとする路太を呼び止める声があった。声の主は雪ではない。昨日まで路太を目の敵にしていた雪の友人だ。

 「ん、何?」

 努めて、精一杯、平静を保ちながら答える。

 だって雪の前でこそ笑っていたが内心は昨日と同じで、雪の目がないところで敵意をぶつけてくる可能性があるのだ。こういう裏表を使い分ける術は女子の方が得意だ。今見せている笑顔に、騙されてはいけない。

 「あの、昨日のことなんだけど。なんか、ごめんね?」

 「昨日?」

 「昨日、新出くんにバカとかシネとか言ったじゃん? だから、ごめんねって」

 「……」

 まさか、まさか本当に雪の説得に効果があったというのか。にわかには信じられず、路太は反応を忘れるほど困惑した。

 「ね、ごめんって。キヨちゃんから聞いたからさ。私たち、キヨちゃんと新出くんの関係、勘違いしてたみたい」

 「ああ、そう?」

 マジか。本気で言っているのか。優衣ちゃんだか爾香ちゃんだかとやら。

 「今度から二人の邪魔しないし! じゃ、呼び止めちゃってごめんねー」

 言うだけ言って去っていくクラスメートの背中を、路太はぼんやりと見つめる。

 「……マジかよ」

 信じられない。

 「どうなってんだ?」

 あの雪の説明は、女子にはそんなに説得力のあるものなのか。

 狐につままれた、どころか四の字固めを決められたような心地になりながら、改めて部室へ向かう。足元がふわふわとして、心ここにあらず、まるで地に着いていなかった。

 「出来が違う」

 「え」

 それはどうやら、作品作りにも影響を与えていたらしい。路太が作った小さな模型を手に、小柏は眉を顰めた。

 「窓の大きさがバラバラじゃないか。どうしたんだよ、こんなミスするなんて」

 例の和箪笥の引き出しに入るほど、小さな小さな四角い建物の模型。路太たちの学び舎を模したそれは、シンプルであるが故に粗が目立ってしまう。

 改めて見てみれば、窓の並びも微妙に斜めになっていた。

 「あ、あーあ……」

 単純な作業とはいえ、やはり気もそぞろな状態で手を動かすのは良くなかった。小柏から受け取った模型は没だ。新しく作り直さなければ。

 「もしかして、何かあった? 多分、良いこと?」

 「え、いや、何で?」

 どうして小柏はそう思うのだろう。今度は失敗しないよう、一度手を止めて尋ねる。

 「珍しく模型のつくりが粗い……その割りに心配事があるって様子じゃない。ということは逆に良いことがあったのかなー、という名推理」

 「メイは『迷』の文字だな、そりゃ」

 「はは。ぶっちゃけ、木羽となんかあった?」

 「……」

 雪の名を聞いた瞬間、手が止まり工具を取り落した。カランと金属音が響く。

 「わ、マジか?」

 これでは無言を貫きつつ答えを言ってしまったも同然だ。

 「いや、えっと……」

 小柏の目が期待に輝いて路太を見つめている。その中に隠しきれない好色さを見つけて、やはりこいつも男子高校生なのだなと実感した。

 「あー、いいよいいよ。学校で言うような話じゃないしなー、うんうん」

 しかも、勝手に納得してニヤニヤしているではないか。

 小柏の考えているような展開があったならば、路太としても大いに満足であるのだが、現実は厳しい。

 実際、雪の名前を聞いて思い出したのも、昨晩の夢だ。同じベッドで眠っていた雪の姿ではない。今際の際で恨み言を述べる、瀕死の姿だ。

 「ほらなー。やっぱり木羽だって、まんざらじゃないと思うって言ったとおりだろ?」

 「ど、どうなのかなー」

 今日は一緒に帰ろうと誘ったら、図書室で待っていると言ってくれた。

 普通に考えれば、小柏と同じ発想に至るのだけれど、どうしても「家畜の送迎をするのは飼い主の義務よね」という雪の声が聞こえてくるのだ。

 路太にしても、雪が一人で新出家に帰ってしまい、自身の知らぬところで母親と接触されてしまうのがまずいと判断して彼女を誘ったのだから、甘い雰囲気など生まれようもない。

 「……俺って、木羽のこと好きなのかな?」

 「はあ? 今更?」

 「だって何か分かんなくなってきた」

 雪の内心は、彼女が言葉にしてくれた以上のことは分からない。しかし路太の内心には、雪とのことで自分自身の外聞を悪くしたくないという、後ろ暗いものが生まれ始めている。

 愛とか恋とか幼馴染とか男女とか――青春を満喫するための諸々は二の次になりつつあった。

 「んー、俺は彼女できたことないから、よく分からないけどさー」

 小柏も手を止め、まるで思考がそこに漂っているように宙を見る。

 「相手のために手間暇掛けるのも楽しいって思えたら、好きってことなんじゃないか?」

 「木羽のために?」

 「そう。だって、どうでもいい相手のために時間使ったり、何かしてやるのってしんどくないか? それこそ何か見返りがあるって言うか……損得考えちゃうじゃん」

 「……」

 もし、もしも小柏の言うとおりならば、今の路太はどうなのだろう。雪のために、何かをしてやりたいという気持ちはあるのだろうか。

 自分の胸に問いかける。雪のために、手間や時間を惜しまずにしてやれることとは?

 (……良い飼い主になるための勉強?)

 そりゃあ雪は喜ぶかもしれないが、当の路太に、時間をかけて頭を捻ってそれを実行する気があるかと言うと別だ。

 (あ……)

 やる気がないのに、雪に「世界一の飼い主になってやる」なんて言ったのか。

 (……俺、サイテーじゃん)

 これでは、嘘をついたも同然だ。ちくりと胸に走る痛み。

 今までの人生で、今日ほど自分を矮小に感じた日はない。ふいに、雪に会いたくなった。

 

 

 「あら、もうそんな時間?」

 雪は薄暗い教室の中にいた。図書委員が帰宅してしまったために、図書室から追い出されてしまったらしい。

 読んでいた文庫本を閉じようとして、慌てて栞を挟む。色褪せた押し花をラミネートした手作りの栞だ。

 「そういうの作るの、好きなのか?」

 栞を指差して尋ねる。今まで知らなかった雪の一面に触れたような気がした。

 「これは特別よ」

 思わせ振りな言い方で路太の反応を窺っている。それに気付きながら、雪の望む返答が思いつかない。

 「……覚えてないなら、いいの」

 さっと準備を整え、雪は路太を置いて教室を出て行ってしまう。夕日に伸ばされた影だけが、路太が追いかけて来てくれるのを待っているようだ。

 「ご、ごめん」

 慌てて追いかけるも、部活中の小柏の言葉が思い出され、かえって何も言えなくなってしまう。気の利いた言い回しなど思いつきもしない。

 「……ごめんなさい。私こそ、意地悪な言い方だったわ」

 加えて雪の方から歩み寄ってくれたものだから、ますます居たたまれなくなる。

 「あの栞の花は、引っ越す前に新出くんが私にくれたものよ。小学校に入ってから一緒に遊んでくれなくなったでしょ? だから、新出くんから貰った最後のプレゼントを手元に長く残せるよう、小学生なりに考えて作ったの」

 「……それ、一つだけ色の違う花で作ったやつ?」

 「そう。思い出した?」

 思い出した。

 昨晩、雪が母に言っていた花冠。あれは雪が引っ越す数日前、別れの挨拶をしに来た彼女へ路太が作ったものだ。

 話し込む母親同士をよそに、幼い路太は雪と共に近所の公園で時間を潰していた。そして、そこで……。

 「俺に作ってくれって、木羽が言ったんだよな」

 「そう、そうよ。一本だけ赤いレンゲを混ぜて作ってくれたの」

 シロツメクサの中に一つだけ混ざったそれが、宝石のようだとあの日の雪は喜んでいた。大事そうに抱えて帰る小さな背中。その姿をもう見ることは無いのだと知ったのは、木羽家が引っ越した後だった。

 (俺、昔の方が……)

 昔の路太の方が、雪を喜ばせているのではないか。在りし日の思い出を、今も大切に本の間にとっているくらいだ。雪にとって特別な贈り物になったことは間違いない。

 自分に負けた――それも、小学生の頃の自分に負けてしまったような気分になって、路太は密かに打ちひしがれる。

 「……俺が今、木羽にしてやれることって何かあるか?」

 だから、いつもならば決して口にしないようなことを尋ねることもできた。

 「随分、突然ね」

 当然のように今日も新出家にやって来た雪は、突然そんなことを尋ねられる理由が分からず、座卓を挟んでポカンと間抜けな表情を見せる。

 「でも、そうね……何か貰えるのは、悪くないかもしれないわ」

 「何か?」

 「具体的に言うと首輪とか。飼い主が誰か分かるような……」

 「分かった、つまりアクセサリーだな!? そういうとこは木羽も女の子だなぁ!」

 雪が言う『首輪』は断じてアクセサリーなどではないだろう。知っていて、彼女の話を遮った。さあ、今度は雪が文句を言う前に話題を変えなければ。

 「そういや、今日の放課後に木羽の友達が謝って来たんだ」

 「優衣ちゃん? 爾香ちゃん?」

 「どっちなのかは分からん。けど、こんなに態度を変えるなんて一体何言ったんだ?」

 「……私は幸せだと思うって言ったの」

 「幸せ?」

 思いもしなかった単語だ。

 「ええ。言ったでしょう? 『家畜は財産』だって。誰かに価値を見いだせてもらえるのって、すごく幸せだと思うから」

 雪の言う『幸せ』には漠然とした概念ではなく、確かな重みがあるように感じた。

 「そうか……」

 だって、満たされたような笑顔でそんなことを言うのだ。路太には何も反論できなくなってしまうではないか。

 それに、誰かに認めてもらえることの喜びは路太だって知っている。味わいたいと思っている。きっと、そう願っているのは路太だけではない。

 「ねえ、新出くんが『良い飼い主』になるって言ってくれたように、私も『良い家畜』ってどういうものか考えてみようと思うの。だからね、その……」

 雪はちょっとだけ、続きを言おうか迷う素振りを見せた。

 「見捨てないでね。ペットみたいに……ある日突然、『家族』から『ただの動物』に成り下がるようなことは……」

 「ああ、そんなこと……」

 そんなことしないさ。例えペットであっても、それは憚(はばか)られるべき行為だ。なのに、続きを言えないのは、何かが胸に引っかかるからだ。

 (何だ?)

 モヤモヤとした何かが、路太の喉を塞ぐ。

 正体の見えないそれは不気味だが、夕食を挟んで風呂に入り、宿題を片付けたり――雪は放課後にさっさと終わらせていた――日々の生活に必要なあれこれを済ませているうちに霧散してしまった。

 

 

 一度消え失せたそれが路太の前に姿を現したのは、やはり夢の中だった。

 「……路太くん、ねえ聞いてる?」

 傍らから女性の声。聞き覚えのない甘やかなそれは、路太へ訴えかける力がある。

 「ああ、ごめん。聞いてる聞いてる」

 反射的に飛び出た謝罪に、女は「ただ聞くんじゃなくて一生懸命聞いてよ!」と頬を膨らませた。二人掛けのソファーに並んで座った女は、全身で訴えるように体重を預けてくる。

 子供っぽい怒りの表現に愛情を感じた瞬間、路太は自分が眼前の女を好きであるらしいことに気付いた。

 (でも、誰だ……?)

 雪ではない。いや、高校生ですらない。もっと年上の見知らぬ女性。

 「大事なことなのよ? 分かってるでしょ? 私たちの将来に関わることなんだから!」

 「う、うん。だからなるべく君の意見を尊重するって」

 「本当!? じゃあ、あなたのペット、どうにかしてよ」

 「え……」

 鮮やかに彩られたネイルが指したのは部屋の片隅、そこに蹲(うずくま)る少女だった。

 「……木羽?」

 思わず立ち上がる。記憶にあるよりも高い目線に、自分もまた高校生ではないことを覚った。

 雪だけは高校生の姿のままで、膝を抱えながら路太を見上げていた。

 「一緒に住むって決めた時、路太くんがどうしても一緒にって言うから承諾したけど……結婚してからも飼い続けるのは、難しいと思うの」

 媚びるように見上げる視線。嫌な予感。

 「だから、アレどうにかしてよ」

 女は忌々しげに雪を見る。雪は恨めしい眼差しをしている。勿論、路太に向けて。

 「で、でも……」

 どうにかしろなんて。

 「私、今まで我慢してきたわ。あなたが高校生の頃にした、くだらない約束のために。今度は路太くんが私のために決断する時よ。そうでしょう?」

 路太の態度が気に入らないらしい女は、一気に不満を捲し立てる。

 (そうだ、そうだった)

 夢の中の記憶が蘇る。

 路太は――夢の中の路太は、この女と長らく交際してきた。大学卒業後、社会に出て早二年、何となく続いてきた関係は、結婚を視野に入れる時期を迎えた。

 大学時代から雪の存在に不満を漏らされていたが、それを全て「こいつはただのペットみたいなものだから」と言って黙らせ、雪との関係の清算を先延ばしにしてきたのだ。

 そのツケを路太は払わなければならない。

 「ねえ、選んでよ。まあ、路太くんのこれからの人生に、どっちが必要かなんて考えるまでもないけど」

 「随分な自信ね」

 だんまりを貫いていた雪が口を開いた。ああ、まずい。直感する。

 「私は新出くんの家畜よ。家畜っていうのは、飼い主にとっての財産。つまり私は彼が高校生の頃から彼の財産なの。あなたみたいに、役所に提出する書類一枚で立場が変わるような存在じゃないわ」

 「財産って言うけど、そういうあなたは路太くんにとってどれだけの価値があるって言うの? メス豚さん」

 「それは新出くんが決めることよ。これからの価値もね。今まで傍に置いていたっていうことが、そのまま答えにならないかしら? ああ、豚にも劣る頭では、理解できないかもしれないわね」

 売り言葉に買い言葉。敵意を隠さない攻撃的なそれに、女の苛烈な一面を見る。

 「ふ、二人とも、とりあえず落ち着いて……」

 「あなたのせいよ!」

 「新出くんのためよ!」

 一旦冷静になってほしくて言った言葉は、彼女らの矛先を路太に向けさせた。

 考えてみればその通りだ。路太が交わした約束に、どっちつかずの態度に――我が儘に振り回されてきたのだ。原因を作った張本人が「落ち着け」とは笑わせる。

 「決めて、路太くん! いつまでも逃げてないで!」

 「それとも、新出くんが欲しかったのは『家畜』でも『結婚相手』でもなく、ただただあなたの優柔不断に笑顔で従う存在だったの!?」

 ぎゃんぎゃん。

 うるさい、うるさい。

 「黙れ!!」

 怒鳴ることで黙らせようと試みる。この期に及んでも、どちらを選ぶべきか路太は決めかねていた。

 高校生の頃から、彼女なりに頑なに約束を実行し続けた雪。雪との関係を知りながら、路太との将来を視野にいれてくれる恋人。どちらも路太にとって掛け替えのない人物――だから選べないのではない。

 雪を選んで恋人から恨まれるのも、恋人を選んで雪に恨まれるのも嫌なのだ。どちらにとっても悪者になりたくない。どちらにもいい顔をしたい。

 『善人』でいたいという、自己保身のためだ。

 「黙れよ! 俺、俺にだって……!」

 都合がある。ただひたすらに我が儘な都合が。

 腹黒いそれから目を背け、雪たちが喚(わめ)かないように喚き返す。そして、どうすればこの場を納め、答えを出すのを先延ばしにできるか考える。焦りと不安でない交ぜになった脳で考える。

 「……新出くん」

 混迷状態の路太を、雪が呼んだ。

 「嘘つき」

 打って変わって冷えた声。怒声よりもよほど路太の背筋を凍らせる。

 「違う、俺は!」

 さっと冷めていく頭。汗が浮かぶ。必死の言葉を絞り出さなければ。

 

 

 しかし、捻出するより早く、路太は現実へと引き戻された。

 「あ……あ、夢……?」

 シーツと背中の間が湿っていて不快だ。でもそれ以上に、夢から解き放たれたことに安堵した。よかった。あんな状況、陥ってたまるか。

 大きく息を吐いて、寝直そうと身を捩(よじ)った。悪い夢はさっさと上書きしてしまおう。まだ起床まで時間がある。

 「……え、木羽?」

 ごろりと姿勢を変えた時、ベッドに横たわるのが自分一人ではないことに気付く。こちらに背中を向け、今にも転げ落ちそうな所にどうにか眠っている雪がいた。

 「お前、また……」

 床に敷かれた布団には僅かに使った形跡があるが、昨晩に続き、路太が気付かないうちにベッドに入り込んでいたらしい。

 「……おい」

 そんな端っこでは落ちてしまう。思わず手を伸ばした時、小さく呻きながら雪は身を縮ませた。胎児のように丸くした背中は拒絶の意思表示に見えて、路太は手を止める。

 忘れたい夢の記憶が蘇ってしまいそうだ。このままでは。

 「……」

 雪を起こして布団に戻ってもらおうか。しばし逡巡の後、路太は自分がベッドから出て行くことを選んだ。

 転ばないように注意しながら階段を下り、居間のソファーに転がる。そうしてカーテンの隙間から朝日が差し込むまで、微睡と覚醒を繰り返しながら過ごした。

 

 「やぁだ、路太! こんなとこで寝て!」

 カーテンレールを走るランナーの音と共に、瞼の上に差す陽光が強くなる。何時間ほど眠れたのだろう。

 「んあ……おはよう」

 「どうしたのよ? お布団は? あ、まさか雪ちゃんと何かあったんじゃないでしょうね?」

 未だ寝ぼけ眼の路太に、朝から元気な母は質問を矢継ぎ早に投げかける。二日連続で寝不足な路太にとっては、少々不快な一日の始まりだ。

 「あー、ベッドは木羽に取られた。……ってかさぁ」

 「何?」

 「高校生の女子を同じ部屋に寝かせるのって、どうなんだよ?」

 最初の日、客用の布団を用意したのは間違いなく母だ。そして、雪が路太の部屋に布団を敷くことを許したのも、考えるまでもなく彼女だ。布団の準備がされるより先に路太は眠ってしまったのだから、他にいるはずがない。

 路太が悪いことを考えれば、雪にいくらでも手を出せる状況。どうして母がそんな状況になるのを許したのか疑問があった。

 「だって、あんたが雪ちゃんに何かするとは思ってないもの」

 朝食の準備にかかりながら、何でもないように母は言う。

 「そういうとこは信じてるわよ。自分の息子のことだもの。ねえ?」

 「何だよぉ、こういう時ばっか……」

 こういう時だけ、そういうことを言わないでほしい。昨晩の夢と相まって、雪のみならず母親までも裏切ってしまったような気分になるではないか。

 「おはようございます」

 やるせない気持ちを処理できずにいると、既に制服に身を包んだ雪が現れる。

 「あら、雪ちゃん。ごはん、ちょっと待っててね。ほら路太、あんたも着替えるなりして準備してらっしゃい」

 同時に母も、いつものお小言の調子に戻る。

 「分かったよ」

 雪と同じ空間に居続けるのが気まずい。渋々従うのを装って、けれど足早に居間を出て行こうとする体は正直だ。

 「……どうして」

 雪とすれ違う瞬間の囁き。まるで夢の続きの中にいるような。

 「お、まえ」

 肩が跳ね、ありもしない可能性が頭を過(よぎ)る――雪は、路太の悪夢を知っているのではないか。

 「……まさか」

 「おばさま、お手伝いします」

 しかし、雪は路太が問いかけるのを許さず、台所にいる母の元へ行ってしまう。娘ができたようだと喜ぶ声が、妙に耳障りだ。まるで日常を見せるための演技を聞かされている気分だ。

 「まさか、な。そんな……」

 自分に言い聞かせる声は、小さく震えていた。

 

* * * * *

 

 知らない名を聞いた、ように思う。

 眠る路太の首に手を掛けた。昨晩と同じように。自分よりも硬い皮膚に回された指がまるで首輪のようで嬉しかった。路太は雪に首輪を寄越すつもりは無い様子だったけれど。

 「……新出くん……新出くん」

 無意識に呼吸で笑ったのは、昨晩、雪の名を呼んだ路太を思い出したからだ。

 しかし、路太の口から漏れた呼気は、雪の名前ではなかった。吐いたばかりの息を飲む。誰の名前なのだろう。じっと暗闇に耳をそばだてるが、それが再び聞こえることは無かった。

 ――木羽……黙れ……違う……

 ああ。自身の名を聞いて、雪はようやく詰めていた息を解放した。

 大丈夫。今、路太の頭の中にはきちんと雪がいる。汗が浮き始めた首の皮膚。その下に詰まっているのは雪のはずだ。大丈夫。

 (小柏くんも、何も言ってなかったし……)

 偶然再会したかつての同級生は、中学時代の噂もあり、協力を願えば二つ返事で、内緒にしてほしいと言えば、疑いもせずに了承してくれた。

 善人だ。路太は本当によい友人を得たものだと思う。

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