第3話 幼馴染は家畜

 一人っ子の路太にとって、食卓に複数の女性がいる光景は珍しく、どうにも落ち着かない。今日も今日とて残業の父がいないせいで、数の上で男が足りないというのも原因だろう。

 「雪ちゃん、遠慮せずに食べてね。簡単なものしかないけど」

 「ありがとうございます」

 「……」

 いつもの食卓に見せかけて、品数が多い。いくら雪が息子の幼馴染兼、友人の娘とは言え、気合入れすぎだろう。

 だが、一日の終わりを告げる夕食でも、路太に安息の時間はない。

 「ところで、今日は路太に何の用があって来たの?」

 爆弾はいつどこから放られるか分からないのだ。

 「ええ、実は新出くんのかち……」

 「ああー、言ってなかったっけ!? 木羽も、言ってなかったのかー!? あはははは……」

 慌てて雪のセリフを邪魔したものの、非常にまずい。

 雪なら言う。誤魔化しもオブラートもなく言う。どうする、どうする。ああ、今日は咄嗟の判断を迫られることばかりだ。

 「か、勝ちに! 勝ちにいくには、どうするかって話をするんだよな! 弁論大会の!」

 思い出したのは先の学年弁論大会、そして放課後に路太を呼び出した教師の言だった。

 最優秀に選ばれた者は、市や県などの弁論大会に代表者として参加することになると、聞かされていたのだ。面倒だなと右から左に受け流していたが、ここで思い出せたのは幸いである。どうにか話を逸らせそうだ。

 「そういえば、あんた学年最優秀だったんだって? 意外よねー」

 「……一言余計だっての」

 憎まれ口は安堵の裏返しだ。少なくとも、母は雪の言いかけていた言葉への興味を失い始めている。ただ、露骨に遮られた雪だけが恨めしい眼差しを向けてくるが。

 「だって、路太ったら手先が器用なくらいしか昔っから取り柄がないし……ねえ、雪ちゃん?」

 おっと、そこで雪に話を振るのはやめてほしい。母に相槌を打つ雪の口から、何が飛び出すか、内心ひやひやだ。

 「そうですね。確かに、小さい頃は、私よりも上手に花冠を作ってましたし」

 「そんなこともあったなぁ」

 まだ路太が『女子と仲良くするのはダサい』期に入るより前の話だ。そういう細かな作業が得意だったせいか、昔は女の子と遊ぶ時にも困らなかった気がする。

 自分でもすっかり忘れていたのに、よく覚えているものだ。

 「この子ったら、今はプラモばっかりなのにねぇ」

 「……」

 母の呆れた口調は、路太の趣味をあまり快く思っていないせいだ。

 そもそも模型に興味のない母は、路太の作るものを全て『プラモ』に分類してしまう。自分が作っているものがプラモデルではないのだと、何度も繰り返してきた反論をする気力はもうない。

 「そんなことないですよ」

 だが、意外な人物からフォローが入った。

 「私、さっき新出くんの作品を見せてもらったんです。ボトルシップを。すごく緻密で、きれいでした。きっと、新出くんは手先が器用なだけじゃなく、集中力もあるんだと思います」

 「あらぁ、そう?」

 やはり母は賛同しかねるような様子だが、如何せん彼女の中では路太より、雪の方が評価が高い。その雪から実の息子を褒められたのは、悪くない気分のようでもあった。

 それでも、何だか居心地が悪くて――その理由の大半が、次の瞬間には何を言い出すか分からない雪にあったが――路太は夕飯を掻き込むことに神経を注いだ。まさに今、雪がそうすることに長けていると言ったように。

 「あ、路太。お風呂は雪ちゃんからだから、食べ終わってもすぐ入んないでね」

 「ぶぇふっ!」

 新たな衝撃が、口から食道に入りつつあった食事の一部を急に押し戻す。

 「やだ、もう。急いで食べるからよぉ」

 「いや、だって……あ、すまん」

 さすがに雪も顔を顰めているものの、ハンカチを差し出してくれるのだからまだ優しい。

 「え、何? 木羽、泊まってくの?」

 「悪いかしら?」

 「え、でも……」

 明日、一緒に登校するところを見られたら恥ずかしいし――なんて、雪は思わないのだろうか。こういうちょっと微妙な思春期の思考を抱くのは、路太だけなのだろうか。

 答えてくれる者は、ここにはいない。多分、どこにもいない。

 「いいじゃない。てるさんにも許可とってあるし」

 晴は雪の母の名だ。

 「制服のまま来たから、明日の登校も大丈夫ですね」

 「うふふ。お泊りなんて、小さい時以来だわー」

 ウキウキしている母の声が、遠くから聞こえる気がした。

 

 

 完全に味を感じなくなった夕飯を平らげ、安息を求めて自室に戻ろうとする路太の背に、

 「部屋に戻ったら考えましょうか。弁論大会の勝ち味を」

 雪の冷たい声が刺さる。

 「お、おう……」

 明らかにさっきの発言を根に持っている声だ。

 けれど路太にだって言いたいことはある。今はただ、場所が悪いから言えないだけだ。

 「どういうつもりだよ、さっきの!」

 だから、雪と二人きりになれる場所、自室にさえ戻ってしまえば話は別である。

 「そっちこそどういうつもりよ! おばさまに言えないような話だった!?」

 「言えるか!? 言えるような話か!?」

 「言えないような約束をしたって言うの!? 最初に勝負を持ちかけたのも、条件を飲んだのも新出くん自身じゃない!」

 「そ、それは……」

 全くその通りだ。

 でも、『再会した幼馴染と家畜になるかならないかを賭けて勝負した』なんて、大人には知られたくない。知られて、自分の評価を下げたくない。

 なのに、雪との約束を取り消そうとも考えていない。

 美味しいところだけ頂いてしまいたい。それでいて、その自己中心的な部分を開き直って受け入れることもできず、路太はただ言葉を詰まらせる。

 「後から恥ずかしくなるくらいなら、しなければよかったじゃない! そんなこと考えもせずに……」

 「うるさいっ!! か、家畜だったら飼い主の都合も考えろよ!!」

 まくしたてる雪へ、とうとう路太が爆発した。同時にしまったとも思う。けれど、止めることもできない。

 「お前は、お前こそどうなんだよ!? 母さんの前でバラそうとして、俺のこと追い詰めて楽しんでるんじゃないか!?」

 「そんなわけないじゃない!」

 雪も声を荒げる。でも、嘘だ、信じられない。

 「だったら何で、さっき!」

 「飼い主あなたが恥ずかしがってるうちは、家畜わたしも恥ずかしい存在だからよ!」

 「……木羽が恥ずかしい?」

 恥ずかしがっている素振りなど見せたことがないくせに――そう考えながらも、大真面目に言い放った雪は、取り繕うための嘘をついたようにも見えない。

 「そうよ!」

 今度は雪の声が勢いを増していく。

 「家畜の価値を決めるのは飼い主よ! 犬猫を見てれば分かるでしょう!? 飼い主の考え一つで、吠えるだけの餌を与えなければならない獣にもなれば、家族にもなるの! 今の……今の、私はっ!」

 雪の表情が、悲しげに歪む。あの捉えどころが無いほどに泰然としていた顔に、悲しいのだと、苦しんでいるのだとはっきり表れている。

 「……新出くん、あなた、私をどういう『家畜』にするつもりなの? どういうつもりで、あの日約束したの? ……昨日、良い飼い主になるって言ってくれたのは?」

 「あ……お、俺……」

 雪には従順な家畜に、そう、思春期丸出しの男子高校生が期待するような『家畜』になってほしい。でも、そのために自分が悪者にはなりたくない。

 それだけのつもりで、約束を持ちかけた。何も考えずに、都合の良い未来だけ考えて。だから、手っ取り早くそうなるように『良い飼い主になる』と昨日は言った。

 でも、今の自分はどうだ。『良い』飼い主ならば、もっと胸を張れているのではないか。

 脳は雪の問いへの答えを出しては、別の疑問を生むだけだった。

 「ちょっと路太! 大声出して、どうしたの!?」

 パタパタとスリッパが駆け上がってくる音。直後、母親が部屋のドアを開けた。またノックを忘れている。

 対峙する息子とその幼馴染を見比べて、彼女が何を考えたのかは分からない。

 「……話し合うのはいいけど、あまり熱くなりすぎないでね。雪ちゃん、お風呂いつでも大丈夫だから」

 ただ、手を上げるような状況ではないことを見てとると、用件を伝えて去って行く。

 眼差しに疑問の色はあったが、先ほど路太が言った「弁論大会のため」に話し合っているうちにヒートアップしてしまったと判断したのだろう。

 「……お風呂、先に頂くわね」

 「ああ」

 部屋に置きっぱなしにしていた鞄には、着替えや洗面道具がしっかり用意されていたらしい。道具を取り出すと、雪はさっさと部屋を出て行ってしまう。

 「何でこう……くそっ……」

 一人になってさえ何も言えない。言葉が見つからない。惨めだった。

 

 

 雪が部屋に戻ってきたらどうしよう――弱くなった路太の心は、彼に眠りという逃避を勧めた。何となく教室で居心地が悪い時、机に突っ伏して眠るのと、あるいは眠っている振りをするのと同じ原理である。

 だが、最初は振りだったそれは、やがて路太を夢の深みにまで引き込んでいた。

 薄暗く寒い、閉所でもないのに逃げ出せない圧迫感。嫌な夢だ。

 満ちるのは悲鳴、嗚咽、見知らぬ人々の影。時折、パッと散る光。

 「新出くん、大丈夫?」

 傍らにいたのは雪だ。明滅する照明の下、白い肌が不気味に浮かぶ。

 「あ……うん、いてっ」

 何故か分からないが頭が痛い。額に当てた手にはぬるりと温かい感触がした。

 「っ……血?」

 「大丈夫、額を切っただけよ」

 雪が傷にハンカチを当ててくれる。真っ赤な手の平の震えが少し治まった。

 「じゃあ、行きましょうか」

 「あ、ああ」

 見れば、周囲の人影が動き出している。一列になってのろのろと、啜り泣きやたまに怒声を発しながらの前進。不気味な行列。腰かけた姿勢からぼんやり見上げる。

 「さ、私たちも」

 「そう……だな」

 そうだ、行かなければ。自分たちも皆に続いて。遠くから呼びかける声に従って。

 「待って」

 立ち上がった路太の袖を、雪が引いた。

 「肩、貸してもらっていいかしら? あの、足が……」

 言われて視線を落とす。雪の左足は、膝から下が無い。

 「うわあああ!?」

 薄暗い空間でよかった。それでも、どす黒く酸化した血の上に、未だ止まらない赤が切断面から溢れ続けているのを見てしまった。べっとりと血液の付着した鉄の板。これが、彼女の足を切り離してしまったらしい。

 「お客様、大丈夫ですか?」

 吐き気を覚えた路太の背中を、誰かが優しく摩った。キャビンアテンダントの制服に身を包んだ女。心配そうな眼差しと目が合う。

 「あ……す、すみません。大丈夫、です」

 「ゆっくりで構いませんので、皆さんと一緒について来てください。最後尾にもスタッフがいますから」

 未成年の二人を気にしてくれているが、彼女らが導かねばならない乗客は沢山いる。人の列を掻き分けながら持ち場に戻って行った。

 「木羽、ハンカチ破るぞ。帰ってから新しいの買うからさ」

 額に当てていたハンカチを包帯代わりになるよう細く裂く。それを雪の足に巻きつけた。これくらいしか止血の方法が思いつかない。

 「……ありがと」

 「よし、じゃ、腕貸せ。持ち上げるぞ」

 最早、自分では立ち上がることさえできない体を抱え起こす。出血のせいだろう、すっかり冷えてしまっている雪。彼女が一本足で立てるよう気遣いながら、肩に腕を回させた。

 「寒いな。木羽、大丈夫か?」

 大丈夫なはずがない。分かっているけれど沈黙が怖かった。会話が続いているうちは、間違いなく雪は生きているのだから。

 「寒いのは仕方ないわよ。だって私たち、×××に向かっていたんだもの」

 「……そう、だよな……そうだった」

 ×××――聞き取れなかったのに分かる目的地。

 そして理解する。路太たちの乗っていた飛行機が、×××に向かう途中で墜落したのだと。

 

 外に出された搭乗者は皆、震えていた。何もかも白で埋め尽くす勢いの猛吹雪。大きな雪片が容赦なく叩き付けられる中、路太たちは、搭乗員らが機体に火災や爆発の心配がないか確認を終えるのを待った。

 その間にも、どこかから悲鳴が聞こえてくる。ひどい怪我を負った者が、寒さの中で次々と意識を手放していったのだ。

 「こっち、風下にいろよ。少しはマシだろ」

 「うん。傷口も、縛ってもらってから、楽になってきてる気がするわ」

 「……そっか」

 泣きたくなった。

 楽になっているはずがない。失血と寒さで感覚が鈍くなってきているだけだろう。そのくらい、路太でも想像できた。現に雪の顔色は白を通り越して青い。

 幸いにも雪の意識があるうちに機内へ戻ることができたが、その時には既に、雪は路太が背負わなければならないほどに弱っていた。

 「ファーストクラスの席、すごいな」

 「ええ」

 重傷者へ優先して広い席が割り振られたために、今まで見たこともないファーストクラスの座席に二人は案内された。付属の毛布も残っていたが、ペラペラのそれでは吹雪くほどの寒さまではしのぎ切れない。皆くるまって尚震えている。

 火災にこそ至らなかったが、機体は大きく損傷し風も雪も入りたい放題だ。当然、エアコンの機能など失われている。

 「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか? お客様の中に……」

 「お水とパン、お菓子をお配りします。少ないですが、平等に行きわたるよう……」

 「貨物室の荷物をお客様にお戻しします。お手数ですが……」

 どんなに寒くても従業員はその時できることをしなければならない。休みなく働き続ける声は途切れることなく、あちこちから聞こえる。歯がガチガチと鳴る音も、絶えることは無かった。

 「……みんな、頑張ってるのね。私も……」

 「無理するなよ。そうだ、俺、食い物とか、貰ってくるよ」

 さっき医者を探している声があった。運が良ければ、消毒薬でも鎮痛剤でも雪の怪我に役立つものが手に入るかもしれない。

 「ごめんなさい。……ありがとう」

 「いいって、いいって」

 そうして、救助が来るまで耐えしのげれば――しかしその願いは、数日後には早くも絶望なものになる。

 

 止むことのない吹雪のせいだろう、一向に救助が来る気配は無く、ただただ日を重ねるごとに疲弊の色が濃くなっていく。水も食糧も減る一方で、機内にあった雑誌や紙くずをいくら燃やしても十分な暖を取るには足りない。皆、いつも震えている。

 しかも、機内の飲料水が無くなってからは、雪を煮沸して水にするために火は余計必要になっていた。その頃には、もう状態が悪くなるばかりであることを、皆が察しつつあった。

 「……木羽、起きたか?」

 「……」

 雪の衰弱も目に見えてひどくなっていた。起きていてもぼんやりどこを見ているのか、虚ろな表情で、一日のほとんどを震えながら眠っている有様だ。

 幸いなことに傷口が化膿することなく出血も治まった。痛みももう無くなって――いや、痛みを訴える気力さえ無くなっているのだ。

 朦朧とした意識をどうにか繋ぎ止め、一日一日を何とか生き長らえている。そんな状態だった。

 「……新出くん、ねえ」

 「どうした?」

 強い風が鉄の機体を軋ませ、嫌な音を立てる。雪の声を聞きもらすことの無いよう、路太は座席に寝そべる彼女に顔を近付けた。

 「私のこと、食べて」

 「!?」

 何を言い出すのだろう。

 聞き間違いであってほしくて、雪の言葉をなかったことにしたくて、首を横に振る。

 「いいの、気にしないで。もう、私ダメだわ……自分で分かるもの」

 精一杯口の端を上げて、雪は微笑みを作る。

 「寒いからか? だから、そんな弱気になってるんだろ? それとも、腹減ってるか? ちょっと待ってろ」

 返却されたトランクの中に、まだ衣類があるかもしれない。本当はもう空になっているそれへ、希望を探して手を伸ばす。食べ物も誰か分けてくれる人がいるかもしれない――望みは薄いけれど、それでも動かずにはいられなかった。

 「いいわ、いらない。……もう、いいの」

 だが、雪は路太を押し止める。

 「私はもうだめ。それはいいの。でも、新出くんは生き延びて、ね? お願い」

 「でも……無理だ、木羽を食べるなんてできない!」

 「残ってる水や食べ物だけでしのげる? この寒さの中、いつ来るかも分からない救助を待ち続けられる? このままじゃ……」

 「そりゃ……分かってる、けど……!」

 そんなことは分かっている。路太自身、日毎に自分が弱っていくのが分かるのだ。

 他の乗客たちも同じだ。朝を迎える毎に彼らの数が減っていること、その理由を察せない路太ではない。機内の片隅に並べられた、毛布に全身を包(くる)んだ何者かの数は少しずつ増えている。啜り泣いてそれにすがっていた者も、やがて泣く力さえ無くし、憔悴していく一方だ。

 このまま路太も、彼らと同じ側に立つのだろうか。

 例えそうだとしても、雪の肉を食べることなどできない。どうしても、路太には。

 えーん、えーん……

 子供の泣き声が聞こえ、振り向く。抱きかかえる母親と目が合った。すっかり落ち窪んだ双眸は、ぎらぎらとこちらを見ている。

 否、彼女が見ているのは、雪だ。

 「あの……」

 嫌な予感に従って視線を逸らすより早く、女が路太を呼んだ。

 無視するな。目が合っただろう――囁き程度の声が、路太を捕まえる。

 「……お連れの方が亡くなったら、私たちにも分けていただけませんか?」

 「やめてください! そんな……っ!」

 雪が死ぬことを決めつけたような言い方。思わず声を荒げると、母親の腕の中で子供が再びぐずり出す。すぐに全身の力を振り絞る大泣きになってしまい、嫌でも他の遭難者の目を引いた。

 「子供を泣き止ませろよ」「何の騒ぎだ」わらわらと集まってきた者たちは、間もなく状況を知る。

 「食べてもいいの?」「本当に?」「これで何日かは生きられる?」路太たちを囲む目が、あの母親と同じものになった。

 皆、一様に雪を凝視している。

 人から肉になるのを待っている。

 「やめろ!! 木羽は、木羽を……っ!!」

 飯を見るような目で見るな!

 雪に覆いかぶさって隠す。見たくない――今、雪がどんな顔をしているのか。雪の死を待つ獣になった人々の姿も。

 「別に、その子だから食べたいわけじゃない」「そうよ」「今まで亡くなった奴は皆、食べるなって遺言していたから食べずにいたんだ」「私たちは死んだら誰でも食べるわけじゃないわ」

 だから、獣と同じにするなと、彼らは言う。

 「……いいわ。新出くん」

 微(かす)かな囁きが聞こえた。

 「あなたが食べない分は、他の人たちにも分けて。少しでも沢山の人が生き残るように」

 どんなに路太がノーと言っても、雪本人がイエスと言えば、他人にとっては『イエス』の方が重い。肉が手に入ることを、生き長らえる時間が延びることを、喜ぶ声が上がった――路太以外の口から。

 「でも……俺は、無理だ。だって……」

 路太にとって、雪は肉ではない。例え、死んでしまった後だとしても。

 「新出くんは食べてくれないの……? 嫌、それなら嫌よ!」

 あくまでも路太が食べるつもりがないことを覚った雪は、突然声を荒げた。さっきまでの吐息のような声ではなく、最後の力を振り絞った生命の叫び。

 「他の人だけに食べられるなんて嫌! 新出くんが食べてくれないならば、私、誰にも食べられたくない!」

 「そんな……!」

 無茶な。

 だが、雪はあくまでもその条件を変えるつもりはないらしい。体中に残った力が目に集まったように、強い決意がそこに浮かんでいる。

 「あなたが食べないと私たちには分けてもらえないの?」「おい、さっさと食べるって約束しちまえよ」「お願い、子供がいるの。この子のためにも……」

 そして、周囲からも食べるよう促す。彼らにとっては路太の返答が命綱なのだから、それは強要と言った方が正しいだろう。

 「無理だ、無理、だめ……」

 雪の呼吸が止まったら、温かい血で肉が傷むより早く彼女の体は解体され、そして――だめだ、それ以上は考えられない。考えたくもない。

 「ごめん、ごめん……ごめんなさい」

 路太はどうしても『ノー』の答えを覆せない。それは周囲の者への飢餓宣告だった。息を飲む音が聞こえる。

 「ゆ、ゆるしっ、許してください……許してください!」

 雪に覆いかぶさったまま、路太は必至で理解を求めた。

 「私たちに死ねって言うの?」「お願い、絶対悪いようにはしないから」「あなたのせいで子供が死んだら、どうしてくれるの……」生の可能性にしがみつく声は、ただただ路太を責める。

 「……新出くん」

 冷たく骨の浮いた手が頬に触れた。

 「ほとんどの『家畜』は、飼い主の口には入らず死んでいくの。私、あなたに食べてもらえたらきっと幸せ……きっと他の家畜たちは、羨(うらや)むでしょうね」

 「やめろよ、こんな時までそんなこと言うのは」

 冷え切った手に少しでも体温を移そうと、手を重ねる。自分の手も大概冷たいが、それでも雪よりは暖かい。

 「……家畜(わたし)は飼い主(あなた)のものなのに、最期の願いも聞いてもらえないのね……」

 違う、そんなつもりじゃない。雪の意思を蔑(ないがし)ろにしようとするのではない。

 でも、この願いだけは聞けない。どうしても、聞けない。

 食べられない。

 「……ひどいわ」

 「そんな……っ!」

 

 

 「あ……」

 目が覚めた。暗い天井に、重く湿った吐息を何度か吐き出す。全身がぐっしょりと汗に塗れ重い。妙に怠く、動けない。

 「……木羽?」

 重いはずだ。半分路太に乗っかって、雪が眠っていたのだ。

 路太のシングルベッドの傍らには、きちんと客人用の布団が敷かれているのに。寝ぼけていたのか――あるいはわざとか。

 どうであれ、幼馴染の女の子と一つのベッドで……という夢のある状況に、ときめきを覚えらえる余裕は無い。

 「はは、こりゃ夢見も悪くなるはずだ……」

 さっきまでの夢を早く忘れたくて、軽口を叩いてみる。震えた声がかえって動揺を強めたが、ともかく、雪にどいてもらわなければ。

 「よっと、……結構重いな」

 全く力の入っていない雪の体は、思っていたよりも重い。フィクションの中に描かれる『羽のように軽い女の子の体』ではない。

 でも、生きた人間の体だった。夢とは違う、温かい血液を湛えた体。それに安心しながら、どうにか雪を起こさないように彼女の下から抜け出した。

 「……風呂……」

 肌にまとわりつく汗は、まるで悪夢の残滓だ。気持ち悪い。早く洗い流したくて、暗い部屋の中、ドアに向かってそろそろと進む。

 廊下に踏み出す直前、部屋の中を振り返った。弱い明かりに雪が照らされる。左足があることを確認して、路太はほっと胸を撫で下ろした。

 

* * * * *

 

 階下へ向かう足音が戻ってこないのを確かめてから、雪は閉じていた目を開いた。

 まだ、手の中に汗ばんだ感触が残っている。脈打つ血管を皮膚の下に感じながら、路太の首へ回した手。徐々に力を強めて圧迫する。僅かに息をつめる呼吸。暗闇の中、それに混じって囁かれた雪の名を、確かに聞いた。

 ――『木羽は………ごめんなさい………許して……』

 彼が一体どんな夢を見ていたかは問題ではない。間違いなく雪を夢に見ていた。その事実だけが、雪の心を埋めていた。

 熱。充足。幸福感。震える。

 けれど、今は余韻に浸っている暇はない。路太が返ってくるまでに手に入れなければならないものがあるのだ。興奮で冴えた身を起こす。

 机の上、既に充電を終えていた機器に手を伸ばし、アドレス帳の中から『小柏』を探し出すと、それを自分のものに送信して再びベッドへ転がった。

 ロックが掛かっていなくてよかった。幸運に感謝しながら、雪は路太が戻ってくる前に、眠りに就いた。

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