第1話 幼馴染と家畜

 「お前はこれから俺の家畜だ! このメス豚!」

 そう言い終わるが早いか、拳が路太みちたの頬を襲った。

 「いってえ! ……な、なんで!?」

 不意打ちで殴り倒された路太は、殴り倒した張本人・きよみを見上げる。

 見事な鉄拳を繰り出したとは思えないほっそりとした腕を組み、雪はそのままストンとベッドの端に腰掛けた。まるで玉座に座す主のようだ。

 背中に届く長い髪が、ふんわりと動きに合わせて揺らめく様子まで決まっている。見上げる。路太はさながら、伏し仰ぐ家臣というところか。

 「お、俺の、ベッド……」

 形の良い尻の下になっているベッドだけではなく、今二人がいるこの部屋は路太のものである。

 いや、部屋の主の座を追われただけならば、まだマシだ。

 自室に女の子を連れ込んで――まあ、健全で高校生男子ならば、その後の展開にそれなりに期待を高めるシチュエーションだった。もっとも、送られた鋭い拳は、路太の頭から期待や興奮をすっかり奪い取っていたのだが。

 (話が……違わないか?)

 不満を言葉にすることさえ、混乱する脳では敵わない。

 ほんの数時間前、クラスメートの木羽雪こばきよみを伴って学校を後にした路太の背中には、同級生たちの羨望と軽蔑が複雑に入り混じった視線が集まっていた。微かな羞恥と大きな優越感を覚えるほどのそれは、いやでもその後の展開を期待させてくれたのに、この仕打ちである。

 「だめよ、新出くん。私を『メス豚』と呼ぶには、まだ早いわ」

 目を白黒させる路太を、雪が冷めた眼差しで見つめた。人をぶん殴っておきながら、ひとかけらの動揺も見せない。

 「い、いや……ちょっと待て! おかしくないか!? だって、約束したじゃないか!」

 ようやく路太の口からまともに反論が飛び出した。そして、鞄の中から一枚の紙を掴み出す。

 ずいっと、『メス豚』と呼ぶ権利があるのだと反論するように――少なくとも殴られる筋合いはないのだという主張を込めて、路太はそれを雪の鼻先へ突きつけた。

 

 『私 木羽雪こばきよみ は、学年弁論大会で 新出路太にいでみちた に負けたら、 新出路太 の家畜になることを約束します。』

 

 紙面に書かれた約束は、路太と雪の名前だけ後から書き足されたために、僅かに地の文から浮いている。けれど、そんなことは問題ではない。なんと言っても、この約束は書面という形でわざわざ残したものなのだ。つまり、二人にとって絶対の約束……のつもりだった。少なくとも、路太は。

 「……で、結局、最優秀賞に選ばれたのは、俺のだったよな?」

 「そうね」

 「あ、そこは認めるのか」

 てっきり「新出くんが勝ったなんて認めない」とでも言って、約束を無効にするつもりだと思ったのに。雪は存外あっさりと路太の勝ちを認めた。

 しかし、ならば尚更さっき殴られた理由が分からない。路太は首を傾げる。

 「今更、『こんな約束、冗談に決まってる』とか言い出すなよ?」

 念押しする。ささやかなものでも勝負は勝負、負けたから無効というのは無粋極まりない。

 「当然よ。私が勝ったら……絶対に新出くんのこと、家畜にしようって思ってたもの」

 「お、おう……そっか」

 冷静に言い放つ雪を前に、路太の方がかえって狼狽えてしまう。約束を無効にするつもりがないことは分かったが、それ以上に冷静な雪の目が伝える本気に、気圧された。

 「ねえ新出くん。今、こうして私を部屋に連れ込んでるんだから、新出くんだって冗談でした約束ではないでしょう?」

 「あ、当たり前だろ」

 逆に路太が念を押されてしまう有様である。

 さっきこそ雪の反応に出鼻を挫かれてしまったが、勿論、路太だって本気だ。見つめる雪の眼差しへ、真剣なそれで応える。互いの意思が揺るぎないものだと、改めて了知した瞬間だった。

 あの非現実的な約束を守るつもりが雪にあるならば、尚更、雪を『メスブタ』と呼んで殴られたのかが分からない。路太の表情も渋くなる。

 すると、俄かに眉根を寄せた雪と目が合った。

 「……新出くん、『家畜にする』というのがどういうことか、分かっているの?」

 「そ、そりゃあ……な」

 どういうことなのか――具体例が脳内を駆け巡る。

 大変いかがわしく、不道徳な……言葉にすることはできないが、路太が『家畜』になった雪に期待するのは、つまり、そういうことだ。

 「その様子だと、『やらしいことしてやろう』とか思ってたんでしょ?」

 「はっきり言うなよ! ってか、少しは恥じらえ!」

 年頃の乙女にしては明け透け過ぎる物言いだ。思わず窘めてしまう路太だが、まあ、要はそういうことであるのは違いないので、否定もできない。

 情けないことに、雪の口から『やらしいこと』なんて単語が飛び出て来るだけで、路太のよこしまな気持ちは大きくなっていく。路太自身もまた、多感な年齢なのだ。

 だから、「いいえ、恥じるのは新出くんの方よ」などと返されてしまうと、それなりに心に刺さる。言い出したのは雪の方だと言うのに。

 「新出くん、その……『家畜』に対して卑猥な気持ちを抱くなんて……ちょっと趣味が悪いと言うか……変態趣味じゃないかしら」

 「え?」

 「高校生だから仕方ないとは思うけど……犬や猫まで性欲の対象にしちゃうなんて、ちょっと……どうなのかなって」

 「なっ、おい! なんでそうなる!?」

 確かに世の中にはそういう、アブノーマルな性癖もあると聞く。でも、路太は違う。断じて違う。自覚している限りは。

 「だって新出くん、『家畜』である私に、そういう気持ちを抱いてるんでしょう? 多分、少なからず?」

 「いや、まあ……」

 路太の視線が泳ぐ。スカートから伸びるすんなりと白い腿(もも)から、女性らしさが際立つ腰周り、そして細い首に支えられた頭へ。

 そして、訝しげな雪の目とかち合った。

 「……でもね、家畜っていうのは、飼育者が管理し利益を生み出す動物のことよ。基本的には、性愛の対象ではないの。分かるかしら?」

 「は、……え、何?」

 「そう、家畜のあり方は所有者の財産! それこそが家畜の価値!」

 力強い語気を体現したように、雪はぐっと床を踏みしめて立ち上がる。一方、路太は雪が何を言わんとしているのか全く理解できずに固まっていた。

 「犬猫は愛玩動物として、牛や鶏は肉や卵、体液を目的に……!」

 「た、体液……それ、牛乳のことだよな? な?」

 「家畜本来の目的を見失って、性欲の対象にするなんて……やっぱり新出くんは変態よ! 異常性欲者よ! もしそうじゃないって言うなら、私は家畜として、家畜本来の在り方を要求するわ!」

 ツッコミには一切耳を貸さない姿勢で、雪は路太に要求を突きつけた。

 しかし、彼女の言うことはつまりどういうことなのか――困惑する路太の口からは、音にならない呼気が出るばかりだ。

 呆れて言葉もない、とはきっとこういうことなのだろうと思う。

 「新出くん……私、あなたが私を『メス豚』と呼ぶには早いって言ったわよね?」

 「あ、ああ。そんで、俺は殴られた」

 思い出したように痛み出す頬が、路太の頭を少しだけ冷した。

 「殴られても仕方がないわ。まだ『家畜』の何たるかを知らず、『家畜』を扱う知識もないのに、あんな風に振舞うんだもの。ドーテーが女の子との付き合い方を示教するくらい滑稽じゃない」

 「その、ちょいちょい生々しい例え出すのやめていただけませんかぁ……」

 その言葉選びは、雪と無事一線超えた暁に友人たちから尊敬と称賛でもって迎えられるつもりだった路太に刺さった。

 刺さったが、同時に路太を奮い立たせる言葉でもあった――木羽雪を家畜にすると、約束を交わした日の決意が思い出される。このまま引き下がってなるものか。

 「……分かった」

 在りし日の決心と下心が、折れかけていた路太の心を支えてくれる。

 雪に勝つために、柄でもなく弁論の書き方を調べてみたり、頭をひねったり、何より色々な人に協力を求めて、ようやく掴んだ勝利ではないか。

 「仮に……仮に俺が家畜に欲情する変態だとして、だ。それでも、俺が『家畜』を扱うのに相応しいと思えたら、どうだ?」

 雪の主張に賛同するつもりはない。だが、雪を路太に賛同させる手段だと考えれば話は別だ。

 「どういうこと?」

 「性欲の対象にされるという、家畜本来の目的を逸脱した在り方であっても、それを納得できるくらい俺が『良い飼い主』だった場合、お前はどうするのかってことだ」

 「そうね……」

 考え込む雪を見て、流れを引き寄せられそうだと直感する。真っ向から「雪の考えがおかしい」と反論せず、敢えて乗っかることで主導権を取り戻そうと試みたのだ。

 「飼い主として度を超えた変態的な行為でも受け入れられるくらいの良い飼育者、ね。考えもしなかったけど……そうね、納得できるかな? いえ、納得できるわ。きっと」

 「そうか」

 ならば、やってやる。やってやろうじゃないか。それで、雪が自ら進んで約束を履行すると言うのなら。

 「木羽。俺がお前の、世界で一番の飼い主になってやるからな! 見てろよ!」

 決意を言葉に変えて宣言する。内容はともかく、もう雪のペースに振り回されない堂々たる表明だった――と思う。多分。

 「新出くん……私、嬉しい……!」

 幸いにも雪の心を動かすことには成功したらしく、口元を両手の指先で隠した彼女は、キラキラと輝く眼差しで路太を見つめてくれた。

 「私もきっと、良い家畜になってみせるわ! 新出くんが自分の財産として自慢にできるくらいの!」

 「お、おう……」

 予想以上の喜びを見せる雪を前に、路太は折角掴みかけていた流れを再び手放しそうになってしまう。これでいいのか、こいつは……。

 だって、決して永遠の愛や友情を約束し、互いが互いの良きパートナーになろうとしているのではない。

 家畜だ。家畜と飼い主として、格好良く言うならば、互いを高めていこうという話なのだ。

 (何だこれ……何だこれ……!?)

 言葉に出せないまま、路太は再び混乱の渦に飲み込まれつつあった。

 

 

 その混乱は、路太の許容量を超えたものだったのだろう。それを証明するように、その後どうやって雪を帰したのか路太は全く覚えていない。

 家畜になるのだから新出家で暮らすという雪を、こっちも色々準備があるからと言いくるめたように記憶しているが、定かではない。

 もっとも、了承した雪は、路太がとっさに口にした『準備』の単語に随分期待を込めた表情をしていたので、ただの言い訳で済ますわけにはいかなくなってしまったのが辛いところだ。

 例え数日は何とかなっても、雪はいずれ必ず新出家に住み着こうとする。路太には、その確信があった。

 「つ、疲れた……」

 大きく息を吐きながらベッドに寝転がる。達成感より疲労感が大きい。

 宇宙人でも未確認生命体でも何でもいい。とにかく、理解の範疇を超えた何者かと対峙した気分だ。

 「にしても……木羽ってあんな奴だったか?」

 さっきまでのやり取りが蘇る。

 いきなり路太をぶん殴った雪、自らの家畜論を述べる雪、良い家畜になると目を輝かせた雪――やはり、一般的な女子高生の態度ではない。ドーテーでも分かる。

 「幼馴染って言っても、何年も会わなけりゃ別人……か」

 路太と雪は幼馴染だ。

 幼馴染と言っても、小学校を卒業するより早く雪が引っ越してしまったので、共有した時間はそれほど多くない。この春進学した高校で再会を果たすまで、片手で数えられるのに長く感じる空白の年があった。

 離れ離れになっている間に、路太は『女と仲良くするのはダサい』という小学生男子の生き方を身に着けていた。そのため、時折雪の母と連絡を取り合っていた自分の母親から、雪のことを聞こうともしなかったのだ。

 路太が感心を寄せなかったその時間は、人生の中で最も変化が大きい時期を含んでいて、それが今の二人の距離感を作ってしまったように思う。

 それが、寂しくないわけではない。

 いや、寂しいというよりは、惜しいという気持ちが大きい。

 小学校当時、あれだけ男子から支持を集めた『女と仲良くする奴はダサい』という不文律は、中学へ進むと同時に一変した。

 曰く、『彼女もできない奴はダサい』と。

 そして、路太はその『ダサい』側の生徒として中学を終えたのだ。そんな路太にとって高校進学は、進学先での幼馴染との再会は、まさに大逆転のチャンスだった。

 先に雪が気付いて「もしかして、新出くん?」と話しかけて来たまでは良かった。

 初めて雪に名前ではなく苗字で呼ばれ、ちょっとドキドキしながらも、昂揚した胸の内を隠すように「よ、久しぶり」と軽く返す。

 ここまでも良かった。

 二人のやり取りに気付いたクラスメートが「木羽さんの知り合い?」と首を突っ込んできてくれた時など、頭の中で小さくガッツポーズを決めたものだ。幼馴染との再会、そこから始まる二人の高校生活としては非常に良いシチュエーションだった。

 「実は……」と事情を説明する雪。話を聞いたクラスメートは、「やだー! 離れ離れだった幼馴染と高校で再会なんてロマンティックー!」などと路太たちの関係を持ち上げ、そして王道の距離が縮まるハートフル高校生活が始まるだろう。

 そして行く行くは――路太の期待はこの時が最高潮だった。

 だが、説明を聞いたクラスメートが発したのは「ふーん」の一言だけで、しかもその後、「それよりさぁ」と話題を変えて、雪と共に女子のグループへと混ざって行ってしまったのだ。

 運命的かつドラマティックであるはずの再会は、それで終わった。

 「ふーん」という如何にも関心の無い同調の言葉が示すように、新学期が始まってからも、路太と雪の距離はクラスメートという位置から変わらず、路太をやきもきさせた。

 幸いなことに、雪が誰かと付き合うということはなかった。けれど、少しでも雪の関心を引かなければ、このまま何も無く終わってしまう可能性がある。路太の焦りは日々大きくなっていた。

 だから、『学年別校内弁論大会 参加者募集』の貼り紙を見た時、これだと思ったのだ。

 勇気を出して「俺と弁論大会で勝負しよう」と雪に声を掛け、周囲の「何言ってんだこいつは?」という視線にも耐えた。何人かは二人が幼馴染であることを思い出しているようだったけれど、あの瞬間は本当にいたたまれなかったと思う。

 しかし雪の返答は、意外にも「是」だった。

 そこからはとんとん拍子で、ならば折角だから何か賭けよう、どうせなら「負けた方が何でも言うことを聞く」でどうだと、話は勝手に膨らんだ。

 最終的に『負けた方が勝った方の家畜になる』という条件にまで至り、破天荒な条件に盛り上がる男子と、下品な条件だと軽蔑する女子とで、クラス内での評価は大きく別れた。

 路太にしてみれば、上々の結果だったと思う。

 「それにしてもあいつ、勝ってたら一体どうするつもりだったんだ……?」

 盛り上がる教室内でも、結果が分かった時も、いつも冷めたように動じなかった雪を思い出す。今日、路太の部屋に連れ込まれる時でさえ、彼女は動揺のかけらも見せなかった。

 きっと、結果が逆でもそうだっただろう。幼馴染を家畜にできる――そんな非現実的な約束も、まるで日常の一部であるように。

 けれど今日、まさについさっき、彼女は『飼い主』になる路太に喜色を隠さなかった。自身が『家畜』になることを受け入れた微笑み。

 でももし、勝敗が逆だったら……?

 「……あいつが、俺の飼い主に……?」

 思わず自分の首へ手をやる。首輪を掛けられたような気がしたのだ。勿論そんなものは無いのだけれど、皮膚には僅かに冷汗が浮いていた。

 ――大丈夫よ、新出くん。世界一の飼い主になってあげる。

 恍惚とした少女の声が頭に響く。

 ついさっき見た雪の嬉しそうな顔。良き飼い主に恵まれた家畜の喜びに溢れた表情は、逆に良き家畜に出会えた飼育者のそれと、全く同じもののような気がして……

 「……はは」

 小さく笑って錯覚を打ち消そうとする。

 「そんなこと、あるはず無い無い。……俺が、勝ったんだから。そうさ、勝ったんだ。俺が」

 だから、もしもの可能性を考える必要などない。

 雪が家畜、路太がその飼い主。少しばかり想定外の流れになってはいるが、二人の立場は変わらないじゃないか――自身に言い聞かせる言葉は、確かな強さを持っていた。

 しかしその言葉の影には、こんな面倒なことになるなら今までのことは夢でいい、という後悔もちらついていたのだ。

 

* * * * *

 

 追い出されるように新出家を出た雪は、鞄の中から漏れる着信音に気付いた。ようやく、気付いた。

 ディスプレイには友人の名が映っている。路太と共に下校した雪の身を案じ、わざわざ電話を寄越したのだろう。ありがたいことだ。

 怒れる友人を思い描きながら、雪は通話のスイッチへ触れる。思考は澄み渡り、驚くほど冷静だった。

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