(15)幕引き
「また会えて嬉しい、ユリアナ。怪我もなさそうで安心した」
血溜まりを踏んで悠然と立つバラドは、食い入るように自分を見つめる少女に対して、優しい声で語りかけた。
たった今絶命した人間がいることなど、まるで意に介していない様子で。その黒く透き通ったまなざしは、目の前に佇む少女しか映し出してはいない――
スカートの裾を握りしめ、ユリアナは顎を上げた。
強張る表情をバラドに向け、クラエスの腕を離れる。一歩、二歩と、重い足取りではあったが、しかし磁石に引き寄せられる砂鉄のように迷いなく、彼のもとへと近づいてゆく。
「――ユリアナ」
背後からクラエスの声が聞こえたが、けっして振り返らない。
「……やっぱり、あなたが関わっていたのね。カードをすり替えたのも、私たちをここにおびき寄せるため?」
「正義感の強い君なら、きっと行動を起こすだろうと思って。君のクラエスに悪戯をしたことについては謝るよ、すまない。――君たちが囮になってくれたお蔭で、俺の仕事も早々に済んだ」
「良い社会勉強になったろう?」――さらりとそんなことを言い放つ男に、ユリアナは表情を曇らせた。苦笑して、バラド懐から一枚の名刺を取り出す。
「アンドルツァは
「そう。――誰があなたに彼の暗殺を依頼したの?」
「はは、それは流石に言えないな。でも……」
今は物言わぬ屍となった人物の名が刻まれたそれを、ユリアナの目の前でくしゃりと握り潰す。そして足もとに視線を落とすと、掠れた声で続けた。
「君のいる場所に戻るために必要なことだ。そのためには、どんなに手を汚したってかまわないから……些細なことだよ」
じっと屍を見つめる、温度のない瞳。非常灯のやわらかい光に照らされた男の横顔を、ユリアナは黙って眺める。
スカートの裾を握る指先に力が
「そういえば」
突然、バラドは顔を上げ、「話を聞いていたんだ」と言った。自動小銃をホルスターに
「話を聞きながら、いろんなことを思い出した。前にも言ったかもしれないけれど……生まれたときから、俺はどうしようもない境遇でね。親に捨てられ、ハルに拾われ、満たされない心を抱えて、必死に生きることにしがみついて……」
腕を引かれ、ユリアナはふらりと右の義足を前に出す。
カツカツと、金属の足と生身の足、二種類の足音が響いた。
追って、クラエスの靴音も。
扉のむこうには薄暗い階段が続き、そこを下った先に、左右を鉄格子の檻に挟まれた細い通路が待ち構えていた。電子錠がチカチカと無機質な点滅をくり返す檻の中には、先程のオークションで見かけた《商品》を含めて、たくさんの老若男女がひしめいている。むっと
通路と檻の
タイル敷の床には、粗雑に洗い流された体液の跡があった。
「すこしでも道を誤っていれば、俺もこうなっていた。どんなにあがいても、もがいても、欲しいものを得られなくて……ただ他人に利用され、使い捨てられて……」
鉄格子の前にユリアナを立たせ、その肩を抱きながらバラドが囁く。
――無数の目が自分たちを見つめている。声もなく、音もなく。新たな侵入者が何をしでかすのか、怯えきっている。
その彼らを、バラドは乾いたまなざしで見つめていた。
風の駆け抜ける、干からび切った砂漠をみつめるように。
「でも、俺は道を誤らなかった。君に出会えた。それだけが、俺の人生で巡り合った幸運だ。君は俺を愛し、俺は君を愛しているのだから」
「……バラド」
顎を掴まれ、顔を引き寄せられ――唇が重なる。
その瞬間、ユリアナは反射的にバラドの体を突き放していた。呼吸が乱れる。肩で息をしながら、正面の男の顔を睨みつける。
胸の締め付けられるような痛みに、ユリアナは唇を噛みしめた。自分の身を守るように両腕で肩を抱き、無言で
「……自分や他のひとを卑下するようなことを言わないで。私はあなたに同情しているわけじゃないもの。それに、きっと私じゃなくても……あなたを愛したり、あなたが愛せる人はいるわ……」
「君だけだ、ユリアナ」
「……バラド」
バラドはふと瞼を伏せる。短い睫毛のむこうに、黒い瞳が見え隠れする。
「ほんとうだ。君だけなんだ。俺を愛してくれるのは……」
弱弱しく呟き、黒衣の裾をひるがえす。
その広い背を視線で追う。重い足音を響かせて立ち去ろうとする男を、少女はついぞ引き留めることができなかった。
◆ ◆ ◆
バラドが去った後、ユリアナとクラエスはひそかに古城の地下を脱出すると、一連の出来事について、属領ワラキアを統治する副王領府所轄の治安警察隊に通報した。そこから長い事情聴取が始まり、アンドルツァの件であやうく容疑者になりかけたところで、突如として事件は正規軍預かりとなった。それから間もなくして、ユリアナたちはあっけなく解放されたのだった。
(――つまりバラドの新しい雇い主は正規軍の誰かってことね)
過去の経歴を見ても、ファランドールに
古城を脱したのは夜明け前だったが、ブカレストの一等地に建つ副王領府を出る頃には、外はすっかり明るくなっていた。高い位置にある太陽がひどく眩しい。
「帰りのチケットは明後日ですし、ひとまずブカレスト市内に宿泊施設を手配しましょうか」
「そうね。まずはベッドでひと眠りしたいわ……」
古城を出てから事情聴取で解放されるまで、一睡も許されなかったのだ。ユリアナは
すると浮かない様子のユリアナを慮ってか、振り返ったクラエスが「安心してください」と微笑む。
「人身売買の《商品》にされていた人々も、ひとまず正規軍預かりになったようですが、近々解放されるでしょう。行き場のない子供は孤児院に、そうでなければ
「……そう」
「遺骨も回収されるようです。DNA鑑定で身元が特定できれば、家族や親類のもとへ戻されるでしょう。犠牲者の遺伝子データが副王領府で管理されていればの話ですが……」
属領人としての戸籍が無ければ特定はできない、ということだ。ワラキアは属領化からの日が浅く、独裁政権時代の戸籍調査が完全には行き届いていない。属領人としての戸籍がなければ、
「……ありがとう、クラエス。いろいろ教えてくれて」
ユリアナは笑みを浮かべようとしたが、ぎこちなく芯の残る表情が出来上がっただけだった。
頭のなかでは、絶えずアンドルツァの言葉が――バラドの表情がちらついている。それが少女の気持ちと足取りを重くしていた。
副王領府の前庭に広がる、手入れの行き届いた花壇の前でユリアナは立ち尽くしてしまう。クラエスは無言で少女を見やった。そして肩を竦めると、「行きましょう」と言って、手を差し出したのだった。
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