(16)水音は虚ろに

 市内は閑散として、錆びかけたトラムがカタカタと音を立てて街中を走っていた。街頭に立つ花売りの声が、どこか覇気がないまま曇天に響き渡る。真っ赤なパプリカや丸々と太った胡瓜、巨大な西瓜や籠いっぱいに詰められた木苺、クロスグリの並ぶ天幕の通り――そして帝国ハディージャの旗を掲げた広場を横切った先、目抜き通りメインストリートに面したホテルで、ユリアナとクラエスは二人用の部屋を押さえることができた。

 ホテルルームは二間が続き部屋で、設備は古いながらもシャワーとバスタブが付属していた。さっそく奥の部屋のダブルベッドを占拠すると(クラエスは手前の部屋のソファベッドを使うと言った)、ユリアナはいそいそと荷物を置き、扉を閉じた。そして着の身着のまま、ベッドの上に寝転がったのだった。

 遮光カーテンで覆った窓からは、心地よい昼の風が吹き込んでいた。室内は薄暗く、ベッドサイドに置かれたランプが弱弱しい光を放っている。

 枕に頭を預けると、ユリアナはひと眠りしようと重い瞼を閉じた。

(なんだか、すごく疲れたわ……)

 ――一晩でたくさんのことが起きた。荷物を抱えてブカレストの中心駅に降り立ったのが、もうずいぶんと遠い昔の話のように感じられる。

(結局、ルスランの遺作は手に入れられなかったわね――)

 断片的に、そしてめまぐるしく今日の出来事が頭を駆け巡った。

 宝物庫に飾られた《聖なる右手》。アンドルツァの顔。闇オークション、商品として売られるたくさんの属領人……人骨の積み上がった古井戸の底、地下でのおぞましい出来事の数々。

 ――〝けれども強さとは、弱き者に対するやさしさにはなりえない。〟

 ふと、しゃがれた男の声が聞こえた。

 すぐ傍で囁かれたように生々しく、ユリアナのなかで再現された老人の声。瞼裏まなうらに蘇る、血溜まりのなかで絶命した男の枯れ木のような肉体。

 ――〝ほんとうだ。君だけなんだ。俺を愛してくれるのは……〟

 そして甘くかすれた声、よく知る男の顔が。

「……バラド」

 口の中だけで、ユリアナはその男の名を囁いた。

 自分を見つめる、暗く熱のこもった眼睛ひとみ

 その眼差しを思い出しては、胸のけ爛れるような痛みを覚える。

 うつぶせに寝転がりながら、ユリアナはぎゅっと敷布シーツを握りしめた。それでも暗い穴の底に放り込まれたような不安感を拭い切れなかった。

 自分を保つための、虚勢という鎧が剥がれそうになる。

(私はあのとき、バラドに生きてほしかった。それが自分の気持ちの押し付けでしかなくても。でも、もしかしたらもっと……もっと別に望むものが、あのひとにはあったのかもしれない)

 ユリアナはたまに想像する。自分たちの過ごした十年という月日が終わらず、今でも続いていた未来を。

 バラドはユリアナを愛そうとした。ある意味でそれは結実した。

 ――しかし今もなお、彼は飢餓に満ちた目をしている。

 誰かを愛すること以上に、自分を愛してくれるひとを、バラドは待ち望んでいる。彼のなかに巣食う虚しさを埋め合わせてくれる誰かを。

 けれどもどうしてか、ユリアナは彼に手を差し出せない。

 求められるだけの愛情を、彼に与えてやることができない。

(私たちはきっと欠けているものが同じなんだわ。火傷同士でくっついて、ひとつになろうとしても、私たちは同じ皮膚にはなれないし、その傷だって治らない……)

 乾いた目元を腕でこすり、ユリアナは重い頭をもたげた。

 せんのないことばかり考えて堂々巡りをしてしまうのも、疲労のせいで理性が緩んでいるからに違いない。このままでは眠るどころか、延々辛いことを考えてしまいそうだった。

(そういえば、シャワーも浴びてないし……)

 熱いシャワーを浴びて気持ちを切り替えることに決めて、ユリアナは備え付けのバスタオルを手に部屋を出た。クラエスがいるのかと思いきや、隣の部屋に人影はない。ソファベッドの上に、ミナ――お腹から綿の飛び出たテディベアと、フロントで借りたらしい裁縫セットが放置されているだけだった。

 朦朧とする意識のまま、何とか脱衣所に辿りつく。服と下着を乱雑に脱ぎ落として、裸の上からバスタオルを一枚だけ巻いた。

 そして勢いよく浴室の扉を開き、タイル敷の床を踏んだところで――

「……あら、いたのね」

 先客がいることに気付いた。

「……っ、な……なななっ‥…」

 シャワーの水音が響いている。

 もくもくと視界を覆う湯気のむこうで、薄っすらと身覚えのある青年の姿が浮かび上がった。

「湯気で何も見えてないわ。それじゃあ、失礼す――――」

 そのまま踵を返そうとしたところで、ふと、視界が斜めになった。

 疲労のせいで注意が疎かになっており、義足が何かを踏んでバランスを崩したのだ。そのことに気が付いたのは、あやうく倒れかけたユリアナの体を、クラエスが慌てて抱きとめてからだった。

「……ありがとう。でも、何で床にアヒルちゃんが転がってるの?」

「それはバスタブに浮かべようと思って……って、そうじゃなくて! もう、いいから、早く――」

 薄緑のタイルの上に点々と転がる小さなアヒルの玩具。その間の抜けた顔から、頭上へと視線を移す。淡青色の目に、自分の顔が映り込む。

 ユリアナは息を呑んだ。

 濡れて色を濃くした金髪が、乱れながらしっとりと白い首筋や肩に貼りついていた。密着した上半身から伝わる体温。自分の腰を支える、華奢なようでしっかりと筋肉のついた腕――クラエスの顔を視界に入れた瞬間、疲労も眠気も吹き飛んで、ユリアナの意識が激しく揺り動かされた。

 お互いに言葉を失って、暫く見つめ合う。

 それからようやく我に返って、ユリアナはぱちぱちと目を瞬いた。ろくな言葉が出て来ず、結局、ごめんなさい、と小さな声で謝っただけだった。

「……勝手に入ったことは謝るわ。いま出てくから」

「え、ええ――」

 えず水音が聞こえ、白いもやのような湯気が視界を覆う。ユリアナはクラエスの腕を離れ、彼に背を向けた。そのまま、扉に手をかけようとする。

 そして予期せず、背後から強い力で引っ張られたのだった。

「っ……な、なに!?」

 コックをひねる音が聞こえ、シャワーが止んだ。振り返れば、腰にタオルを巻いたクラエスが、何やら真剣な目で自分を睨みつけていた。

「ユリアナ。……その首、どうしたんですか?」

 手首を握る力は尋常でない。背後から強引に体を引き寄せられ、背中にクラエスの胸もとがぶつかった。そしてそっとうなじに撫でられると、ようやく彼が危惧しているものの正体に思い当たり、反射的にかぶりを左右に振った。

「な、何でもないわよ! ただの虫刺されよ、ただの! バラドなんて全然関係ないわ!」

「なるほど。……私のいないところで、バラドに会っていた?」

「それは――――」

 慌てるあまり、墓穴を掘った。ユリアナは口をつぐんだ。身をよじって拘束を逃れようとはしてみるものの、クラエスの腕はびくとしない。

「離し……っ……」

 顎を掴まれ、むりやり顔を上げさせられる。

 濡れた毛髪が首筋に触れ、ユリアナはくすぐったさから肩を揺らした。

 冷水を浴びていたのか、背中に密着するクラエスの胸はひんやりとしていた。しかし重なった唇だけは、火がついたように熱い。

 あるいはそれも錯覚だったのかもしれない。

 何度か唇を啄まれ、強引に舌をねじこまれる。息をつく暇もないキスは、いつもよりずっと乱暴で、容赦がなかった。酸欠に視界がかすみかけ、腰から力が抜ける。バランスを崩し、ユリアナはずるずると濡れたタイルの上に座り込んだ。

「な、何なのよ、やっぱり今日のあなた、様子が――」

 ユリアナの顎をとらえた指先が、口のなかに押し込まれる。「噛まないで」と耳元で囁きかけられると、自然と文句も言えなくなってしまう。

 もう片方の手が、首筋を撫で、肩甲骨と背骨のおうとつを辿り。バスタオルの合わせ目が外されそうになって、慌てて胸もとに布をかき集めようとする――その瞬間、ユリアナは首筋に強い痛みを感じた。

 はじめは混乱して、何が起きたのかよくわからず、痛みに呻くことしかできなかった。噛みつかれたのだと理解したのは、うなじを濡れた舌で舐められる感触がしたから。抵抗しようともがけば、動きを封じるように床上に押し倒される。

 犬のように四つん這いにさせられ、ユリアナは執拗に首を噛まれた。何度も繰り返し、きちんと跡がつくのを確かめるように。

「――――……っ」

 その次は肩。さらにわきを噛まれたときは、そこが特別皮膚の薄い場所というのもあって、あまりの痛みに声が出なくなった。

「っ、た……いたい……」

 ひとしきり上半身を噛まれ、ようやく口から指が抜かれる。大量の唾液がこぼれ落ちた。涙目でクラエスを見上げようとすれば、どこからか再度コックをひねる音がする。そして背中に冷水が降ってきた。

 いくら夏場とは言え、全身に冷たい水滴を浴びて、ユリアナの体がぶるりと震えた。しかしそれも、熱く火照った体にはすぐ心地よく感じられてしまう。

 じんじんと痛むわきを、クラエスの手のひらが撫でる。熱く、乱れた吐息が首筋にかかる。全身がぞわぞわとして、腹の底から熱がこみあげた。

「ユリアナ、――いい?」

 懇願の声。――そして、ゆっくりとクラエスが体重をかけてくる。

(あ……)

 ――押し潰される、とユリアナは思った。

 そのとき脳裏を駆け巡ったのは、アル・カーヒラでの一幕だった。

 暗く閉ざされた部屋、かびの匂いのみついた絨毯。その上で四つん這いになった自分と、覆いかぶさってくる男の重い体。

 視界がチカチカと明滅した。

 呼吸ができなくなる。

 心臓がきゅっと収縮して、意識が遠のきかけた。

「――ユリアナ?」

 怪訝そうな青年の声とともに、体にかかる圧迫感が消えた。

 それと同時にユリアナの視界もクリアになる。しかし、一度恐怖を思い出した体のコントロールは利かず、ガタガタと異様なくらいに震えるのだった。

「……ちが、ちがうの。そうじゃないの、クラエス……」

 ユリアナは咄嗟にそう言いつのった。呂律が回らない。

「ちがうのよ。あなたが嫌なわけじゃなくて……ただ……」

「……すみません」

 クラエスは顔を背けた。一瞬、視界に映り込んだその横顔は、自己嫌悪に染まっているように見えた。そして「出て行ってください」と小さな声が続いた。


 ユリアナは落ちたタオルを拾い上げた。

 鉛のように重い体を何とか起こすと、水音の響く浴室を出て行った。

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