(12)仮面の男

 ――キナアだ。

 呆然と頭上をみつめ、ユリアナは再度、心の中で彼の名前を呼んだ。

 古井戸のふちを覗き込んで頑丈なワイヤーを垂らす寡黙な人物は、見間違えようもなく――あの特徴的な甲冑を身につけている。

皇帝直属軍イェニチェリの耐火性強化装甲……まさかあの男が? 何故こんなところに……」

 いつの間にか隣に並んでいた青年は、不可解そうに淡青色の目を細めた。その声音には、ユリアナの聞き間違えでさえなければあきらかな不快感が滲んでいる。そして再会にひそかに心を躍らせる少女から問答無用で縄代わりのワイヤーを奪い、「私が先に登ります」と声高に宣言したのだった。

「いいですね? ――なにかたくらんでいる可能性があります」

 その気迫に圧倒されて思わずうなずけば、クラエスは満足そうに微笑み、負い紐を使ってアサルトライフルを背負った。そしてワイヤーを掴むと、慣れた調子で両腕と全身の力を使ってするすると地上へと登ってゆく。

(そうよね。彼がキナアという保証もないんだし――私は彼の顔も声も知らないのだから)

 月明かりに照らされる背中を目で追いながら、ユリアナはがらにもなく浮かれていた自分を戒める。彼の存在そのものが罠ではないとは言い切れず、そもそも、キナアはクラエスとたもとを別った仲なのだ。

 何を目的として自分たちを助けるような真似をするのか――彼自身が寡黙なことも手伝い、その真意ははかり知れないだろう。

 暫くして、古井戸の外からクラエスの声が聞こえた。彼が地上に登り切って、数分後のことだった。上がってこいという趣旨の言葉を受けて、神妙なきもちで眼前にぶら下がる金属製のワイヤーを握りしめる。

 当然、ユリアナにはクラエスのような腕力はない。不慣れな義足であることも手伝って、不安定な足場を登り切ることが難しいのは火を見るより明らかだ。するとその不安を感じ取ったのか、再度古井戸に向かって屈み込んだキナアがコクリと一度だけ頷いた。そして、ユリアナを捕まらせたワイヤーを地上まで引き上げたのだった。



 地上まで辿り着くと、生温かな夜風がユリアナの全身に吹きつけた。

 星明かりに照らされて、周囲に点々と転がる人物が――先ほど、ふたりを追跡しようとした警備兵たちだった――闇中に浮かび上がって、かすかな呻き声を響かせる。

「……あなたが?」

 古井戸のふちで屈んだまま、回収したワイヤーとその付属品類をウエストポーチにしまうキナアに問いかける。彼は無言のまま、コクリとうなずいた。

 そのかたわらでは、しかめ面のクラエスが腕組みをして佇んでいる。つい先ほどまでの緊迫感が失われた分、ふたりの微妙な距離感ばかりが浮き彫りになる光景だった。

 不思議そうに首を傾げるユリアナに対して、クラエスは大仰な溜息とともに肩をすくめてみせた。

「……すくなくとも今の彼に敵意はないようですから、安心してください。まあ、そもそもの話、この男が貴方を積極的に害するとも思えませんがね。

 ――ひとまずは味方です。そのぶん、私の心中は穏やかではないですが」

「ふうん……?」

 自分のいない地上でどのようなやり取りが交わされたのか、知るよしもなければ、追及したところでわざわざ教えてくれる空気でもない。煮え切らないクラエスに釈然としないものを感じつつ、ユリアナはキナアを振り返った。

「改めてありがとう、キナア。おかげで助かったし、久しぶりに会えてとても嬉しいわ。――でもどうしてこんなところに? 偶然ではないでしょうし、皇帝直属軍イェニチェリもこの件に関わっているってことなのかしら?」

 ユリアナの言葉に、何故かクラエスが硬直する。

(なによ、急に変な顔をして。キナアもなんだか戸惑ってるし)

 しばし奇妙な沈黙を置いて――キナアはゆっくりと首を横に振る。推測が外れたらしい。しゅんとするユリアナに向かって、「そんなわけないじゃないですか」と苛立った様子でクラエスが言い放った。

 野次の飛んできた方角を、ユリアナは無言で睨みつけた。しかし負けずとクラエスが言葉を続ける。

さとい貴方ならとっくに理解してるでしょうに、何をカマトトぶってるんですか。彼の、キナアの正体は――」

 カチンとつばの揺れる金属音が小さく鳴る。次の瞬間、クラエスの口は、鞘に覆われた小型の半月刀シャムシールが押し当てられていた。

「――――」

 キナアは剣を下ろし、しかし左手にそれを握ったまま、もう片方の手でユリアナの手首を掴んだ。そのまま、無言でスタスタと歩き始めてしまう。

 目を白黒させ、ユリアナはキナアの背を見つめた。しかしその腕を振り払うには至らない。彼には明確な意図がある――そのために自分たちを誘導しようとしていることは、言われずとも理解できたからだった。

「ちょっ、ちょっと、なに馴れ馴れしくしているんですか!? ユリアナ、こっちに来てください。早く、その男から離れて――」

 我に返ったクラエスが慌てた様子で追いかけてくる。

「……何が何だかよくわからないけど、キナアは味方なんでしょう? 彼についていってはだめなの?」

「いえ……駄目ではないですが……私の気持ちの問題としてですね……」

 徐々に覇気を無くし、しまいにはほとんど聞き取れないような声量で何ごとかを囁くクラエスを、ユリアナは呆れた顔で見やった。「やっぱり今日は様子が変だわ」そう言って、唇をとがらせる。

(何か不満があるならはっきり言えばいいじゃない、バカ)

 心の言葉は呑み込んで、代わりに先導するキナアの横に並んでその顔――であろうと推測される場所――を見上げた。いつのまにか、その歩調も義足の自分に合わせてゆったりとしたものに変わっている。

「あなたって手が温かいのね、キナア」

 右手を握る男の手は革製の手袋越しにも温かく、すっぽりと自分の手のひらを包み込めるほどには大きい。当初こそ困惑したが、不愉快ではない――むしろ安心感さえ覚える手のひらだった。

「甲冑姿だから、見た目はすごく冷たそうだけど……手袋越しでもあったかいわ。私の後見人と同じくらい体温が高いのね」

 キナアは前を見据えたまま、しかしゆっくりとうなずいた。

 話は聞いているようだ。

「小さい頃はよく手を繋いで歩いたから、なんだかそのことを思い出して――」

 ずんずんと前を進んでいたキナアが、そこでふと足を止める。

 つられてユリアナも立ち止まる。彼女の視界に入ったのは、車両の通用門をれた先にある倉庫――その脇に設置された、巨大なダストボックスだった。鉄錆びた蓋を守る南京錠も、今は外された状態でおざなりに放置されている。

 キナアはダストボックスの蓋を持ち上げた。中身はガランとしていて、廃棄物の影はない。男の行動を不思議に思っていると、次の瞬間、ユリアナは突然彼に担がれたのだった。

「――キナア!?」

 背後でクラエスが驚いた様子だった。

 何度か体勢を変えられて最終的に横抱きに落ち着く。最中に何度も手足をバタバタと動かして抵抗したものの、キナアはどこ吹く風だ。そして彼はユリアナを抱えたまま、ダストボックスのふちに足をかけ――中に飛び込んだ。

「えっ……え――」

 口を塞がれ、叫び声が消える。内部はさながら滑り台のように傾斜がついており、勢いよくふたりは落下した。キナアの身につけた装甲が表面の金属にれ、耳障りな音を立てる――時間にしてほんの数十秒。狭く圧迫感のある空間から解放された先は、暗闇に包まれた場所だった。

 もののえた悪臭が立ち込め、周囲には熱気が籠もっている。

 キナアの腕から解放され、ふらつきながらも何とか立ち上がる。遅れて追いかけてきたクラエスを振り返ろうとしたところで、パッと視界が明るくなる。

 キナアが持っていた小型の懐中電灯をけたのだ。

「墓場の次はゴミ捨て場ってわけ? まったく今日は災難――」

 その明かりに照らされて、ゴミをかき集めた床があらわになり――ふと視線を向けた先に、真新しい人の骨が転がっているのを発見して、ユリアナは口をつぐんだ。鼓動が間隔を狭め、心臓が早鐘を打つ。

 棒立ちになる少女に、キナアが懐中電灯を手渡した。

 彼とはここでお別れのようだった。とっさに引き留めようとしたが、やはり無言で首を振られてしまう。音もなくどこかへ去ってゆく彼を見送っていると、「あちらから物音が」とクラエスが囁きかけてきた。

 彼の指し示した方角には、暗闇が続き――その奥から、微かに人の声が聞こえる。


 じっとりと汗ばんだ拳を握りしめて、ユリアナはうなずいた。

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