(4)支度

 日が暮れたことで外の散策を諦め、宿泊部屋に戻ろうとしたユリアナは、その道中にあった《閲覧室》に吸い込まれていった。ホクホク顔で貴重な古書を読みふけっているうちに時は過ぎ、呆れたクラエスに連れ戻される頃には、夜もすっかり深まっていたのだった。

 部屋に用意された軽食をつまみ終える頃には、オークションに出るための支度を始める時間に差し掛かっていた。

「オークションまでに仮眠をとっておこうと思ったのに、あっという間に時間が過ぎちゃったわ。ルスラン・カドィロフの遺作が出るまで、ちゃんと起きていられるかしら……」

 欠伸あくびをこぼしつつ、ユリアナは寝台に置いた化粧箱の蓋を開ける。

 すると、入り口を白いしゃで仕切った隣の部屋から――「だからあれほど言ったじゃないですか」と溜息まじりの声が響いた。

「うるさいわね。支度ができたらうんと濃い紅茶チャイれてもらうからいいの。あ、甘味は砂糖じゃなくて蜂蜜で頼んだわよ」

「そんな時間はありませんよ……」

 軽口の応酬をしながら、ユリアナは化粧箱から一着のドレスを取り出す。

 両手で広げて、しげしげとその意匠デザインに見入る。

「なんだか悪役って感じの服だわ。悪くはないけど」

 渋い顔をし、ふとあることに思い当たって小首を傾げた。

「私のスリーサイズ、いつのまに漏洩したのかしら……」



 背中側のボタンに四苦八苦しながらも、ユリアナは何とか自力でドレスを着ることに成功した。履いたこともないような踵高の靴ハイヒールを一瞥して「これはまた後ね」とひとまず脇に置くと、いそいそと寝室の隅にある鏡台の前に座る。

 そしてアクセサリーの入った小箱を開いた。一揃い入っているのかと思えば、イヤリングにしろネックレスにしろ、何種類も入っており――どれを着けたものかと暫く悩み込んでしまった。

 花びらの形に加工した真珠パールのチョーカー、大ぶりの琥珀を垂らしたイヤリング、紫水晶アメジストと銀のブレスレット、アンティークらしい瑪瑙の指輪など、数え上げればキリがない。どれも十六歳の少女が身に着けて嫌味のない、けれども一目見てその上質さがわかる品々だ。

「バラドだったら、服と私に一番似合うものを選んでくれるんでしょうけど…………その点、クラエスは期待できないわね。そういう観察眼はなさそうだもの、いくら視力が良くてもそれとは別物だわ……」

 小声でぶつぶつと呟きながら、何種類ものアクセサリーを着けては外し、ようやく納得する組み合わせを見つける頃には、すっかり時間が過ぎてしまっていた。

 会場に向かう時刻が差し迫っている。急ぎ髪をいて、鏡と鼻先を付き合わせて口紅を塗っていると、痺れを切らしたらしいクラエスに呼ばれる。

「ユリアナ、そろそろ時間が……。支度はまだ終わりませんか?」

「もう少しよ! 今ちょっと……あっ、」

 返事をした拍子に手元がずれ、口紅が唇をはみ出してしまう。

 溜息をつきながら、コットンで口もとを拭った。

「ユリアナ?」

 胡乱げなクラエスに「何でもないわ」と答える。

「ちょっと待ってね……。もう、何でこんなに不器用なのかしら……」

 こんなに手先が不器用で、本当に技術工エンジニアになれるのだろうか? 嘆息をこらえつつ、今度は慎重に口紅を滑らせる。

(前は、バラドがつけてくれたのよね……)

 口紅は、去年の夏に旅先でバラドが買ってくれたものだった。

 スティック状の容器は金色で鷹の模様が刻印されている。バーム単体の色はすこし派手にも見えるが、唇に乗せるとユリアナの白い肌にも馴染む、果実のようなラスベリーレッドだ。露天商が並べた何種類もの口紅から、バラドが選んでくれた色だった。

 「すこし大人っぽすぎたね」と言われたのが何となくしゃくで、ずっと引き出しの奥に仕舞っていた。

 普段化粧をする機会もなかったから、つけたのはそれきりだ。

 上唇と下唇をすり合わせて色をなじませ、ようやく支度を終える。

 ハイヒールを片手で持ち上げて、ユリアナは「遅くなったわね」と悪びれもせず隣の部屋に顔を出した。

「まったく、どれほど待たせれば気が――」

 長椅子に腰かけて、時間を持て余していたらしいクラエスが顔を上げた。彼が口にしかけた小言は、途中で不自然に切れてしまった。

 ――沈黙が落ちる。

 三つ揃いスリーピースのスーツを嫌味なく着こなした青年がその場に佇んでいて、ユリアナもまた、声を失ってしまったのだった。

(クラエス、顔だけは良いのを忘れてたわ………………)

 濃灰色のジャケットと、より淡いグレーのベストとズボン、糊のきいた襯衣シャツの袖には黒瑪瑙オニキスと純金製のカフスボタン。ワインレッドのタイを留めるのもやはり金色のピン――よく見れば、その形は精巧な銃そのものをしているのが、トラウゴットなりのなのか。

 しなやかな肉体を引き立たせる、彼のためだけにあつらえたようなスーツ。仕立ての良い衣装は、年頃の少女が夢見るそのままの容姿を過不足なく際立たせている。

 堅苦しい軍服はクラエスの整い過ぎた容貌を冷たく見せたが、あえて濃くはっきりとした色を避けた配色のスーツは、より柔らかく、甘やかな印象に彼を変えていた。青いリボンで結わえたプラチナブロンドはゆるやかに右肩の上を落ち、どこか物憂げな雰囲気さえ添えている。

「ユリ――――」

 クラエスと見つめ合って数秒――何かを言いかけたクラエスの声を遮って、ユリアナは思わず歓声を上げていた。

「クラエス、すごく素敵だわ。私、あなたみたいな人のこと、何て言うのか知ってるわ――〝王子様〟ね!」

 出鼻をくじかれたクラエスが、その言葉に脱力して肩を落とす。「貴方あなたからそんな言葉を聞けるとは」

 何やら疲弊したクラエスにも気付かず、ユリアナはにこにこと彼のもとに歩み寄った。

「あなたって何でも似合うのね。てっきり黒いスーツなのかと思っていたから、すこし驚いたけど……、軍服姿より好きだわ」

「ああ……そうですか……それは嬉しいですけど………。……その…………」

「何よ」

 物言いたげにじっと凝視され、ユリアナは片目をすがめた。

「まさか、私の格好に文句でも?」

 腰に手を当てて、クラエスの顔を覗き込んだユリアナの耳元で、しゃなりと真鍮を連ねたイヤリングが音を立てて揺れた。

「い、いえ……」

 クラエスが顔を背けたのに、ユリアナは唇を尖らせた。

 ――ユリアナに用意されていたのは、ベアトップの夜会服イブニングドレスだった。歩くたびに《黒鳥》が見え隠れすることを計算した上で、左足側には深い切り込みが入っている。その光さえ吸収する漆黒の義足とも調和する黒いドレスは、光の当たる角度によっては深い菫色にも変わる――手袋と首元のチョーカーも同じ生地だ。

「その、ちょっと露出が……気にはなりませんか」

 ユリアナは「ああ」とうなずいて、くるりと身を翻した。光沢を帯びたドレスの裾が揺れ、スリットから義足の黒が覗いた。

 そしてクラエスに向けられたのは、火傷痕の残る背中だ。

「気にしてたら好きな服が着れないもの。まあでも、ショールは持っていくわ。会場が寒いと嫌だからって理由でね」

「……そうですか」

 レースで編んだ黒いショールを持ち上げ、ユリアナはうなずいた。クラエスは口もとを手で覆ったまま、やはり物言いたげな様子で視線を泳がせている。

(……変なら変って言えばいいじゃない)

 その彼を見て、ユリアナは唇を尖らせた。何が言いたいのかは知らないが――

 そのとき、ふと意を決したように、クラエスが懐から何かを取り出した。

「香油?」

 彼の手に握られているのは、透明な小瓶だ。

「……オードトワレです。香料をアルコールに溶かしたもので……クイーンズランドや周辺の地域だと、昔は香油の代わりにこれを使っていたそうで。今となってはほとんど流通しませんが」

「ふうん……」

「クテシフォンの闇市でたまたま見かけて買ったんです」

 訳も分からぬまま「上を向いて」と促され、ユリアナは素直に顔を上げた。クラエスが小瓶から指に数滴を落とすと、体温に触れてほのかな龍涎香アンバーグリスが漂う。爽やかな、しかし奥底にどこか艶美さを秘めた匂いだ。

 香水を落とした指先で、そっと耳の裏を撫でられて、ユリアナは肩を揺らした。

 そして自分にまとわされた匂いを嗅いで、ぱちぱちと目を瞬いたのだった。

「これだと男性が使う香りだわ。私がつけたら変に思われるわよ」

 クラエスは不機嫌そうに眉根を寄せて、「かまいません」と頷いた。

「……やっぱり、何だか様子がおかしいわ、あなた。せっかく当主トラウゴットが贈ってくれた新しい義足も取り上げちゃうし……何がしたいの?」

「……別に。賢い貴方なら考えればわかるのでは? 義足だって、慣れているほうが便利でしょう」

 意地悪だわ、とユリアナは顔をしかめる。

「何を言いたいのかよくわからないわ、あなた。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃない――ああ、もう時間になっちゃうわ。ひとまずは行きましょう、クラエス。でも、オークションが終わったらきっちり聞かせてもらうから、覚悟しておきなさいよ!」

 危なっかしくハイヒールに義足の先端部を通そうとして、「やっぱり無理だわ」と靴を絨毯の上に転がす。

「……どうするんですか?」

で行くわ。履いたところで靴が痛むだけだもの」

 そう言って、ユリアナは右足を持ち上げた。天井の明かりを受けて、それは虹色の光沢を帯びて輝いた。

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