(1)事件のはじまり
「ねえ、クラエス」
開け放った窓から身を乗り出したユリアナが、コンパートメント内を振り返って、端の座席に座る青年を呼んだ。
「ブドウと
穏やかな風が、ユリアナのまとうギンガムチェックのワンピースの裾を揺らす。水色と白の生地から伸びた色違いの義足が、光を浴びてキラリと輝いた。
クラエスは膝に置いた本から顔を上げず、「ブドウですね」と素っ気なく答えた。ユリアナはふうんと鼻を鳴らすと、逡巡するように視線を巡らせる。
「じゃあそっちをお願いね。はい、お釣りはいらないわ」
それから再度窓のむこうを覗き込むと、そう言ってポケットから取り出した紙幣を、駅のホームに立つ物売りの女性に手渡したのだった。
昼の光が燦々と射す駅のホームは、同じような物売りの男女がぽつぽつと散らばっている。どれも、汽車の乗客を目当てに集う人々だ。
女性から果物の入った袋を受け取ると、窓を閉め、ユリアナは自分の座席――クラエスの隣に戻った。二等車のコンパートメントは広くはないものの明るく風通しがよく、同じ車両のお手洗いが故障して水没していることを除けば快適だ。
けたたましい金属音とともに汽笛が鳴った。列車が動きはじめたのを見はからって、ユリアナは袋を開いた。そして、「半分あげるわ」とクラエスに差し出す。
「……
顔を上げて、胡乱げにクラエスが淡青色の瞳を細める。
いつもと変わらない生成りの
帝国人としてはごく普通の質素な装い、ぬいぐるみなんて訳がわからないのに、彼が身につけると妙に様になるのだからおかしな話だ。まじまじと見つめてそんなことを考えながら、ユリアナは「なかったわね」と真顔で返した。
「こっちの気分だったの。いらないなら私がもらうわ」
そう返せば、渋い顔のままクラエスが西瓜のかけらを掴んだ。残ったもうひとかけらに
《属領ワラキア》と記された真新しい標識が、景色のなかを通り過ぎてゆく。
「――あ」
「どうしたんですか?」
無心で外の風景を眺めていたユリアナが、ふと声を上げた。
「うっかりして、種まで飲み込んじゃったわ」
クラエスは大げさな溜息をつくと、口の端を上げてニヤリと笑った。
「それは大変ですね。今にもお腹から芽が生えてきますよ。ワラキア産の
「もう、変なこと言わないでちょうだい。お腹で芽が出るわけないじゃない、子ども騙しだわ」
しかし一抹の不安を覚えて、ユリアナは自分のお腹を見下ろした。――苺の種だって取らずに食べるんだから大丈夫だわ、と心のなかで結論づける。
クラエスは肩を竦めて、読んでいた本をパタンと閉じた。
「どうだか。ほら、汁がこぼれますよ……ああ、言わんこっちゃない」
ユリアナが西瓜の残りにかぶりついた瞬間、赤い果汁が溢れて唇の端を伝った。
一切れとはいえ、顔と同じくらいの直径があった
クラエスが溜息をついて、自前のハンカチを投げて寄越した。
「ありがとう。洗って返すわ」
「そう言って返したことがありましたかね……。ブカレストまであと一時間はかかるでしょう。船旅であまり眠れなかったのなら、せめて今のうちに寝ておいたらどうですか?」
「着くまでに読み終えておきたい論文があるのよ。だから遠慮しておくわ」
ハンカチで手と口を拭き、鞄に仕舞っておいた小型の
写真には、一本の義手が映されている。
ユリアナの右足と同じ、虹色に煌めく透明な金属を用いた《右腕》だった。《リエービチ》と異なる点を挙げるとすれば、複雑な内部構造がない。そして、実用品ではないということ――。
「……ルスラン・カドィロフの遺作、ですか」
その写真を横から覗き込んで、クラエスがぽつりと呟いた。
「通称は《聖なる右手》ね。ここ百年ほど行方不明だったって言うもの。このタイミングで蒐集家が放出してくれて助かったわ。まあ、開催地がワラキアというのが何だがきな臭い感じだけれど……」
トラウゴット・ファランドールから送られた《招待状》――それは、ある非合法オークションのものだった。後日トラウゴットに連絡を取ると、ユリアナはファランドール家の当主の
遺失文明以前を含めた古今東西の稀覯品が集められるという、数年に一度の大規模なオークションで、ファランドール家も毎回VIP待遇で招待されるらしい。トラウゴット
稀代の技術者であったルスラン・カドィロフの遺作も、そのひとつというわけである。
オークションは何日間もかけて開催され、莫大な金額が動くだけでなく、世界中の資産家が集う社交場としても機能する。その開催地として今回選ばれたのが、属領ワラキアの都市ブカレストだった。
――属領ワラキア。
黒海の西岸に面し、ブカレストに副王領府を置くその土地は、数年前に
属領化以前の政治不安、体制変換後の経済的な低迷が長く続き、昨今では
(帝国政府に黙認されているとはいえ、非合法のオークションを開催するなら妥当な土地ってわけなのかしら)
ブカレストは首都から汽車と船を乗り継いで一週間ほど。今ふたりが乗っている列車の目的地が、ブカレストだった。
(でもそこに、ルスラン・カドィロフの遺作がある……)
帝国のデータベースに記録された、ルスラン・カドィロフの発明品。その最後のページを飾る、彼の遺作――通称、《聖なる右手》。
詳細は明らかでなく、闇市に消えた実物は長らく行方不明。
列車に揺られながら、ユリアナは自身の両足に目を落とした。
一対の義足、白鳥と黒鳥。そのオリジナルの製作者、ルスラン――彼の生涯は、
「……アナ、ユリアナ。起きてください」
――遠くから、クラエスの声が聞こえる。
次いで肩を叩かれる感触に、ユリアナは弾かれたように顔を上げた。
と同時に、至近距離にあった何かにぶつかる。
「……っ……! この、石頭……!」
「クラエス? ごめんなさい、気付かなくて。私、寝ちゃっていたのね」
ぱちりと青い目を瞬き、ユリアナは鼻頭を押さえるクラエスを見上げた。ぶつかったのはクラエスの顔だったらしい。
前にもこんなことがあったな、と思いつつ、列車が停まっていることに気付く。腕時計を確認して、目的地である駅に到着したらしいことを知った。
「まったく……。ほら、行きますよ。忘れ物はないですか?」
荷鞄を持ち上げたクラエスに続いて、ユリアナも立ち上がる。
靴越しに、義足がカツンと小気味よい反響音を立てた。
「会場までは送迎があると聞きましたが……。どういう風に連れていかれるのかはわかりませんね」
列車が汽笛を鳴らしながらプラットホームを出て行く。それを背に、ユリアナは閑散とした駅舎内を見渡した。
昼間だというのに、周囲を歩く人間は
「何だか怖いわ。帝国とは大違いね」
「そうですね……。まあでも、よほど栄えていない限り、属領はこんなものですよ」
ふうん、とうなずきかけたところで、ユリアナは隣を歩くクラエスの
ユリアナの視界の先には、正装姿の見知らぬ男女が立っていた。
かれらは明らかに到着したばかりのふたりを見つめていた。特徴的なのはその装いで、細かなレースで編んだ黒い仮面で目元を覆い隠しているのだった。
ジャケットの下に手を入れたクラエスを制して、ユリアナは無言で前に出た。
「……トラウゴット・ファランドールの名代よ」
招待状のカードを、ひらりと翳してみせる。
すると女のほうがうなずき、踵高の靴を鳴らしてユリアナのもとへと歩み寄った。
「ユリアナ・ファランドール様ですね。お話はトラウゴット様よりお伺いしております。――これより会場へとご案内いたしますが、守秘義務がございますので、道中はこちらを身につけていただきたくございます」
恭しく礼を取った彼女が差し出したのは、目隠し用の、二枚の細長い布だった。
「……誘拐じゃないって保証はあるんですか?」
それまで黙っていたクラエスが口を挟む。
女は動じず、「来るも来ないも自由ですから」と微笑んだ。
クラエスの袖を掴んで、ユリアナは無言でうなずいた。
目隠しをした上で、二人は駅舎の外に待ち構えていた車両に乗せられた。
そして一時間ほどで、《会場》とされる場所へと到着した。
車内でのセキュリティチェックを済ませ――クラエスの所持していた武器も預かられてしまい――ようやく解放されたユリアナの足がはじめに踏んだのは、親しみのない芝生の感触だった。
「あそこが会場……?」
周囲には鬱蒼としげる森がある。
一本の橋を渡した深い堀、その中心には苔むした高い壁に囲まれた古びた城の姿がある。薄曇りの空のもと、複数ある尖塔を飾るオレンジ色の屋根も、どこか色褪せているように見えた。
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