(特別編)ルスランと聖なる右手
プロローグ
――夏のはじまり。
開け放した窓から風が吹き込み、遮光カーテンを揺らした。乾いた風に、肩上で切り揃えた黒髪がさらさらと
ユリアナはリビングに置かれた長椅子に寝そべりながら読書をしていた。淡い青色をしたノースリーブのワンピースを着て、むきだしになった白い肩には黒い髪先が落ちている。膝丈の裾からは二本の《足》が――色の異なる、白と黒の義足が伸びていた。
彼女が熱心に読んでいる本は、つい最近、馴染みの古書店から取り寄せたものだった。なめした黒革を張った研究書はずっしりとしている。脇に置いた辞書を使いながら読み進めているため、ページを
朝から読みはじめ、昼食を挟んで早数時間。ほとんど妨げられることのなかった集中は、ここにきて玄関口から響くバタバタとした物音によって破られた。
「あら、おかえりなさい。外、暑かった?」
荷物を抱えたクラエスが、慌ただしくリビングに入ってきた。
夕食の買い出しから戻ってきたのだ。クラエスは両腕に抱えた荷物を一度テーブルの上に置くと、「死ぬかと思いましたよ、暑くて」と溜息まじりに言い放った。
――遺構第二〇二の事件から、半年とすこしの月日が過ぎた。
首都クテシフォンは今年も酷暑を迎えようとしている。
ユリアナは秋から女学院への復学を目指して、依然として自宅療養中だ。ここはバラドと暮らしていた裏通りの
「もうすっかり夏ね。昼間は外出するもんじゃないわ。――シャワー浴びてきたら? すごい汗よ」
「そうします。ちょっと借りますね」
クラエスの頬は暑さで紅潮し、身につけた白い
「……厄介ね」
「何がですか?」
本をパタンと閉じ、「何でもないわよ」と
長椅子から身を起こすと、「そういえば」と、荷物の中からひとつの封筒を手渡された。
「なあに? これ」
ひっくり返せば、差出人としてトラウゴット・ファランドールの名前が刻まれていた。
また課題でも出してくるつもりだろうか――正式に『後継ぎ』に指名されたユリアナに、彼は何かと難題を突きつけてくる――げんなりした顔をしつつ、ユリアナは封蝋をちぎった。
中には二人分の切符と船のチケット―ーそして新たに別の封筒が入っていた。
行き先はブカレスト。
怪訝に思っていると、そのもうひとつの封筒をクラエスに取り上げられた。
「さっさとシャワー浴びてきなさいよ」
ユリアナの言葉を無視して、クラエスは「招待状ですね」と囁いた。
彼が見せてきたのは、一枚のカードだ。
「……オークション?」
小さなカードには、
主催の名はなく、内容も簡素なもの。世界中のありとあらゆる
「……どうするんです? 厄介そうな香りが……」
「問題は、なんでこれを
長椅子に座り直して、クラエスの分のスペースを空けると、ユリアナは旅行用の切符と招待状を交互に見比べる。
クテシフォン発の高速鉄道の日付は三日後。その後船とさらに列車を乗り継ぎ、到着は一週間と三日後――オークションの開催日時とも矛盾は見られない。
顔をしかめながら、招待状のカードをひっくり返して、目を
そして、弾かれたように顔を上げた。
「……やっぱり行くわ」
「は?」
「あなたも行くでしょう? ふたり分準備されてるんだし」
「え、いや……あの……。どうしたんですか?」
ユリアナは裏返したカードをクラエスに手渡した。
白い紙面にはトラウゴットの字で、『ルスラン・カドィロフの遺作あり』――そう綴られていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます