(15)まぼろしを追う
「――ふう、命拾いしたわ」
ダクトの内部からクラエスの腕で引っこ抜かれた私は、そう言ってスカートの裾についた煤を払った。
「何が命拾いをした、ですか。貴方、バカでしょう。あんなところで爆薬を使うバカがいますか」
「バカバカうるさいわね、このバカ。結果的にはただの花火だったもの。ちょっと喉を痛めたくらいで済んだわ」
反射的に言い返せば、半眼のクラエスにジロリと睨まれる。――すこしばつが悪くなって、「わるかったわよ」と呟くと、私は周囲へと目を向けた。
横方向へと伸びたダクトには傾斜があり、おそらくは先ほどより一つか二つは下の階層――のはずだが、先程と大差ない光景が広がっていた。床や壁、天井のいたるところにまで、黒く細かな根が張り巡らされている。それらは青く点滅する蛍光灯さえ覆いつつあって、あたりはひどく薄暗くなっていた。
「方向を見失いましたね。そもそも、この様子ではどこが無事な道なのかも分からない……まるで遺構そのものを食い尽くしているようだ」
黒色の繊維は見る間に増殖しつつある。クラエスの言う通り、このままでは建物そのものが「食い尽くされて」しまいそうだ。あちこちが陥没し、穴だらけになっていることを鑑みれば、いつこの遺構が崩壊してもおかしくはない。
「エレノアの言い分だと、一〇年前に何かが起きたのね。微生物が飛散したとも。……この糸みたいなのが、その微生物なのかも」
「どちらにしろ、異変が起きていることは確かだ。残念ですが、一度脱出をすべきだ。私たちの手には負える代物ではないでしょう」
至極まっとうな発言だった。明らかに、想定を超えた「何か」が起きている。この状況でさえなければ、私も大人しく彼の申し出に従っていたはずだ。
――けれども。
「………黒鳥が、鍵を握っているんだわ」
ぽつり、と私は呟いた。
先刻――《リエービチ》は補助的な存在である、とエレノアが言った。だとすればあの日ウルヤナが持ち出した左足用の義足にこそ、この状況を打開するような
――そのときだった。
私はとっさに振り返った。
何かが聞こえたのだった。
周囲を見回す。糸が構造物を軋ませ、その建材を食らい尽くしては響かせる物音以外、その空間は静寂に包まれているはずだった。
しかし、その音ははっきりと私の耳に届いた。
ささやきかけるように、語りかけるように、未知の言語は私の鼓膜を打ち震わせ――明確なイメージへと、変貌する。
「……ユリアナ?」
廊下の奥へとむかって歩き始めた私の肩を、クラエスが掴む。
その腕を振り払い、私は呆然と正面を見据えた。
「――ウルヤナの姿が見えるわ」
視界に映るその姿を追いかけて――歩く。
――ウルヤナが、いる。
血まみれの黒い左足を引きずり、壁に手をついて、前にむかって進んでゆく彼の姿が、そこに存在した。目にした瞬間、これが過去の情景であると、はっきりと理解することができた。私の知らない、「あの後」の彼であると。
何度かその場にうずくまり、苦痛に呻いて――時おり転びかけては、それでもなお立ち上がる。歩こうとする。私が伸ばした腕は実体に触れることなくすり抜けた。あたりまえだろう、今となってはこれはただのまぼろしなのだから。
瞬きひとつさえ惜しく、目を見開く。
私は彼の背を追うことしかできない。目を焼きつけることしかできない。なぜ私がこの光景を見ているのか、理由はさだかでなかった。
ただ胸が張り裂けそうで、唇を噛みしめた。あの日、私は彼を置いて逃げたのだ。彼の迎える運命を知らないまま……。
――拳を握りしめた。
「――ユリアナ!」
突然、名前を呼ばれた。驚いて振り返ろうとした矢先、強い力で後ろから抱き寄せられる。――クラエスだ。
「どうしたんですか、急にフラフラと歩き出して……あやうく穴に落ちるところでしたよ」
「あ…………」
目の前の床には、ぽっかりと穴が開いていた。クラエスが助けてくれなかったら、そのまま足を踏み外していただろう。
そのとき、ふっと
「私、行くわ。せっかくここまで来たんだもの、中央制御室を目指すわ。そこにウルヤナのいる地下シェルターへの入り口もあるはずだから」
クラエスの目をまっすぐに見つめ、はっきりと宣言する。
「……道は?」
「わかるわ。ついさっき、ウルヤナが教えてくれたもの」
私の言葉に、クラエスは訝しげに目を細めた。しかしよっぽど自信満々な顔に見えたのか――あるいは私の意固地な性格をわかってか、黙って手を握っただけだった。その動作に、思わず笑みがこぼれた。
「……一緒に来てくれるの?」
「――今更言うまでもないでしょう」
そう言って、クラエスは前を向いた。続いて、私も。
その先も、ウルヤナのまぼろしをあちこちで見かけた。
彼の気配は、まるで亡霊のようにこの遺構に染みついていた。そのことがむしょうに私の心をかき乱した。まるで実在しているかのように現れるのに、触れることができない。会話をすることも、「私」という存在を認知してもらうことも。ただ血まみれになって、苦しみながら歩いていく彼の姿を眺める以外には。
「……もう先が見えませんね」
溜息まじりに呟いたクラエスが、目の前の糸の群れを腕で振り払った。
黒い糸は幾層にも折り重なりながら、遺構を包み込んでいった。もはや廊下の大半を埋め尽くすまでになっている。その糸は触れてみると植物か何かの繊維に似ていてもろく、私の手でもたやすくちぎることができた。
人を害することはないらしい。すくなくとも、今の段階では。
わずらわしい糸を振り払いながら、中央制御室への道を進む。ウルヤナの姿を追っていくだけでよかったが、同時にあの日の彼をつぶさに見せつけられることにもなり、それが胸に
――そのとき、別のものが私を視界を
私の横を通り過ぎていく軍装の男。その容貌に、見覚えがあった。――バラドだ。
バラドが手にした銃を向けると、ウルヤナはゆっくりと振り返った。そして笑ってみせたのだった。
『ああ、君が墓を暴いたのか。――それともお仲間かな?』
背後の壁に寄りかかりながら、ウルヤナはそう言い放った。挑発するように顎を上げ、しかし息も絶え絶えに……。
『この先の……ルスラン・カドィロフの霊廟に立ち入ったか。馬鹿だね、だからオレーシャの怒りが降ったんだ。二百年の間、誰も立ち入ることがなかったのに……永遠に眠らせてやるだけでよかったのに……。
もう間もなく宇宙からあれが到達する。槍は攻撃目的ではない。その内側にあるものを守るため、大気圏外を突破した段階で自壊するだろう。けれども、そのあとに黒い雨が降る。それが終わりのはじまりだ。もうどうしようもないさ、この遺構も、
『――いいや』
バラドは冷たい声で言い、
『お前ならできるはずだ。ルスラン・カドィロフが死んだ今、この遺構の管理者権限は宙に浮いた。だからこそ、お前は黒鳥の
ウルヤナは黒い目をすがめ、長く息を吐き――そして前触れもなく、『前に、試行の話をしたね』と言った。ひどく疲れた顔だった。
『――きみはほんとうに、僕が誰かを育てられると思う?』
その扉の前で、私は立ち止まった。
扉の表面をびっしりと覆う繊維を払い、その下に埋もれていた認証用のパネルを探し出す。その上には、古びた血の跡がこびりついていた。
血の跡をじっと見つめながら、一度、深呼吸をする。
そして意を決すると、クラエスを振り返った。
「――ここまでよ、クラエス。一緒に来てくれてありがとう」
私の発言に、クラエスは弾かれたように顔を上げた。
「あなたがついてきてくれたから、すごく心強かったわ。でも、もう十分。ここから先は、私ひとりで行くわ」
「何を――何を言い出すんですか、ユリアナ。急に……」
「この遺構はいつ崩落してもおかしくない。その前に脱出すべきよ」
淡青色の目が揺れ――次の瞬間、強い力が私の両肩を揺さぶった。
「――嫌です。貴方を置いていくなんて、冗談じゃない!」
怒りに打ち震えた声が、周囲に反響した。私は言葉を失った。ここまで取り乱した彼を、ついぞ見たことがなかったから。
「ふざけないでください、ユリアナ。ひとりで行く? バカげている。これまで、貴方の名誉のために言わなかったけれども……こんなにも手が震えている貴方が?」
そう言って、私の右手を掴み上げる。
彼の指摘した通り、私の指先は小刻みに震えていた。
「今だけじゃない。貴方は強がるけれども、その度にみっともなく震えていた。私が手を握るときはいつも。ユリアナ、貴方は本当は――」
「あら、知らなかったわ。教えてくれてありがとう――でも、これは武者震いよ。この私が何かを怖がるなんてありえないわ」
クラエスの言葉を遮り、私はきっぱりと言い切った。
彼ははっきりと顔をしかめ、なおも何かを言い募ろうと口を開く。その必死な形相に、思わず笑みがこぼれ落ちた。
「――ねえ、クラエス。私、あなたのことがだいすきよ」
突拍子もなく口を
目まぐるしい彼の
「ほんとうよ? 最初は大嫌いだったけど、今は違うの。私ね、ずっと……早くひとり立ちして、ひとりで生きていかなきゃって思ってたわ。だって人間って、ひとりで生まれるし、ひとりで死ぬでしょう? だから他人を必要としないくらい強くなって、ひとりで生きていこうと思ってた。自分の誇りとか、プライドを守れるくらい――精神的にも経済的にも強くならなきゃって。でも……」
でも、そういうことじゃなかったのね、と
「確かにいつかはひとりで死ぬし、誰かと100%分かり合えることも絶対ない。そういう意味で、私たちは孤独な生き物よ。だからこそ、生きる上で強さが必要なのも嘘じゃないと思う。――でも、誰かと一緒にいることって……時として、その孤独を豊かにして、自分を強くしてくれることだと思うの」
「――ユリアナ、」
「あなたは私の手を握って、何度も励ましてくれた。いろんなことを教えてくれた。私に真正面から向き合ってくれて……私の話を聞いてくれた。それだけのことなのに――私、もっと強くなれたわ。たしかに、恐れは消えないけれど……この先にどんな絶望があっても大丈夫。そんな確信があるの」
クラエスの手を握り返し、私は
これは武者震いなのだと自分に言い聞かせる。「私は強い」、「これからもっと強くなれる」、と。たとえ今は嘘でも、演じ続ければいつかは本当になるかもしれない。そんな期待を
――私には、この数カ月で思い知ったことがいくつもある。
辛いことや耐えがたいことがあっても、結局、人はひとりでそれに立ち向かうしかない。誰かの痛みに共感することはできても、完全に共有することはできない。過去や境遇、価値観や認識の差異は埋められない。
でもだからといって、それは不幸なことではないのだ。私たちはけっしてひとつになることはない、けれども重なり合う痛みのなかで生きている。冬場に
「心配しないで、クラエス。私、ちゃんとあなたのところに戻るわ。だから、ほんのすこしだけお別れをしましょう。――大丈夫よ。あなたがいるかぎり、私、どんなことにでも立ち向かえると思うの。これから先の人生に、何があっても」
――数秒、沈黙が訪れた。
次の瞬間、クラエスは私の上半身をぎゅっと抱きしめた。強い力だった。顔を引き寄せられ、唇が重なる。
かすかに石鹸の香りと、血の匂いがした。
私は腕を伸ばし、彼の頭を抱き締めた。やわらかい髪の手触りと、彼の体温を感じる。
「……貴方には言いたいことがたくさんあるんです。謝りたいことだって……」
離れた唇を名残惜しく思った。クラエスは長い睫毛を伏せ、小さな声で囁いた。
「だからそれをちゃんと聞きにきてください、ユリアナ」
「――わかったわ」
最後にもう一度だけ、クラエスは私を抱き締めた。
彼の背中に腕を回し、私もその抱擁に
そして、私たちは別れた。
これが最後でないことを願って。
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