―幕間―
――冬のクテシフォンは、時おり霧に包まれる。
窓からおぼれに漏れる外の明かりに、エレノアは目を細めた。そして真横に立った人の気配に、見向きもせず「いらない」と言い放つ。
「置いておくよ」
テーブルの上に、ミルクガラスのマグカップが置かれた。そして断りもせず、長椅子に座るエレノアの隣に腰かけてきた男を、彼女は睨みつけた。
「乳茶だよ。バターと塩を撹拌して……俺の実家だとよく飲むんだ」
マグカップの中身を一瞥し、大袈裟な溜息をついてみせる。
「属領文化だろう。そんなものに固執するから、いつまで経っても帝国人に同化できない。だから馬鹿にされるんだ、お前は」
「ひどい言い草だ。せっかく君をもてなそうと思ったのに――まあ、君が俺のすることで喜んでくれたことなんて、一度もないな」
肩を竦めながら、しかし彼は悪びれもせずに答えた。
「そうだな、だったら今度は
「お前は何もわかっていない。その口をすこしでも減らしてくれるのが一番いい」
翡翠色の目をした男から顔を背け、視界の中央に置き去りにされたマグカップを収める。エレノアは再度溜息をついて、顔にかかった前髪をかき上げた。
「お前と話しているとみじめな気持ちになるよ、まったく」
「褒められているのか?」
「褒めていない。けなしているんだ、理解ができないと。お前は私が置き去りにしなければならないと思ったものを、今でも平気で抱えているから」
「そう言われても困るな。俺は俺の感じていること、感じてきたことだけがすべてだから。君と俺とは別の人間だし、それの何が悪いのか、皆目見当もつかない」
真顔でそう返されれば、毒気も抜ける。エレノアは目をすがめて、それもそうだな、と深い感慨もなく答えた。感心したわけではなく、呆れたのだった。
赤い睫毛を伏せ、マグカップを手に取った。
湯気を立てるそれに口をつけると、次の瞬間、まずい、と呟いた。
「ひどい味だ。飲まないほうがよかった」
唇をほころばせ、マグカップを男の手に渡し――ふいにその襟首を掴むと、至近距離に顔を寄せた。翡翠色の目が丸くなるのに、すこし愉快な気持ちになった。
遠く、どこからか水音が聞こえる。霧の水分が溜まって、
「――出征するんだ」
◆
――意識を失っていた。
数十秒か、数分か。換気口から追い出されたところで床が崩れ――床もろとも、その下の階に落下したところで記憶は途切れている。
頭上の黒い穴を見上げながら、エレノアは自分の四肢が動くかを確認した。問題はないが、右肩の痛みは増していた。
右半身を庇いながらゆっくりと身を起こし、深呼吸をして、血に濡れた上衣を脱ぐ。そこまできてはじめて、自分の眼前に、見慣れぬ人物が立っていることに気づいた。怪我と出血のせいか、判断力が鈍っているようだった。
「……こんにちは」
背の高い、中性的な容貌をした娘だ。見覚えはない。しかし翡翠色の双眸が自分を見下ろしているのに、ふと、ツキンと頭の奥が痛んだ。
夢を視ていたことを思いだしたのだ。一〇年以上昔の……。
エレノアは用心深く少女を警戒しながら、立ち上がろうとして、失敗した。
「……くそっ……」
右肩の出血がひどく、立ち上がることもままならなかった。
その場にくずれ落ちそうになったエレノアに、少女の手が差し出された。存外しっかりと筋肉のついた両腕が、エレノアの体を支え、壁にもたれさせる。
「お前……何者だ?」
ずるずると床上に座り込んで、エレノアは問いかけた。そして次の瞬間、少女の名から放たれた名に目を
「僕は
ジンウの? とエレノアの唇を、懐かしい名が
半信半疑のまま、その少女を見上げようとして――苦々しいきもちがこみあげ、顔を背けた。痛みを逃がそうと深呼吸を繰り返しながら、両足を床上に投げ出す。
そして、吐き捨てた。
「復讐にきたのか。鎮雨を殺した私に仕返しを?」
「違うよ。僕は借りを返すために、ここまで来た」
「……借りを?」
膝をつき、
顎を掬いあげられる。翡翠色の双眸が、エレノアの顔を覗き込んだ。
「一〇年前、僕のにいさんは報酬金を目当てにアラクセスに赴いた。そしてにいさんが死んだことで、その金は当時婚姻関係にあった君のところに振り込まれた。――その金で、君は僕の戸籍を買っただろう。帝国人としての戸籍をね」
エレノアは目を眇めた。痛みか、心の底から沸き上がる苛立ちからか、自分でも判別はつかない。ただ目の前の少女を睨みつけた。
「馬鹿らしい借りだな。そんな理由でここまで? あれと私との関係は、遺伝子保護法の強制力によるものに過ぎない。それもあれの処刑で抹消された――情緒的な関係ではないよ。だからこそ、しかるべき形で還元しただけだ」
――『遺伝子保護法』と呼ばれるものが、
優生的であると認められた帝国人、そして属領人がその遺伝子――卵子あるいは精子を提出することを義務付けた法律だ。遺伝子はすべて帝国が管轄する遺伝子バンクで凍結保存され、国や個人からの要請によってそれらが供出される。
優生的な子孫を残すことを目的としたもので、属領人に対しては特に強い効力を発揮できる仕組みだった。
陳鎮雨――属領
「――兄さんは、君を
「それは初耳だ。あれが金を必要としていたのは、可愛い妹をファランドールに入れたくなかったからだ。ファランドールに入れば教育こそ用意されるが――属領人は冷遇されるし、職業選択の自由もない。
そういう意味では、
矢継ぎ早に言い募り、エレノアは拳を握りしめた。
彼がなぜ莫大な報酬金を必要としていたのか、実際のところ、エレノアは知らない。しかし死後、自分の手もとに残された金を見たとき、自分のものではないと思ったことは確かだ。
「勘違いでこの場所まで辿りつけるのだから、大したものだ。さっさと帰るがいい――ここにお前の期待するものは何も、」
言葉を遮り、冷たい手がエレノアの鼻先に触れた。
「火傷をしている」、と桑雨が呟く。
「あとで冷やしたほうがいいね」
顔にかかった前髪を、生白い指先がかきあげた。明瞭になった視界のむこうで、翡翠色の双眸が自分をじっと見つめていた。
どんな感情が宿っているのか、エレノアには分からなかった。気が付けば、「……憎んでいるんだろう?」という問いかけが、こぼれ落ちていた。
「――お前を天涯孤独の身にした私を」
あるいはその瞳のむこう側に、わずかにでも憎悪の念を見つけられたならば――すこしは気が晴れたのかもしれない。一〇年前、「彼」を殺したとき、誰にも叱責されぬまま……ここまで来てしまった自分の心の
ファランドールの名を冠する少女が自分の前に立ちはだかったとき――そして「彼」がその少女を生かしたのだと知ったとき、形容しがたい感情が胸を包んだ。身に馴染んだ怒りではなく――悲しみだった。
桑雨は猫のように翡翠色の目を細めた。そして、肩を竦めたのだった。
「そんなのは知らないよ。僕、そういう強い感情、よくわかんないんだよね。僕は僕こそが自分の信念だし、君の贖罪なんてどうでもいいし――ただ、あの日、兄さんがここに忘れたものを拾い集めたいだけなんだ。それが弔いになると思っているから。……君がそのひとつだ。あとは――」
そのとき、ふたたび地震が起きた。「そろそろここも崩れるね」と言って立ち上がった桑雨が、背嚢からロープの束を取り出した。
黒い糸は既に遺構のほとんどを侵食しつつあり、周囲にも小さい崩落が見られた。「あっちに深い穴がある。地下の非常用通路まで降りるんだ」と説明して、その縄をほどきながら、ねえ、と桑雨が問いかける。黙って傷口を縛り直していたエレノアは、その言葉にふと顔を上げる。そして目が合った。
周囲は黒色に侵食されつつあった。そのなかで、だれかが振り向いたような気がしたのだった。
誰の影が視界を過ぎったのか、エレノアはわからない。
「にいさんは――
だからね、僕がにいさんのかわりに、君を買ってあげる」
◆
「詳細は言えないが、戦役だ。そこで軍功を立てれば、将来が約束される」
掴んだ襟首を離せば、鎮雨は無言で長椅子の背もたれによりかかった。すこし遅れて、そうか、とうなずく。
「そうすれば、お前とはさよならだ。地位を築けば、こんな阿呆らしい命令に従う必要もなくなる。
――こんなままごと、最初から始めたくなどなかった」
エレノアの言葉に、鎮雨は肩を竦めた。その視線に、なぜか苛立ちを煽られる。
「君を見ていると悲しい、エレノア」
「……馬鹿にしている」
「いつか君の心に花を咲かせてみたいものだな。砂漠にも花は咲くから。……水が無くともね。知っているか? 硫酸カルシウムが砂と一体化して結晶になるんだ。それが花のような形になる。砂漠の薔薇だ。君の背中にあるものと同じ」
エレノアは目をすがめた。
顔を伏せる。前髪が表情を覆い、何もかもを隠してくれる。
彼女は唇をとがらせると、低い声でことばを返したのだった。
「――詭弁だよ、鎮雨」
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