(4)どこまでも

 山頂から崩れ落ちた土砂が到達するのと、私が右足を地面から離したのはほぼ同時のことだった。瞬きする暇さえもなく、噴煙が――そして目を開けていられないほどの青い閃光が視界を埋める。ドン、と地上から突き上げる衝撃とともに、私とバラドの体はあっけなく宙へと投げ出された。

 先に待ち受けるのは崖、そして谷だ。ふたり分の体は、重力になすすべもなく落下していく。水の音が間近に迫ったとき――ついぞ覚悟して目を閉じた。正直なところ、どこまで自分の策が通用するのか、あまり自信がなかったからだ。

 あるいは、ここで死んでしまうのかもしれない。

 一抹の不安が私の胸をぎった。しかしその瞬間、私を抱きしめたかいなに強い力がこもった。その力と彼の温もりを感じたとき、私は……。



『〝   〟』


 誰かが私の名前を呼んだ。

 振り返った先に、夜色の肌をした青年が立っていた。服の袖をひっぱる私を前に、困ったように肩を竦める。

『悪いけど、僕はここに残らなくちゃいけないんだ』

『……いっしょにいかないの?』

『そう。君はひとりでどこかへ行くといい。大丈夫、君ならどこにでも行けるさ。……残念ながら、僕はあれを始末する責任があるからね』

 彼は背後に置かれたケースを指差した。

 そこには、漆黒に煌めく義足がある。――黒鳥オディールだった。

『本当は君を認証者にして、永遠に葬り去るつもりだった。でも、気が変わった。君といた時間は短かったけど、殺すには惜しいと思う程度には情が湧いたんだ。それだけで君とお別れする理由には十分だ』

 淡々と説明されるが、私は首を傾げるだけだった。

 青年は薄らと笑みを浮かべたまま、脇の机から一丁の自動小銃を取った。そしてその銃口を――あろうことか、彼自身の左足に向けたのだった。

 空気を轟かせる発砲音に、おもわず両耳をふさぐ。

 二度、三度と彼は自分の足を撃ち、その場に座り込んだ。呆然として床に広がる血を見やり――それから慌てて駆け寄った私の頭を撫で、青年は笑みを深める。

『来い、鎮雨。お前の腕が役に立つときがきたぞ。なんのためにお前を僕のところに寄越したとおもってるんだ。いいか、あの左足を僕に移植するんだ。歩けるようにする必要はない、形だけでいい――鎮雨!』

 私の目の前に、白衣の若い男が現れた。『行くんだ』――青年の声に、私はきつく唇を噛みしめた。今にも涙をこぼしそうな私を前に、彼は呆れたように溜息をついた。

『遺言だと思って聞いてくれ、〝   〟。僕の《試行》は、僕が死んだあとも続くんだ。寝物語をしてくれる相手がいないときは、僕のことを思い出してくれ。アミランの火、パンドラの函、ドヴッジャイラの伝説……僕のした物語を。それでも足りなければ、僕の持ちうるもののすべてを君に残そう。君の虹彩、指紋、声紋――僕の〝宝箱〟に君の情報を刻んだ。いつか覚悟ができたときに、その箱を開けろ。それは苦難と絶望の道だが、その先でいつか僕にめぐり会うだろうさ。最後には希望がつきものだから……』

 ――ウルヤナ。

 私は小さな声で彼の名前を呼んだ。ウルヤナは片目をすがめた。

 そして彼が何かを言う前に、私は背中をつまびかれたように駆けだした――その先で、に出会った。



 芯から凍るような寒さのなか、私は目を覚ました。

 ひどく近いところから、雨音が聞こえる――土砂降りだった。意識のはっきりしないなか、ぼんやりと、私は地のぬかるみを叩く反響音に耳を澄ましていた。

 なにか懐かしいものを夢に見ていた気がしたが、内容は判然としなかった。もの悲しい感情だけが、温めたミルクの膜みたいに胸にへばりついている。微睡まどろみをたゆたう私を現実に呼び戻したのは、ある人の呼び声だった。

「――ユリアナ」

 耳にそっと囁き入れる、低く、やわらかな男の声――この十年間、馴染みつづけた声だ。私はゆっくりと目を開け、そのひとの容貌をたしかめた。

「バラド……」

 ――たきぎぜる音が、パチ、とちいさく聞こえた。

 燃え上がる炎にかき乱される暗闇に、見知った顔が浮かび上がる。バラドは私と目が合うやいなや、こわばっていた口もとをわずかに緩めた。

 そして冷たい手で私の前髪をかき上げ、溜息をついた。

「よかった……」

 ほとんど吐息のような声で囁く。その表情かおをじっと見つめながら――「ああ助かったのだ」という感慨が、私の胸に沸き起こった。地雷が爆発した際の衝撃と土砂がぶつかり合う際の反動で、私たちは崖の下に落ち――真下を流れる川へと落下した。川底が予想よりも浅いか、想定していた以上に川との距離があったならば、今頃助かってはいなかったはずだ。

 バラドはふと我に返ったように、私から身を離した。

 私は毛布にくるまれた恰好で、床板の上に寝かされていた。その横にバラドは腰を下ろし、気まずそうに背を向けて薪の灰を火箸でかきまぜた。

「ここは山の麓にある小屋だよ。俺が連れてきたんだ。――体調は?」

「とても寒いわ……」

 川に落ちたせいだろう――さっきから、からだの震えが止まらなかった。余計に体温が奪われるのを防ぐためだろう、着ていた服や下着はすべて脱がされ、薪の前で干されているのが視界の端に映った。

 その一方で、バラドは濡れた服を身につけたままだった。

「これからどんどん冷え込む。山頂ほどにはないにしろ、もともとこのあたりは寒いんだ。――雨が降りだしたせいで薪も拾えない。かろうじて小屋には木材が残っていたが、ほとんど使われていないんだろう……一晩は到底越せない量だ」

 そう言う彼のおこした火は、既に薪のほとんどが灰に還っていた。

「バラド。あなたこそ、すごく寒そうよ。そんな恰好で……」

「いいんだ。君はすこしでも暖を取ることを考えて」

 バラド、と私は彼を呼んだ。素肌を覆うように毛布をからだに巻きつけ、身を起こそうとしたところで違和感を覚える――右足の感覚がなかった。

 見れば、山小屋の片隅に私の《義足》が立てかけられていた。いぶかしげな視線に気づいたのか、バラドは肩を竦めてみせた。

「すまない。君の義足をだめにした。地雷の衝撃こそ吸収したが、それに内部の機構が耐えられなかった。あちこちヒビだらけだ。認証機能は死んでないと思うが――」

「そうなの」

「悪いことをした。君の大事な足なのに……」

「今は……そんなこと、どうでもいいの」

 私はバラドの横に膝を下ろすと、彼の顔を覗き込んだ。バラドはなおも私から目をらし、顔を背ける。

「バラド。毛布は一枚しかないの? このままではあなたのほうが凍死しちゃうわ。ねえ、私の目を見て」

「……ユリアナ。俺はもう、お前に気遣われる資格なんてないんだ。もう十分に理解しただろう? だったら、これ以上――」

「――バラド」

 おもむろに両腕を伸ばして、彼に抱きつく。弾かれたようにバラドが顔を上げ、私を突き放そうとした。

 想像以上に、彼の体は冷え切っていた――火の前にいるのにも関わらず。振り落とされないように必死にその首にしがみついて、私は「嫌よ」と声を張り上げた。子どものようにかぶりを振って、どうやっても離れないという意思を明確に示す。バラドは苛立ちをあらわにして、「ユリアナ!」と激昂しかけ――その瞬間、雨音をかき消して、どこからか動物の鳴き声が聞こえたのに、口をつぐんだ。

 バラドはとっさに私の腰を抱き寄せた。そして「狼だ」と、ごく小さな声で呟いた。「近くにいる……冬場で餌が見当たらなくて餓えているんだ……」続けられた言葉に、息を呑む。

 ふたりで身を寄せ合って、息を押し殺した。雨音のせいで獣の足音は聞こえず、頼りになるのは時折聞こえる遠吠えのような声だけ――それが徐々に近づいてくる。

 バラドは無言で私の頭を抱えた。しばらくの間、沈黙が続いた。火の爆ぜる音だけが、時折響く。雨音のなか、狼の声は再度遠ざかってゆき……そしてどれほど経っても聞こえなくなると、ようやく、知らず詰めていた息を吐き出した。

「……行ったか」

 緊張が解けた瞬間、それまで自覚していなかった疲労感が一気にこみ上げた。

 私はぐったりとバラドに身を任せかけ、そこでふと顔を上げた。そして先ほどと同じように、彼の目を覗き込んだ。

「……バラド。いくらあなたが頑丈だからって、このまま一晩過ごすなんて無理よ。薪が尽きる前に、暖を取る方法を考えないと」

「いや、俺は……」

 いつになく、バラドは頑なだった。――埒が明かない。

「一緒に毛布を使いましょう。――その代わり、私のことを好きにしていいわ。何されたってかまわない」

 ふいに夜色の目が揺れた。そこではじめて、バラドと視線が重なった。

 彼は苦々しそうに顔をしかめると、私の肩を掴んだ。先ほどの言葉は、明らかに彼の気に障ったようだった。 今までにない力で、体を引き離されそうになる。

 肩に食い込む指の力に、私は呻きながら、しかしけっして離れまいとしがみつく。ここで離れたら――永遠に彼が遠くに行ってしまう気がして、その双眸を睨みすえる。

「言っただろう、ユリアナ。俺は《試行》に失敗したんだ! 俺はお前のことを愛せなかった。誰も愛せないんだ、俺は。偽りの心で、お前の後見人を演じていただけなんだよ、お前の思う優しい後見人なんてどこにもいないんだ……!」

「どうでもいいわ、そんなこと! 愛せなかったからといって、私があなたと過ごした一〇年間は何も変わらない、傷つかないわ。あなたが私に与えた優しさや愛情、ぬくもりの何ひとつ、変わることはないの。たとえあなたが私の足を撃った張本人だとしても、一〇年間が偽りの上にあるものだとしても――いいの。私はそれでいいって思ってるの!」

 バラドの双眸をゆらゆらとうつろう、ひりつくような痛み――それらをつぶさにみつめながら、私は声を募らせた。

「たとえあなたがほんとうに誰も愛せなかったとしても、それの何がいけないの? 後ろめたく思うことなの? 私、あなたのことを勿体ないとか、損なわれているって感じたことはない。完璧って意味じゃないわ、あるがままって意味でもない――あなたはあなたのまま、あなたの人生をまっとうするしかないじゃない。たとえ《試行》が失敗しても、あなたがどんなに空虚さを抱えて苦しんでも……。

 私だってこんな体をしているけれど、そのせいで私の何かが損なわれているって思ったことはないわ。これまでも、これからも――体や心のどこを傷つけられようとも、私は損なわれないって思ってる。身も心もそんなに強くないし、すぐ挫折するけど、あなたやウルヤナがくれた『足』があるかぎり、私はどこまでも走っていけるわ。だから――私にとってあなたの《試行》は成功したの。私はあなたの望むものを与えられなかったかもしれない。でも、私はあなたのことが大好きなのよ! それだけは否定しないで……」

 ――手を伸ばし、バラドの頬に触れる。冷え切っていて、氷のようだった。

 ……私はずっと、心の底でバラドに嫌われたくないと思っていた。幼い頃から、彼に見捨てられたら生きていけないことを本能的に理解していたから。だから私は、ずっと彼に対して本心をむき出しにできないでいた。

 ――しかし彼に拒絶を突きつけたあの雨の日から、その「遠慮」も必要のないものになってしまった。

 バラドは目をすがめ、しばらく無言のまま私の顔を眺めていた。鼻筋の上を、前髪から滴る水が伝ってゆく。

「……俺はずっと、自分のなかに何も無いと思っていた」

「そうなの」

「だから《試行》をした。ウルヤナと君が、羨ましかったんだ。というより……幼い君の信頼を一手に引き受けている存在が。俺には与えられなかったものだから。

 ――俺は誰かに優しくされたくて、愛されたくて、君に優しくして、愛そうとした。そういう自分を、ずっと後ろめたく思っていた」

 かすれた声で続け、バラドはふいにおとがいを上げた。そしてまっすぐ私の目を見て、芯の残る笑みを浮かべた。

 私は無性に息苦しくなり、唇を引き結んだ。

 ――このひとは無償の愛をしらない。

 それゆえに誰かを愛することも。

 それが悪いことなのか、私にはわからなかった。このひとは私の愛情という『代償』がほしくて、優しい後見人というを続けた。そしてある意味で、その行動は結実したのだろうから。

 その瞬間に私の眼前に映り込んだのは、バラドの根幹ともいうような、ひどく乾いた部分だった。どれほど水に浸そうとも、けっして濡れることはなく、水を吸収することはない砂の山。

 両手でそれを掴もうとするけれど、砂は掌さえ貼りつくことがない……。

 《それ》を根元から変えることは、きっと誰にもできないのだろう。だって、それはバラド自身が培ってきたものだ。彼は誰かに愛されても、それには代償がつきものだと思っている。あるいは本当に、理解できないのかもしれない。

 でも、私は、水に落ちる瞬間に抱き締めてくれたかいなを――地雷の上に立つ私の手を握った彼の手を、信じているのだ。

「……いいのよ」

 手を滑らせ、私はバラドの濡れた髪に触れ、ゆっくりと撫でつけた。

 一枚の毛布を落とすと、凍えるような冷気が身を包んだ。



 いくつかの嵐が通り過ぎたあと、バラドは私のお腹に頭を載せて、しばらくの間、すすり泣いたようだった。

 私はその声に耳を澄ましながら、火の絶えた夜闇をみつめた。

 それからバラドは私を抱き締めて、何度かキスをした。そして謝罪の言葉を口にしたが、私は首を振った。彼に、誰に何をされようとも私は損なわれない。肉体が傷つき、そのときだけは心が摩耗しようとも、どこまでも歩いていけるという確信があるかぎりは。

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