(5)君のための足を

 温かいものに包まれながら、朝を迎えた。

 懐かしい匂い――嗅ぎ慣れた爽やかな香油が、鼻先をくすぐる。今よりずっと小さかったころに戻ったように、すぐ傍の胸に頭をすり寄せた。

 すると背中に回されていた腕が、力強く私を抱き寄せた。無意識なのか――頭の上から聞こえる寝息は、ずっと穏やかなまま。その音に耳を澄まし、微睡まどろみに再度身をゆだねかけた私は、そこでふと我に返った。

 心地よい夢はあまり長居するものではない。浸かれば浸かるほど、現実との落差がこころにこたえるから。そっとバラドの腕の拘束を解き、温かな抱擁から抜け出した。見上げた山小屋の天井には、ひび割れたガラス窓から光が射し、樹々の緑色を映し込んでいた。

 雨の音はもう聞こえない。清冽な朝陽のなかで私は一度伸びをして、灰になった焚火の跡を横目に衣服をとった。手早く着替え、毛布の上にいまだ横たわったままの男を振り返ったところで――ふいにその腰が目に入った。

 朝日が赤銅色の肌を照らしている。彼の腰に広範囲にわたって刻まれた刺青さえも、それは克明に浮かび上がらせた。複雑に絡み合う緻密な蔦模様。その下には、ひとつの手術痕が隠れている。

 ――《紋》を消した痕だ。

 かつて彼に刻まれていた《紋》のかたちを、私は知らない。腕を伸ばし、その部分を指先でなぞった。さらに手のひらを背骨に沿ってやや上にずらすと――別の凹凸がある。《紋》とは異なる焼き印が。

「――起きているんでしょう」

 そこで私は彼に声をかけた。「バレていたか」とバラドは答え、体を起こした。

「他ならないお前に起こしてほしかったんだ」

「そうなの? まさか――昔っから、何度起こしてもあなたがなかなか起きなかったのは、そういう理由だったわけ。あなたはが上手いから、ずっと騙されていたわ」

 乱れた髪を掻き上げて、バラドは小さくあくびをこぼした。「寝起きが悪いのは本当なんだ」そう言う彼に、すこしだけ肩を竦める。

 床の上にちょこんと座った恰好で、私は朝支度を始めようとする彼に声をかけた。

「私、もう行くわ。クラエスと合流する約束をしているの。彼、きっと心配しているわ」

 夜色の双眸をまっすぐに見据えると、バラドは無言で片目をすがめた。答えず、傍にあった衣服と装備を引き寄せて抱えあげる。

「……俺と来てくれるかと思っていた」

 生乾きの襯衣シャツの埃を払い、ぞんざいにそれを羽織りながら、抑揚のない声で言った。どこかふてくされたような顔をして、ちらりと横目で私を盗み見る。

「期待させたなら悪かったわ」

「俺に同情してくれているものかと」

「同情なんかしてないわ。なんであなたを憐れむの?」

「そうでもなければ――これ以上、お前が俺に優しくしてくれるはずがない」

 下着とズボンを穿き、革手袋の皺を神経質に伸ばす。小脇に銃のホルスターを挟み、淡々と装備品を身につけてゆくバラドを前に、私はおもわず鼻白んだ。

「馬鹿ね。――同情なんてしなくても、これまでと何も変わらないわ。ただ傍にいられなくなっただけ。それだけよ」

 バラドはうなだれ、そうか、と小さく頷いた。

 しばらく沈黙を保っていたが、ふと何かを思い起こしたかのように、低く掠れた声で語り始める。

「――本当は、この地にお前を連れてくるつもりはなかった。最初から手離すべきだとわかっていたんだ。お前がアレクサンドリアの箱庭にいるうちに……。だが、クラエスと一緒にいるお前を見ているうちに、衝動が抑えられなくなった。傍にいてほしい。どんな形でもいいから、《試行》を続けたい。たとえそれが既に失敗しているものであったとしても……俺のつまらない欲望が、お前を巻き込んだ」

 立ち上がり、バラドは小屋の隅に立てかけていた義足を手に取った。そして私の前で跪くと、右足のつけ根にそれを装着してくれる。

 「まだかろうじて使えるから」と言って。

「そうね。ずっと――傍に居てくれたのよね。《試行》のために」

「……そうだよ」

「ありがとう、もう大丈夫よ。あなたの《試行》は終わった。あなたは自由」

 どういう意味だ? と問いかけてくるバラドに、私は微笑んだ。

 顔を伏せ、義足を視界に入れる。透明な外殻のあちこちにヒビが入り、足先は小さく潰れていた。心なしか輝きもいつもより薄い――それをいとおしげに撫でながら、私はゆっくりと言葉を紡いだ。

「あなたは私にたくさんのものを与えたわ。たとえあなたが自分のなかに何も無いと思い込んでいても、それが事実でも――あなたの《試行》は私を培った。それで十分じゃない」

 ――「誰かを愛すること」、そして「愛されること」が何なのか、私には分からない。けれどもバラドのことは大切に思っている。この一〇年を通して――この先、未来永劫に渡って。

 彼の抱えたむなしさが癒えることはなくとも、私はこの十年が、彼のなかの何かをほどいたと信じているのだった。あるいは願っている。

 それが答えであり、証明なのだ。彼は《試行》の蓋を開けて、絶望を垣間見たのかもしれない。けれども最後には希望がつきものだとウルヤナも言っていた。

 彼にとっての「希望」であることを、私はこれからも演じる。そうすればいつかはそれが本当になるかもしれないから。

 バラドは眩しいものを見たように目を細めた。そして私の義足にそっと口づけると、「いつか、代わりを作ろう」と宣言した。

「君のための足を、今度こそ俺が」


 ◆


「この坂道を一時間ほど下っていけば、その先に軍施設がある。クラエスが向かうならその場所のはずだ」

 見晴らしのよい崖の上に立ち、バラドが言う。

「このあたりの地雷はすべて撤去されているから、その点の心配はいらない。ただ昨日の土砂崩れと雨で地盤が緩んでいるから、常に警戒を怠るな。危険を感じたらすぐに逃げろ」

「……わかったわ。ありがとう、バラド」

 私は頷き、逆光のなかに立つ彼を見上げた――山小屋を出て、私たちは半刻ほどともに移動を続けた。川で流されたために私たちはほとんど麓に近い場所にいて、当初目指していた軍施設もさほど遠くない距離にあった。バラドは案内役を買って出たのだった。

「でも、こんなことをして大丈夫なの? 怒られたりとかしない?」

 いったい彼がどの「立ち位置」にいるのか、正確なところを私は知らない。どちらにしろ、私をことは、彼の目的に反しているような気がしていた。

「そうだな……」

 私の問いかけに、バラドは薄く笑った。答えるつもりはないようだった。

 ふと身を屈めると、手を伸ばして横髪を耳にかけてくれる。かと思えば、夜色の双眸が近づいてきて、上唇をやさしくついばまれた。

 薄い舌が口内に潜り込むと、反射で噛んでしまう。バラドは一度唇を離し、くぐもった声で笑った。そして何かを口に含むと、再度私に口づけた。

 長く――時間をかけて。

 舌先で何かを押し込まれる。戸惑いながらも、それを受け止めた。バラドは顔を離すと、「俺たちだけの秘密だ」と言って笑みを深めた。

 バラドが私に与えたのは、フィルムで包装したマイクロチップだった。

「軍施設に行ったら、義足を替えるんだ。《リエービチ》はいつ機能しなくなるか分からない。ナノマシンの稼働が切れたら、ただの重いだけの代物になり下がる。なるべく軽く、けれどもある程度重さのあるものを選べ。走れずとも、きちんと歩けるものを――義足を替えたら、クラエスと一緒にすぐ施設を出るんだ」

「……どうして?」

「昨晩の土砂崩れは人為的に起こされたものだ。建前は《難民解放戦線》の掃討だが――その裏で、お前を殺害しようとしていた。お前はファランドール家の娘だ。軍も政治的理由から表立って殺すことはできない――なるべく穏便に息の根を止め、《リエービチ》を回収するつもりだ」

 私の両肩を掴み、バラドは真剣な顔で囁いた――「持ち主が死ねば、《リエービチ》の所有権は無に還る」そう続ける。

「一〇年前、このことを見越してお前をファランドール家に入れることを決めた。いざというとき、家名がお前の傘となり守るだろう。たとえ俺がいなくなっても」

「……バラド?」

 不穏な言葉に、私は離れてゆくバラドにむかって腕を伸ばした。しかしそれはくうを切る――一瞬、歩きづらそうに砂利を踏んだ彼の足が目に留まったからだった。

 「大したものじゃない」バラドはそう言って、手を挙げた。

 そしてそのまま、私とは逆方向の道を進んでいったのだった。

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