(21)この手が届く範囲

 ほんのわずかな時間、痛いほどの沈黙が私たちのあいだを満たした。

「――要求?」

 クラエスは椅子の背もたれに上半身をゆだね、ゆっくりと足を組んだ。それまで彼の顔に浮かんでいた柔和な色は消え、氷のように冷たい視線がむけられる。

 膝上に置いた手を、再度、強く握りこんだ。

「ファランドール家の後継ぎに名乗り出るの」

 目を逸らさずに、クラエスをまっすぐに見据えながら、私は慎重に答えた。


 ――死の商人となれ、ユリアナ。


 頭をぎったのは、帝都に到着したばかりの日――当主であるトラウゴットと対面したときのことだ。彼は、死こそが私の原罪である、と言った。

「……あんなのは当主のれ言ですよ。あの恐ろしい男は、あなたなんて、ほんとうは歯牙にもかけていない。あなた程度の人材は他にいくらでもいる」

「じゃあ、どうして当主は私にザムエルを処刑する権利を与えたの? それって、目をかけているってことでしょう?」

「気まぐれじゃないですか? あるいは道楽。ザムエル・ファランドールも、あの男にとっては持ち駒のひとつでしかないでしょうからね」

 大げさな溜息をついたかと思えば、クラエスはふと身を乗り出して、私の顔を覗き込んだ。見慣れた淡青色の目をすがめ――「だから、滅多なことは言うもんじゃない」と低い声でささやく。

「死の商人とは、あなたの知るとおり、決して華々しいものではない。敵も味方もなく他者を殺すを与える存在だ。無為な殺戮と憎悪の連鎖を産み、それを食い物にして生きるおそろしいけだもの。――ある意味で、誰よりも人を殺す。自分の手を汚すことなく。その様は、まるで足音のない死神だ」

「……でも、私、その家の名前を持っているわ」

「貴方なら、今後、十分な資金を溜めることができるでしょう。そうしたら自分のために使いなさい。皇帝直属軍イェニチェリとファランドール家は、非常によく似ている。属領人をあえて重用し、一方で捕虜のように扱うという点でね。その使い方が、頭か肉体かで違うくらいのもの。――賠償金さえ払えば、あなたはこの家から籍を抜ける。あなたの後見人もそうだったように」

 私はうなだれた。スカートの裾を握りしめ、唇を噛む。

「私が言っていることって、そんなに考え無しに聞こえる?」

「すくなくとも私には」

「私、自分の人生を投げ出そうとか、あなたのために犠牲を払おうと考えているわけじゃないの。考えて、選択したの。――自分のためによ」

 ――確かに、私はその『名前』の重みを知らないだろう。すくなくともクラエスよりはずっと、死の実感から遠い場所にいる。

 私は無知だ。でもだからといって、選べる手段が豊富にあるわけでもない。この細腕でかき集められるものは限られている。等身大の自分でいることを選びつづけるならば、いつか、望むものを取りこぼしてしまうだろう――。

「……貴方は何もわかっていない」

 ガタン、と音を立てて、クラエスが立ち上がった。その顔を睨みつけようとした矢先、私は異変に気が付いた。

「クラエス?」

 つられて立ち上がり、慌ててその場にくずれ落ちたクラエスのもとに走り寄る。絨毯の上に座り込んだ彼の肩に触れて、その体が小刻みに震えていることを知った。

 ――尋常ではない。

 彼の横で膝を折ると、目もとを覗き込んだ――クラエスの顔は、色が抜けたように青白く、血の気がなかった。

「……っ、すみません……」

「クラエス、大丈夫? どこか痛い? 待ってて、今、お医者さんを――」

「……大丈夫です。軽い発作みたいなもので……たぶん、休薬期間に、いきなり強いものを打ったから――」

 とぎれとぎれに、苦しそうな息をするクラエスの背を、私は必死になってさする。いつもよりもずいぶん体が冷たく感じられた。クラエスは汗に濡れた横髪を掻きあげながら、弱弱しく、かぶりを振る。「だいじょうぶ」と繰り返しながら。


 ――皇帝直属軍イェニチェリの大半の人間はね、その任期を終えることもできないんだ。死ぬか、あるいは身も心もつかいものにならなくなるか。

 ――彼らは『皇帝の剣』としての能力を維持するために投薬の義務がある。


 桑雨サンウの言葉が、嵐となって私の心のなかを逆巻いた。

 不安がる私をよそに、クラエスは徐々に回復していった。数分後には体の震えも止まり、呼吸もいつもの調子に戻っていた。しかし顔色は悪いままだ。彼はふらつく体を自分の腕で支えながら立ち上がり、「心配するほどではないですから」と、私の腕を振り払った。

 その姿を見て――――ある予感が頭をかすめた。

「クラエス、あなた、休暇中って言ってたわよね? ……ほんとうに休暇なの?」

「夏期休暇ですよ。遅めのね」

「それ、嘘でしょう」

 間髪入れずに返せば、クラエスはばつが悪そうに肩を竦めた。

「……私はエレノアほど頑強じゃないんですよ。夏の終わり、任務中に一度倒れたんです。それもあって休薬と休養期間に入ったんですが、あんまり調子は戻ってないみたいですね」

 彼は乱れた髪を手櫛で乱暴に直しながら、傍にあった椅子に腰かけた。そして深呼吸をすると、瞳孔の開いた目で私をみおろす。

「若いほうが耐性があると思われがちですが、案外、相性みたいなもんがあるんですよ。私は繊細なほうなんです。――それだけ」

 そう言って、彼は眉を下げて弱弱しく笑った。

 らしくない情けない表情かおが――胸に突き刺さった。

「喧嘩の続きをする元気はないので、朝食を再開しましょう。――図書館に行くのでしょう?」

「こんな青白い顔をした人を連れ出すほど、私は鬼じゃないわ」

「いつも通りですよ。図書館なら、貴方がおとなしくしていてくれるぶん、お守りの手間もはぶけてむしろ楽です」

 どこまでもいつもどおりの振舞いを続ようとするクラエスに、私もそれ以上のことは言えずに、おとなしく自分の席に戻った。

 テーブルの上に投げ出していたフォークを握りしめる。無言で、スクランブルエッグを突き刺した。

 しかし口には運ばずに、顔を上げた。

 食欲が失せてしまったのか、あるいは最初から無かったのか――クラエスは自分のものには手をつけず、紅茶チャイだけを飲んでいた。

 私の視線に気が付くと、あからさまに渋い顔をしてみせる。

「貴方、お茶もまともにれられないんですか? ひどい味だ」

「……バラドはおいしいって飲んでくれたわよ」

 淡青色の目を睨みすえ、私は口にしかけた言葉を飲み込んで悪態だけを返した。

 ――どうせ、私の心中を言葉にしても、さっきみたいに喧嘩になるだけだろう。私は無知で、何の力もないただの小娘なのだから。そんな私の手が届く範囲は限られている。きっと今のままでは――バラドはおろか、クラエスにも届かない。

 必要なのは鉄の心臓ではなく、鉄の心臓を持つ勇気なのだ。

 私はそのとき、そう頭の片隅で考えたのだった。


 ◆


 「大丈夫」と言って聞かないクラエスに連れられ、私たちは街中へと繰り出した。彼が誘導したのは首都の誇る大図書館ではなく、軍施設が多く立ち並ぶ、一般人立ち入り禁止の街区ハーラだった。

 検問所に立つ軍人にクラエスがIDカードを見せて街区に入る。そして複雑に入り組んだ路地を行き来して、ひとつの建物にたどりついた。

「軍用図書館ですよ。ここなら、人目を気にする必要もない」

「……入って大丈夫なの?」

「機密文書はここにはない。遺失文明時代の書籍を集めて保存しているだけなので、一般人でも許可を取れば入れるんですよ。監視はつくし、保存文書によってもセキュリティレベルが違うので、すべて、というわけにはいきませんが」

 足を踏み入れた図書館は、遺失文明時代の建物を流用したドーム型の建築だった。天井までびっしりと古今東西の書物が覆い、薄暗い室内ではゆらゆらとガラス製のランプが揺れている。色とりどりのタイルを嵌めこんだ壁には染織が打ちかけられ、図書館というよりも美術館のような独特の雰囲気があった。

 一面のそれを見上げて、ほうと息をついた私を見て、クラエスがくすりと笑った。

「女学院や、ふつうに暮らしているぶんには、遺失文明期の情報は入手できませんからね。――きっと、あなたが知りたいのはこのあたりのことだろうと思って」

 私はうなずいた。そしてありがとう、とクラエスに笑いかけた。

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