(20)私の手駒

 小気味よい音を立てて割れた卵がボウルのなかで空気とともにかき混ぜられて、とろりと銅フライパンの上にすべり落ちる。熱に当てられ、たちまち色を変えはじめたそれを覗き込もうとしたところで、フライパンの取っ手を握るクラエスに目線で制された。

「油が跳ねますよ」

「――あなたって料理できるのね、クラエス」

 渋々その黄金色の食べ物から目を離すと、私はキッチンに立つクラエスの背後に回って、その立ち姿を観察した。白い襯衣シャツの上から、黒いエプロンを身に付けた彼はとても軍人にはみえない――なにせ、ポケット部分には灰色熊グリズリーのアップリケが縫われていた――私の視線に、彼は居心地が悪そうに肩を竦める。

「たまごを焼いているだけなのに、貴方は変なことをいいますね」

 嘆息まじりの言葉に「だって私はたまごを焼けないもの」と悪びれもせず答えれば、クラエスは目を見開いた。

「家だとバラドが料理していたし、女学院は寮食があったし。お茶を淹れるためにお湯を沸かすのがせいぜいね」

 自信満々で言うことじゃないでしょう、という小言に、ふふん、と笑ってみせる。

 ――ここはファランドール家の屋敷にある厨房キッチンだ。

 屋敷とはいっても一族のクラブハウス的な役割を果たすこの施設には、こうした自炊ができるような設備も整っている。

 疲れもあったのか、昨日、私は泣きながら寝入ってしまった。気が付けば寝台ベッドにいて、今朝がたは爽やかな目覚めを迎えた。――空腹とともに。

 部屋にクラエスの姿はなく、食べものを求めて廊下に出ると、どこからか焼き立てのパンの良い香りがした――それにつられてやってきた先に、この厨房があった。そしてクラエスの姿があった。

 エプロンを持ち込んでいることをみると、彼は昨日今日というレベルではないもっと以前からこの場所を利用していたのかもしれない。――私がこの家で口にしていた食事の大半は、もしかしなくても彼の手製だったのだ。どうりで何もしなくても毎日食事が出てくるわけである。

「あなたもやってみればいい。いくらなんでも、たまごを焼くくらいならできるでしょう」

「あら、私、失敗したごはんなんて食べたくないもの。ここで見てるわ。人が料理をしているのを見るのなら得意なのよ」

 そう言って、手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。そうして『見る体勢』を整えれば、クラエスはおおげさに溜息をついてみせた。嫌味が飛んでくるかと思ったが黙りこくって、あらかじめ切っていたであろうトマトと葉野菜をたまごの渦に投入する。次いでその上で香辛料スパイスの瓶をひっくり返した。バラドとくらべればずいぶん大ざっぱにみえるし、実際そうなのだろう。

 クラエスはできあがったスクランブルエッグを銅フライパンから皿に移した。水で洗った手をエプロンの裾でぬぐうと、今度はヒヨコ豆の入った小鍋の蓋を開けて中を覗き込む。煮えた豆の匂いが私の鼻をくすぐって、思わず「一口ちょうだい」と言ってしまう。

 振り返ったクラエスが、豆をすくったスプーンを私の口に突っ込んだ。それに眉をひそめながら、さじのなかの豆を味わう。形もなくなるくらいに煮くずれを起こしていたそれは、ほとんどもうペースト状といってよかった。

「塩がおおいわ」

「その態度も言い草も私の姉にそっくり。文句を言う気にもなれませんね」

「ふうん――エレノアって、そんなひとなのね」

 パンに添えるならちょうどいい。そんなことを考えながら豆を舐めていると、ふと、頭の片隅に桑雨サンウの顔がぎった。

 ――エレノアは、桑雨サンウの兄と恋人関係だったという。

 そして桑雨は、身代金を払って彼女を『買う』と言った。思わぬところに、予想だにしない関係性が転がっているものだと思う。――クラエスは、そのことを知っているのだろうか?

 しかし疑問を口にすることはなかった。個人的な話を、本人のいない場所でするのはよくないだろう。

「あ、クラエス。私、そっちの脂身の少ないほうのベーコンがいいわ。カリカリになるまで焼いてちょうだいね」

「注文が多いですね……」

「あと、あなた香辛料かけすぎよ。そこらへんに散って、くしゃみが出ちゃいそうよ」

「勝手にくしゃみをしててください」

 クラエスの華奢な背を眺めながら、私はむずむずとする鼻を手で押さえた。と思えば、すぐ盛大なくしゃみが出る。

 するとクラエスが振り返って、小さく笑った。


 クラエスの作った朝食を部屋に運ぶと、私たちはテーブルで向かい合って食事をとった。それぞれの前に置いた一枚の大皿に、トマトと葉野菜のスクランブルエッグとカリカリに焼いたベーコン、ヒヨコ豆のペーストを添えた平パン、デーツの実が並んでいる。私は自分で淹れた紅茶チャイで寝起きで乾いた喉をうるおしながら、正面に座るクラエスを眺めた。

「――ねえ、クラエス」

 無言で食事を口に運んでいたクラエスは、いぶかしげに私を見た。

「私、今日は図書館に行きたいわ。いいでしょう?」

「図書館に? それはかまいませんが……」

「その前に一度確認をしておきたいことがあるの。――私っていま、どんな状況にあるの?」

 私の問いかけに、クラエスは虚を突かれた顔をした。

「私、これから自分がどうしたらいいのか考えたいの。方向性はわかっていても、具体的な方策はないのよ。自分の立ち位置がわからなければ、動きようがないというか。《難民解放戦線》はこれからどうするつもりなの?」

「……それがわかったら苦労はしませんよ」

 クラエスは溜息をついた。しかし真剣な態度の私を見ると、仕方ない、とばかりに肩をすくめて、言葉を続けた。

「彼らの悲願は、軍需施設である《遺構第二〇二》の再稼働でしょう。あの遺構が爆発してから丸十年――その当時に周囲に飛散した汚染物質の半減期に差し掛かり、人が足を踏み入れられる時期が近づいている」

「その半減期ってやつが来たら、彼らも動くってこと?」

「おそらくは」

 立ち位置、とつぶやきながら、クラエスは右手の掌をみせて三本の指を立てた。

皇帝直属軍イェニチェリ、難民解放戦線、そしてファランドール家。この三つの思惑が絡むのが、遺構第二〇二です。そもそもこの遺構とはファランドール家の所有物であり、皇帝直属軍イェニチェリ皇帝スルタンの意思と捉えればその利権を狙う者たちがいて、難民解放戦線は正当な所有権を主張する。そもそもあの遺構は、属領アラクセス・カラバフのに建てられたものなんです」

「……聖地?」

「かつて異教徒に追い詰められたアラクセス人の集団自決があった。そんないわくつきの土地なんですよ、もともとを辿ればね」

 遺失文明期の話だろうか? そう、と私はうなずいて、手の中のフォークを握りしめた。

 スクランブルエッグを切り分けて、トマトのかけらを口のなかに放り込む。香辛料が効いていて、ピリリとした辛さを舌に感じた。

「《リエービチ》は、遺構にとって大事な鍵になるものだと聞いたわ。その三つのなかなら――私はどこのなの?」

「――貴方はファランドール家の人間でしょう?」

「じゃあどうして、あなたが一緒にいるの? クラエス」

 間髪入れず言い返した私に、クラエスは唇を引き結んだ。

 淡青色の目をすがめただけで、言葉はない。

「これは推測だけど、私の義足――《リエービチ》の所在が発覚した時点で、ファランドール家と皇帝直属軍イェニチェリの間で何らかの取引が行われたんだわ。あなたが言う話を信じるならば、ふたつの組織にとって《難民解放戦線》は権益を侵しかねない共通の『敵』よ。そのため協力体制を敷いた」

 ――数日前の『花火』を思い起こす。あれはアラクセス出身者だけでなく、帝国に対する〝パフォーマンス〟でもあったに違いない。

 一度その存在に対する認識を掘り返されてしまうと、意識せずにはいられないのが人間というものだ。帝国の属領政治は、強烈な支持者を集める一方で、内外問わず常に批判の的となっている。《女王派》に対する徹底的な排除行為に次いで、《難民解放戦線》の殲滅活動を行えば、帝国政府に対する国民からの印象の悪化は避けられない。

 ――そう考えると、しばらくは『猶予』がある、というのが私の結論だ。《難民解放戦線》が次の手を打たないかぎり、帝国政府も武力行使ができない。彼らは違法組織でこそあるものの、実質、表立ってなにかしらの破壊行為をしたわけではない。

「……そうですね。私とトラウゴット殿の会話を、あなたも聞いていたんでしたね」

「そうよ。でも、クラエス。現状そのふたつの利害は一致していても、目指す先は違うわ。エレノアはあなたを私の傍に置いて懐柔かいじゅうして、いざというとき、私をこちら側に引き込もうとしている? ――だから、あなたはほんのちょっぴり、私にやさしくなった?」

 フォークを握りしめて、私は慎重に問いかけた。

 クラエスは指を机の天板に置くと、逡巡するように息をついた。そしておとがいを上げると、私をにらみ据えた。――しかし次の瞬間、ふと、その険しい目もとがやわらいだ。

「……最終的に懐柔されたのは私のほうでしたよ」

「あらそう」

「……もっと感慨深い反応をしてくださいよ」

「そんなの分かっていたもの。クラエス、貴方って、自分が思ってるほどポーカーフェイスじゃないわ。すぐ苛々するし、物に当たるし。子どもみたいなところがあるわよね。懐柔しろって言われても、できないわ。そこはエレノアの見込み違いだし――『キナア』の件もあったし」

 ――あの日決別したふたりを、私は眺めていることしかできなかった。

 キナアの正体が何者なのか――彼らの間にどんな関係性があったのか、私には分からない。けれどもクラエスが一枚岩でないことは確かだ。彼はエレノアの身内で、部下ではあるけれども、皇帝直属軍イェニチェリから抜けたがっている。そのことは事実だ。

 私は気づかれないように、深呼吸をした。

 右ひざの上にそっと手を置き、義足の冷たい感触をたしかめる。

 ――クラエスは私の味方になってくれると言った。

 きっと、彼はそのことを裏切らないだろう。

 でも、私はもっと――情緒的な感情以上に、がほしい。

 私はバラドのことを知りたい。――なぜ彼が私にこの義足を与えたのか。裏切りながら、私を慮るような行動をするのか。それはきっと、十年前のことを知って――そのことに立ち向かわないと明らかにならない。

 私は心の中で確信していた。何か根拠があるわけではない。けれども、バラドの苦しみの根源が十年前に潜んでいることは間違いない。

 そのことを知ろうと決めたならば、私はこのまま、周囲に流されているわけにはいかないのだ。――そのために、選択をしないといけない。

「私があなたの身代金を払ってあげるわ。前言っていたような、『いつか』の話じゃない。片がついたらすぐに。すくなくとも、ファランドール家の当主にそのことを交渉する」

「……そんなことができると?」

「むこうの要求を飲むわ」

 右膝に置いた拳が震えた。ぎゅっと指を握り込みながら、平静を取りつくろう。

「その代わり――これから短い間だけ、あなたは私の手駒になるの」

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