第四章 陰謀

 翌五月十一日月曜、レスター花園一階の廊下を曲がろうとしたとたん、江田夕子はぎょっとして立ちすくんだ。

 角のむこう、これから夕子がむかうはずの玄関に、絶対にみたくなかった顔を発見したのである。

 ――麗生だ。

 テニスコートでとっくに仲間に合流しているはずの麗生が玄関前に立っているのである。

 夕子は右手にかかえたラケットを、あやうくとりおとしそうになった。麗生の前を通らなくては、外に出られなくなった・・・・・・。

 これではなんのために、みんなと時間をずらしてきたのかわからない。四限のレッスンはスポーツで、テニスコート集合なのだが、夕子は着がえにわざと時間をかけてきた。理由はもちろん、みんなからすこしでも離れていたいからだ。

 それとはべつに今日は特別な理由があった。トップ3を避けたい特別な理由が。

 だからこそギリギリまで館内でひとりぐずぐずしていたというのに、とっくにテニスコートにいると思った麗生があんなところにつっ立っているとは――。全身金しばりにあったみたいになった。とはいえいつまでも立往生しているわけにもいかない。あとすこしで四限がはじまる。いま行かなければ遅刻してしまう。

 夕子はふたたび、おそるおそる角から顔をのぞかせて玄関のほうをみた。

 麗生は横をむいて、守衛のインド人としゃべっている。幸いなことに夕子にはまだ気づいていないらしい。しかも会話はもうすぐ終わりそうな雰囲気だ。夕子はほっとした。すこし待てば、いなくなってくれるだろう。ところが顔をひっこめようとした瞬間、麗生が顔をこっちにむけた。

 あわてて目をそらしたが、大きな目は確実に夕子をとらえたにちがいなかった。なんてことだ。このまま隠れてたら絶対に変だと思われる。歩くしかない。

 ラケットを持ち直し、動悸を必死でおさえ、夕子は玄関にむかった。もとより颯爽と、とはいかない。うつむいて床の木目をみながら唇をなめ、左の指をこすりあわせながら、おずおずと進んだ。玄関についた。夕子は麗生とならんだ。視界の片隅にぼんやりと麗生の影がうつった。 

 麗生はいま意地悪い目で私をじろじろ穴のあくほど観察しているにちがいない。息がつまるが、それはもうがまんするしかない。

 「関所」をただ無事に通過できれば、それでいい。

 このまま、話しかけられなければ、それでいい。

 そう自分にいいきかせて夕子は玄関をまたごうとした。

 足を玄関から踏み段へ。

 ――よし、話しかけられない。

 あとはこのまま一直線におりて地面につきさえすれば麗生に観察される不快感からも解放される、と思ったそのとき、

「気をつけて」

 矢のような声がとんできて背中につきささった。思わずびくっとして足をとめ、下をみて、そこにあるものに夕子は初めて気づき、あやうくつまずきそうになった。

「けとばさないでね」

 踏み段と地面が接するところに、水をあふれんばかりにたたえた洗面器があったのである。夕子はびっくりした。注意されなければ気づかないで、けとばすというより、そのなかへ足をつっこんでいただろう。だがそれよりも動揺の原因となったのは、麗生に注意されたことだった。洗面器に気づかなかった自分を麗生は憎々しげににらんでいるにちがいない。とにかく謝るしかないと思って顔をあげると、麗生が踏み段をおりてきた。もうだめだ、と思って目をつぶった瞬間、

「変だと思うでしょ、あんなところにおいて」

 麗生がいった。

「あの琺瑯びきの洗面器、私のなの。足を洗うのが好きでね」

 声は驚くほど穏やかで親しげだった。近所のおばさんみたいだ。踏み段をおりきると洗面器の前にしゃがみこんだ。植木でもみるように水面をみおろして、いかにも楽しみといった顔でいった。

「これに足をひたすんだ、レッスンが終わったら。シャワーを浴びるより先にね。外でつかったほうが気持ちいいと思って、部屋から運んできたの」

 麗生が私にこんなにフレンドリーに話しかけてくるはずがない。麗生は私をだれかとまちがえているのかもしれない。いまの時間は全員同じ純白のテニスウェアをきている。ほかのことに心を奪われていたりすれば、私をほかの人とまちがえることもあるかもしれない。たとえば私と背丈が同じ遠藤幸枝などと。もしそうなら麗生は自分が話してるのが江田夕子と気づいたとたん、怒りだすかもしれない。そんなことになってはたいへんだ。夕子は遠藤幸枝の声をまねて、あいづちをうった。

「へえ」

 すると麗生はすっくと立ちあがった。洗面器を両手で抱えている。

「さわってみ。水、気持ちいいよ」

 洗面器を夕子の面前につきだした。水面をへだててまっすぐ夕子をみつめている。どうやら私をだれかとまちがえているわけではないらしい。

「ほら、遠慮しないで」

 麗生はうながす。これはなにかの罠だろうか? そうなら断わりたい。でも断わる勇気がない。しかたなく、右の人差指を水面にいれた。

 指のまわりから同心円の波紋が幾重にもひろがっていく。雲のきれ目から薄日がさし、水面がきらきら光りだした。白い琺瑯びきの洗面器の底には赤や青で牡丹となにかの鳥が描かれてある。その鳥がなんの鳥かよくみようとした瞬間、葉が一枚空からふってきて、鳥をおおいかくした。

「どう?」

「・・・・・・」

 なにも感じない。緊張で感覚が麻痺している。麗生が洗面器をもちなおした。重いだろうから、いつまでも持たせたままでは悪い。早くこたえなくては。なんてこたえよう。ひとこと「気持ちいいよ」とこたえればいいのだろうけれど、変に正直なところのある夕子は、自分がかわいいと思わないものを人にあわせて「かわいい」といえなかったりと、愛想を口にするのが大の苦手だった。

 太陽はふたたび雲にかくれた。

 麗生は執拗に感想を求めてくる。やはりなにかの罠なのだろうか。でなければ、なんのためにこんなことを――? そもそも麗生はなぜ急に親しげに接してきたのだろう。

 疑うだけの理由が夕子にはあった。

 夕子――白蘭は昨日、ファッション・ショー会場の銀華デパートを出たあと、アレーに午後いっぱいもてなされた。「最初の試験に合格したごほうび」といってアレーは観光客に人気の「カルトン・カフェー」で西洋風のランチをたっぷりごちそうしてくれたり、九江路や漢口路の赤煉瓦のオフィス街やプロテスタントの礼拝堂を案内してくれたうえ、日が暮れるとフランス租界のキャセイ・マンションズで夕食までだしてくれた。

 そして最後に魔術で白蘭をもとの姿に戻すと、江田夕子に合宿所でやってもらいたいという任務を具体的にいいわたした。任務は基本的には二日前の契約時にすでにきかされていたとおりのことだった。

「こればっかりは江田夕子じゃなきゃ、つとまらない仕事だからね。たのむよ、期待してるからね」――そう念押ししてアレーは合宿所での任務に絶対不可欠という一枚の紙を夕子にわたした。

 わたされた紙には、黒インキで絵が印刷されてあった。夕子の目にはなんら特別にはみえない、なんの感情ももたらさない絵――一羽の鳶が岩の上に立つ絵である。「スパイには特別な意味をもつ特別な絵だ。ファイナリスト全員にみせれば、必ずだれかひとりは反応をみせてくる。ファイナリストのなかにスパイがいるんだから」とアレーはいった。

 つまり任務は、鳶の絵をファイナリストひとりひとりにみせて反応をみることだった。

 いきなり鳶の絵などみせたら、みんなどんな顔をするだろう。江田夕子は気がちがったと思うにちがいない。想像しただけで体がふるえた。けれど重圧感をいつまでもひきずるのはいやだった。早くすませてしまいたいと思った。

 幸い昨夜の夕子には、いつもにはない勇気と自信があった――正確には、残っていた。昼間白蘭として千冬をハメたという自信である。しかしそれも一晩眠れば憑きものがおちたように消えてしまうかもしれなかった。だから今夜のうちにすませてしまおう、と夕子は決めた。

 赤い半月がでていた。

 フランス租界をでて夕子が花園に帰ったのは午後八時すぎだった。すでにほとんどのファイナリストが外出先から帰っていた。夕子は腹をきめて行動にうつった。各部屋をまわり、アレーに渡された絵をみせていった。みんなあっけにとられ、きょとんとして、セールスマンを追いだすみたいに冷たくドアをしめた。みんなほぼ同じ反応だった。だれがあやしいかなんてわからなかった。観察するよゆうもなかった。冷たい視線をみまい、感じまいとするだけでせいいっぱいだった。部屋にいなかった人もいる。カフェテリアや洗濯室にいる人もいた。そういった人たちにもくまなくみせていった。それでも三人足りなかった。麗生、ロレーヌ、千冬だ。ちょうどトップ3だった。

千冬だけは永遠に帰ってこないかもしれなかった。昼間、租界警察に連行されていったから、そのまま勾留されたかもしれなかった。勾留はされてなくとも、警察の厄介になったということで、ファイナリスト失格になったかもしれなかった。ほかのファイナリストはまだ知らされてないだけで、明日にもIAAから発表があるかもしれない、と夕子は期待をこめて思った。

 だとしても、麗生とロレーヌが残っていた。この二人が終わらなければ、すこしも終わった気がしないのは事実だった。特に麗生は気が重い。しかし気を軽くするには任務をすませるしかなかった。

 花園の庭で帰りを待ちぶせることにした。館のなかでは、ほかの人間の注意を引くだろうし明るい場所ではいろいろと面倒なので、人気のすくない建物の外の暗がりに身をひそめた。万が一だれかにとがめられたら、雑用係として草むしりしているふりをすることにした。そのために軍手や剪定ばさみを用意した。

 八時四十分以降、夕子は絶え間なく正門に目を走らせた。一分が一秒一秒がもどかしいほど長く感じられた。三十分たっても、三人のうち一人も姿をあらわさなかった。緊張はつのった。

 いまはいない娘、その娘がいつかは帰ってきて姿をあらわし、自分と顔を合わせることになるのだ。顔をみるだけでも苦痛なのに声をかけねばならないのだ。しかもわけのわからない行動に出なければならないのだ。一人でも早く帰ってほしいと望む一方、三人ともこのまま永遠に帰ってこないでほしい、と思ったりした。待つ時間が長くなればなるほど、気が重くなり、こわくなり、門の外でちょっとでも声や足音がきこえるとビクッと体をふるわせ、庭仕事どころか、無意識に花のつぼみをちぎったり、いまがさかりの花の根をひっこぬいたりした。

 さらに一時間がたったが、だれも帰ってこなかった。夕子はこの花園に自分の知らない門があるのではないかと疑いだして、暗闇のなかをあちこち徘徊したりした。

 それでも彼女たちが帰ってくるときは、とうとうやってきた。夕子は絵をみせることになった。

 もとより堂々と、とはいかなかった。闇にまぎれて幽霊のようにそっとしのびより、相手が電灯の近くまでくると、突然「これ、知ってる?」と背後からささやきかけ、相手がぎょっとしているあいだに紙をみせるという方法をとったのだった。

 反応は三者三様だった。

 十一時近くに帰ってきたロレーヌは、絵をつきつけられると、かすかに眉をしかめた。反応らしい反応はそれだけで、質問されると「知らない」と淡然とこたえ、なにごともなかったように去っていった。

 その一時間後に帰ってきたのは、なんと千冬だった。千冬は警察に勾留されてはいなかった。ファイナリスト失格にも――すくなくともその時点では――なっていなかった。夕子は驚きと落胆をどうにかこらえて近づいていった。千冬はひどく憔悴していたが、絵をみると目をつりあげ、「は? なにそれ、どういう意味」と居丈高にいって、夕子の顔を穴のあくほどみつめた。おそれをなした夕子が「べつに深い意味はないけど」というと、首をひねりつつ館に入っていった。

 麗生は門限ギリギリに帰ってきた。打ち上げでもあったのだろう、だいぶ酔っぱらっていて、絵をみると、びっくりするほど陽気な声で、「へえ、あなたが描いたの、上手だね」と大声でいって拍手をし、「お上手、お上手」とうたうようにいって去った。

 三人のなかでいちばんあやしいのはだれか?

 いっけん千冬のように考えられる。攻撃的な反応にでたからだ。でも、あれは絵が原因ではない、と夕子は思う。あの反応はいつもの八つ当たりと変わらない。とりわけ昨夜の千冬はたいへんな目にあったあとだった。ストレスのはけ口にしている夕子にいつも以上につらくあたっただけのような気がする。

 それにたいして麗生は――いたって上機嫌で、それらしい反応はみじんもみせなかった。

 にもかかわらず夕子には麗生があやしいとしか感じられなかった。先入観のせい、といえばそのとおりだ。

 麗生という人間は夕子の思い描くスパイのイメージにぴたりと符合する。

 活力旺盛で世渡り上手そうなところ、洞察力がありそうなところ――はじめてみたときから夕子を恐れさせた、あの大きな、ぬけめのなさそうな目。あの目は一瞬にして白蘭を江田夕子とみぬいた、と夕子は考えている。

 その麗生があの絵をみて、なにもみぬかずにいるだろうか。

 みぬいたにちがいない――アレーにたくされた絵だと。江田夕子と白蘭が同一人物とみぬいているなら、それくらいわかるはずだ。白蘭の陰にはアレーがいる。江田夕子はアレーの魔術で変身している。

 夕子は不安でたまらなくなった。スパイというものは眼中にない人間には正直な反応をみせるものだと、アレーはいった。でも麗生は江田夕子が白蘭と同一人物だと知った時点で、私を眼中にいれたにちがいない。だから正直な反応を隠し、酔っぱらいの演技をしたにちがいない。

 まったく油断がならない。

 いま私に親しげに話しかけてきたのも、演技にちがいない。必ず、ねらいがあるはずだ。ひとつではなく複数のねらいが――。

 ひとつは私のしっぽをつかむことだろう。江田夕子が白蘭のしっぽをだすのを待っているのだ。

 私だってバカではない。とりわけ今日は白蘭と同一人物とばれないように注意している。持ち物や髪の毛に白蘭の服にしみこんでいた匂いがついていないか確かめてから部屋をでたし、白蘭の名残りのうかれた調子がどこにもあらわれないように、態度が江田夕子にふさわしいように、いつも以上に暗く卑屈にしているつもりだ。ごらんのとおり猫背で声も小さい。すこしも白蘭らしくない。いまの私は江田夕子以外の何者でもないはずだ。

 それでも自分の気づかないところに白蘭の名残りがでているのだろうか? それとみて麗生は私を暗に威嚇しているのだろうか? 

威嚇――。

そう、それが麗生のもうひとつのねらいにちがいない。でなければ親しくもない私にどうして、洗面器の水に人差指をつけさせたりするのか。

 夕子の顔はこわばった。自分でそれに気づいて、まずい、と思った。麗生のねらいに気づいたことをさとられる――。威嚇以上の手段にでられたら、どうしよう。

 アレーはいった、「スパイなら、その印をみれば、必ず反応する。もっともすぐに反応をみせるとはかぎらない。ある程度時間をおいてからということも考えられる。だれがどう反応するか、合宿期間中とおして、みる必要がある」。その反応とは「いろいろ考えられる」。「あなたへの攻撃というのもありえる」――。

 「攻撃」――どんな攻撃か。

 「スパイは自分の身を守ろうとする。最悪あなたを排除しようとするかもしれない」

 「排除」――そうだ、麗生はこれから先、私を排除する計画をたてるかもしれない。いや、すでにたてているかもしれない。そして早ければ今日にでも実行するつもりかもしれない。早朝から準備していなかったと、どうしていえよう。スパイなら、昨夜のうちから仲間を集めて準備することなど朝飯前のはずだ。それでいて敵にはそんな気配は感じさせない。洗面器はもしかしたら計画のゴーサインと関係があるかもしれない。そう思ったときだった。麗生が洗面器をおろした。まだ私は感想をいってないのになぜ、と不審に思うまもなく麗生がいった。

「昨日は、晴れてたのにねえ」

 夕子はぎくっとした。麗生は「昨日は」といった。そこにどんな意味がふくまれているのかと、かんぐらずにはいられない。私が昨日白蘭に変身していたことをいっているのではないか。

「――ねえ?」

 麗生は同意を求めている。赤紫の鮮やかな牡丹を背景ににっこりと微笑している。夕子は目をそらして、

「う、うん」

 と、うわずる声でいうのがせいいっぱいだった。たちまち麗生の視線が体じゅうにつきささるのを感じた。秘密をすべてみすかされるような気がしてならない。

「今日は曇りで残念――」

 麗生はいかにものんきそうな声でいった。のびをした。雲のたれこめた空をみあげ、樹から樹へと飛びうつる小鳥を眺めている。それでいて、目の端でいちいち夕子の反応を観察している気がしてならなかった。麗生はなおもいやみのようにいった。

「晴れてたら、いうことなかったのにねえ」

 ふと夕子は洗面器に描かれていた鳥がなんの鳥かむしょうに知りたくなった。アレーからみせるようにたのまれたのと同じ、鳶の絵かもしれない、そうにちがいない。地面におかれた洗面器をみおろすと、さっき落ちた葉っぱは移動していた。底に描かれた絵をすばやくのぞきこんだ夕子は拍子ぬけした。その絵は鳶ではなかった、別の鳥の絵だった。いくら麗生でもさすがに「スパイの印」を公然と人目にさらしておくようなまねはしないはずだ。夕子は顔をあげた。それからすぐに自分がいま下をみたわけを麗生にさとられたのではないかと思って不安になった。そのときだった。麗生がいった。

「テニス、テニス!」

 いやにはしゃいだ声だった。夕子は水をあびたような心地がした。そうだ、よりによって、これからテニスなのだ。

 「テニス」――夕子が苦手なテニス――白蘭が断わったテニス。

 もしかして麗生はテニスコートで私にとどめをさすつもりかもしれない。でなかったらこのはしゃぎぶりの説明がつかない。

 うきうきとテニスコートにむかってかけだした麗生の背中を目でおいながら、夕子は刑場にひかれていく囚人のような重い足どりで歩きだした。夕子の目にはラケットは手枷に、テニスコートは刑務所に、ネットは鉄格子に、黄色いボールは拷問道具にしかみえなかった。だからみんながレッスンが始まるのも待てずにすでにラケットをふりまわしてボールをうちあい、うれしそうにはしゃいでいるのが理解できない。

 みんなかけ声をだしたり笑ったり、はちきれんばかりの声をだして、白い蝶のようにはねまわっている。

 そのなかには、あの千冬もいた。昨日銀華劇場であんな目にあったくせに、いつもと変わらない笑顔をうかべて、広子や幸枝たちとはしゃいでいる。

 夕子は昨夜からずっとふしぎでふしぎでしょうがなかった。

 なぜ千冬は帰ってこれたのか? なぜ警察に釈放されたのか?

 夕子はなにも知らなかった。新聞をみればなにかわかったかもしれないが、朝刊はカフェテリアにある。昨夜あんな絵をみせたばかりなので、みんなの集まるカフェテリアには行きたくなかった。朝食は物置部屋で昨晩アレーがよぶんにくれたパンですませたし、休み時間もあえてみんなから離れていたので、情報はなにも入らなかった。だからなにくわぬ顔をしてテニスしている千冬をみると、あらためて目を疑う思いになった。

 夕子には千冬がカラ元気をよそおっているとみぬくだけの心眼がなかった。笑顔の裏に隠された感情があるとは思いもしなかった。

 昨日あんなことがあったのに平然としている、と腹立たしく思った。さすがは日本陸軍少将小山内駿吉の姪。租界の真ん中でとんでもないことをしでかしたはずなのに、ファイナリストでいられるのも伯父の力のおかげだろう。とにかくやっかいだ。ファッション・ショーのことで白蘭を相当恨んでるだろうから、白蘭の正体が江田夕子とはっきりわかったとなれば、この花園でどんな復讐をしてくるか、わかったものではない。

消えてくれないと、安心できない――。

 空は一面どんより雲でおおわれている。風はひんやりしているのに、空気が生ぐさいのは、五百メートル先の屠殺場で家畜の屠殺がはじまったからだ。牛や豚の血が虹口クリークに流される。クリークの水はいまごろ真っ赤にそまっていることだろう。

 ついに四限がはじまった。

 アンドリュー講師は例によってさわやかに娘たちのなかに登場した。ギリギリでコートに入った麗生をみると、

「ヘーイ、麗生、遅いぞ」

 と、例によってアメリカ風にフランクに声をかけた。だがそのあと、ほんとうに遅刻した夕子をみたとたん、口を真一文字に結び、石のように顔をかたくした。遅刻に腹をたてたわけではなく、夕子の存在そのものに不快感をあらわしたようだった。すくなくとも夕子にはそうみえた。講師はほかのファイナリストをみて笑顔にもどり、

「ひとつ報告」

 と、いって白い歯をきらめかせた。あいかわらずハリウッド俳優並みのさわやかさではある。銀色の笛をさげた白いポロシャツがまぶしい。今日が曇りということを忘れるほどだ。だが夕子だけは冷めた目をしている。気にくわない講師だ、私にだけ冷たい、人をみかけで差別する。あれは偽善者だ。

「みんな今週の土曜にハルトン洋行のチャリティ・イベントがあるのは知ってるよな?」

 講師が元気いっぱいな声をはりあげると、ほとんどの娘がうなずいた。

「そのイベントにファイナリストの三人に出演してもらいたいというオファーがミスター・ハルトンからあった。音楽堂でキャンペンガールのようなことをやってもらいという」

 みな、ざわめいた。

「いい話だろう? ミスター・ハルトンはIAAの副会長だ。氏はミス摩登の審査に直接はかかわらないけど、出演して損なはずがない。そこで出演者をきめることになるが、トップ3にでてもらうことになる。現トップ3ではないぞ。今日これからきまるトップ3にだ」

 みなが緊張を走らせると、講師は目を笑わせて、

「トップ3は明日以降もまたいれかわるだろうけど、イベント出演者は今日これからきまるトップ3で固定する。うちあわせなんかするのに、メンバーがコロコロ変わっちゃ先方が困るからな」

 といって一冊のファイルをかかげてみせた。

「ここには君たちひとりひとりの土日の個人活動の評価と、今日の一限から三限までの点数がついている。すでに順位はだいたいきまってる。でもまだ、四限の評価はでていない、だからトップ3がきまるのはこれからだ。いま下にいる人も、がんばりしたいでは挽回できる。テニスの技術でアピールするもよし、協調性をアピールするもよし」

 みな顔をひきしめたところで講師はテニスのペアわけをはじめた。

 「協調性をアピールするもよし」といったとおり、ダブルスをさせるのである。

 すでに二箱、番号札を入れた箱が用意されてあった。娘たちは左右二つにわかれて左右それぞれの箱に列を作り、順番に札をひいていく。それぞれの箱の同じ番号をひきあてたものがペアを組むことになり、合計六組のペアができる。

 夕子は左の列の最後尾にならんだ。もとよりイベント出演など自分には縁のない話だと思っている。だから、この時間を無事にすごせますように、自分とレベルのちがいすぎる人と一緒になって困ることがありませんようにということだけを祈って紙を引いた。

 目をあけると、「三」の字がとびこんだ。まわりをみわたせば、すでにあちこちで同じ番号をひきあてた者同士が行きあい、歓声をあげている。そのときうしろのほうで、

「三番、三番いる?」

 と呼びかける声がした。右の箱の三番をひいた人が自分を探している。それがだれか、夕子は名のりをあげる前にたしかめようとふりかえった。

 心臓が凍りついた。できるならその場から逃げだしたかった。狼狽をあらわしたのがかえっていけなかった。むこうの注意をひいて、すぐに気づかれた。

 麗生は夕子が自分の探す相手だと知ると、血の気をひかせた。さっきのにこやかさがうそのように、目に落胆と怒りの色をあらわした。運動音痴の夕子がテニスのできる人を避けたがるように、運動神経抜群の麗生はできない人を敬遠していた。

「三番」をもったもの同士、むきあうと、

「よろしく」

 麗生はかたちだけはそういって、あっというまに王結のもとに逃げだしていった。機敏なミラベルとペアになった王結を芯からうらやましそうにみつめ、小声でなにか訴えている。なにをいっているのかまでは離れているからききとれないが、夕子には想像がついた。「最悪、あんなのと一緒になるなんて」と、こぼし、私の悪口をいっているにちがいない。王結はご愁傷さまとでもいうような顔をして麗生の髪をなでている。講師も例によって麗生のくじ運の悪さに同情した目をむけている。それだけでも耐えがたいのに、対戦相手がロレーヌ・馬秋秋ペアになった。このふたり、スポーツならなにをやらせても一流ときいている。麗生はいくぶん気をよくしたようだが、夕子は気が気でない。味方も敵もプロだらけのなかに、ひとりズブの素人がまぎれこんで試合をさせられるようなものだ。

 コートはひとつなので試合は一組ずつとなる。あとの組は対戦順に四人ずつ横にならんで待機させられた。そのあいだみんなコートをみながら、おしゃべりに花を咲かせることになる。

 もちろん夕子は三人の会話には参加させてもらえなかった。まるきり無視されている。

麗生はロレーヌにべたっとくっついている。ほんとうは仲良くないくせに、髪や腕にふれたりして私にみせつけている。三人とも私を苦しめるためだけに、必要以上に仲良さそうにふるまっているにちがいない。麗生とペアになったばっかりに地獄だ。

 それにくらべて、うしろの組のうらやましいこと。遠藤幸枝はおとなしそうな丁香とペアになったから気楽そうだし、ナンシー・風果ペアも楽しそうに遠慮のない口をききあっている。私もあんなふうにだれかと気安く話したい、心の底から笑いあいたい。

 麗生たちはやがて一組目の試合を眺めながら、声をおとしてひそひそ話をはじめた。夕子の耳にいやでも入る。

「どうして新聞の記事にならなかったんだろ」馬秋秋がいった。目をコートにむけ、一点をにらんでいる。

「まったく、ふしぎだ」ロレーヌも同じ方向をみてうなずいている。

 麗生も同じ人物を目で追っているが、口ははさまず、ふたりが話すにまかせていた。

「私、てっきり『ファイナリスト小山内千冬、ナイフ持参でショーに乱入』って記事が大きくのるとばかり思ってた」と馬秋秋。

「新聞社が書かなかったのは、伯父の力が働いたか」とロレーヌ。

「でしょ。そうとしか思えない。じゃなかったら絶対記事になってるよ、劇場にあれだけ記者がいたんだから」

「日本陸軍少将にそんな力があるとはな、中国系の新聞社をおさえるだけの」

「汚い手を使ったんだよ、きっと。警察もその手で篭絡したんだよ」

「まったくよく釈放されたもんだ、あれだけのことをしといて」

 そのとき麗生がやっと口をひらいた。

「私知ってるんだけど、その日本陸軍の伯父さんね、姪が勾留されたときいても、すぐには助けてあげようとしなかったらしいよ。上のひとにいわれてやっと腰をあげたみたい」

「へえ、ほんとか」

「姪は伯父を自慢にしてるらしいけど、伯父は姪に冷たいみたいよ。私昨夜打ち上げでデパートのおえらいさんたちと遅くまでいっしょにいたから、いろいろきいちゃったんだ」

「なにを? もしかして伯父と姪に血のつながりがないとか? べつの関係で結ばれてるとか?」

 馬秋秋が卑猥な笑いをうかべると、麗生もつりこまれたように笑った。

「そういう噂もなくはない」

 ロレーヌもくつくつと笑っている。

 横できいている夕子も思わず笑いそうになった。いま笑われているのは千冬だ。ほっとした。それどころか、元気がでてきた。私も千冬の悪口をいおうかな。悪口ならいくらでもしゃべれる。だいいち私は千冬の舞台乱入の裏話をだれよりも熟知している。その知識をいかして話せば、仲間に入れてもらえるかもしれない。夕子は目を輝かせた。

そうだ、これは仲間になるチャンスだ。あれだけ麗生を嫌っていたのに仲間になりたいとはおかしいが、むこうがこっちを認めてくれるなら話は別だ、と夕子は思った。むこうがこっちを嫌うなら、こっちも嫌いだが、むこうが好いてくれたら、友だちになってやってもいい。麗生とならんで歩けるようになったら鼻が高いからだ。

 よし、千冬の悪口をいおう。いきごんで横をみると、ちょうど馬秋秋と目があった。ドキッとしたはずみで口から言葉が勝手にとびでた。

「あの人、ずうずうしいよね」

 夕子はそういったことに自分で驚いた。きいたほうは、もっと驚いたにちがいなかった。三人は耳をピクッと動かした。目をみあわせた。それから声のきこえたほう――つまり夕子のほうへゆっくりと顔を動かした。夕子は腹をきめて言葉をついだ。

「千冬さんってよく今日、ふつうの顔してレッスンうけてるよね」

 三人はまたびっくりしたようすで、顔をみあわせた。夕子が突然会話に参入したことに馬秋秋もロレーヌもあっけにとられたようになった。麗生はしかし好奇心をそそられた顔をして、

「どうしてそう思うの」

 と、きいてきた。夕子は声をはげましていった。

「私、いろいろ知ってるの」

「いろいろって?」

「千冬さんとルドルフが付き合ってたこととか」

 「それくらい知ってるよ」と三人の目がいっているようにみえたので、声がのどにつまった。どの目も私をばかにしきっている。あらためて傷つく。同時にくやしかった。なぜそんなエラそうな顔をされなきゃならないのか。私は千冬をそそのかして舞台に乱入させた張本人だよ、立役者だよ、とでもいってやりたくなった。もとよりそんなことはいえない。でも私の力をこの三人にみせつけてやることはできる。そうだ、どうせなら本領を発揮してやろう――夕子はみずからをふるいたたせた。そして三人の視線をなるべく意識しないようにし、悪口をいうことだけに意識を集中させた。すると自然と口が動いた。夕子はいった。

「私も昨日の事件のことは知ってるんだ。千冬さんのうぬぼれぶりはひどかったよね、麗生さんに勝てると思いこんでたんだから」

 麗生は目をみひらいた。もっと驚かせてやろう、と思った夕子は自然とはっきりした口調になっていった。

「千冬さんは、麗生さんを挑発するために、わざわざ麗生さんとそっくりの衣裳をきて舞台に乱入したんだってね。ルドルフ・ルイスとならぶのは私よ、といわんばかりに」

 それをきいて麗生は昨日の怒りをよみがえらせたようだった。宙をにらみ、夕子が会話に飛び入り参加した違和感など忘れたようにいった。

「そうだよ、なんの断わりもなしにね」

 千冬への敵愾心をむきだしにした。しめしめ、と夕子は内心ほくそえんだ。でも、ほっとはできなかった。麗生はつづけてこういった。

「千冬、白蘭という人のせいにしてさ。警備員につかまったからいいものの、『ハメられた』ってしつこいのなんの」

 ドッキン、と夕子の心臓が鳴った。麗生はわざと白蘭の名をだして反応をみようとしている、と思ったのだ。

 でも、と夕子は思いなおした。麗生の口調には千冬への非難がこもっていた。千冬の主張を信じているわけではなさそうだ。白蘭にハメられた、というのは千冬の逃げ口上だとみなしているようだ。

 そうは思ったが、油断はできない。下手なことをいえば、薮蛇になる。千冬をそそのかしたのは白蘭とばれ、白蘭が麗生に敵意を抱いているとばれ――白蘭と同一人物の江田夕子は、ただではすまなくなる。

 自分を守るためには、千冬を徹底的に悪者にしたてあげるしかない。夕子はたたみかけるようにいった。

「千冬さんはウソついてるね。私きいたんだけど、あの人こそ、その、白蘭とかいう人を利用したらしいんだ。白蘭さんがデパートの会長と知りあいときいて接近して、白蘭さんをとおしてショーに出たいってお願いしたって。大トリに麗生さんがすてきなドレスをきて登場するときいて、じっとしてられなくなったみたいで、自分も同じ衣裳をきてでたいとかいって。

 デパートの人は断ったらしいけど、千冬さんがあんまりしつこいから、しかたなく衣裳だけはきせてやったんだって。でもやっぱりそれだけじゃすまなくて、とうとうあの人勝手に出演しちゃったんだってよ。大トリでルドルフさんが客席にむけて拍手したのを、きっかけに。あの拍手を自分への合図だとかんちがいしたらしいんだ。『千冬、舞台にあがっておいで』という合図だとね」

 夕子のデタラメをきいて三人はすなおに驚いている。もうばかにされていないと感じた夕子は調子にのって、

「絶対おかしいよね? そんな人がまだファイナリストのままなんてねえ。思わない?」

 大胆にも三人にそう問いかけた。分をわきまえろ、とはだれもいわなかった。三人そろって千冬にたいする怒りで頬をそめ、

「うん、おかしいと思う」と、夕子の言葉にうなずいた。

 これで自分も三人の会話への参加を認められた、と思った夕子は、せっかくだからもっと認められようと考え、千冬をもっと悪くいうことにした。

「あの人がいたら神聖なミス摩登コンテストがけがされちゃう。いくら伯父に力があるからって許されないよね?」

 はたして麗生は大きくうなずいた。

「ほんと、失格になってほしい」

「会社がクビになったのがせめてもの救いだね」馬秋秋がいった。

「え、クビになったんだ」

 夕子ははじめて知った。千冬がクビになったとは知らなかった。千冬はつねづね上海自然科学研究所に勤めているのを自慢にしていた。これで自慢の種がひとつ減ったことになる。いい気味、と思い、必要以上にニヤケそうになったが、それはどうにかおさえ、冷然としていった。

「伯父もあの人のクビまでは、とめられなかったんだね」

「みたいよ」

「本人はショックだろうね。このぶんだとトップ3から落ちるのは確実だね」

「だね」

 麗生がいちいちうなずいてくれるのがうれしく、夕子はいった。

「いくら伯父がトップ3を操作しようったって無理だよね」

「操作?」

 ロレーヌが夕子の目をみていった。自分をみて話してくれたのでロレーヌにも仲間と認めてもらえたと考え、調子づいた夕子は、

「世のなかヤラセが多いからね」

 と、もっともらしくいった。龍平からきいて、雑誌にのる名家令嬢の実態を知っている、という自負があり、自慢する気持ちもあった。気づいたら、こういっていた。

「トップ3だってヤラセなんじゃない」

 麗生とロレーヌが凍りついた。ふたりがトップ3ということを夕子は忘れていた。顔から血の気をひかせ、あわてて弁解した。

「私はその、千冬さんがトップ3失格っていいたかっただけ、髪に小刀をしこむなんて」

「そういえばさ」

 麗生がさえぎった。不快感をあらわに、いまはじめて夕子の存在に気づいたような顔をしていった。

「江田さんは、どうして昨日の事件にやたらとくわしいの?」

 そう質問される可能性を夕子はそのときまで忘却していたことに気づいた。こたえに困ると、麗生はここぞとばかりにいった。

「だれかにきいたみたいに話してたけど――、だれにきいたの?」

 自分でみてきた、といえるわけがない。夕子は全身の血の気をひかせた。

「気になるよねえ?」

 麗生は仲間の同意をあおぐ。

「うんうん、気になる気になる」

 馬秋秋が同意すると、麗生はぐいと夕子に顔をよせていった。

「教えて」

「・・・・・・」

「だれからきいたの」

「・・・・・・ある人が」

 夕子はうめくような声をもらした。麗生の目がぎらっと光った。

「ある人って?」

「・・・・・・友だち」

「友だちって、だれ? だれよ、ねえ、だれだれ」

「ちょっと、いえない」

 夕子の額に汗の粒がういた。麗生はのぞきこむようにみる。

「いって」

 麗生はささやくようにいった。夕子の耳に口をよせて、甘い声をだした。

「秘密にするから、私たちだけの」

 夕子の表情が動いた。「秘密」――その甘いひびきに夕子の心は動かされた。だれかと秘密を共有することは、友だちのいない夕子には憧れだった。秘密をうちあけたら、ひょっとしたら麗生と友だちになれるかもしれない――そんな期待がわいた。

「ね、教えて」

 麗生は上目づかいをし、猫なで声でいってくる。じゅうぶん怪しいのに、夕子の判断力は淡い期待で狂わされている。こたえれば、麗生の友だちになれるような気がした。そうだ、もしかすると麗生は最初から私に親しみを感じていたのかもしれない、だからさっき玄関で話しかけてきたのかもしれない――。

「ねえ、昨日の話を教えてくれた江田さんの友だちの名前は?」

 夕子はあえぐようにその名を口にした。

「・・・・・・白蘭」

 三人の反応はしかし、わからなかった。いった直後、ちょうど試合の順番がまわってきて、四人とも大急ぎでコートに移動しなければならなかったからである。

たいへんなことを口にしたという実感が、コートに嬉々としてとびこむ三人をみるなり、わきあがってきた。夕子はふたたび不安の坩堝に投げこまれた。コートでポジションにつくと、不安はおさまるどころか、ふくれあがった。なにしろテニスコートは夕子にとってただでさえ「牢獄」であり「拷問台」なのである。

球はいつとんでくるかわからない。開始の合図が鳴る直前、夕子は現実逃避したくなって目をとじた。するとちゃかすような声がとんできた。

「ハローハロー、起きてるかい、江田さん」

 講師アンドリューの声だった。みんなくすくす笑った。夕子は真っ赤になった。屈辱感でいっぱいになり返事する気にもなれなかった。すると講師は青い目を光らせ、夕子のところにつかつかとやってきていった。

「目をさましてやろう」

 夕子の手に黄色い球をにぎらせた。

「サーブは江田さんから。きまりだ」

 一瞬コートがしん、となった。みんなが「えーっ?!」と心のなかで文句をいった声が、夕子はきこえた気がした。

 私はどうみてもサーブするガラではない。ほかの三人がすでに本格的なかまえをとっているのにたいして、私はラケットをまともにもててさえいない。サーブなどしたら麗生に迷惑をかけ、いやな顔をされるのがオチだ。にぎらされた球をみて、夕子はけががらわしい虫でもみたように身ぶるいした。

「気合を入れるんだな」

 アンドリューはニヤッと笑って審判の位置に戻り、笛をふいた。

 試合開始となった。

 ところでサーブはどの位置から打つのだっけ――夕子はそんな基本的なことも知らなかった。いま立っているのはネットに近い右前方だが、そこからうっていいのかどうかわからない。

 どうしよう。ネットのむこうでは馬秋秋とロレーヌが待ちかまえている。冷や汗がこめかみを伝った。講師にきく気にはなれないし、麗生にはこわくてきけない。

 たぶんここからうっていいのだろう。そうであって、と祈りながら夕子は球を宙にほうりあげた。刹那、待っていたように笛が鳴った。講師が人差指をこっちにむけている。

「さがって」麗生の鋭い声がうしろからとんできた。「ベースラインのうしろに」

 夕子は自動車教習所の教官にバックしろと命じられた運転教習者のように狼狽しきって自分の体をあたふたとバックさせていった。けれどもベースラインとはどれなのか、さっぱりわからない。子どものように泣きそうな目をしたら、

「もっとうしろ」麗生がいった。奥の線を人差指でさしている。「そこだよ、そこ」

 やっとのことで指定の位置にたったが、まわりの失笑と麗生のため息が耳に入ったせいで、手足がふるえて思うように動かない。

「なにしてんの」

 麗生がいった。かなりいらだっている。これ以上待たせるわけにはいかない。夕子はふるえる左手でやみくもに球をほうりあげ、右手でやみくもにラケットをふった。

 びゅん、と風がおこり、球が遠くまでとんでいったと思った刹那、たたきつけられるような衝撃におそわれた。頭に痛みが走った。思わず目をとじた。球がすぐそばで落ちる音がきこえた。遠くに飛んだはずなのに、なぜ。

 耳を疑った夕子はまぶたをあげて目を疑った。球は足もとでバウンドしていた。球はとんでいなかった。夕子がうったと思ったのは球ではなく、自分の頭だった。

「信じられない!」

 麗生があきれ声でいった。しびれをきらしている。対戦相手も同じだった。

これ以上の失敗は許されない。三人はすばらしいプレーを披露したくてうずうずしている。それが私のせいでできないでいる。今日トップ3に選ばれなかったら、いま以上に私を恨むだろう。

「江田さん、サーブだよ、サーブ」

 講師が嘲笑まじりの声をなげ、 何度めかの開始の合図をふき鳴らした。

夕子は気合をいれた。だが、プレッシャーで体はしびれるばかりだ。だめかもしれない、と思ったときだった。

「失敗したっていいんだよ」

 声がした。幻聴ではない。たしかにだれかが、そういった。だれかはわからない。麗生ではない、馬秋秋でもロレーヌでもない、温かい声だった。

「試合はその場だけ、あとでだれも根にもたないよ」

 声はふたたびとんできた。力強い声だった。だれかが自分をはげましている。いったいだれが?

 夕子はコートの外に目を走らせた。声の主はすぐに特定できた。冷たい顔ばかりのなかにひとつ、温かい顔があった。蘇丁香だった。いちども話したことがないのに、なぜ? 蘇丁香は夕子と目があうなり、元気づけるように大きくうなずいた。そしていった。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」

 まわりの目などいっさい気にせず、声をはりあげている。あのおとなしそうな蘇丁香がである。夕子は勇気を与えられた。丁香と目をあわせ、うなずき返した。体のふるえが、しだいにおさまった。失敗してもだいじょうぶ、と思えてきた。

 夕子は球を宙にほうりあげた。球にむかってラケットをふった。

 ――うった。

 黄色い球がラケットにあたってとんでいく。ほっとした。

 いったん球のやりとりがはじまると麗生はすべての球を自分ひとりでうち返そうとした。好敵手二人が相手ではさすがにたいへんそうだったが、それでも夕子には絶対にうたそうとはしなかった。うたなくてすむのなら、それに越したことはない。だから夕子はすみにひっこんでいたが、だんだんみじめな気分になってきた。いくら球をうちたくなくても、自分だけ除外されているのは、やはりいい気分ではない。

 丁香と仲良くなりたいという気持ちが大きくなった。試合が終了したらさっきのお礼をいいにいこう。それをきっかけに友だちになれるかもしれない。私の合宿生活に希望ができた。

 だが試合が終了しても、夕子は丁香に声をかけられなかった。

 丁香は夕子たちの次に試合する組に入っていた。だから夕子はひとりぼっちでいるしかなかった。あとにしたコートを金網ごしに眺めると、すでに試合中の丁香が息をきらしていた。とんできた球を器用にうちかえしている。ペアの遠藤幸枝をカバーするような動きまでしている。夕子とはぜんぜんちがう。自分同様テニスが苦手だったら話が合っていいと思ったが、その期待ははずれた。ちょっとがっかりしていると、千冬の声が耳にとびこんだ。

「ねえ、夕子が白蘭の友だちだってほんと?」

 ぎょっとした。が、話しかけられたのは夕子ではなかった。声はやや離れたところからきこえた。みると千冬は三メートルほどむこうにいた。麗生たちの輪に入って質問している。

「白蘭って何者か、夕子はいってなかった?」

 夕子にわざときかせているのではないかと思うほど甲高い声だ。

「私あのひとにハメられたの。あの白蘭って人に」

 夕子の顔から血の気がひいた。

「白蘭ってだれ」

 麗生はそううそぶいた。麗生は冷たく千冬をあしらった。けれど麗生の声は夕子の耳には届かなかった。そのあと千冬が麗生の輪をはなれたのは、麗生たちに必要な情報をすべて教え終わったからだと思いこんだ。夕子が千冬を悪者にしたてるためについたウソが、ウソだとばれたと考え、動悸を鳴らした。

 麗生の怒ったような声がきこえた。王結と馬秋秋がちらちら自分をみている。燃えるような目だ。声が低くて言葉はききとれないが、夕子と白蘭の関係についてでも話しているのだろう。その輪に王結とミラベルがくわわった。

 サーブに失敗した時点で、陰口の的になることは覚悟していたが、実際にひそひそやられると、やっぱりこたえる。きくまい、気にしまいと思うと、よけいに意識して、低い声がなにをいっているのかまで意志とは反対にききとれるようになった。

「調子にのって――」

「遅くまでなれない夜遊びして・・・・・・だよ」

 そんな声がきこえる。

「雑用係ももったいない」

「花園にいること自体、まちがいなんだよ」

 自分のことをいってるのはまちがいないと夕子が考えたとき、さらに衝撃的な言葉が耳にとびこんだ。

「やっぱり江田は白蘭――」

 夕子の心に激震が走った。やっぱり、ばれているのだ。白蘭は私の友だちだといったけれども、麗生に「友だちってだれ」ときかれたとき、すぐにこたえず、だいぶためらってから「白蘭」といったから、ウソだと感づかれた。「江田は白蘭と同一人物」という証拠を私は与えてしまったのだ。

 それでも、それだけならまだマシだった。そのあと、さらにおそろしい言葉がきこえた。

「思いしらせてやろうよ」

 いったのは麗生だった。四人は賛成するように額を集めて、なにやらひそひそ話している。馬秋秋が手をたたいた。王結が魔女のような笑い声をあげた。次のような言葉が、断続的にききとれた。

「追いだすためには――物置部屋も――」

「早いうちに――ハルトン洋行のチャリティ・イベントで――」

 私に思いしらせるための計画をたてている、と考えて夕子は戦慄した。

 麗生はやはり私に「報復」するつもりなのだ。仲間に「ゴーサイン」をだし、計画をしくんでいる。いったいいつ、どうやって実行しようというのか。いますぐ攻撃してくる気配はなさそうだが、「物置部屋」というのがきこえた、「チャリティ・イベント」というのがきこえた。

 夕子はきこえてくる断片的な言葉をくみあわせて、次のように考えた。

 ――麗生たちは私を合宿所から「早いうちに」「追いだす」ために、「物置部屋」をおとずれ、「ハルトン洋行のチャリティ・イベント」に私を誘いだし、致命的な打撃を与えようとしている。――

 なんてことだ。結局そうなるんだったら、千冬をショーの舞台に乱入させた意味がない。昨日の苦心と歓喜は、なんだったのか・・・・・・。

 そう思ったとき、強い音が耳をうった。麗生たちはいつのまにコートわきの掲示板の前に移動していた。そこで今日の試合の組み合わせ表をこれみよがしにたたいている。

「この世の鬼だよ、麗生は」馬秋秋がほめるようにいうのがきこえた。

「私の部屋にある名簿の、この子の名前はぜんぶボロボロだよ」麗生が得々とした声でいった。

「やめなっていってるのに、ひどいんだよ」王結が笑いながらいっている。

 たたかれたのは自分の名前にちがいない、と夕子は思った。さっき考えたことはきっと現実に実行される。どうしよう。相談する相手はいない。唯一味方になってくれそうな丁香は試合中だった。

 そうこうしているうちに四限の終わりになった。講師がみんなを集めていった。

「それでは発表する。呼ばれた人は前にでるように。今日のトップ3は――」

 娘たちの顔に緊張が走った。講師は書類から顔をあげていった。

「1位、麗生。2位、ロレーヌ。――ここまでは前回と同じメンバー」

 それ以外の人間はみな落胆し、その落胆を必死で表情から消そうとつとめた。

「いっておくけど今回選ばれなくても、がっかりすることはない。チャリティ・イベントには、ほかのかたちで参加できる。さっきはいわなかったが、音楽堂出演とはべつに、チャリティ・スピーチもファイナリストにやってもらうことになってる。これはトップ3が推薦する者にやってもらおうと思う。それ以外の者も希望すれば、無料の粥を配る係として参加できる」

 トップ2に入れなかった娘たちの表情がいくらか、やわらいだ。

「それじゃあ三位の発表。この名前は今回初めてだな」

 みなの顔が希望に輝く。

「三位は、――丁香だ」

 ざわめきがおこった。みなびっくりしている。丁香自身が驚いた顔をしていた。

 だが彼女はすぐにもとの冷静な表情に戻った。足どりもおちついて、しずしずと前にでた。それが、えらそうにみえたのだろう、ほかの娘たちの目には隠しきれない不満と嫉妬の色がうかんだ。なかでもひときわ強い光を発しているのが、三位の座を奪われた千冬だった。千冬は丁香を最大のライバル視している。だからよけいに許せないようだ。

「メンバー入り、おめでとう」

 祝福される丁香を千冬はにらむ。だが長くはつづかなかった。目の光はしだいに弱くなり、ついには憂いと悲しみの影におおわれた。その目はもう丁香をみてさえいなかった。

千冬にはわかっていた――昨日あれだけのことをしてトップ3でいられるほど現実は甘くないと。講師が昨日の件にふれないでくれるぶん、まだ救われている。それでも丁香が自分にかわって三位になったというのは、我慢がならないが、憤るだけの気力はない。千冬はまったくしょんぼりしていた。ただでさえ小さな背中がいっそう小さくなったようだった。それをみたら夕子は元気がでたろうが、そのときは新トップ3になった丁香に目を釘づけにされていた。

 丁香は凛としていた。満場の嫉妬の視線にも、すこしも気おくれするようすはない。麗生とロレーヌにも負けていない。口もとには涼やかな、おちついた笑みをうかべている。おとなしそうでも度胸はあるらしい。自分にはとてもまねできない、と夕子は思った。丁香がとても遠い人のように感じられた。友だちになるなんて無理かもしれない。雑用係とトップ3。どう考えても、つりあわない。仲良くなろうとしたのが知れたら、みんな笑うだろう。

「三人は自動的にイベントの出演メンバーとなる」

 もう丁香には近づけない。もうさっきの応援のお礼をいうことさえできない――夕子は勝手に結論した。四限が終わるなり、テニスコートからかけだした。ひとりまっさきに館に帰っていった。ほんとうは汗を洗い流したかったが、シャワーをあびもせず、パウダールーム(※更衣室もかねている)にかけこんだ。自分の籠から服をひったくり、大急ぎで着がえていく。鏡はいっさいみない。きれいな顔をさんざんみたあとに自分の顔をみると、よけいにみじめな気持ちになるからだ。

 なに私だって白蘭になれば、とは思うが、ここでは変身できない。

 合宿所では江田夕子のまま、私はひとり戦うしかない。

手ぐしで髪をととのえ、パウダールームをあとにした。廊下をつっきり、階段をかけあがった。だれにも会いたくなくて夢中だった。まわりはいっさいみなかった。左も右も前も。だから階段の上の人影が目に入ったとたん、びっくりしてぎょっとしてのけぞった。

「ひっ!」

 自分でもびっくりするくらい、とん狂な声がのどをついてでた。

「驚いたなあ」

 人影がいった。日本語だった。声は笑っている。人影の正体は李龍平だった。階段の上に立っている。スーツ姿が明るい光にはえている。なつかしい姿。だれにも会いたくないといっても彼だけは例外だった。夕子は一気にうれしくなっていった。

「龍平さん」

 はずんだ声が口からでた。

「どうも」

 龍平はいった。さっきとちがって、ぶっきらぼうな声だった。表情はよくみえなかった。彼は横をむいて窓へ移動し、景色を眺めだした。

 このまえみたいに話しかけてこないのは、気を悪くしたからだと夕子は思い、自分の行動をふりかえって赤面した。出会いがしらにみっともなく驚いたり、心のなかで呼んでいるとおりに「龍平さん」となれなれしく口にだしていってしまった。なんてことをしたのだろう。弁解しなくては、と考えて、夕子はすぐにその場を去れなかった。ほかの娘がいつあらわれるかしれないにもかかわらず――彼と話さずには気がすまなかった。

 窓から薄日がさし、龍平を金色にふちどっている。

 夕子は吸いよせられたようにそばにより、隣に立ち、外を眺めた。

 花園のむこうにひろがる青い畑の麦が雲の断裂からもれる陽光にきらきらと光っている。

沈黙がつづいた。

 彼は話しかけてこない。自分の世界にとじこもった顔をしている。夕子は悲しくなった。白蘭に「夕子に会ったらルドルフ・ルイスの話をしてあげてください」といわれたのに彼は全然念頭にない顔をしている。やはり私江田夕子は美人じゃないから、彼はどうでもいいんだ。白蘭には昨日積極的に何度も(実際には二度だけど)、しつこく話しかけてきたのに。同じ自分なのに夕子が白蘭に嫉妬したそのとき、

「裏表じゃないの?」

 ふいに龍平さんがこっちをみていった。夕子はきょとんとなった。なにをいわれたのか、さっぱりわからなかった。が、彼の視線をたどって、自分のシャツの縫い目がむきだしになっているのに気づくとたちまち赤くなっていった。

「やだ、裏表逆に・・・・・・」

 あわてて着がえたせいでいままで気づかなかった。でも、いますぐ直そうとは思わなかった。直すためには、ここを離れなくてはならない。せっかく彼と話せるきっかけができたのだから、去りたくなかった。だからいった。

「このままで、いいんです」

 すると龍平は破顔して、芯から愉快そうな笑い声をたてた。

「あいかわらずおもしろいな」

 龍平が花園の館内にしのびこんだのは二回目だ。前回にひきつづき、リラダン事件の実行犯探しの一環である。今日は麗生に話をききにきた。昨日の疑問はそのまま今日にもちこされていた。

千冬はなぜ李花齢殺しの犯人にしたてあげられなくてはならなかったのか? 

蒼刀会がハメたのなら、目的はなにか?

白蘭と巧月生の関係は? 白蘭とは何者か?

龍平は千冬は無実だと思っている。根拠はないが直感だ。同じ直感で、麗生にきけば疑問がとけそうな気がしている。麗生は二年前から銀華デパートのモデルをしている。デパートの従業員ともつきあいがある。なにか知っているかもしれない。昨日は麗生は打ち上げがあるとかで話をきけなかった。だから龍平は今日ここにきた。前回は取材という名目があったが、今日はそれもなく危険をおかして花園に侵入した。守衛にはカネをつかませてある。講師連中にみつかったら、取材と称しておしきるつもりだ。そうならないうちに麗生をつかまえたい。二階にきたのは、ランチをとりにくるところをねらって待ちぶせするためだ。いまはまだ下にいるとわかっているが、龍平の気はたっていた。

 にもかかわらず夕子があがってきたとたん、その滑稽な驚きぶりをみて龍平は笑顔になった。そして夕子に話しかけようとしたが、突然むこうから「龍平さん」と親しげに呼びかけてきた。あまりに思いがけないことだったので照れてしまい、なにもいえなくなったのだった。それで窓を眺めているうちに、心のなかでふたたび麗生との問答を予行演習しはじめたのだが、夕子が隣にきたので、服を裏表にきてるのに気づいて、それをきっかけに思いきって話しかけたのだった。

「あとで直しますから」

 そういって夕子もまた笑った。龍平の笑いに心をほぐされたのだった。さっきまでファイナリストたちの冷たい笑いにかこまれていただけに、なおさらほっとして気楽になった夕子は、スカートの右ポケットに手をいれた。鉛筆をとりだして鉛筆競争の話題をふろうと思ったのである。ところが話題をふったのは龍平のほうが先だった。

「あ、そうそう。実はおたく、ルドルフ・ルイスが好きでしょう? 噂がある」

 覚えていてくれた、という喜びと、彼のほうから話題を提供してくれたといううれしさを夕子は必死でおしころして、できるだけ驚いたふりをしていった。

「え、だれからきいたんですか?」

「おたくの友だちが教えてくれたけど。あの巧氏のお得意の」

 これ以上いわなくてもわかるよね、という目を龍平はした。「友だち」とは白蘭のことにちがいなかった。

「――そうなんです、私」

 夕子は鉛筆をにぎったまま、うなずいた。ウソの気持ちを伝えたとたん、彼の目をまっすぐみられるなんておかしなことだ、と思いながら、

「私、本気でルドルフ・ルイスが好きなんです」

 と、真顔で「告白」してみせた。龍平の反応をおそるおそるうかがった。予想どおり、彼はすこしも残念そうな顔をしなかった。

「なるほどね。応援するよ」

 軽い口調だった。当然の反応だと思っても、やはりショックだった。そのショックを隠すために夕子は「自分がルドルフをどれだけ好きか」、やたらとアピールした。龍平に機会があればサインをもらってほしいだとか、お友だちなら紹介してほしいだとか、お願いまでした。

 龍平はいやな顔ひとつしなかった。むりなたのみにもかかわらず、近いうちにかなえてあげよう、といいさえした。これでいよいよ龍平さんが私に気がないことが浮きぼりになったけれど、悲しくはない、と夕子は自分にいいきかせた。これだけルドルフを好きだと強調しておけば、龍平さんを好きだとかんぐられる心配はない。ルドルフを口実に、いつでも気がねなく話せる。龍平さんと会ったうれしさをむりにおしころす必要も、彼が一度ふれた鉛筆を肌身離さずもち歩いていることを隠す必要もない。

 よし、鉛筆競争の話題をふろう。夕子はふたたびポケットの鉛筆をにぎろうとした。が、鉛筆がどこへいったのか、みつからない。ふれるのは布地ばかり糸ばかり。糸をたぐってしばらくすると、これはどうしたことか、糸の感触さえ途中から消えた。あるのは虚空ばかり。変なことになった、とあぶら汗が額にういた瞬間、コロン・・・・・・と、あたりに妙な音がたった。

「お」

 龍平が床をみて目を丸くした。

「あ」

 夕子も下をみて同じ反応をした。鉛筆が床にころがっている。自分のスカートから落ちたのだ。ポケットに穴があいていたらしい。ここへくる前はあいていなかった。鉛筆を探しているあいだに、自分であけてしまったようだ。ポケットの縫い目がもともとほつれかかっていたところへ指をつっこんでかきまわして糸を切ったかしたのだろう。穴があいたとは気づかずに指でひろげてしまい、そこから鉛筆が落下したにちがいなかった。

 あわててひろおうとしたが、いちどころがりだした鉛筆は夕子の足もとをどんどん離れていった。勢いがなくなり、やっととまったと思ったら、ほとんど龍平の足もとだった。

「すみません」

 と断って、夕子はひろうためにしゃがんだ。恥ずかしさでうなじが真っ赤になった。鉛筆をつかんで立ちあがると、龍平の顔が目の前にきた。息もふれるばかりの距離である。気まずさをごまかすために夕子は鉛筆をかざしていった。

「これ、へってると思いませんか?」

「・・・・・・へってるって?」

 意外にも龍平はどぎまぎした顔でいった。それを夕子は別の意味に解釈して、おそるおそるいった。

「先週の・・・・・・覚えてませんか?」

「あ、ああ、日記の鉛筆・・・・・・そっか、ちゃんとへらしたんだ」

 龍平の声はうわずっていた。彼は鉛筆競争をすっかり忘れていたにちがいない、と夕子は思った。傷ついた声でいった。

「・・・・・・競争に勝とうと思ったんです」

 すると龍平は意外な行動にでた。夕子の手から鉛筆を奪い、窓をむいて、

「どれ」

 といって陽の光にかざした。片手にはいつのまに彼自身の鉛筆がにぎられている。二本まとめて持った。右手で胸ポケットから銀色のコンパクトケースをひらき、定規をだした。定規を鉛筆にあてる。一本ずつ長さをはかった。

「両方とも長さはほぼ同じ。五センチ」

 龍平はいった。

「前回は俺のが七センチ、おたくのが六センチだった」

 彼はそういった。夕子は耳を疑った。龍平さんは覚えていてくれた・・・・・・!

「俺は一センチハンデがあるから、今回は同点だな」

 勝ち負けなどどうでもよかった。夕子はただうれしかった。彼が細かいことまで覚えていてくれたことが。日記を自分よりたくさん書いていたことが。二本の鉛筆は白い空を背景に凸凹の頭をよせあっている。

 そのとき、コロン・・・・・・と妙な音がした。

「あ」

 龍平が床に目をおとして声をあげた。

「わ」

 夕子も下をみて同じ反応をした。

 鉛筆がおちたのである。おちたのは夕子の鉛筆だった。龍平があやまって落としたらしい。鉛筆は龍平の足もとから夕子の足もとにころがっていた。にもかかわらず龍平はなんの躊躇もなくその場に腰をおろしてひろいあげると、

「ごめんごめん」

 と笑いながら鉛筆を返した。立ちあがって夕子の顔が目の前にきても平気な顔だった。

夕子がショックをうけたのは、鉛筆の芯が折れているのをみたからではなかった。自分のときにくらべて彼の態度があまりに軽かったからだ。鉛筆も競争も、彼にとっては自分とちがってどうでもいいものなのだと、あらためて知らされた気がした。龍平さんはもう鉛筆のことなど忘れたように音楽に耳をかたむけている。その証拠に、

「いい曲だねえ」

 窓を背に、のんきにつぶやいた。龍平さんはもう話題を変えたいのだ。ほんとうは私と「鉛筆競争」などしたくないのだ、鉛筆の長さを覚えていたのは職業柄記憶力が優れているからにすぎないのだ、と考えた夕子はすねたようにいった。

「どこがですか」

「この曲、前もかかってたよね」

 龍平は夕子の口調には気づかない顔でいった。

「だれの歌か、知ってる?」

 質問をなげて、窓の桟にひろげた両手をあて、流れる曲にききいっている。曲は階下からきこえる。ドイツ語の曲だ。事務室でまた電気蓄音機をかけているのだろう。甘くやわらかい歌声は二階までとどいてくる。ドイツ語だから歌詞はわからないが、歌手がだれかはすぐにわかった。けれど夕子は話題を変えられたことが気にくわないので、ぶっきらぼうにいった。

「マレーネ・ディートリッヒですか」

「あたり。俺レコードもってる」

 ディートリッヒ・ファンなのか、龍平の声ははずんでいる。

「これは映画『嘆きの天使』の挿入歌、曲名はドイツ語で長いよ――『イッヒ ビンバン カッフ ビフーザウ リーベ アインゲシュタルトゥ』っていうの」

 夕子はべつにどうでもよかったが、会話の流れできいた。

「意味はなんですか」

 するとなぜか龍平の顔がこわばった。

「さあ・・・・・・」

 龍平はぶっきらぼうにいった。と思うと窓から身をおこし、そのまま立ち去ろうとした。これには夕子も驚きあわて、

「あの」

 背中に呼びかけた。なにか失礼なことをいったなら、あやまろうと思ったのだ。

龍平がふりかえった。笑顔は消えていた。仮面のような顔をして彼はいった。

「窓の桟に注意して。――あげる」

 謎のような言葉を残して去っていった。夕子にはなんのことかわからない。

「鉛筆のおわび」

ぶっきらぼうな声がきこえた。龍平はふりかえりもせずに、そういった。

  イヴェレ ミア ヴァザイア・・・・・・

 ディートリッヒの歌声とともに龍平の背中は遠ざかり、カフテリアに消えた。

彼はいったい、なにをいったのか。夕子はとりあえず窓をふりかえった。桟をみると、いつのまに万年筆が一本置かれてある。さっきまでは、なかったものだ。

 夕子は茫然と眺めた。

 銀色の万年筆は陰って黒くみえる桟のうえで、一個の星のようににきらめいている。そのほうへ、そっと手をのばした。おそるおそるふれた。

指先からひんやりした感触が伝わった。それでいて龍平のぬくもりが残っているように感じられた。胸がどきどきして、夕子は刹那ほかのいっさいの感覚を忘れた。レコードの音も、カフェテリアからただようおいしそうな匂いも・・・・・・。

 次の瞬間、夕子は万引きでもするように周囲をうかがい、まわりに人がいないとわかると、つかんだ万年筆をポケットにすべりこませて脱兎のごとく階段をかけあがっていった。

 三階についた。物置部屋に入っても、警戒の視線を四方に走らせた。だれもいない。それははじめからわかっている。なのに、だれかにみられることを恐れるように寝台と棚のすきまの狭い空間にしゃがんだ。尻は床につけなかった。前のめりになり、膝を背中で隠すようにした。それからやっと右手をポケットにいれた。なかのものをつかみ、にぎった手を膝の上においた。鼓動が早まった。右手をゆっくりとひろげていった。のぞきこむようにみた。手の平には銀色の万年筆があった。

 室内は昼間にしては暗い。にもかかわらず、それは内側から光を発しているように輝き、細かいデザインまではっきりとみえた。夕子はあらためてみいった。表面には『Sheffer』というブランド名と、古代ローマを思わせる兵士や武器の絵が彫られてある。胸が鳴った。これを龍平さんは「鉛筆のおわびに」私に「あげる」と? それにしては高級品すぎる。こんなものをもらっていいのだろうか。鉛筆は芯が折れたといっても削ればまだ使えるし、なにより短くて遠からず使えなくなる予定のものだった。なのにこんないい万年筆を彼はなぜ――?

「あげる」といった声はぶっきらぼうだった。いつもとは別人のように不機嫌そうだった。私にレコードの曲名の意味をきかれてから、態度が変わった。ドイツ語で曲名をいったときは、にこにこしてたのに。あの曲を最初に話題にしたのは龍平さんのほうだ。なのに曲の意味をきかれたら顔をこわばらせたのは、どうしてだろう。

 意味を知らなかったとは考えられない。新聞記者だし、ディートリッヒ・ファンなら知らないわけがないと思う。それでは私に意味をいうのがいやだったのか? なぜ。

わからない。でも曲名の意味さえわかれば謎がとけるような気がする。彼が顔をこわばらせたわけのみならず、私に高価な万年筆をくれたわけも・・・・・・。

 夕子の心の奥底には淡い期待があった。彼が自分のことを好きなのではないかという期待である。そんなことがあるはずないと頭では否定しても、こんな高価なものをもらったら、どうしても期待してしまう。それでつい考える――曲名は彼の恋心と関係があるのかもしれない、とか、ぶっきらぼうになったのは照れ隠しかもしれない、とか。どきどきして胸が熱くなってきた。心なしか万年筆も熱をおびてきたようだ。

 私はやっぱり龍平さんに恋している――と思いかけ、夕子はあわてて否定した。

 ちがう、恋ではない。恋はいけない、恋したら気軽に話せなくなる。合宿所で唯一笑って話せる人を失うことになる。

 好きになってはいけない。思いをふりはらうように首をはげしく横にふった。すると鏡が視界に入った。みたくもない自分の顔が目に入った。幸うすそうな眉、しょぼくれた目、不格好な唇――いっきに現実にひきもどされた。こんな顔に龍平さんが恋をするわけがない。彼は俳優みたいに美青年なのだ。美人でなければ女とみないはずだ。それは白蘭になって痛いほど感じたはずだ。いっきに熱が冷めた。

あらためて自分にいいきかせる。地味女・江田夕子には龍平さんは手の届かない人。話しかけてくるのは、気まぐれでしかない。万年筆をくれたのだってきっと気まぐれだ。深い意味はない。記者だし万年筆ぐらい、いっぱい持ってるのだろう。考えるだけ時間のムダ。もらったものはもらったものとして、とりあえずしまっておこう。そう思って右手を棚にかけようとしたときだった。

 音がした。

 なにかゴソッという音が、部屋の片隅でしたように思った。夕子はギクッとしてそのままかたまった。

 軽い手紙のようなものがすべり落ちて床にあたるような音がした。部屋じゅうに視線をはわせたが、物置部屋に落ちたものは、なにもなかった。――ということは隣の音だ。夕子の顔から血の気がひいた。

 隣にだれかいる・・・・・・麗生?

 夕子はそれまで考えていたことをすべて忘れるほどおびえ、聴覚をとぎすました。

 一分が経過した。二分が経過した。

夕子は身じろぎもせず耳をすました。依然隣からはなんの音もしない。どうやら麗生がいるというのは思いちがいだったようだ。

ほっとすると空腹がおそってきた。テニスで体を使っただけに、いったん感じだすとたまらない。食べ物を補給にいくためにも早く万年筆をしまおう。そう考えた夕子はさっき棚にのばしかけた手でそのまま引き出しの把っ手をひいた。そのとき、

 ――ギイ・・・・・・

と、寝台のきしむような音がきこえた。夕子はふたたび金しばりになった。自分のたてた音ではなかった。壁のむこうからした。夕子はわななく目で壁をみつめた。

 やっぱり麗生は隣にいる。

 空腹感はふっとんだ。恐怖で金しばりになった夕子の頭にふたたび麗生たちの会話の断片からくみたてた仮説が大きな文字となってうつしだされ、はげしく明滅した。

――麗生たちは私を合宿所から「早いうちに」「追いだす」ために、「物置部屋」をおとずれ、「ハルトン洋行のチャリティ・イベント」に私を誘いだし、致命的な打撃を与えようとしている。――

 引き出しをつかんだままの右手が凍りついたように動かなくなった。万年筆をしまうことも忘れて夕子は思った。

 麗生はいまから「『物置部屋』をおとずれ」ようとしているにちがいない。

 それならなぜ、さっさとこないのか。なぜいつまでも隣室でこっちのようすをうかがっているのか?

 私が物置部屋にいるという確信をもてないからかもしれない。私が入るところを目撃したなら話はべつだが、目撃はしてないのだろう。私が三階についたとき廊下にも階段にもだれもいなかった。麗生がいつから隣室にいたかは知らない。私より先に三階にきた可能性はある。というよりその可能性が高い。麗生は私に「四限が終わったら外で足を洗う」といった。あれは私に四限が終わっても麗生は外にいると思わせ、油断させるのが目的だったのかもしれない。そうだ、私にわざわざ話しかけてきた理由が、いまになってわかった。麗生は四限終了後すぐには三階にこないという先入観を私に与え、油断させようとした。麗生は私の気づかないあいだに、私より先に三階の自室に入っている・・・・・・。

 私は麗生のあとに三階にきて部屋に入った。だから麗生は私が物置部屋に入ったかどうか目では確認していない。そこで耳で判断しようとしているのだ。壁に耳をあてているのだ。けれども私がほんとうにいるかどうか、まだ確信をもてずにいるのかもしれない。なぜなら私は物置部屋に入るときも、入ってからも、音をほとんどたてていないからだ。ドアはいつもの習慣で静かにしめたし、足音もたてなかった。万年筆をみようとしゃがみこんだときに床がきしんだけれども、隣室まで伝わるほどの音ではなかったように思う。だから麗生は壁に耳あてて、私の在室をたしかめようとしている。

 あの麗生ならそんな手間をとらずとも物置部屋のドアをノックしてたしかめそうなものだが、そうしないところをみるとよっぽど慎重にかまえているのかもしれない。たしかにコトがコトだ。まがりなりにもファイナリストをひとり合宿所から追い出すとなれば、慎重にすすめるにこしたことにはないのだろう。いまは内偵中といったところか。私の動きを把握しておこうというのだろう。そこから計画を練り、近いうちに奇襲をかけるつもりかもしれない。

 でも残念ながら内偵はばれている。麗生はいま音をたてた。私に気配をさとられまいとして音をたてずにがんばってきたみたいだけれど、私は耳がいい。そう思ったときだった。

――ボンッ

と、いう音が耳をうった。動悸が鳴った。今度は隣の音ではなかった。自分のたてた音だった。右手が引き出しの把っ手からすべりおち、棚にぶつかって音をたてたのだ。不覚だった。右手が疲れているのに気づかなかった。後悔しても遅い。いまの音は隣室に確実に届いたはずだ。

在室の証拠を与えてしまった。夕子は爆弾を爆発させてしまったみたいに動揺した。

麗生はいまにもやってくるにちがいない。

 息をつめて耳をすました。鳥の鳴き声、階下のカフェテリアのざわめき、流しの麺売りの声などがきこえる。隣室からはいまのところ、なにもきこえてこない。麗生はさっき物置部屋からした音だけでは満足できず、さらなる「証拠」を求めているのかもしれなかった。それならいよいよ音をたてるわけにはいかない。

だが同じ体勢でいるのは、いいかげん限界だった。しゃがんでいるとはいえ、尻は床につけていない。足に全体重がかかっている。時間がたつにつれ、負担と痛みが増してきた。床に尻をおろしたいが、音がたつおそれがある。せめて足の位置を変えれば、すこしでも楽になると思われたが、そうすれば床がきしみそうだった。 そうなったら相手の思うつぼだ。これ以上在室の証拠を与えてどうする。むこうはあれ以来いっさい音をたてずに気配を殺して、こっちの音を待ってがんばっているというのに。負けるわけにはいかない。これでは、がまんくらべだと苦笑するよゆうは夕子にはなかった。

 五分が経過した。

 いまだ音もなければ動きもない。隣室はなお不気味なほど静かだ。

 夕子の足の負担は限界にたっしていた。かなりしびれている。もともととぼしい体力をテニスで消耗したあとだけによけいにこたえる。これ以上耐える自信がなかった。つい弱気になる。すこしだけなら、と思った。足の位置を変えることにした。左足をそっと床にすべらせて横にたおした。ところが右足に全体重がかかったことで苦しさはかえって増した。とうてい耐えられず、右足もたおした。尻が床におちて、床がピキッと鳴った。

 心臓が口からとびだしそうになった。

 はたして隣室のドアがひらく音がした。耳をすますまでもなかった。廊下をすべるような足音がした。足音は物置部屋のまえでとまった。おそれていたことが現実になった――麗生が部屋をでて物置部屋の前に立っている!

 いまにもドアがたたかれるだろう、と思ったとき、階段のほうからべつの足音がきこえた。いまはまだ十二時半前で昼食から戻ってくるにしては早い時刻だ。けれどその人物はしのぶような足どりで階段をのぼってくる。――なぜ?

 夕子の頭に例の仮説がふたたび明滅した。

――麗生たちは私を合宿所から「早いうちに」「追いだす」ために、「物置部屋」をおとずれ、「ハルトン洋行のチャリティ・イベント」に私を誘いだし、致命的な打撃を与えようとしている。

 あがってくるのは麗生の仲間にちがいない。声をかけあわないのは私にきかれてからはまずいからだ。麗生はきっとジェスチャーで私の在室を伝えている。とすると、あらかじめ仲間を呼んでおいたのだろうか。なんのために? 物置部屋にのりこむまえに周辺をかためておくためだろうか。そんなことをしなくても私には逃げる勇気などないのに――と思っているうちに、きこえてくる足音はどんどんふえていった。

 足音は十人を越えた。いずれもしのび足でのぼってきて合計十一人、つまりはファイナリスト全員が物置部屋のまえで足をとめたように思われた。いっさいの音がやんだ。

夕子は身じろぎもせず、全神経を耳に集中させた。

なにもきこえなかった。ただドアをとおして外の人間の気配がひしひしとつたわってくる。あのドアのむこうにみんなの刺すような視線があると思うと夕子は胸もとにえぐられるような痛みを感じて息が苦しくなった。思わず、咳がもれた。全身が凍った。

 音を与えてしまった・・・・・・。

 まるで咳の音にこたえるようにドアの外で動きがおこった。いくつものほうきで廊下を掃く音がしだした。いったいなぜ昼食時間をさいてまでおおぜいで掃除をする必要があるのか。いやがらせだ、と夕子は考えた。あの人たちはイベントに誘うまえに、音で私をたっぷり苦しめようとしている。私が雑用係の仕事をせず部屋にこもっているからって、きこえよがしに掃除などをはじめたのだ。夕子の想像はとまらない。みんな私をおびえさせて楽しんでいる。ほうきの音の感じでわかる。麗生などはわざと私の動悸のリズムにあわせて手を動かしている。シャッシャッとリズムのいい音がきこえるのが、その証拠だ。

 そこまでして私を苦しめたいのか。心ない者たちのたてる音が物置部屋に侵食し、室内の酸素を徐々に奪っていく。息が苦しい。妄想がふくらみ、夕子の動悸はいっそうはげしくなった。これ以上苦しめないで、まともに息をさせて――のどがつまりそうになり、ふたたび咳がでそうになったそのとき――、

 声が、聞こえた。

 最初はだれか一人のささやくような声だった。内容はききとれない。やがて複数の声がくわわった。なにをいっているのかはききとれなかったが、ふいに一人の言葉が、はっきりときこえた。

「そういうのは、みんなでひとりずついっていかなきゃだめなんだよ」

 麗生の声だった。

「この際わがままは封印してもらおう」

 夕子は色を失った。どうやら私の処置が話題らしい。それにしても「みんなでひとりずついっていかなきゃ」とは、どういう意味だろうか。もしかしたら、と夕子は思った。チャリティ・スピーチに私を推薦するつもりではないだろうか。私に決定的な打撃をあたえるために、チャリティ・イベントに誘い出すには、それがもっとも手っ取り早い方法だろうからだ。麗生の計画がなんとなく読めた。私をおだててスピーチをやらせ、本番になったら手の平を返してひどい目にあわせるつもりにちがいない。

「わがままは封印してもらおう」とは、私にきかせるように、わざと大声でいったにちがいない。私をおびえさせて、あとでしたがわせやすくしようという魂胆なのだろう。それとも「わがままはやめて、いますぐにも『チャリティ・スピーチをやらせてください』と、自分から頭をさげてこい」と謎をかけているのだろうか。

外の声はまた小さくなったので解答はえられなかった。ただひそひそとささやきあう声のひびきだけがきこえる。内容がわからないだけに不安と恐れが大きくなった。それ以上きいていると気が狂いそうになったので夕子は耳をふさいだ。万年筆は持ったままだった。薬指と中指のあいだにはさんでいる。両の人差指で両の鼓膜をつぶれるほどぎゅうっとおさえつけた。外の音はしめだされた。

 だが完全にはしめだせなかった。麗生たちの声のひびきは蠅の羽音のように鼓膜に鳴りつづけ、脳みそに侵入して思考をかき乱し、胸にどろどろの感情をまきおこす。あの女たちはいったいいつまで、しゃべりつづけるのか。物置部屋におしかけるなら、なぜさっさとおしかけてしまわないのか。これ以上なにをしゃべる必要があるのか。

 ふと夕子は思った。もしかすると麗生が物置部屋を訪れる目的は、ほかにもあるのかもしれない。 思いあたって夕子は愕然とした。麗生はいま、江田夕子と白蘭が同一人物である証拠をつかもうと画策しているのかもしれない。――そうだ、だから仲間をよんだのだ。みんなで一斉にのりこみ、私の持ち物を強制捜査しようというのだ。私がすこしでも抵抗のそぶりをみせれば、一斉攻撃しようというのだ。

 でも幸い花園には私と白蘭が同一人物という証拠はもちこんでない――ほっとしかけて、夕子はハッとした。鞄のなかに麗生のハンカチをいれたままなのを思いだしたのだ。ハンカチは昨日劇場で白蘭として借りた。みつかったら、いいのがれできる自信はない。

ならば証拠を消すしかない。消すには――ハンカチには悪いが、燃やすしかない。

 ハンカチの入っている鞄は鏡の前の床においてある。いま座っているところからは二歩の距離だ。だが、ふめばきしむ床のうえをいくことを思うと、無限の距離に感じられた。すこしでも音をだせば証拠隠滅を悟られて、突入されるだろう。かりにいっさい床をきしませずにむこうまでたどりつけたとしても、そこからがまた難業だ。鞄からハンカチをとりださなくてはならない。鞄のなかは物がいっぱいでぐちゃぐちゃだ。ハンカチはたしか底のほうにある。なんとか音をたてずに、とりだせたとしても、燃やすのがまた難関だ。

 燃やす手段のマッチはスーツケースにある。合宿のために用意した生活用品はまだほとんどスーツケースにしまったままだった。スーツケースはドアに近い場所にある。そこまで移動するのは危険だ。移動できても、鍵がかかっている。鍵を使えば音がでる。たとえ無音であけられたとしても、マッチをみつけるまでがたいへんだ。スーツケースのどこにマッチをいれたか覚えていないからだ。ひっかきまわして探さなくてはならないが、なにしろただでさえ薄暗い物置部屋は曇りのため文字が読めないほど暗い。それかといって電灯をつけるわけにはいかない。みんなに自分の在室をわざわざ伝えることになる。肉眼をたよりになんとかみつけるしかない。

 マッチがとりだせたら、あとはハンカチを燃やすだけだが、それがまた危険だ。燃やせば臭いがする。五秒もたたないうちに廊下にもれて、かえって証拠をやすやすとつかませることになりかねない。窓をあければ臭いの漏出は防げるかもしれないが、あけるときに音がする。

 これだけの過程を想像しただけで、夕子は証拠隠滅はギブアップといいたくなった。どっとため息をつきかけて、夕子はあわてて口をつぐんだ。ため息などしたら、私が在室だと敵にはっきり伝えることになる。のみならず私の精神状態まで伝えることになる。弱みをみせてはならない。とはいえ一度大きく吸い込んだ息は吐きだす必要があった。しかたなく、たまった息を音をださないように鼻からすこしずつ小分けにして、ゆっくり時間をかけて吐きだしていった。息の音は外にはつたわらなかったはずだが、きかれたかもしれないという不安がわいた。耳の穴をふさいだままなので敵方の情勢はわからない。夕子はやむをえず右耳をふさぐ指をはずしてみた。たちまち、

「なに、あ、そういってた?」

 と、麗生のいう声が耳にとびこんだ。ドアの外はなにかバタバタしている。と、鈴の音がきこえた。階段の下のほうからと思われる。その音は徐々にのぼってくる。

なぜ、鈴? 

鈴といえば鍵を夕子は連想する。母親が上海在住中、家の鍵に鈴をつけていた。いまきこえる鈴にも鍵がついているとしか思えなかった。その鍵は物置部屋の合鍵だ。一階の守衛から借りてきたにちがいない。仲間にもってこさせたその合鍵で、麗生たちは物置部屋にノックもせず、のりこむつもりなのだ。夕子は総身から水を浴びたような気がした。こうなったら在室がばれるもなにもない。一刻も早く「証拠」を燃やすしかない。

 そのとき夕子は左の指のあいだに万年筆をはさんだままでいることに気がついた。手が耳の近くにあるため万年筆は頬にぴたりとよりそっている。そうだ、これをまず、なにをおいても大切に保管しなくては。この大切な記念品は絶対にみられたくない。麗生がつきあってるのはルドルフとわかったけど、龍平さんとどんな関係にあるかわからない。嫉妬されてはたまらない、奪われてはたまらない。夕子は万年筆をふたたびそっとポケットにすべりこませた。

 それではいよいよ「証拠品」隠滅にとりかかろう。鞄からハンカチをとりださなくては。鞄まで移動しなくては。夕子は息をつめてゆっくりと上体をかがめ、床に腹をつけていった。そうっと腹ばいになると、そうっと足をのばし、うつぶせになった。この期におよんでも床がきしむのをおそれた。全体重を腕にかけた。体勢はととのった。鞄にむかって左右の腕を交互に前にだしていった。下肢をひきずる格好。全身をわずかずつ前にすすめる。目の前の鞄めざしての匍匐前進。歩けば二歩の距離を人間一匹がなめくじのようにすすむ。滑稽なようだが、本人は真剣も真剣、額に汗の粒をうかせ、音をたてまいと死に物狂い。そのかいあって、無事鞄の前に到着した。 

 ここからはハンカチをとりだす作業になる。鞄の中身をどうやってだすか。上から手をつっこむのは危険だった。触覚だけをたよりに探すことになり音のたつのは避けられない。鞄の口を横にむけるしかなかった。夕子は背筋運動をするときのように、上体をわずかにもちあげた。そのままの体勢で両腕をあげ、前にのばした。鞄をつかんだ。鞄の口を手前にたおしていった。音がたたないように、慎重にゆっくりと。

鞄はなんとか横倒しになった。物がいっぱい、つめこまれている。ここからハンカチをみつけなくてはならない。鞄の中身をひとつずつだすしかなかった。とはいえ床に直接置けば音がでる。音を吸収させるものが必要だ。それこそハンカチでもあれば便利だった。しかし手近にはない。

 夕子は右足をもちあげた。そして右足を折りまげ、右手を右足のほうへ、荒い息がでそうになるのを必死でこらえてのばした。なんとか右足の靴下をぬがした。ぬいだ靴下を顔の前にもっていって床にしいた。布のかわりに靴下を使うことにしたのである。

 下準備がととのった。これでやっと物をだせる。鞄のいちばん上には小銭入れがあった。それをそうっとつかみ、まわりのものがドミノ式にたおれてこないよう細心の注意をはらってぬきだした。それを床にしいた靴下にそうっとのせる。この要領で鍵、ペンケース――と鞄の中身をつぎつぎと音たてることなくだしていった。

 肝心のハンカチはなかなかでてこない。靴下のスペースは徐々にへっていく。左の靴下もぬいでしいたが、それでも足りない。あとからでてくる物は、先にだした物にぶつからないよう、すきまにむりやりおくしかなかった。ぶつければ音がでるから、それこそトランプの塔をたてるみたいに神経を使う。

 緊張の連続から背中が痛みだした。汗が流れた。おちたらどうしようと気になって手もとが狂いそうになったので、汗をぬぐった。ひと息ついたのもつかのま、鼻がムズムズしだした。指に埃がついていて、とんだらしい。このままだと、くしゃみがでそうだ。まずいまずい、こらえなくては、いまくしゃみなどしたら、それこそすべてがおじゃんだ。唾液をのみこみ、息をとめる。危機はどうにか去った。ふたたび気合をいれて鞄に右手をのばし、手前のキャンディ缶をつかみ、靴下の上のヘアピンと腕時計のすきまにおこうと息をつめたときだった。

「あはははは」

 大きな笑い声が耳をうった。缶をもつ右手がびくっとふるえかけたのを必死でおさえ、夕子は息をとめて耳をすました。――麗生たちが笑っている。なにがおかしいのだろう。

「わははは」

「わっは、わっは」

 なんとも愉快そうな声に、夕子の神経は逆なでられた。頭に血がのぼり、顔がぴくぴくとふるえた。私にはくしゃみをする自由もないというのに、みんなは気楽に笑っている。私はため息ひとつ自由につけないというのに、みんなは自由に大声で話している。私は自由に歩くこともできないのに、電気をつける自由も、窓を開ける自由も、ないというのに――ふいに夕子は手にもった缶を思いきり床にたたきつけたいような、どなりだしたいような衝動にかられた。なぜ私だけが、こんなに苦しまなければならないのか。なぜ鳶の絵をみせただけで、報復されなくてはならないのか。なぜ白蘭に変身しただけで犯罪者扱いされなくてはならないのか。激情が夕子の論理を飛躍させた。なぜ美人ばかり優遇されるのか。なぜ運動音痴ではいけないのか。なぜ人とうまく話せないとばかにされるのか。

 麗生はいったい何様のつもりか。なんの権利があって人の自由を奪おうとするのか。私がこんなに苦しんでいるのも麗生のせいだ、麗生さえいなければ――死ねばいい。麗生なんて死ねばいい・・・・・・死ね! 死ね死ね! 死んでしまえ! 死なないんなら殺してやる――。

夕子は最悪の精神状態におちいっていた。これ以上証拠隠滅作業のために神経を酷使すれば、しまいまで終えないうちに爆発してしまいそうだった。自分で自分がこわくなった。外にでて新鮮な空気を吸わなくては。錯乱状態の夕子はさっきまでなら考えられないことを考えた。

――部屋をでよう。自分からみんなの前に顔をだそう。そのほうが、いつ襲われるかとおびえて待つよりも、きっと楽だ。この際なに食わぬ顔をしてドアをあけよう。そしたら私がスパイなどでないと、みんなにわかってもらえるだろう。

ただし、いまの格好のままではいけない。夕子は鏡をみる。そこには、なめくじのように床にはいつくばる我が身がうつしだされていた。服と髪が乱れ放題。これでは「変身していた」と誤解されかねない。「夕子は部屋に入るなり白蘭に変身したのに、私たちが三階にきたから江田夕子に変身しなおした。だから格好が乱れてる」などと思われてはならない。もし誤解されたら、それこそいっかんの終わりだ。私は江田夕子という日本人になりすましてコンテストに潜入したスパイという烙印をおされ、上海じゅうの晒し者になるかもしれない。そんなのいやだ。だからせめて身なりだけはととのえていこう。まずは髪から。このまえ風にふかれたときロレーヌがみて嗤っていた前髪から――そう思って額に右手をはこんだ夕子は、その手にキャンディ缶をもったままなのを忘れていた。

 缶は右手から床にすべりおち、けっこうな音をたてた。

心臓がとまったかと思った。

「・・・・・・」

 叫びだしそうになったのを、あやうくこらえた。爆弾のスイッチをおしたぐらいの衝撃だった。いまの音は確実に外にきこえた。もう前髪どころではない。夕子は外に出ようと決意したことも忘れて、動揺でいっぱいになった。

 麗生は「えたり」と心中にうなずいたにちがいない。この部屋はいまにも敵の総攻撃をうけるだろう。ドアはいまにも外からひらかれるのだ――恐怖にかなしばりになったそのとき、

 物置部屋のドアが鳴った。

 幻聴ではない。ドンドンと鳴っている。まぎれもなくだれかが外からドアをたたいている。

 ついに一斉攻撃がはじまった――と思った夕子は胸に弾丸が貫通したような痛みをおぼえると同時に大脳のみならず唇から舌まで真っ白になって、ノックの音にあわせて、けしかけられた犬みたいに床から腰をうかせ四つんばいになり、四肢をめちゃくちゃにふり動かしながらかけ走り、ドアの前にたどりつくと立ちあがって無我夢中でドアノブを回した。

 そして、あけた。

 ――いまにも、ああ、いまにも、子分を両脇にしたがえて威嚇的なポーズをとった麗生のえらそうな姿が目にとびこむにちがいない。そう覚悟した瞬間、ひらいたドアのむこうから石鹸のにおいがふわりとただよってきて、刺繍のある布靴、少女のようにほっそりとしてはいるが長い脚、青林檎色のシルクの袖、ぬれた髪の毛が目に入った。濡羽色の髪のなかには、遠慮がちな目をした大人しそうな顔があった。

 丁香だった。

ノックしてきたのは麗生ではなく、それどころか、仲良くなりたいと思っている丁香だった。まだ夢魔にとりつかれたような感覚からぬけだせてはいなかったものの、夕子の顔には血の気が戻ってきた。

丁香のまわりには麗生もその仲間もいなかった。が、みえないところに人はたくさんいるらしく、廊下は妙にざわめいている。まだ完全には安心できない。夕子は丁香に用件をたずねようと口をひらいたが、はげしい動悸のために、

「う。あ」

 と、しゃっくりのような声しかだせなかった。

 丁香は嗤わなかった。それどころではないといった感じだった。なにか切迫した状況におかれているらしく、はじめからかたい表情をしていた。しかし夕子の物問いたげな目をみると英語で決意したようにいった。

「これ・・・・・・夕子ちゃんの?」

 さしだされたものをみて夕子はふたたび全身の血の気をひかせた。丁香の手には一枚の紙があり、そこには、鳶の絵が描かれてあった。

「Why(どうして)・・・・・・」

 どうして私の部屋にあるはずのものを丁香さんがもってるの、とききたかったが、しまいまでいえなかった。だが丁香は夕子のいおうとしたことをくみとったらしく、いった。

「廊下に落ちてたらしくて」

「え? 丁香さんが拾ったんじゃないの」

 丁香はこたえるかわりに左右に目を配った。廊下を警戒しているらしい。いまならだいじょうぶと判断したのか、一歩なかへ入った。うしろでドアがひとりでにしまると、

「あのね」と、夕子に顔をよせてささやいた。

「私、たのまれたの。ほかの子に」

「?・・・・・・」

「この紙、廊下におちてたけど、昨夜夕子ちゃんがみんなにみせてまわってたのと同じ絵だと思うから、本人にたしかめてそうだったら返してほしいって」

「廊下におちてた?」

 廊下におとしたおぼえなどなかった。それどころか絵は、昨夜引き出しにしまって以来、一度も出したおぼえはない。

「だれが・・・・・・そういったの?」

「あとで教えるね」

 と、丁香はいった。廊下の人間が気になるらしかった。夕子はこたえをきかなくても、丁香にたのんだ人間がだれか、わかるような気がした。物置部屋にしのびこんで絵を盗み出すような人間は、ひとりしか考えられない。夕子は青ざめていった。

「ちょっと、確かめるね。その絵がほんとに私のか」

 部屋の奥にひきかえし、棚の引き出しをあけた。さっきまでなら考えられない大きな音を自分がたてているのにも気づかず、夢中で探した。

「・・・・・・ない」夕子は血の気をひかせていった。「そんなはずないのに」

「そしたらこれ、やっぱり夕子ちゃんの?」

 丁香がそばによってひろげた紙を夕子はわななく目で観察した。紙の右はしにある折れ目にはみおぼえがあった。自分がつけたものだ。夕子はふるえる顎を縦にふってうなずいた。

「うん・・・・・・私の」

 けれど棚からだしたおぼえはなかった。廊下に落としたおぼえはさらになかった。この絵を私の棚から盗み出した人物の目的はなにか。ひとつしか考えられなかった。私に警告することにちがいない。「これ以上ばかな真似をすれば(私が昨夜鳶の絵をみんなにみせてまわったことをいっている)ただではおかない」という警告だ。スパイが接触してきたのだ。そのスパイとは――あの人しか考えられない。夕子は重病患者のような顔を丁香にむけ、医師に病状をたずねるようにきいた。

「・・・・・・その人は、絵についてなにかいってた?」

 丁香は首を横にふっていった。

「なにも」

「その人はどうして・・・・・・直接こないで丁香さんにたのんだのかな」

「私もふしぎ。三階にあがったら、たのまれたの。変なんだよ。絵を返したら、あとで報告してほしいともいわれてる」

「報告? なんの・・・・・・?」

 丁香はこたえるか迷うような顔をしたが、やがてなにか思いついたようにいった。

「ちょっと、待っててもらえるかな」

「え」

「報告、先にすませてくる。その人、外で待ってるから。そのあとなら安心して夕子ちゃんと話せると思う。だから私また、ここに戻ってきてもいい?」

「うん。それはもちろんだけど・・・・・・」夕子は不安そうにいった。

「外に人、その人以外にもいっぱい、いるの?」

「いる」

 丁香はうなずいた。夕子は動悸を鳴らしてきいた。

「みんな、な、なにしてるの? ランチも食べないで・・・・・・」

 瞬間丁香の顔がかたくなった。質問には直接こたえず、いった。

「やっぱり・・・・・・きこえる?」

 丁香は、なにをきこえるときいたのか。夕子は直感的にわかったが、あえてきいた。

「きこえるって、なにが?」

 丁香は隠してもしかたがないと思ったのだろう、決意したようにいった。

「きいてて胸の悪くようなことを話してるのね、あの子たち」

 自分の予感はあたった、と夕子は思った。動悸が高くなった。うわずった声できいた。

「みんな、私のこと・・・・・・いいあってるの?」

 丁香は目をそらした。その目がこたえを語っている。夕子の胸はズキズキと痛んだ。

「とにかく、報告にいってまた戻ってくる」

 丁香はドアノブに手をかけた。まわす前にいちどふりかえっていった。

「みんながあんまりひどいことをいってたら私、抗議してくるね」

 丁香がいったあとしばらく夕子は感動にひたっていた。丁香さんはやっぱり、いい人だ。みんなみたいに私をばかにしない。それどころか「抗議してくる」といってくれた。テニスのとき味方してくれたイメージそのままだ。トップ3になったのに鼻にかけるようすもない。

廊下から声がきこえた。声はいくつも重なりあい、やがてざわめきとなった。丁香さんが私の報告をしている。それをきいてみんな私を悪くいっているにちがいない。でも今回はさっきほどには胸にこたえない。夕子は信じていた、丁香が自分のために抗議してくれる、と。丁香さんはきっと賢くて洞察力もすぐれているだろうから、私とすこし話しただけで私の気持ちをわかってくれただろうと思う。

だからきっとみんなにこんなふうにいってくれるにちがいない――「夕子ちゃんは無神経なあなたたちとは違うんだから。繊細な、とっても繊細な人間なんだから、物置部屋の前で話したりしないで。声が夕子ちゃんを傷つけるんだから、すこしはいたわってあげて」。夕子の目の裏にはいまさっき丁香がドアの前でみせた、きりりとした表情がうかぶ。おとなしそうな顔だちからは想像もつかない芯の強さがのぞいていた。あの感じでいわれたらロレーヌや麗生だって、おさえつけられるはずだ。ほかのファイナリストはいわずもがなだ。丁香さんはいまやトップ3だし、ほんとうに心強い。

はたして、廊下は静かになった。かわりに階段をおりる足音がしている。ぞろぞろとたくさんの足音だ。みんな退却している。丁香さんが追い返してくれた。

「報告してきたよ」

 そういって物置部屋に戻ってきた丁香を夕子は満面の笑顔で迎えた。いっぱいききたいことがあったけれども、まず口をついてでたのは、いちばん気になることだった。

「報告、だれにしたの?」

 夕子は動悸を鳴らしてこたえを待った。丁香は約束どおりこたえた。

「麗生」

 予想どおりとはいえ、やはりショックだった。

「そうなんだ」ひきつった声が夕子の口からでた。

「私のこと、どんなふうにいってた」

 きかれて丁香はためらいがちにいった。

「・・・・・・誹謗中傷的なこと」

「・・・・・・って具体的にどんな」

「『追い出す』とかなんとか。私にもよくわからないことをいろいろと。あの子たち、ひどいことをいうのね」

「・・・・・・」

「だから抗議してきた。誹謗中傷はやめなよって」

「ありがとう」夕子は感激していった。

「とても助かる。テニスのときも丁香さん、はげましてくれたでしょ。すごくうれしかった。ね、座って」

 夕子はあらためて歓迎の意をあらわした。丁香に寝台に座ってもらうと、自分もその横に腰をおろし、ねぎらうようにいった。

「私の抗議なんてして、麗生に文句いわれなかった?」

「うーん」丁香は首を右にかたむけ、

「なんかいってたかもしれない。でも平気」

 涼しい顔でいった。

「すごいね、丁香さんは。私もそんなふうに強かったら――」

「私はただ我が強いだけ。自分の好きな人に文句をいわれたら、こたえるけど、好きじゃない人になにいわれても気にならない。麗生のことは好きじゃないから」

「え」夕子は目を輝かせた。

「めずらしい。麗生さんを好きじゃない人がいるんだ」

 自分だけじゃないんだ、と思って、胸をおどらせた。

「同じ中国人だけどね、私はああいうタイプが苦手」

「そうなの?」

「あの子、流行好きでしょ。私はそうじゃないから。それに大勢で騒ぐのも苦手」

「私も、私もだよ」夕子は興奮をあらわにいった。「私も流行が、騒ぐのが、苦手」

「ほんと?」丁香も顔を輝かせた。夕子がうなずくと、ほっとしたようにいった。

「よかった。私、ちょっと憂鬱になってたの。みんなとは気があわないし、集団生活は苦手だし、コンテストには他薦で応募したから優勝に執着心もないし――脱退も考えたりして」

 意外な胸の内を明かした。と思うと丁香は、

「あれ、私・・・・・・夕子ちゃんの前では本音で話せてる」

 と自分で驚いたようにいったが、すぐに納得したように、

「でも思ったとおり」

 といって微笑した。

「え」

「最初から私、夕子ちゃんはほかの子とはちがう、と思ってた。話せる人だと」

「そうなの?」

 丁香はうなずいた。にこっと笑っていった。

「口をきくきっかけをくれたという点では麗生に感謝しないといけないかな」

 夕子は感激に身をふるわせた。

「私こんな顔だし、ぱっとしないのに」

「そうは思わない」

 丁香は断言した。夕子をみつめ、まぶしいような目をした。夕子の顔を名画でも鑑賞するようにじっくり眺め、いった。

「とても魅力的だと思うよ。夕子ちゃんの顔は個性的で美しい、ほかのファイナリストたちよりも、よっぽど」

「ほかのファイナリストより?」

 それはいいすぎだろうと夕子は思ったが、丁香は大真面目にいった。

「あの子たちには深みが感じられない。人が求めるとおりの格好をして、笑ってるだけ。機械となにも変わらない。愚かだと思う」

「私もまったく同意見」

 夕子は身をのりだしていった。興奮で悪口並みの早口になる。

「みんな愚かだよ。麗生なんてほんとはゴルフできないのに雑誌にゴルファーと書かれて得意になってるし」

「あれね」丁香がうなずいた。

「世間の人をだましてまで有名になりたいんだよね。それで人気者になったところで、むなしいだけだと思うのに。私には理解できない。だからああいう子たちと、話をする気がしない」

「わかる。でも、ひとりでいるのって、勇気いらない?」

「平気・・・・・・私、孤独には慣れてるから」

 丁香は吐き出すようにいった。

「私、家にも居場所がなかったの。母親とうまくいってなくて」

「私もだよ」夕子は思わず叫んだ。「私も母親と仲が悪いの」

 丁香が驚いた目をした。その目を夕子がみつめる。

「自分だけかと思ってた・・・・・・」

 ふたりの口から同時に同じ言葉がもれた。

「自分以外はみんな母親と仲がいいのかと思ってた」

 ふたりはうちあけあった。いままで自分の心にだけとどめてきたことを生まれて初めて吐きだした。母親に自分を否定されてきたこと、そのため自分の殻にとじこもるようになって人づきあいが苦手になったこと、自分の存在価値は自分で認めるしかなかったこと・・・・・・。夕子と丁香はすっかり意気投合した。

「ねえ夕ちゃん、私これから毎日物置部屋にきてもいいかな」

 丁香がいった。

「それはうれしいけど」

 夕子は遠慮していった。

「丁香ちゃんいいの? せっかくトップ3になったのに、私と会ってると知れたら、変に思われないかな」

「どう思われたって関係ない」

 丁香はきっぱりといった。

「私は夕子ちゃんと友だちになりたい」

 夕子の顔がこれ以上なく輝いた。いままでそんなことを夕子は人からいわれたことがなかった。それをこの丁香にいわれた。歓喜が胸におしよせた。でもあんまりよろこんではいけない。いままでずっと友だちがいなかったとばれて軽蔑される。そう思ったが、心配は無用だった。

「私こそ、お願いします」

 夕子がこたえると、丁香はこぼれんばかりのよろこびを満面にあらわし、子どものようにあけっぱなしの笑顔になったからだ。

「私たち、今日から友だちだね」

 ふたりは輝く目でみつめあった。孤独だった魂が孤独でなくなったのを夕子は感じた。

 その晩、夕子は丁香の部屋である三〇五号室を訪れに物置部屋をでた。

麗生のことを丁香に相談しようと思っていた。といっても、それが目的で訪れるわけではない。友だちとはいえ、今日なったばっかりだし、丁香はトップ3だ。遠慮があった。

丁香から招待してきたのだ。夜の七時半、同室のルームメイト、ナンシー・フォスターは南京路に出かけて留守とのことだった。

 三〇五号室にむかう途中、廊下で千冬と風果に会った。いままでとちがい夕子はたいして気にしなかった。むしろ自分にも友だちがいるとみせつけるようにして丁香の部屋のドアをノックした。

ドアがあいた。

たちまち夕子は目をひろげた。なかからあらわれたのは、金色の蝶の髪飾りを黒髪にさし、天女の羽衣をおもわせる空色の旗袍を体にまとい、細かい刺繍のある靴をはいた中国王朝の宮女だった。電灯のほの暗い光のなかで神秘な微笑をうかべている。それが丁香だった。

 丁香は訪問者の驚きを楽しむようにうきうきと体をゆらした。手にした半透明の団扇が障子のように光をすかしている。その団扇をふって、なかへ招じ入れた。ドアが夕子の背で閉じた。

 室内は広々としている。物置部屋に寝起きする身にとってはうらやましいかぎりだった。夜のことであり、中央にある電灯の光がとどくところ以外は暗いので全体はみとおせないが、二台の寝台が南北の壁に接しておかれているのや、そのあいだの空間がたっぷりあるのはわかり、それになにより窓が大きかった。西側一面窓といってよかった。

その窓の前に夕子は案内された。寝台に腰かける。丁香は茶をいれた。蓋付きの茶碗がさしだされた。白磁で胡蝶が描かれてある。なかには熱い中国茶。ふたりならんでのみ、雑談をかわした。そのうち、たがいの好きなことについて語ろうということになった。

 丁香は歴史上の中国女性が好きだといった。とりわけ悲劇の愛に身をやつした美しい女性たちを。有名なところでは西施。それと詩才にあふれた妓女たち。唐代の薛濤、魚玄機たちのすぐれた詩はすべて自分の心に刻みつけられている。でもやっぱりいちばん好きなのは班 妤だといった。前漢の成帝時代に後宮の女官だったひと。成帝の寵愛をうけたが最後には宮廷を去り悲しみと苦しみにあけくれたひと。こんなことをいったら変に思われるかもしれないけれど、私は夜ひとりで後宮女官風の格好をしているとき、自分が班 妤の生まれかわりではないかと思うことがよくある。そういって丁香は班 妤の詩を中国語で朗誦した・・・・・・。

 詩の意味は夕子にはまったくわからなかった。だが夕子は完全に魅了された。班 妤のことは知らないが、丁香がその班 妤そのものにみえた。

 丁香は夜空を眺め、詩を朗誦する。夜空は晴れて星が光り、ちぎれちぎれに流れる雲のあいまに白い月が光っていた。風がやさしくふき、窓の両脇でカーテンがそよぎ、丁香の濡羽色の髪もそよいだ。月明かりをうけた丁香の横顔は気品にあふれていた。黒髪の影は、壁の上で神秘な海藻のようにゆらめいた。

 この神聖な女性にどうして麗生の相談などできよう、という気に夕子はなった。

麗生の相談をするとしたら黒い話をいっぱいしなくてはならない。私の黒い秘密――魔術師アレーと結んだ契約、変身のこと、銀華劇場でのことも・・・・・・。話せば、私の卑しさと愚かさを明かすことになる。きけば、丁香ちゃんはきっと私を軽蔑する。

 なぜなら丁香ちゃんはこういった。班 妤は美しかったが、美貌を利用するようなことはしなかった。その芸術的才能と聡明さが魅力となって貴い人をひきつけたのだ。才ゆえにライバルたちにひどく嫉妬されたが、彼女はいつでも清楚で慎ましやかだった。そう話す丁香に、清楚と慎ましやかと対極にある自分の行動はとても話せないと思った。

丁香はこうもいった。班 妤が徳を忘れることがなかったのは、成帝への本物の愛があったからこそだ。彼女は富貴などをものともしていなかった。ひとりの男性を愛することに喜びを感じ、最後まで寄りそうことだけを願っていた。宮廷を追われても成帝を愛しつづけ、思いを詩にすることで孤独をしのび、成帝が亡くなってのちは稜を守った――。

 真の愛は自分を犠牲にする。自分を忘れさせ、愛する人にすべてを捧げさせる。たとえそのために悲劇を負うことになったとしても。愛こそがこの世でもっとも大切なもの。私は愛があればなにもいらない。丁香は熱をこめてくりかえした。愛のためなら命を投げだせる。夕子は丁香にだれか愛する男性がいるのかと、ききたくなった。でも遠慮が先にたってきけなかった。

さらに丁香は夕子に意味深長にこんなことをいった。私は母親の愛にめぐまれなかったからこそ、自分の愛を大切にする。私はどんな人を好きになっても自分の気持ちをごまかしたりなどしない。人を慕う気持ちはそれだけで尊いことなのだから、愛することをおそれる必要はない――まるで夕子に思う男性がいるのをみぬいているような口ぶりだった。

夕子は自分の部屋に帰ったあと、レッスンの宿題を片づけるつもりだった。

なのに物置部屋に戻って机がわりの円卓にむかっても、ぜんぜん集中できなかった。丁香の話の影響だろう、李龍平のことが思われてならなかった。愛することをおそれる必要はない、という言葉がやたら耳に残っていた。夕子はほとんど無意識に龍平の万年筆をだして眺めた。龍平とかわした会話の一語一語を思いかえした。龍平のいった言葉の意味を考えた。

 だいぶたってから、やるべきことをやらなくては、と円卓にプリントをひろげたが、手につかなかった。一分もしないうちに、龍平の面影が目の裏にちらつき、あっというまに心を支配してしまう。これではだめだと万年筆をおいて宿題にとりかかっても、龍平のことを考えないとすぐ物足りない思いにおそわれる。物思いを中断し、宿題にとりかかり――をくりかえしてどうにか宿題を終らせたときにはもう午前一時近くになっていた。

 三階はすっかり静かになっていた。月曜日ということもあり麗生をはじめとする遊び好きとして知られる娘たちも二時間まえには帰寮して、いまはもう寝床についたようだった。花園全体が眠りにおちたようにしんとしていた。すでに昼ほどには警戒していなかったとはいえ、今日はもう麗生たちにイベントに誘われることはないのだと思うと夕子は全身の神経がゆるむのを感じた。

 夕子は便箋を一枚、プリントの上にひろげた。べつに龍平に手紙を書こうと思ったわけではなかった。龍平の万年筆を使ってみたかったのかもしれない。気づいたら胸のときめくままに万年筆を便箋の上に走らせていた。たちまち思いもかけなかった文章ができあがった。正視にたえず、赤面して目をそらした。夕子は無意識にこう書いていた――「龍平さん、私、あなたに恋してしまったの」。

私はやっぱり心の底では彼に恋しているのだろうか。好きという気持ちは、否定すればうそになる。でも恋といえるほど大それた気持ちにはなっていないはず。だったら私はなぜこんな文を書いたのか。そもそもなにを望んで便箋をひろげたりしたのか。龍平さんに手紙を送るつもりなのか。なにを伝えようというのか。こんな文章は絶対に送れない。

 その日は万年筆をそれ以上走らせることはなかった。

けれども二日後には、夕子は李龍平宛の手紙を完成させてしまっていた。

「李龍平様へ

 花園でしばらく見かけませんが、お元気ですか?

 いつもお会いできたら報告しようと思うことがあって、火曜日から特にお昼にはあの二階の踊り場のあたりなどをぶらぶらしていましたが、いらっしゃらなかったようですね。

 ところで急にお手紙などだして、ごめんなさい。友人の白蘭が李さんの自宅の住所を教えてくれたので送ってしまいました。

 このごろなかなかお会いできないので、すこしさみしいです。

 李さんは話すととてもおもしろいから、私楽しみにしてるんです。

 私は人に『変』といわれることが多いんですけど、李さんは私とちがったなにかが変わっている気がして、ほかの男の人とも全然ちがうなにかがあって、話しやすいんです。

 でもいまはほかにもうひとり話しやすい人ができました。実は私にも花園にひとり友だちができたんです。

 それは丁香さんです。

 彼女はトップ3なのに謙虚で、人をみかけだけで判断しない賢い人、世俗的なこと物質的なことを超越した、とても心の清らかな人なんです。なにより私にすばらしく好意をもってくれています。

 だから私も彼女の友情にこたえようと、ほかの人とのあいだで少々いやなことがあっても、いまは一生懸命なんです。

 実は恥ずかしいことに私はまだ雑用係のままですが、新しい友だちのおかげで成績も最初よりはあがってる気がします。もうすこしでステップアップできそうなんです。今のところは予感でしかありませんが、でも毎日勉強して、きっと実現してみせます。

 だからどうか、みていて下さい。

 実は、もうお気づきかどうかわかりませんが、いま私は李さんにもらった万年筆で書いています。とっても書きやすいですね。すごくよい万年筆なので大切にします。こんなにいいものを下さって、ほんとうに感謝しています。

私も今度なにかお礼がしたいです。なにか李さんのほうでいるもの、必要なことがあったらいってください。(なにぶん職のない未成年なのでできることはかぎられるかもしれませんが。でもちゃんと、ご希望にそうようにします。)

 私はただでさえルドルフ・ルイスのことなどでいろいろ面倒なことをお願いしたりしていますので・・・・・・いつでも、いってください。

 今度会ったときにでも。

 そのときを楽しみにしています。

 そういえば友人の白蘭もよろしく、といっていました。

 土曜日にはハルトン洋行のチャリティ・イベントがありますね。花園のメンバーも半分以上が参加します。

私は雑用係なので行けませんが、白蘭は参加するそうです。パトロンの魔術師アレーさんが来賓として招待されていて、そのつれというかたちで行くそうです。

 李さんも取材で行きますよね。もし白蘭に会ったら機会をみつけて、ぜひ話しかけてあげてください。面白い話をなにかきけるかもしれませんよ。

それでは。お返事待ってます。        江田夕子


 追伸: この前花園の事務室でかかっていたマレーネ・ディートリッヒの歌、気に入ったのですが、ドイツ語の曲名をどうしてもおぼえられず、思いきって事務室に入ってレコードのジャケットをみてメモしようかとも考えたのですが、人にみられたらどんな誤解をされるかわからず、IAA本部の目も光っていそうなので、できませんでした。それだけにいまはあの曲名の意味が気になってしかたありません。

 I hope to hear that song again next time.(今度またあの曲をきけたらいいです。) 」

この手紙のなかで夕子はひとつだけウソをついている。

チャリティ・イベントに「私は雑用係なので行けません」というくだりである。雑用係でも希望すれば参加できた。夕子が行けないのは、白蘭として行かなくてはならないからだった。アレーの関係で来賓として行くことになったのだ。そうは書けないから、「雑用係でいけない」とした。「もし白蘭に会ったら機会をみつけて、ぜひ話しかけてあげてください」というのは、白蘭になっても龍平と話したいから書いた。

 全体的に要領を得ない文面ではあった。それだけに、ここには夕子の龍平へのもやもやとした思いがつまっているといえた。書いたあとは、いちども読み返さなかった。自分がなにを書いたか自覚したら、恥ずかしくて送れないと思ったからである。

 翌十四日木曜、夕子は合宿所のポストではなく、徒歩二分のところにあるポストへ、この手紙を投函した。

 午後三時すぎのことだった。

 ポストから手を放したあとも、胸がどきどきした。夕子は祈るような思いで天をあおいだ。

傾きはじめた太陽が、淡い青空に金色に輝いていた。

 そのころ龍平は、空をみるよゆうもなかった。

猛然と自動車を走らせていた。花園から十キロほど南に行った路だった。行く手にひろがる菜畑にも蓮華野にも目もくれていない。空にとけこみそうに淡いベビー・ブルーの背広をきているのに、龍平の顔には思いつめたような陰があった。

ファッション・ショーから四日がたつが、龍平はいまだ疑問をとけていなかった。

千冬はなぜ李花齢殺しの犯人にしたてあげられなくてはならなかったのか? 

蒼刀会がハメたのなら、目的はなにか?

麗生から話をきけば、なにかわかるのではないかと思った。麗生は司会とモデルとショーで重要な役割を果たしているし、デパート関係者に友人もいる。

 だから龍平は麗生に接触した。月曜は花園にしのびこんで、火曜はカフェで会って、水曜は租界の競馬場で会って。そのたびに、はぐらかされてきた。火曜も水曜も麗生が指定した場所と時間だったにもかかわらず。

 そして今日また、呼び出しの電話があった。いいかげんにしてくれ、といいたくなった。どうせまた適当なことをいってはぐらかすつもりだろう、と思った。

が、今日は電話がかかってきた時間が、昨日までとはちがった。火曜と水曜は午後にかかってきたのに、今日は朝早くだった。そこにわずかな期待があった。

それにしても待ち合わせ場所に龍華寺を指定してきたのは不審だった。龍華寺は租界外の辺鄙な場所にある。昨日までの指定場所のカフェや競馬場は租界内にあった。

しかも龍華寺は国民党警備司令部の隣にある。

司令部裏には刑場がある。国民党政権にはむかう人間が送りこまれ、ひそかに拘禁、はては処刑される場所である。つい三か月前も二十四人の青年が共産党員というだけで集団処刑されたばかりだ。白い門のむこうにはいまだって殺されるのを待つだけの青年がたくさん監禁されている。

 そんな不吉な場所の近くに自分を呼びよせた意図はなんなのか。麗生を疑いたくなる。あいつは本気で話す気があるのか。 この三日間のはぐらかしようからすると麗生は確実になにかを知っている。それどころか麗生自身が千冬をハメるのに一枚かんでいたふしがある。麗生はもしかしたら蒼刀会員かもしれない――。

疑惑は急速にふくらんだ。龍華寺には麗生といっしょに屈強な蒼刀会員たちが待ちうけているかもしれない。麗生が蒼刀会員なら、龍華寺を指定したのはふしぎどころか、きわめて自然といえる。蒼刀会と国民党は密接に結びついている。蒼刀会は俺がこれ以上よけいなことを探らないようヤキをいれ、場合によってはそのまま隣の刑場にぶちこむつもりかもしれない――。

車窓には田園の風景が流れる。羊や水牛が顔をだす。雲雀がとびかう。少女が蓬をつんでいる。しかしのどかな光景ばかりではなかった。いまも国民党衛兵らしき男が四人、視界をよぎった。街路樹の横を軍服をみせびらかすように歩き、前にいた行脚僧や驢馬ひきを目で威嚇し、脇によらせていた。いやな光景だった。龍平は不吉な予感をふくらませた。

行く手には緑の波がある。そこから七層の仏塔が天にむかってつきぬけていた。

 龍華寺である。

 寺を囲む黄色い塀に龍平は自動車を横づけにした。降りて門にむかう。警戒の目を走らせた。門のまわりには蒼刀会員らしき人間はいなかった。それどころか、ふつうの参拝客の姿もない。

 みえるものといっては大木に仏殿、石畳、銅製の鼎。無人である。ただ、さっきまで人がいた証拠に鼎には数本の線香がたてられ、煙を吐いていた。煙は音もなくまいあがり、石畳に影をゆらめかせている。

きこえるものといっては、樹齢幾百年にもなる大木の葉が風にざわめく音ばかり。

 さすがは千七百年前の三国時代に創建された龍華寺、俗界を忘れさせる静寂にみちている。

だがいまは俗界を忘れるわけにはいかない。麗生に会わなくてはならない。それにしてもどこにいるのか。龍華寺のどことはきかなかった。龍華寺は南北に長い。仏殿は奥にいくつもつづいている。龍平は最初の仏殿をくぐった。なかには僧侶と参詣人がまばらだがいた。しかし麗生はいない。奥の仏殿も同じだった。これ以上くぐる仏殿がなくなったというとき、ひとりの女性が目に入った。

 その女性は蔵経楼のわきの物置場のような手押し車やはしごなどがごちゃごちゃとおかれてあるなかに、ひとりしゃがんで本を読みふけっていた。表紙には『易経』とある。麗生ではないと判断して、いきかけた龍平は目をみひらいた。

麗生と古典――想像もしない組みあわせだったので、よくみもしないでちがうときめつけたが、その女性は麗生だった。それにしても驚きだ。麗生のようすはいつもとはまるでちがった。みためも別人みたいだ。化粧は欠かさないはずなのに今日はすっぴん。髪もいつもなら手入れがしつくしてあるのに今日はおろしてあるだけで、なんの飾りもない。旗袍も阿媽さんみたいに地味なのを着ていた。これではみのがしそうにもなる。

龍平が近づいても、麗生はなお本を読んでいた。いつもなら離れていても目ざとく自分をみつけて声をかけてくる麗生がだ。わざと気づかないふりをしているのだろうか。なにか罠がしかけられているのかもしれない。すきをみせてはならない。龍平は全身の毛穴をひきしめて、

「麗生」と声をかけた。

「・・・・・・ああ、小龍(シャオロン)」

 麗生は本から顔をあげ、いった。

「来てくれたの。――遠いところごくろうさま」

 眠りからさめたばかりのような声だった。だまされてなるものかと龍平は思い、挑戦するようにいった。

「こんな場所に俺を呼びだしたわけは?」

「ここが好きだから。ここは私の隠れ家みたいなところ。ひとりになりたいときに足をはこぶ」

 麗生はさっきと変わらないのんびりとした口調でいった。

「そんなひみつの場所だったら、俺じゃなく恋人のルドルフを呼べばよかったんじゃ?」

 麗生はそれにはこたえず、意味深長な笑みをうかべていった。

「ここ、租界からはなれているぶん、人もすくなくて落ちつくでしょ?」

 西側一面には花壇がひらけていて紅い 瑰や蓮華草の花びらが、まるで海からきたようなさわやかな風にそよいでいる。樹々のざわめきと小鳥のさえずりにまじって、僧侶のうたうような声がきこえた。

「落ちつかないな。みえないところにだれかが隠れてると思うと」

 龍平はそういって麗生の反応をみた。反応があったら、蒼刀会員かだれかが、そのへんにひそんでいる証拠だと思った。

「だれが隠れてるの。お坊さんしかみえないよ」

 麗生はとぼけ顔でいった。が、ふいになにか思いついたように息をはずませていった。

「でも、もしかして、小龍も・・・・・・そんな気が、したの?」

 龍平の目が鋭く光った。

「そんな気って?」

「あそこに・・・・・・みえる気がした?」

 麗生は手前の仏殿をみた。その一点を指さしていった。

「ちょうどあの回廊だよ」

 龍平は思わず身がまえた。麗生が人差指を動かしたのは蒼刀会員を呼ぶ合図ではないかと疑ったのである。しかし仏殿の回廊に人気はなかった。朱塗りの柱と赤い灯籠がつらなっているばかりである。

「私には、みえる」

 麗生は立ちあがった。人差指は同じ方向をむいている。

「幼いころの自分が。――昔、私あそこを歩いたの。ずっと昔、まだほんの小さかった子どもの頃」

 声が興奮している。

「ねえ、みえてこない? 三歳ぐらいの小さな赤い旗袍をきた私が歩いてるのが、じっとみてると、みえてこない? ちょこちょこと、おぼつかない足どりで歩いてるのが」

 目を異様に輝かせ、とり憑かれたように回廊にむかって歩きだした。麗生は気がふれたのか? いや、これは演技かもしれない。

「悪いけど俺、ひまじゃないんだ」

 龍平は冷たくいった。

「月曜から、おたくにふりまわされてるんだ。そろそろ本題に入ってもらっても、いいころだよな?」

 すると麗生はふりかえった。龍平にむきなおった。満面に笑みをひろげた。問いかけにこたえるかわりに、いった。

「変わってないよねえ、小龍は」

 いつもの口調に戻っている。

「あのころもいまみたいに自分の用意した質問を一刻も早くきりださなきゃと焦ってたよね。二年前の十月のファッションショー、覚えてるでしょ? おたがいルーキーだったよね。小龍は上海時報の新人記者で初取材、私は新人モデルで初舞台」

 龍平に口をはさむ隙を与えず、次の言葉をついだ。

「私も成長したと思わない? お嬢さま育ちにしては健闘してるほうでしょ。親の力を借りずに女塾卒業後は明星映画学校に入って演技の勉強して、学費のためにモデル業もつづけて。まあ体力と気力だけは自信があるから、負けるわけにはいかないんだよね、自分にも他人にも」

 龍平に一歩近づいていった。

「だって私、女の頂点に立ちたいから。それが私の夢。地位と名声を手に入れてみんなから尊敬されたい。そのためにはミス摩登でグランプリを勝ちとる必要がある。だからいまは必死。優勝するためにはなんだってする気でいるし、そうするしかないの」

「なんのいいわけだ?」

 龍平はさえぎった。皮肉な笑いをうかべている。

「わけのわからない組織にとりいってることの、いいわけか?」

 もし麗生が蒼刀会にとりいってるなら、組織とは蒼刀会のことだとピンとくるはずだった。

「・・・・・・」

 麗生は棒をのんだような顔をした。狼狽があらわれている。だが狼狽はすぐにべつの表情に隠された。

「人にみせる私だけが本当の私だと思わないで」

 麗生は哀しげな表情をつくっていった。

「私だって不安になるの。だって私、自分がそれほど魅力的な人間じゃないって知ってるから。ふつうよりきれいとはいわれてるけどロレーヌほどじゃないし、特技があるわけでも、きわだった個性があるわけでもない。努力で補えない部分ってあるでしょ。だから私なんかはいろんな人に会って自分を売ってくしかないの。人と話すのは得意だし、度胸だけはあるから。小龍なら、わかってくれるでしょ?」

「わかんないね」

 龍平は冷たくかぶりをふった。

「いっただろう、はぐらかされるのはもうたくさんだ。こっちも曖昧なきき方をしたから、いけなかった。この際、ズバリきこう」

「・・・・・・」

 麗生の顔に緊張が走った。

「おたく、この前のファッション・ショーで小山内千冬をハメるのに加担しただろう?」

「・・・・・・なにいってんの、千冬を『ハメた』ってなに?」

「とぼけないでくれよ。千冬は舞台で『私は、ハメられたんです』と叫んでただろう。あれはウソじゃない、顔でわかった。舞台に小刀をもちこんだのは、本人の意思じゃない。デパートの人間がしこんだんだろ?」

「千冬にとっては人をだますぐらいはお茶の子だよ。演技の勉強してるし、犯罪者なんだからね。でも私の目はごまかせない。あの小刀は花齢さん(龍平の母親)の胸に刺さってたのと同じだった。千冬こそはリラダン事件の実行犯――殺人犯だよ。舞台にのりこんでルドルフを傷つけたのだって凶暴な意思のあらわれ」

「そうかな」龍平は鼻で笑うようにいった。

「殺人犯がわざわざ殺人の証拠品である凶器をもって舞台に乱入したりするかな?」

「するよ、千冬なら。舞台をみてルドルフが私に心変わりしたと思って理性が崩壊したんでしょ」

「理性を崩壊させたのはだれだ。おたくだろう。舞台でこれみよがしにルドルフといちゃついたのは、わざとじゃないのか?」

「私がなんのためにそんなことするの」

 麗生はふきだしそうな顔になっていった。

「小龍、それは深読みのしすぎってもんよ」

「でも俺は知ってる。千冬をショーに招待したのは、おたくだってな」

 麗生は一瞬顔をこわばらせたが、すぐにひらきなおったようにいった。

「そうだよ、悪い? 千冬がルドルフとつきあってるのは自分だけと思いこんでたのが癪だったから、みせつけてやっただけだよ」

「千冬を招待した目的は、ほんとにそれだけか?」

「ほんとだよ」

 龍平は麗生の目をのぞきこむようにみてから、

「まあいい」うす笑いし、突然質問を変えた。「白蘭は知ってるな?」

「それ、いまの話と関係ある?」

「知らないとはいわせないぞ。おたくが劇場で白蘭と話してたのは、みてるんだ」

「白蘭を知ってたら、どうだっていうの」

「おたくは警官の前では知らないふりをしたよな」

「してない。警官は私になにもきかなかった」

「とぼけたってむだだ。昨日警官は千冬にこういった――『白蘭という人は、あなたが自分の都合のいいように作った架空の人間でしょう?』。千冬はいった――『きめつけないでください、ほかの人にきけばわかります。どうしてきいてくれないんですか』。そのとき白蘭は実在する、といってやれば、千冬は救われたのに、おたくは黙ってた。わざと白蘭を知らないふりを、したんじゃないか」

「なんのために、そんなこと」

「語るにおちるだな。おたくはやっぱり白蘭を知ってたんだろう。なのに知らないふりをした。莫部長もだ。つまりおたくらは同じ穴のむじなってことだ」

「私が莫部長と同じ穴って? そりゃ同じ銀華デパートに雇われてる身ではあるけど」

「そういう意味じゃないのはわかってるだろ。ある組織の仲間ってことだ。白蘭もそこに入ってるな?」

「なんのことだかさっぱりだって」

「俺は知ってる、白蘭は千冬をそそのかしてた。俺はふたりの隣にいたから知ってる。ファッション・ショー中、白蘭は千冬の隣に座って、千冬が舞台に行くようしきりと説得してた。そのときはきいてても、なんのことかよくわかんなかったけど、あとになってわかった。おたくは最初から知ってたんだろう?」

「知るわけないよ。私が白蘭に会ったのは、あの日が初めてだよ」

「でも白蘭が何者かはきいてるよな? 自称巧月生のお気に入りで、魔術師アレーのつれってこと以外にも知っていることはあるはずだ。白蘭は蒼刀会員なんだろう?」

「小龍もしつこいね。知らないことは話せない。どうしてそんなに蒼刀会にこだわるの?」

「俺はリラダン事件をおこしたのは蒼刀会だと思ってる。だから無実の人間を蒼刀会が実行犯にしたてあげようとしたと思うとみすごせないんだよ」

「リラダン事件の真犯人は日本人でしょ? 蒼刀会じゃないよ」

「俺が蒼刀会を疑うにはわけがある」

 龍平はうすく笑っていった。

「蒼刀会は李花齢邸を奪った。息子の俺にはなんの連絡もなくだよ。昨日やられて今日知ったんだ、同僚記者からきいてね」

 李花齢邸――龍平の母親の邸は、フランス租界にあった。もとは実業家ミシェル・スピールマンの別邸のひとつで、花齢がスピールマンの愛人になった一九一三年に贈られたものだ。スピールマンは別れたあとも、とりかえそうとはしなかった。二十年近く花齢はその家に住みつづけた。龍平はその家で育った。いまは独立して里弄(上海の集合住宅の一)に住んでいるが、あの家はなつかしい。

 それが突然蒼刀会のものになった。まさに青天の霹靂だった。もう自分はあの家に自由に出入りできなくなったのだ。こみあげる悔しさと怒りはひとかたではない。

「奪ったのは正確には蒼刀会会長巧月生だ。巧の目的はなにか? ひとつしか考えられない。証拠隠滅だ」

「・・・・・・証拠?」

「俺が想像するに、母はどこかにリラダン事件の真相につながるモノを残してる。警察はみつけなかったけど、きっとどこかに隠してある。俺はそう思ってあの家を何度も捜索した。でも巧月生はそれをやられては困ると思ったんだろう。自分でみつけて処分したいと考えた。それで邸をのっとった。それこそ蒼刀会が事件に関わってるなによりの証拠じゃないか。巧月生は事件の黒幕だろう。そうでないという証拠があるか?」

麗生は一瞬目を泳がせた。しかしすぐにいった。

「証拠隠滅が目的なら、もっと早くやってるでしょ。いまさらやるかな。事件からもうすぐで一か月半になるのに」

「蒼刀会は事件から一か月半になるのに、小山内千冬をリラダン事件の実行犯にしたてあげようとしただろう?」

「それこそ証拠のない、いいがかりでしょ」

「まあ蒼刀会は目的は果たせなかったからな。千冬は伯父のおかげで逮捕と新聞沙汰になるのを免れた。しかもトップ3落ちこそしたものの、ファイナリストのままだ」

 龍平はいった。すると麗生は首をかしげていった。

「それはどうかな。千冬がこれからもファイナリストでいられるとは限んないと思うけどな」

「どういうことだ?」

 きかれると、麗生は千冬を憎むような目をしていった。

「小山内千冬は、来週にはいなくなってるかも」

「どうしてだ」

「チャリティ・イベントでまたなんかしでかすかもしれないから」

「やけに自信まんまんだな。そういやあ千冬はトップ3たちにチャリティ・スピーチに推薦されて、音楽堂にあがるらしいな」

「そうだよ」

「麗生、なんかたくらんでるな? 千冬にまたなんかする気か?」

 いわれて麗生はハッとした顔になって、笑顔をはりつけ、

「とんでもない」と、ごまかすようにいった。

「推薦したのはチャンスを与えたいと思ってのこと。千冬がなんかしでかすかもしれない、といったのは人間緊張するとどうなるかわかんないから」

 龍平はごまかされなかった。麗生は千冬がファイナリストではいられなくなる計画をたてているのではないか? あるいはそのような命令を蒼刀会からうけているのではないか?

「正直にいってくれよ。チャリティ・イベントでなにをたくらんでる? 隠してもムダだ。おたくには小山内千冬への敵意がある」

 鋭い目で麗生を探るようにみた。麗生は目をそらし、ヤケをおこしたようにいった。

「そりゃ敵意はあるよ。もつなっていうほうがむり。千冬は合宿初日に『麗生はリラダン事件の実行犯』って私を中傷したんだよ」

「ちょっと待て待て。中傷かどうかはともかく、IAA本部に電話したのは千冬だったのか?」

「それはわかってない。でも私がそう思うの」

「思いこみだろ」

 龍平がきめつけるようにいうと、麗生は逆上していった。

「イベントにくればわかるよ。千冬が自分で自分の罪を告白するだろうから」

「どういうことだ。まさかチャリティ・スピーチで告白とやらをさせるつもりか?」

 龍平は憶測を口にしたが、麗生はかぶりをふっていった。

「いっとくけど私はなんもたくらんでないから。千冬が自発的に罪を告白したくなるだろうって予想をのべただけ」

「そうはきこえなかったぞ。千冬が『イベントでまたなんかしでかすかもしれない』といったときも、『来週にはいなくなってる』といったときも確信にみちた声だったぞ」

「なんとでもいいなよ」

「まあいい、当日になればわかることだ。チャリティ・イベントには取材で行くことになってるから」

 麗生はイベントで千冬に決定的打撃を与えるつもりなのだろう、と龍平は考えた。麗生の希望もあるだろうが、蒼刀会の意向をうけてのことだろうと推測した。蒼刀会はファッション・ショーでの失敗をチャリティ・イベントでとりかえそうというにちがいない。ファッション・ショーでは千冬に中途半端な打撃しか与えられなかった。今度は伯父小山内将軍の力でも助けられない状況に千冬を追いこむ計画にちがいない。その目的は謎だが、麗生は計画の実行者に指名されたようだ。すべては麗生が蒼刀会員であるという前提に立った上での推測ではあるが――。

「最後にひとつだけ質問させてくれ」

 龍平はふたたび光る目を麗生にすえていった。

「おたく、蒼刀会員だろう?」

 すると麗生ははげしくかぶりをふった。

「もうやめて」

 悲鳴のような声をあげていった。

「そんな話、もういや。したくない・・・・・・ここにきてまで」

 駄々っ子のようにわめきだした。龍平は驚いた。こんな麗生をみるのは初めてだった。だがこのときは、これもごまかしの一種としか思わなかった。怒りをとおりこし、あきれていった。

「楽だよなあ、そうやって逃げられたら」

 麗生は傷ついた顔をした。そして突然龍平の手をにぎっていった。

「私だって、つらいんだから」

 さっきまでとはうって変わった、切々たる声だった。麗生はまっすぐ龍平をみつめていった。

「ねえ小龍、私が仏さまを拝みにくるのは、なんのためだと思う?」

 麗生の目はぬれたように光っていた。龍平は目をそらした。

「ルドルフに悪いだろ」

 軽くいって手をふりほどこうとした。だが麗生ははなさなかった。龍平の手をいっそう強くにぎっていった。

「私がルドルフ・ルイスと本気でつきあってると思う?」

「・・・・・・」

「ねえ?」

「放してくれないかな」

 龍平はいった。麗生の顔に悲しみの陰がよぎった。だがそれは一瞬だった。麗生は手をはなした。

「解放してあげる」

 いつもの口調でいった。

「今度会うのはチャリティ・イベント、明後日だね」

「ああ」

「バイバイ。私はまだここで読書のつづきがあるから」

「じゃあ」

 龍平はひとり、きた道をひきかえした。

 陽はだいぶおちている。仏殿の屋根が夕日にそまって赤銅色に光っている。

「ひとあしすすめば、ひとつとせ・・・・・・」

 うしろから麗生の歌声ともつぶやきともつかぬ声がきこえた。

「ふたあしすすめば、ふたつとせ・・・・・・一歩すすめば年をとる」

 哀しげな声だった。龍平はふりかえろうとはしなかった。せつない歌声はむなしく落陽にとけていく。

「くぐりぬけ、くぐりぬけ、十九になって・・・・・・」

このときどうして麗生の葛藤に気づかなかったのだろうと龍平はあとになって後悔することになる。

千冬にたいする麗生の感情を一面的にしか、龍平はとらえていなかった。麗生はけっして千冬に打撃を与えることに乗り気ではなかった。麗生はたしかに悩んでいた。そのヒントはいっぱいあった。いつになく地味な格好をしていこと、古典を読んでいたこと、おかしな歌を歌ったこと・・・・・・。

しかしこのときの龍平はなにも気づかずにいた。チャリティ・イベントでとんでもない悲劇がおころうとは考えてもいなかった。もし麗生の真情に気づいていたら、悲劇は避けられたかもしれなかった――。

カーンカーン・・・・・・。

寺の鐘は鳴りわたる。

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