第三章 銀華ファッション・ショー 〈対・小山内千冬〉

「みた? いまの」

「みたみた!」

 五月晴れした日曜の昼を美国式(アメリカン・スタイル)ですごそうと、ウッドゥン・ベッドとよばれる木煉瓦をしきつめた一級道路ナンキン・ロードにやってきた人びとは、たったいま鈴をならして颯爽とかけぬけていった二台の黄包車(人力車)に目をみはり、ささやきあった。

 おりしも二台は『ケリー・アンド・ウォルシュ書店』と『チョコレート・ショップ』のあいだを通りぬけていったが、交差点の中心に立つ赤いターバンをまいたインド人交通巡査の停止の合図をうけて停車したところだった。

 おかげで人びとは、気になる二台をじっくりと眺める機会にめぐまれた。赤信号の合図で停車した自動車やバスの運転手も首をのばして、そのほうに視線をそそいでいる。

 二台の黄包車とも高級で真新しい。車輪は金環のようにきらめき、刺繍入りのクッションは真白でまぶしいほどだ。日に焼けた黒い車夫たちも誇らしげである。

 それより人目をひいたのは、ふたりの乗客だった。

 一台目に座っているのは、なんとも奇妙な男だった。黒眼鏡と帽子をつけているのはまだいいとして、この陽気にもかかわらず全身を真っ黒な布でおおい、首から口まで金色のスカーフでぐるぐるまきにしているのは、どうみても暑苦しいし、おかしい。そのくせ胸に真っ白な花を一輪飾っているところをみると、洒落っ気はあるようだ。年は三十代から五十代のあいだらしいが、いったいどんな顔をしているのだろう、と人びとは首をひねって、ある有名人を連想した。その有名人は胸にいつも白い薔薇をさしている。が、車上の男がさしているのは薔薇ではなくカーネーションなので、その有名人とはちがうかもしれない。

 それよりもみなをひきつけたのは、二台目に乗っている女性だった。

 二十歳前後で、世にも美しい。体型もすばらしい。身にまとったシルクの旗袍は、めりはりのある体の曲線をきわだたせている。スリットは陽にきらめき、微風にゆれる裾は真白な長い脚をみえかくれさせている。

 男たちがそのほうへ気をとられたのは、むりもない。

 何人かの遠慮を知らない中国人モダン・ボーイが、あからさまによっていった。

 ある青年などはさっきまでほかの娘に声をかけていたのに、その娘を放って、わざわざむかいのアイスクリーム店前から、右折しようとしたバスに警笛を鳴らされても無視して道路をわたってきたぐらいである。ネクタイをしめなおし、すでに何度も整えたオールバックの髪をしつこく整えながらやってきて、ほかの青年をおしのけて声をかけようとした。ところが、その娘を目の前にしたとたん、ほかの青年同様その娘のあまりの美しさに金しばりになって動けなくなった。

 娘は並の美しさではなかった。ウェーブした黒髪にふちどられた顔は小さく、淡雪のように白かった。

 集まった男たちは圧倒された。けれども最初の驚きがさめ、茫然自失状態からぬけだすと、だんだんニヤニヤしてきた。

 娘は高い鼻をつんと上向けて、すましていた。けれどもその頬はだんだん桃色にそまり、赤くなり、ついには顔だけでなく首まで真っ赤になった。男たちの視線を意識して動揺しているのはあきらかだった。

 だがまさか、この娘が、魔術師アレーの創造物だとは、だれもみぬけないどころか、想像もしていなかった。この美人の正体が、平凡な外見の娘だとは、だれの想像をも超えていた。

 読者はとっくにお察しだろうが、この世にも美しい娘の正体は江田夕子である。

 夕子は今朝、魔術師アレーのマンションで美しい白蘭に変身させられてから、黄包車にのった。黄包車は、アレーののっている一台目について出発した。明るい往来に出ると、白蘭の美貌はたちまち注目を集めた。注目を浴びるのは、長年憧れていたことだから、夕子――白蘭(著者注:以下この章では基本的には白蘭と表記)ははじめは、すごく気持ちがよかった。太陽の光は嫌いなのに、快適と思えたくらいだ。なのに、幸せな気持ちは、二十分と続かなかった。どこにいっても、じろじろみられる。だんだんうっとうしくなった。無遠慮な視線をあびるとプライベートを侵されてる気分になる。晴天もいつもどおりいやになった。自分の正体が白日のもとにさらされる気がしておちつかない。

 だから白蘭はいま、男たちにみられても、よけいなものにまとわりつかれたような気しかしなかった。なのに、みられていると思うと恥ずかしくて顔が赤くなる。赤くなった顔をみられていると思うと、よけいに赤くなる。ごまかそうにも、どうしようもできない。まったく、いまいましい。みられることは、いまはもう不快でしかない。

 ほっといて、といいたい。白蘭は胸に毒づく。そもそも興味のない人間にみられてもうれしくない。だいたい人が多すぎる。せっかく上海の一番街にきたのだから楽しみたいのに、これじゃ自由に見物もできない。人がひとりもいなければいいのに。でも乗り物がひとつも動いてなかったら淋しいから、乗客なしで走っててほしい。そんなふうに勝手な思いにふけっているときだった。

 交差点のインド人巡査が、棒をあげた。青信号の合図である。

 黄包車はふたたび走りだした。

 視界から、男たちの顔が後退していく。白蘭は愁眉をひらいた。

 黄包車は市街をかけぬける。雷霆のようなにぎわしさが閃きおちてくる。ベルやホーンの音、群衆のざわめき、売りこみの声、銀貨の音、笑い声、罵声、象牙の牌の音・・・・・・。ナンキン・ロードは共同租界を東西に走る上海のメイン・ストリートだった。

 それにしてもアレーは私をどこにつれていくつもりなのだろう。白蘭は車体に身をまかせつつ首をかしげる。

 前を走る黄包車には魔術師アレーがのっている。租界を案内してやるといってのったきり、ガイドするどころか、ふりむきもしない。見物するなら勝手にしてくれ、ということなのだろうか。

 でも見物するにしても、まわりの視線がうっとうしくてできない。目の前の車夫も気になる。大の男が文字どおり裸一貫で自分を運んでいる。むきだしの背中に滝のような汗が流れてるのをみたり、一歩一歩すすむたびにだす「エンホ、アンホ」という必死のかけ声をきいたりすると、自分が責められているような気がしておちつかない。

 その白蘭の注意がいま、べつのものに奪われた。

 どこからか、にぎやかな流行歌がきこえてきた。前方の建物が流しているらしい。みると両側につづく二階建の商店の先に、白い高塔があわせて四本、にょっきと生え出している。いずれもウェディング・ケーキのような塔だ。とはいえ昨夜みた大世界(ダスカ)とはちがう。

 四大デパートの塔だ。ナンキン・ロードは初めての白蘭も絵葉書でみて知っている。

 右側にみえるのは手前から先施(シンシア)デパート、新新デパート、左側は手前から銀華(イン・フア)デパート、敦道(ジョルダン)デパート。

 いずれも六階以上あり、欧州のお城のような建物だ。一番手前の銀華デパートが視界のなかでどんどん大きくなる。

 みあげると頭上には無数の旗が初夏の風光をうけて波うっている。四つのデパートは「大減価(大セール)」と大きな文字を赤く染めぬいた黄色い旗を、七夕の竹の短冊のようにあらゆる窓からつるしていた。

 その無数の旗の上に白い塔がのびている。塔と塔のあいだには青空が谷底のようにひろがっている。その空を美国(アメリカ)のカーティス社製の飛行機がゆっくりと横ぎっていく。

「ウェイエイエイ!」

 ふいに車体が不規則にゆれ、怒鳴り声が耳をうった。腰がういた。びっくりしてなにごとかとみると、車夫の前に中国人巡査が棒をもって立ちはだかっている。

「曲がるな、黄包車は通行禁止だ」

 巡査はいいわたした。いかにもカタブツといった顔をしている。行く手には銀華デパートの入口があった。

 どうやら車夫は銀華デパートの入口に停車するため左折しようとしたところをとがめられたらしい。アレーの俥も同じ目にあっている。

「わかったら裏からまわってけ。営業免許を没収されてもいいのか」

 なんとも高圧的な巡査もあったものだ、といいたいが、車夫にいやがらせする巡査は珍しくなかった。彼らは営業免許を即没収する力をもっていた。温和な顔だちの車夫はあきらめて迂回しようとした。前の俥も同様である。そのときだった。

「おい」

 鋭い声が耳をうった。アレーの声ではない。その証拠に、高らかな靴音が近づいてきた。背高く、がっしりとしたイギリス人巡査があらわれた。

「この俥に乗っておられる方をだれだと心得ている」

 白人巡査は英語訛りの上海語で叱るようにいった。中国人巡査は急におろおろしだし、

「は、そ、それは・・・・・・」

 目を白黒させた。

「この方を知らないのか。貴様、降格処分にされたいのか」

 真青になった中国人巡査をにらみつけ、イギリス人巡査はつかつかと俥上のアレーに歩み寄ると、かかとをあわせ、英語でいった。

「サー、部下がたいへん失礼を致しました。かわってこの通り、お詫び申しあげます」

 するとアレーは、

「いいいい」

 と、英語でいかにも迷惑そうにいい、ふりはらうように手をふった。

「誠に失礼いたしました」

 イギリス人巡査はこうして謝るほどアレーが迷惑がると知って別の行動にでた。つまり笛をふき、棒をふり動かした。

 たちまち歩道の人波はパッと左右にひらいた。

「どうぞ、おとおりください」

 車夫はびっくりした顔になった。白人巡査にうながされ、とりあえず入口にむかう。

 歩道の人間の目には、二台の黄包車は王族の馬車のようにみえた。その黄包車にのっている白蘭は自分がお姫様になったような気分になった。アレーの威力って、すごい。ついこの間まで「インチキ魔術師」と見くだしていたことも忘れたように白蘭は上機嫌になった。これから銀華デパートに入れると思うと、二重に気分が高揚する。

 ナンキン・ロードのデパートは、上海娘の憧れだ。中国人向けだが、お客は中流以上に限られ、華麗なイメージでいっぱいである。

 そこには舶来の石鹸がある、髪飾りがある。レストランはもちろんダンスホールがある、劇場だってホテルだって結婚式場だってある。デパート・ガール(女性店員)がいる。彼女たちは「活招牌(生きた広告)」といわれるとおり、生きたおしゃれの見本なのだ。新新デパートの万年筆売り場の店員は高級万年筆をもじって「派克(Parker)皇后」とよばれる。「皇后」のひとりは、資産家にみそめられ結婚にいたったという。夕子の白蘭にもそれぐらいの知識はある。デパートといえば四年前家族でいった東京日本橋の三越に一度いったきりの夕子が憧れをかきたてられなかったといったら、うそになる。流行はきらいなはずなのに、やっぱり女の子だった。

 白蘭はうきうきと黄包車をおり、入口前に立った。ところがアレーはなかに入ろうとしない。かわりに乾いた英語でこういった。

「見失わないようについてきな」

 そういってなんとそのままデパートの脇道をスタスタと歩きだした。いったいどこへいくというのか。

 白蘭はしかたなしに追いかけた。けれどつい、きらめくウィンドウに目を奪われる。フランス製化粧品、アメリカ製電化製品のディスプレイ、イギリス製スーツのウィンドウ――「SMART SHIRT For Style&Comfort」。英語の文字がおどっているから、どれも三越よりずっとあかぬけてみえる。

 気づいたときには、アレーとのあいだにかなりの距離がひろがっていた。それどころかアレーは角を左に折れようとしている。見逃してはたいへんと、あわてて走りだした。遅れて角を曲がった白蘭は、たちまち立ちすくんだ。

 高級な香水の匂いが鼻をついた。小鳥のさえずるような声がきこえた。ゆれるイヤリング、色とりどりの旗袍・・・・・・。銀華デパートの脇道には、流行の代表のような女性たちがたくさん集まっていた。しかもみんな、なぜかならんで行列をつくっている。

「ならぶよ」

 アレーがいきなり夕子の袖をひいて、列の最後尾にならばせた。

「これ優待券ね」

 アレーは手にもった二枚のチケットをVの字にひろげてみせた。なんの優待券かは書いていない。

「あの、これ、なんの列ですか」

 白蘭がきくと、アレーは舌打ちせんばかりにいった。

「だめだめ、観察力を働かせなきゃ。ヒントはいっぱいある。なんの行列か、みてわかるだろ?」

 白蘭は観察しようとした。でもそのとたん、ほかの女性たちのマスカラを重ねぬりした睫毛がいっせいに自分にむいた気がして、おじけづいた。自分が値ぶみされる感じがした。

ならんでいる人はみんな、体のラインのきわだつ旗袍や、足の長さがひきたつハイヒールをきこなして、いかにも「私すてきでしょ」といいたそうだった。若い娘だけではない、彼女たちの母親とみられるマダムも多い。あきらかにハイ・ソサエティといった感じである。

「なんの列か、わかった?」

「いえ、まだ・・・・・・」

 するとアレーは白蘭の心をみすかしたようにいった。

「気おくれすることない。今日のあなたはいつもとはちがうんだから」

 そういわれてやっと、変身してることを思いだした。そうだ、いまの私の体は江田夕子じゃないんだ。美しい体になってるんだ。みずからにいいきかせ、まわりをみた白蘭は、自分にむけられたまなざしのほとんどが羨望と感嘆の光を放っていることを知った。

 実際白蘭はそこにいるだれよりもきれいだった。白地に淡い花模様の旗袍の上にクリーム色のブラウスをはおり、ウェーブした髪に白い花簪をさしている姿は、まさしく花瓶にいけられた一輪の白蘭花のようにみえたにちがいなかった。

 そのとき列がすすんで、白蘭の目にポスターがとびこんだ。この列がなんの列かわかると同時に、自信をとりもどしたはずの白蘭の顔がたちまちこわばった。

 壁にはられたポスターには次のような漢字がおどっていた。

「時装表演大会(ファッション・ショー) 歓迎参観 

 五月十日 星期天(日曜日)

 表演時間:上午(午前)十一時―十二時半/下午(午後)二時―三時半/下午四時半―六時

 会場:銀華百貨店屋上、銀華劇場

 中西名媛 特別表演(名門『中西女塾』生 特別出演)」

 白蘭は特に最後の行に釘づけになった。動悸が鳴った。

「この時装表演(ファッションショー)ってもしかしてあの人が司会をする・・・・・・」

 うわずった声できいた。口からでたのは中国語である。アレーも中国語でいった。

「あの人って?」

 白蘭はこたえようとしたが、声がのどにからまった。「あの人」とは、麗生のことである。

 昨日花園できいた会話がよみがえった。麗生は今日銀華デパート主催のファッション・ショーに司会としてでるといっていた。

 麗生はいま一番みたくない顔だ。なんてことだろう。アレーはその麗生がいるところに、いまから自分をつれていくらしい。そこにいけば王結も馬秋秋ももちろんいるだろう。千冬もきているかもしれない。ほかにもいっぱいファイナリストが・・・・・・。

 せっかく美人に変身して別世界を楽しめると思ったのに、一番最初に案内されるのがファイナリストが待ちうけている場所だなんて、興ざめどころか、奈落の底にでもつきおとされた心地がする。動悸が高くなり、息苦しくなった。白蘭は思いきってアレーにいった。

「私、ファッション・ショー見学は、できれば遠慮したいんですけど・・・・・・」

 たちまちアレーは眉をよせた。

「買物でもしたいっていうの? ただの店なんていつでも行けるよ」

 ぴしゃりといわれ、それ以上なにもいえなくなった。アレーは会場のある屋上に白蘭を案内するのを楽しみにしていたようだ。列がすすみ先頭にきて、鉄の扉の前にでたとたん、

「このエレベーター、屋上まで直通なんだ」

 と、自慢げにいったものである。みながならんでいる先には鉄の扉があり、「屋上直通エレベーター」の標識があった。屋上には銀華劇場、すなわちファッション・ショーの会場がある。

白蘭とアレーはやがて列の先頭になった。

エレベーターが、おりてきた。のりたくないが、白蘭に選択肢はない。アレーとほかの乗客といっしょになかへおしこまれた。

 扉がしまると、香水と白粉の匂いがむっと鼻をついた。目の前の母娘はそろいのパーマネントをかけてきたばかりらしく頭から薬品の匂いがした。しかも娘はいい年なのに親と腕をぴっちりくんで、高そうな鞄を白蘭の腹におしつけるようにしてくる。白蘭はついいつもの習慣で見くだされているように感じ、ひとりで勝手に傷ついた。

 階があがるにつれ、震動と耳鳴りが増すせいで、乗り物酔いしたみたいに気持ち悪くなってきた。それもこれも麗生たちのいるところにいく不安と恐怖のせいだ、と思っていると、エレベーターが屋上で停止し、扉がひらいて、吸い込む空気ががらりと変わった。

 望まない場所についたというのに、降りると白蘭は思わずほっと息をついた。

 青空が近い。 風はすがすがしく、しかも若葉の匂いでみちている。

 屋上庭園(ルーフ・ガーデン)はその名のとおり、四方を木で囲まれ、みわたすかぎり緑でいっぱいだった。たくさんの植木のなかに中国式の亭(あずまや)があり、テーブルや椅子が生えだしたようにならんでいる。ただし人気はほとんどなかった。

「会場はあっちだよ、あれね」

 アレーが指さした。テーブルと椅子のむこうに白亜の三階建てがある。その屋上から塔が生えている。外からみえた塔だ。

「驚いたろう? 屋上にあんな立派な建物が建ってるんだから。あれは銀華ホテルだよ、銀華劇場もあのなかにある」

 白蘭は驚くもなにも、そのなかに麗生がいると思っただけで、こわくて直視できない。そのおそろしい建物に自分はいま、つれていかれようとしているのだ。すると、

「ひと息、おこうか」

 ふいにアレーがエレベーターを降りた人の流れからはずれて、唯一営業している亭でサイダー壜を購入し、

「あなたも座りなよ。ほら、サイダー」

 と、いって植木にかこまれた近くのテーブルに腰かけ、買った壜のひとつを白蘭にかかげてみせた。まわりのテーブルにはだれも座っていない。

「ふだんはにぎやかなんだけどね、庶民に大人気でさ」

 アレーはそのへんをみわたしていった。

「あちこちのあずまやが、ちょっとした野外舞台になる。芝居、漫才、手品、踊りに歌となんでもやってて、客はコーヒーや酒を飲みながらみられる。ほかにもルーレットや麻雀といった賭け事ができる亭もあってね。階下は夜八時で閉店だけど、こっちは終夜営業でさ――あなたにこんなこというのもなんだけど――明け方近くまで飲む、打つ、買うの三拍子そろったさわぎになる。上品で豪華な店に縁のない庶民も、ここでは天上の楽しみにひたれるんだよ」

 白蘭は返事をしなかった。ある一点に視線を釘づけにされて、硬直している。アレーはかまわず話しつづけた。

「みてのとおり今日日中はどのあずまやも休業。ファッション・ショーは奥の建物でやるのに、上品な客の耳目を汚すからって庶民はしめだしてるわけ。でもまあ、そのおかげでいまは絶景がひとりじめできる。あとでむこうのフェンスからでも地上をみおろしてごらんよ」

「・・・・・・」

 白蘭はこたえない。アレーが指した方向とはまるきりべつのほうをじっとみつめている。サイダー壜をもったまま、石のようにかたまっている。

 ふたりの座っているテーブルと、銀華ホテルのあいだには二列も三列もほかのテーブルがならび、列と列のあいだは生垣でくぎられていたが、その生垣に白蘭の目をひいた光景があった。

 生垣の葉っぱが、動いたのである。いや、動いたのは葉っぱではなかった。葉っぱのなかに人間の顔があった。男の顔が、生垣のすきまからのぞいていたのである。

しかも顔はひとつではなかった。最初に発見した顔のすぐ横にもうひとつ、その横にまたひとつ、さらにひとつ――どれも男の顔で、表情がなく、おまけにどれもこわもてだった。ある顔は傷痕がすさまじく、ある顔は死人かと思うほど青く、ある顔は岩のようにごつごつしている。 

 白蘭がぞっとして目をそらそうとしたとき、それらの顔がいっせいにむこう側にひっこんだ。あいた穴からみえる光景から判断すると、男たちは生垣のむこうで一列に整列をはじめたらしい。

 ほとんどが、どうやら制服を着ている。警備員だろうか。彼らはまもなく一糸乱れず行進して、ホテルの入口へと姿を消していった。さっき生垣から顔をだしていたのは、ファッション・ショーの客でない庶民が入りこんでないか、庭園内をチェックするためだったのかもしれない。それにしても、と白蘭は首をひねった。単なる警備員にしては、ずいぶんおどろおどろしく容貌魁偉な人たちだった。

「おい、いまのうちにフェンス、みてきたらどう」

 アレーの声にびくっとして、白蘭は思わず口走った。

「さっきこわそうな男の人たちがいっぱいいましたけど・・・・・・」

 アレーはそれにはこたえず、黒眼鏡をした目を腕時計におとして、

「十時三十一分。開演まで三十分か。舞台裏はいまごろ戦場だ」

 と、つぶやいたかと思うと、急に声をひきしめていった。

「あと六分したら劇場に入る」

 それっきり白蘭の存在を忘れたように、なにかを熱心に観察しだした。

 なにをみているのかと視線をたどると、さっきの生垣にぶつかった。生垣のむこうには、さっきいなかった人物が立っている。さっきこわもての男たちが整列していたあたりに、べつの男がふたり、むかいあって立っていた。

 ひとりは三十代後半らしい背の低めの、肥った男。

 もうひとりは四十代なかばの、やせた男だった。濃紺の立派な長袍(チャンパオ※あわせの男子用中国服)をきているが、耳が大きく尖っていて、宇宙人か悪魔みたいな人外の雰囲気がある。

 どうやらその男のほうが肥った男よりえらいらしい。肥ったほうは、やせたほうにしきりと頭をさげている。なにか哀願でもしているような感じだ。やせた男はあいまあいまに大きな耳を動かして、泰然とうなずいている。

 そのうしろにさらに男が三人、守るように立っているのに、白蘭は気がついた。全員体格が立派なことから判断すると、大耳の男の護衛(ボディ・ガード)らしい。三人ともしきりと鋭い眼光をあたりに走らせている。白蘭はあわてて目をそらした。じろじろみているのに気づかれたら、たいへんだと思った。

 アレーは平気らしい。むこうの会話の内容を口の動きから知ろうとでもするように熱心に観察をつづけている。

 だが白蘭にはむこうの会話はすこしもわからない。中国語はいまアレーの魔術で母国語同様に理解できるけども、なにしろむこうとの距離がある。

 ふたりの男の会話の内容がもしわかったら、白蘭はそこに自分の知っている名前がでているのを知って驚倒しただろう。ふたりの男は次のような会話をかわしていた。

「では会長、本当に実行するのですか。客離れはどうしても避けられないと思いますが」

 肥ったほうがささやいた。

「今回は正義のために利益を犠牲にするのです」

 こちらも小声ながら悠然といったのは、やせた大耳の男である。

「それは私も承知しているつもりですが、今日はじめて計画を具体的に知り、それが予想をはるかに上回る大胆な内容だったものですから」と、肥った男。

「大胆とは?」と、やせた男。

「ええ、つまり、その計画がファッション・ショーで実行するにはあまりに物議をかもすおそれのある・・・・・・おおげさに申せば一国の命運にかかわりかねないといいますか・・・・・・」

「部長、いまさらどうしました、あなたは計画の実行を一度決心したはずですぞ。今日は工部局(※英米租界行政局)参事、新聞記者、中流以上の客がそろいます。修羅場をみせるには格好の舞台なのです。『一国の命運にかかわりかねない』といいますが、それこそわれわれの望むところではないですか」

「は、ただ、ターゲットが小山内千冬ということを今朝はじめて知りまして、つい・・・・・・」

「あなたには理解がたりないようなので、あらためていっておきましょう。国民は真実を求めています。だからこそ真実を暴く手段として小山内千冬が必要なのです。リラダン爆破事件、あれの犯人は中国人だと日本軍はいいはってます。しかし花齢を殺したのは中国の兵士ではありません。殺したのは日本人だと私は確信しています。なのに英米仏は日本の味方をしている。このままあの事件の真相をうやむやにしておいていいんですか。それでは日本側の思う壺です」

「中国人として、私もあの事件にたいする憤りは忘れません。ただ実行犯が小山内将軍の実の姪とは思いもよらなかったものですから・・・・・・」

「たしかに、はっきりいえば、真の実行犯が小山内千冬という証拠はありません。しかし中国人からすれば真の実行犯が彼女だろうが、他の日本人だろうが、日本人であるかぎり同じこと。ただその実行犯がだれなのか、現在まで特定できていなからこそだれかを、つまり小山内千冬を実行犯にしたてあげる必要があるのです。

 たしかに小山内将軍自体は大物です。表むきは在上海の日本陸軍少将、その一方で特務機関(※諜報・特殊工作などおこなう)長をつとめているとされる。それをあなたは気にしておられるようだが、将軍の姪ほど適した生贄はいませんよ。摩登コンテストのファイナリストになった有名人でもあるのですからね。

 ――なに遠慮はいりません。きけば昨日もファイナリストの日本人が『リラダン爆破事件の直前、中国人麗生が現場に入るところを目撃した』とIAAに下手な密告をしたという話。その日本人密告者が小山内千冬である可能性は非常に高い。それに驚くではありませんか、日本人はいまだ中国側を実行犯に仕立てあげようと下手な工作をつづけているのですよ。こちらがいつまでもやられっぱなしである必要はありません。下手な工作には上手な工作でお返してあげるまでです」

「しかし・・・・・・それによって、日中関係にとりかえしのつかない亀裂が生じ、戦争に発展することにはならないでしょうか。実はこの際私どもの利益もなにも度外視する覚悟はできておるのですが、いちばん懸念されるのはそのことでして――」

「あなたはいつ外交官になったんですか」

「いえ、ただ私は・・・・・・」

「劉虎の影響ですな。彼は蒋介石国民政府主席のご意向をなにより気にしている。蒋主席は今の時期に日本を刺激することはお望みにならない」

「は、おっしゃるとおりです」

「しかし現実には戦争は避けられないことです。いまの日中情勢をみれば、それがわかります。われわれが計画を実行すれば、そのぶん開戦の時期が早まるかもしれない。だからといって部長、よけいな心配はいりませんぞ。蒋主席に話をつけるのは、この私です」

「はっ。まことに出すぎた真似を――」

「覚悟するのですな」

「このとおり私、覚悟を新たにいたしまして計画の実行にあたる所存でございます」

「そうきいて安心しました。顔をあげてください。いや、だいじょうぶです、実は私もあなたがたが心配するのもむりはないと思っています。そのかわりといってはなんですが、今日の計画実行によってどんな弊害が生じようとも、あなたがたはもちろん家族の身にも不幸がふりかかることはないと私はかたく保証します。

 なぜなら先ほどもお話ししましたとおり、役員はいっさい手をつけずとも万事は実行され、十二時半までにすべて終わってるはずだからです」

「ありがとうございます、恩に着ます、会長。私どものかわりにいっさいの負担を肩がわりしてくれる人たちにも厚くお礼を述べたいぐらいです」

「そのうちの一人についてはいずれわかることですから教えておきましょう。今日の計画には身内以外の人間もひとり加わります」

「それは、どのようなお方ですか」

「同国人の非常に美しい娘です。じき魔術師アレーがつれてきて、紹介してくれるでしょう。しかし注意してください、その娘はなにも知らされていません。本人には自覚させずに、こちらのプランどおりに動かしていく予定なのです」

 これらの会話はもとより白蘭にはきこえていないが、「同国人の非常に美しい娘」とはどうやら白蘭のことらしい。ここまでの会話から判断すると、大耳の男はファッション・ショーで小山内千冬をターゲットに、日本の神経を逆なでするような、なにかたいへんな計画を実行するつもりらしいが、さてなにをしようというのか。

白蘭はどのように計画に利用されるのか?

「そのプランとは例の――」

 肥った男がなにかいいかけたが、大耳の男がさえぎった。

「記者がきます」

 エレベーターが到着し、人を吐きだした。そのなかにスーツ姿の男がひとりまじっていた。腕章をつけている。新聞記者だ。

 その記者はポケットに両手をつっこみ、黒い革靴を陽光にきらめかせ、いかにも気楽そうに歩いてきたが、生垣に隠れた男たちをみのがさなかった。ほかの客たちは気づいていないのに、ひとりすばやい視線を走らせている。

 その姿を白蘭は遠くからみつけ、目をみはった。――李龍平さんだ。昨夜会おうと思って会えなかった人だけに胸が高鳴った。今日彼の姿をみられるとは思っていなかったから、それだけはアレーに感謝したい気持ちになった。

龍平さんは取材できたのだろうか。むこうは気づいていない。生垣のなかをみている。肥ったのと、痩せたのと男ふたりが護衛に守られてホテルへ去っていくのを、眺めている。けれどこっちをみていたとしても龍平さんが私に気づくはずはない。当然だ。むこうは白蘭を知らない。自分が江田夕子の姿でないことを思い出して白蘭は苦笑した。

 と同時にわくわくもした。白蘭をみたら、龍平さんはどんな反応をするだろう。美しさに目を丸くして、ぼうっとなるだろうか。そうなれば、彼の心をとろかすのも夢ではない。――などと考えてニヤニヤしている自分に気づいて、アレーに自分の気持ちがばれたらどうしよう、とあわてて表情をもとにもどした。

 だがアレーは白蘭の表情などまったく眼中にない顔でいった。

「いま生垣のむこうから去っていった、ふたりの男性がだれだったか、わかるな?」

「え、いえ・・・・・・」

「そうか。ま、肥っている方は、わかんなくてもしかたない。このデパートの宣伝部部長でね、莫氏という。しかしもうひとりのお方を知らないとは、問題だな」

「・・・・・・すみません」

「巧月生(チャオ・ユエション)氏だよ。名前はきいたことあるはずだ。華界きっての実業家。銀華デパート会長のみならず、中信銀行、三信公司も経営している」

「巧月生って名前はきいたことありました。あの耳が大きい人がそうだったんですか」

 白蘭がいったとたん、アレーはいきなり黒眼鏡をはずし、ぎらっと光る目をむけて、

「おい」

 というと、

「言葉に気をつけるんだ。いくらあなたでも知っておいたほうがいい。これは公然の秘密だけど――」

 声を低くしていった。

「巧月生氏には表と裏、ふたつの顔がある。表の顔はいまいったとおり実業家。裏の顔は秘密結社、蒼刀会(ツァンダオフイ)の会長だ」

「・・・・・・秘密結社って、」白蘭はごくりと唾をのみこんでいった。声がふるえた。

「マフィアですか」

 さっきホテルに整列して入った単なる警備員とはみえなかった十数人のこわもての男たちは、マフィアだったのか・・・・・・?

「言葉に気をつけなさいといってるのに」アレーは叱るようにいった。

「蒼刀会は蒋介石主席の保護下にある組織だ。闇組織ではあるけど、ふつうの中国人もたくさん会員になってる。このデパートの従業員だって大半はそうだよ。だからあまり下手なことはいわない方がいい」

「すみ、すみません・・・・・・」

「ま、そう恐縮することもない。巧会長にあとで紹介するから。――だいじょうぶ、会長は味方とみなした人間には義侠心あふれるお人だから。敵にはこれ以上ないほど恐ろしい人だけどね」

 そういうとアレーはこれをしおどきといったように立ちあがり、白蘭をつれてホテルへと歩きだした。

 マフィアの会長を紹介する? 白蘭は動転した。そんなこと、いきなりいわれても困る。心の準備がまにあわない。麗生がいる場所に行くというだけでじゅうぶん戸惑っているというのに。

 麗生をみたら、平常心でいられる自信はない。美人らしくもなくおどおどして、あやしまれるかもしれない。客席でひとり目だってしまうかもしれない。そんなことになったら、どうしよう。自分でいうのもなんだが、ただでさえ、白蘭の美貌は目だつ。

 会場に入ったとたん、注目されたら? ファイナリストたちの関心をひき、ライバル意識をかきたてたら? ファイナリストに話しかけられたら? うまく話せなくて緊張のあまりボロをだして、正体が江田夕子だと感づかれたりしたら? 

 正体がばれるなどありえない、とは思う。この世で変身が可能なんて、私だっていまだに信じられない。だからみなが変身に気づくはずがない。白蘭の正体が江田夕子とみぬけるはずがない。そう思っても不安は完全には消えなかった。麗生のいる場所に行くことに変わりはない。それでも行く気になったのは、行けば李龍平に会えると思ったからこそである。

 時刻は午前十時三十七分。

 白蘭は劇場に入った。思いっきり気合をいれて、入口をまたいだ。

ところが客席に入るなり拍子ぬけした。

特に注目された気配がなかったからである。体にあびる視線がすくないと感じると、なんとなく不満に感じた。注目されたら困ると思ってたくせに、実際に注目されないと、物足りなく思った。

 これだけの美人があらわれたというのに、どうしてだれも注目しないの。白蘭は思う。エレベーターにならんでいるときでさえ注目をあびたというのに。白蘭の美は劇場のような晴れの場でこそ注目され、羨望されてしかるべきなのに。耳をすましても、なんの嘆声もきこえてこない。自尊心を傷つけられた気がする。ファッションのせいだろうか。私の旗袍は比較的最近の型だけど、最新型ではないからいけないのだろうか。

アレーと白蘭は優待席専用口から入った。会場は後年のファッション・ショー会場とはちがい、ふつうの劇場だった。舞台と客席は豆腐を横に切ったように完全にわかれている。舞台に近い前列が優待席だった。優待席専用口はその横にある。たいして歩かずに指定の席についた。

白蘭が歩いたのは、ほんの短い時間だった。うしろにいる客の目にはほとんど入らなかった。そういうわけで注目されなかったとは白蘭にはわからなかった。アレーの背中を追うだけで、まわりをみてなかったからだ。

 白蘭は注目されない理由を考えつくことにばかり夢中で、自分が座ったのが優待席中央ブロックの三列目ということにも、通路をはさんだうしろ半分が一般席であることにも、開演二十分前から早くも客の入りが九割にたっしていることにも気づかないでいた。だから、

「あそこにいる人、知ってる? ビル・ジョーゼフ氏だよ、共同租界参事の」

 と、アレーに耳打ちされて初めて最前列のうすい金髪頭と、その頭に「先生、先生」と英語で呼びかけている巧月生に気づいた。

「巧会長でも租界の参事には頭があがらない」

 アレーはささやいた。

「意外です」

「上流の白人紳士は、中国人をなかなか認めたがらないからね」

 アレーは声をひそめて事実を伝えた。さらに声を低くして、

「でも巧会長はそんな動きを変えようとしておられる。ビル・ジョーゼフ氏をここに招いたのもそうしたお心からだ。巧会長はいずれ上流白人社会でしかるべき地位を占められるだろうと、僕は考えている」

 まじめな顔でいったかと思うと、ニヤッとして、

「僕もぼうっとしちゃいられない。ジョーゼフ氏に感心してもらわないとな」

 といい、ポケットからなにかをとりだした。折り畳んだ紙である。それをひろげて白蘭にみせた。そこには中国語で以下のようなことが箇条書きにされてあった。

「一、開会の言葉

 二、特別ショー

 三、会長あいさつ

 四、ファッション・ショー

  ①現役中西女塾生   

  ②大トリ:特別ゲスト

 五、閉会の言葉」

「ふふ、これはプログラムだよ。出演者だけに配られた」

「出演者だけに?」

「実は僕も出演者なんだよ」

「え? ここに座ってるのにですか」

「そう。なにやると思う? モデルじゃないよ。ここに『特別ショー』ってあるでしょ。このショーの出演者はそのつど変わるんだけど、今日のこの時間は僕が魔術をやることになってる」

 また、きいてない話だ。白蘭は驚いて、

「こんなところにいて、だいじょぶなんですか」

「平気平気。『特別ショー』たって、僕にとっちゃ、いつもの魔術だから。それほど特別な準備はいらないし、直前まで席にいることにしたんだよ」

 アレーの余裕の笑みは刹那、硬直した。巧の横にあらわれた熊のような男をみたためである。

 熊のようなその男は、共同租界参事にあいさつを終えるなり巧月生に近づいて、なにやらささやきだした。

 男は巧月生の六年来の公私にわたる相談役、劉虎(リョウ・フー)である。蒼刀会員だ。

 アレーは蒼刀会員ではない。劉虎からすれば、どこの馬の骨ともわからない人間だ。それがインチキくさい予言で巧会長の心をつかみ、たった一か月で自分と同じ相談役にとりたてられている。それが許せず、敵視していた。

 その劉虎がいま、アレーとその連れをちらちらとみながら、巧になにごとかを耳うちしている。

 次の瞬間、アレーは顔じゅうに笑いをとき、大げさなまでに陽気な足どりで、白蘭をつれて優待席の階段をおりていった。

 劉虎が白蘭に敵意と好色のいりまじった視線をむけるなか、アレーはにこっと笑って、

「うちのVIPです」

 白蘭をそう冗談めかして紹介した。

「ほら、会長にごあいさつを」

「白蘭といいます。よろしくお願いします」

 白蘭の口からなめらかな中国語がでた。全身緊張でこわばってはいたが、どもりもしなかったし、よろけもしなかった。ぎこちなくはあるが、ちゃんと礼をし、愛想笑いまでうかべている。江田夕子の姿でいたら、できなかったことだ。外見への自信があるから、できたことだといえる。もっとも、蒼刀会のボスを怒らせたら生死にかかわる、という危機感も気持ちをしっかりさせるのに役立った。

 実際、まぢかでみた巧月生は恐ろしかった。長身でやせた体、大儀そうにぶらぶらとゆれる長い腕、丸みというものがいっさいない尖がった顔、そして大耳――悪魔みたいだった。

 その巧がおもむろに口をひらいた。黄色く尖った歯がみえた。ぞっとした瞬間、巧は中国語でいった。

「こちらこそよろしくお願いします」

 白蘭は耳を疑った。残忍そうな唇からでたのは、世にも穏やかな声だった。巧月生の声は、予想とはぜんぜんちがった。

「上海は初めてだそうですね、アレーにききましたよ」

 包みこむような声で、やさしく語りかけるように巧はいった。白蘭の緊張はほぐれていった。するとかわりに、私はいま有名人に話しかけられている、という意識がわいた。気に入られたい、認められたい、という欲がわいてきた。

「ハイ、上海は初めてです」

 にこにこと返事をした。アレー作の「白蘭の経歴」を媚びるように口にする。

「両親の仕事の関係でずっとパリに住んでいました。いまは私だけ中国に」

「ほう、パリにおられたんですか。その生地はあちらのものですか」

 巧は白蘭の旗袍に興味を示した。

「ええ、母がパリのブティックで選んで買ってくれました。中国に行ったら旗袍に仕立ててもらいないさい、といって」

「お母さまはとてもよい趣味をしてらっしゃる。すてきな旗袍に仕立てられて、あなたがお召しになってるのをご覧になったら、さぞお喜びになるでしょうな」

 巧は細めた目をふいにみひらき、思いついたようにいった。

「そうだ、お写真をとってパリに郵送されたらいかがでしょう。今日は美国(アメリカ)では『母の日』です。母親に感謝を伝えるんですね。贈り物をするにはちょうどいい日だと思いますよ」

 白蘭はうなずこうとした。しかしそれが、できなかった。「母親に感謝を伝える」という言葉に過剰反応したのである。白蘭の体は硬直した。母親になにを感謝するというのか。私には憎しみしかない。理性を失って思わず口走った。

「いいえ、母はむしろ怒るでしょう。私が旗袍をきてると知ったら、頭がおかしくなったと思うかもしれません。日本がいちばん、と思ってるカタブツですから」

 いったあとで後悔した。バカなことをいった、と思った。母親にいまの自分の写真を送ったところで自分の娘と気づくわけもないのに、なにをムキになっていったのだろう。白蘭はあわてて弁解するようにいった。

「すみません、あの、旗袍をみて母が怒るというのは、この生地では着物を作るようにといっていたので・・・・・・」

 いったそばから、後悔した。矛盾したことをいってしまった。旗袍を作るようにいわれた、と、さっき自分でいったばかりではないか、そもそも中国人の母親が着物を娘に作らせるわけがない。白蘭は青くなった。

 しかし巧は顔色を変えずにいった。

「パリはジャポニズムを生んだ都ですからな」

 理解を示した口調だった。アレーがすかさずそれに乗じて、

「この子の母親は中国人なのに、十代でヨーロッパに渡っただけあって変わってるんですよ」

 と、ごまかしてくれた。だが白蘭は自分の失言に動揺したままだった。そのあと巧が好意的に、

「写真のプレゼント、考えてみてください。二階の写真館では洋服、ドレスも貸しています。宣伝になってしまいますが、うちのデパートでは今年から『母の日特別企画』というのをはじめましてね、写真館では母の日のプレゼントだといえば肖像写真は通常の二割引にしていますから、よろしければあなたもぜひどうぞ」

 といってくれたときも、アレーが、

「いやあ会長はさすが宣伝がお上手ですね」

 とお追従をいったときも、同調するどころか微笑するよゆうもなかった。

 巧は終始穏やかな態度を崩さなかった。だが腹のなかではなにを思ったか、わかったものではない。「日本がいちばん」といわれて、いい気がしたとは思えない。それが「白蘭の母親」の発言にしてもだ。白蘭は見た目はいいけど、考えのたりないバカだと思ったかもしれない。

 懸念材料はほかにもあった。

「日本がいちばん」という発言が、ファイナリストたちの耳に入らなかったか、ということである。白蘭はまわりをみた。幸い知った顔は近くにはみあたらない。だからといって安心はできない。巧月生を通じて私のいまの発言が麗生の耳に入るかもしれない。麗生は今日の司会だ。舞台にでる前に会長の巧月生にあいさつするかもしれない。そのとき巧の口から、なにかのはずみでアレーがつれてきた白蘭という娘の話がでる可能性はある。そこで白蘭が「日本がいちばん」だとか「着物」だとか日本に関連することを口にしたときいたら、麗生はどう思うだろうか。奇妙に思うのではないか。白蘭の正体が日本人だと疑うかもしれない。そして江田夕子を連想するかもしれない。もっともその可能性は低い。白蘭の正体を江田夕子とみぬく可能性はもっと低い。そもそも、ある人間の顔と肉体をもった娘の中身が別人だなどとは、ふつうは考えない。白蘭の正体が江田夕子とは想像のほかだろう。

 だとしても白蘭は不安だった。まだ変身に慣れず、別人になりきれてないせいかもしれない。いつボロがでるかわからない、という気がした。だからこそ、さっき自分で口にした、江田夕子につながる失言がくやまれた。

 だれがどこで聞き耳をたてていたか、わかったものではない。そばにこそいなくても、ファイナリストはどこかにはいる。すくなくとも王結と馬秋秋は必ずいる。

 不安はとまらなかった。それでもアレーにエライ男の人たちをたてつづけに紹介されると、いくらか気はまぎれた。

 みな自分をみると目を輝かせる。賛嘆、好色、恍惚――目にうかぶ光は人によってちがうけれど、どれも好意的なのは共通してる。男の人と目をあわせるたびに、自分が美人という自覚が高まる。それなりに自信も増す。

 銀華デパート宣伝部の莫部長にあいさつしたのをしおどきとして、アレーと白蘭は席に戻った。白蘭はいくらか人なれした目を利用して、ふりかえって場内をみまわした。いまいちばん会いたい人――李龍平をみつけるためである。

どこにいるのだろう。じっくり探したいけど、関係ない人の視線が気になって、なかなか発見できない。美人の自覚がでてきたとはいえ、他人の顔をひとつひとつたしかめるのにはまだ勇気がいった。つい伏目がちになり、まばたきの回数が増える。

うしろをむいて必死に探していると、ハイヒールの音が耳に入った。ツカツカという足音がどんどん大きくなった。白蘭はハイヒールの音が嫌いなので――自分も今日ははいているくせに――耳ざわりに感じた。その音がどんどん大きくなって、通路からだんだん自分のほうに近づいてくるのを感じると、自分にきかせるためにわざと大きな音をたててるように感じられてきて、いらいらして、その人がもし自分と同じ列に座ろうとしても、通り道をふさいでやろうと思ったほどだった。

 ハイヒールの音は、白蘭のすぐ横にとまった。と思うと、

「アレーさん」

 おそろしく陽気な声が耳に入った。白蘭はぞっとした。麗生の声だった。麗生はアレーと面識があるらしい。白蘭は一般席をふりかえったままの体を凍りつかせた。

「おう、これはこれは」

 アレーは中国語でほがらかに返し、麗生と言葉をかわしはじめた。

 白蘭は蒼白になった。なんということか。いまいちばん会いたくない人間が、アレーとしゃべっている。白蘭はあくまで無視して、李龍平探しに集中しようとしたが、突然背中をたたかれた。

「すみません。白蘭さん」

 いつのまに名前をききだしたのか、麗生は話しかけてきた。

「いまアレーさんにお話をききました。ごあいさつできたらと思いまして」

 白蘭は背中をむけたきり、こたえない。硬直したままだった。アレーが麗生をさえぎってくれるのを待った。麗生は平気で話しかけてくる。

「私、呉麗生です、今日ここで司会をする」

 このまま無視すれば不信感をあおるだけなのは、わかっていた。しかし白蘭は初対面の演技をする自信がなかった。麗生と顔をあわせた瞬間、江田夕子とみやぶられるような気がした。

「ねえ、白蘭さん?」

 黙殺しきれず、白蘭は目は伏せたまま、ふりかえった。とたんに、

「まあ、きれいな方」

 麗生は叫んだ。しらじらしい、と白蘭は思った。麗生は目を鋭く光らせ、自分を観察しているにちがいない。視線をあわせたくないから確認できないけど、気配でそう感じる。

「みとれちゃいます、外国帰りのモデルさんとかですか?」

「・・・・・・」

 首を横にふるのがやっとだった。正体がばれる気がして、声はだせなかった。だが麗生は白蘭がなにかいったとかんちがいしたらしく、

「――いまなんて?」

 と、きいてきた。耳に手をあてている。それをみて白蘭はぎょっとした。江田夕子にとったのと同じポーズだ。動悸がうった。冷静さを失い、白蘭は唇を白くし、江田夕子のように声をうわずらせていった。

「な、なにも・・・・・・ただ、モデルではないと・・・・・・」

 どもった。これでは江田夕子そのものだと白蘭はあせり、両手をかたくにぎり、乾いた唇をなめたが、これがまた江田夕子の癖だと気づいて愕然とした。

 麗生に気づかれたかもしれない。江田夕子とまでは気づかないにしても、美人にしてはずいぶん卑屈な動作をとると不審に思ったにちがいない――。

 だが麗生はすくなくとも表面的にはなにも気づかない顔でいった。

「えーっ、モデルさんじゃないんですか、こんなにきれいなのに」

 と、大げさに驚いてみせ、

「じゃあ、ふだんはどんなことを?」

 と、きいた。そのこたえはアレー作の「白蘭の経歴」には書いていない。アレーは「プライベートはある程度ベールに包んだほうがいい」といっていた。だから次のようにこたえるのが白蘭としてはせいいっぱいだった。

「べつに、特には、なにも・・・・・・」

 美しい顔に卑屈な微笑をうかべていったあと、乾いた唇をなめ、両手をかたくにぎっている自分に気づいて、ふたたび青ざめた。

「『特には』ってことは、なにかはなさってますね? だって輝いてますもん。ねえ、教えてくださいよ」

 麗生はしつこくきいてくる。まずい。まわりの視線が集まっている。なにしろ麗生は摩登コンテストのファイナリストだし今日のショーの司会者だ。それがいま客席にきて、大声で話しているのだから当然だ。話し相手の白蘭も当然注目される。そこへこのプライベートな質問である。

 ただでさえ疑心暗鬼にかられていた白蘭は、これは麗生のいやがらせではないか、と疑った。麗生は自分を逃げ場のない状況において、わざと困らせる質問をしている。白蘭の正体が江田夕子と感づいたのかもしれない。へたなことをいえばしっぽをつかまれる。どうしよう。なんてこたえればいい。

 白蘭はアレーに助けを求める視線を送った。しかしアレーは知らぬ顔をとおしている。白蘭の実力をみきわめるいい機会とでも考えているのか、新人社員を試す上司のような目でみている。救われるどころか、逆にプレッシャーをもらった。

 どうこたえたら合格点なのか。麗生を納得させつつ、私生活は謎にみせる――そんな都合のいい答えが簡単にうかぶものか。白蘭はわずか十秒ばかりの沈黙のあいだに神経を消耗しきった。いい案ひとつうかべられない自分に失望して、あきらめたようになって、

「・・・・・・ほんとうになにも、してないです。まだ上海にきたばかりというのもあって・・・・・・」

 そう蚊の鳴くような声でいって乾いた唇をなめた。ふるえる指をかたくにぎった。江田夕子とばれるかもしれないと思ったが、やめられなかった。ほとんど自暴自棄になっていた。麗生の視線を痛いほど感じた。すると麗生がいった。

「じゃ、今度うちでテニスしない?」

 白蘭の顔から血の気がひいた。麗生の口調がなれなれしく変わったことと、テニスに誘われたこととで二重にショックだった。テニスは江田夕子が苦手なスポーツだ。そのことはまだ、ほかのファイナリストには知られてないはずだが、麗生は千冬からきいて知っているのかもしれない。それでわざと白蘭をテニスに誘い、反応をみようとしてるのかもしれない。

「うちの実家にコートがあってね、よく人を集めてテニス大会をするんだ。現役のテニス選手もくる。私も何度か対戦したけど勉強になるよ」

 麗生はなにくわぬ顔をしていった。

「白蘭ちゃんは強そうだし、絶対楽しめると思う」

 「白蘭さん」がいつのまに「白蘭ちゃん」に変わっている。なめられている。「強そう」という発言にいたっては、江田夕子にたいする皮肉としかきこえない。

「再来週の日曜にまたテニス大会するんだ。よかったら、こない?」

「・・・・・・」

 夕子は即答できなかった。麗生は白蘭にテニスをさせて化けの皮をはがそうという魂胆にちがいない。

 どうしよう。招待を断れば、テニスをしたくないからだと思われ、あやしまれる。かといって招待をうければ、テニスをするはめになり、運動神経のなさをさらけだし、正体がばれるおそれがある。どっちも、いやだ。

「その日はちょっと・・・・・・」

 白蘭はやっとの思いで、それだけいった。麗生はどう思ったか、すかさず気をきかせたようにいった。

「ほかの日でもいいよ。ランチ食べにきてもいいし。うちのシェフ、腕あるから。おいしい料理、のんびりプールサイドで食べるの最高なの。ふたりだけじゃ、さみしいっていうならお友だち呼んできて。女子でも男子でも」

 麗生の口から「男子」という言葉がとびだしたとき、白蘭は思わず反応した。李龍平が思いうかんで、息が乱れた。麗生はそれをみてどう勘ちがいしたか、

「あ、いいひとがいたら、ぜひいっしょにきて。友だちはみんな、うちにボーイフレンドをつれてくるから」

 そういって、

「白蘭ちゃんはどんな人と付き合ってるの?」

 と、臆面もなくきいてきた。白蘭は戸惑った。相手がいないとはいえなかった。こたえられずにいると、麗生はわざとのようにきいてきた。

「ねえ、どんな人? ねえねえ」

 白蘭の目をのぞきこむようにみている。麗生の目の奥には嘲笑がうかんでいる気がした。恋人がいないこと、できるはずもないことは、江田夕子のコンプレックスのひとつなのである。この質問から一刻も早く逃げたくて白蘭はいった。

「私、だれとも、つきあってないんで・・・・・・」

 屈辱で声がふるえたのが自分でもわかった。

「うそ」

 麗生は驚いたようにいった。

「その美しさでボーイフレンドがいないなんて」

 その声は高く大きかった。まるで凱歌だった。白蘭に恋人がいないといわせたことはもとより、白蘭の正体が江田夕子とつかんだ喜びの声のようにきこえた。

「・・・・・・」

 白蘭は顔を真っ赤にそめて目をふせた。

「そうか、上海に来たばかりだからねえ。私が紹介してあげるよ。医者でも弁護士でもなんでも、いい人いっぱい知ってるから。白蘭ちゃんなら選び放題」

 これをきいて白蘭はふと、母親に作るようにいわれた「人脈リスト」のことを思いだした。だが次の言葉をきいて、そんなことは頭からふっとんだ。

「新聞記者はどう? 私は『上海時報』の記者と特に親しいけど」

 白蘭はのどをつまらせた。咳がでた。おちつこうとサイダーを飲もうとした。サイダー壜を口に運んだ。手元をよくみずにいたら、衝撃で口と壜のあいだにすきまができ、サイダーがこぼれた。こぼれたサイダーはあごをつたい、たれ、胸にしたたりおちた。

 麗生は目をみひらき、あきれ顔になったが、

「あらあら」

 というと、ハンカチをすっと白蘭に手渡し、

「これでふいて。――平気平気、今度会ったとき返してくれればいいから」

 そう笑顔でいうと、腕時計をみた。

「もうこんな時間、戻らなきゃ。じゃまたね。うちにこれそうな日がきまったら教えて。私は合宿中だけど平日以外、再来週以降の土日なら空いてるから。よろしく」

 強引というか、ひとりよがりというか、勝手に白蘭を招待することにきめて、自分のいいたいことだけいうと、さっさと去っていった。

 まったく初対面の人間相手の態度とは思われない。麗生はたんに気さくな人間なのだろうか。いやいや、そうとは思えない。白蘭の正体を江田夕子とみぬいたから、あんな態度をとったにちがいない。麗生のハンカチでこぼれたサイダーをふく白蘭の顔は蒼白だった。夕子は次のように麗生のとった言動を分析した。

 ――私が巧月生にした失言「日本がいちばん」を、麗生はやっぱりきいたにちがいない。直接でなくとも、巧月生の口からきいたのはまちがいない。そこで麗生は最初の疑惑を抱いた。白蘭なる人物は中国人のふりをした日本人ではないかと。それで麗生は直接会ってたしかめることにした。白蘭が何者か、中国人を装った日本人か、正体はまったくの別人か。

 収穫はあった。しつこく話しかけただけのかいはあって、麗生は白蘭の正体が日本人であることだけでなく、みごと江田夕子ということまでみぬいた。けれどそれだけで満足したわけではなかった。証拠をつかみたいと考えた。そこで白蘭を自宅に招待し、化けの皮をはがすことにした。

 ――そう考えて、白蘭は戦慄した。やっぱり招待を断ればよかった。いまから断れないだろうか。でもどっちみちこのハンカチを洗って返さなくてはならない。どうしよう。

「やっかいだろう」

 ふいにアレーがいった。白蘭にささやくようにして、

「麗生に白蘭の正体がばれたらたいへんだよ。ただでさえ江田夕子を『麗生を中傷した人間』だと誤解してるんだからな」

 白蘭の心をみすかしたようにいう。白蘭はふしぎに思うよりも助けを求めたい気持ちでいっぱいになった。

「私はどうしたら・・・・・・」

「ばれないよ、まるきり別人なんだから。そうでしょ?」

 アレーはそういってにっと笑った。だが目の奥は笑っていない。ばらすなよ、と脅しているようにもみえた。

 なぐさめられるつもりが、いたずらに不安をあおられただけだった。しかも、そのすぐあとに、今度は耳障りな笑い声がきこえた。近くからではなく、右斜め前からである。優待席の中央ブロックにいる白蘭は、おそるおそる右方向へ首をふりむけた。たちまちその顔が凍りついた。

 優待席の右ブロックで若い男女六人がさわいでいる。男三人がうしろの席、女三人が前の席。女たちはうしろに顔をむけて夢中でしゃべっている。

 女は小山内千冬、王結、馬秋秋だった。洋装のモダンボーイたちと話すのがよっぽど楽しいのか、やたらと笑い声をたてている。白蘭の視線には気づいていない。――と思った矢先、千冬が顔を動かして、白蘭のほうをみた。と思うとすぐに王結に耳うちした。王結もパッと白蘭のほうをみて、馬秋秋になにかをささやき、馬秋秋は男たちに耳うちした。たちまち六人全員の顔が白蘭にむいた。白蘭は全身が呪縛されたようになって、目をそらせなかった。

 と、千冬と白ネクタイの男がいきなりロボットのまねをしだした。王結と馬秋秋たちが手をたたいて笑った。

 千冬は手足をカクッと直角に曲げた。男も同じく曲げた。すると男はそのままの体勢で白蘭のほうをみた。白蘭が血の気をひかせると、男はおどけたように頭をさげた。千冬がキャッキャと笑いだした。ケラケラと王結と秋秋が笑った。どっと男たちが哄笑した。

 白蘭は動悸がした。指がふるえた。あの人たちは自分を笑っている。なぜ?

 麗生にきいたにちがいない――アレーの隣にいる女はあやしいと。正体は江田夕子らしいと。魔術師アレーが変身させたらしいと。あの女は人間ではなく化物だと。美人アンドロイド、ロボットも同然だと。麗生は楽屋に戻る前にそう千冬たちにふきこんだにちがいない。千冬のあのロボットのまねが、なによりの証拠だ。

 白蘭はやっとの思いで目をそらした。

 すると笑い声が話し声に変わった。北京語を使っているらしい。千冬は北京語もできる。私もいまは魔術の力でできる。でも席が遠くて、声がなかなかききとれない。声のトーンで内容を想像するしかなかった。白蘭はそれぞれの語調から、それぞれが以下の棒線「――」のあとの言葉を発していると考えた。

 王結の声――「アレーの隣の女、江田夕子が変身してるんだって。麗生がいってた、魔術で変身してるんだって」

 男の声――「江田夕子って、不細工なやつだろ?」

 千冬の声――「そうそう。それにしては、よくばけたよね。江田夕子とは全然ちがってあの女はすごく美人。でも雰囲気は夕子そのものだよ。私にはわかる。昨日の夜から、あやしいと思ってたんだ」

 馬秋秋の声――「どうして?」

 千冬の声――「私、広子にきいて知ったんだ。昨夜遅く夕子が合宿所をこっそりぬけだしたって。それきいたときは、ほんとびっくりした」

 王結――「そういえば私も麗生にきいた。昨晩十一時すぎ、シャワーを浴びてると物置部屋から床が変にきしむ音がきこえたって。なんだろうと思って耳をすますと、静かにドアを開け閉めする音がしたって。そのあと五時間は物置部屋からなんの物音もしなかったから、江田夕子は幽霊のようにこっそり部屋をぬけだしてどこかへ行ってたにちがいないって」

 千冬――「江田夕子が夜中にひとりで外出するなんて、ただごとじゃないよ。私は女学校がいっしょだったから知ってるけど、いつもどこにも行かずに、ひきこもってるような人間なんだから。それがひとりで外出したって広子にきいて、こりゃなんかあるって思ったんだ」

 男――「なんかって?」

 王結――「だからさ、魔術師アレーのとこにいって変身したってことだよ」

 馬秋秋――「江田夕子がどうして魔術師アレーとつながってんの?」

 千冬――「それはわかんない。魂でも売ったんでしょ。とにかく疑う余地はない。江田夕子は昨日の真夜中、アレーの魔術で絶世の美人に変身した。そして白蘭と名のってここにいる」

 高い声の男――「あの女、どうりで美人な割にはうす気味悪いと思ったんだよ」

 低い声の男――「俺もあの女の美しさは完璧すぎてロボットみたいだと思ったんだ」

 高くも低くもない声の男――「ほんとロボット女だな。歩くと、きっとこんなふうなんだろうな」

 千冬――「そのダンス最高、あの女にぴったり」

 低い声の男――「おいおい、あんまりやると注目されるぜ」

 千冬――「いいのいいの。悪いのはあっち。変身して人をだましてんだから」

 馬秋秋――「そうだよそうだよ、犯罪行為だよ」

 王結――「江田夕子はまったく犯罪者だよ。麗生を中傷する電話をIAA本部にしたのもあの女だよ」

 男――「ほんとか。そんなやつをファイナリストにしといていいのか?」

 千冬――「いいこと思いついた。みんなで江田夕子を合宿所から追いださない?」

 王結、馬秋秋――「賛成」

 男たち――「俺たちも賛成」

 千冬――「よしみんなで計画をたてよう。麗生も仲間にいれて江田夕子を合宿所にいられなくしよう」

 男たち――「面白そうだぜ」

 千冬――「みんなでロボット女を追いだそう。キャハハ、キャハハ」

 声はいっこうにやむ気配がなく、白蘭を苦しめる。傷ついたし、いらだった。たえきれなくなって、もう一度むこうをみた。

 すると、あることに気づいた。千冬たちはさっきと同じ場所にいたが、驚いたことに、男たちの姿は消えている。さっきまで声がしていたのにおかしいと思い、千冬周辺の席をそっとみわたしたが、それらしき影はなかった。

 するとふいに足音がうしろからきこえた。わざとらしいまでに大きな音である。足音は複数だった。ひとり、二人、三人。それがどんどん近づいたかと思うと、白蘭のうしろでとまった。ぞっとした。三人は白蘭のうしろの列に入り、まうしろに座ったらしい。まもなく話し声がきこえた。そこで白蘭はまたぞっとした。耳に入ったのは男たちの声で、千冬のところからきこえた声に一致した。

 いったいなぜ、千冬のところにいた男三人が自分のうしろにきたのか。こたえを思いつくより先に白蘭は血の気をひかせた。

「へんしん」

 うしろの男がそう日本語でいったのがきこえたのである。いつのまにうしろの三人は北京語の会話を日本語にきりかえていた。その流暢さに感心するよゆうなどなかった。日本語で「変身」といった意図を疑い、全身を耳にした。するともうひとりの声がいった。

「ものおきべや」

 心臓がかたまった。物置部屋がなにをさすか、あきらかのように思われた。江田夕子だ。次にもうひとりがいった。

「スコット・ロード」

 これは江田夕子が家族と住んでた場所だ。千冬が教えたのか。男たちはなんのためにか、江田夕子を連想させる言葉を次々に口にする。白蘭は息を乱した。

「すがも」

 巣鴨は、江田夕子が生まれた場所だ。肩がわなないた。

「にっしょうまるいずみ」

 日商丸泉といえば、江田夕子が面接をうけて落ちた会社だ。白蘭は涙目になった。

 それをアレーにみられてはなるまいと、必死でまばたきしていると、うしろの男たちが立ちあがって、ひきあげる気配がした。

 白蘭はハッとした。

 男たちが唐突に立ち去った理由に思いあたった。彼らがなんのために白蘭のうしろにきたか、わかった気がした。彼らは千冬にたのまれて、江田夕子を連想させる言葉を白蘭にきかせ、その反応をみにきたにちがいない。そして私の反応をつかんだから――用がすんだから、帰ったのだ・・・・・・。

 白蘭は蒼白になった。私は江田夕子を連想させる言葉にばっちり反応した。呼吸を乱したり、肩をわななかせたりした。あの男たちはそれをしっかり千冬に伝えるにちがいない。ほら、右ブロックから、声がきこえる。はたして男たちの声にまじって千冬の勝ち誇ったような笑いがきこえてきた。

「キャハハ、キャハハッ」

 小山内千冬――自分を有利にするためにはなんでもやる女。あの女の考えぐらい想像がつく。あの女のことだから白蘭をみたとたん その美しさに嫉妬し、目ざわりに感じたのだろう。そこへ麗生から、白蘭の正体が江田夕子らしいときいた。これはいいことを知ったと思った。さっそくみんなをけしかけて、江田夕子を合宿所から追い出す計画をたてることにした。

 いったいどんな計画になるか。想像して白蘭は体をふるわせた。たぶん江田夕子は悪者にしたてあげられるだろう。麗生を中傷した犯人にしたてあげられるのは、まずまちがいない。それだけでなく、リラダン事件の実行犯にしたてあげられるかもしれない。江田夕子は文字どおり犯罪者にされるのだ。想像はとめどもなくふくれあがり、白蘭の不安は頂点にたっした。

 そのときアレーが夕子の心を読んだようにいった。

「――不安なら、小山内千冬をハメるんだな」

 白蘭はびっくりして目をみひらいた。

「ハメるって・・・・・・?」

「小山内千冬にとんでもない行動をさせるんですよ。あの女なら麗生を中傷してもおかしくないと人びとに思わせる。そうすれば麗生も中傷者が江田夕子とは思わなくなる、かわりに千冬を疑う」

「でも、そんなこと・・・・・・」

「どうやるかって? たとえば小山内千冬がショーの最中に突然舞台に乱入したら、みんなどう思うかな」

「気でもふれたと思うんじゃ・・・・・・」

「異常だと思われることは、たしかだな。麗生の司会中に乱入したらなおさらな。ふたりはミス摩登をあらそうファイナリスト同士だから、ライバルへの挑発行為とうけとられることもありうる」

「もし、そうなったら・・・・・・?」

 白蘭の目に希望の光が灯った。

「そうなったら、じゃないの、させるのよ」

「え、どうやって・・・・・・させるんですか」

「たしかにそこが問題だ。強制的にさせるのは簡単だけど、それじゃ意味がないからな」

 アレーはそうつぶやくと、

「自発的に乱入するようにしむけなきゃ。なにかいい方法、あなた、考えつかない?」

 ときいて、夕子の目をじっとみた。

「え・・・・・・」

「よく考えて。これはテストですよ。課題は『小山内千冬を自発的に舞台に乱入させる方法をあげよ』」

 アレーはニヤッと笑った。

「僕はあなたにある種の才能があるといった。さあ、実力を発揮」

「え、でも・・・・・・」

「ちょっとちょっと、たのむよ。考える努力をしてよ。あなたにとって二重の意味でチャンスでしょ」

「たしかに千冬はハメたいですけど・・・・・・でも、考えるには時間が・・・・・・」

「ショー本番までにはまだ時間があるから、ぶつくさいってるまに考えてみろよ。そしたら考えを実行できる」

「実行、するんですか」

「案を考えるのは劇でいえば脚本家。脚本をもとに現場をとりしきるのが監督。舞台を作るのはスタッフ。実際に演じるのは俳優。脚本しだいでは監督は僕がやってもいい。あなたはまず脚本を作って」

「え、あ・・・・・・」

「煮えきらないなあ。いい? 現状打破するもしないもあなたの意志ひとつなの。あなたのためを思っていってるんだよ、僕のためじゃない、ほかのだれのためでもないの。わかる?」

 そういうアレーの語気には熱意があふれていた。白蘭は目を泳がせていたが、昨夜握手したときの信頼感と安心感を胸によみがえらせ、やがて決意したようにアレーをみていった。

「わかりました。――でも、あの、ひとつ質問が。千冬が舞台に乱入して、私が責任をとわれるようなことは・・・・・・?」

「だからそれはあなたの腕しだい」

 そういうとアレーは腰をあげた。

「じゃ僕は、出演準備のために楽屋に行くよ」

「え、いっちゃうんですか。案を考えついても、どうやって伝えれば?」

「僕は極力、出番が終わったらすぐ客席に戻るつもりだけど、それ前に思いついたら、さっき紹介したデパートの莫部長を呼んで伝えて。莫部長には僕から話しておくから」

「え、莫部長・・・・・・? どうやって呼ぶんですか」

「いちいち幼稚園児じゃないんだから自分で考えろよ。そこらにいるスタッフにきくとか、いくらでも方法はあるだろ」

 怒ったように去っていくアレーの背中を見送りながら、白蘭は緊張を全身に走らせた。

 千冬をハメる――おおいに望むことではある。でもこれまた、きいてなかったことであり、心の準備ができていない。そのため、なにも思いつかない。

 でも方法さえ思いつけば、アレーが実行してもいいといってるのだから、ぜひこのチャンスは生かしたい。千冬を転落させられる。私の身を守れるのだ。

 早くいい方法を考えなくては。アレーのいうとおり、時間はある程度はある。ファッション・ショー本番までは「開会の言葉」、「特別ショー」、「会長あいさつ」とつづく。でも、そのあいだに思いつかなかったら?

 ぐずぐずしているうちに客席が暗くなった。かわりに舞台が明るくなった。幕はおりたままだが、スポットライトがあたって、

「みなさーん、元気ですかー?」

 陽気な声とともに舞台袖からひとりの娘があらわれた。白蘭はぎょっとして目を凍りつかせた。

 あらわれたのは麗生だった。マイクの前に立っている。さっきとは格好がちがって、さすがに華やかな銀と紫の格子縞の旗袍をまとい、まとめ髪に銀の髪飾りをさしている。顔いっぱいに愛想笑いをたたえて、

「本日司会をつとめさせていただきます、中西女塾卒業生の麗生です。よろしくお願いしまーす」

 と、いっぱいに声をはりあげた。自分でいって自分で拍手している。客もつられて拍手した。麗生はミス摩登コンテストのファイナリスト一の人気者でもあるから自然と気分もうきたつのだろう。麗生は中国語と英語でかわるがわるいった。

「ショーがはじまる前にみなさんにお願いしておきたいことがあります」

 ということはまだショーははじまっていないらしい。開会時刻まであと十分強あるのに出てきたのは、「前説」のようなことをするためのようだ。後年のテレビ番組でもあるまいに、このファッション・ショーはなぜか事前に会場の雰囲気をもりあげるらしい。麗生は開会中のマナーの説明をおえると、世話好きの教師のように慣れたようすで客に拍手の練習などをさせ、それもすむとやがて、

「ここでみなさんに、すてきなお知らせがあります」

 といって、愛嬌たっぷりの目つきをした。

「実は今日の司会は私のほかに、もうひとりいます。だれだと思いますか? みなさんご存知の、あのビッグ・スターですよ」

 客の期待を高めたところで、麗生はここいちばんと声をはりあげた。

「なんと! ルドルフ・ルイスさんです!」

 自分でいって自分で拍手したが、客の反応はうすかった。

 ルドルフ・ルイスの名が上海で知られていなかったわけではない。それどころか四年前に彼主演の映画が封切られた当時はけっこうはやったが、いかんせん、いまとなっては忘れられた人だった。きっかけとなったのは三年前のスキャンダルである。それによって彼はロンドン映画界を追放されてしまったのだ。

 江田夕子もそのことは知っていた。いや、正確には知らない。スキャンダルらしいことがあり、彼がイギリスの映画にでなくなった、とは知っているが、スキャンダルの内容自体は知らない。いやなことには目と耳にふたをするたちの夕子は、それ以上の情報はあえて吸収しようとしなかったのである。

 だから夕子――白蘭はルドルフ・ルイスが司会をするときくと、ほかの客とちがって、目を輝かせた。さっきまでいやでしかなかった麗生の声に耳をすませた。

「――映画『黄昏の皇帝』で一世を風靡したルドルフ・ルイスさんですが、ここ数年は上海に滞在されていまして、イギリス系のバンズワース社の広告塔などををつとめておられます。バンズワース社はご存知のとおりシルク製品で有名ですが、今回ショーで披露します衣裳に同社製の生地を使っております関係で、ルドルフさんに司会の話をもちかけたところ、こころよくひきうけてくださったわけです」

 白蘭は胸をおどらせた。千冬をハメる方法を考えるのを忘れたぐらいだった。その千冬がルドルフの出演をきいて、自分同様顔色を変えたとは夢にも思っていなかった。

 千冬は化石したようになっていた。音信不通の恋人ルドルフ・ルイスが今日司会をすると麗生が昨夜自分にひとこともうちあけなかったことにショックをうけていた。

 そんな千冬を横目にみて、王結と馬秋秋はニヤリとしている。さっきまで千冬と楽しそうにしゃべっていたとは思えない、意地悪げな笑いである。このふたりはルドルフ出演のことは昨夜麗生にきいて知っていた。千冬にはわざと伝えなかった。麗生が千冬を招待したのには、どうやら裏があったようである。

 もっとも白蘭はそんなことは知らない。頭のなかはルドルフ・ルイスがこれから司会としてでる、ということでいっぱいになっている。

「ルドルフさんは開演とともに登場します。開演は十一時です。まだ時間があります。そこで私からみなさんにふたつお願いがあります」

 舞台上の麗生はいう。

「ルドルフさんが登場したら、みなさんに立ちあがっていただきたいのです。そして映画『黄昏の皇帝』のワンシーンにありますように『ロング リヴ、ジ・エンペラー(皇帝、万歳)!』と英語で歓声をあげていただきたいのです。ははなはだ恐縮ですが、お願いできますでしょうか」

 舞台の麗生は客席をみわたした。白蘭はその目が自分にとまったように感じた。麗生は私をみた。麗生は私だけを対象にしゃべっている――そう思って、水をあびたような心地がした。

「ルドルフさんにとっては、ロンドン以来五年ぶりの舞台になります。彼はいまとても緊張しています。でもみなさんが温かく迎えてくださったら、それも映画でおなじみの言葉で迎えてくださったら、きっとリラックスします。だから、ご協力いただけますね?」

 麗生は自分の反応をみている、と白蘭は思った。麗生は私が「ルドルフ」にどう反応するか、舞台からいちいち観察している。江田夕子はルドルフ・ルイスのファンだ。千冬が麗生に教えたのだろう。「ルドルフ」に異様な反応をしめせば、白蘭の正体は江田夕子とわかる。――なんということだ。私はさっきルドルフが司会をするときいたとき、露骨に喜びの表情をうかべてしまった。麗生は「えたり」と思ったにちがいない。いまから観客全員にルドルフ歓迎の練習をさせるのも、私の反応を観察する目的なんだ。

「ルドルフがでる前に、ちょっと練習してみましょうか。はい、ご起立願います。それではみなさん、ごいっしょに」

 「みなさん」といいつつ麗生は自分しかみていない、と白蘭は思った。

「ロング リヴ、ジ・エンペラー!」

 麗生の指示どおり陽気な客たちが声をそろえるなか、白蘭はろくに声をだせずにいた。これではよけいに疑われる、と思っても、麗生の視線が気になって神経はこわばるばかりだ。

 ルドルフ登場時には、麗生はここぞとばかりに私の反応をチェックするだろう。このままでは、白蘭の正体が江田夕子という証拠をつかまれてしまう。いけない、証拠を与えてはならない。ほかの客と同じにふるまわなくては。白蘭は自分を叱り、まわりと同じく声を発しようとした。ところがその瞬間、

「けっこうです。本番でもその調子でお願いします。ありがとうございました」

 麗生は練習を終わらせた。まるで、ねらいすましたようなタイミングだと白蘭は思った。

「それでは開会まで、いましばらくお待ちくださいませ」

 自分をみてうす笑いをうかべて去っていったように白蘭にはみえた。麗生は私がまともに練習できないのをみて、正体が江田夕子とほぼ確信したにちがいない。焦りと不安がうずまいた。ルドルフをみられるよろこびを感じるどころではなくなった。千冬をハメる方法を考えるよゆうもなくなった。

 だからうしろでふたりの女性が英語で会話をはじめても、そのうちのひとりが知っている声なのも気づかなかった。ただ話し声を漫然と耳に入れただけだった。

「こんなところで司会とは、昔のルドルフ・ルイスなら考えられないことだ。彼はトップ・スターだったんだ」

 男のようなしゃべり方だが、二十歳ぐらいの女性の声である。フランス語訛りの英語だった。

「イギリスではそうだったかもね」そういったのは三十代女性の声である。こちらはロシア語訛りの英語だった。

「イギリスだけなものか。彼は世界を魅了した」

「悪いけど私はルドルフが好きじゃないな。二十歳でデビューだっけ。いわゆるアイドル人気で演技力は毛ほどもなかったでしょ。下手に人気がでてお金を持ったものだから本人も調子に乗ってドラッグだのに走ったんだよね、ろくな人間じゃないよ」

「君、ルドルフにまつわるスキャンダルを本気にしてるのか」

「あの人が皇帝の映画で当たってから本物の皇帝になった気で相当のわがままぶりを発揮してたのは事実でしょう。イギリス映画界を干されて上海に来たのか知らないけどさ、こっちにきても皇帝気どりみたいだし」

「ちょっとは口をつつしんだらどうだ」

「だけど変わってるから、ルドルフ・ルイスって。あんたもきいたことあるでしょ? 伯父の邸をミニ・ヴェルサイユ宮殿風に改造させたって。伯父も子どもがいないせいか甥には甘いみたいね。まあウィリアム・ハルトンぐらいの大富豪ともなれば奥さんもいないことだし、あの上海一の広大な邸でも簡単に改造しちゃうんだろうけどさ」

「ルドルフはいいことをしたんだ。彼の美意識の高さがハルトン邸をよい方向に変えた」

「それはどうかな。まだ二十代の男が伯父の財産で好き放題に暮らしてるなんて。あの人、自分専用の劇場まで作らせたっていうじゃない。なんでもルドルフはその劇場に伯父は立入禁止にして、招いた劇団に一晩自分のためだけに演じさせるとか。自分もたまに俳優として舞台に立つことがあるらしいけど、そのときにはエキストラの観客を呼んで作り物の喝采に酔いしれているらしいよ。だから今日も拍手の練習なんてさせるのかも。あきれるね、ルドルフ・ルイスには現実を受け入れる頭がないんだよ、夢の世界に生きてるんだね。なのに今日はよくもまあ働く気になったじゃない。バンズワース社ってイギリスが誇る名門絹物会社のはずだよね? それがルドルフを広告塔って、なにを血迷ったか。不景気だからどこも必死なんだね、中国人に商品を売りこむのに」

「ルドルフにはまだまだ可能性があるってことだ。彼はきっとまた映画界に復帰するだろう。今日はそのための足がかりになる」

「難しいんじゃないの。まあ、いまからハリウッドなんてのは無理そうね。ルドルフは無声映画の俳優だから。いまはトーキーの時代でしょ、乗り遅れちゃってだめだよ。だいいち、上海でがんばるったって中国映画に西洋人がどうやって主演するのよ」

「時代は変化している。みよ、上海を。五年前までは中国人はパブリック・ガーデンに入ることすらできなかった。それがいまは中国人も西洋人と対等になりつつある。逆もまたしかり。西洋人が中国映画に出演しちゃいけないって法はないはずだ。ルドルフが上海人の心をつかむ日は近いだろう」

「まあねえ、私たちが中国系デパートに足を運ぶなんてことも三年前までは考えられなかったもんねえ」

 からかうような声にたいして、もうひとつの声がなにかいいかけたが、会話はそこでとまった。

 開演のブザーが鳴ったからだ。舞台をフットライトがてらし、左はしの司会席をスポットライトがてらした。舞台にはいつのまに麗生が立っている。

「レディース アンド ジェントルメン」

 マイクにむかって麗生が声をはりあげた。

「ミスター・ルドルフ・ルイス!」

 幕があがった。観客はさっき教わったとおり、立ちあがった。

 白蘭もそれにならった。おずおずとだが、腰をあげた。なにも考えられなかった。憧れの人を生でみられるという興奮と、麗生に興奮をみぬかれるのではないかという不安とで、千冬をハメる案を考えることなど頭からふきとんでいた。

 幕はするするとあがっていく。

 舞台中央にスポットライトがあたるなか、麗生の注意がひたすら自分にむいている気がして、白蘭は目をそらした。これから登場する人物をみたときに平静でいられる自信がなかった。舞台をみているふりをしているだけでも、動悸はこんなにも烈しくなっている。

 幕はあがりきった。

 時刻は午前十一時をうっている。

「ロング リヴ、ジ・エンペラー(皇帝万歳)!」

 会場は割れるような声にゆれた。白蘭もその声にあわせた。しかしスポット・ライトのなかを直視することはできなかった。ただぼんやりと白い光に黒いシルエットがうかびあがったのだけがわかった。

 ああ、私の女学校時代からの憧れ、ルドルフ・ルイスがいまそこに舞台に立っている・・・・・・。感動を白蘭は死に物狂いにおさえつけた。けっして彼をみず、目の光を消して無表情に徹した。それがいけなかったのか、次の瞬間、白蘭の耳には挑発としかきこえない言葉がとびこんだ。

「本日司会は私たちふたり、ルドルフ・ルイスさんが英語担当、私麗生が北京語担当でおこないます」

 うきうきとした声のひびきは、憧れの人にくっついている麗生の姿を頭にうかばせた。

麗生は私を嫉妬させようとしている。嫉妬させて決定的な反応をひきだそうとしている。

「イエス」

 と、麗生が客席にむかってうなずいた。

「ルーディ、よろしくね」

 麗生はなれなれしくルドルフを「ルーディ」とよんだ。それをきいて、いちばんに顔をひきつらせたのは小山内千冬だった。

 白蘭はどうにかこらえた。ここで驚愕と嫉妬をあらわしたりしたら麗生の思うつぼだと思った。逆に微笑してやろう、と思った。江田夕子は笑顔が苦手と思われている。だからここで微笑めば、白蘭の正体は江田夕子じゃないと思わせられる。ピンチを逆にチャンスに変えるのだ。

 緊褌一番、白蘭は口角をもちあげた。口だけは笑ったかたちになった。だが自分でもひきつったのがわかった。目まで笑わせることができない。むりして作り笑いしているのがバレバレだ。どうしよう、麗生をよろこばせてしまう、と思った折も折、

「実はルーディと私は初対面ではないんです」

 麗生がおそろしく声をはずませていった。

「初対面どころか、私たちは一年前から仲よしなんです」

 得々といって麗生は間をおいた。一年前から仲よしとは、なにごとか。白蘭はショックをうけた。表情にだすまいと一生懸命がんばった。麗生は私の反応をうかがっているにちがいなかった。

「それじゃルーディ、開会の言葉をおねがいしますね」

 麗生は上機嫌でいった。ルドルフ・ルイスがマイクにむかっているのが、ぼんやりとわかる。白蘭は舞台に顔はむけているが、まだ一度もルドルフ・ルイスに焦点をあわせていない。直視したとたん決定的な反応をしてしまいそうで、できない。

「ただいまより」

 ソフトな声が耳をうった。ルドルフ・ルイスの声だった。初めてきく生の声に、白蘭の心臓はとどろいた。憧れの人は英語でいう。

「銀華デパート、夏季ファッションショーを開催いたします」

 イギリス人らしいアクセントがすてきだった。白蘭は興奮した。

 ああ、彼の顔をみたい。でもみたら麗生に反応をチェックされる――。

 突然、白蘭はひらき直った。いまさらあがいてもムダだ。私はすでに何度か反応している。さっきの作り笑いをした時点で、正体は七割方ばれただろう。いまさら反応を隠したって同じこと。だったらルドルフをみて感動したほうがいい。

 白蘭は目線をあげた。スポットライトを直視した。そこにいる人に焦点をあわせた。そこにはたしかに、憧れのひとが立っていた。

 けれど、なにかがおかしい。

 あれが、ルドルフ・ルイス・・・・・・?

 白蘭は目をしばたたいた。七、八回、まばたきをした。いくらみても、いまみている人と心のなかの画像とが一致しない。

 あれが夢にまで描いたひとなのだろうか?

 『黄昏の皇帝』の面影はどこに? ルドルフ・ルイスはまだ二十五歳のはずなのに、肌は青白く乾き、切れ長だった目は腫れぼったくなり、あごには肉がつき、タキシードをきた腹はつきでていた。たった五年で人はあんなにも老けるものなのか。二十歳のときの輝きもりりしさも、あとかたもなくなっている。ルドルフ・ルイスと証明するものは金髪と長い脚ぐらいだ。あそこにいる人はあまりに昔のイメージとちがう。

「皇帝万歳! 万歳(ロング リヴ、ジ・エンペラー)・・・・・・」

 観客が一生懸命お愛想でもりたてているのに、ルドルフは手をふるどころか、にこりともしない。ひさびさに公の場にでられたことをありがたがるようすはみじんもなく、むしろ衆目にさらされるのが苦痛といった顔だ。つんとして、あごをあげている。喝采をあびるのは当然と思っているらしい。そのくせ、迷惑そうでもある。天井に泳いだ目をみると、おびえているようでもある。とにかくそこにいる人は、心に抱きつづけた「気高い貴公子」のイメージからはほど遠かった。

 幻滅して我に返った白蘭は、すべきことを思い出した。千冬を自発的に舞台に乱入させるアイデアを考えなくてはならない。「開会の言葉」はもう終わった。このあと「特別ショー」と「会長あいさつ」があって、そのあとはもう「ファッション・ショー開始」だ。時間があまりない。どうしよう。

「サンキュー、ルドルフ」

 司会の麗生は観客がルドルフに興ざめしたようなのをみて、さすがにまずいと思ったのか、紹介は早々にうちきって、ルドルフが司会席に到着するのを待たず、彼の無愛想をおぎなうにあまりある愛想たっぷりの笑みをたたえ、陽気に声をはりあげた。

「それではファッション・ショーをスタートするその前に、もうおひと方、会場をもりあげていただくこの方にご登場いただきましょう!」

 拍手を舞台中央にむけた。

「本日の特別ゲストのご登場です」

 ライトが消えた。

 舞台が闇としじまにつつまれた。と思うと、パッと赤い点が3つうかびあがった。

 火だ、ろうそくの火だ、炎が三つ舞台中央でゆらめいている。

 しだいに闇になれてきた人びとの目に、炎と炎のあいだを妖しくさまよう黒い影がみえだした。黒い影? いや、それは奥行きがある。動いている。動物かもしれない。――たぬきだ。赤黒い顔をしたたぬきがろうそくのうしろからみえる。

 特別ゲストとは、たぬきなのか? 

たぬきは炎と炎のあいだからマイクにむかって、のそのそと二本足で歩いてくる。

 白いカーネーションがろうそくの光にうかびあがった。このたぬきは胸に花をかざっているのか?

 いや、たぬきではない、人間だ。背が低く小肥りの人間が歩いているのだ。顔が丸く目が大きく垂れているから、たぬきにそっくりで、肌が浅黒いから初め黒い影と思ったが、正体は人間の男だった。

 とはいえ、どうもただの人間ではない。その人間は一種異様の雰囲気をただよわせている。まもなく頭上のライトが点灯して、その全貌がいよいよあきらかとなった。

 シャムの王様風の格好をしている。額に金色の布をねじり鉢巻みたいにまき、首から下は金の刺繍のある茜色のシルクの布でおおい、右手に金の杖をにぎっている。杖をもっているとはいえ、年寄りではない。全体的にあぶらぎった感じで、四十歳前後。顔は国籍不明、東南アジア系にもアラブ系にもラテン系にもみえる。

 やたらと濃い二本の眉、丸い鼻の右にはチャーミングなほくろが一点、口のうえには十九世紀的なカイゼル髭がぴんとはねあがり、あごには中国古代文人風のひげがゆれている。

 その顔が微笑った。男はマイクにむかって英語でいった。

「どうも、魔術師アレーでございます」

 たちまち会場はわいた。

 日の出の勢いの魔術師の登場に、だれもが自然と笑顔になった。アレーが手をふれば、作り物ではない歓声があがった。

 司会席のルドルフ・ルイスは嫉妬の色を隠さなかった。観客が自分の登場時より興奮しているのが気にくわないのだ。癇癖の強そうな眉をしかめ、アレーをにらんでいる。

「ではひとつ予言をさせていただこうと思います。よろしいでしょうか」

 魔術師はうたうようにいった。白蘭と口をきくときとはまったくちがう、まろやかな声である。その声をきいただけで、英語のわからない中国人客も麗生が通訳するのを待たず、催眠術にかかったようにおだやかな気分になるのだった。ただしルドルフはちがう、眩惑されていない。

「どなたの未来を予言するか――」

 魔術師は客席をみわたしたが、ふいに決意したようにいった。

「ここは銀華劇場です。せっかくですから、銀華デパート会長の巧月生氏の未来を占わせていただくことにしましょう」

 かすかなざわめきがおこり、つづいて大きな拍手がおこった。巧月生の未来を公の場で占うとは大胆な、という驚きにつづいて好奇心と期待が人びとの胸にわいたのだった。

「残念ながら巧会長ご本人はいま舞台にはいらっしゃいません。遠慮をなさって裏に控えておられます」

 冗談口調でそういうと、アレーは右手にもったものを客にかざしてみせた。

「しかし私にはこれがあります」

 それは尖端がモスクの塔のようなかたちをしたランプを思わせる碧色の壜だった。なかには液体が入っている。

「この壜に、巧会長の未来がうつしだされます」

 そういったのをきっかけに照明が消えた。舞台はふたたび闇におち、三つのろうそくの光だけになった。

 仄暗い光のなかで、魔術師は片手に壜をにぎり、片手で空気をもみはじめた。五本の指は断末魔の昆虫の足のようにうごめき、背後にその何倍もの大きさの影がおどりだした。

 一方で壜をかたむけ、まわし、髭だらけの口をすぼめ、息をふきかける。液体が碧色の壜のなかで流動している。その動きをアレーは息をふきながら、真剣な目で追っている。

 フー、フーという息の音だけが場内にひびきわたった。

 やがて魔術師は壜ごと両手で空気をもみだした。歯をくいしばり、髪ふりみだし、ろうそくの炎が消えないのがふしぎなくらいのふりまわしかたである。そのうち目にみえない相手と格闘でもしているように体ごと烈しくふり動かしだした。

 人びとは息をのんでみまもった。

 魔術師の金のネックレスはゆれ、額からは汗がながれ、あごひげからは何滴めかの雫がしたたりおちた。

 と、動きがとまった。

 ろうそくの炎のひとつが消えた。するとアレーはどうしたのか、頭をかかえてその場にしゃがみこんだ。

 と、消えたはずの炎がふたたび点火した。アレーは立ちあがり、おもむろに口をひらいた。

「巧会長は二か月後――」

 かすれた声が場内にひびきわたった。暗い語調に人びとは身をかたくした。だが心配することはなかった。

「ミス摩登コンテスト審査員に選出されます。さらに巧会長は一年後、映画会社をおこされ、『黄昏の皇帝』をゆうに超えるヒット作を生みだされるでしょう」

 人びとは緊張をとき、ほっと息をついた。半面、なんだ、お追従か、と思ってつまらなそうな顔をした者もいる。

 ルドルフ・ルイスはそのどれにもあてはまらなかった。彼は憤っていた。『黄昏の皇帝』の主演俳優として、「『黄昏の皇帝』をゆうに超える」という表現が許せなかったのだ。侮辱されたと思った。拳に力が入った。

「巧会長の未来がわかったところで、もうおひと方占いましょう。時間はまだたっぷりあります。どなたがよろしいでしょう。会場にいらっしゃるみなさんか、それとも――」

 舞台に戻ったアレーの目がルドルフの目にぶつかった。一瞬間があいた。するとアレーはいった。

「だれもが明るい未来があるとはかぎりませんが」

 その言葉がルドルフの眉をはねあげた。アレーとしては、ただ沈黙をうめるために適当な言葉をいっただけだったが、ルドルフは自分への皮肉ととった。自分に明るい未来がないといわれたように思った。逆上のあまり、発作をおこしたように叫んだ。

「魔術師さん、あなた以前、私を占ったことがありますよね!」

 アレーはびっくりして目をみはった。元スターが怒った顔を自分にむけている。なにがなんだかわからないが、いいがかりをつけられそうな雲行きだ。こういう場合の対処法は心えている。おちついてこたえようとすると、

「魔術師さん、まさか忘れたんですか?」

 ルドルフがさえぎった。司会席をとびだしている。観客は驚いてしんとした。ルドルフは麗生に自分の英語を観客のために北京語に通訳するよう命じると、舞台にのりこんだ。そしてアレーの隣に立って挑発した。

「忘れたんでしょう?」

 アレーは目を白黒させた。記憶力には自信があるが、ルドルフを占った覚えはない。覚えがないかぎり、相手がウソをいっているとしか思えない。ルドルフはなんのためにウソをつくのか。自分への嫉妬のためだろうとアレーは推察した。おちぶれたスターにはよくあることだ。それならこっちもひとつウソにあわせてやれ、という気になってアレーはこうこたえた。

「忘れていません。覚えてますよ。あなたは私におたずねになりましたね。ある娘に愛をうちあけたらどうなるか、と」

 よゆうをもったおだやかな語調でいった。はたしてルドルフの目に驚きが走った。動揺と焦りがあらわれ、顔が紅潮した。

「そうです」

 ルドルフはうなずいた。アレーがあまりにおちついて自分のウソを肯定し、ウソで返したので、思わずつられて肯定したのだった。だがすぐにそんな自分に腹がたって、わめいた。

「あなたは私に『告白すれば成功する』といいましたよね? 私はいわれたとおり実行しました。そしてふられたんですよ。あなたの占いははずれたんですよ、魔術師さん!」

 完全にいいがかりだった。アレーはさすがに顔色を変えた。ルドルフはなぶるようにいう。

「ねえ魔術師さん、いいわけは許されませんよ。予言とか大げさなこといっても、はずれたのは事実なんですよ。おかげで私は苦しみました。あなたは今日まで私にいったことなど忘れていたでしょうがね」

「そんなことはありません。ちゃんと覚えていました」

「だったら、いってみてくださいよ。私があなたにペテンにかけられたのが西暦何年何月何日だったか」

「・・・・・・」

 アレーはこたえなかった。ナイフで胸を刺しとめられたような顔をしている。客席がざわめいた。ルドルフは得意になって攻撃した。

「覚えてないんですか。それなら魔術で記憶をよびおこしたらどうです? ――なに、できませんか、魔術もインチキだったんですか。そんなので許されると思ってるんですか、アレーさん!」

 ルドルフはものすごい剣幕でまくしたてた。

「もういいですよ、自分でいいますよ。あなたが私を占ったのはですね、いまから六年前、一九二五年の十二月十二日ですよ。場所はパリのモンマルトル。どうです、いい逃れはできないでしょう?」

 元スターは勝ちほこったようにいった。六年前といえばルドルフは十九歳。デビュー前、十八歳でフランスの田舎をでてパリに渡ったことは広く知られている。アレーもちょうどそのころパリにいたと公表していた。

 魔術師アレーが敗北したかにみえたそのときだった。妙にまのびした声が人びとの耳をうった。

「一九二五年かあ、なつかしいなあ」

 みるとアレーが口を動かしている。

「あのとき、いました、フランスに。パリは食べ物がおいしかったなあ、特にあのポルトガル風牡蠣料理」

 アレーの目はうっとりとして、さっきまでとは別人のように弛緩した表情になっている。いったいどうしたのか。だれもが魔術師の精神状態を疑った。ルドルフも唖然とし、とっさにはさえぎることもできずにいる。アレーはよだれがたれそうな顔をしていった。

「特にあのシェフのが抜群でした、あのシェフの・・・・・・ええと、毎週金曜にお店が常連客でいっぱいになる、ケープコッド特産のクラムを養殖させていた・・・・・・あれ、シェフの名前がでてこない。私も年ですね、あれほど有名な、パリに暮らした人ならみんな知ってる店のシェフの名前を思いだせないとは」

 アレーはいった。

「ミスター・ルイス、恐縮ですが、シェフの名を私に思い出させてくださいませんか?」

 とぼけてきいたが、シェフの名はわかっていた。アレーには考えがあった。ルドルフの弱点をついて巻き返しをはかろうという魂胆だった。アレーはルドルフがパリにいたくせにパリに疎く、インテリぶってるくせに無知なのを知っていた。

「さあ、教えてください」

 ルドルフの目は泳いでいる。案の定、シェフの名を知らないらしい。

「私は高級料理とは無縁でしたので」

 ルドルフはいった。負け惜しみなのはあきらかだった。アレーはきりかえした。

「あのお店は高級料理ではなく、伝統料理でしたよね。庶民に人気があって、パリ在住のアメリカ人にも、うけがよかった」

 ルドルフの目がハッとなった。自分の無知をごまかそうと、負け惜しみを重ねた。

「けっこうなことです。パリ時代のあなたには、高級料理にしろ伝統料理にしろ、美食を楽しむよゆうがあった。当時演劇の勉強に忙しかった私には、そんなヒマはありませんでしたけどね」

 それにはこたえず、アレーは手をたたいていった。

「そうだ、シェフの名を思いだしました。エミール・プリュニエでした」

「ずいぶんうれしそうですね。そんなになつかしかったら、そのシェフの料理を食べにフランスへ行ったらどうです?」

 ルドルフはイヤミで一矢をむくいたつもりらしかった。とんでもない、とアレーは心中に笑い、顔では哀しい表情をつくっていった。

「そうしたいのですが・・・・・・ちょうどあの年の終わりにプリュニエ氏はお亡くなりになられましてね。ショックでしたよ。新聞にも死亡記事が単なる料理家を越えたあつかいでのってましたが、ご存知ありませんでしたか?」

「・・・・・・」

 ルドルフは目をそらした。アレーは気づかない顔でつづける。

「とにかく、あのころの私はおっしゃるとおり道楽家でしたな。修行中の身でありながら、パリにあるものはみんな吸収し、楽しもうとした。料理しかり、芸術しかり、ファッションしかり。まあ、パリにのぼせてたんですね。ブラン百貨店でアンリ・ルソー作品展が開催されたときなんかは初日の前の晩から泊まりこみでならびましたっけ。――ルドルフさんは、そんなことしてる時間はなかったですよね? ひとつのことに専念されてたから、アンリ・ルソーの作品展があること自体耳に入らなかったのでは?」

 いやみともとれる問いかけだった。

「アンリ・ルソーぐらい知ってますよ」ルドルフは眉間にしわをたてていった。

「でもああいう抽象的な絵は好きじゃないので」

 アレーはニヤリとして、

「抽象的?」と、ききかえした。

「アンリ・ルソーの絵がですか? 南国を舞台にした具象画がほとんどですよね。僕なんかは大好きですが、そうですか、ミスター・ルイスはアンリ・ルソーがお好きではないですか」

「ええ」

 ルドルフは青い顔をしてうなずいた。

「絵よりも音楽の話のほうがいいですかね。当時オペラ座をにぎわせた楽団についてご意見をうかがいましょうか」

 ルドルフのこめかみがピクピクと動いた。アレーは知らない顔をして、

「あなたは当時のオペラ座の公演をどう評価しますか?」

 じりじりと迫った。

「いいかげんにしてください!」

 ルドルフが癇癪をおこして叫んだ。青くなった唇をふるわせ、いった。

「パリの話でごまかさないでください、あなたの占いがはずれたって話を!」

 意外にも、アレーは否定しなかった。むしろ申しわけなさそうな顔になって、

「私としたことが、あなたのお気持ちも考えずに、手前勝手にパリの思い出話などして・・・・・・失礼いたしました」

 アレーは深々と頭を下げた。ルドルフは肩すかしをくった顔になった。

「ルドルフさまにとってパリは、けっして居心地のいい場所ではありませんでしたね。私は当時のあなたの苦しみを思い出すべきでした」

 ルドルフは毒気をぬかれた顔になった。ふりあげたこぶしは、いつのまにおりている。

「私は当時のあなたをよく覚えております」

 切々とした語調でアレーはいった。

「私のところへ来てあなたはおっしゃいました。毎日がつらい、と」

 ルドルフの目の光がゆれた。

「あなたは当時演劇学校の職員をしておられた。まだ十八歳で、自分と年の変わらない若者たちが演劇を学ぶのを横目にみて掃除と警備にあけくれる日々。しかも上司は年下のガラの悪い少年、つらいことばかりだと」

「・・・・・・そうでした」ルドルフはうなずいた。過去を回想する目になって、

「私は毎日耐えてました。デビュー前のパリ時代は、つらい思い出でいっぱいです」

「その経験がイギリスで生かされた。あなたはロンドンで俳優として成功されました」

「ええ、一時は。新聞が私を悪者にしたてあげる前までは、です。記者たちは真実を知りもしないくせに、私のパリ時代をでっちあげました。私を犯罪者にしたてあげて・・・・・人びとはそれを信じて・・・・・・。おかげで私は、私は・・・・・・」

 いっているうちにルドルフは昔を思い出して激昂した。拳をにぎり、顔を真っ赤にした。

「いまではだれも私の潔白を信じてくれない!」

 突然叫んだ。拳をふりあげている。客は息をひいた。

「私は信じます」

 アレーはいった。

「私だけはあなたを信じますよ、ルドルフさん」

 力強い声だった。ルドルフは驚いてふりかえった。

「いま、なんて・・・・・・いいました?」

「ルドルフさんの潔白を信じる、といいました。私は当時のイギリスの新聞を読みましたが、ひどいものでしたね、あれは。あなたの過去と題する記事、あれは悪意にみちたでっちあげ以外のなにものでもありません。人びとはそれにだまされましたが、私はちがいます。私はあなたを知ってます。あなたは記事のようなお人ではない」

 ルドルフの拳から力がぬけた。

「・・・・・・いままでだれも、そんなふうにいってくれなかった。・・・・・・あなたは私の潔白を、信じてくれるんですか?」

 アレーは誠意をこめたふうをよそおって、うなずいた。

「はい」

「ああ、わかってくれる人がいた」

 ルドルフは感激をあらわにいった。

「どれだけ待ったことか、『あなたは悪くない』といってくれる人を。その人がついにあらわれた。神はまだ私を見捨ててはおられなかった・・・・・・」

 それまでとは別人のようにアレーを眺めている。その肩にアレーが温かい手をおいた。ルドルフは勇気づけられたようにいった。

「いまなら、みなさんに話せそうです。パリで私になにがあったのか、ほんとうのことをいえそうです。つらかった思い出も、この舞台でなら。これは神が与えてくれたチャンスです。過去と決別するチャンスです」

 ひとりで納得し、客席をみわたし、興奮状態でいった。

「ああ、いますぐにでも――いや、いますぐ私の真実を話したいです」

「お話したらどうでしょう」アレーはすすめた。

「お客さまも理解してくださるでしょう。俳優ルドルフ・ルイスが真実を話すのです。時間ならあります。そうですよね、麗生さん?」 

 舞台袖の司会席に顔をむけてきいた。

 麗生は戸惑った。たしかにアレーの持ち時間はまだじゅうぶん残っていたが、ルドルフが過去を告白するとなると話がちがってくる。どう考えてもファッション・ショーの余興としてはふさわしくない。勝手なことはやめて、といいたかった。ただでさえルドルフのそれまでの行動にはハラハラさせられどおしだった。おまけに彼の英語を客のために北京語に通訳する役を臨時に与えられ、それを実行してきて疲れきっていた。がまんの限界だったが、その場はつい、プロらしく笑顔でこたえていた。

「はい。時間ならありますよ」

 するとアレーは安心したようにうなずき、客席をみていった。

「お客さまも、よろしいですね?」

 客はあるいはうなずき、あるいは拍手をもって返した。好奇とはげましのまじった目がルドルフに集まる。

「さあ、ルドルフさん、みなさんが待ってます。あなたのほんとうの過去を話してください」

 アレーに背中をおされ、ルドルフは決然とマイクにむかった。

「では、話しましょう。いまから四年前の一九二七年、『俳優ルドルフ・ルイスの黒い過去』と題する記事がイギリスをはじめ世界のゴシップ新聞をにぎわせました。新聞はパリ時代の私を『殺人未遂犯』、『金庫泥棒』等々、いいたい放題の名でよびました。だがしかし私は断じて犯罪者などではありません!」

 よみがえる怒りに、ともすれば平静を失いがちなルドルフの背中をアレーがうしろからさすって落ちつかせる。

「私は真実を話します。良いことも悪いことも隠すつもりはありません。悪いこともいわなくては本当の話と信じてもらえない可能性があるからです。

 ご存知のとおり、私はフランスの地方都市ナントの出です。父親はナントの田舎貴族の出身、母親はイギリス人です。ふたりの出会いはパリだったといいます。父は大学に通うため、母は服飾の勉強でパリに滞在していました。恋におちたふたりは、ナントの父の邸で結婚式をあげ、そのままそこで暮らし、私が生まれました。私が中学に入るころ、父は画廊で働くようになっていました。父は賭博好きで父祖伝来の財産をすっかり食いつぶしていました。母が針子になって家計を助けてましたが、だいぶ危機に瀕していました。だから私が都会にでるといっても父も母も反対はしませんでした。

私がパリにでたのは一九二四年六月、十八歳のときのことです。

劇作家になりたかったんです。夢はありましたが、お金はなく無一文同然で、パリには友人もなく頼るものといっては故郷のE・・・・・子爵が書いてくれた一通の紹介状だけでした。

 ところがこの紹介状というのがクセモノでした。E子爵はパリにいるアルベール家を紹介してくれたのですが、あとから考えると悪意があったような気がします。なにも知らなかった当時の私は、パリで生活するためになんの疑いもなく紹介状にある住所――サン・クロード街の邸を訪れました」

 いちど話しだすと堰をきったようにとまらなかった。この元俳優は演説をはじめると独裁者のように滔々と語れる性質らしい。登場時におびえた顔をしていたのがウソのように、客席にむかって堂々と語っている。

「アルベール家といえば名門です。紹介状をもっていけばお客様あつかいで生活させてくれる、というE子爵の話だったんですが、どうしてどうして実際に行ったら下男あつかいでした。私が劇作家をめざしている、というと『どうぞ部屋を執筆に活用してください』と口ではいって、机と寝台つきの一人部屋を与えてくれたんですが、書こうにも全然落ちつけないんです。しょっちゅう呼びだされ、朝昼晩きっちり掃除、洗濯、炊事を手伝わされました。使用人ならいっぱいいるのに、伯爵夫妻はただでは置いてやらない、とばかりに私に家事をやらせるんですからね。私だって没落貴族とはいえ仮にも貴族の息子ですよ、生まれてこのかた家事なんてやったこともなかったんです。その私に退屈で不毛なことのくり返しをさせたんですからね。うんざりしました。私はこんなことをしにパリにきたんじゃない、と叫びたかった。私はエネルギーをムダに消費しました。自由に使える時間はあっても、ろくに書けなかったんです。くだらない現実に侵されるたび、私の頭と心からはロマンチックな気分や夢想が奪われていきました。

 ふぬけのような生活を送っている私をよそに、アルベール家の息子たちはいい気な生活を送っていました。特に次男のジャンは私と三つしか年がちがわなかっただけに鼻につきました。当時二十一歳だったジャンは大学生で自作の小説が雑誌に載ったとかで、すっかり作家気どりでいたんですからね。

私が劇作家志望というので、いかにもバカにした口をきいてきたりしました。自分はこの一か月で三作も書いただとか、自慢げにいったりもしました。そのあいだに私は一作も書けていませんでしたから、悔しくて腹が立ってしかたありませんでした。なにしろむこうは家事などいっさいしなくてよかったんですからね。好きなときに好きなだけ想像力をふくらませられる。いきづまれば金にあかせて夜のパリで遊び、女をつれて旅行にでかける、大学をサボっても一家のだれも文句をいわない、なんでも『取材』でとおる。

こんな不公平がありましょうか。パリもアルベール家もジャンには才能を与え、私からは才能を奪う。ただでさえ頭にくるのに、ジャンが私を小説のネタにするといいだしたんです。才能もない田舎者が芸術家をめざしてパリにくるとどういうことになるか書きたいんだといって私を冷笑とともに観察しだしたんですから、たまりません。私が婉曲にやめさせようとすると、『まあみてろ、いまにおまえをパリいちばんのバカとして有名にしてやるから』といって笑ったんです。

そんな環境ではいよいよ脚本を書けなくなりました。私がそれまで以上にくさくさしだしたのは、いうまでもありません。といって遊ぶお金もなかったので、怒りと苛立ちをまぎらわすには悪口をいうしかありませんでした。私のほかにもアルベール家を憎んでいる男がいたのです。それが厨房の小僧のポールでした」

興にのって早口になるのを、麗生が懸命に通訳していく。

「ポールは私より若く、まだ十六歳だったので先輩にこきつかわれていましたから、それでアルベール家を逆恨みしている感じでした。もともと臆病で陰険な人間だったらしく、悪口を生きがいにしてるようなところがありました。だから彼と話すと私のうっぷんはだいぶ晴れたんです。むこうも私をいい相棒とみてるようでした。ふたりでヒマさえあれば悪口をいいあうようになりました。

そんなある日の会話に毒の話がでたんです。食事に毎日少しずつ毒をもれば、アルベール家を殺せるのではないか、という話をしたのです。むろん私は本気で実行する気はなく、想像上の話として、毒はなにがいいか、分量はどれぐらいがいいか、どのタイミングがいいか、ということについてポールと案をだしあって楽しんでたんですね。そうすると、いやな人たちをほんとうに消せた気がして、ラクになれたものですから。

まさかポールが話したことをほんとうに実行していたとは、思いもしなかったんです。ポールは私の知らないあいだにスコポラミン(鎮静剤として用いられる水溶性のアルカロイド)を毎日すこしずつお茶や食事に盛っていました。三か月後には夫人と伯爵が手足のしびれをうったえだしました。四か月後にはジャンが倒れて足を骨折し、動けなくなりました。しかも一家そろって物覚えが悪くなり、会話のスピードがのろくなり、呆けたみたいになったんです。薬のおかげで頭が弱ったんですね。

あのジャンが作品を書けなくなりました。そのころちょうど演劇学校に脚本をたのまれていたので、だいぶ困ったみたいです。それをかわりにやってくれないか、とジャンは私を呼びだしていいました。以前のジャンなら考えられないことですが、薬のおかげで頭に霞がかかっていたので、私にたのもうなどと考えついたのでしょう。

私はジャンの代理として、その演劇学校とやらにでむくことになりました。脚本は学校でやる芝居用ということでしたので、講師と構想をよく話しあう必要がありました。なんといってもパリの演劇学校ですから胸がワクワクしました。運がむいてきたと思いました。これをチャンスに自分を売りだそうと、はりきって仕事にかかりました。

ところがです。書けないのです。一文たりとも書けないのです。どうあがいても、だめでした。理由はひとつしかありません。私も一家と同じ、何か月にもわたって知らずにスコポラミン入りの食事とお茶を摂取していたのです。体に目立った異常がでなかったのは、常用薬の胃薬のおかげだったと思います。ポールのやつめ、私に黙ってだれかれみさかいなく毒を盛るとは、なんて愚かな――と思いましたが、怒っても書けないものは書けないままでした。

締切の日、私はなにももたずに演劇学校に行きました。現状をわかってもらって締切をのばしてもらおうと考えたんです。甘かった、とすぐにわかりました。先方はジャンに報酬を前払いしていました。だからどうしても今日じゅうに脚本をだしてもらうというのです。脚本をだせず金を返せないとなれば、ジャンは骨折で動けない状態なので、私に掃除夫として働いてもらうよりほかない、とまでいわれました。私は焦りました。前払いのことはきいてなかったんです。こうなったらジャンに報酬を学校に返してもらうしかないと思っていったん帰りました。

 ところがアルベール邸はちょうどそのころ上を下への大騒ぎでした。ポールが毒を盛ったことが発覚したところだったんです。私は共犯を疑われていました。ポールと私が一家の悪口をいっていたことは使用人の一部に知られていたからです。もうジャンに金をだしてもらうどころではなくなりました。

私は必死で自分も被害者のひとりだと主張しました。アルベール伯爵家は警察沙汰になるのは好まなかったので、その点はだいじょうぶでしたが、私はポールとともに邸から追いだされることになりました。

私は演劇学校の掃除人として働かざるをえなくなりました。脚本家になるはずが、掃除人ですよ。上司は自分より年下の不良少年でした。その人間に先輩風をふかされ、朝から晩までこきつかわれ、食事や睡眠も自由にはできず、俳優女優気どりの学生たちに虫けらあつかいされ・・・・・・。そんな私の唯一の救いはひとりの娘でした」

 ルドルフの語調が哀切にみちたものに変わった。

「私は演劇学校の生徒のひとりに恋をしたんです。女優をめざすだけあって、きれいな娘でした。しかし恋はすぐに破れました。告白して、ふられたんです。

 最初から自信はなかったんです。でもモンパルナスの辻占師が『成功する』といったから・・・・・・でも占いははずれました!」

 ルドルフは恨みのこもった目をアレーにむけ、それから客席をみていった。

「パリは私の夢をとことんうちくだいたんです。身も心も傷ついた私はパリはおろかフランスにいるのもいやになり、イギリスにわたりました」

 しんみりとした語調になって、

「ゴシップ記事の三分の一は事実かもしれません。でもあの記事は大きなとりちがえをしています。私は加害者ではなく、被害者です。これだけはみなさんに信じてもらいたい――私は犠牲者です。私はE子爵、アルベール伯爵夫妻、その次男のジャン・アルベール、下男のポール、演劇学校の職員といった人たちの犠牲になったのです。

ポールがいなければ私はアルベール家を追いだされることはなく、ジャン・アルベールがいなければ私は演劇学校の下働きなどしなくてすみ、毒殺話をポールとすることもなく、ポールが食事の毒をもることもなく、私は共犯者と疑われずにすみ、アルベール伯爵夫妻がいなければ私は家事などしなくてすみ、E子爵がいなければ私はパリでアルベール邸などに住まずにすみ、脚本家としての道をあやまらずにすんだのです。

しかも私は二年後、彼らのせいで俳優の座からもひきずりおとされました。ロンドンのゴシップ紙が当時のことを書きたてたから――。もとよりいい加減な記事を書きたてたロンドンの悪徳記者は立派な加害者です。

これだけは、みなさんに知っていただきたい。

 ルドルフ・ルイスは、被害者だと――」

 ルドルフはうったえるがごとくいって客席をみつめた。観衆は静まりかえっている。いや、麗生の通訳だけがつづいている。

 いいたいことをいいおえたルドルフはふたたびぬけがらのようになって、うつろな目を天井に投げだしている。するとその肩をアレーがたたいていった。

「いやルドルフさん、よく話してくださいました。パリ時代のお話、初めて直接きくことができましたよ」

 賞賛するにしては、どこかそっけない口調だった。

「それでわかったんですが、あなたは必ずしも被害者ではない」

 アレーはきっぱりといった。ルドルフは耳を疑うといった顔をした。アレーはルドルフの肩に手をおいて、

「誤解しないでいただくためにいいますが、ルドルフさん、私は決してあなたの苦しみを否定しているわけではありません」

 語気をやわらげていった。

「あなたにすこしでも楽になっていただきたいのです。そのためには、あなたのいう『加害者』の心理も考える必要があると思います」

 なにをいうか、という目でルドルフはアレーをにらんだ。

「『加害者』はなぜあなたが喜ばない行動にでたのか。どんな思いからそうした行動にでたのか、ということを考えてみるのです。

 たとえばE子爵ですが、アルベール家を紹介したのは、あなたの夢をつぶしたかったからではないでしょう。それどころか、あなたの力になりたくてしたはずです。

そういうことがわかれば、あなたが加害者と呼ぶ人たちは、必ずしもあなたを苦しめるのが目的で行動したわけではなかったとわかり、同時にあなたは必ずしも被害者ではなかったとわかるはずです。そうしてすこし楽になるはずです」

「私が、被害者じゃない? 私の話をちゃんときいてましたか?」

「ええ、きいていました。だからこそいってるんです。お話をきくかぎり、あなたが脚本家になれなかったのは、パリやアルベール家に原因があるとは思えないものですから」

 ルドルフはこめかみをピクピクとふるわせて叫んだ。

「結局あなたも私が悪いといいたいんじゃないですか! 私はなんのために恥をしのんで真実を話したんですか、話がちがうじゃないですか」

「もうすこしきいてください。私はただ、あなたにほんのすこし考え方を変えていただきたいだけです。あなたはアルベール夫妻を人でなしのようにいいますが、夫妻はあなたの執筆の邪魔をしようとはしてなかったはずです。それにあなたはほかならない伯爵夫妻のおかげでパリで生きていられたのです。夫妻は他人のあなたに衣食住をただで与えていた。ですからその代償に家事をするぐらいはふつうのことです。脚本はあいた時間に書こうと思えば、いくらでも書けたはずです。それが書けなかったのは伯爵夫妻のせいではありません。あなたの責任です」

「・・・・・・!」

「次男のジャン氏についても同じことです。不快な言動をとっていたようですが、あなたと友だちになりたかっただけかもしれません。私はジャン氏の作品をいくつか読んだことがありますが、氏の分身といわれる登場人物の性格をみると氏はかなり屈折した性格ですね。根は孤独で淋しがりやのようです。だからあなたと親しくなりたかったのに、傷つけるような言動しかとれなかったのかもしれません」

「だったらなんだっていうんですか。親しくなる気があったからって許してたら、警察なんていらないじゃないですか。白黒つけなきゃいけないんですよ、白黒を」

「人間はたいてい白黒両面もっています。白黒――善悪両面ですね。だれにでも、いい面と悪い面があります」

 アレーはなだめすかすようにいった。

「ルドルフさん、あなただってそうです。あなたはアルベール家の人間に従うふりをしながら、陰では毒殺の方法について話していた。実行するつもりはなかった、といっても、下男のポールがあなたの話からヒントをえて実行したのは事実です。そう考えると、あなただって加害者です」

「・・・・・・」

「ロンドンのゴシップ紙が書きたてたように、あなたがパリの演劇学校から札束を横領してロンドンに渡る資金にしたというのが、ほんとうかはわかりません。でもあなたが演劇学校でイヤな目ばっかりみたのではないのは事実ですね。あなたはジャン氏の契約違反のとばっちりをうけたおかげで、演劇学校で働くことができ、演劇を学べましたよね。空き時間にレッスンを無料でうけたというじゃないですか。おかげで俳優という道がひらけたのです。もしあなたがアルベール邸をおいだされていなかったら、ジャン氏があなたに演劇学校を紹介しなかったら、俳優ルドルフ・ルイスはおそらく誕生していなかったでしょう」

「・・・・・・」

「あなたはイギリスにわたって華々しい成功をおさめられた。その点、私の占いはあたったわけですよ」

「どこかです」

「辻占師はあなたに成功を約束しました。でもそれは恋の成功のことではなく、映画デビューのことだったんです。辻占師には、なにもかもみえていました。あなたがパリで失恋すれば、イギリスに渡るだろうことも。そこで俳優デビューし成功するだろうことも」

 ルドルフの瞳孔がひらいた。

「辻占師はかつてもいまもあなたのためを思うことしかいいません。どうかご自身を不幸ときめつけないでいただきたい」

 ルドルフの目の光がゆれた。

「ルドルフさん、私はただ、これ以上あなたに苦しんでほしくないだけなんですよ」

 ルドルフの眉がさがった。鼻が唇がふるえた。

「あなたはもうじゅうぶん苦しんでこられた、そうでしょう?」

 ルドルフはうなずいた。

「今日までよくがんばってこられた」

 アレーはひろげた両腕でルドルフの体をつつみこんだ。

「・・・・・・」

 ルドルフはアレーの腕のなかで肩を波うたせた。その背中をアレーが赤ん坊をあやすようにやさしくたたく。

 ルドルフの目から大粒の涙がこぼれおちた――。

 上出来だ、とアレーは心中でほくそ笑んだ。この勘違い野郎に最初にいいがかりをつけられたときは、どうしようかと思ったが、最後にこれほど感動的な場面を演出できるとは。

客は温かい拍手を送ってくれた。ルドルフを不審な目でみていた者も、子どものように泣く姿をみてみまもる目になっている。

 もちろん例外もいた。白蘭がそうだ。軽蔑の目でみている。

 情けない男、と白蘭はルドルフをみて思っていた。憧れの人だっただけに裏切られた気持ちでいっぱいだった。パリ時代の話もスキャンダルの内容も今日はじめて知ったから、なおさらだった。

 人前で泣く、なんでも人のせいにする――なんて女々しい男なのだろう。「加害者」の気持ちなど人から指摘されなくても、すこし考えればわかることなのに、それもわからないで自分が被害者と主張するなんて自己中心的すぎる、ばかすぎる。白蘭は自分を棚に上げて、腹の中で毒づいた。ルドルフ・ルイスは理想の男性どころか、男の風上にもおけない。男どころか人間としてもだめすぎる。

 その点、李龍平さんはちがう。私を夜道で助けてくれた。人間としても男としてもすぐれている。外見も黙っていれば俳優に負けないくらい美しいし、私の理想そのものだ。それにくらべて、いまのルドルフ・ルイスは、と思って舞台をみたら、嘲笑がうかんだ。

 いまやっと自然に笑えた――と思ったが、そんなときにかぎって麗生はこっちをみていない。白蘭の正体は江田夕子とすでに判断がついたために監視を終了したのだろうか。それならなおさら千冬を舞台に乱入させなくては――と思って小さな脳みそを回転させようとすると、うしろの列から女性の話し声がきこえだした。さっきと同じ英語の声だった。

「ルドルフ、よく泣くねえ」ロシア語訛りの三十代女性の声がいった。

「抑えていたものがこみあげたんだろう。実際彼はこれまでよく耐えてきた。悪いことをしていないのに、悪くいわれることに」フランス語訛りの二十代女性の声がいった。

「どうだか、自業自得だよ。上海にきてからは女にだらしないようだし」

「バスコーラ、彼の話、きいてたか? 噂は噂、真実とはちがう」

「きいてた、きいてた」バスコーラとよばれた三十代女性はいった。

「でもこっちが知りたいことには、ひとこともふれなかったよね。パリ時代より、俳優絶頂期の噂の真相のほうを知りたかったんだけど。いわなかったってことは、ドラッグとギャンブルとセックスにまつわるトラブルは真実だったってことだよね」

「ちがう、でまかせだ、あれはルドルフの当時の秘書の戯言だ。秘書はルドルフの金を横領してた。そんなやつのいうことなんかどうして信じる。ルドルフはけっして派手な生活なんか送ってなかった」

「はいはい。あんたはルドルフ・ルイスのことになると、すぐムキになるんだから」

「店をクビにするといわれたって、ルドルフびいきはやめられない」

「わかってるよ。あんたはうちの店の花だからね」

 話から察するに、バスコーラ(三十代女性)は店の経営者かなにかで、二十代女性はその店に雇われている従業員らしい。それも「店の花」というからには売れっ子のようだ。白蘭は会話をきくともなくきいて、ぼんやりそんなことを思っていた。ところが、次の言葉が耳に入ったとたん、ハッとなった。

「でもロレーヌ、ルドルフには注意したほうがいいと思うよ」

 バスコーラは「ロレーヌ」といった。白蘭はぎょっとなった。うしろにいたもうひとりの女性はロレーヌだったのだ。なぜいままで気づかなかったのだろう。ロレーヌはナイトクラブのステージダンサーだ。そう考えるとバスコーラはそのクラブの経営者か。それにしてはロレーヌが横柄な口をきいているが、トップダンサーだから許されるのか。

「ねえ、ロレーヌ、わかってるだろうけど」

 バスコーラは声をおとしていった。

「気をつけなよ。あの男は、ファイナリストふたりと関係をもってるんだからね。あんたのライバルのトップ3ふたりと」

 ファイナリストときいて白蘭は息をのみ、耳の穴をひろげた。ルドルフ・ルイスがトップ3のふたりと関係をもっている? ロレーヌをぬかしたふたりといえば、麗生と小山内千冬だ。

「またそれか。両方とも女がまつわりついてるだけ。たいした関係じゃない」

「でもあんた自分でいってたじゃない。ふたりともそれなりの関係だって。日本人のほうは去年の五月から、中国人のほうは去年の夏からつきあってるって」

 白蘭は小さな頭をせわしく回転させた。「日本人のほう」とはトップ3でいえば小山内千冬、「中国人のほう」とは麗生のことにちがいない。ふたりが去年からルドルフとつきあっている? ほんとうだろうか。麗生は李龍平とつきあっていたのではなかったのか?

「たしかに事実だ」ロレーヌの声がいった。

「本人たちに直接きいた。もっとも日本人のほうは、別れたも同然の状況らしい」

「どういうこと」

「ルドルフとずっと連絡をとってないといった。というより、連絡をとれないと。今年に入ってからずっと無視されてるらしい」

「中国人のほうとは、うまくいってるの」

「舞台をみればわかるだろ」

「じゃあ日本人のほうは嫉妬してるね」

「いや、どうかな。おたがい自分だけがルドルフとつきあってると思ってるようだから」

「そうなの?」

「もうそのくらいでいいだろ。私はルドルフの舞台をみにきたんだ」

「はいはい。ロレーヌはいつでもどこでも、彼を遠くから静かにみまもりたいんだったね」

「ばかにするなよ。今日は特別な日だ。なにしろ彼は司会だけでなく、モデルもするときてる。観客はまだ知らされてないが」

「めずらしいよね、男性がモデルするって。しかも大トリを飾るって」

「それこそルドルフ・ルイスの復活の舞台になる」

 最後のほうを白蘭はほとんどきいていなかった。ルドルフが千冬と麗生に二股しているらしいときいて、そのことで頭がいっぱいになっていた。ルドルフが今日麗生と司会をするのも、裏にそうした事情があるからなのだろうか。一方の千冬のことは今年になってから相手にしてないという――。

ふと、ある考えが白蘭の頭にひらめいた。――そうだ、この考えならいける、この方法なら千冬をハメられる。自発的に舞台に乱入させられる。

 白蘭はにわかに意気をあげた。しかしアイデアを伝えたいアレーはまだ席に戻っていない。かわりに莫宣伝部長に伝えるよういわれているが、どうやったらいいかわからない。スタッフにきけばわかるとのことだが、それがまた難儀だ。

 スタッフは腕章をつけていて、舞台下に何人か距離をおいて立っている。声をかけようと思えば、できないことはない。だが舞台では司会が進行を再開させている。その最中に声をかけたりしたら目立つ。

 それに警備員に不審に思われかねない。壁をとりかこむ彼らは、場内の端々に絶えずレーダーのような視線を走らせている。どの顔もこわもてだ。ほんとうに警備員か、どうか。どれも外の生垣でみた顔だった。巧月生の組織の部下にちがいなかった。まもなく「会長あいさつ」がはじまる。巧月生が舞台に立つだけに、いままで以上に警戒を強めている。うかつなことはできない。それでもスタッフに声をかけなくては、と思う。白蘭はいたずらにきょろきょろした。

 その動作を不審に思った男がある。李龍平だった。そのときはじめて龍平は、その美女の存在に気づいた。

 龍平は同じ優待席でも、左ブロックの記者席に座っていた。方角的には白蘭のななめうしろにあたる。

 それまで龍平は舞台を注視していた。長い脚をくみ、指先をこめかみにあて、懐疑的な目をして。

 もとよりファッション・ショーの取材できたのだが、それは表むきにすぎない。龍平にはべつの目的があった。

昨日IAA本部にあったという中傷の電話の真偽をたしかめるのが目的だ。呉麗生はほんとうにリラダン事件の実行犯なのかどうか。

いちばんてっとり早いのは麗生に直接きくことだが、いまはまだ早い気がする。だから、IAAに電話をしたファイナリストがだれかを探り、そこから真相に迫っていこうと考えた。もし麗生がほんとうに実行犯なら、その娘の情報をもとに麗生を追及できる。反対に電話の内容が虚偽なら、麗生にいやな思いをさせずにすむ。

 はじめ龍平は、電話をしたのは千冬ではないかと考えた。中国人と対立しがちな日本軍人の姪だし、トップ3として麗生にたいするライバル意識がほかの娘より強いと考えられたからだ。

実は龍平は昨日のうちに千冬にそのことを問いただした。ランチタイムのあとカフェテリアをでたところをつかまえたのだ。それとなく質問をいくつかした結果、千冬は電話をしていない、と確信できた。千冬はなにも知らなかった。ウソはついてない、と記者の直感でわかった。

 ではIAAに電話をしたのはだれか? ファイナリストひとりひとりにあたっていくしかない。昨日はそれができなかった。あれ以上花園をうろついたら、講師たちの目につく可能性があった。

 だが今日は日曜日のためファイナリストの多くが外出している。しかもそのうちの何人かは必ず、この銀華劇場にくることがわかっていた。麗生が司会だからだ。現にいま優待席には王結、馬秋秋、千冬、すこしはなれてロレーヌがいる。千冬は昨日探ったから必要ないとしても、ほかのファイナリストにあたるには絶好のチャンスだ。

龍平はもうすこしたってから、ひとりひとりにあたってみようと考えている。

 それでいまは舞台を注視している。麗生が司会をしている。ああして、すましているが、リラダン事件の実行犯かもしれない。鋭い目を光らせていると、やがて舞台中央に巧月生が登場した。「会長あいさつ」がはじまった。

「みなさま本日はお忙しいところ、お越しいただきまして誠にありがとうございます」

 銀華デパート会長巧月生がマイクにいった。愛想笑いをせいいっぱいうかべているが、悪魔的な顔だちは隠せない。そのくせ、もっともらしくバーンズワース社との共同開発商品の紹介などし、それとなく宣伝まではじめた。

 龍平は巧月生が嫌いだった。嫌うだけの理由があった。話はいいかげんにきいていた。ところがききすごせないことを、巧は突然いいはじめた。

「あの事件から、まだ一か月もたっていません。私もひとりの人間としてショックをひきずっています。あの日、当デパートの専属カメラマンだった李花齢氏は永遠に失われました」

 「あの事件」とはリラダン事件のことだ。龍平は耳を疑った。巧月生が事件にふれるなど、ありえないことだと思っていた。

 李花齢を雇っていたことは、銀華デパートにとって、いまでは汚点のはずであり、なかったことにしたいはずだった。それがこともあろうに公の場で、しかもファッション・ショーという晴れの場でふれたのである。いったいどういう風のふきまわしか。なにか裏があるのではないか、と疑わずにはいられない。

巧は哀悼の表情をうかべ、切々という。

「まさに、いたましい事件でした。真相は一か月たったいまも究明されていません。李花齢氏の死には謎が残ります。一刻も早く真実があきらかになることを願わずにはいられません」

 ふざけるな、と龍平は思った。リラダン事件の陰には日本軍のみならず、国民党も、国民党子飼の秘密組織蒼刀会もいるはずなのは、わかっている。なぜすなおに「いたましい事件」ではなく「いまわしい事件」だといわない? 

巧月生はかつて母の友人らしくよそおっていた。母を生前銀華デパートのファッション・ショー専属カメラマンに起用し、なにかというと、もちあげたものだ。しかしそれは母がマルスリ伯爵、ウィリアム・ハルトンといった有力者の愛人とつきあっているときにかぎられた。

 母がハルトンと別れ、有力なパトロンを失ったとたん、あいつは母を特別あつかいするのをやめた。そのあと母を中傷する記事が『乙報』にでると、あっさり解雇して、大苦境におちいった母を助けようともしなかった。

 それどころか、あいつ自身が母をどん底におちいれたふしがある。巧月生は蒋介石の犬だ。母をおとしめる記事をのせた『乙報』は蒋介石のお抱え新聞だ。その新聞記事をきっかけに母を逮捕した警察は巧のいいなりだ。母を逮捕したのは巧月生も同然と思われる。

 巧月生が母の不幸を招いた人間のひとりなのは、ちがいないはずだ。巧月生は敵だ。

それがいま、とってつけたように追悼の言葉をのべている。あつかましいにもほどがある。李花齢の息子を前にして、よくもいえたものだ。俺がここにきてるのを知ってるのだろうか。龍平がそう思って舞台をにらんだときだった。

 巧月生が龍平のほうをみてニヤッと笑った――すくなくとも龍平にはそうみえた。龍平はぞっとし、同時に異様な予感におそわれた。今日ここで、なにかよくないことが起きるような気がした。なにかは、はっきりとはわからないが、そう感じる。

 実はそう感じたのは今日二度目だ。一度目は屋上についたとき、生垣の陰で巧と社員らしき男が話しているのを発見したときだ。なにかある、と龍平は本能的に感じた。

 劇場をとりまく警備員の多さもその直感を裏づけるようだった。彼らの正体が蒼刀会員なのはひと目でわかった。なぜ彼らがたんなるファッション・ショーにこれほど配置されなくてはならないのか。なんのための要員か。警備のためとは思えない。なにかを警戒しているというよりむしろ、なにかを起こすよう命じられている傭兵のように思われた。

 けれども舞台の幕があがり、プログラムが問題なくすすむにつれ、龍平の懸念はうすれていった。

 それがいま巧の笑いをみて、また復活した。暗い予感はさっきより強くなった。

 今日ここで巧月生はなにごとかを起こそうとたくらんでいるのではないか?

 なにかは、はっきりとはわからないが、龍平にはなぜかファイナリストがらみのことのように思われた。記者の勘である。勘が働くと龍平は落ちつかなくなる。それで今日ここにきているファイナリストたちがなにをしているかみようと優待席に視線をめぐらした。するとひとりの若い娘に目がとまった。 

 その娘は優待席中央ブロックにいた。龍平の席からすると、ななめ右前方にあたる。娘の隣は空席だった。そこがアレーの席なのを龍平は最初にみて知っている。アレーとその娘が話していたのも目撃している。娘がファイナリストでないのもわかっている。いま目にとまったのは、その娘の挙動が変だったからだ。おちつきがなく、舞台に集中せず、やたらときょろきょろしている。いっけん、アレーを探しているようだが、どうもそうでもなさそうだった。なにか、ほかに目的がありそうなのだ。あの娘はなにをしようとしているのか? 龍平の目が鋭くなった。

 そのとき、わあっ、と客席から声があがった。

 ついにファッション・ショー本番の幕があけ、舞台に最初のモデルが登場したのだ。

 快活なジャズが流れ、照明のなかに、最新の旗袍がきらきらとうかびあがる。

 今年の流行は、露出が多めで曲線美を強調した型である。袖口も腰もしぼられ、裾は膝丈までになっている。

 最初のモデルは舞台の尖端にくると、みせつけるようにポーズをとった。着ている旗袍は生地がローズピンクで、領(首の部分)と領からスリットにかけてのラインにまたがる縁飾りが白で、色の対照もあざやかだ。そのモデルのあどけなさの残る顔だちに、ぴったりマッチしている。

 最初のモデルがターンをし、次のモデルがあらわれる。光沢のある茉莉花色の旗袍が舞台の前面にでる。

 モデルはみな現役女塾生(女子高生)である。だがそうはみえないほど、長い手脚を動かして、格好よくポーズをきめる。どの旗袍もすてきにみえる。月光織、銀糸織、漆黒の絹・・・・・・。花柄、チェック柄、水玉模様・・・・・・。

 おしゃれ好きな女性客たちはすっかり楽しんでいる。飲み食いしながら、歓声をあげたり、わいわい感想をいいあったりする。客席の照明はついたままだったから、遠慮はいらなかった。

白蘭は舞台のモデルなどひとりもみられずにいた。飲食店で店員をよべない客のようにおろおろしている。千冬をハメるアイデアをアレーに伝えるのに、莫部長を呼ばなくてはならない。莫部長を呼ぶには、スタッフにたのまなくてはならない。スタッフは舞台下にいる。けれどそこまで行く勇気がなかった。だからスタッフの方からこっちにきてくれないかな、と思って、きょろきょろしているのだが、どうもだれもきそうにない。どうしよう、このままではせっかくのアイデアを実行してもらえない、と焦りをつのらせたそのとき、

「待ってたって、はじまんないよ」

 耳なれた声が横からした。アレーだった。戻ってきたのだ。

「遅くなったのに莫部長から声をかけられないと思ったら――こういうことだったのか」

 白蘭のようすをみてとって目くじらをたてている。それでも白蘭はほっとして、

「すみません」

 と、あやまりつつ、さっそく思いついたアイデアをアレーに伝えた。

 アレーはいくつか駄目だしをしたが、修正案をだすと、

「これでいこう」といって手をうった。アイデアは実行されることになった。

「覚悟はいいな?」

「はい」

「じゃ、いいね? 僕は『監督』として、莫部長たちに応援をたのみにいく」

 アレーはそういって席をあたためるひまもなく立ちあがり、楽屋裏にむかった。

 白蘭は「脚本家」の役だけではなく、「俳優」の役もすることになった。結局作戦の実行にもたずさわることになったのである。それもいちばん大事な役を担うことになった。千冬をだます役である。今日はたんなる租界見物のはずが、なんだかたいへんなことになってきた。でも江田夕子の合宿生活を救うには、「悪魔」小山内千冬に「天罰」をあたえるしかない。やるしかないのだ、と白蘭は自分にいいきかせる。勝負は千冬を舞台に乱入させるまで。それさえできれば、あとはこっちのもの。なにもしないでも千冬は麗生の怒りをかい、恥をかく。そして人気急降下。千冬はトップ3から落ちるどころか、みんなの嫌われ者になり、江田夕子をいじめるどころではなくなる。

 それにしても緊張する。このあと莫部長が白蘭を迎えにくることになっていた。白蘭は莫部長の手で千冬に紹介される段どりになっていた。それから白蘭は千冬をたぶらかさなくてはならない。ほんとうに私にできるだろうか。とりあえずいまは莫部長を待つしかない。

 そろそろくるかな、と思っていると、こっちにむかってくる足音がした。きた、と思うと、その人物はいきなりドカッと白蘭の隣の空席に腰かけた。みると莫部長ではない。李龍平だった。

 突然のことで白蘭は目を丸くし、動悸を鳴らした。龍平さんがなぜここに?

 龍平は白蘭と目をあわせて、にっと笑った。

 白蘭は笑えなかった。タイミングが悪い、と思った。龍平さんに会えたのはうれしいかぎりだけど、もうすぐ莫部長がくる。そのあと自分が実行することを龍平さんにだけは知られたくない、と反射的に思ったのである。

 白蘭の微妙な態度にはかまわず、龍平はいきなり調子よく、

「いやあ、どうもどうも」と、中国語でいった。

「お初にお目にかかっちゃいますよと、お名前は何でしたっけと」

「白蘭といいます」

 戸惑いがちにこたえ、きょろきょろした。

「そう白蘭さん、よろしくねえ。あれ、俺を知らない?」

 龍平は勝手にそういって、

「上海時報というお話にもならない弱小新聞社で、タメにはならないけど金になる記事を書いてることで有名な記者といったら?」

 と、きいたくせに答えるひまは与えず、

「ハイ俺ね」

 といって一枚の名刺を手渡した。

 江田夕子に接するときとはまるで別人だ。江田夕子が初対面のときは名刺どころか、名前をきいてもこたえてくれず、ろくにしゃべってもくれなかった。それが美人相手だとこんなにくだけて積極的になるとは――。

 そもそも龍平さんはなぜ突然話しかけてきたのだろう。記者としてではなさそうだ。白蘭はファイナリストではない。となると遊び目的か。この美しさに惹かれてきたのか。だとしたら残念だと思った。あんなに龍平さんを美貌で悩殺してみたいと思ってたのに、実際そうだとすると、うれしいどころか、むしろかなしい。龍平さんもほかの男同様面食いだったとわかるからだ。顔を曇らせると、龍平はなにをかんちがいしたか、こういった。

「あれれ、その顔は――俺の名前から、ほかの名前を連想しちゃった? はいはい、そのとおり、俺は李花齢の息子ですよ」

 白蘭は驚いた。龍平さんが李花齢の息子とは初耳だった。あのリラダン事件の李花齢かと確認しようとしたとたん、龍平がいった。

「いやあ、この世にこんなきれいなひとが存在するとは思わなかったなあ」

 白蘭をまじまじとみて、鼻の下をのばした。江田夕子をみる顔とは大違いだ。白蘭はあらためてショックをうけ、ついつきはなすようにいった。

「記者さん、今日は取材ですか」

「さあ。プライベートで親しい出演者の招待をうけてきたといったら、どうする?」

 龍平は楽しむようにいった。「親しい出演者」ときいて、白蘭の頭にはまっさきに麗生がうかんだ。この際、龍平と麗生の仲をはっきり知りたいと思い、勇気をふるいおこしていった。

「麗生さんに招待されたんですか? そんなに特別に親しいんですか?」

 龍平はこたえるかわりに、親指と人差指をひろげて顎にあて、上目づかいに白蘭をみて、

「――あれ? 白蘭さん、もしかしてミス摩登のテストを逃しちゃったくち?」

 話をはぐらかした。

「もったいないなあ、受けてたら絶対ファイナリストに残ってたのにねえ」

 白蘭はそれにはこたえず、質問を変えて探りをいれた。

「ファイナリストのなかに親しい人、いますか」

「特にはいないねえ」

「ひとりぐらい、いますよね」

 くいさがると、龍平は天をあおいで思いついたようにいった。

「――あ、いたいた、ひとり」

「だれ、名前は?」

「十年前に流行ったワンピースがよく似あう、日本人の子」

 白蘭はどきっとした。あてはまるのは、ひとりしかいない。思わず息をはずませて、

「もしかして・・・・・・江田夕子、ですか?」

 ありえないことだと思いつつも、きいた。

すると龍平の目のふちが赤らんだようにみえた。

「よく知ってるねえ」

 と、龍平はいった。ということは親しい人は江田夕子ということなのだろうか。そんなはずはないけど、と思いつつ、白蘭は期待してきいた。

「彼女と仲、いいんですか」

「まさか」

 そういって龍平は笑った。冗談を本気にするなよ、といっているようだった。白蘭は傷ついた。その反動でついいらないことを口走った。

「私は仲いいですよ、夕子とは友だちなので」

 いってすぐ後悔した。ほかの人の耳に入ったら、たいへんだ。

「ウソ」

 龍平は予想外の反応をしめした。白蘭をみる目が変わったようだった。夕子の友だちときいて目を輝かせたようにもみえる。これはどういうことか。白蘭はまた期待に胸をふくらませそうになった。だが彼はすぐにこうつけ足した。

「彼女、変わってるよね」

 乾いた声だった。

 なんだ。やっぱり江田夕子をみくだしてるのか。麗生との仲をごまかす方便に使ったのか、と思って白蘭はがっかりすると同時に傷ついた。それを知られたくなくて、龍平に同調するようにいった。

「夕子って、ほんと変わってますよねえ。私も友だちだけど、ついてけないことのほうが多くて」

 ところが龍平は同調しなかった。遠い目をして、こういった。

「あの子を理解できる人間は、なかなかいないだろうなあ・・・・・・」

 むしろ夕子をひいきする語調だった。白蘭は驚いた。期待がまた復活した。

「記者さんは、理解できるんですか?」

 思わずそうきいた。

「なんで俺が」

 そっけない声が返ってきたが、白蘭はあきらめきれずにいった。

「夕子と話したこと、あるんですよね?」

 話すのは江田夕子に気があるからですか、と、ききたかった。

「まあ、取材がてらね」

 面倒くさそうな声だった。やっぱり龍平さんは江田夕子のことは特別に思っていない――白蘭は思い知らされた気がした。龍平さんが江田夕子に恋することなど、ありえない。彼が夕子と話すのは仕事の一環なのだ。

変に期待したら、ばかをみる。白蘭は思った。江田夕子は分をわきまえなくてはならない。龍平さんとは花園で会えたときに話すだけで満足しよう。つらい合宿生活を耐えるためにも、江田夕子には龍平さんとのおしゃべりが必要だ。これからも、この前みたいに鉛筆競争の話ができればそれでいい。江田夕子はそれ以上の関係を望んではならない。恋をしてはならない。恋をしたら気軽には話せなくなる。龍平さんも感づいて話しかけてこなくなるだろう。 

 敬遠されることだけは避けたかった。いまから予防線をはっておくにこしたことはない――白蘭は思った。ふとあることを思いつき、白蘭はこういった。

「知ってます? 夕子って、ルドルフ・ルイスが好きなんですよ」

 江田夕子には好きな人がいると教えておけば、龍平さんは今後も気がねなく話しかけてくれるだろう。そう思って、ウソをついた。すると龍平は、

「へえ、あそ、へえ・・・・・・」

 変に目を白黒させて、あわてたようにいった。どうでもいい娘の話をきいたにしては反応が大きい感じだったので、白蘭はまた期待を抱きそうになったが、興味がないからこそ演技で大げさに反応したのだろうと思いなおして正解だった。次の瞬間龍平は大声でいった。

「それはそれは、すばらしい」

 どう考えてもテキトーな感想だった。それでも白蘭はいかにも大切なことのようにいった。

「ここだけの話にしてくださいね」

「オフレコね。ルドルフ・ルイスのファンは全員匿名希望、と」

「ただのファンとはちがいますよ、夕子は。十四歳からルドルフに本気で恋してるんですから」

「あはあ、じゃどうして今日江田さんを誘ってあげなかったのよ」

 いわれて白蘭はぎくっとしたが、

「それは、ルドルフが出演するなんて思わなかったから」

 と、ごまかした。

「そっか。だけどだいじょぶなの? 俺なんかに江田さんの好きな人を話しちゃって」

「だいじょぶですよ、公にさえしなければ。夕子には私から話しておきますから、記者さん、今度あの子に会ったらルドルフを話題にしてあげてくださいね、喜びますから」

 ルドルフをネタにいくらでも話しかけてください、と思っていった言葉だった。

「それならちょうどいい。俺はルドルフの友だちだから」

「え」今度は白蘭が目を丸くする番だった。

「ルドルフ・ルイスと友だちなんですか?」

「そう、親友、ぬきさしならない仲。むこうが俺を慕ってくれてるのよ」

「ほんとですか」

「俺がウソつくように見える?」

「はい・・・・・・いいえ、その、ほんとなら今度夕子にぜひそのことを話してあげてくださいよ、喜びますから」

「機会があれば」

 龍平は生返事をし、話題を変えた。

「そういうおたくは今日はアレーさんといっしょみたいだね」

 白蘭をみる目が鋭く光った。白蘭はつい自分を高くみせようとして見栄をはって、いらないウソをついた。

「帰りは巧さんといっしょですよ。私、このごろ会長に目をかけられてるみたいで」

「おめでとう」

 龍平はいった。口角をあげて仮面のような笑顔をはりつけ、

「巧さんからいい話きいたら俺に教えてくれる? ――これ、はずむから」

 金(カネ)を意味するジェスチャーをした。

 白蘭はなにも考えずにうなずいた。この機会に美貌を利用して彼の自宅の電話番号をききだそうという考えがうかび、

「情報提供してもいいですけど、連絡はどうやってとれば。会社にいないこともありますよね?」

 と流し目を使ってきいた。すると龍平はうれしそうにいった。

「そうだな。外出中でも会社に伝言を残してもらえればたいていは連絡つくけど、念のため自宅の番号も教えておこうか」

 龍平が白蘭にわたした名刺に自宅の電話番号と住所を書きおえ、

「ハイ、ここね」

 と手渡したときだった。背後から足音がきこえた。莫部長だ、と白蘭は直感した。龍平さんの目をどうやってごまかそう。動悸を鳴らしていると、

「白蘭さん」

 と、声がした。龍平は通路をみた。そこにはデパートの宣伝部長が立っていた。莫部長は記者の視線を意識してか、

「さ、行きましょう」

 うしろからせかすように白蘭にいった。白蘭はあわてて立ちあがった。

「ちょっとすみません。通らせてもらっていいですか」

 そういって、席から逃げるように去った白蘭の、莫部長とつれだって遠ざかる背中を龍平はつきさすような目で追っている。

 白蘭はデパートの人間ではないはずだ。なのに当然のように莫部長につれだされている。ふたりはどういう関係なのか、と龍平はいぶかった。

 ふたりは優待席右ブロックに移動した。そこに座るのだろうと思ったら、通路の途中でとまった。さっきファイナリスト三人と若い男三人が騒いでいたあたりである。もっともいまは閑散としている。どこにいったのか、男三人も王結も馬秋秋もみあたらない。残っているのは小山内千冬だけだった。

 ふたりはその小山内千冬の横に立った。そして千冬になにか話しかけている。その声は龍平のところにまでは届かなかったが、三人は以下のような会話をかわしていた。

「失礼ですが、小山内さんでいらっしゃいますか」

 莫部長は北京語でいった。

「はい、そうですけど」

 反射的に北京語でこたえた小山内千冬は通路をふりあおいだ。そこにはデパートの店員らしい中年男性が立っていた。若い女性をつれている。千冬は目をみひらいた。

「突然お声をおかけいたしまして申しわけございません」中年男性は丁重にいった。

「わたくし銀華デパート宣伝部部長の莫と申します」

 きくなり千冬は立ちあがってお辞儀しようとした。宣伝部長がなぜ自分に声をかけたかはわからないが、とりいっておくにこしたことはないと思ったのである。

「まあまあどうぞそのままで。小山内さまのようなミス摩登コンテストを代表されるファイナリストの方に当ショーにお越しいただいて、わたくしどもたいへん光栄に存じております」

 莫部長はお愛想をいうと、つれの美女をさし、

「こちらは」

 と、紹介をはじめた。

「本日特別にお招きいたしました魔術師アレーさまのご友人、白蘭さまです」

 千冬はみとれた。白蘭は舞台のモデルより、そこらのファイナリストより、よっぽど美しい。

「白蘭さまから小山内さまに特別のお話があるということで、わたくしが紹介させていただきました」

 莫部長は頭を下げた。

「あとはおふたりでごゆっくりと。わたくしはこれで失礼いたします」

 それだけいって、白蘭をおいて立ち去った。千冬はややあっけにとられたようだが、すぐににこにこして、

「どうぞ、座ってください。空いてますから」

 と、愛想よく白蘭を隣の席に招いた。千冬の隣は空いていた。

「では」

 白蘭は無表情で座ったが、内心はひどくめんくらっていた。千冬の態度にである。江田夕子にたいするのと大ちがいだ。愛想がよすぎる。強者か弱者かで態度を天と地ほどに変える千冬らしい。千冬の目には白蘭は「強者」だとうつったのだろう。美女だからだ。それにしてもさっきまで白蘭の悪口をいっていただろうに手のひらを返したのは、白蘭がデパートの宣伝部長とつながりがあると知ったからとしか思えない。でなければ、なんの用できたかもわからないのに、丁重な態度をとるはずがない。

「小山内千冬と申します、よろしくおねがいいたします」

 千冬は礼儀正しくいった。目があった。ふたりは照れたように微笑をかわした。

 沈黙がおちた。

千冬は遠慮深く白蘭のほうから口をひらくのを待っている。それがいかにも慎みぶかい日本女性といった感じで、白蘭は毒気をぬかれた感じになり、用件をいいだしづらくなった。

 千冬は白蘭の用件が気になってたまらないだろうに、そんな気持ちは顔におくびにもださない。その顔の下に、白蘭の正体は江田夕子とみぬいている鋭い目が隠されていると思うと不気味だった。かといって黙りこくっていてはまずいから、目があうと、

「どうも」と、いった。するとむこうはいちいち、

「どうも・・・・・・」

 と、返してくれる。微笑して頭まで下げてくれる。

つりこまれて白蘭も愛想笑いして頭をさげてしまい、これはまずい、と心中に舌打ちした。北京語を使っていても、こんなにペコペコしていたら、日本人まるだしだ。千冬が日本人だから、自分もつい日本人のくせがでる。正体がばれたかもしれない、江田夕子とみぬかれてるかもしれない、という不安がぶりかえしてきた。不安で不安で、自分が江田夕子とばれてるか、作戦そっちのけで探りをいれたくてたまらなくなってきた。

「あのう」

 だしぬけに白蘭は沈黙を破った。

「なんでしょう」

 千冬がかしこまって、きく体勢になった。

「小山内さん、ですよね。・・・・・・前にもお会いしませんでしたっけ?」

 千冬は驚いた顔をし、次にどぎまぎした顔になった。白蘭は動悸を鳴らした。千冬はやっぱり白蘭の正体を知っているのかもしれない。はたして千冬はいった。

「どちらで、ですか」

 千冬は、会ってないとはいわなかった。いきなり場所をきいてきた。白蘭は動悸をはげしくし、思いきって江田夕子が千冬と実際に会う場所を口にした。

「虹口で」

 すると千冬は目をそらし、弱々しい声でいった。

「お会い・・・・・・しましたっけ」

 とぼけているとしか思えなかった。恐怖にかられた白蘭は責めるようにいった。

「はっきりいってもらえますか、私に会った覚えがあるかないか」

「お会い・・・・・・してなかったと思います。お目にかかってたら絶対に覚えてますよ」

 千冬はにわかに媚びだした。

「ファイナリストにだって、こんなにきれいな人、いませんから。最初モデルさんかと思ったぐらいです」

 白蘭は最後の言葉をききとがめた。「モデルさんかと思った」と千冬は過去形でいった。ということはつまり、いまは私がモデルでないと知ってる、ということだ。どこで知ったのか? 麗生からきいたにちがいない、と思った白蘭は色を失っていった。

「私がモデルでないって、どうしてわかったんですか」

 きかれると、千冬ははたして目を泳がせ、うわずった声でいった。

「それは・・・・・・新聞記者の人にきいたんですよ」

「麗生さんに、きいたんじゃないんですか」

「ちがいます、ちがいます」

 千冬はかぶりをふり、追従笑いをうかべていった。

「麗生さんとは今日一度も話してません。おたがいファイナリストですけど、まだそこまで親しくなってないですから」

「ほんとですか? 小山内さんが今日ここにきたのは、麗生さんに招待されたからだと思ったんですけど」

「ど、どうしてそれを・・・・・・」

「やっぱり、そうなんですか」

「実は・・・・・・でも、特別親しいわけじゃ・・・・・・」

 いいながら千冬は上目づかいに白蘭の顔色をうかがうようにみた。千冬のこのうろたえぶりはどうしたことだろう。白蘭はハッとした。私の正体をみぬいているにしては千冬の態度は卑屈すぎる。もし正体が江田夕子とわかっていたら、千冬はもっと大きい態度をとるはずではないか?

 白蘭の頭に一条の光芒がさした――正体は必ずしもばれてないのかもしれない。麗生が千冬に白蘭の話をしたとしても、正体のことなどではなく、会った感想をいったにすぎなかったかもしれない。

 ばれてないなら、これほど気が楽なことはない。計画を実行する勇気がよみがえってきた。千冬の低姿勢も勇気を与えてくれる。計画にとりかかろう、と思った。ただしその前に、たしかめておきたいことがある。さっき千冬といた男三人が千冬のスパイだったかどうかだ。そこで少々唐突だが、きいた。

「さっきここにいた男の人たちって、千冬さんの友だちですか?」

「いいえ、ちがいます。みんな今日ここで初めて会った男の人たちですよ」

 千冬はこたえると、なにか合点のいったような顔をした。そして、

「彼らは大学生です。学校に用があるとかで帰りましたけど、連絡先はききましたから、よろしければ教えましょうか?」

 気をきかせたように、そんなことをいった。白蘭が千冬に接触した目的は、さっきの男たちに気があるから、とでも思ったらしい。もとより白蘭の目的はちがう。知りたいのは、さっきの男たちが千冬や麗生のスパイだったかどうかだ。千冬は「初めて会った」というが信用できない。連絡先を知っているというのが、くさい。だが単刀直入に「彼らはスパイですか?」ときくわけにもいかない。どう質問したらいちばんいいか。考えるひまはなかった。早く返事をしなければあやしまれる。だからいった。

「連絡先はいいです、で、でも、あの人たち、小山内さんとは、すごく仲が、よ、よさそうでしたね・・・・・・」

 焦ったせいで、どもった。

「もしかしてあの三人のだれかがお気にめされました?」

 千冬はいった。追従顔は消えていた。目がニヤニヤ笑っているようにみえた。さっきまでとは、あきらかに態度がちがう。白蘭が思ったより弱そうだから萎縮する必要はないと思ったのかもしれない。なめられてたまるか、と思った白蘭はとっさに冷たく否定した。

「そういうことじゃないんです。私はただ、打ち上げがあると思ったんで」

 「打ち上げ」は、はずみででた言葉だった。それと男のことをきいたのと、どう関係があるのだろう、といった顔で千冬はきいた。

「打ち上げ? なんのですか」

「ファッション・ショーのですよ。出演者たちが参加する」

 もとより口からデマカセである。千冬を不安にさせたくていった。

「小山内さんは、まだ誘われていないんですか?」

 案の定、千冬は不安顔になった。

「あ、はい・・・・・・それって出演者以外も呼ばれてるんですか?」

「呼ばれてます。麗生さんが直接誘ってるみたいですよ。女性には男性同伴でくるようにって」

「あ、それでここにいた大学生のことをきいたんですか、白蘭さんの同伴にしようと」

「いや、私は打ち上げには呼ばれてないんで。麗生さんとは今日が初対面ですから」

 ウソとばれてはならないという強迫観念で、声がうわずってきた。千冬が探るような目でみているのを感じる。白蘭はびくびくして、しどろもどろになってきた。

「小山内さんは招待されてると思ったんです。だからここにいた男の人たちを同伴するのかと・・・・・・あ、べつに深い意味はありませんよ。招待されてない私には直接関係ないことですし・・・・・・あ、でも、小山内さんがこれから麗生さんに誘われたら、さっきの男の人たちを同伴すればいいんじゃないかなあって思って・・・・・・でも難しいですよね、みんな学校に行っちゃったんですもんね」

 自分でもなにをいっているのか、わからなくなった。すると千冬が露骨に話の主旨をつかみかねるといった顔をして、いってきた。

「もし打ち上げがあって、私が麗生さんに誘われたら、さっきの大学生を同伴すればいいんですね?」

 その声からは当初の遠慮が消えていた。白蘭は動揺した。

「いや、そういう意味じゃ・・・・・・」

 声が途中でのどにつかえた。千冬にどう思われたか、気が気でなく、白蘭は思わず上目づかいに顔色をうかがった。目があった。白蘭は気まずさに卑屈な微笑をうかべた。

 千冬は微笑しなかった。白蘭とは反対に、その目からは卑屈さが消えていた。千冬は白蘭の目をまっすぐにみつめ、いらだたしそうにいった。

「莫部長がおっしゃってた白蘭さんの用件って、打ち上げのことじゃないんですか?」

 これはまずい、と白蘭は思った。このままでは千冬に完全になめられ、主導権を奪われる。逆転するには本題に入るしかない。白蘭は腹をきめ、きりだすことにした。

「はい、打ち上げのことじゃありません。用件というのは実は、麗生さんのことなんです」

 ひといきにいった。千冬は反応をあらわさなかった。

「麗生さんのこと?」おちついた声できいた。

「そうです。麗生さんの今日の行動、ちょっと理解できないと思いませんか?」

「なにが、理解できないんですか」

 慎重にでる千冬に白蘭はズバリいった。

「たとえばルドルフさんのことです」

 その瞬間、千冬の目がきらっと光ったのを白蘭はみのがさなかった。千冬はいま一瞬だが、たしかにルドルフの名に反応した。

白蘭の計画の成否をにぎるのは、千冬のルドルフへの思いである。もし千冬がルドルフをなんとも思っていなければ、計画は失敗する。成功させるには、千冬がルドルフに執着している必要があった。

白蘭はロレーヌとその同伴者の会話で、千冬がルドルフに気があるときき、それで計画のアイデアを思いついたのだが、会話の内容が真実かどうか、裏はとっていなかった。だから計画を実行する前に、千冬がほんとうにルドルフを思っているかどうか、知っておきたかった。

いまルドルフの名をきいて千冬は、一瞬だが、目をきらっと光らせた。脈ありだ。より確実な反応を得るために白蘭は舞台の麗生をわざとにらんでいった。

「麗生さんはなんであんなにルドルフさんと親しそうにしてるんでしょう? たかが司会をするのに」

「・・・・・・さあ」

「ルドルフさんが新しい生地の広告塔としてモデル出演するのはわかります。でも司会までする必要があるでしょうか。英語しかわからないお客さんは少ないのに、ふたりで仲良く司会なんて変ですよね?」

 あおるようにいった。千冬がのってくれば計画を実行できる。だが千冬は表情を変えなかった。軽くうなずいただけだった。白蘭はじりじりした。すまし顔を一気にこわしてやりたくなって、爆弾をおとすことにした。白蘭はいった。

「ルドルフさんと麗生さんって、つきあってるんですってね」

 ねらいどおり、千冬の目に衝撃が走った。よし、と白蘭は胸中でガッツポーズして、たたみかけるようにいった。

「ふたりで司会することになったのも、麗生さんが社員に働きかけたからなんですってね。ルドルフさんとの仲を世間にみせびらかしたいみたいですよ」

 千冬は愕然としたようすで、

「ルドルフ・ルイスは麗生さんと・・・・・・付き合ってるんですか?」

 声をだすのもやっと、という調子でいった。

「そうですよ」白蘭は大きくうなずいた。

「ルドルフさんは麗生さんとつきあってるんですよ、去年の夏から」

「信じ、られない・・・・・・」

 そういって千冬は絶句した。顔面蒼白になっている。ロレーヌたちのいってたことは真実だ――千冬はルドルフを特別に思っている。

これで成算がたった、と思った。白蘭はよゆうがでた。千冬の反応をもっと楽しみたくていった。

「どうりで麗生さん、ルドルフさんになれなれしいと思いませんでしたか?」

「思い、ました」

 千冬はあえぐようにいった。相当気が動転している証拠に、

「ふたりの仲、どこで知ったんですか。もしかしてルドルフに直接きいたんですか? 白蘭さんはルドルフとお知り合いですか?」

 質問をたてつづけに必死の形相できいてきた。白蘭はせっかくだからもっと悩ませてやれ、と思って、

「ルドルフさんは私の友人です。わりと親しいですよ。よく相談されたりするんで」

 と、うそぶいた。なにも知らない千冬は傷ついた顔をした。そして、

「じゃ白蘭さんはルドルフから直接、麗生さんとつきあってるときいたんですか? 彼、なんていってましたか?」

 せきこむようにきいてきた。ここが肝心、と白蘭は目に力をいれて、

「ルドルフさんは、麗生さんをあまりよくは思ってないみたいですよ。それどころか、困ってるみたいなんです。麗生さんの束縛がひどいらしくて、最近特に」

 もったいぶるいい方をした。千冬は案の定ききずてならない、といった顔をして、きいてきた。

「束縛というと?」

「麗生さんはルドルフさんに逃げられないか心配してるみたいなんです。というのもルドルフさんには、ほかに本気で愛している人がいるらしくて。麗生さんとつきあう前からずっと。――そのルドルフさんが愛してる人はだれか、知ってますか?」

「・・・・・・い、いえ」

「小山内さん、あなたですよ」

「・・・・・・」

 千冬は言葉を失い、目に涙をうかべた。白蘭はここぞとばかりにいった。

「ルドルフさんが心から慕っているのは小山内さんなんですよ」

「じゃなんで、麗生さんなんかと・・・・・・」

「麗生さんの強引さに勝てなかったみたいです。いまも、ほんとうは離れたいけど、麗生さんの報復がこわくて、しかたなくいっしょにいるって、いってました」

「そうなんですか」

「麗生さんもルドルフさんが自分に気がないってことはわかってるみたいで。なのに、あきらめきれないみたいなんですね。――それで今日、切り札をだすつもりらしいです」

「切り札って、なんですか」

「このショーのおわりに、ルドルフさんとの交際を公表するつもりらしいです。公表すればルドルフさんが自分と別れにくくなるっていう理由で」

 千冬は耳を疑うような顔をした。

「麗生という人は・・・・・・そんな人だったんですか」

 麗生を呼びすてにした。激情に身をふるわせて、

「ああ・・・・・・」

 千冬は嘆息をもらした。涙が頬をつたっている。

「麗生が私たちの仲をひきさこうとしてたんですね・・・・・ルドルフは私を忘れてなかったんですね・・・・・」

 白蘭はうなずいた。なにもかも承知しているという顔をして、女神のようにやさしく温かい声でいった。

「つらかったでしょう」

 千冬はうなずいた。ねらいどおり、うちあけだした。

「私たち、去年の五月からつきあってたんです。喧嘩もしないで仲良くやってたから、今年の四月に急に連絡がとれなくなったときはびっくりして・・・・・・まさか麗生さんとつきあってたなんて・・・・・・」

「ルドルフさんが小山内さんに会わなくなったのは麗生さんに脅されてたからなんです。麗生さんはなんでも自分の思いどおりにしなければ気がすまない人みたいですから」

 白蘭はそういうと真剣な顔をしていった。

「――小山内さん、実はいまからお話することが、莫部長が私を仲立ちとしてあなたに伝えたかったことになります」

 千冬はハッと目をひらいて、身をかたくした。

 白蘭は気合をいれた。いまからいよいよ、千冬をハメる段階に入る。千冬が自発的に舞台にあがるかどうかは、いまから自分が口にする言葉にかかっている。悪口をいう要領でやればいい。だいじょうぶ、いまの私は千冬より美人、立場が上――と、みずからをはげまして白蘭はきりだした。

「実はルドルフさんは一か月前、銀華デパートに司会を依頼されたとき、ひきうけるにあたって、ひとつの条件をだしたそうです。『大トリを小山内千冬さんと一緒に飾らせてもらいたい』、と」

「・・・・・・!」

「デパート側はふたつ返事で条件を受け入れたといいます。小山内さんがモデルをすれば利益になると思ったみたいですね。なにせ小山内さんはそのころからミス摩登コンテストのグランプリ有力候補とみられてましたから、モデルをやってもらえれば中国人客だけでなく日本人客を呼びこめるのは確実ですから」

「でも、私はなにもきいてな――」

「反対者がいて中止になったんですよ。麗生さんが、銀華デパート側に猛抗議したんです。いわく、『ルドルフが小山内千冬と共演することになったら、私は司会をおります。そうなれば銀華の損失ははかりしれませんよ。私は呉の人間だからです。父は司会が私でないファッションショーなど認めないでしょう。怒った父がなにをするか。銀華との取引をストップするにきまってます。それでもいいというならあの女を出演させるんですね』。

 さすがの巧会長もそうでられたら、したがうしかありませんでした。それで小山内さんの出演はナシということにしたんです。

でも実はルドルフさんにはそのことを、まだ知らせてません。小山内さんが出演しないと知ったら、司会を降りるといいだすでしょうから。だからルドルフさんはいまも大トリは小山内さんとふたりで飾れると信じてるんです」

「・・・・・・!」

「ここからが本題です。どうか落ちついてきいてください。実は銀華側は今日いまから小山内さんになんとか出演してもらいたいと考えています」

「え」

「巧会長はいったんは麗生さんの要求をのみましたが、やっぱり納得がいってなかったんです。社員も麗生さんには愛想をつかしてますよ。ライバルに自分の縄ばりを侵されたくないという利己的な理由だけでデパートの企画をひとつつぶしたんですからね。親の圧力を使って。だからいまじゃ社員みんな、麗生に思いしらせてやりたいと思ってますよ。小山内さんだって麗生に思いしらせてやりたいでしょう?」

 興にのった白蘭は麗生を呼び捨てにしていった。

「ま、まあ・・・・・・」

 千冬はさすがに用心深く、あいまいな返事をした。しかしここが肝心だった。白蘭は緊褌一番いった。

「千冬さん、大トリに出演してくれませんか?」

「え、でも・・・・・・」

「心配はいりません、サプライズ出演です。サプライズですから、客席からそのまま舞台にあがってもらいます。麗生に事前にさとられる心配はありません。それに本格的なポーズなどなくてもだいじょうぶです。ただ舞台に立ってルドルフさんとならんでもらえたら、それでじゅうぶんなのです」

 従業員でもない白蘭が、こんなことをお願いするのはおかしなことだった。もとより白蘭の話はすべてデタラメだった。だが動揺している千冬は疑う頭もないらしく、心を動かされた顔をしていった。

「でもあの麗生さんのお父さまは? 麗生さんに不利なことをしたらお父さまが放っておかないんですよね」

「あ、そのことでしたら、いい忘れてましたけど、もう心配はいりません。巧会長が解決策をみつけましたから。でなかったら、いまごろこうしておねがいしていないですよ」

「・・・・・・でも私、自信ないです」千冬は不安そうにいった。

「ルドルフが私をまだ好きっていう実感もわいてないですし。実はこのまえ一度すれちがったんですけど、そのときルドルフは私をみて不快そうな顔してたので。あのときの表情、思い出すと・・・・・・こわいです」

 ここで断られてはかなわないので白蘭は必死に頭をふりしぼっていった。

「それも麗生さんにいわれてやってただけですよ。小山内さんへの思いを顔にだせば、ただじゃおかないとルドルフさんは脅されてるんですよ。ルドルフさんは役者だから、あなたに会えてどんなにうれしくても、顔では不愉快な表情をするなんてことができるんですよ、それだけです」

「ほんとですか?」

 千冬の目に光がさした。

「信じたいですけど・・・・・・彼、私が出演して、ほんとに喜んでくれますか」

「もちろんです。彼は舞台で愛する人ともうすぐ再会できると信じてるんですから。なのに最後の最後、あなたが舞台にこなかったらどう思うでしょう。裏切られたと思いますよ」

 最後の言葉が脅しにひとしい効果を与えたようだった。

「そうですよね。・・・・・・ああ、こんなことなら、もっといい服を着てきたのに」

 千冬はほとんどその気になっている。ここぞとばかりに白蘭はいった。

「それならだいじょうぶ、衣裳も化粧道具も全部別に用意してあります。小山内さんさえその気ならいまからでも準備にかかれます。スタッフはみんな楽屋であなたを待ってますよ」

「楽屋? 楽屋に入るんですか」

「モデルたちとは別の楽屋です。麗生にはみられる心配なく客席に戻れますよ」

「でも衣装に着がえて客席に戻ったら、めだちますよね」

 あれこれ不安材料をあげてためらう千冬に、白蘭はじれていった。

「その心配もいりません。細かいことはみんなスタッフがはからってくれます。ですから小山内さん、ルドルフさんの望みをかなえてくれますね?」

 千冬は ごくり、と唾をのみこんでから、

「はい」

 と、うなずいた。まだ迷いからぬけだせていない表情ではあったが、千冬はたしかに承諾した。

 すぐに白蘭は壁ぎわに立つひとりのスタッフに目で合図した。アレーの指示をうけていたスタッフは最前から白蘭の交渉が終わるのを待っていたから交渉成立の合図を受けるなりとんできて、千冬を楽屋Dに連れていった。楽屋Dは他の楽屋とは離れた場所にあり、出入口もちがうので他の出演者に会う心配はない。千冬はそれらしい格好にされて、大トリまでに席に戻ってくるだろう

だが白蘭は安心はできなかった。むしろひとりになったとたん不安になった。

 千冬を舞台に乱入させることには成功しても、自分の望む結果になるとはかぎらない。なにかのはずみで千冬を操ったのが私だとばれたら麗生の怒りの矛先は私にむく――計画は裏目にでてしまう。そんなふうに悲観的になりかかっていたところに、横から突然声をかけられた。

「ねえねえ、なにしてんの」

 なんとも能天気な声だった。みると、さっきまで千冬がいた席にいつのまに龍平が鎮座している。

「なんでここにいるんですか」

 白蘭が仰天してきくと、龍平はニヤニヤして、

「そんな顔しないでよ。おたくが楽しそうだから来ちゃったのよ」

 狐みたいな手つきをしていった。

「楽しそうって、どこがですか」

「さっきファイナリストの小山内千冬ちゃんと話してたでしょ。俺も仲間に入れてくほしくてきたのよ。なのに千冬ちゃん、どこいっちゃったの」

 おどけた口調でいいつつも、龍平はそれとなく白蘭の表情を観察している。龍平はいままで優待席中央ブロックから、白蘭と千冬のようすをうかがっていた。声はきこえなかったが、ふつうの話をしているようではなさそうだと思い、こっちに移動したかったが、知り合いの他社の記者に声をかけられ、話しているうちに千冬がどこかへ行ってしまったのだった。

「さ、さあ・・・・・・」

 白蘭は目をそらした。千冬の行き先を知ってて、とぼけているのは一目瞭然だった。

「案外楽屋にでも行ったとか?」

 龍平が勘で探りをいれると、

「ちがうと思います」

 白蘭は言下に否定した。顔色が変わっている。龍平は気づかない顔でいう。

「だよね、そんなわけないよね。待ってたら、そのうち戻ってくるかな」

「どうでしょう。帰ったんじゃないですか。だからここにいても会えないですよ」

 白蘭はつきはなすようにいった。龍平にここにいてもらっては困る。自分が千冬をハメようとしているのを彼にだけは知られたくない気がした。たとえ別人に変身していても、自分の心の汚い一面はみせたくなかった。

「じゃなんで白蘭さんはまだここにいるの? ここ白蘭さんの席じゃないでしょ」

「べつに、なんとなく、ここが気に入ったから」

「千冬ちゃん、ほんとに戻ってこないの? 戻ってきたら俺、白蘭さんの席を奪っちゃうよ」

 子どもみたいなことをいう。白蘭はもてあました。

 龍平に立ち去ってもらえないまま、時間ばかりがたった。ファッション・ショーはつづいている。モデルの旗袍がどんどん豪華になっていく。ショーは終盤にさしかかっていた。いつのまに司会席からルドルフが消えている。大トリに出演するから衣裳の準備に入ったのだろう。大トリはもうすぐなのだ。千冬もそろそろ戻ってくるはずだ。困る、龍平さんがいる。

 どうしたらいなくなってくれるのか。龍平さんは人の気も知らないで、のんきに舞台にみいってる。かわいいモデルをみて鼻の下をのばしているようだ。それもショックだし、なんだかやけになって白蘭はいった。

「あのモデル、魅力ありますよね」

「そう?」 

 龍平は思ったより気のなさそうな声をだした。白蘭はすこしほっとしたが、それでもいった。

「男の人はやっぱり、ああいう人とつきあうのが夢なんじゃないですか」

「あれはちょっと顔がバカっぽいかな」

 たしかにそのモデルは元気いっぱいでかわいらしかったが、知性は感じられなかった。そう思ったが、白蘭はわざといった。

「でもあの人、画家ってグラビア雑誌に書いてありましたよ。バトミントンの選手もしてるって」

「さすが名家の令嬢だなあ」龍平は皮肉をこめていった。

「授業に全然出席しなくても優等生になれるし、未経験のスポーツでも雑誌のなかでユニホームを着ただけで選手になれるし、人が描いた絵で画家にもなれるんだからねえ」

「え」白蘭は驚いていった。

「ということは雑誌にのってた絵って、あの人が描いた絵じゃないんですか?」

「うん。あの人は絵なんて描けないよ。バトミントンは人並みにできるけどね。でもプロ並みなんて、とんでもない。雑誌はハッタリ。名家の令嬢の肩書きなんて、ほとんどデマカセだよ。――あ、これはオフレコでたのみます」

 初めて知ったので白蘭は衝撃をうけた。麗生の経歴もウソなのだろうか、だったら許せない、と思った。昨日のレッスンで雑誌の情報を受け売りして、あの人をジョッキーだのプロゴルファーだのと私がもちあげたとき、麗生は否定しなかった。ウソの肩書きを使って、えらそうにしていると思うと、麗生がますます嫌いになった。

 しかも麗生はどこに行ったのか、いま司会席にいない。ルドルフとおしゃべりしに楽屋に行ったのかもしれない。白蘭は麗生のかわりに舞台のモデルをにらみつけ、心にもないことをいった。

「あんな豪華な旗袍、なかなか似合わないですよね」

「そうかな。白蘭さんなら似合いそうだけど」

 龍平は調子よくいった。

「やめてくださいよ」

 そういったのは、照れたからではなかった。白蘭は、ほんとにいやだった。龍平さんはさっきあのモデルを否定した。なのにあのモデルの着てる旗袍が白蘭なら似合いそうだという。あのモデルといっしょにされたみたいでいやだ。頭にきていった。

「私は『最新』とか『流行』とかいう言葉はあまり好きじゃないですから」

「どうしてよ」

「流行はみんながとりいれるからです。今日ここに観覧に来たお客さんたちは最新のファッションをみてすぐ自分も真似しようと考えてるでしょうけど、私はみんなと同じ服を着るなんてつまらないと思ってます」

 こんな意見も江田夕子の姿でいったら笑われるだけだろうけど、白蘭ならだいじょうぶと思うとはっきり主張できる。

「私、平凡にだけはなりたくないんです。『平凡』って言葉が大っ嫌い。平凡を嫌って迫害されるほうが、平凡であるより、よっぽどマシです。だから服にしても少しでも人とちがう、個性的な格好をしなきゃ私にとっては意味がないんです」

 白蘭はほかの人とはちがう、と思ってほしかった。でも龍平はヘラヘラ笑ってちゃかしただけだった。

「いまの話、憧れの巧さんがきいたら悲しくて泣いちゃうだろうよ。うちの服は平凡かよって」

「だいじょぶです」白蘭はふてくされていった。

「巧さんは私という人間を理解してくれるから」

「ふうん」

 龍平はどうでもよさそうだった。きょろきょろして千冬を探してるみたいだ。やめさせなくては、と白蘭はよけいにいらいらして、べつの話題をふった。

「記者さん、さっきルドルフ・ルイスの友人といってたけど、どこで知りあったんですか?」

「ハルトン邸。俺も母親のおかげで、前はたまに顔だしたりしてたのよ」

 「母親のおかげ」といわれても、白蘭には李花齢の知識がほとんどないから、ピンとこなかった。

「母親がハルトンの愛人だったからね、俺も義理で何度か会わされたわけ。もっとも当時俺は外国に留学したりしてたから、ハルトンとはほとんどつきあわなくてすんだけど」

「外国って日本ですか?」

 日本語は日本留学時代に身につけたものか、と思ってきいた。

「うん日本も。よくあてたね」

 龍平はふしぎそうにいった。龍平は白蘭と話すときは日本語は話していない。そのことに気づいた白蘭はあわてていった。

「・・・・・・夕子にきいたんで、李さんは日本語がお上手と」

「へえ、江田さんがおたくにそんな話ししてたんだ」

「はい、まあ・・・・・・。それよりいま『日本も』っていってましたけど、ほかにも、どこか行ってたんですか?」

「イギリスだよ。オックスフォードに留学してたけど、二年で中退した」

「へええ、オックスフォードを中退?」

「そ。俺には欧州よりアジアがあってると思ったから。とにかく日本から帰国して就職するまでの何週間か、ハルトン邸に呼ばれてね、甥のルドルフ君と知りあいまして、むこうにあわせていっしょにオペラをみたり馬に乗ったり、あれからかれこれ二年の仲になるわけ。このごろじゃ俺が仕事で前みたいに会えないからルーディが淋しがっちゃって」

「ほんとですか」

 そういった白蘭の視線がにわかに一点に凝結した。顔はこわばり、体は硬直した。その変化を龍平が見逃すはずがない。すばやく視線の先を追った彼は、すぐ横の通路に千冬が戻ってきているのをみて、息をひいた。

 千冬はさっきとはあきらかにちがう、異様な格好をして立っていた。

 黒ずくめだった。首から足首まで、黒い長いマントのような布でおおわれている。首から上もさっきとはちがった。しかしこちらは対称的に華やかになっている。化粧もそうだし髪型もそうだ。さっきは垂らしていたのに、いまはアップになっている。白い陶器のようなうなじの上には、黒髪がみごとに盛られてあった。そのまとめ髪は、なぜか司会の麗生にそっくりだった。

 これは変だ、なにかある、と龍平は思った。もとより態度にはおくびにもださず、満面に笑顔を彫っていった。

「これはこれは千冬ちゃん、どうしたのよ、黒いマントなんかはおっちゃって」

 千冬は自分の席を占領している青年記者をちらとみただけで、なにもこたえなかった。その目はすぐ白蘭に戻った。なにか訴えたそうな、非常に思いつめたような目をしている。

 白蘭はあわてた。龍平さんの前で変なことをいわれてはたいへん、と思い、とっさに、

「小山内さんが座りたがってますよ」

 と、龍平にいった。これを機に立ちのいてもらおうと思っていった言葉だった。龍平は千冬の席をどいた。ところがそのまま去ってはくれなかった。白蘭のもう一方の隣の空席にすばやく移動して座ってしまった。

 通路側から千冬、白蘭、龍平と三人ならんだところで、龍平はいった。

「千冬ちゃあん、俺ずっと待ってたのに、化粧なおししてたの?」

 龍平はピエロ顔を白蘭の脇からつきだし、おどけながら観察していた。千冬のまとめ髪は麗生とそっくりなようで、よくみると、そっくりではなかった。こちらは和風だ。つけ毛でふくらませた髷の部分に挿された簪は日本風で、漆色に金のすじが流れている。

「・・・・・・」

 千冬は軽くうなずいただけだ。しずんだ顔で、前の客席の背中をぼんやりと眺めている。

 白蘭にしてみれば、黙ってくれているのはありがたかった。だがそれにしても千冬のようすは変だった。千冬は美青年好きである。ふつうなら李龍平のような人に話しかけられて、みむきもしないなんてことは、ありえない。

「顔が真っ青ですけど、だいじょうぶですか」

 白蘭はきいた。体の具合が悪いのかもしれない、と思った。突然出演依頼をされ、心の準備もなく舞台にでることになったのだから緊張で胃が痛くなるようなことは、ありえる。それならそれでたいへんだ。舞台にでられない状態になってもらっては困る。千冬から返事がないので、重ねてきいた。

「気分でも悪いんですか」

 すると千冬は青い顔をわずかにあげていった。

「あの人はなぜ、」

 なにをいいだすつもり、と白蘭はあわてた。とめようとしたが、千冬が次の言葉を口にするほうが早かった。

「――なぜ共演したいと、直接私にいわないんでしょう、ひとことも。私を本気で思ってるなら、ほかの人をとおして頼んだりはしないと思います。すくなくとも私なら、そうはしません」

 ルドルフのことをいっている、と白蘭にはわかった。龍平さんの前でなにをいいだすのだ。「共演」などと口にして。これで「あの人」の名前までだしたら、龍平さんは記者だし、絶対になんの話かきいてくる。とめなくては、と思ったが、千冬はたたみかけるようにいった。

「だいたいどうして、私のほうがあの人を、よろこばせなくちゃならないんでしょう」

 龍平は黙ってきいている。「あの人」とは、だれのことかと考えている。

「ほんとうに誠意があったら、自分で直接私に連絡してくると思うんです。だれかに束縛されてるといっても、それくらいできないはずがないです。それなのに、虫のいい・・・・・・」

 千冬の気分は楽屋に行く前とはあきらかに変わっていた。さっきはまだルドルフに愛されているときいた直後だったから、よろこびが先行していた。深く考えることなく白蘭の依頼をひきうけた。けれども時間がたつと冷静になり、いろいろ疑念がわいたようだ。

白蘭は焦った。いま千冬の疑念をとかなくては、たいへんなことになる。だがそれができない。龍平がいる。へたなことをいえば、計画を龍平さんに知られるおそれがある。どうしよう、なにをいったらいいだろう。全然わからなくて、

「そうですね」

 と、しかいえなかった。いってすぐ、失敗したと思った。千冬は自分の不満を肯定されたと思ったらしく、いった。

「やっぱり、あの人のいいなりになるべきじゃないですよね。舞台にあがったら麗生さんがなにをいいだすかわからないし」

 たいへんなことをいってくれた。「麗生」と、千冬は口にだした。「舞台にあがったりすれば」といった。龍平さんにきかれた。これ以上不満を口にされてはたまらない。ここはちゃんとなだめるしかない。龍平さんの前だけど、すでにある程度のことをきかれた以上、やむをえない。ルドルフの名さえださなければ、なんとかなると思った。

「わかりました、わかりました」白蘭はいった。

「でもね、小山内さん、あの人の思いは小山内さんにしかありませんから。それは絶対ですから、どうか信じてください」

 語気に力をこめていった。しかし千冬は納得できない、といったように反発した。

「たとえあっちが私をまだ本気で愛しているとしても、癪です。あっちの望みどおり私から舞台にあがって再会してあげるなんて、都合よくあつかわれてるみたいで――」

「小山内さん」

 白蘭はうめくようにいった。「舞台にあがって再会してあげる」とは、またしてもたいへんなことをいってくれたものだ。龍平さんにはもう、わかったにちがいない。私が千冬を舞台にあげようとしていると。千冬が着がえた理由に合点がいったにちがいない。

 このままだと計画は失敗するかもしれない。千冬は舞台にあがる気をなくしている。説得したいが、説得すればその意図を龍平さんに疑われる。彼は記者だし計画を知ろうとするはずだ。いったいどうすれば――。

なおも千冬は気持ちをぶちまける。

「それに私やっぱり麗生さんを刺激することは避けたいんです。ただでさえ今後四か月、ファイナリストとして競わなきゃならない立場にあるので」

 そのあとの言葉が白蘭を凍りつかせた。

「だからすみませんけど、ルドルフにいっておいてもらえませんか。私と会いたいというなら、せめてもっと落ちついた場所と時間を指定してほしいと。舞台なんかでわざわざ再会して私たちの関係を人目にさらす必要はないと思います、と」

 白蘭はたたきのめされたようになった。ついに「ルドルフ」の名をだされた。その衝撃はもとより舞台出演を拒否された事実に白蘭は泣きそうになった。千冬の身になればあたりまえの結論といえるが、白蘭にはたまらない。動揺のあまり龍平の存在さえ忘れたようになり、すがりつくようにいった。

「どうか、お願いします。ここまで、用意したのだから・・・・・・」

 下手にでたのが、かえって千冬を強気にさせた。

「むりです、私には、やっぱり、できません」

 千冬はきっぱりと拒絶した。昂然と首をあげている。その傲慢ともみえる態度が白蘭の血を逆流させた。私をだれだと思ってるの、江田夕子とはちがうんだからね。もう頭にきた、龍平さんに知られたってかまわない。白蘭はひらきなおった。

「だめです」ぴしりといった。

「いまさらやめることはできません。スタッフもそのつもりでみんな準備してるんです」

 千冬は面をたたかれたような顔をした。目に迷いがでた。それでも、

「でも・・・・・・」

 と、なにか反論しかけたのを白蘭はさえぎっていった。

「大トリはもうすぐです、始まったら、無視はできませんよ」

「どうしてですか」

 きかれて困ったが、白蘭はとっさに思いついたことをいった。

「あの人は、登場してしばらくたったら、舞台からあなたに合図を送ることになってるんです」

「え、合図・・・・・?」

「そうです、合図ですよ。舞台からあなたを手招きすることになってるんです」

 白蘭は千冬をその気にさせるためにウソにウソを重ねた。

「あの人が私に手招きを・・・・・・?」

「そうです。そのときには、みんながあなたをみますよ。いま舞台をみてる大勢のお客さんの目があなたひとりに集まるんです」

「・・・・・・」

「それでも無視できますか? 舞台に行かないで、ここに座ってられますか?」

「・・・・・・」

「小山内さん、舞台にでてくれますね?」

 千冬はこたえなかった。うなずかないかわりに否定もしなかった。こたえないことで抵抗してるつもりかもしれないが、千冬は人目を気にする人間だから、合図があれば無視できないはずだ。

 とはいえルドルフが千冬に合図をする予定などない。すべては白蘭の口からでたデマカセである。

でも合図があれば、千冬は舞台に行ってくれそうだ。合図さえあればうまくいくなら、ルドルフに合図してもらいたい。でもそんなことが可能だろうか。アレーに相談したいが、どこにいるかわからない。スタッフに伝えれば、どうにかなるかもしれないけど、龍平さんの目が気になる。ああ、困った。千冬さえよけいなことをいいださなければ、こんなことで悩まなくてよかったのに。

 でもルドルフ・ルイスに合図させなければ。すべてはおじゃんになる。どうしよう。ルドルフがほんとうに千冬を愛してるなら舞台から手招きする、という奇跡も期待できるが、ロレーヌたちの話によればルドルフは千冬にはもう気がないらしい。

 どうしよう、どうしよう、と焦っているうちに、大トリの時間になってしまった。

場内にベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』が流れだした。映画『黄昏の皇帝』のテーマ曲である。それに麗生の声が重なった。

「最後を飾るのはこの方!」

 甲高い声が場内いっぱいにひびきわたった。が、麗生の姿はみえない。どこにいったのか、スピーカーをとおした声ばかりが大音量できこえる。

「銀華史上初の男性モデルの登場です!」

 幻想的な光のなかに、ひとりの男のシルエットがうかびあがった。ルドルフ・ルイスである。ルドルフは音楽にあわせて奥から歩きだした。

 「皇帝」の座に返り咲いたように一歩一歩尊大に、やたらともったいぶって前進をはじめている。さっき同じ舞台で魔術師と抱きあって泣いたのがうそのように、あごをあげ、胸をつきあげ、映画のワンシーンをまさに再現しているようにみえた。

 衣裳は映画と同じではなかった。皇帝風だが、このショーのために特別にあつらえられたシノワズリーなデザインである。つや光りするシルクの臙脂の生地に黒い縁飾り、高い領(えり)と長袍風にアレンジされたベスト、それにズボンをあわせている。

 似あう、といいたいところだが――なにしろルドルフの体型はこの四年で大幅にくずれているから、結婚式の新郎がにあわない礼服をきているようで痛々しい。モデルとしては完全に失敗だ。

 ルドルフはいまや過去の栄光にしがみつく、滑稽であわれな人間にしかみえない。あんな人のどこに千冬も麗生もひかれたんだろう、と、思いながらも白蘭は全身を緊張でかたくしていた。自分の話がほんとうなら、ルドルフは舞台の前面にでたとき、客席の千冬に手招きしなくてはならないのだが、そのみこみがない。

 千冬はルドルフの一歩一歩を息をのんでみまもっている。ルドルフは顔を前ではなく、こちらからみて右にそらして歩いていた。客席を正面にみたくないからであろうが、ちょうど千冬のほうをむいているようにみえる。千冬は上気している。あれほど文句をいっていたのに、いざルドルフをみると冷静ではいられないようだ。

 そのとき、ルドルフが足をとめた。舞台の突端まであと数歩というところだった。客席をみて、ハッとした顔になった。

 視線をたどると千冬にあたった。けれども足をとめたのは、千冬の存在に気づいたからだとは白蘭には思えなかった。ルドルフがどうして止まったのかは、わからない。でもいま重要なのはその原因をつきとめることではない。この状況を生かすことだ、と白蘭はとっさに思った。

千冬はいまルドルフが自分をみていると思いこんで、よろこんでいるようだ。観客も注目している。うまいこといってその気にさせれば、千冬は合図がなくても舞台にあがってくれるかもしれない。白蘭は息をはずませて口をひらいた。

「小山内さん」

 そのときだった。

「ルーディー、いまいくね!」

 おそろしく陽気な声が耳にとびこんだ。麗生である。客席から歓声があがったみると麗生がいつのまに舞台にあらわれている。麗生はさっきとはちがう、ヒヤシンス色のみごとなイブニングドレスをまとっていた。

麗生はルドルフの腕をとった。

 なにが起こったのか、とっさにはわからず唖然とした白蘭と千冬は、ルドルフが自分たちに負けないぐらい、ぎょっとしているのには気づかなかった。

「実は私たち、みなさんに重大な発表があります」

 麗生がルドルフをひきよせていった。頬を薔薇色にそめている。いまにも婚約発表でもしそうな感じだった。

白蘭は耳を疑った。自分はさっき千冬にいった――「麗生がルドルフとの仲を第一部がおわるまでに発表するのはまちがいない」と。それはあくまで千冬を動揺させるための方便、自分の考えたデタラメにすぎなかった。それがまさか、現実化するとは。いや、まだ現実化はしてない。発表といっても、麗生が交際宣言をするとはかぎらなかった。しかし、それをしたも同然のいちゃつきぶりだ。

「これが私への合図ですか」

千冬が皮肉をいった。顔から血の気がひいている。

「こんな予定じゃ・・・・・・なかったんです」

 白蘭はそういうのがやっとだった。

「もういいです」

 千冬はつきはなすようにいった。

「これが現実ですよね。舞台にあがったりしなくて正解でした」

「・・・・・・」

 白蘭の頭に計画失敗の四文字がうかんだ。

舞台の麗生はルドルフの手をにぎってアツアツぶりをみせつけている。

「私たちのどっちが発表するかといいますと・・・・・・えっと、うふふ」

 白蘭には自分にたいするいやがらせとしか思えなかった。

「ルーディからいう?」

 なにを発表するか知らないが、とにかく幸せそうだ。幸せそうなのは実は麗生だけで、ルドルフはいやがっているとは、だれも気づいていなかった。白蘭も気づかなかった。

「ねえどうする、ルーディ」

 麗生の声は蝿のうなりのように白蘭の耳のなかをかきまわした。これ以上きいていると怒りといらだちで気が狂いそうだった。白蘭は頭をかかえ、髪に指をつっこみ、頭をかきむしった。隣で龍平がみているのも気づかず、かきむしった。いくらかきむしっても、麗生の声は消えない。

「んじゃ、そうする? うふっ、えへへっ」

 そのとき、白蘭のなかでなにかが切れた。昨夜隣室の麗生の音をきいたときに覚えた感覚と同種の感覚が白蘭をおそった。動悸が高くなり、全身が怒りでみたされた。昨夜ノートを黒く塗りつぶして怒りを発散したように白蘭はほとんど無意識に、両腕を激しくひじかけにたたきつけていた。

 その瞬間、サイダー壜が右手をはなれ、落下した。床にたたきつけられ、割れ、粉々になった。とびちった液体が自分の衣服と龍平のズボンと千冬のハイヒールにかかった。

 龍平と千冬は驚いた目をむけた。だが白蘭はふたりをまったく無視した。無視したというより、存在を忘れていた。

 白蘭は茫然と床をみおろしたきりだった。床には割れた壜の破片が散乱している。壜といっしょに自分の理性も砕け散ったように思われた。片づける気は全然おきない。ただただ怒りがこみあげる。悪いのは麗生だ。麗生が私に壜を割らせた。私は悪くない。ぜんぶ麗生のせい。なにもかもあの女のせい! 呪いの言葉が無意識に口からとびでた。

「くそったれが」

 それはごく小さな声だった。英語だったし、ほかの客の注意はひかなかった。ただ両隣の龍平と千冬の耳には入った。ふたりとも壜が割れた以上にびっくりしている。

「魔女が。なにもかも台なしにしやがって」白蘭の口はとまらなかった。

「どこまで人の邪魔すりゃ気がすむ」

 声が気づかないうちに大きくなった。

「消えろ、魔女、ゲッタウェイ(Ger away)!」

 次の瞬間、驚くべきことがおこった。舞台のルドルフ・ルイスがとり憑かれたような顔をして麗生の腕をふり払い、歩きだしたのである。麗生がいまにも「重大な発表」をしようとした矢先のことだっただけに、異常なことに思われた。どうしたんだろう、という目で客はみた。

 ルドルフは舞台中央から右へすたすたと歩き、とまった。ちょうど白蘭の視線の延長線上にあたる位置だった。

 ルドルフは舞台から身をのりだすようにした。青い目はなにかにとり憑かれたようだった。その目が客席にむいた。その目はさっきからある一点にだけむけられていた。自分をみている、と白蘭は感じた。目があった、と思うと同時にルドルフの顔にみたこともない満面の笑みがひろがった。ルドルフは大きくうなずいた。白い手袋をはめた両手を胸のあたりに運んだ。ルドルフ・ルイスは客席にむかって拍手をはじめた。

 だれもがあっけにとられた。麗生も舞台中央にとり残された体勢のまま唖然としている。

 場内は、しんとした。ルドルフの白い手袋のぶつかりあう鈍い音だけが、ぶきみにひびいている。

 いったい、なんなのか。白蘭にはわけがわからない。ルドルフ・ルイスはこっちにむかって拍手している。あのスターが、どうして・・・・・・?

 そのこたえは、ルドルフが白蘭の言葉に共鳴したことにあった。白蘭のつぶやきはルドルフの耳に入っていた。英語だったからききとれた。そしてルドルフは救われた思いになった。

 なぜならルドルフは麗生を憎んでいたからである。白蘭は千冬に口からでまかせで「ルドルフは麗生と仕方なくつきあっている」といったが、現実もそうだった。

 ルドルフ・ルイスはけっして麗生を愛してはいなかった。だから自分ひとりが飾ると思っていた大トリの舞台に麗生が突然無断でとびこんできたときは、ぞっとした。自分の恋人然として腕をくむ、ずうずうしさ。ひとりではしゃぐうるささ。耐えられなかった。その上、自分との仲を観客に発表しようとする。我慢の限界だった。

 だがルドルフには麗生に抗議する勇気がなかった。反発したことは、いままでいちどもなかった。逆らうと面倒なことになりそうだから、いつも我慢した。今日もそうだった。この大トリもやりたいようにやらせるしかないのかと、あきらめたかけた。そのときだった。客席から声がきこえたのは。「魔女が」、「台なしにしやがって」、「どこまで人の邪魔すりゃ気がすむ」と英語でいう声がきこえたのは。

 だれかがルドルフの気持ちを代弁したとしか思えなかった。その声は左の優待席からした。ルドルフは目を皿にして、声の主を探した。みつけるのに時間はかからなかった。同じ女性の声がまたきこえた。ひとりの中国人女性客が目についた。あきらかに舞台の麗生をにらんでいる。口を動かして、こういっていた――「消えろ、魔女」。その女性にまちがいなかった。

 あの女の人も自分同様、麗生を不快に思っている。救いの神をみつけた気がした。ルドルフは我を忘れて、その客のそばへ近づこうとした。麗生をふりはらって舞台中央から右に移動したのはそのためだった。その女性客がよくみえる位置に立つと、ルドルフは共感の意思をあらわすために大きくうなずいた。彼女の発言を賞賛するために拍手した。

 ――そんなこととは白蘭は知らない。まったくわけがわからない。ルドルフは自分に拍手しているようだが、千冬に拍手しているようにもみえる。

 千冬はみると、ルドルフに視線を釘づけにして頬を真っ赤にしていた。拍手は自分にしていると思いこんでいるようだ。そのとき白蘭の頭に光明がさした。――これはチャンスだ。千冬にルドルフの合図はこれだと、この拍手だと伝えればいいのではないか? そうすれば、あきらめかけていた計画を実現できる。そう考えると、ルドルフの奇妙な行動がにわかに奇蹟に思えてきた。せっかくの奇蹟だ、拍手が終わらないうちに、千冬をけしかけなくては。白蘭は勢いこんでいった。

「小山内さん、わかりますか。これが合図ですよ」

「・・・・・・」

「ルドルフさんは『おいで』といってます。あなたが必要なんですよ」

 舞台をみる千冬の目はうるんでいた。白蘭はやさしくささやく。

「ほら、みんながあなたに注目してます。でも、こわがらないで。だいじょうぶ、彼が舞台で待ってます。早く行ってあげて」

 千冬は返事をするかわりに立ちあがった。立って黒いマントをぬぎすてた。

 あっと人びとは驚いた。ルドルフの異常な行動をみてひろがった目をさらにひろげた。

ルドルフも拍手をとめて、そのほうをみた。

 客席から舞台へ、のりこもうとしている娘がひとりある。舞台への階段をのぼる姿がフットライトにうかびあがる。その娘の身なりがまた人びとの注目をひいた。麗生とそっくり同じ格好をしている。すくなくとも遠目にはそうみえた。ヒヤシンス色のイブニングドレス、まとめ髪・・・・・・。

 麗生は階段をみると、とびだすような目をして化石したようになった。

 白蘭はわくわくした。千冬が舞台にあがったあと、麗生がどうふるまうか楽しみでならない。さすがの麗生も招かれざる闖入者を迎えて、いい顔をするはずがない。怒ってくれれば、いちばんいいのだけど。ルドルフだっていやな顔をするだろう。舞台にあがれば千冬は四面楚歌。公衆の面前で恥をかく。みんなの笑いものになる。キャリアが台なしになったと知った千冬がどんな顔をするか。みものだ。

 千冬が舞台に立った。さあ、大トリふたりがどう反応するか。白蘭はニヤニヤして麗生の顔をみた。とたんに麗生がいった。

「みなさん!」

 信じられないほど明るい声だった。

「本日最後のゲスト、小山内千冬さんでーす」

 麗生は笑顔だった。白蘭は目を疑った。麗生は心から歓迎してる顔でいった。

「驚きましたか、みなさん? ご存知、小山内さんは私と同じミス摩登コンテストのファイナリストです。サプライズで客席から登場してもらいました」

 千冬の手をにぎり、ゆらしていった。その手がかすかにふるえているのに千冬は気づいた。麗生は動揺している。それを隠して必死でこの場をとりつくろっているのは、あきらかだった。ライバル千冬の乱入、という異常事態をもちまえの機転と度胸でのりこえようとしている。

 麗生は客席にみせつけるように、にぎった手をふった。

「私たちとっても仲良しなんです。――ね?」

 片目をつぶって千冬に同意を求めた。顔にはさっきルドルフにみせたのと同じくらいの、とびっきりの笑みがうかんでいる。

 千冬は毒気をぬかれた。本来は麗生にルドルフとの仲を公然と抗議するくらいのつもりだったが、とてもそんなことはできなくなった。

 それに千冬は気づいていた。ルドルフが自分をまったく歓迎していないことに。それどころか蒼ざめ、目を冷たく光らせていることに。白蘭の話とちがう。千冬はショックをうけていた。麗生に抗議したところで勝ち目がないのはあきらかだった。

「ねえ千冬ちゃん、私たちトップ3同士、めちゃめちゃ仲がいいんだよね? それでおそろいの衣装をきてるんだよね? 髪型もそろえたんだよね?」

 千冬はうなずくよりほかなかった。

「あ・・・・・・そうです」

 麗生がひきとっていった。

「ファイナリストって仲いいんですよね。特に私たち」

 髪型と衣装がおそろいのふたりはぴたりとよりそった。顔も体型も全然ちがうが、そうしてみると姉妹のようで、ほんとうに仲よさそうにみえたからふしぎだった。

「私がみなさんに発表したかったのは、そのことなんです」

 客はいささか拍子ぬけといった顔をした。重大発表の内容とは、さんざん気をもたせておいて、そんなことだったのか、と思ったようだ。それでもお愛想に拍手してくれた。

 白蘭は唖然としている。望んだのとはまったく逆の展開になっている。千冬は舞台乱入後に麗生に叱られ、客にブーイングをうけていなければならなかった。それが拍手を送られている。麗生には心から歓迎されるときている。麗生は千冬の度胸のよさに好感をもったのかもしれない。それとも度胸におそれをなして敵にまわさないほうがいいと考えたのかもしれない。人をみぬく目のない白蘭はそのように考え、心から落胆した。千冬を転落させるはずの計画が、千冬のカブをあげる結果になるのなら、なにもしないほうがまだマシだった。悄然としたときだった。異様な声が耳に入った。

「この女、この女を・・・・・・」

 男の声だった。舞台からきこえた。みるとルドルフ・ルイスが、舞台の右端から中央にひき返し、千冬に人差指をむけている。

「この女をいますぐ、おろしてください」

 観客はふたたび、しんとなった。客の大半はいまルドルフがいった英語を理解した。中国人客でも上流階級となると英語教育をちゃんとうけているので、ある程度ならわかるのだ。

 ルドルフのいまの発言はふつうではなかった。態度もふつうではない。息荒く青筋をたて、さっきアレーにいちゃもんをつけたときそっくりだった。麗生があわてて、

「まあルーディ、やきもちやいちゃって」

 とりつくろおうと笑顔でいった。ルドルフはみむきもせず、千冬を指さしたまま声をはりあげた。

「早くこの女をおろしてください」

 ルドルフは麗生がいうことをきかないとみると千冬を直接非難しだした。

「なぜ舞台にきた。君はどういう権利でここにいる」

 千冬は全身を凍りつかせた。ルドルフのこの剣幕はどうしたことか。仮にも恋人の男のいう言葉だろうか。

「ルーディールーディー、落ちついて」

 麗生が肩に手をかけていうのをルドルフはふりはらって、

「落ちつけるものか! この女をおろさないかぎり」

 発狂したように叫んだ。

「危険なのが、わからないのか!」

 観客はあきれている。ルドルフがなぜ騒ぎだしたのか理解不能だった。

白蘭だけは目を輝かせた。とにかく千冬が非難されている。いちどあきらめかけたことが、おこなわれている。

「この危険な女をおろすんだ!」

「みなさん、すみません。ルドルフが取り乱してしまいまして」

 麗生がとりつくろおうとすると、ルドルフはよけいに逆上していった。

「取り乱してなどいない! 私は冷静だ。これ以上私の要望を無視するなら、伯父のウィリアム・ハルトンに訴える。それでもいいのか」

 ハルトンの名をだされては、さすがに麗生も無視できない。

「待って、待ってよ待って」

 あわてていったものの、名案があるわけではなかった。困惑の目が思わず千冬にむいた。すると千冬がいった。

「だいじょぶ、私、おります」

 青い顔をむりに笑わせて、階段に足をかけた。

「おりないで、千冬ちゃん」麗生が追いかけるようにいった。

「ルーディなら、おとなしくさせるから」

 ふりかえった千冬はふっと口もとを笑わせた。

「私がおりれば、すむ話」

 そういった千冬の目には瞬間皮肉の色がうかんだ。麗生は気づかない顔で胸の前で手を大げさにふってみせ、

「そんな、だめだめ」

 と、あきらかに観客を意識した声でいった。本心では千冬がおりる気になってくれて、安堵しているにちがいなかった。そう感じた千冬はにわかにへそをまげ、身をひるがえしていった。

「じゃ残ります」

 麗生の眉間にすじができた。ルドルフが叫んだ。

「ハルトン伯父に訴えてもいいのか」

「ルーディ・・・・・・」

 麗生はなだめようとしが、その声はさっきより弱かった。

「この女はほんとうにおそろしい人間だ」

 ルドルフは千冬をにらんでいう。

「もうがまんの限界だ・・・・・・きいてください、みなさん」

 なにを思ったか、にわかに客席に訴えはじめた。あらためて千冬を指さし、

「この女を非難するのには理由があります。舞台に乱入してきたことからもわかるとおり、相当な悪人なんです」

「ちょっとルーディ」麗生がさえぎった。

「『乱入』って? 千冬ちゃんは大トリのサプライズ・ゲストだったでしょ?」

 片目をつぶって同意をうながしたが、通じなかった。ルドルフは観客に訴えつづけた。

「みなさん、どうか私を人をみれば非難する人間とは思わないでいただきたい。さっき私はここでべつの人間に被害者意識旺盛な人間のようにいわれましたが、そうではありません」

 ルドルフはアレーにやりこめられたことをいまさらのように否定して前置きしてから、主張した。

「私はチフユ・オサナイという女をよく知ってます。人間ですから良い面もあるかもしれません。しかしこの女に接すると、そうとは思えなくなる。この女の悪い面はそれほど強烈なんです」

「失礼しちゃうわよね、千冬ちゃん」

 麗生がかばおうとするのをさえぎってルドルフは千冬をにらみつけ、

「この女に私はだまされたんですよ。みなさん、この女のみかけにだまされてはいけません。どうか私と同じあやまちをくりかえさないでください」

 わめいた。

「信じてください。この女が私になにをしたか話しましょうか?」

 反応はない。観客はさめている。

「いいましょう。一年前――私が上海に来て二年目をむかえた年ですが――私はフランス租界のルート・フレロットをぶらついていました」

 ルドルフは英語で油紙に火がついたようにしゃべりだした。麗生は通訳しなかった。

「そのころの私はあのあたりをよく散歩していたのです。春の夕日がさしているときのことでした、なまりのある英語でだれかが私に声をかけてきました。ふりかえると、ひとりの若い東洋人の女が立っていました」

 千冬をみながら、

「その女は見知らぬ男に声をかけるような女にはまったくみえず、私の視線を意識するなり、うつむいて顔を真っ赤にしました。純情そのものといった感じでした。ところが女は顔をあげたかと思うと、驚いたことに私にこういってきたんです。

 自分はこのあたりに住む日本人であるが、毎日のようにあなた(私のことです)を通りでみかけるうちに心を奪われてしまい、交際を申しこまずにはいられなくなった、と」

 千冬は棒をのんだような顔をした。

「私は信じました。未知の女性でしたが、異郷の地で知己もろくにない私には救い主のように思われたのです。そもそも彼女の告白に軽々しさはまったくなく、本気で私に惚れているとしか考えられませんでした。

 こうして私はその女と交際をはじめました。その女こそ、いうまでもなくここにいるチフユ・オサナイです。

 ところがこの女は、つき合って数か月もしないうちに、正体をあらわしはじめました」

 けがらわしいものでもみるように千冬をみて、

「この女の正体がなんであったか、この女の目的がなんであったか・・・・・・ああ、それをいうのは恐ろしい、恐ろしいことです。しかしいわなければだれにも信じてもらえない。でもいえば、この女が仮面をかなぐり捨てて私に襲いかかってくる・・・・・・」

 言葉をつまらせたルドルフは青ざめた顔を客席にむけ、人びとに同情を求めるような目つきをした。そのときだった。

「なんの話ですか、いったい」

 かんばしった声が空気をきり裂いた。千冬だった。

「私にはまったく覚えがありません」

 きっぱりと英語でいった。さっきまでとは別人のように胸をはり、背筋をのばしている。さすがは陸軍少将の姪、その気になれば観客を味方につけようとするだけの気力と度胸があった。英語だからどこまで通じるかわからないが、毅然といった。ルドルフをさして、

「みなさん、この人のいうことは、まったくのでたらめです。どうか信じないでください。私は一年前、この人に声をかけたりはしていません。この人のほうから――」

「ウォウ、ウォウ!」

 野獣のような咆哮をあげてルドルフがさえぎった。

「舞台に乱入した上、私をうそつきあつかいか。いいかげんにしてもらいたい。この女を麗生はゲストだと紹介したが、とんでもない。みなさん、ほんとうのことを教えましょう」

 ルドルフは麗生にとめる隙を与えなかった。すばやくいった。

「この女と麗生が仲良しというのは大ウソです。みてください、この麗生そっくりの格好――これがほんとうはなにを意味するか、知ってますか? 麗生への対抗意識ですよ。この女は麗生をおしのけて私とならび、大トリをかざるつもりだったんです」

「な、なにを・・・・・・」

 千冬は狼狽した。ルドルフはしたり顔でいった。

「みてください、この表情――このとおり、この女は私とならぶつもりだったんです」

 よくぞいってくれた、ルドルフ。白蘭は思わず笑顔になった。もっといってやって。期待どおりルドルフは鋭い指摘を重ねた。

「この女はそれより私と話すのが目的だったかもしれません。この一か月というもの、私に避けられていたから、私をつかまえようと躍起になっていたのはたしかです。舞台なら私が逃げられないとでも思って、のりこんできたのでしょう」

「ちがう、そんなんじゃない・・・・・・」

 千冬はいった。ふるえ声で、客の存在を忘れたように反論した。

「話をしたがってたのはルドルフ、あなたのほうでしょう? 私きいて知ってるんだから。ルドルフが私と競演したいとデパートの人にお願いしたって」

「なにをいってる」ルドルフはせせら笑い、苦い顔になっていった。

「下等なデマカセで私をわずらわさないでもらいたい。悪いがもう、がまんの限界だ。この際だから、いわせてもらおう。いつまでもつきまとわれてはかなわない」

 ルドルフはいった。

「私は君が、きらいだ」

 白蘭は胸中で快哉をあげた。千冬よ、ザマミロ。一時はどうなるかと思ったけど、計画はもちなおした。ルドルフのおかげで望んだ結果になった。千冬はまさに公衆の面前で恥をかかされている。万歳三唱したいぐらいだ。千冬はこの際だからもっと苦しめ。

「愛そうと努力したことはあったが、むりだった」

 ルドルフはとどめをさすようにいう。

「いまでは生理的に受けつけない。なぜなら君はひどい・・・・・・私の身を守るためにそれ以上はいえないが――ひどい女だから」

 千冬をみる目は冷たかった。その目を千冬はにらみかえした。ショックと屈辱と怒りのこもった目だった。

「ひどいのはそっち・・・・・・」

 うめきのような声が口からもれた。その口が大きくひらいた。

「そっちこそデマカセ。一年前、街角で交際を申しこんできたのは、そっちでしょ? 突然声をかけられて驚いた私に『好き』といったでしょ?」

 ルドルフは目をそらした。苦虫を噛みつぶしたようにいった。

「このごに及んで猿芝居でごまかすとは、女というものはどうしてずうずうしい」

「よくそんなことがいえる」千冬は叫んだ。我を忘れ、客の存在を忘れていった。

「私とつきあいながら、ほかの女性ともつきあっておいて」

 禁句を口にした。「ほかの女性」といったとき、はっきりと麗生をみた。

 さしもの麗生がその瞬間、顔色を変えた。

 麗生がかばってきたにもかかわらず、千冬は牙をむいてきた。

 ふたりの娘のあいだに流れた不穏な空気を、客たちは感じとった。さっきからの展開も、ルドルフの英語は早くてききとりづらかったが、語調や態度からおおかた察している。英語がまったくわからない客も、いま千冬が麗生とルドルフの仲を抗議しようとしていることぐらいは、わかった。

 千冬は身を捨ててかかっている。状況しだいではルドルフのみならず、麗生との対決も辞さないといった覚悟がその面上にはあらわれている。同情をひくものがあった。

 ルドルフの態度はあまりに傲慢なように客の目にはうつった。

 だから千冬はいったんは恥をかいたとはいえ、この時点ではまだ挽回の余地は残されていた。ところがこのあと、どうあがいても挽回できない事態がもちあがる。白蘭の念頭にもない事態だった。それが千冬の不利を決定づけることになる。

「ルドルフ、あなたは去年の八月から、私以外の女性とつきあってたよね?」

 千冬がつめよると、ルドルフは顔をゆがめて後退した。

「それ以上近づくな。私を脅迫するのか」

「脅迫? なにをいってるの」

「ごまかしてもムダだ。君がナイフを携帯していることを、私が知らないとでも思ってるのか」

 千冬の髪のあたりをみてルドルフはいった。

「は?」

 きょとんとする千冬の頭に人差指をつきつけ、

「その髪飾りがナイフでないというなら、いったいなんだというのか」

 まとめ髪にささった日本風の簪(かんざし)に指をつきつけた。

「・・・・・・?」

「こたえられないのは図星だからだな」

「・・・・・・」

 こたえられないのではなかった。千冬はこたえる気にならなかっただけである。ルドルフは簪がナイフだという。いいがかりにしても、あまりにばかばかしい。この人はそんなことをいってまで私を悪人にしたてあげたいのか――千冬は怒りをとおりこして、あきれた。

 とはいえ、いつまでも黙っているわけにもいかない。否定しなければ、ナイフをもっていることにされてしまう。このままでは犯罪者あつかいされかねないようすだから、簪に指あてて、

「これはみてのとおり、ナイフなんかじゃありません」

 と、はっきりいってやった。だがルドルフはいった。

「証明できないだろう」

 千冬は頭にきた。楽屋でヘアメイクにつけてもらった簪を勢いよくひっこぬくと、

「だれがみても簪です」

 そういって、鼻の前につきつけてやった。千冬もいま初めてそれをまともにみた。どうみても簪にしかみえない。鉛筆のように細長くはあるが、漆色に金のすじが入っている。

「ほら」

 ぶらぶらと嘲るようにふってみせ、

「これのどこがナイフなんですか」

 勝ちほこった顔をしていった瞬間、ルドルフの白い指がその一方の端をつまみ、勢いよく下にひいた。

 なにするの、と思って、ふんばったにもかかわらず、それはスポッとぬけた。

 ぬけたのはフタだった。簪の下半分はフタになっていた。それがぬけてなかから細長い銀色の刃があらわれた。

 ニヤリ、とルドルフは笑った。

「これはなんだ?」

「・・・・・・」

 千冬は愕然として自分のにぎっている簪だとばかり思っていた棒状の物体をみつめている。フタをぬきとられた下半分にはいま鋭い刃がつららのようにたれていた。

「これは日本の小刀だ」

 ルドルフがかわりにこたえた。客がざわめいた。

「これは鞘。ひとめみてわかった。私は伯父に似て骨董好きだし、これでも世界の工芸品にはくわしい」

 一方の手で千冬の手の下の銀色の刃をさし、得意げにまくしたてる。

「刃渡りは八センチほどしかない。しかし、これはれっきとした小刀――刀子と呼ばれる小さい日本刀だ。日本で古来、紙やひもを切るのに使われたものだ」

 客は目をみはっている。とはいえ表情に恐怖はない。奇術をみせられたときの反応に近かった。日本刀といってもたしかに小さかった。遠目にはかわいいアクセサリーのようにしかみえない。それをかわいいファイナリストが身につけて舞台にのりこんだときいても、犯罪は連想しなかったし、恐怖は感じなかった。ルドルフはそんな客の反応に不満を感じていった。

「たんなるペーパーナイフといえばそれまでですが、刃は非常に鋭い。むしろメスに近い」

 たしかによくみると刃は実によく研ぎすまされ、冷たく冴えわたっている。

「人を刺すには、じゅうぶんな鋭さです。それをこの女は簪にみせかけて髪の毛に飾っていた。小細工をしてまでこの女は舞台に小刀を持ちこんだ。なんのために? 目的はなんでしょう?」

 ルドルフは人びとの恐怖をあおった。会場はふたたびしんとなった。

 千冬は自分が凶器を所持していることがまだ信じられず、なお茫然と右手にぶらさげたままでいる。

 その鋭利な刃に麗生はさっきから視線を釘づけにされていた。その簪をよそおった小刀にはみおぼえがあった。以前にみた場所が場所だけに衝撃はすさまじかった。さしもの麗生が顔色を変えた。自分を抑えられなくなり叫びだした

「その刀、私知ってます――李花齢さんの胸に刺さってたのが、それとそっくりの小刀でした」

 会場は凍りついた。麗生はいった。唇をふるわせ、息をはずませ、麗生らしくもなく憑かれたようにいった。

「私は花齢さんの生前、親戚みたいに親しくしていた関係でリラダン事件後警察にいって、凶器をみたので知っています。『読書室リラダン』が爆破される直前、花齢さんがすでに凶器で殺されていたことは、みなさんご存知のとおりです。私がみたところ、花齢さんの胸に刺さっていた小刀は、日本風の漆色に金のすじの入った――いま思えば簪にそっくりの、つまりいま千冬さんがもってるのとそっくりの小刀でした」

 客席の李龍平は顔色を変えている。母を殺したのは小山内千冬だったのか? いや、そうきめつけるのは短絡的だ。麗生の話が真実とはかぎらない。たとえ真実だとしても、千冬がもっている小刀と母を刺した小刀が同じ製品というだけで、千冬が犯人という証拠にはならない。

「べつに私は、小山内さんが殺人犯だといってるわけじゃないですんですよ」

 麗生はいった。観客にむかって北京語で、

「ただあのリラダン事件の凶器そっくりの小刀を簪としてファッションにとりいれるなんて独創的だなと思ったんで」

 とりつくろったようだが、その実皮肉をいっている。「千冬ちゃん」が「小山内さん」に変わったことでもわかる。千冬をみる麗生の目は冷たくなっていた。みせかけの親しみも優しさも消えうせている。

 麗生は舞台では巧みに隠してきたが、千冬のことは昨日から敵視していた。自分をIAAに中傷したのは千冬ではないかと疑っている。自分を「リラダン事件の実行犯」と千冬がいったと思っている。その千冬がいま舞台にのりこんできた。李花齢殺しの凶器に使われていた小刀と同型の小刀をもちこんでいると判明した。ねらいはなにか、と疑わずにはいられない。命にかかわることだと思うと、いくら麗生でも平静ではいられなかった

「ねえ小山内さん、ずいぶん奇抜なアクセサリーですね?」

「・・・・・・」

 千冬はのどに声をつまらせた。「簪」は楽屋でヘアメイクの人が勝手につけたもので、自分はなにも知らなかった。だが信じてもらえるとは思えない。凶器を現実に身につけていた以上、知らなかったといってすむとは思われない。

 状況は千冬にかなり不利だ。ひょっとしたらファイナリスト失格になるかもしれない。トップ3からの転落は確実だろう。グランプリになる夢が目の前でくずれ去っていく気がした。一方でこれまでのさまざまな努力や思いが胸に去来する。やっぱりあきらめるわけにはいかない。でもどうしたらいいのか、なにも思いつかない。焦って混乱した千冬は考えなしに叫んだ。

「私は、ハメられたんです」

 信じてもらいたい思いでいっぱいで、つい手ぶりが大きくなった。小刀をもっていることを半分忘れていた。刃先をルドルフにむけていることに気づかなかった。

「近寄るな」

 そういわれてハッとしたときには刃先はルドルフの手すれすれのところまで接近していた。いそいでひっこめようと柄を動かしたとそのときだった。

「あ」

 ルドルフが顔をゆがめ、左手の甲をおさえた。小刀をはらいのけるしぐさをした際に、手が刃にぶつかったようだ。手の甲には赤い筋ができていた。

「痛・・・・・・」

 真っ赤な血のしずくが、床にしたたりおちた。自分で自分の血をみて腰がぬけたようにその場にしゃがみこんだルドルフに、麗生が血相を変えてかけよった。

 会場がどよめくなか、千冬は驚きの波しずまらぬ顔で自分のもつ小刀とルドルフの傷を何度もみくらべ、おろおろといった。

「私・・・・・・なにもやってな」

 いいかけた言葉は途中でのどにつかえた。瞳のはしに忍びよる影に気づき、全身が硬直したからだった。男たちの影がみえた。警備員か? 制服を着た男たちが左右の舞台袖に、舞台下にいた。三人、四人、五人・・・・・・十人・・・・・・十五人・・・・・・そこかしこにひそんでいる。舞台はいつのまに包囲されていた。

 戦慄した千冬は、

「ちがうんです、ちがいます」

 反射的に、両手を烈しく左右にふって叫んでいた。自分は悪くない、とわかってもらうためだった。それが小刀をふりまわしているようにみえた。客の一部が悲鳴をあげた。ルドルフが血を流したのは千冬が刺したからだと思って、おびえている。千冬は誤解をとこうと焦り、「ちがいます」といっていたずらに手をふる。手には小刀がある。小刀をふりまわされて客はますますおびえる。悲鳴が波うった。

 すると男たちがたまりかねたように舞台袖から、とびだしてきた。ねらうは小山内千冬。舞台はあっというまに屈強な男たちに埋めつくされた。

 客は驚き、騒ぎはますます大きくなった。千冬はますます理性を失う。

「お客様にお知らせいたします」

 場内にアナウンスが流れだした。莫部長の声だった。

「ファッション・ショー中、まことに申しわけございませんが、緊急事態が発生いたしましたため、第一部は残念ながらここでいったん中断とさせていただきます。お客様には大変申しわけございませんが安全確保のため、ご理解のほどよろしくお願い申しあげます」

 だれも理解したくなかったが、舞台の状況をみてはあきらめるしかなかった。凶器を持った人間と、制服の男たちがいるのである。

 スピーカーが別の従業員の声を流しはじめた。

「お客さまにご連絡いたします。ただいまより従業員が出口へとお客さまを順番に誘導いたします。お客さまにすこしでも安全にお帰りいただくため、従業員の指示があるまでは、お席でお待ちになっていただくようお願い申しあげます。ご迷惑をおかけいたしますが、どうかあわてず落ちついて行動していただきますよう」

 この「お願い」が逆に客を出口に殺到させた。だれもが我先にと出ようとする。

 白蘭はそれより一足先に優待席専用出口をあとにしている。出口をまたぐ前にいちど名残おしそうに舞台を一瞥した。その目には笑いがあった。白蘭は大満足だった。舞台の千冬の狂態といったら――。

 大成功だ。いや、成功以上だ。千冬は犯罪者扱いされている。そこまで追いこめるとは考えていなかった。白蘭の計画以上だった。簪の小刀のおかげだ。まさか、あんなものがしこまれているとは。だれのアイデアだろう。アレーかもしれない。わからないけど、終わりよければすべてよし。運が味方してくれたと思う。白蘭は目を細めて舞台を眺める。

痛快痛快。千冬はこれがきっかけでトップ3からの転落はもちろんのこと、ファイナリストでさえいられなくなるかもしれない。そうなったら江田夕子を合宿所から追い出すどころではなくなる。とにかく痛快だった。きたときは千冬におびえていた自分が、でるときはおびえる千冬を眺めている。

「私の小刀じゃありません」

 千冬は自分をとりまく警備員に訴えた。はずみで小刀の切っ先がそのうちのひとりにむいた。警備員はいっせいに銃をかまえた。十五の銃口が千冬ひとりにむいた。

「おとなしく凶器を捨てなさい」

 なぜ銃をむける必要があるのか、なぜひと思いに千冬から小刀を奪おうとしないのか、という疑問をいだくより先に、銃口をむけられたという恐怖に千冬は小刀を持ったまま、ふるえだした。

「ちが・・・・・・凶器じゃ・・・・・・。これはデパートの人が勝手に私に・・・・・・」

 言葉にならない訴えは通じなかった。男たちは石のように動かない。ただ千冬が小刀を捨てるのを待っている。捨てれば彼らは千冬をとらえるだろう。どうしたら無実と信じてもらえるのか。絶望的に思えたそのとき、千冬の頭に一筋の光芒がさした。なぜいままで忘れていたのか。救われたようにいった。

「証人がいます。白蘭さんにきいてください。私が舞台にあがったのは、彼女にいわれたからなんです」

 男たちは無視した。救いを求めるように千冬は叫んだ。

「白蘭さん!」

 右方向の優待席にむかって叫んだ。

「白蘭さん・・・・・・」

 返事はなかった。白蘭の席はカラだった。客席は人がひいていた。さっきまで人であふれていた会場を千冬は茫然と眺めわたした。白蘭の姿はどこにもみあたらなかった。

「さっきまであそこに・・・・・・いたんです」千冬は白蘭のいた席をさして、くりかえした。

「白蘭さんはいたんです」

 十五の銃口は千冬にむいたまま、びくともしない。

「おとなしく凶器を捨てなさい」

 男の声が太くなった。千冬はあきらめきれず嘆願した。

「どうか白蘭さんを。いまならまだ出口にいるかも。呼んでください、早く、ここに」

「そんな人はいない」男はうるさそうにいった。「凶器をすてなさい」

 すると千冬はにわかに目をすわらせていった。

「それなら、あの人に・・・・・・ききます」

 光る目をすぐ隣にむけた。そこにはルドルフがいた。

 ルドルフは床にしゃがみこんでいた。血を流して以来、左手を麗生にあずけている。自分のハンカチを麗生に渡し、巻いてもらっていた。傷はかすり傷程度でたいしたことはないのだが、子どものようにおおげさに痛がっている。

「ルドルフ、話して」

 千冬は自分をかこむ男と男のあいだに声をねじこむようにしていった。

「正直にこたえて。あなた白蘭さんに私のこと話したでしょ?」

「・・・・・・」

 ルドルフは面倒くさそうに目をあげ、千冬をにらんだだけだった。ショックが千冬の理性を奪った。

「私だけが好きっていったんでしょ?」

 なにをいってるのか自分でもわからない。自制がきかなくて口がとまらない。

「私と会いたいけど、べつの女性に束縛されてできないから、舞台で再会したいって、白蘭さんにいったんでしょ?」

 麗生が顔をあげて千冬をにらんだ。客がひいたので敵意を隠そうともしない。たのみはルドルフだけという意識が千冬をみたした。

「お願い、こたえて。さっき舞台で私の前にきて拍手したのは、私に舞台にあがってっていう合図だったんでしょ?」

 ルドルフはこたえるかわりに、ばかにしたようにうすく笑い、かぶりをふった。衝撃が千冬の顔に走った。

「あれは合図じゃなかったの?」白い唇をふるわせた。

「もしかして・・・・・・すべては白蘭さんのウソだったの?」

「だれなんだ、そのバーレイとやらは!」

 ルドルフが癇癪をおこして叫んだ。

「・・・・・・ルドルフの友だち、でしょ?」

「一度たりとも聞いたことのない名だ」

「・・・・・・」

 千冬は顔面蒼白だった。いまさらのように気づいた。自分はだまされた。私は白蘭にだまされた。そもそも白蘭とは何者なのか。千冬はなにも知らなかった。デパートの部長に紹介されたから信用した。もしかして部長も白蘭とグルだったのだろうか? おそろしくてそれ以上考えられなかった。千冬はほどけた髪をかきむしった。乱れた髪がさらに乱れる。その姿はもはや軍人の姪にはみえなかった。

 ルドルフは顔に嫌悪をあらわした。右手で千冬をさして叫んだ。

「オサナイは私をけがした。手だけではない、体面をも、舞台をも、心をも・・・・・・。めちゃくちゃだ、なにもかもが」

 皇帝というより駄々っ子のような声だった。

「あの女がぶちこわしてくれた。私の舞台を、皇帝としての復活の舞台を・・・・・・」

 千冬はルドルフをみた。恋人だったはずの男はわめく。

「どうして謝罪してくれない?!」

「・・・・・・」

 声をだす気もおこらなかった。千冬は脱力感におそわれた。

 小刀が音たてて落ちた。

 たちまち男たちがとびかかった。千冬はその場でとりおさえられた。


 そこまでみとどけてから龍平は舞台裏に入った。警備員は舞台に集中していたから注意するものはなかった。どさくさにまぎれてしのびこんだ。

 龍平はことの真相を探らずにはいられなかった。

 警備員が小山内千冬を拘束した。――警備員? いや、あいつらは警備員をよそおった蒼刀会員だ。いまにして合点がいく。あいつらははじめから千冬をとりおさえるために配置されていたのだ。

 自分の予感はまちがっていなかった、と思った。「なにか」はやはり起きた。

 小山内千冬は本人のいうとおりハメられたとしか思えなかった。

 思い出されるのは舞台前の千冬と白蘭の会話である。千冬のこんな言葉が耳に入った――「ルドルフにいっておいてもらえませんか。私と会いたいというなら、せめてもっと落ちついた場所と時間を指定してほしいと。舞台なんかでわざわざ再会して私たちの関係を人目にさらす必要はないと思います」。

 白蘭はいった――「だめです」、「いまさらやめることはできません。スタッフもそのつもりでみんな準備してるんです」。

 あのときはなんのことかよくわからなかったが、いまになるとわかる。

 千冬は舞台にあがるよう白蘭に説得されていた。白蘭は千冬を舞台にあげたがっていた。なんのためかは、わからない。しかし白蘭はたしかに千冬を舞台に行かせようと必死だった。千冬をハメたのは白蘭だ。とはいえ白蘭ひとりの考えでやったとは思えない。背後には銀華デパートの人間がいる。「スタッフもそのつもりでみんな準備してるんです」と白蘭はいっていた。千冬に話しかけにいったときは莫部長がいっしょだった。銀華デパートの頂点には巧月生がいる。

 白蘭は巧月生に気にいられている、と自分でいっていた。巧月生と親しいアレーときていたことといい、その言葉にうそはないようだ。

 巧月生は闇組織蒼刀会のボスでもある。巧月生が舞台上でみせた意味深な笑いが目の裏によみがえる。千冬をハメたのは蒼刀会か。だとしたら目的はなにか。

 巧月生はなんのために小山内千冬を李花齢殺しの犯人にしたてなくてはならなかったのか?

 楽屋Dの前には、男三人が歩哨のように立っていた。うち二人は警備員をよそおった蒼刀会員だが、一人は警官だった。租界警察が早くもかけつけている。このぶんだと、なかで事情聴取でもおこなわれているにちがいない。ずいぶんおおごとになったものだ。李花齢殺しに使われたのと同様の凶器が舞台に持ちこまれたから警察としても無視できない、といったところか。龍平がドアに近づくと、警官がいった。

「関係者以外立入禁止です」

「関係者ですよ。私こういうもので」

 龍平がさしだした『上海時報』の名刺を警官は一瞥するなりいった。

「報道関係の方は入れません」

 上司にさんざんいい含められているのだろう。まだ若い、二十歳すぎたばかりの警官がいった。

「いえ、新聞記者というよりもですね、ここをよくみてください、名前を。私、李花齢の息子でして――そうです、リラダン事件の被害者の息子です。リラダン事件と今回の騒動は関係あるらしいですから、それで呼ばれたんでしょう。ええ、さっき年輩の警官に呼ばれてきたんです、遅れましたが、ウソだと思ったらなかの警官に確認してください」

 呼ばれたというのはウソだった。しかし若い警官は自分の無知をさらけだすのをおそれたらしく、入室を許可した。龍平は楽屋Dのドアをあけた。

「どうもこんにちは、いやいや、遅れてすみません」

 入るなり調子のいい声をふりまいて、すばやい視線をめぐらせた。室内中央にテーブルがあり、年輩の警官一名と小山内千冬がむかいあって座っていた。千冬の左右と背後を若い警官二名と蒼刀会員二名が立ってかためている。年輩の警官の正面にあたる壁際には椅子がならび、デパート側の関係者が座っている。莫宣伝部長、スタッフ数名、ほかにヘアメイク一名、スタイリスト一名である。その隣に麗生とルドルフがいた。巧月生はいない。これら全員の視線がいっせいに龍平にむいた。事情聴取がおこなわれているところに突然入ったのだから、むりもなかった。

 驚いた目ばかりだが、そのなかで異様に輝いた目があった。ルドルフ・ルイスの目である。それまで不機嫌だったのに龍平をみるなり顔全体が明るくなった。それを利用して龍平が椅子に近づこうとすると、

「勝手に入ってもらっては困ります」

 警官の鋭い声がとんできた。たちまち龍平はピエロの笑いをはりつけ、道化のように腰をかがめていった。

「私李花齢の息子でして、母の事件の真相にかかわる問答がおこなわれるときいて、矢も盾もたまらず参ったしだいですが――、いけませんでしょうか」

 年輩の警官の表情は動かなかった。

「李花齢氏の息子さん――あなた新聞記者でしたね。困ります。息子さんに伝えるべきことがあれば追ってお知らせいたします。いまはおひきとり願います」

 そういって警備の男に目くばせした。力ずくで閉めだされそうになったそのとき、

「待ってください」若い女の声がいった。麗生である。

「彼は――李龍平さんは、私とルドルフさんの非常に親しい友人です。記事にはしないと約束させますから、どうか同席させてください」

 そういって深々と頭を下げた。

 「呉麗生とルドルフの親しい友人」ということは、年輩警官の脳内で「実業家呉躍と租界の権威ウィリアム・ハルトンの親しい友人」という意味に変換された。たちまち手の平を返したように、

「くれぐれも内聞に願いますよ」

 とだけいって警官は龍平の立ち入りを容認した。

「もちろんですよ、やたらには書きません、いや絶対に書きっこありません」

 おどけた口調でうけあうと、龍平は麗生の隣に腰をおろした。そのとき麗生はなぜか頬を赤く染めたが、龍平は気づかなかった。

「小山内さん、もう一度確認しますがね」

 年輩の警官はふたたび押収した小刀をテーブルにつきだしていった。

「この小刀はあなたの所持品にまちがいありませんね?」

 千冬の髪は依然乱れたままだが、精神は舞台にいたときよりはいくぶん落ちついたらしく、警官に訊問されると待ってましたとばかりに反発した。

「だからちがいます、私のではありません。それはヘアメイクさんが勝手に私の髪につけたものです」

「自分のものでないという証拠はありますか」

 千冬は一瞬のどがつまったような顔をしたが、自分のきているドレスをつまんで、

「これが私のものにみえますか? みたらわかるじゃないですか。私がいま身につけているのはぜんぶ、ここのものです。デパートの人にきいてください」

「ドレスではなく、小刀について、きいているんです」

「どうしてわかってもらえないんですか。私が舞台にあがったのだって自分の意思じゃありません。デパートの人たちが私に出演してほしいって――大トリでルドルフ・ルイス氏を喜ばせるためにサプライズ出演してほしがってるって、きいたから・・・・・・」

「では小山内さん、この小刀があなたの所持品でないという証拠は、ないんですね?」

「・・・・・・いま思えばぜんぶ罠だったんです。だから白蘭さんはあんなにしつこく私に出演するようにいってきたんです」

「白蘭さんとは?」警官は面倒くさそうにきいた。

「・・・・・・だからさっき白蘭さんをひきとめるようにお願いしたんじゃないですか。莫部長にきいてください。白蘭さんを私のところにつれてきたのは莫部長ですから」

 警官はひと息おいてから、ちょっと首をのばして壁ぎわの莫部長に顔をむけ、

「莫部長、心あたりがおありですか」

 と、きいた。

「いいえ。そのような名前の方は存じあげません」

 莫部長は首を横にふった。

「ウソです! 白蘭さんを私に紹介したじゃないですか」

 千冬は色を失って反論した。それをあわれむようにみて莫部長は静かにいった。

「残念ながら、私どもにはまったく覚えがございません」

「・・・・・・!」

「警部、私どもデパートの人間は小山内さまがおっしゃったような行動はいっさいとっておりません。しかしショーの主催者として責任の一端を感じます。できるだけのことは協力させていただきたいと考えております」

「わかりました、けっこうです」

 警部とよばれた警官はうやうやしく会釈すると、刺すような視線を千冬にむけた。

「小山内さん、事実だけを述べていただくよう願いますよ。白蘭という人は、あなたが自分の都合のいいように作った架空の人間でしょう?」

「ちがいますっ! ウソをついているのは莫部長のほうですって。きめつけないでください、ほかの人にきけばわかります。どうしてきいてくれないんですか」

 いくらうったえても警部は石のような顔をくずさなかった。千冬は半狂乱になって、うしろをふりかえり、自分できいた。

「ヘアメイクさん、この小刀を、私になにもいわずに髪に飾りましたよね?」

 必死の問いは、若い警官たちにさえぎられた。

「詳しい話は署でうかがいましょう」

 連行の合図をだしながら、年輩の警官はいった。

「なぜ私が。なにもしてないのに」

「小山内さん、あなたには別の事件の嫌疑もかかっています。しかるべき場所で詳細に取り調べる必要があります」

「・・・・・・リラダン事件のことですね?」

 千冬は唇をわななかせた。警官はこたえずに腰をあげる。千冬は必死で訴えた。

「それだったら署にいかないでもここで話しますって。あの事件はまったく私には無関係です。私、事件の日、三月三十日は、虹口にいませんでしたから。共同租界にいました。前日の三月二十九日の日曜日、奉天から私の両親が日本から遊びに来ていたので、はっきり覚えてます。伯父と両親を観光案内したあと、食事をするため共同租界のホテルに入ったことを。疑うなら、ホテルの従業員にでも伯父にでもきいてみてください」

 千冬は日本陸軍少将である「伯父」の存在を強調したが、警部はなぜかなにも耳に入らなかったような顔をしていった。

「ご同行願います。あなたは小刀を所持していた、その刃でルドルフ・ルイス氏を傷つけた」

「だからあれは、ルドルフのほうから勝手にぶつかってきたんですって。傷もたいしたことないし――私はなにも悪くありません」

 するとルドルフが真っ赤な顔をピクピクとふるわせ、椅子から腰をうかせ、

「その女の正体を話します!」

 突然叫んだ。

警官は動きをとめた。室内はしんとなった。

「話していいですよね? 舞台ではいえなかった、その女の正体を」

 警官は許可した。きく価値があるとみなしたようだ。

「では話しましょう」ルドルフはいった。

「その女の正体、それは殺人鬼です」

「と、いいますと?」

 警官が目を光らせてきいた。

「その女の仮面のなかには殺人鬼の魂がひそんでいます。李花齢を殺したのは、その女にまちがいありません。私にはわかります。今日そのことが裏打ちされましたが、私はかねてからその女が爆死事件の実行犯ではないかと疑っていたんです。

 先ほども私が交際を強要された経緯については話しましたが、つきあいはじめて三か月たったころ、その女は私に李花齢を紹介してほしいといいました。というのも私と花齢はハルトンをとおして家族的関係にありましたから」

「つづけてください」

「のちにあんなことになると知っていたら、けっして紹介することはなかったんですが、当時の私はなにも知らず、断る理由もなかったのでたのまれたとおりその女を花齢経営の読書室『リラダン』につれて行き花齢と引きあわせてやったんです。

 以来小山内千冬は私にあまり会おうとしなくなったかわりに、やたらと『リラダン』にいりびたるようになりました。そして一年もたたないうちにあのような恐ろしい事件が起こったんです。いま考えれば、小山内千冬が私に近づいたのは、花齢めあてだったんです。花齢を確実に殺す方法を探り、実行するためだったんです・・・・・・」

 そういって殊勝そうにうつむいた。

「でっちあげです!」

 千冬は絶叫した。ルドルフにつかみかからんばかりだった。横から男たちにおさえつけられても夢中で身をもがいた。

「とにかくきてもらいますよ」

 警官の言葉つきは変わっていた。視線もずっと厳しくなっている。若い警官たちは千冬をむりやり歩かせた。

「こんなこといいたくないですけど――」千冬は最後の切り札とばかりに、

「私の伯父は、日本陸軍少将小山内駿吉ですよ」

 と、口にだしていった。が、権威に弱いはずの警官が平然といった。

「わかっています」

 目もとにうす笑いがうかべている。千冬の顔が絶望にいろどられた。そのとき、

「ちょっとちょっと、みなさん」

 と、呼びかけた者がある。李龍平だった。ふざけているのか、まじめなのか、わからない語調で、

「いいんですか、ほんとに? ほんとに小山内千冬さんを警察に連れていっていいんですか?」

 ひとりひとりに視線をめぐらせて問いかけた。

「早まらないでくださいよ、証拠が不確かなんだから。さっきの小刀、ほんとにデパートのものかもしれませんよ。どうして確かめないんですか。ヘアメイクさんとスタイリストにきいてみましょうよ。ねえ、ヘアメイクさん、あの簪、中身がなにか知っててわざと千冬さんの頭につけたんでしょ?」

「・・・・・・」

 ヘアメイクはこたえなかった。

「おい」年輩の警官が沈黙を破った。「行くぞ!」

 部下にどなっているが、龍平にきかせるためなのは、あきらかだ。警官たちは無言で千冬をつれだした。さえぎる隙は、もはやなかった。

 小山内千冬は強制的に連行されていった。龍平は助けてやれなかった無念さで黙りこんだ。隣の麗生は莫部長に呼ばれて席をたった。するとルドルフが話しかけてきた。

「君があの女をかばいだてするとは、心外だ」

 たちまち龍平はピエロの仮面をはりつけていった。

「そりゃね、犯人でもないのに犯人にされたらかわいそうだからね」

「他人ごとのように。あの女は君の母親を殺した犯人だ。憎くないのか? たしかに君と母親の仲は良くなかったかもしれない。だからって――」

「まあまあそう怒らずに」

 龍平がおどけた口調でたしなめると、ルドルフはふくれていった。

「みてくれ、ここに傷がある」

 左手にまいた包帯をみせた。ハンカチは医務室で包帯にとりかえてもらったらしい。

「この包帯のなかの傷は、あの女に挑んだ結果だ。私はあの女に挑んだ。君の肉親を殺したのが許せないから。私の傷は君のためにあるんだよ、龍平(ロンピン)・・・・・・」

 どの女にもけっしてみせることのない、愛情あふれる眼差しをルドルフは李龍平の横顔にそそいだ。龍平は気づかないふりをして、

「いやルドルフ、やるじゃない、ありがたいよ、ありがたい」笑いながらいった。

「だけど俺は千冬ちゃんが殺人犯とは思えないのよ。アリバイも真実ぽいからね」

「なぜ肩を持つ。まさかあの女に気があるのじゃあるまいね」

 ルドルフの目が嫉妬に燃える女のような目つきに変わった。龍平はあわてて話題をそらした。

「ないない。それよりルドルフ、今日はかっこよかったなあ、モデルぶりも板についてたよ」

 するとルドルフは龍平のねらいどおり顔をゆるませた。

「そうお?」頬をそめて、

「でも完璧ではなかったよ。途中で邪魔さえ入らなければ、君にもっとすてきなところをみせられるはずだったんだけど。最後に皇帝のポーズをきめるはずだったから。リハーサルも入念にしたんだ。なのに・・・・・・くやしくてたまらない。出番の途中で予想外の邪魔が二つも三つも入ったんだからね」

 話すにつれて憤怒をよみがえらせたルドルフの視線は、奥で莫部長と話している麗生にむいた。麗生はなにやら今日の司会ぶりをほめられているようだった。その光景をルドルフは憎々しげに眺めた。

「ばかな女たちだよ。ほんと邪魔だった、小山内千冬が舞台に侵入してきたことはもちろん、麗生が大トリにとびいり参加したこともだよ」

 ルドルフはうつむいて、ひたすら呪いの言葉を吐く。アレーにいましめられて感動したことなど忘れはてたようだ。

「だいたい麗生はあのときなにを発表するつもりだったのか。思わせぶりな発言をして観客をわかせたりなどして不愉快きわまりなかった。ああ、私の再デビューはこうして呪われた舞台となった。私ひとり大トリを壮大に飾るという計画は・・・・・・。ああ、返してほしい、私の神聖な輝かしいステージを。いかに私は他人の犠牲になっているか。ねえ龍平、君ならわかるだろう? 私を理解できるのは君だけなのだから」

 返事はなかった。

 龍平はルドルフがうつむいてつぶやいているあいだに、部屋をとびだしていた。楽屋にもう用はなかった。彼は一階めざしてエレベーターにとびのった。デパートの外にでると、ナンキン・ロードぞいに三一年型のロールス・ロイスが横づけになっていた。

 周囲をものものしい男たちがかこんでいる。その中心には巧月生がいた。自動車にはのらず、外から助手席の窓にむかって口を動かしている。

 なかにいるのはアレーだった。とっくに帰ったとばかり思ったのに、まだいたのだ。龍平は通行人や待ち合わせなどで立ってる人たちにまぎれ、五メートルほどうしろからようすをうかがった。巧はアレーとなにを話しているのか。声はさすがにきこえない。口の動きも周囲の護衛たちが邪魔でよくみえない。

 龍平にはわからなかったが、ふたりは次のようなことをいっていた。

「予定どおり十二時半までにかたがついたようで」

 アレーは半分あけた助手席の窓から巧にいった。

「蒋主席のほうはいかがです? さっそく電話をちょうだいしたとか」

 蒋主席とは蒋介石のことだ。

「うむ」巧はこたえた。

「主席はやはりご不興の趣だ。『日本側を刺激するようなことは、いかなる理由があるにせよ、慎むべきだった。出すぎたことをしてくれた』とおっしゃっている」

「心配はいりません」

 アレーはそういっていわくありげにうしろをみた。うしろの座席には白蘭がいる。アレーは巧の顔に目を戻し、声に力をこめていった。

「すべてうまくいきますよ、予言どおりに」

 その言葉に含まれた意味を白蘭は知らなかった。気にもしなかった。千冬を自分の力でハメたと思いこみ、うかれていた。自分が大きな手のうえで踊らされただけだったとは想像もしていなかった。

 今日銀華劇場でおきたことはすべて、アレーが巧と仕組んだことの結果だった。

ふたりはある目的のために、入念な計画をたてて今日のファッション・ショーにのぞんだ。本番前に巧月生は屋上の生垣の陰で莫部長に、アレーのつれの娘のことをこういって紹介した。「その娘はなにも知らされていません。本人には自覚させずに、こちらのプランどおりに動かしていく予定なのです」。白蘭は計画のコマにされたにすぎない。

 麗生、王結、大学生の男たちも計画の材料だった。白蘭の被害妄想をかきたて、千冬をハメなくては救われないという思考にむかわせるのに必要だったのである。

 麗生が白蘭に話しかけたり、王結が大声で笑ったり、大学生がうしろの席にやってきたのは、偶然ではなかった。彼らは気づかずして、みえない手によって動かされていた。その結果、白蘭はアレーの思惑どおりの精神状態になった。そして計画は成功した。

「やっと第一歩がふみだせましたな」

 アレーの笑いに呼応するように巧がいった。目にはふたりにしかわからない笑いがうかんでいる。

 そのようすを横でみていた巧の右腕・劉虎は心中に首をひねった。

 このごろの巧会長はいったいどうしたのだろう、蒋主席の方針にさからうような行動をとるとは。以前の巧会長だったら考えられない。

 私の意見を頭ごなしに否定することもなかった。それどころか、このごろは私の意見には耳も貸そうとなさらない。

 会長には野心がある。それは私も知っている。ひとつは共同租界参事の座につくこと、もうひとつはミス摩登コンテストの審査員となること。どちらもイギリス人系有力者に認められてこそ実現できることだ。少ない席を奪いあうライバルの日本の評価をさげる策略は必要かもしれない。それにしても、やりすぎだ。以前の会長だったら自身の野心よりも蒋主席のご意向を優先された。それが今日は・・・・・・。

 私には会長が以前とはまったく別人になってしまわれたように思われてならない。そう、アレーが来てからというもの。

劉虎は助手席の窓に目をすえた。あのアレーの化けの皮を早いとこはがしてやろうと思ってから、もう一か月がたつ。

 魔術師アレーの正体はいまだ謎だった。

 龍平も不審な目をむけている。

 ロールス・ロイスはどこへいくのか。謎のふたり、アレーと白蘭をのせて発車した。

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