第二章 合宿初日

ミス摩登コンテストの合宿所が東虹口にあるときけば、たいていの上海人は意外に思うだろう。

 東虹口は生活感あふれる庶民の町だ。そのなかで合宿所はあきらかにういていた。合宿所とよぶのもおかしなくらい立派なのである。

 壮大な洋館、庭園、手入れの行き届いた芝生、テニスコート。まるで欧州の別荘のようなのだ。それもそのはず、合宿所といっても、ここは本来上流イギリス人の団体IAAの施設である。

 それがガーデン・ブリッジの北、東虹口という租界のはずれにあるのは意外だが、IAAの施設はここ以外にもたくさんある。租界の中心地にもある。東虹口にあるこの別荘は六号館である。通称、レスター花園(ヴィラ)という。IAA役員のひとりの名が由来だという。

 そのIAA花園六号館の門から合宿初日の朝、新聞雑誌記者、ニュース映画関係者たちが、カメラをぶらさげて続々とでてきた。どのフィルムにも、いま撮ってきたばかりのファイナリストの顔が焼きついていた。

 五月九日土曜日、IAAは一限目のオリエンテーションにかぎって報道陣に公開した。その公開時間が終わったので記者たちは帰っていくところだ。

 朝からいい天気だった。カメラの潮がひいて、小鳥たちが微風に青々と波うつ芝生の上へと戻ってくる。ひろびろとした芝生の果てには、赤煉瓦の洋館があった。三階建てで横に長い。たくさんの窓が、蔦の葉のあいだで陽光にきらめいている。なかでもひときわ華やかな声がもれているのは、一階のパウダールームの窓だ。

ファイナリストたちがそこで二限までの休み時間をすごしている。美しい娘たちの顔がみえる。鏡台はひとり一台ずつある。みな、ふかふかの椅子に身をしずめ、化粧直ししたり、おしゃべりに花を咲かせたりしている。文字どおり花園のような光景である。

 しかし実際の状況は、みかけほどには、のどかではなかった。みなほんとうは気になってしかたがないが、朝からあえて一言もふれない話題がある。

 昨日新聞で発表された「トップ3」についての話題だ。トップ3とは、『乙報』、『サウス・チャイナ・デイリー・ニューズ』、『上海日刊新聞』の上海発行の中英日三紙が共同でおこなうファイナリストの人気調査で、上位三位に入った娘三人のことである。昨日第一回の結果は以下だった。

 ――「一位、呉麗生。二位、ロレーヌ・バリー。三位、小山内千冬」。

 顔ぶれ自体は一週間前のファイナリスト発表会時と変わっていない。けれど順位は入れ替わっている。三位だった麗生が一位にあがり、一位だったロレーヌは麗生に大きくひきはなされて二位に、二位だった千冬は三位にと転落している。

 みなわざとのように朝から一言もこの話題にふれないでいるが、意識してないわけがない。

 でなかったらどうして、ファイナリスト十二人がトップ3を中心とした三つのグループにわかれているのだろう。一位の呉麗生が王結(ワン・ジエ)と馬秋秋(マ・チウチウ)にかこまれ、二位のロレーヌ・バリーがミラベルとナンシーにかこまれ、三位の小山内千冬が三間広子と遠藤幸枝と風果にかこまれているのは偶然だろうか。

 人種ごとに集まっているといえばそれまでかもしれない。だが横に三列ならんだ鏡台の、一列目を麗生組が、二列目をロレーヌ組が、三列目を千冬組が使っているのは偶然とは思われない。だれがきめたわけでもないのにトップ3の順に座ったのは、みなが意識している証拠だ。

 各グループはあきらかにおたがいを意識している。それぞれ自分たちの話に熱中してるふりをしつつ、ほかのグループの話にきき耳をたてている。おたがいに、ほかのグループを意識してしゃべっている。母国語が英語でないグループまで英語でしゃべっているのは、ほかにきかせるためにちがいなかった。

「二限の先生はミスター・エドワード・アンドリューだって。どんな人だろう」

 一列目の中国人、馬秋秋が英語でいうと、

「アンドリュー・バレエ・スクールの経営者だよ」

 ナンバーワンの呉麗生がすかさず英語でこたえた。みなにきかせるように声をはりあげて、

「フランス租界のカルティエ・ペタン(※カルティエ=フランス租界の行政区の単位)にあるね。私の家、近所だし、妹がそこに通ってるから知ってる」

 カルティエ・ペタンといえばフランス租界の高級住宅地だ。麗生は実家がそこにあることと、講師の知りあいとうことの両方を自慢しつつ、いった。

「アンドリューはねえ、イギリス人だけど、くだけてるよ。上海生まれだから」

「へえ、上海生まれ」

 馬秋秋が大げさに感心してみせると、麗生はいよいよ声を大きくして、

「先生のお父さんはイギリス系煙草会社の上海支社に勤めてたんだって。うちのパパが取引関係にあったから、くわしいの。中国人を変に差別しない人だったってよ。息子もその血をひいてるんだね」

 そういうと、突然二列目をふりかえって、

「ねえロレーヌ、そうだよね?」

 と、ライバルのロレーヌにいきなり話題をふった。

「ねえロレーヌ、あなたもアンドリューには、会ったことあるでしょ?」

 あるわけない、と思ったからこそ、きいたのである。ロレーヌが知らないということが知れれば、麗生の勝ちになる。ロレーヌより先に、「とりまき」のミラベルとナンシーのほうが顔色を変えた。麗生はニヤニヤしてこたえを待っている。紫色の旗袍の下で自慢の長い脚をくみかえたときだった。こたえがかえってきた。

「エドだったら、パリで同じ演劇学校に通ってた」

 意外なこたえに麗生は目をむいた。ロレーヌはエドワード・アンドリューを愛称のエドと呼んだ。

「もっともエドは私よりずっと先輩だ。口をきいたことはなかった。まともに話したのは上海で私がステージに立ってからだ」

 淡々とした口調である。男のような口のきき方で、ぶっきらぼうでさえある。だが悪い印象は与えなかった。ロレーヌ・バリーにはどんな無愛想な態度も相手にうけいれさせてしまう威厳と気品がそなわっていた。

 まるで王妃のようなのだ。

 椅子の下に流れる白いマーメイドラインのドレスのドレープ、耳をくるむようにカールしたブロンドの髪、切れ長の青い瞳――すべてが毫光を発しているようで、みる者は圧倒されてしまう。

「ロレーヌは『カフカス』の人気ステージダンサーだからね」

 ミラベルがロレーヌを自慢するようにいった。けれどもロレーヌは、さめた顔で鏡をみつめ、

「私はまだ未熟だ。一流のダンサーをめざしていはいるが、そのぶんエドは私にとっては『こわい』お客さんでもある。私の踊りはまだ彼に評価されたことはない。どう思われてるか、わかったものではない」

 真珠のイヤリングをはめながら、声をひきしめていった。

「彼は踊りのプロだ。パリでバレエ公演していた。足の怪我がなかったら、我々にはとても手の届かない存在だった」

 そのときだった。

「エドワードってたしか、アメリカのハーバード大にも在籍してたんだよね」

 べつの声がわりこんできた。日本人、小山内千冬である。三列目に「とりまき」の三人をおいて、ひとり二列目にでてきている。トップ3のひとりとして自分もアピールしたくて、というよりは強そうなトップ2にみくびられてはまずいという日本人らしい強迫観念にかられたものか、フリルだらけのベビーピンクのワンピースでしなをつくり、胸のリボンをゆらしていった。

「私が勤めてる自然科学研究所って、ハーバード大出の研究者が多くてね、それで知ってるの」

「・・・・・・」

 ロレーヌは返事をしなかった。話しかけられたのが自分だと気づいていないようだ。それをいいことにミラベルもナンシーも無視している。そのようすを一列目の三人がじっと観察している。千冬はあせって、その場をとりつくろうように、ひとりでしゃべりつづける。

「研究者って寛大な人が多くてね、私がコンテストのファイナリストになったときいたら、みんな応援してくれて、がんばってこいって、たっぷりお休みくれたんだ。だからこうして合宿に参加できたの」

「だれもきいてないよ」

 こっそりつぶやいたのは一列目の王結だ。馬秋秋に耳うちしている。

「なにが勤めてるだよ。コネで入った役立たずの事務のくせに。研究所の人が寛大なのは伯父がエライからでしょ。でなけりゃふつうは四か月も休みをくれない、そのまえに解雇してる」

「なんで知ってるの、伯父ってだれ」秋秋がきいた。

「知らないの? 小山内駿吉だよ」

「え、小山内駿吉ってあの極悪日本陸軍少将の? 千冬って、あれの姪なの?」

 思わず声が高くなりかけた秋秋に、王結は人差指を口にたてていった。

「しっ。極悪はいいすぎ」

 麗生組がなにかこそこそいっていると気づいた千冬は、あわてたように、

「麗生は知ってると思うけど、バレエ・スクールと自然科学研究所は近所でしょ。だからたまに話題にでるんだ」

 麗生にむかって話しかける。

「それで研究者のひとりがミスター・アンドリューとハーバードで同期だったってわかってね。その人いってた、『エドとはボストンのハイスクール時代からの友人、大学でも物理学専攻でいっしょだった』って」

 麗生は無視はしなかった。とはいえ、いかにもぞんざいな口調で、

「らしいね」

 とだけいうと、あとは千冬をみむきもせず、自分のとりまきだけをみて、きこえよがしに声をはりあげた。

「アンドリューはバーバードは一年で中退して、そのあとはニューヨークとパリの舞踊学校と演劇学校で学んだんだよ」

 鏡台をみて髪をとかしはじめた。とりまきもそれにしたがいながら、

「ミスター・アンドリューってすごい経歴の持ち主。ハーバードを中退してニューヨークとパリで踊りの勉強するなんて」

 と、もちあげる。

「しかも二十七歳でバレエ・スクールの経営者だからね。それに外見もさわやか、おまけにキュート」

 麗生は自慢げに知識を披露する。

「女がほっとかないね」

「それが知ってる? 恋人募集中だって」

 麗生がいうなり、馬秋秋は目の色を変えて身づくろいに真剣になった。馬秋秋だけではなかった。ほかのファイナリストもそわそわしだした。 

「ねえ、私、変じゃない? どっか変なところない」

 秋秋がきくと、麗生は力強くいった。

「だいじょうぶ。摩登(モダン)女子の三条件は守れてる」

「摩登女子の三条件って?」

「あれ、知らないの? 一、眉毛をそること。二、パーマネント・ウェーブをかけること。三、センスよく流行の服をきこなしていること」

 眉をそり、描き眉といって細い眉を弓なりに描くのがこの時代の流行だった。

「これを守ってない人は女の子失格というのが麗生の持論」

 王結が解説すると、麗生がつけたした。

「基本のキ。映画女優はみんなやってる」

「それならだいじょぶ。私は守れてる」

 馬秋秋はいった。

「でも守れてない人も、なかにはいるよね」

 王結が意味ありげな目つきを右にむけた。

江田夕子はたちまち青くなった。どの会話にも参加していなかったが、江田夕子もこのパウダールームにいたのである。座っているのは一列目の右はし、つまり麗生の列、馬秋秋の右隣だった。ほかにあいている席がなかったのである。肩身が狭くてたまらず、できるだけ自分の存在を感じさせないように壁と同化するような気持ちでいたのだが、いま、

「まさかファイナリストで三条件を守れてない人なんていないよね?」

 という声をきいて、ぎくっとなった。髪を直しているふりをしていたが、鏡が目に入らなくなった。

「いたら女の子どころか人間じゃないよ」

 麗生の視線を痛いほど感じた。

 夕子は眉もそってないし、パーマネントもかけていないし、流行の服もきていなかった。きている服はあきらかに流行遅れだった。十年以上も前の、日本でいうと大正末期の世界からぬけだしたような、袖のひろい緑色のワンピースをきている。

 ファイナリストとして夕子が満たしている条件といえば、英語力だけだった。英語だけは小学校時代から勉強させられていただけあって、さすがにできたのである。が、「摩登女子の三条件」にはすべてはずれていた。麗生が「人間じゃない」といったのは、自分のことをいってるとしか思えなかった。

 ところが、実は夕子のほかにもうひとり、三条件をみたしていないファイナリストがいた。二列目の左はし、ロレーヌの左隣に座っている。蘇丁香だった。清らかでおとなしそうな彼女は、クレオパトラのようにきりそろえた髪の下に、十年前に流行した型の旗袍をきていた。

ただし夕子とちがって、容貌が美女の基準を満たしているので、流行遅れの服も孤独もどこか絵になっている。この娘もだれともしゃべっていなかったが、夕子は自分以外にひとりぼっちの娘がいるのに、このときは気づいていなかった。

「それより、ねえ、あてて。ミスター・アンドリューは俳優でいうとだれに似てるでしょう?」

 麗生が問題をだすと、馬秋秋が顔を輝かせていった。

「だれだろ、リチャード・バーセルメス? ゲーリー・クーパー? ルドルフ・ルイス?」

 最後の名前をきくなり、夕子はドキッとした。夕子はルドルフ・ルイスのファンである。講師が彼に似てたらうれしい。思わず胸をふくらませて麗生のこたえを待った。が、その前に馬秋秋がこういった。

「あ、ルドルフは古いか、終わった俳優だもんね」

 顔色を変えたのは、夕子だけではなかった。麗生と王結もかたまっている。

「それいっちゃまずいでしょ」

 王結がいった。

「どうして」

 秋秋がきいても、王結と麗生は目をみあわせて、すぐにはこたえなかった。

 麗生はひょっとしてルドルフ・ルイスファンなのかな、と思って夕子は緊張した。

三人はしばらくしんとしていたが、しばらくしてから麗生がやっといった。

「アンドリューが似てるのは、しいていったらゲーリー・クーパーかな」

 むりに笑わせたような声だった。

「うそうそうそ、やった」秋秋は大げさによろこんだ。

「ゲーリーそっくりなんて。私絶対気にいられたい。ね、アンドリューはどんな人がタイプ?」

 麗生はつられて破顔して、

「メアリー・ピックフォードが好きみたい」

「ってことはコケティッシュで、笑顔のすてきな人が好きってこと?」

「だね」

 麗生がうなずくと、きき耳をたてていたほかの娘もいっせいに笑顔の練習をはじめた。メアリー・ピックフォードを意識した笑顔なのはいうまでもない。

「麗生は練習いらずだよね、笑顔がほんとすてきだから」

 鏡をみて自分の表情に愛想をつかしたようにため息をつく馬秋秋に、麗生はいった。

「なにいってんの、私なんてだめだよ。秋秋のほうがすてき。笑ってみ」

「こう?」

「ちょっとかたいなあ。もっと自然に。――ちがうなあ」

「私、意識するとだめなんだよね」

「体を動かしてみたら? 自然に笑えるよ。ほら、こんなふうに」

 麗生はいきなりその場でジャンプした。それから子どもみたいにライオンや幽霊のまねをして馬秋秋を笑わせた。

「そう、その顔だよ、それそれ、いい感じ、いい! いいよ。馬秋秋もライオンの真似してごらん、笑顔が自然にでるから」

 麗生にならって奇想天外なポーズをとるにつれ、秋秋の顔にはすばらしい笑みがひろがっていく。それをみて王結が、

「さすが。やっぱりプロのモデルはちがうね」

 と、ほめると、麗生は謙遜していった。

「とんでもない。私なんて素人に毛がはえたようなもんだよ」

「でも今度またファッションショーに出るんでしょ? 銀華(インフア)デパートの」

「三か月前に契約した仕事だから、断るわけにもいかなくってね。でもモデルは現役中西女塾(名門女学校)生がやる。私は今回は司会」

「司会かあ。たしか明日だよね?」

「日曜で助かったよ。日曜なら合宿のレッスンないから。――そうだ、ふたりともくる? 優待席に招待するよ」

「いいの?」

 王結と秋秋は目を輝かせてきいた。

「めったな人は招待できないけど、親愛のしるし」

「うれしい。実は行きたいと思ってたんだけど、ファイナリストだと顔が知られてるでしょ、一般席だと目立つかなって考えて断念してたんだ」

「でも優待席ならだいじょぶ。あとでチケット渡すね」

「ほんと? ――あ、いま私、自然な笑顔になってる! みて、どう?」

 はしゃぐ秋秋の口角を麗生はさわって、

「あともうすこし、この辺の肉をあげるといいかな」

 といって顔の肉をつまんだが、その目がふいに大きくひろがった。

「やわらかい! すごく、ぷるぷる。秋秋のほっぺ、みかけと全然ちがう。ね、さわってみ」

 さしだされた肉をつまんだ王結の目も丸くなった。

「ほんとだ、おもちみたい」

 麗生は片手で自分の頬をつまんでみて、

「私のよりやわらかい。秋秋のほうが、こんなにのびる。王結のは? ちょっとさわらせて」

「いいよ」

 さしだされた王結の頬をつまみ、ひっぱっていった。

「やわらかいけど、のび具合は秋秋に負ける」

 頬をおもちゃにされながら秋秋はにっこりして、

「私の、そんなにやわらかいかな?」

「うん。これよりやわらかいほっぺがあったらさわってみたい」

 麗生の一言で火をつけられたファイナリストたちは、負けじといっせいに自分のほっぺたをさわりだした。

 またしても、少数の例外をのぞいて、みなが同じ行動をとるという奇妙な光景がくりひろげられた。そこへ、

「ワーオ! ロレーヌ、やわらかーい」

 ミラベルのきこえよがしな声がみなの耳に入った。

「ほんと? どれ」

 麗生はいそいそと二列目へ出張した。気品あるロレーヌの頬をおそれげもなくつまんだ。たちまち目をみはっていった。

「うん、すごい。秋秋といい勝負」

 そこに千冬が割りこんできた。

「私は、どう?」

 そういって頬をさしだしてきた。いかにもアピールしたくてたまらないといったようすに、麗生は興をそがれた顔をして、

「じゃあ」

 と、しかたなくつまんだが、瞬間その表情が一変した。

「ちょっとなにこれ、うそでしょ! のびる。ロレーヌより、秋秋より。ちょっとほら、ほらほら」

 麗生はみなを手招きした。たちまちみなが集まって、

「すっごーい」

 声をそろえて感嘆した。千冬の頬肉ののび具合は驚異的だった。

「どうしてこんなにやわらかいの」

 麗生がややおちつきをとりもどしてきくと、千冬はくりっとした瞳をうれしげに細めていった。

「生まれつきなのかな」

「特別なお手入れとかは?」

「べつに、なにもしてないよ」

「ファイナリストが、なにもしてないってことはないでしょうよ」

 秋秋がつっこむと、

「そうだね、もしかしたら、この化粧水がきいてるのかも。去年までは資生堂の高等化粧水『オイデルミン』を使ってたんだけど、コンテストが始まってからはこれに変えたから」

 千冬は自分の席から外国製の化粧水をもってきた。

「彼のプレゼントだよ」

 千冬の友人三間広子がうしろから解説した。三間広子も遠藤幸枝も千冬と同じ上海日本高等女学校出身である。

「千冬の彼はハイカラ。さすがイギリス人って感じ」

 すると麗生はなぜか顔色を変えていった。

「千冬ちゃんの恋人って、イギリス人なの?」

 きつい声だった。対抗意識があらわれているように、みなにはきこえた。

「ちょっとそれ、よくみせて」

 化粧水の壜を千冬の手からひったくった。『エリザベス・アーデン』というブランド名をみると、目の色が変わった。

「そのイギリス人と、どこで知りあったの。ねえ?」

「・・・・・・」

 千冬は唇をふるわせた。

「ねえ、教えて」

 麗生はしつこかった。顔は笑っているが、目は鋭く光っていた。

「ちょっと、ここで教えるのは・・・・・・」

「どこでならいい?」

 千冬はこたえなかった。かわりに突然かけだした。二列目から一列目へ行き、いちばん右端につくと、江田夕子を指さし、

「ねえ、この人のほっぺには、さわった?」

 ふりかえってきいた。別人のようにはりきった声である。

「さわってない」

 麗生は思わず反射的にこたえたが、声は怒っていた。質問をはぐらかされたのだから当然である。だが千冬は江田夕子を指さしたままいった。

「さわったら驚くよ」ニヤリと意味ありげに笑った。「すごいから」

 夕子がふりかえらないのをいいことに、

「きてきて」と、みなを手招きした。目が別人のように輝いている。

 麗生はあっけにとられたが、好奇心をそそられてもいた。自分の質問はひとまずおいて、行ってみることにした。ほかの娘もあとにしたがった。

 そのあいだ江田夕子は一度もふりかえらなかった。うつむいて合宿の手引きを読むふりをしていた。

 その肩を、千冬がいきなりたたいた。夕子は顔をあげた。その顔を千冬はなにもいわずに両手ではさんだ。と思うとそのまま横をむかせ、正面をみなのほうにむけていった。

「さあ、触って触って」

 叩き売りの品物あつかいだった。夕子は血の気をひかせた。その頬を麗生が無遠慮につまんだ。とたんに、

「なにこれ」

 こわばった声をもらした。

「かったーい」

 汚いものにふれたように、急いで指を離し、ハンカチでごしごしとぬぐった。

「のびるどころか、つまむのもたいへん」

 実際夕子の顔の肉は若い娘とは思えないほどかたかった。夕子はショックをうけている。それをみて千冬は満足げに笑い、

「ぜんぜん笑わないからだよ」

 と、意地悪くいった。

「私、この人と同じ女学校だったけど、笑ってるのみたことない。いつも同じ、暗い顔してた。だから表情筋がかたまったんでしょ」

 みな、しのび笑った。それに勢いをえて千冬は、

「それになにこの服、いつの時代?」

 夕子の服の批判まではじめた。緑色のワンピースをつまみ、臭いものでもかいだような顔をしていった。

「野暮ったい。流行おくれもいいところ」

 夕子をみるみなの目も批評する目になった。本人が黙っているのをいいことに、いいたいことをいいあった。

「世紀末風のワンピースにキャンバスシューズをあわせるって、ありえない」

「そもそも眉は? パーマは?」

 麗生がいうと、みなは口をそろえていった。

「摩登女子失格」

 そのとき、ロレーヌが時計をみていった。

「もうこんな時間。移動しないと」

 そういってミラベルとナンシーを誘った。二限はスタジオでやることになっている。スタジオは廊下をでたつきあたりにあった。

「行かないの?」

 ミラベルは気を使って、みなに声をかけたが、

「行く行く、あとから」

 千冬は調子よくいって、白人三人を先に行かせた。そのあとから蘇丁香がひとりつづいた。

 パウダールームに残ったのは、千冬組と麗生組と夕子だけになった。

 たちまち千冬がいたずらっ子のように目を輝かせて、夕子以外の全員を自分のまわりに呼び集め、なにかこそこそとささやいた。

「シャル・ウィ・ゴー(Shall we go:行きますか)?」

 千冬がいう声がした。突然、部屋が真っ暗になった。七人がカーテンをしめたのだ。

「逃げろ!」

 七人はいっせいに外へかけだした。たちまちドアが外からしまった。夕子は暗闇のなかにひとり、とり残された。

「キャハハ、キャハハ・・・・・・」

 千冬の哄笑がドアの外にきこえた。

 夕子は闇のなかで石のようにかたまっている。が、泣いてはいなかった。傷ついていないといったらうそになる。実際深く傷ついた。けれどもそれと同じくらい腹立たしかった。くやしかった。

 くだらない、と夕子は心のなかでつぶやく。

 千冬はくだらない。小学生みたい。話題をそらすために私を利用した。私を仲間はずれにすることで自分の仲間を増やそうとしている。あの人の卑劣さは女学校時代から知っている。いやな予感は合宿前からしてた。

 あの人はほんとうに、くだらない。千冬に限らない。

みんなほんとうに、くだらない。突然部屋を真っ暗にして、人をおいてかけだすなんて、二十歳に近い娘の、しかもファイナリストのすることではない。頬を勝手にさわって難癖をつけたこともそうだ。流行のこともそうだ。

 夕子には自負があった。審美眼だけは人に負けない、という根拠のない自負である。

 流行のどこがいいのか、と思う。くだらない。美しいと思うからではなく、いま流行ってるからという理由だけで身につけるばからしさ。みなが着ているから着るという平凡さ。夕子は外見が平凡なだけに、平凡な格好をすることへの抵抗感があった。

 昔の服なら個性的になれる。着る人がすくないからだ。それに昔の服にはいまの服にはない味がある。昔流行った服でも、年齢を重ねると重みのようなものがでてくる。いまきている緑のワンピースだってそうだ。とてもすてきだと思う。

 それだけに、みなにばかにされたのが、くやしかった。腹立しかった。

 なにが「流行おくれ」だ、なにが「いつの時代」だ、なにが「摩登女子の三条件」だ。なぜ流行にあわせていないと人間以下なのか。なぜみんなと同じでなくてはいけないのか。流行の服もそうだけど流行の化粧だとか鞄なんて、大っきらい。

 みんな、大っきらい。

 夕子は心のなかで叫ぶ。そう、心のなかではいくらでも毒づけた。でもこれから、またあの人たちと顔をあわせると思うと、こわかった。ふるえるほど、こわかった。


「ハーイ、ハウ・アー・ユー?」

 講師は勢いよくスタジオにとびこむなり、白い歯を輝かせて、生徒たちに呼びかけた。

 エドワード・アンドリュー講師は期待どおりの好青年だった。

 背高く、体はバレエ・ダンサーらしくひきしまり、髪はブロンドで、甘いマスクで、笑顔はさわやかで、スーツもおしゃれで――非のうちどころがない。

 魅了されたのは馬秋秋に限らない。男性の好みにはうるさいはずのファイナリストたちのほとんどが熱い吐息をもらしたほどだ。

 ところが、ふたりだけ例外がいた。ひとりは江田夕子だ。吐息をもらすどころか講師の顔をまともにみてさえいない。直射日光を避けるようにまぶしそうに眉をしかめ、目をそらしている。

「ハウ・アー・ユー・ドゥーイン?」

 講師は金色に輝くばかりの顔をひとりひとりにむけて呼びかける。

「グッド・・・・・・」

 照れたような返事が返ってくると、

「みんな朝ご飯食べなかった? ちょっと声をだしてみようか」

 アンドリューはそういっていきなり両手を大きく動かして元気よく、

「全員いっしょに、ウ! ハ!」

 思いっきり声をはりあげた。

「ウ、ハ」娘たちがこたえる。

「オーイエー、ウ! ハ!」

 この明るさ、イギリス人というより、まるでアメリカ人だ。娘たちも自然と笑顔になり、声も大きくなる。

「ウ、ハ!」

「カモーン、そこの君と――君、恥ずかしがらずに、僕について」

 呼びかけられたのは江田夕子と丁香だ。両者とも無表情のうえ、まともに口をあけていない。

「エブリバディ、ウ! ハ!」

「ウ! ハ!」

 ほとんどのファイナリストがもうためらわずに大声をだしている。そのなかで講師が目をつけた娘ふたりはやっと口をまともにあけだしたところだった。

「ミス・エダと、そっちはミス・スーだな?」

 江田夕子と蘇丁香にむけた鋭い目を講師は笑顔で隠して、

「その調子、その調子」

 と、おだてて、ふたりに大声をださせると、みなをみわたして、

「オーケイ! エブリバディ、サンキュー。今日からよろしく」

 ひとりひとりの顔に青い目をめぐらせ、ひとりひとりの名前をよんで全員を驚かした。

「合宿前に顔と名前を覚えてきたんだ。麗生とロレーヌのふたりは面識があるから知ってたけどな」

 照れたように笑い、あらためていった。

「自己紹介が遅れたが、僕の名前はエドワード・アンドリュー。担当するレッスンは、スポーツとコミュニケーション・スキルだ。それと生活指導も受けもつことになった」

 黒い革靴が日の光にきらめく。

「生活指導といっても残念なことにいつでも必要なときにここにいられるとは限らない。知ってる人もいると思うが、僕はフランス租界でアンドリュー・バレエ・スクールを経営していて、そっちも休めない。IAAはすべて承知で抜擢してくださったが、むこうとこっちとを行き来することになる。レッスンは休まないが、それ以外でこられないときは、ほかの先生方や職員の方が助けてくださる。ただ今日は生活指導担当として、大事な役目を与えられている」

 娘たちは緊張した顔になった。

「寝室は二人部屋だ。僕は君たちの部屋割りをきめる担当になった。組み合わせはできるだけ性格や相性を考慮にいれようと思っている。ただ君たちの性格をまだよく知らない。そこでダンスしてもらいたい」

 室内がかすかにざわめいた。

「二限はスポーツの時間だし、僕はダンスが専門だから、ダンスで君たちの性格をみることにした。もっともダンスだけじゃ判断しにくい部分もあるから、ちょっとしたルールをもうける」

 講師のいうルールとはこうだった。みなに二人一組になってもらう。各組はそれぞれ「男役」と「女役」とをきめる。一組ずつ前にでてもらう。そこでまず男役には女役をほめてもらう。ほめ方で性格をみるので、できれば相手の外見以外のことをほめてもらいたい。そのあとフォックストロットを踊ってもらう。六組すべて順番に踊り終えたら、各組で男役と女役を交代してもらう。そしてまた順番に同じことを繰り返してもらう。

「どう? 難しくないな。ちなみにレッスンだからダンスは点数もつけるからな」

 最後の言葉が、騒がしくなりかけていた娘たちを静かにさせた。

「ここでもう一回おさらいしておこう。合宿をする意味はなにか。グランプリはどう決まるか」

 講師は靴音をたてて左から右へと歩く。

「決勝は九月。今後四か月間、毎日のレッスンの成績と、毎週末の新聞の人気調査の結果と、土日の個人活動内容が――いいかえれば君たちのすべての行動が最終選考の結果にかかわってくる。現時点では麗生、ロレーヌ、千冬がトップ3だが、今後いくらでもいれかわっていくことだろう」

 娘たちの顔がひきしまった。

「総合順位は毎日発表される。一位から最下位までぜんぶ。最下位はそれだけで恥ずかしいが、しかもペナルティがつく。雑用係になってもらう。寝泊りもふつうの部屋でなく物置部屋になる」

 ざわめきがおこった。

「実はその雑用係も今日は僕がこの時間できめることになってる。初日だから早めにきめておく必要があるってことだ。このレッスンで成績が最下位になった人は、自動的に雑用係になるからそのつもりで」

 講師は白い歯をみせ、あくまでさわやかにいった。明るい窓を背に立っている。鳥がはばたき、壁に影をつくっていった。

「ダンスするのに着がえなくてもだいじょぶですか」

 麗生が質問した。真剣な顔だ。

「そのままでオッケー」

 講師は用意のくじでファイナリストを6つの組にわけた。

 一組目は「男役」が王結、「女役」がロレーヌ。

 二組目は「男役」がミラベル、「女役」が三間広子。

 三組目は「男役」が丁香、「女役」が千冬だった。

 一組目、二組目は特に問題なく課題をこなした。ところが丁香と千冬の組は、そうではなかった。

 男役はダンスの前に女役をほめなくてはならないのに、丁香は千冬とむきあっても、なにもいわなかった。無表情ですっかりおし黙っていた。ほめる気がないのか、千冬の顔をじっと眺めているばかりだった。待っている千冬は人目を意識して笑顔をむりにつくっていたが、それも限界のように思われたときだった。

「似てるなあ」

 ふいに講師がつぶやいた。窓から身をおこし、近づいて、ふたりの背中を交互にみつめていった。

「うしろ姿がそっくりだ」

 丁香はレモンイエローの旗袍をきている。千冬はベビーピンクのワンピースをきている。衣装はちがった。しかしそれをぬかせば、あとはそっくりだった。背の高さも体型も、髪の色も長さも、まったく同じだった。

「驚いたな。これで顔が似てたら、まるで双子だ」

 講師は感心したようにいった。しかしふたりは無反応だった。というより顔をこわばらせ、硬直していた。ふたりはとっくに、たがいの外見の相似点に気づいていた。そのため初対面のときからたがいをもっとも目ざわりなライバルとみなしていた。それを表にださなかっただけの話だった。

「ダンスのほうは、どうかな」

 講師がいった。目を好奇心に輝かせている。男役が女役をほめてないことも忘れたような顔をして

「はじめ」

 と、いって手をたたいた。

 丁香と千冬ペアの踊りは、前の二組とはあきらかにちがった。電気蓄音機から流れる音楽にあわせて体をゆらすだけにはとどまらなかった。

 ひとことでいえば、すばらしかった。

 ふたりは課題にはない高度なポーズをきめた。それも次々と。絶妙なコンビネーションだった。見物のファイナリストは圧倒され、魅了された。

 丁香と千冬はそれぞれが相当な技術の持ち主だった。相手に負けまいという気持ちが、かえってふたりの息をあわせたのかもしれない。激しい動作もお手のもので、まるで長くつれそったペアのようだった。

 それでいて踊り終えるとふたりとも我に返ったように、よそよそしく相手から離れた。

「ブラボー、ブラボー」

 講師が喝采してふたりの肩を同時にたたいたが、丁香と千冬はたがいに目をそむけあっていた。相手の力を認めるどころか、ばかにするような態度だった。

 四組目は「男役」江田夕子、「女役」麗生だったが、これまた問題だった。

 夕子は猫背でもじもじして、麗生は胸をそらして堂々として、はじめからいかにも不釣合いなペアだった。

「あの人、体もかたいから気をつけてね」

 千冬が麗生の耳にささやいた。それがきこえて夕子はよけいに体がかたくなったのかもしれない。麗生とむかいあって、膝を折ってあいさつする先から、つまずいてよろけた。

「どうしたの、アーユーオーケー?」

 麗生はあきれている、と思った夕子は、

「すみ、すみません」

 わびようと頭を下げたつもりが、首がうまく動かなくて鳩みたいになった。千冬が笑った。

「しっかりしなよ」

 ヤジまでとばしてきた。丁香と組になってたまったストレスを夕子で解消しようとしているみたいだった。講師は注意しない。腕をくんで黙ってみている。全員が注目するなか、

「そ、それじゃ、麗生さんを・・・・・・ほめます」

 夕子は真っ赤になっていった。男役として最初の課題に挑戦しなければならない。

「えっと、麗生さんはその、有名で、あの、名門の生まれで・・・・・・」

 たちまち麗生が口をはさんだ。

「なんだって? きこえないよ、声が小さくて」

 大きな声だった。麗生はあきらかにいらだっている。夕子は動揺した。息が苦しくなり、声がよけいにでなくなった。それでも口だけはさっきよりも大きめにあけて声をしぼりだした。

「り、麗生さんは、すごい・・・・・・なんでもできる・・・・・・」

 言葉がつかえて、呪文のようになった。麗生は腕をくみ、首をひねる。

「私がなんでもできる?」

 不機嫌な顔できいた。

「・・・・・・はい」

「なにができる?」

「・・・・・・」

 夕子がこたえないので麗生は威圧するように立っている両足をひろげた。右足に重心をおき、左足を前にすこしだした。

 沈黙がおちた。

 麗生はこたえを待っている。重心を左足に変えた。ハイヒールがきらきら光り、鋭利な刃物のようにみえた。そのヒールの先が、いまにも自分の皮膚におしつけられるような錯覚をおぼえた夕子は、助かりたい一心で口をひらいた。

「ハイヒールは私を・・・・・・いえ、私は麗生さんを雑誌でたくさんみたんです」

 自分でもなにをいっているかわからない。気づいたら夢中でしゃべっていた。

「麗生さんは肩書をたくさん持っています。『ジョッキー』、『プロゴルファー』、『ヴァイオリニスト』。麗生さんは中西女塾時代からスポーツも芸術もでき――」

「近いよ」突然麗生がさえぎった。怒っている。

 気づいたら麗生の顔が目の前にあった。いつのまに夕子は麗生の目の前まできていた。夕子は無意識に麗生に近づいていたのである。はじめ一メートル以上距離があったのが、いまは二十センチになっている。

「なんでこんな寄ってくんの?」

 麗生にきかれても、こたえられなかった。声が小さいから、そばによらなければ相手にきこえない、すこしでも相手の耳に近づこう、そう思って無意識に足が動いたのだろうとは思ったが、口にはだせない。凝然としていると、講師がたまりかねて叫んだ。

「もういい、ダンス!」

 電蓄が鳴りだした。

 夕子は麗生と目をあわせられなかった。手をにぎっただけで脂汗がでた。

「すごいのがみられるよ、キャハハ」

 千冬の囃し声がきこえる。

 夕子は男役なのにリードの仕方を知らない。それどころかステップの踏み方さえ知らない。曲にあわせて適当に体をゆらすのでせいいっぱいだった。しかし実際にゆれてるのは頭だけだった。体はまったくかたかった。

 麗生がそれとさとって、しかたなく自分がリードをはじめた。手足を使って、それとなく誘導する。

 夕子はあわせさえすればよかった。だがそれさえも、ままならない。運動神経がないせいか、後退すべきところで前進し、前進すべきところで後退してしまう。そのため手をつないでいるのに麗生とのあいだに異様な距離が生じたり、異様にちぢまって頭突きしたりと珍事が続発した。

 やっと終わろうというときにも、夕子は転びそうになった。自分の右足で自分の左足を踏んづけ、身動きがとれなくなった。

「キャハハッ」

 千冬がきこえよがしに笑っている。

 麗生は夕子にダンスを台無しにされて、むっつりと黙りこんでいる。その肩を講師がぽんと叩いて、

「貧乏くじひいたな」

 と、いった。夕子は耳を疑った。講師は夕子には一片の同情もしめさなかった。麗生にだけいった。

「あとで挽回できる」

 だが男役と女役が入れ替わっても、麗生が夕子に足をひっぱられたのは同じことだった。麗生はダンス前に女役の夕子をちゃんとほめた。むりして「まじめでおとなしそうで勉強家に感じられる」などといった。けれどそれがかえっていけなかった。夕子は変に恐縮し、動きがいっそうぎこちなくなった。ふたりのダンスは惨澹たる結果に終わった。

 ファイナリスト十二人六組のダンスが二巡し、終了した。点数をつけた講師は順位を発表し、最後にいった。

「最下位は、江田夕子さん」

 だれも異論のない結果だった。

「よって雑用係は江田さんに決定する」

 講師は夕子を視界にいれずにいった。冷たい顔だった。

「先生、雑用係って具体的にどんなことするんですか」

 千冬がうれしそうにきいた。

「お、いってなかったな」

 講師は千冬をみると、パッと人なつっこい目にかわっていった。

「雑用係には窓ふき、廊下や庭などの掃除、カフェテリアのナプキンの洗たくなどのちょっとした仕事を、午後の自由時間を利用してやってもらうことになる」

 千冬は夕子をみてわざといった。

「たいへんそうですね」

「といっても無期限ではない。最下位を脱出すれば、雑用係は免除される。かわりに新しく最下位になった人間がすることになる。みんなも必ずしも油断はできないぞ」

 そういって講師は江田夕子以外のすべての娘たちに、さわやかな笑顔をふりまいた。

「はあい、気をつけまあす」

 千冬がうかれた声をだした。

「それとさっきいったとおり雑用係は物置部屋で寝起きしてもらうから、ふつうの寝室のベッドはひとつあく。ファイナリストはぜんぶで十二人、ふつうの寝室はぜんぶで六部屋だから、二人部屋をひとりで使う人間がつねに一人でることになる」

 講師はファイルからとりだした一枚の紙をかかげていった。

「寝室の部屋割りも完成した。これがそうだ。寝室は三階の廊下をはさんで東に三つ、西に三つある。それじゃ東から発表しよう」

 みな緊張の面持ちで耳をすました。

「三〇一号室、麗生と王結。三〇二号室、三間広子と遠藤幸枝。 三〇三号室、ロレーヌ。

 三〇四号室、千冬と風果。 三〇五号室、ナンシーと丁香。 三〇六号室、馬秋秋とミラベル。そして物置部屋、江田夕子さん」

 なぜか江田夕子だけ「さん」付けにして、エドワード・アンドリュー講師は発表を終えた。


 三限はマダム・ペガニー担当の「ビューティー」、四限はミス・ウォーカー担当「ウォーキング」のレッスンだった。これで一日のレッスンは終了だ。レッスンは午前中のみで、あとは自主トレーニングの時間となる。

 江田夕子はランチタイムになるやいなや、筆記具をかかえ、スタジオを逃げるようにとびだし、階段をかけのぼった。二階のカフェテリアをめざしている。

 早くしないと、みなに追いつかれる。

 食い意地がはってるわけではない。すこしでも早くひとりになりたかったのだ。みなといっしょにスタジオからトイレまで、トイレからカフェテリアまで、ツアーのように団体で移動するのはごめんだった。あの人たちといっしょにいれば、それだけつらい思いをする。ランチはひとりでさっさとすませたい。今日はもうじゅうぶんつらい思いをした。物置部屋でもどこでもいって、ひとりで泣きたい。

 早く、早く――。

 いまにも下からだれかに追いつかれそうな気がして、二段ぬきではあきたらず三段ぬきになる。追われる犯罪者のように必死だった。

 そのとき階下から歌声がきこえた。レコードだ。事務室のあたりで鳴っているらしい。プツプツという雑音にまじって女性歌手の歌声がひびいている。歌詞は英語ではない、ドイツ語らしい。だから気になったのは歌詞よりも、あまりに甘いその歌声だった。浮世ばなれした、ゆったりとしたその声とリズムに、夕子の足どりは思わず知らず狂っていった。

 二階まであと一段――のぼりきったと思った瞬間、額を割るような痛みが走った。

 頭が前方の柱に激突していたのである。

 衝撃はあったが、出血はしていない。痛みも一時的なものらしかった。

 それよりも夕子は人目が気になった。また笑いものにされるたねができたと思ったのだ。下をみたが、まだだれもあがってこない。いまのうちにこの場を離れようと階段をのぼり、二階にあがったときだった。

 クスクスという笑い声が、ななめうしろの方からした。ぎょっとして逃げようとすると、

「いやあ、おもしろい」

 その人物は日本語でいった。女性の声ではない、若い男性の声だった。

「ひさびさだよ、こんな笑ったの」

 ふりかえると、その人物は明るい窓を背に立っていた。中折れ帽に手をかけている。そのシルエットはみおぼえのあるものだった。

 たちまち夕子の胸はどきどきと鳴った。あの人だ――。夕子が察したとおり、たしかにそこにいるのは一週間前の夜、夕子を助けてくれたあの男の人だった。その男の人がどうしてここにいるのか、夢でもみる思いでぼうっとすると、

「奇蹟だよ」

 と男の人にいわれたのでドキンとした。けれども期待した意味でいわれたのでないことは、まもなくわかった。彼は前の柱を指さしていった。

「これに、ぶつかるなんて」

 みられたのだ。夕子は首まで真っ赤になった。

「よくいろんなものにぶつかる人だな」

 彼は笑った。心からおかしそうだ。

「俺が知ってるだけでも二回はぶつかってる。うち一回は回避したけど」

「カイヒ・・・・・・?」

「いや、こっちのこと」

 彼はなぜか照れたようにいうと、ポケットから名刺をとりだしていった。

「俺は上海時報記者の李龍平。今日はここに取材できた」

 夕子は目をみひらいた。この男の人が記者だとは知らなかった。夕子の父親はあの晩彼と話したことを夕子にいわなかった。

「おたくはファイナリストの江田夕子さん、だろ?」

 李龍平はいった。夕子はびっくりして目をそらそうとしたが、記者の目は夕子を離さなかった。

「ちがった?」

 夕子の顔をのぞきこむようにする。妙になれなれしい態度だ。この前とは別人のようだ。この前は寡黙な貴公子といった感じだったのに、今日はニヤニヤヘラヘラしている。

「・・・・・・そうですけど」

 夕子がこたえると、李龍平はきゅっと笑った。唇のはしが耳までつりあがってピエロそっくりの顔になった。気高い顔がだいなしになって、おそろしく滑稽だった。

 夕子は思わずふきだした。記者は怒らなかった。それどころか自分の表情のおかしさを自覚していて、やたらと強調してくる。ピエロを維持した顔を右へ左へかたむけたりする。夕子の笑いはとまらなくなった。

「よく笑うなあ」

 李龍平がいった。

 夕子は笑いすぎて涙があふれてきた。涙が頬をつたう。笑ってるのか、泣いてるのかわからなくなってきた。さっき泣こうと思ってたぶん、涙がとまらない。照れ隠しのためにいった。

「あの、日本語がお上手ですけど、日本には――」

「なんか落ちたよ」

 李龍平がいった。目を床におとしている。一瞬涙のことをいわれたのかと思って夕子はぎくっとしたが、李龍平は床からなにかを拾いあげた。

「お、短い」

 拾ったものを陽の光にかざして、はずんだ声をあげた。

「よくこんなの使ってるな」

 拾ったのは、一本の短い鉛筆だった。夕子のポケットからおちたらしい。驚かれるのも道理で、極端に短く、親指ほどの長さもない。夕子は恥ずかしくなって、

「すみません」

 と、わけもなくあやまった。すると龍平はいった。

「実は俺のも、これに負けてない」

 白い手をスーツの内ポケットにさしこみ、銀色のケースをとりだした。ふたをあけた。なかにはペンナイフ、時計、ノートパッドが収納されてある。そのなかから一本の鉛筆をとりだした。短かった。左手にもち、右手にもった夕子の鉛筆とならべて、

「どう?」

 と、きいた。両方とも極端に短い。夕子は驚いていった。

「私のより、短い・・・・・・」

 自分より短い鉛筆を使っている人がいるとは思わなかった。

「やっぱり新聞記者だから、ですか?」

「取材には使わない。これは日記用」

 夕子は息をのんだ。自分のも日記用なのである。思わず興奮して、

「私もです、私も日記用、書いてます、一日必ず最低三ページ」

 一気にまくしたてた。すると李龍平はくすっと笑っていった。

「おたく、友だちいないだろ?」

 夕子はどきっとして顔色を変えた。

「います」

 と、うそぶいたが、

「ぷっ」

 と、笑われた。李龍平はからかうようにいう。

「いるなら教えてごらん、友だちの名前」

 耳に手をあて、こたえを待つポーズをとった。

「ちょっと、すぐには・・・・・・」

「うそついてるのが丸わかり」

「ひどい、いますって」

「俺はいないよ、上海には」

 李龍平はあっさりいった。笑顔だった。

「うそ、新聞記者なのに・・・・・・」

「日記はある意味、友だちがわり。本音をだせるから、書くとすっきりする」

 李龍平は自嘲的な笑みを口辺に刻んでいる。その瞬間、いままで感じたことのない親近感が夕子の胸にわいた。気づいたら、ひとりごとのようにつぶやいていた。

「私もそうです。日記以外に本音をだせる場がないから、鉛筆がへっちゃって・・・・・・」

 李龍平はなにもいわなかった。階下のレコードに耳を傾けているようにもみえる。あいかわらず、けだるいような甘いような歌声――。

彼は窓をみつめた。明るい窓。窓には青空がある。二本の鉛筆は彼の手を大地にして生えた二本の木のようにみえた。李龍平はふいにいった。

「競争する気、ない?」

「・・・・・・競争?」

「うん。日記用の鉛筆が、どっちが先にへるかの競争」

「新聞記者さんと、この私が・・・・・・ですか?」

「名づけて『鉛筆競争』」

 いたずらを思いついた子どものような顔をして、李龍平はいった。

「やってみない? 日記用の鉛筆を持ち歩いてるやつが集まるなんてことは、めったにないと思うけど」

 りりしい唇から八重歯がこぼれている。夕子の顔は赤くなった。照れ隠しのようにいった。

「いい、ですよ」

「長さがちがうぶんのハンディはつける。ただいまの長さはっと――」

 李龍平は定規を銀色のケースからだし、一本ずつ長さをはかった。

 ならんだ鉛筆のあいだには緑がみえる。花園をかこむ樹木の葉である。その先には麦畑、その先には家々の屋根。その先に黄褐色の河面がひろがっている。黄浦江はここから四百メートル先にある。遠くおぼろにみえる船影が、二本の鉛筆のあいだを横ぎっていく。

「おたくのが七センチ。俺のが六センチ」

 李龍平は楽しそうにいった。

「どっちがいまより多くへらせるか。今度会ったとき勝負しよう。俺のが短いぶん、一センチ、ハンデをつけるから」

 そういって夕子の鉛筆を返した。鉛筆には李龍平のぬくもりがしみていた。

「今度っていつ、ですか」

 夕子は思いきってきいた。

「さあ・・・・・・」

 龍平は首をかしげた。夕子にはその顔がこわばってるようにみえた。レコードの歌手がせつない歌声をふりしぼっている。それに、にぎやかな話し声がくわわった。ハイヒールの音が階段をのぼってくる。

「小龍(シャオロン)!」

 突然明るい声が耳をうった。たったいま二階にあがってきたのは麗生だった。「とりまき」ふたりをつれている。それをみるなり記者はパッと顔を輝かせ、

「おう」

 と、はずんだ声をだした。夕子など忘れたように麗生のもとにかけつけ、拳をつつきあわせた。

「どこに隠れてたのよ。記者はもう帰ったとばかり思ってたけど?」

 麗生が中国語でいえば、

「驚いただろ」

 李龍平も中国語でこたえた。夕子にはなにをいっているのか、わからない。ふたりは楽しそうにしゃべっている。

「しのびこむのに苦労したよ」

「でも目だってるよ」

「目だっても――」そういうと龍平は意味ありげな目つきをして、「もう、だいじょうぶだろ?」

「わかったわかった。だれかになんかきかれたら、私のパパの友人あつかいにしてあげる」

「さすが麗生」龍平はにっこり笑って、「持つべきものは、なんとかだなあ」

 デレッとした声をはりあげ、片腕を麗生の肩にまわした。麗生はそれを当然のように受けとめて、

「ねえ、私たちといっしょにランチしない?」

「ランチって俺がカフェテリアで? いくらなんでもそれはまずいだろ」

「だいじょぶ、講師陣はカフェテリアで食べないってきいてる。それにここまできたら同じことでしょ」

 龍平は悩ましげなポーズをとり、眉をハの字にして天をあおいだ。

「美女の群れに男ひとり」

 変に芝居がかった語調でいったかと思うと、にこっと破顔していった。

「悪くないな」

「わかったらいこう」

 龍平はうなずいて、もう片方の腕を馬秋秋にまわした。

「両手に花といきますか」

 夕子のことなどふりかえりもせずに去っていった。

 夕子はショックだった。あの人は、私などふりむきもせず、麗生と仲良さそうに消えていった。麗生をみたときの彼の笑顔、はずんだ声――私にたいするのと全然ちがった。

あの人は最初から麗生目当てだったんだ。麗生を待ってただけなんだ。

 夕子は龍平がファイナリスト発表会で麗生をみたときの無関心顔を知らない。ふたりはつきあっているにちがいない、と考えた。

 美男美女、おにあいだ。考えてみれば、あんな映画俳優並みの美男子が、私みたいな外見の娘を、恋愛対象としてみるわけがない。そう何度も先週から自分にいいきかせてきたのに、今日またあまりに親しげに話しかけられたから、ついうかれて、かんちがいするところだった。

あの人が私に話しかけたのは退屈しのぎにすぎないのだろう。私をあわれなファイナリストとみて、からかったにすぎないのだろう。私がこわがるといけないから、笑ったり、名刺をくれたり、話をあわせたりしてくれたのだろう。新聞記者だから、タイプによって話し方を変えて、人の話をひきだすのはうまいにちがいない。日記の話も私にあわせたうそだったのだろう。

 心のなかではきっと私を見下している。「いやあ、おもしろかった」、「よくいろんなものにぶつかる人だな」といったとき彼は心から楽しそうにみえたけど、よくできた演技にすぎなくて、ほんとうはほかの人たちと同じで私など虫けらのように思ってるのかもしれない。

 「鉛筆競争」なんてする気もないのに、たまたま私が鉛筆をおとしたから、話をつなぐためにいったにすぎないのだろう。――軽くて調子のいい人なのだ。でなければ馬秋秋にも腕をまわしたりしないはずだ。――きっと女たらしだ。

女たらしなのに私には指一本もふれなかったのは、私は女に入らないからだろう。

 その私に「今度いつ会えますか」ときかれて、彼はさぞ困ったにちがいない。だから「さあ・・・・・・」とお茶を濁したのだ。

 記者李龍平のいったことを本気にしたらばかをみる。

 「友だちはいない」というのがまず、うそだった。もっとも麗生は友だちというより、恋人なんだろうけど。――

 そこまで考えたとき、夕子はふいに別種の不安に襲われた。

 そういえば私と李龍平さんの会話、どこから麗生たちにきかれていただろうか。

 麗生は日本語はわからないはずだが、たしか馬秋秋か王結のどちらかが堪能だったはずだ。どちらかが「鉛筆競争」の話を耳にしたとしたら? 私と記者さんの関係を変にかんぐるかもしれない。麗生に変なふうに伝えるかもしれない。そうなったらたいへんだ。麗生は私を敵視するだろう。どうしよう、と思ったときだった。

「ちょっと」

 だれかに声をかけられた。千冬だった。いつ階段をあがってきたのか、目の前に立っている。広子や幸枝ら「とりまき」三人もつれている。

「なにぼうっとつっ立ってんの」

「・・・・・・」

「雑用係おめでと」

「・・・・・・」

「感無量で言葉がでない?」

「・・・・・・」

「胸はいっぱいでもお腹はすいてるよね。よければ私たちといっしょにカフェテリアに行く?」

 ニヤニヤしている。夕子はいやな予感がした。女学校時代から千冬に誘われて、ろくな目にあったことがない。だがいまは、ひとりでカフェテリアに行く気を失っていた。麗生と李龍平がいちゃついている場所に、ひとりで行くなんて惨めだ。そんな思いを味わいたくないという気持ちが、夕子に千冬の申し出をうけいれさせた。

「いっしょに行く」

 気がすすまないけれど、千冬の機嫌をとっておけばなにかと便利だとも思った。

「よろしく」

 千冬が手をさしだした。夕子がその手をとろうとすると、

「キャッ」

 千冬はすっとん狂な声をあげて、とびのいた。それを合図に千冬は夕子をおいて、とりまきとともに逃げていった。

「変な人がついてくる」

「助けてえ」

「ついてこないでえ」

 わざとらしい悲鳴をあげて、カフェテリアに去っていった。


 カフェテリアのフランス窓は光と緑にあふれている。

あけはなたれた窓からは、前庭の新鮮な空気が送りこまれ、テーブルの上でおいしそうなにおいと溶けあっていた。

 テーブルクロスは白く輝いている。その上には焼きたてのフランスパンが、にんにくとたまねぎで香りづけした厚い卵焼きが、雲南ハム(雲南はハムの生産地として知られる)をはさんだサンドイッチがあった。

 ファイナリストたちは気に入ったテーブルに座り、食べ、しゃべり、笑っている。ここもまた花園のようである。

 江田夕子はしかし、ひとりぼっちだった。

「いい天気、ほんと最高」

 あちこちからそんな声がきこえるが、夕子だけは苦行に耐えるように、ただひたすらひとりで黙々と食べていた。

 窓にはみむきもしない。晴れた空などみれば悲しくなるだけだ。そもそも夕子は晴天がきらいだった。天地が明るいほど、自分のみじめさがきわだつ気がする。ただでさえ、みじめだった。ひとりで四人がけのテーブルにいることもそうだが、目の前のテーブルがそう思わせる。

 前のテーブルには例の四人がいた。李龍平が麗生と隣りあい、馬秋秋と王結とむかいあって座っていた。ちょうど夕子の正面に彼の顔がみえる。麗生の顔がみえる。

 なんて楽しそうにしているのだろう、あの人たちは。中国語だからなにを話しているかはわからないが、李龍平さんの顔からは笑顔がたえない。麗生のひじをつついたり、肩を寄せたり――それだけではない、王結や秋秋の腕にもふれたりして、そのうえふたりぶんのサンドイッチを重ねて口にくわえるなどのおどけぶりまで発揮して笑いをとっている。

 あれが、あの夜私を助けてくれた人だろうか? 私にパンをくれたあと黙って河岸にたたずんでいた人だろうか?

 みていられない。みたくない。胸が苦しい。でも視界に入る。

 いやな思いをするとわかっていて、夕子はなぜわざわざ麗生組の前に座ったのか?

 ひとつには、ほかに選択肢がなかったからだった。

 テーブルはすべて四人がけで全部で六台、カウンターを前に三列配置されていた。

 左奥のテーブルは千冬組が陣どっていた。その前のテーブルは空席だったが、千冬にはギャアギャア騒がれたあとだっただけに、目の前に座る気はしなかった。

 右奥のテーブルはロレーヌ組が陣どっていた。その前のテーブルには丁香がひとりぽっちでいた。これは友だちになるチャンスだと思ったが、近づくと警戒するような目をされたので座れなかった。

 残るは中央のテーブルだった。奥は麗生組が陣どり、その前のテーブルが空いていた。夕子はそこに座るしかなかった。

でもそこに座ったのには、もうひとつ理由がある。

そこだと李龍平が、むりなくみえる。夕子はやはり彼を視界に入れたかった。たとえ、みることで傷ついても、確かめたかったのだ。自分と目があったら、彼はどう反応するか。うろたえたり、申しわけなさそうな表情をしてくれることを夕子は期待した。すこしでも自分を意識してくれている、とわかればよかった。

 でも実際は、確かめるどころではなかった。なにしろ目があわない。彼はこっちをみさえしない。まわりの娘に夢中なのだ。いまなどは麗生の耳に口をつけんばかりにして、しゃべっている。

 夕子は目の前が暗くなる気がした。これが現実――そう思ったときだった。

 ざわめきがおこった。

 講師エドワード・アンドリューが入ってきたのである。

 講師はここにこないことになっているはずだったので、みな驚いた。歓迎ムードになったが、すぐに静まった。講師はランチを食べにきたのではなかった。突然叫んだ。

「全員注目!」

 笑いのいっさいない顔をカウンター前でぐるりと動かした。ただならないようすに、みな一気に緊張を走らせた。

「初日からランチの邪魔をして申しわけない。しかしいま、どうしてもみんなに、きいてもらわなければならないことができた」

 講師は厳しい視線をテーブルにめぐらせた。と、その目が一青年の上にとまった。娘たちのなかにまぎれこんでいるから目だつ。新聞記者を発見した講師は目を光らせ、近づいてきた。麗生はぎょっとした顔になった。講師がカフェテリアにきたのは自分が記者をなかにいれたことをとがめるためだと思ったのだ。

 講師は記者の前に立つと、無断立入を問いただした。麗生は懸命に龍平をかばった。自分の父親の名をだし、龍平がその友人だと主張した。麗生の父親は経済界の実力者だし、アンドリューの父親とつきあいがある。麗生の妹はアンドリュー・バレエ・スクールの生徒だから、講師はそれ以上の追及はその場ではつつしんだ。今回だけはみのがすといって、記者をカフェテリアから追い出した。そしてふたたびカウンターの前に立っていった。

「あらためて食事中申しわけないが、みなに報告したいことがある」

 厳しい顔は変わらない。どうやら新聞記者のことできたのではないようだ。

「一時間ほど前、IAA本部に一本の電話がかかってきた。――このなかのひとりを中傷する電話だ」

 みな、息をのんだ。

「若い女の声でこういったそうだ。『呉麗生はリラダン爆殺事件の実行犯。事件当時現場で麗生を目撃した人間がいる』、と」

 麗生は瞳孔をひろげた。

「本部はあくまで単なる中傷だと思っている。そんな中傷をしたのがだれか、ということを問題にしている。というのもその電話の発信元が、調べたところ、このレスター花園だと判明したからだ」

 講師はひとりひとりの顔に瞳をめぐらせる。

「このなかに麗生を中傷する電話をかけた人間がいる。電話はいまから一時間前にあった。一時間前は三限と四限のあいだの休み時間だった。そのとき、だれがなにをしていたか。追究すれば犯人は割りだせるだろう」

 ファイナリストたちはたがいを盗みみる目つきになった。

「しかしいまはあえて追及はしない。本部も今回だけは大目にみるといっている。初日から失格者がでることは望ましくないからな」

 麗生が納得のいかない顔をした。それをみて講師はみなにさとすようにいった。

「犯人にいっておく。ライバルの中傷はいっさい無意味だ。それどころか損するだけだ。いまごまかせたとしても、いつかは自分にはね返ってくる。すこしでも反省する気があるなら、みずから名のりでてくることだ」

 みな、うつむいている。

「それからいっておく。例外は今回だけだ。次は許されない。だれであろうと、ここから出ていってもらうことになる」

 鋭い視線でひとりひとりの頭を刺すようにし、

「アンダースタンド? 汚い手を使ってグランプリになろうなんて考えるな。戦うなら正々堂々と。わかったらランチをつづけて」

 いうべきことをいうと、とってつけたように笑顔をふりまいた。みながおずおずと食事を再開すると、講師は麗生のもとにいき、肩をたたいていった。

「申しわけないが、今回は理解してほしい。君が新聞記者をカフェテリアにいれたのを見逃してやったかわりに、というと、きこえは悪いが・・・・・・」

 このとき講師も麗生も記者は帰ったと思いこんでいたが、李龍平はけっして帰ってはいなかった。

 李龍平は先週以来、ファイナリストのなかにリラダン爆殺事件の実行犯がいるかどうか注意して探っていた。今日は都合がいいことに合宿初日で一限が報道陣に公開されていた。それを利用して花園に入り、取材時間終了後もひとり建物内に残った。犯人がだれか探るため、ファイナリストの素顔を盗みみにきたのだった。その途中でたまたま江田夕子に会い、話していたら、麗生に声をかけられた。おかげでカフェテリアに入る機会に恵まれたが、講師にみつかって追い出された。だがそれで退散する龍平ではなかった。帰ったとみせかけて、裏からカフェテリアの厨房に入った。従業員を買収してカウンターの裏に身をひそめ、講師の話を盗みぎいた。

 何者かがIAA本部に中傷の電話をしたという。その内容をきいて龍平は息をひいた。「呉麗生はリラダン爆殺事件の実行犯。事件当時現場で麗生を目撃した人間がいる」ときいては、講師とちがって、たんなる中傷としては片づけられなかった。

 龍平は自分の容疑者リストに麗生を加えた。ファイナリスト発表会時は江田夕子をいちばん怪しいとみなしたが、こちらは調べるにつれ疑いがうすれていく。麗生はいままで特別にはマークしていなかったが、今回のような話をきくとちがってくる。

 もっともIAAにあった電話が講師のいうとおり単なる中傷である可能性も否定できない。中傷の場合は、中傷した人間が怪しい。その人間こそが実行犯ということも考えられる――龍平は思案する。切れ長の瞳が薄闇のなかで炯炯と光った。

 講師は麗生の肩に手をおき、なお説得するようにささやいた。

「君ならわかってくれるだろう。とにかくここはこらえてくれ。君のためだ。個人的に犯人をつきとめるようなことも控えたほうがいい」

 麗生はその場では、しおらしくうなずいた。だが、講師がカフェテリアを去るなり態度を一変させた。

「気分悪い!」

 麗生は英語で叫んだ。おさえていた感情をむきだしにした。

「私がリラダン事件の実行犯だって? 冗談じゃない。殺された花齢さんは友だちのお母さんだよ。私がどれだけ慕ってたか、知りもしないで――」

 みえない密告者をにらみつけるように、テーブルからテーブルへ、怒りをこめた視線をめぐらせた。陽気なイメージとはまるでちがう、鬼のような目だった。

 密告者は名のりでない。麗生はしびれをきらしたように、

「だいたいいまさらなんなのよ。私が現場にいただって? 事件のあった日、私は春物のファッションショーにでてたんだよ。なんなら、その場にいた人全員この場に連れてこようか?」

 ドンとテーブルをたたいた。みなびっくりして息を引いた。そのなかの王結と馬秋秋に麗生は顔をふりむけて、

「ふたりなら、わかってくれるよね?」

 と、きいた。

「わかる、わかる」

 ふたりは焦って必要以上にうなずいた。するとそのうしろからも、

「私もわかる」

 という声がした。隣のテーブルにいたはずのミラベルとナンシーだった。

「ほんと?」

 麗生は目を輝かせてきいた。

「うん。ひどい中傷だと思う」

 白人ふたりはおおげさにうなずいた。ロレーヌもそのうしろからうなずいた。

「まったく、頭にくる話だ」

「ありがとう、みんな」

 麗生は感激したようにいった。

「みんな、ありがとう・・・・・・」

 みんな、うなずいた。うなずくことで自分が密告者ではないとアピールしている。そこへ千冬がひと足遅れでやってきた。

「ほんとひどい話だよねえ」

 大声で自分も味方だとアピールした。ところが、そのとたん麗生の表情が変わった。不快感をあらわにして、

「やってらんない」

 と、どなり、足で床をけった。どうやら麗生は千冬を疑っているようだ。

 ところが離れた場所にいる夕子は、麗生が疑っているのは自分だ、と思いこんだ。さっき麗生が犯人を探す視線を投げたとき、自分をにらんだとしか思えなかったからだ。

 夕子はみんなの輪にとびこむ勇気がなく、ひとりで席に座っている。みながなにを話しているのかわからないから、どんどん被害妄想がふくらんだ。みんなは私を犯人と思っている。犯人は江田夕子だよね、といいあうために輪になったにちがいない。その証拠にきこえよがしな声がとんできた。

「私を実行犯だと中傷したのは、ジャパニーズじゃない?」

 麗生だ。麗生が叫んでいる。

「爆殺事件の真犯人はジャパニーズっていわれてるよね。現場付近で中国人ぽい格好をした怪しい男女が目撃されたから一時は中国人のしわざっていわれたけど、実は日本人だったって話じゃない?」

 みなは千冬を盗みみた。麗生はあきらかに千冬を疑っていた。それに気づかなかったのは、輪の外にいた江田夕子ひとりだった。

 「ジャパニーズ」――日本人という言葉は夕子に決定的な衝撃を与え、すくみあがらせ、正常な思考を奪った。

 夕子はふるえながら思う。ジャパニーズ=私だ。日本人は私のほかに三人いるけども、三間広子と遠藤幸枝は気品があって卑劣なことをするようにはみえない。千冬は伯父さんが日本軍人だけど、麗生にうまくとりいっているから、疑われるわけがない――と夕子は思いこんだ。

 日本人のなかで一番密告しそうにみえるのは私だ。IAAに密告の電話があったという三限と四限のあいだの休み時間はひとり教室をぬけだして外の空気を吸っていた。アリバイを証明してくれる人はいない。

 それに私には動機がある。麗生を恨むだけの理由がある。二限のダンスで麗生とペアになり失敗した。そのせいで私は雑用係になった。その腹いせで中傷したと思われたかもしれない。私には犯人にされる材料がそろっている。

 麗生がみんなにつぶやく声が断片的に耳に入った。

「・・・・・・立場をわきまえない女」

「疫病神・・・・・・」

 英語だ。私にきかせようとしている。

「まあまあ、ここは抑えて」

 王結がなだめるようにいったが、麗生はきかなかった。こっちをむいて、これみよがしに椅子を蹴りはじめた。夕子はふるえた。麗生は怒りの音を私にきかせようとしている。こういいたいにちがいない――江田夕子め、黙って座ってないで、さっさと犯人は自分だと名のりあげろ。

 夕子はいますぐ謝罪しなくてはいけないような気持ちにさせられた。かといって、やってもないことは謝れない。ほんとうは逃げたかった。でも逃げたら、よけいにあやしまれる。どうしたらいい。どうしたら麗生の敵意をやわらげられる。

 ふと夕子はあることを思いついた。自分が敵ではなく、むしろ味方だと麗生に伝える方法がある。

 夕子は勉強道具のなかから雑誌『紫蘭花片』をひっぱりだした。上海の女性向け小説雑誌である。合宿前に上海人とうまくやれるか不安で、上海文化の理解のためにと買った書籍のひとつだった。上海娘と会話することになった場合、これを話題にしようと思って、ほかの本といっしょに今日は持ち歩いていたのだった。オリエンテーションのとき、たまたま麗生が愛読者ということを耳にしたが、話題に入ることができず、そのまま忘れていたのを、いま思い出したのだ。

 自分も『紫蘭花片』の愛読者と思ってもらえれば、密告犯の疑いが晴れる――そう思った夕子は、表紙をみせつけるようにテーブルにたてた。読みだした。というより読むふりをはじめた。みてみて、私は日本人なのに『紫蘭花片』を読んでます、つまり私は麗生の味方、あなたを中傷した人間ではありません、と、いわんばかりに。

 もとより全文漢字で意味はまったくわからない。ただ夕子は全身で読みふけっているふりをする。文字から文字へ目を懸命に移動させる。そのときだった。

 みている文字に虫が一匹とまった。蝿だった。虫は大の苦手である。悪寒が走り、夕子はあやうく叫びだしそうになった。麗生にこれ以上嫌われたくないという気持ちが、かろうじて自分を抑えさせた。麗生の愛読雑誌を読んでいるときにマイナスの態度はとれない。蝿をふりはらいたいのを我慢した。

手ではらうなど、とんでもない。蝿は麗生のほうからはみえないから、手をはらったりしたら、『紫蘭花片』を否定したと思われ、私は敵とみなされるだろう。それは絶対に避けなくてはならない。味方と思われなくてはならない。あくまで楽しそうな顔をして読まなくてははならない。だから歯をくいしばって、みなかったことにした。

 ところが二秒もしないうちに、夕子の目はふたたび蠅にひきつけられた。蝿は雑誌を支える夕子の親指にむかって歩いていた。みるなり顔が凍りついた。――しまった、と思った瞬間、

「顔も性格も悪い」

 という麗生の声が耳にとびこんだ。私のことをいっている。挽回しなくては。雑誌をみて楽しそうな顔をしなくては、と思って微笑をうかべようとしたそのときだった。蝿が飛翔し、夕子の唇にとまった。たちまち、

「ヒーッ!」

 自分でもびっくりする悲鳴がのどをついてでた。微笑するどころではなかった。脳に血が充満して、蝿がとっくに逃げたとも知らず、無我夢中で唇をぶったたき、虚空にむかって雑誌をめちゃくちゃにふりまわした。

 我に返ったとき、『紫蘭花片』は床の上で箒みたいにひろがっていた。夕子は血の気をひかせて雑誌を拾いあげた。顔のみならず頭の中も真っ白だった。気づいたら前のテーブルにむかって何度もおじぎしていた。失笑がきこえた。いたたまれなくなって、夕子はカフェテリアをあとにした。

「・・・・・・なんだったの、いまの」

「さあ」

 みな失笑して、首をひねっていた。そうとは知らず、夕子はカフェテリアをでていく自分をみて麗生がこういっていると思いこんだ。――「密告したのは絶対あいつだよ、『紫蘭花片』をたたきつけたから、あいつ私に挑戦してる」。

 すると、

「夕子」

 うしろから呼びとめる声がした。「逃げるな」といわれる気がして、その場で身を拘束されるような気がして、夕子は凍りついた。覚悟してふりかえると、そこには千冬が立っていた。

「今夜、私の部屋にこれる?」

 千冬はいった。予想とはちがったので、ほっとしたが、安心はできなかった。千冬は麗生の使いかもしれなかった。麗生は千冬を使って今夜自分を部屋に誘ってどうにかしようと考えているのかもしれない。いやな予感がした。ただでさえ千冬に誘われてろくなことはない。夕子は勇気をふるいおこし、

「私、雑用係だから・・・・・・夜でも仕事があると思うから」

 と婉曲に断った。

「十時半」千冬はいった。

「だったらこれるでしょ? 初日だし土曜だし、そんな遅くまで仕事ないはずだよ」

「う、うん・・・・・・」

 夕子は断れなかった。

「日本人同士、仲良くしよ。私の部屋、三〇二号室に十時半だからね」

 千冬は返事もきかず、去っていった。


 その日の夜、夕子との約束の十五分前、千冬は三〇一号室の前に立った。三〇一号室は麗生と王結の部屋だ。そのドアを千冬はノックした。

 なかから足音がしてドアがひらいた。あけたのは麗生でも王結でもなかった。馬秋秋だった。ドアから顔をだし、訪問者が千冬だとみると、英語でつっけんどんにいった。

「なんの用?」

「麗生に話があって」千冬は追従顔でいった。「・・・・・・いる?」

 秋秋はすぐには返事をしなかった。いったんドアをしめた。なかでなにかきく声がきこえ、しばらくすると、ドアがまたあいた。今度あけたのは秋秋ではなかった。麗生だった。千冬の顔をじろじろみて、

「なあに千冬」

 笑顔でいった。よそよそしい仮面のような笑顔だった。

「こんな遅くにどうしたの?」

 千冬は思いきったようにいった。

「誤解をときたくて・・・・・・」

 麗生を中傷する電話をしたのは自分ではないと伝えたかった。

「誤解? なんの?」

 しらばっくれた声をだしたのは秋秋と王結だった。いつのまに麗生の両脇に立っている。三人とも服の一部がなぜか微妙にぬれていたが、千冬は目にとめるよゆうがなかった。誤解をときたい一心で、質問にこたえようとした。だが麗生にさえぎられた。麗生は脇のふたりとこれみよがしに腕を組み、こういった。

「私てっきり小山内さんも参加しにきたのかと思った」

 千冬はきょとんとしていった。

「なにに?」

「私たち、いま好きな人を教えあってたんだ」

 麗生はいった。

「だから小山内さんもてっきり、その話をしにきたかと思った。――ちがうの?」

「いや、あの」

「え、なに?」麗生はわざとらしく耳に手をあてていった。

「私たちに恋の話をしたい?」

「そうじゃなくて」

「イギリス人の彼がいるって、朝いってたよね」

「・・・・・・」

「どんな人かってきいたら、あのときは江田夕子のほっぺたをさしだされて、ごまかされたけど。それは誤解と思ってもいい?」

 千冬は青い顔をし、次にしぶしぶうなずいた。

「・・・・・・うん」

 たちまち麗生はひまわりのような笑顔をうかべ、

「みんな! 千冬が好きな人教えてくれるって」

 わざとらしく声をはりあげた。脇のふたりはそれにのって、

「教えて教えて」

 と、千冬にせまる。千冬は弱りきった顔で廊下に視線を配り、

「ここでじゃなく・・・・・・なかで」

 と、いったが麗生はききいれなかった。

「ここでいいなよ。だれもきいてないって」

「でも・・・・・・」

 千冬はうつむいた。すると麗生は、なにを思ったか、ニヤリと笑っていった。

「わかった。入りな」

 千冬は麗生たちの部屋に入った。入ったあと一度腕時計をみた。十時十七分だ。夕子と会う約束の時刻まではまだよゆうがあった。ドアのしまる音がした。三人は千冬をかこむようにして二台のベッドのあいだに立った。

「で、どんな人、名前は?」

 きかれて千冬は覚悟したようにいった。

「ルドルフ・ルイス」

 たちまち馬秋秋と王結の目がむきだしになった。麗生だけはなぜか表情を変えなかった。ほかのふたりは、

「えーっ!?」

 といって目をみあわせ、声をそろえた。

「まさか、あの映画俳優だったルドルフ・ルイスじゃないよね?」

「それが、そうなんだ」

「ちょっと、うそでしょ」

「ほんとなの。ここだけの話にして」

「ルドルフ・ルイスが二年前から上海にいるってのはきいてたよ。でも全然みないし、ほんとにいるか疑ってた――そのルドルフ・ルイスが、千冬の彼?」

 馬秋秋が信じられないといった顔でみつめる。

「だから信じてもらえないと思ったんだけど」

 そういってうつむく千冬の顔を麗生は黙って観察している。千冬の恋人の名をきいてから、なぜか一言も発していない。その一方で王結と秋秋は千冬を質問攻めにする。

「ねえ、どこでどうやって出会ったの」

「いつ会ったの」

 質問に千冬はこたえた。ルドルフ・ルイスと自分のなれそめをうちあけたのである。王結と馬秋秋がしきりに感心してみせたせいか、千冬の舌はなめらかになった。あきらかにいい気分になっていて、しまいにはきかれてもいないことまでしゃべった。話ししぶっていたのが、うそのようである。

「――とにかく隠れてしか会えないから、たいへん。スキャンダルでロンドンから上海に逃げてきた人でしょ。こっちにいても人前にでるのをいやがっちゃって」

「いまはハルトン邸に住んでるんだよね」

「まあね、ハルトンの甥だから。それで助かってるみたい、いろいろ守ってもらえて」

「千冬もハルトン邸に入ったりした?」

「うん、まあ、ルドルフの部屋だけね」

「豪華でしょ?」

「まあ、そうかな。とにかくすっごく広い、部屋って感じじゃないの。なんでもそろってる劇場みたいな。でも彼はふつうだよ。元俳優って感じも全然しない。というか、ふつう以上にシャイ」

「いいなあ、つきあえて」

 秋秋は心からうらやましそうにいった。

「さっきは終わった俳優とかいってたよね」

 王結が茶々をいれたが、馬秋秋は悪びれもせずいう。

「でも話きくと、うらやましい」

「私もうらやましいな。会ってみたい」

 王結が口をそろえた。

「ねえ、せっかくだからさあ、会わせてもらえない?」

「ルドルフに?」

「うん。会わせて」

 急なお願いに、千冬は顔を曇らせた。

「だめ?」

「それが・・・・・・」

「なに、どうしたの」

「・・・・・・実はここ一か月、彼と連絡がとれてなくて」

「え? つきあってるのに?」

 王結の目が意地悪く光った。

「つきあってるんだけど、最近はちょっと・・・・・・」

「『ちょっと』って?」

 そのときだった。

「それぐらいにして」

 麗生がさえぎった。ルドルフの話がでてから口をだしたのは初めてである。

「王結と馬秋秋、ふたりとも人のことばっかりきいてるけど、自分の話はした?」

 ルドルフの話をききたいといいだしたのは自分なのを忘れたみたいにいった。

「まだだよね? 人にお願いするなら、その前に自分の話をしてからにしなよ」

 ふたりはしかたないといった顔で自分の好きな人を千冬に教えることにした。

「じゃ、いうね」王結からいった。

「私は東北(中国)の軍閥の長男に恋してる。地元のパーティーで出会って、ひとめぼれしたんだけど、むこうは同じときに別の女性にひとめぼれして、そっちとつきあってる。片思いだよ。くやしいから上海にきた。ミス摩登になって見返してやろうと思って」

 つづいて秋秋がテニスで知り合った同じ上海の上流家庭の青年とつきあえそうだけど、つきあうところまではいってないと話した。それから、

「麗生は?」

 と、うながした。

「明日教える」

 麗生はけろりといった。と思うと突然千冬に笑顔でいった。

「ねえ、明日ファッション・ショーがあるんだけど、みにきてくれる?」

「私を、招待してくれるの?」

 千冬は信じられないといった顔をした。

「うん。招待する、優待席に」

 麗生は真顔でうなずいた。

「じゃあ・・・・・・わかってくれたの?」

 千冬は顔を輝かせてきいた。私が中傷者ではないとわかってくれたの、という意味だった。麗生はそれにはこたえなかった。かわりにいった。

「開演は午前十一時。場所は、わかってると思うけど、銀華デパート屋上の劇場。チケットはいまから渡す。――こっちにあるから、きて」

 バスルームの近くに招きよせた。千冬はうれしそうについていったが、そのときに一度腕時計をみた。十時半をすぎていた。夕子を自分の部屋に招いた時間である。千冬の顔に焦りの色が走った。チケットをもらったらすぐ部屋に帰るつもりで呼ばれた場所に移動した。

「チケットはここだよ」

 そういって麗生はニヤッと笑った。そこはバスルームの前だった。麗生はドアをあけた。たちまち冷たいものが千冬の体にかかった。

「わっ冷たい、なに」

 シャワーの水だった。麗生の手にはいつのまにシャワーがある。水が勢いよく噴出している。

「洗礼!」

 麗生はそう叫び、千冬にうむをいわさず、シャワーをあびせた。

「や、ぬれる、ちょっと」

「洗礼洗礼、王結も馬秋秋もさっき経験ずみだよ」

「逃げるなー」

 秋秋がはしゃいだ声をあげて、千冬の体をうしろからおさえつけた。そのままバスルームにおしこむ。その秋秋の背中にも顔にも麗生は容赦なく水をあびせた。

「やったなあ」

 秋秋は笑いながら千冬をはなし、シャワーをもぎとって麗生にかけはじめた。

「いやー、あははは」

「ちょっと、キャー」

 かわって千冬をおさえた王結の身にも水はかかった。その王結がシャワーを奪い、秋秋にかけ、麗生にかけ、みんなでもともとぬれていた服をさらにぬらして、

「アハハハー」

 笑い声がバスルームいっぱいにこだました。もうだれがだれだかわからない入り乱れようだ。いつしかシャワーは千冬の手に渡っていた。

「キャッハッハ」

 笑って三人に水をあびせる。小悪魔的な笑みがその格好になんともお似合いだった。千冬は我を忘れてはしゃいだ。麗生たちはみんなよろこんで水を浴びているようにみえた。

 みんなで十五分以上も笑いあって騒ぐだけ騒いでバスルームをでてからやっと、麗生はチケットを千冬に渡した。それから時計をみた。十時五十分になっていた。


 時刻は十分さかのぼって午後十時四十分の物置部屋――、

「キャハハ・・・・・・」

 夕子は千冬の笑い声を物置部屋の壁越しにきいていた。

 隣室は三〇一号室である。声はそっちからきこえる。千冬はなぜ、麗生と王結の部屋にいるのだろう?

 夕子はベッドの上で頭をかかえている。雑用係の仕事をして服が汚れたのに、着がえる気もしなかった。

 十時半、夕子は千冬にいわれたとおり、三〇二号室のドアをノックした。ドアはひらいたが、でてきたのは千冬ではなく、ルームメイトの幸枝だった。千冬は不在だった。

 やっぱりだまされたのだ。千冬はまたも私の孤独な心をもて遊んだのだ。わざと十時半に留守にしたのだ。その証拠に千冬は隣室の麗生の部屋で笑っているではないか。

「キャハハ、キャハハ・・・・・・」

 あれは私を嘲る笑いだ。千冬は麗生たちをまきこんで笑っている。千冬は麗生に私の悪口をいったにきまっている。麗生は自分を中傷したのは私と思いこんでるにちがいないから、私の悪口をきいて爽快な気分になったのだろう。だから千冬といっしょになって、あんなに笑っているのだ。千冬のせいで、麗生は今後私を嫌うだろう。夕子は絶望的な気分になった。麗生に嫌われるということは、みんなに嫌われるということだ。

 不安がとまらない。

 いままでだったら妹としゃべって気分をまぎらわせた。でもいまはそれもできない。妹はここにはいない。家族は今朝、夕子が三限をうけていたころ、ここから一キロと離れていない匯山碼頭から日支連絡船長崎丸にのって上海を出港している。いまごろは東シナ海の上だろう。両親には早く上海を去ってほしかったから、家族が日本に帰国すること自体は淋しくなかった。むしろ待ち遠しかった。だから妹と離れたあとの自分を、あまり想像していなかった。

 でもいま実際に妹と離れて最初の夜をすごして、そのありがたさが身にしみた。寝る前に話し相手がそばにいないことがこれほど苦痛だとは。友だちのつくり方を知らない私には、長いあいだ話相手といえば妹だけだった。

 ふと夕子の耳に昼間きいた声がよみがえった――「日記はある意味、友だちがわり。本音をだせるから、書くとすっきりする」。李龍平の声だった。

 そうだ、日記を書こう、と夕子は思った。おしゃべりするみたいに鉛筆を走らせよう。李龍平さんはいった。――「名づけて『鉛筆競争』」、「やってみない? 日記用の鉛筆を持ち歩いてるやつが集まるなんてことは、めったにないと思うけど」。

 夕子は鞄から日記帳と鉛筆をとりだした。そして七センチの鉛筆をにぎった。それだけで不安がなんだかやわらいだ。李龍平さんがにぎった鉛筆だからかもしれない。

 目をとじると彼の顔がうかぶ――輪郭、りりしい眉、高い鼻・・・・・・部分部分ははっきり思い出せる。けれどもふしぎなことには、全体のイメージが思い出せない。どうでもいいひとの顔なら、いくらでも思いだせるのに。

夕子は目をあけた。一枚のビラに目がとまった。数年前の世界的ヒット映画『黄昏の皇帝』のビラだ。物置部屋が殺風景だから壁にはった。ルドルフ・ルイスのななめをむいた顔が大写しになっている。その顔が李龍平にそっくりにみえた。――そうだ、これからはこのビラを龍平さんの写真がわりにしよう。ルドルフ・ルイスのファンだったことも忘れたように夕子は思った。ビラに視線を釘づけにする。みていると、彼の声がよみがえる――「おたくのが七センチ。俺のが六センチ」、「どっちがいまより多くへらせるか。今度会ったとき勝負しよう。俺のが短いぶん、一センチ、ハンデをつけるから」

 あれは、その場しのぎの言葉だったのだろうか? そうとは思いたくない。でもあのあとの麗生との話しぶりをみると、残念ながらそうとしか思えない。

 だけど――、と夕子は鉛筆をにぎりしめて思う。

 私は日記をこの鉛筆で書く。たとえ鉛筆競争が龍平さんのその場しのぎの言葉にすぎなかったとしても。たとえ龍平さんが麗生とつきあっているとしても――。

 さあ、日記を書こう。書かなくては。心にたまったものを吐き出すためにも。龍平さんを思って高鳴る胸を静めるためにも。

 いつのまに、千冬の笑い声はやんでいる。麗生の声もきこえない。「仲良し会」はおひらきになったらしい。壁に耳をすましても、隣からはなにもきこえない。ものを書くには、ちょうどいい静けさだ。よし、書こう。

 夕子は膝の上に日記帳をひろげ、鉛筆の芯をそのほうへもっていった。そのときだった。

 ゴンッ、という音が壁からした。夕子はびくっと体をふるわせた。顔をあげて、耳をすました。すると、

 ――ぐわあん、ぐわあん・・・・・・

 と、いう飛行機が旋回するような音が壁からきこえだした。隣の音だ、と思ったとたん、頭の中が真白になった。

 壁で鳴っているその音は、実は水道管の音であり、湯がでる前奏音というべきものだった。一九三一年、水道設備は現代ほどには発達していなかった。そのせいか、このレスター花園でも蛇口をまわしてから湯がでるまでは、しばらく時間がかかった。いま隣室で麗生が熱いシャワーを浴びようとして蛇口をまわすと、水道管がうなるような音をたてたのもそのためである。湯はしばらくしてからようやく目指すバスルームに到達し、シャワーから湯を吐き出しはじめた。さっきとは別の音をたてて、である。

 ――ンゴッ、ンゴッ・・・・・・

 夕子にはなんの音だかわからなかった。ただ壁からきこえる音のはげしさに全身をちぢみあがらせた。指がふるえて、日記を書くどころではなくなった。

 タイルをはじく流水音によって、麗生がシャワーを浴びているらしいということは、ようやくわかった。しばらくすると石鹸をこする音や吐息がきこえてきた。それによって夕子の恐怖はむしろ増大した。

 吐息までつつぬけなんて――むこうの音がつつぬけということは、こっちの音もつつぬけということだ、ということに思いあたったのだ。

 音だけでもいろんな情報が伝わる。だから麗生は壁一枚をとおして私がいまなにをしているか、把握しているかもしれない。いや、把握しているにちがいない、と自意識過剰の夕子は思った。自分の行動を思いかえすと、そうとしか思えない。私はさっき日記帳をとりに鞄をおいてある椅子までベッドからおりて行くのに足音をたてた。鞄をひらいたときも、ベッドに座りなおしたときも、日記帳をひらいてページをめくったときも、音をたてた。そう考えた夕子は、あることを思いついて総毛だった。

 麗生は音で私が日記を書こうとしているのを知って、邪魔するために大きな音をたてたのではないだろうか?

 麗生はなぜ邪魔をしたか。こたえは簡単、麗生が龍平さんとつきあっているからだ。ランチ前の私と彼の会話はやはり馬秋秋にきかれていたのだ。秋秋は「鉛筆競争」のことを通訳し、麗生は嫉妬した。江田夕子に鉛筆競争なんてさせてたまるか、と思った。だから物置部屋から日記を書くような音がきこえたら、即刻邪魔してやろうと待ちかまえていたのかもしれない。とはいえ日記にむかう音は、よほど耳をすませていなければ、隣室からききとれるものではない。だから麗生は壁に耳をあてている。

 いま私は、そんな気配をたしかに感じる。シャワーは単なるカモフラージュかもしれない。ひょっとしたら麗生はずっと前から、私が雑用係の仕事を終えて物置部屋に入ったときから、壁に耳をあてて私の行動をうかがっていたのかもしれない。さっき千冬たちと遊んでいたようすからするとそうとは思えないが、そうとみせかけて、麗生だけはずっと私の行動を監視ならぬ監「聴」していたのかもしれない。

 なんのために?

 ひとつには、私が日記を書くかどうか探るため。もうひとつには、私があやしい行動をしないか探るため。麗生は私を中傷電話の犯人だと疑っている。だから私が部屋でなにをしているか探っている。と、考えたとき、また音が大きくなった。

 ――ンゴッ、ゴッ、ゴッ・・・・・・

 きいてると、殴られてる気分になってくる。ランチのときの麗生の怒鳴り声がよみがえる。耳のなかでガンガン鳴りひびく。するとそのとき黒いものが視界をかすめた。

 蠅だ。

また、蝿。黄色い電灯のまわりをとびまわっている。

 物置部屋にも電灯はあったのである。寝台や棚や円卓や必要最低限の家具もある。ただここは当然といえば当然だが、狭くて陰気だった。ふつうの寝室の半分にもみたない狭さだし、寝台だって夜行列車並みの幅しかないし、なにもかもみすぼらしい。窓もあるにはあるが、トイレの窓のように小さいし、ドア付近にはモップやバケツや箒などの掃除道具があるから、不潔で息苦しい印象だ。

 その息苦しさのなかで夕子は正常な思考を働かせることができなくなった。しだいに麗生が、自分の考えを邪魔するために、わざと音をたてているように思えてきた。

 ドンドン、という音がする。音は私の領域を侵す。夕子はベッドの隅で両膝を抱えてちぢこまった。蠅は嘲笑うようにとびまわっている。憎い蝿。殺してやりたい。でも、それはできない。殺すと音がでる。麗生へのあてつけと思われかねない。

 にらむしかできない。夕子は両膝をかかえたまま上目づかいに蠅をにらみつける。カフェテリアで自分に恥をかかせた蠅。あれとは別の蠅にしても憎い。いや、ほんとうは麗生が憎い。麗生は私に行動の自由を許さない――そう思って夕子はひたすら息をひそめる。

 物置部屋を攻撃しているとしか思えない音はつづいた。

 息がつまりそうだ。咳がでそうになったが、こらえた。咳などしたら、どんな誤解を招くかわからない。不快感を表現するために、わざとしたなどと思われてはたいへんだ。これ以上、麗生を刺激する行動はひかえたい。

 ――ドン、ドンドン。

 いったい、私のなにがそんなに気にくわないのか。日記も書いていないのに、静かにしているというのに。雑用係がいま働かずに休んでいるのが許せないというのか。ああ、うるさい。ふいに夕子のなかでなにかが切れた。うっせんだよ。もう頭にきた。日記ぐらい書かせろ。夕子はにぎった鉛筆を日記帳に猛然と走らせた。

「私には自由がないの? 麗生のせいで私はどれだけがまんしなくちゃならない。

 合宿所にくれば、母親がいないから、すこしはマシな生活ができると思ってた。

 母親――私を監視し、縛る人。なんにでも文句をつける人。私が夜中トイレに行くとき、どんなに足音をしのばせて廊下を歩いても気配で目を覚まして「うるさい」と怒る人。子どものころ絵本を読んでいた私に「もっと静かに息をして」と注意した人。

 ああ、耳がわんわん鳴る。ききたくない母親の声がきこえる、「うるさいわよ」、「びっくりしたわ、今の音はなに?」、「お母さんを怖がらせないで」、「勉強しなさい」といったそばから「椅子の音がうるさい」。

 あのうるさい人はもういない。

 なのにここでは麗生が、私を苦しめる。

 どこでなら私は自由になれるの。

 私の居場所はいったいどこ?」

 そのとき、ふいにすさまじい音が壁からした。

 頭上から鉄槌をふりおろされたような衝撃を夕子はうけた。

 日記を書いたから麗生が怒ったのだ、と狂気をはらんだ目をして夕子は思った。ひょっとすると書いた内容まで伝わったのかもしれない、恐怖が夕子を逆上させた。手をほとんど発作的に動かし、日記に書いていた。

「バカヤローバカヤローバカヤローバカヤロー」

 同じ文字を書き殴るだけ書き殴った。めちゃくちゃに鉛筆を走らせた。しだいにそれは文字ではなくなった。めちゃくちゃな線のつらなりとなった。線と線はからみあい、黒雲じみた模様になった。どれだけページをぬりつぶしたか、気づいたら芯はすっかり削られていた。鉛筆の色がうすくなったことに気づいて夕子はハッとした。

 こんなことで鉛筆を減らすつもりはなかったのに・・・・・・後悔がおそう。

 いつのまに壁からは音がしなくなっている。静かだった。するとどこからか汽笛の音がきこえた。

 窓からだ。

 みると、蠅は窓にとまっている。蠅を追い出すなら、いまだ。

 反射的に夕子は窓をあけたくなった。

 窓をあければ、麗生にきこえるかもしれない。「犯人が脱走をはかっている」と思われるかもしれない。でも、チャンスはいましかない。それに外の空気が吸いたい。

夕子はほとんど発作的に窓をあけた。

 ギギ、という音を窓はたてた。血が凍りつきそうになった。いったん手をとめて耳をすましたが、壁から非難の音はしない。気をとりなおし、窓をすこしずつすこしずつおしひらいていった。

 夜風が入ってきた。黄浦江の匂いがした。蠅は外へ飛びたっていく。闇に吸いこまれていく。花園の塀をこえていったかもしれない。黄浦江の方角だ。

 夜空には灰色の雲がたれこめている。月はない。けれどもその下には、遠い闇の奥には、宝石のように輝く光があった。黄浦江に停泊中の客船の光だろう。目をこらすとガラスの粒のような数々の船窓の光がみえる。

 一週間前の夜が思いだされる。私は龍平さんと黄浦江を眺めていた。ガーデンブリッジのたもとに、ふたりならんで立っていた。

 楽しかった。あの人と話していると、緊張もするけれど、やすらげる。考えてみれば、彼といるときだけ私の心は自由になれる。そう思った刹那、壁から爆撃音に似た音がした。

 ぎょっとして夕子は壁をふりかえった。いま私が考えたことがぜんぶ麗生に伝わってる気がした。夕子はわななく目で壁をみつめる。みえない穴から麗生がのぞいているような気がした。膝ががくがくとふるえた。このままでは、どうにかなってしまいそう、と思った。

でたい、外にでたい。黄浦江にいきたい。そしたら龍平さんに会える気がする。もっとも一週間前と同じように会える保証はないし、会えたところで恋がかなうわけではないのは、わかってる。恋など麗生がいるかぎり、許されない。その前に龍平さんが私に恋するとは思えない。――恋?

 夕子は烈しくかぶりをふった。ちがう、私はべつに恋なんかしてない。ただ彼の友だちになりたいだけだ。ただ、会えればいい。会ってほんのすこし口がきければいい。とにかく私はいまここをでたい。これ以上の息苦しさには耐えられない。

 出かけよう。

 発作的に夕子は決意した。ここからガーデン・ブリッジまでは約一キロ、歩いて二十分もかからない。いまは午後十一時二十分。花園の門限は午前一時。まだまだ時間はある。実家暮らしのときとちがい、それだけは便利だ。

 問題は、麗生にばれたときのことだ。脱走したなどと思われたら万事休すだ。夕子は必死に小さな脳みそをしぼった。弁解できるような格好でいくしかない。そうだ、物置部屋にはバスルームがないから一階のシャワー室にいくということにしよう。もし下におりる途中でだれかにきかれたら、そうこたえるとしよう。

 夕子は着がえと石鹸を用意して、ドアに手をかけた。

 夢中だった。一刻も早く部屋を出たかった。

 ふるえる手でドアをひらき、耳をすました。なんの物音もしなかった。廊下に人の気配はなかった。夕子は物置部屋をでた。

 しのび足で階段をおりる途中、三間広子に出くわして動悸がはげしくなったが、別になにもきかれなかった。

 夕子は泥棒のように花園をあとにした。


 藍色にそまった河が波うっているのも、河むこうから午前零時を告げるチャイムがきこえたのも、一週間前と変わらなかった。ちがうのは、あの晩とちがって空が雲におおわれて月がないことと、あの人がいないことだった。

 夕子は蘇州河岸につくなり目を皿にして李龍平を探した。ガーデン・ブリッジのたもとにもいった。橋は渡らず、この前ふたりでいたあたりを、しきりとうろついた。

 けれど、あの人の姿はどこにもみたらない。

 河むこう――南岸にいけば、いるかもしれない、と思う。ガーデン・ブリッジを何度も渡ろうとした。けれども、そのたびにどうしても足がすくむ。未知の世界にひとりでふみこむ勇気がたりない。親にいいきかされた言葉が邪魔をする。自動車が次々と橋をこえていくのを見送りながら、夕子は一歩がふみだせずにいる自分をどうしようもできなかった。

 しかたがないから、先週あの人とふれた欄干にもたれている。ふっと彼があらわれるかもしれないと期待して、なんのあてもなく待ちつづけている。

ここに立ってからもう三十分以上がたった。午前零時を告げる江海関(税関)のチャイムはとっくに鳴りやんでいる。

 ガーデン・ブリッジは一週間前の土曜と同じようににぎわっていた。若い男女が仲良さそうにそばをとおるたびに孤独がつのる。先週のいまごろは、私だってあの人と――。出会いのきっかけは、あの人が車夫にからまれている私を助けてくれたことだった。――そうだ、もしもまた、からまれたなら。

 夕子は突然暗いほうへ歩きだした。おそわれたら、またあの人が助けにきてくれるかもしれない。そんな期待を抱いたのだった。

 いつしか夕子は電柱の前にきていた。闇がいちだんと濃い場所だ。客待ち車夫たちがたむろしている。そばによってきた娘をみて、野生動物のように目を光らせた。

 雨気をはらんだ風が頬をなでる。街路樹がざわざわと鳴っている。そのとき、男のどなり声が夕子の耳をうった。

「なんでえ、えらそうに」

 日本語だ。

「欧米人なんか怖かねえんだ。気どりやがって、根性が腐ってんだ、腹黒が」

 ふりかえるとサラリーマンらしき日本人が酔眼であたりをねめまわし、ネクタイをふりまわしている。

「へん、かかってこい。こちとら日本男児だぞ。やい、体が小さくたってな、ニッポン人は百戦百勝。あの橋も、そのビルも、いまにみんな日本のものになるからな」

 いばってはいるが、丸めがねはずりさがり、ズボンからはシャツがはみでている。そもそもいくらいばったところで日本語がわからない欧米人にはなにも通じない。またジャパニーズが酔っぱらって騒いでると思うだけだ。実際みんな大軽蔑の顔でよけている。日本人はどうして昼間は礼儀正しいのに酒が入ると往来で暴れだすのか、欧米人はもとより、どんなに酔っても一歩外にでるとしゃんとする中国人にも理解不能だった。

 夕子も理解できなかった。だから軽蔑の目でみた。みっともない。ああいう日本人は恥さらしだ。そう思っていると、酔眼につかまった。

「なに見てんだ」

 中年男は酒臭い息を吐いて近よってきた。夕子をじろじろなめまわすようにみて、酔っぱらいのくせに夕子が日本人なのをみぬいたらしく、

「女のくせに、何時だと思ってんだ」

 と、いったかと思うと、

「野鶏だな。このニッポンの恥さらしが! おまえみたいのがいるから日本人がバカにされるんだ」

 と、罵声をあびせた。夕子を野鶏とかんちがいしている。それにはもとより腹が立ったが、いまはそれよりも龍平さんがきて助けてくれるかもしれない、という期待のほうが高まった。この酔っぱらいは一秒後には、一撃のもとに倒れているかもしれない。

 だが、この日本人は倒れることも、殴られることもなかった。それどころか、

「腹を切れっ」

 突拍子もない言葉を夕子にあびせた。折り悪く雨が降ってきた。蘇州河におちる水滴が大きい。

戎克や 板は幌をかけだしている。雨脚はすぐに強くなった。路上の人びとも屋根を求めて散っていく。客待ちだった黄包車はかき入れどきとばかりにたちまわりだした。夕子はどさくさにまぎれ、男から逃げるように歩きだした。

「逃げんのか、この卑怯者がっ」

 酔っぱらいに雨は関係ないのか、うしろからどなってくる。

「非国民、非国民っ!」

 声はしだいに遠ざかりつつあったが、一歩ごとに怒りがつのった。見知らぬ人間にむかって腹を切れとはなにごとか。いくら酔っぱらいでも許されない。あの親父は私を不満のはけ口にした。どうしてここにきてまで、そんな目にあわなくてはならないのか。私は李龍平さんに会いにきたのに――。夕子は雨の冷たさも感じないほど腹が立ってきた。

「ばか親父が」

 思わず口にだしていった。

「なにが非国民だ。卑怯者は自分だろうが。自分に腹立てりゃいいのに周囲にあたりくさるアホが」

 勢いあまって、なにかを蹴ったが、それにも気づかないほど頭にきていた。蹴ったのは、歩道にうずくまっていた乞食の子どもだった。その子どもは、蹴られても泣きも叫びもしなかった。ただじっと雨にうたれ、夕子の靴をみつめていた。夕子は自分がさっき悪態をついた「アホ」と同じ行動をとっているとも気づかず、がむしゃらに歩きつづける。

 服がぐっしょりぬれたころ、さすがに我に返った。道もあとすこしで行きどまりになる。その先の溝は虹口クリークだ。わたれば花園にいたる道にでる。

 寒い。さすがにまだ五月だ。顔をぬぐうと、街頭の下できらきらと宝石のように光る雨粒が目に入った。思わず天を仰ぎ、夕子は心のなかで問いかけた。

 ――神さま、今夜あのひとは、ほんとうにあらわれてはくれないのですか?

 雨粒を全身でうけとめ、祈るように天空をみあげた。そのときだった。

視界の上部が青色で覆われ、頭をたたく雨がやんだ。いや、雨はやんでいない。青色の切れ目からは雨粒が糸をひいてしたたりおちている。青色は傘の布だった。だれかが傘をうしろから夕子の頭上にかざしたのである。

 鼓動が早まった。夕子は頬を紅潮させ、目を輝かせてふりかえった。

 その目はしかし一瞬で凍りついた。

 最初に目に入ったのは、毛むくじゃらの手だった。傘を支えて立っていたのは、見知らぬ中年男だった。

「だいじょうぶですか、ずぶぬれですよ」

 男は日本語でいった。といってもさっきの酔っぱらいではない。風格のある人物に感じられた。しかしなぜ私が日本人とわかったのだろうと夕子は警戒し、まともに顔をみることができない。

「若いおじょうさんがこんな遅くに、危ないよ」

 男はそういって、狭い傘のなかで一歩近づいてきた。

 夕子は露骨に顔をしかめ、逃げだすすきをうかがった。すると男は、

「わかんないかな、私がだれか」

 おし戻すようにいった。なれなれしい物売りのような語調だったが、ふしぎといやらしさはない。

「私をみて。おぼえがあるはずだから」

 おそるおそる夕子は目をあげた。

 息のとどく距離にあったのは、日本人とはとうてい思えない顔だった。国籍不明の、東南アジア系にもアラブ系にもラテン系にもみえる、あぶらぎった濃い顔である。やたらと太い眉、たぬきのように大きな垂れ目、それはいいが、鼻の下にはハの字にはねあがった十九世紀の遺物のようなカイゼル髭、顎の下には中国古代王朝の遺物のような髭。とにかくよくいってエキゾチックでエキセントリック、悪くいえばうさんくささ満点の顔であった。

 そんな顔におぼえがあるはずがない。ところが、どこかでみたような気がした。どこだったろうと首をひねったが、思いだせない。

 すると男は夕子の心を読んだようにニヤリとして、

「魔術師アレーですよ」

 と、声を笑わせていった。

「・・・・・・」

 夕子は目をみはった。たしかに魔術師アレーだ。目の前の顔は、新聞やポスターでみた顔に一致した。トレードマークの民族衣装ではなく、スーツを着ているから、すぐにはだれだかわからなかった。

 アレーといえば、いま破竹の勢いの魔術師だ。一か月前、富裕層相手にはじめたショーがきっかけで華界の実力者に気に入られ、上海で勢力を得ている。

 その過去が謎に包まれているにもかかわらずだ。今年4月に上海にあらわれるまで、彼は欧州、中東、チベットの寺院や僧院を渡り歩いていたとか、各地で魔術を身につけたとかいわれているが判然としない。出生地もわからず、東欧の私生児だとか、中東の職人の息子だとか、さまざまの説がとびかっている。

 だがそういった謎がかえってアレーの神秘性を高め、魔術師として成功させていた。庶民の人気も得ている。

 夕子はうさんくさいと思っていた。ショーも一度もみたことがないし、みる気もない。この前西和舞台の宣伝をきいて「偽善者め」、「毎回毎回宣伝ばっかり派手にしくさって。くだらんショーにくだらん予言」とののしったぐらいだ。

 だからいま声をかけられても、驚きこそしたが、けっしてよろこびはしなかった。むしろ不愉快だった。突然学校の先生みたいに注意してきて、こっちを若い娘とみてなめている、と思った。実際アレーはえらそうだ。できるなら文句をいいたかった。しかし夕子は心とは裏腹に卑屈な態度をとることしかできなかった。気づいたら、媚びるようにこんなことを口にしていた。

「アレーさん・・・・・・日本語、お上手ですね」

「日本語を話す機会ができて光栄です」ニヤッと笑ってアレーは次の言葉を口にした。

「江田夕子さん」

 ぎょっとした。

「どうして私の名前を・・・・・・」

 夕子は全身が硬くなるのを感じた。

「あなたはファイナリストですからね。でも私はそれで知ったわけじゃあない」

「・・・・・・」

「私は魔術師。なにもかも、おみとおしなんです。今日レスター花園でどんな問題があったかも、あなたがどんな危地におちいっているかも」

「え」

 夕子は目をみひらいた。アレーは驚かれることは慣れているといった顔をし、

「私は知ってます」自信たっぷりにいった。

「あなたは合宿所で仲間はずれにされている。あることで不審を招きましたね」

「・・・・・・」

 夕子は耳を疑い、言葉を失った。アレーの言葉はあたっている。いったいどうやって知ったのか。

アレーはすべてをみすかすような目で夕子をみた。夕子は呪縛されたようになった。

「私は魔術師。特別な力がある」

 人の心をとらえる声だった。落ちついた、妙にやわらかい声は若い悩める娘の耳をうった。

「あなたは合宿初日からよくない状況におかれた。しかし私ならあなたを救えます。あなたを変えられます」

 ふしぎにその声は夕子の心をやすらがせた。その声は、いった。

「助けてあげますよ」

 頭の上を雨がたたいていた。

「・・・・・・」

 冷静に考えたらアレーのいうことなど、いくらでも疑えた。魔術師などみせかけで、ほんとうは特別な力などないはずだった。夕子の情報も魔術などではなく情報網を使って仕入れたにすぎないはずだった。だが大きな目に呪縛された夕子は判断力をほとんど失っていた。ただひとつ、ふしぎに思っていった。

「どうして私を助けようと・・・・・・」

 アレーはうすく笑い、

「なぜあなたを特別に助けようとするか、私の家でおこたえしましょう。すべてはそこで。とにかく雨のないところへ」

 そういって、いきなりどこかへ連れていこうとした。

「・・・・・・もうすぐ門限なので」

 さすがに夕子はたじろいで断ろうとした。するとアレーは、

「わかってないな。私は魔術師、門限などどうにでもできる」

 そういって声を荒げた。言葉つきまで変わっている。

「選択肢は二つ。一、いま行くか。二、行かずにいまより不幸になるか」

「いまより不幸になるって・・・・・・どういう意味ですか」

「私の申し出を断ってそのままですむと思いますか」

「・・・・・・」

 夕子の耳から雨の音が消えた。脅されてる、と思った。

「どうせだからいっておきましょう。僕があなたを助けようとするのは、察しのとおり、見返りを求めてのことですよ」

「見返り? それって・・・・・・」

「そんなこわがらずに。僕はただある役割をあなたに果たしてもらいたいだけですよ」

 いつのまに「私」が「僕」に変わっている。夕子はよけいに動揺して、

「役割ってどんな・・・・・・」

 声をのどにつまらせた。アレーは河に目をむけていった。

「あなた、河むこうに行ったこと、ないでしょう。橋のむこうの租界に行ってみたくてたまらないのに、いままで行けずにいる、そうでしょう?」

 そういって今度は夕子の目をのぞきこむようにみた。

「・・・・・・」

「あたってるなら、乗ったらどう。僕の家はフランス租界にある。河むこうにいけるよ」

 気安い口調でいってアレーは片手をあげた。すると丸いヘッドライトがふたつ、ぽっかりと闇に大きな穴をあけて雨を白く照らしだした。黒塗りの自動車が、しぶきをあげてよってきた。三一年型のロールス・ロイスだった。

 夕子はまぶしさに目を細めて、

「でも、私、一時までに・・・・・」

「いったでしょ、門限などは、どうにでもなる」

 運転手が肩で雨をはじきながらあらわれ、後部座席のドアをひらいた。

 アレーはぎろりと夕子をみていった。

「さあ、乗る、乗らない?」

 そのとき夕子の耳に、母親の言葉がよみがえった――「あっちは百鬼夜行の街よ。阿片の匂いでいっぱいの、人殺しが支配しているマフィアの土地よ。あんた、マフィアに身を売りたいの? 悪人にさせられて人殺しになってお母さんたちを死ぬまで苦しめたいの?」

 恐怖がないといったらうそになる。けれど母親を苦しめることに抵抗はなかった。夕子は自動車のドアに足を進めた

 こうしてこの夜夕子は生まれて初めてガーデン・ブリッジを渡ったのである。


 ロールス・ロイスは宵闇に水晶をとかしたような路をすすんでいる。

 真夜中なのに雨にぬれた路面は、ありとあらゆる光を反射して輝いていた。

「これが共同租界とフランス租界の境、アヴェニュー・エドワード七世街」

 助手席のアレーが後部座席をふりかえって自慢げにいった。

 夕子はこたえようとしたが言葉にならなかった。

 車窓におしあてている顔から眉間のしわは消えていた。かわりに、みせたこともないほどの満面の笑みがひろがっている。

 はじめてみる河むこうの世界は想像以上にすばらしかった。

 まるでおとぎの国のようだ。

 両側には灯の船のような西洋建築がうかんでいる。

 どれも宝石の玉をつなげたような光の文字でいろどられている。

 『Four Roses Whiskey(フォー・ロージズ・ウィスキー)』、『British Perfume(ブリティッシュ・パフューム)』、『Le Queen(ル・クイーン)』。

 バス停の屋根の下で金髪の少女が花を売っている、碧眼の靴磨きが雨宿りしている――みんな夢の国の住人のようだ。

 目に入るものすべてロマンチックで涙がでそうになる。まるで私の空想がそのまま現実になったみたいだ、と夕子は思う。この街は私がうみだしたのではないかしらん。そんな錯覚さえおぼえ、まったくすばらしい喜びにおそわれた。すくなくともこそのときは、麗生のことも龍平のことも頭から消えていた。

 赤、銀、緑、茶――種々の車体がきらめいている。自動車の数はますます増えてきた。どうやらみな目指す方向は同じようだ。

 『Le Grand Monde/大世界』というネオンが光っている。

「ダスカだよ、有名な娯楽館ね。大きい世界と書いて上海語でダスカと読む」

 ウェディング・ケーキみたいに豪華絢爛たる建物だ。塔が四階建ての上に四段つみあげられ、電球でふちどられ、燃えるように輝いている。一階の大きな入口は大勢の人でひしめきあっていた。アレーがいう。

「租界は午前零時をすぎてからが本番」

 今度は闇にきらめく蛍籠のような建物がみえてきた。三階建てを飾る電球のひとつひとつが雨にけぶって、蛍の光のようにゆれてみえる。『NANKING THEATER』と屋上に看板があり、アメリカ映画『モロッコ』のポスターがライトアップされている。――映画館だ。

 ゲーリー・クーパーの腕に抱かれるマレーネ・ディートリヒの凛とした微笑に夕子は釘づけになった。私もいつかだれかとあんなふうに・・・・・・夕子はうっとりと思う。だれかとはもちろん李龍平だ。自然と夕子は龍平を思って胸を熱くしている。

 ああ、あのひとはどこにいるのだろう。この近くにもいるかもしれない。彼の会社、上海時報はこの近くのはずだ。四馬路が所在地と名刺に書いてあった。四馬路はアヴェニュー・エドワード七世街に平行した、すぐ近くの大通りということは租界の地図をなんども眺めたことのある夕子は知っている。でもこんな遅くに働いているとは思えない。家にいるかもしれない。彼はどこに住んでいるのだろう。共同租界だろうか、フランス租界だろうか。まだ家には帰ってないかもしれない。帰宅途中でこの辺を歩いているかもしれない。

「いないかな・・・・・・」

 思わず夕子は口にだしてつぶやいていた。するとアレーが、

「なんかいった?」

 と、ふりかえったので、あわてて、

「映画館にすてきな人がいないかと・・・・・・」

 と、ごまかしたが、アレーはすべておみとおし、といったように片目をつぶっていった。

「望みはかないますよ、僕のいうことさえきけばね」


「まさか、本当にあの娘をまともにみるつもりですか?」

 案内された部屋の隣室から、若い女性の抗議口調の英語がきこえた。

 夕子は自分のことをいわれているにちがいないと感じて、おどおどとした視線を隣室との境のドアにむけた。

 ドアは開いている。ただし草色のカーテンがかかっていて、内部はみえない。ただむこうのランプの光をうけてか、横向きの女性のシルエットがうつっている。

 高い鼻、もりあがった胸、ひきしまった腰のライン、長い脚からみて白人らしい。あの女性は、ひょっとしたら先週西和舞台前でショーの宣伝をしていた白人女性ではないかと夕子は思った。

 それにしてもアレーに抗議できるとは、どんな立場にある女性なのだろう。女性の声はとまらない。

「どうみても世間知らずじゃないですか。あの娘に美意識、観察力、知識を問うんですか? 試験するまでもないと思います」

「今回は別。僕の考えだから」

 いまのはアレーの声だ。

「信じられません。魔術師アレーともあろう人があんな娘を」

 「あんな娘」とは私のことにきまってる。夕子はここへきてアレー以外の人間にはまだひきあわされていない。だから女性は、カーテンの隙間からこっそり自分を観察したのだろう。それで否定的な評価をくだされたのだ、と思うといたたまれない、とても室内をゆっくり眺める気にはなれない。

 アレーの自宅というのはフランス租界にできたばかりの外国人用高級アパート、キャセイ・マンションズの四階にあった。

 夕子は応接間に通され、ジョージアン様式の椅子に座らされた。目の前には、よく磨かれた円卓がある。応接間は貴族趣味だった。オレンジ色の電灯の光に、由緒ありそうな装飾品がいくつもうかびあがっている。優雅な気分にひたりたいところだが、女性の声が邪魔をする。

 それにしても「試験」だとか「観察力を問う」だとか、なんのことをいっているのだろう。アレーは私になにか試験でもするつもりなのだろうか。そう考えて不安を増大させていると、隣室の声がふいにやんだ。かわりにゆったりとしたバロック音楽がきこえ、

「お待たせ」

 といってアレーがカーテンからでてきた。足どりがはずんでいる。いままで女性に文句をいわれていたようにはとてもみえない。にこにこして夕子のむかいの席に座った。そのようすに夕子はかえって不審を抱き、身がまえた。

「あなたにやってもらいたいってことはね――」

 はたしてアレーは唐突にきりだした。

「スパイ探し。合宿所のファイナリストのなかから探してほしいんだ」

「・・・・・・!?」

 夕子は自分がなにをいわれたか、よくわからなかった。するとアレーは笑いを消していった。

「もう一度いう」

 円卓に身をのりだし、夕子に顔を近づけた。

「だれがスパイか、あなたに探ってもらいたい」

「・・・・・・?」

 私がスパイを探る? 「スパイ」という言葉の衝撃が強すぎて、それ以上の理解を夕子の頭は拒んだ。スパイとは、どんなスパイか、考えるよゆうはもとよりなかった。

 心を落ちつかせようと、足の指をぎゅっとおりまげて円卓の表面をみつめた。卓上に寝かせてある短剣が目に入った。ぎょっとしてかえってどきどきして、なにかいわずにはいられなくなって、いった。

「なんで私・・・・・・なんですか」

 アレーはニヤニヤし、髭をしごいていった。

「なぜあなたに依頼するか、気になる?」

 夕子の目をのぞきこむと、返事を待たずにいった。

「よし、いおう。あなたは自分を低く評価してるだろうけど――光るものがある。わかる人間にはわかりますよ。ふつうの人間にはみぬけなくともね」

 卓上の水晶をわしづかみにして、こすり、

「玉磨かざれば器を成さず。僕は才能ある人たちと数多く接してきたけど、みんなはじめから光ってたわけじゃなかった」

 そういうと顔を壁にむけて、きいた。

「そこに飾ってある写真と本、みた?」

「え、えっと・・・・・・」

 夕子がきょろきょろすると、アレーは顔をしかめていった。

「待ってる時間なにやってたの。ここに飾ってあるのは、みんな僕の親しい友人。みてどれがだれだかわからない?」

 額縁におさまっているのはフランス出身の前衛画家アンドレ・クロウドの絵、上海工部局交響楽団のイタリア人指揮者マリオ・パーチの写真、ファッションデザイナー蒋梅美のサインなどであり、下の棚には劉吶鴎や魯迅、フランス語や英語の本の背表紙がところ狭しとならんでいた。

 夕子にはみてもわからなかった。わかったふりをしてうなずくのがせいいっぱいだった。それと察してアレーは舌をコロッと鳴らし、

「あなた上海に何年いた? 四年もいたら知ってて当たり前の人ばっかりだよ。僕なんかはまだ上海にきて一か月だけど、もうみんな深く知ってますよ、変な意味じゃなくてね。各地で修業してきたことが生きてる。パリでもいろんな人をみてきた、無名時代のマン・レイもマレーネ・ディートリッヒもね。だからあなたの心だってひと目みたらわかりますよ。――僕のこと、『うさんくさい』と思ってるでしょ?」

 夕子は目をそらした。

「いいいい、『うさんくさい』と思われてるのは承知の上だから。だけど、いっておく。僕にはウソは通用しない。なんでも正直にいわないと損するよ」

 そういうとアレーは今度は目を奥にむけていった。

「それよりこれから、あっちに移動してほしいんだ。カウチがあるだろ。あおむけに寝てくれるかな。試験をするから」

 毛むくじゃらの指が真紅のカウチをさしている。夕子は動悸を激しくして、

「試験って・・・・・・なんの試験ですか?」

「あなたの才能をたしかめる試験。質問にこたえてもらうだけだよ」

 そのあと夕子は説得されて、奥のカウチにあおむけになった。

「しばしお待ちを」

 アレーは準備のためか、いったん隣室にいった。また女性になにかいわれているのがきこえた。だが今度は小声でほとんどききとれなかった。それに部屋には電蓄の音楽が流れていた。バッハのチェンバロ協奏曲だ。第四番から第五番にかわったとき、アレーの声が大きくなって、

「まあ見ててよ、質問のこたえをきけばわかるから」

 というのがきこえた。と思うと、

「お待たせっと」

 といって戻ってきた。なぜか燭台をささげている。燭台はカウチのそばにおかれた。

「では、はじめます」

 アレーがいったとたん、部屋の電灯が消えた。真っ暗になった。かわりに蝋燭の火がみえだした。

「くつろいで」アレーが耳もとでいった。眠りを誘うような、やわらかい声だった。

「手足の力をぬいて、体も心も楽にして・・・・・・」

 柱時計の振り子が蝋燭の火にぼんやりとうかびあがった。振り子が右に左にゆれている。

「あなたはいま、とってもいい気分、宙にういている気分、そう、空にぷかぷかうかんでいる・・・・・・」

 夕子は目をとじている。チェンバロの音はもう耳に入らなかった。

「あなたは僕にウソはつけない、なんでも正直に答える・・・・・・」

 夕子は催眠状態におちた。アレーは質問を開始した。

「あなたの長所は?」

 夕子は目をとじたまま、いった。

「思いつかない」

 大きい声だった。夕子がふだん他人にしゃべるときとはまったくちがう。

「では、あなたの短所は?」

「ぜんぶ」

 さっき以上に強い口調だった。アレーは就職の面接官のように質問ををつづけた。

「これまでで最もたいへんだった経験はなんですか?」

「そんなの、ひとつにしぼれない。いつもたいへんだから。でもやっぱり一番大変なのは邪魔が入るとき」

「邪魔とは?」

「いままでで一番迷惑だったのが関東大震災。当時私は日本に住んでて九歳だったけど、よくおぼえてる」

「被災したんですか」

「巣鴨の家は無事だった。それに東京にはいなかった。祖父の七回忌があったから、家族全員で大阪にいた。東京には翌日、九月二日に帰る予定だった。でも東京行きの電車がとまったから、母親が騒ぎだして、私にあたりちらした。それ以来母親を憎んでる。あの日、九月一日に母親だけ東京にいればよかったのに。そしたら死んでたかもしれないのに」

 このおそろしく非情なこたえをきいてもアレーはあきれるどころか目を輝かせた。手ごたえあり、というような顔をしている。

「あなたはどのようにして人と親しくなりますか?」

 語気に熱をこめてアレーはきいた。

「自分から話しかける。でもそれは私の気に入る人間にかぎる。そんな人間はめったにいない。この世のほとんどは私の気に入らない。だから親しくなるもなにもない」

「あなたが気に入らない人間とは?」

「女は基本的にだめ。特に苦手なのは同世代。それも猫かぶり。貪欲なくせに気どってるのや、俗物のくせに高尚ぶってるの。ひとことでいってプライドの高い女。自分が人よりすごいと思ってて、自分がバカだってことに気づいてない」

「男性はどうですか?」

「親父は臭いし、若い男は格好つけるから気に入らない」

 夕子の偏狭ぶりをたしかめるようにアレーは次々と質問を発した。

「あなたが好きな季節は?」

「ない。あえていうなら冬」

「秋は好きじゃないんですか?」

「嫌い。晴れると絶好の行楽日和とかいって、凡人どもがうかれるから」

「晴天が好きではないんですか?」

「嫌い。みんなが元気になって、雨や曇りの日より、うるさくなるから。特に雨がつづいたあとの晴天。主婦どもがここぞとばかりに洗濯をしたり買い物したり、立ち話ししたりしてるのをみると、いらいらする。真夏はまだいい。晴れると暑さが人びとを攻撃してくれるから、昼間は静かになる」

「では雨の日は好きですか?」

「嫌い。暗いし、ぬれるから」

「曇りの日は?」

「嫌い。雨の日同様、昼でもうす暗くて電気をつけないと屋内じゃ文字も読めないし、電気をつけたらつけたで目がチカチカするから」

 偏狭なこたえの連続に、アレーは大満足の表情をうかべた。最後にある写真をさしだして、きいた。

「この写真をみて、なにを思いますか?」

 すると夕子は目をあけた。眠ったような目が写真をみるなり、憎悪の目に変わった。その写真はどこかの家族写真だった。幸せそうな親子がそろって微笑んでいる。

「虫唾が走る、破りたい」

 その声をきくなり、アレーはうれしげに、

「うしししし」

 と奇妙な笑い声をたてると、夕子を完全に眠った状態にさせ、息をはずませて、

「足湯、足湯」

 と、いって隣室に入っていった。まもなく隣室から白人女性が湯をはった盥を運んできた。その盥に夕子の足をつけるようたのむと、

「きいただろ、今の問答」

 と、白人女性に話かけた。こたえはかえってこなかった。白人女性は床で黙って手をぬぐっている。アレーはかまわずひとりでしゃべった。

「一般的な質問でもあのざまだからなあ」

 興奮が顔にあらわれている。

「とにかくネガティブだよ。なんでもマイナスに考える力にかけちゃ相当なもんだ。伸ばしようによっては十分に使える」 

「へえ」

 女性は立ちあがり、冷たい目で寝ている夕子をみおろした。

「僕にいわせりゃ、彼女は愛情に見放された子どもだよ。小さいころからバカにされてきたから、周りはみんな敵とみなして自分しか愛せない。自己中心的で他人の気持ちは知ろうともしない。憎悪をためこんできたから悪口と愚痴が大得意。それが彼女の長所」

「短所のまちがいですよね」

「わかってないなあ。必要な器を用意すれば、長所として生かせるんだよ」

 女性は青い顔をむけていった。

「やっぱり、やるんですか。この娘に・・・・・・あれを」

「やるよ」

「本気で? 本気でこの娘を・・・・・・変身、させるつもりなんですか?」

 にわかにアレーはうるさそうな顔をしていった。

「わかってんなら、さっさと用意してくれよ。あれを」

 女性は動かなかった。アレーは態度を変え、やさしい声で、なだめすかすようにいった。

「だいじょうぶ。この娘に真実はいっさい知らせない。政治的なことはぜんぶ隠してコマに使うだけだよ」

「真実を隠すのはあたりまえです。私がいってるのは、そんなことじゃない。この娘の能力をいってるんです。だってコミュニケーション能力ゼロですよ。それでどうやってコマになれるんですか」

「ぐだぐだうるさいな」アレーは癇癪をおこした。

「もういいよ、僕ひとりでやる。あなたにはもう、なにもたのまない」

 プイと横をむいたが、女性はなれているのか平然といった。

「じゃ私は手を引きます」

 アレーのほうが狼狽して、

「ごめんごめん、悪かったよ。まったくボアンカにはかなわない。おかみさんみたいなんだから。二十六歳とはとても思えない」

 ボアンカと呼ばれた白人女性はアレーをにらむようにした。

「そうカリカリしないで。ね、お願いだから」

 アレーはボアンカの手をとって機嫌をとる。

「あなたのいうとおり、この娘は愚かだよ。彼女は自分にしか関心がない、周りなんか全然みてない。僕の顔だって一度もまともにみてない。僕のかわりに別の人間がここにいても、同じ服をきてたら、僕じゃないってことに気づかないだろう。はっきりいって彼女の観察力はゼロ」

 ボアンカの目が笑った。アレーはここぞとばかりにいった。

「知力もゼロにひとしい。だからこそ利用できるんだ。バカは使いようによっては、すばらしい操り人形になる」

「わかりました」

 ボアンカはいった。だいぶ機嫌を直したようすで、いわれたとおり隣室に行き、しばらくしてから盆に茶をのせて戻ってきた。緊張した面もちで、手のふるえを必死でおさえていたが、カウチに帰る途中一度バランスをくずしかけ、盆がかたむいた。

「おっと気をつけて。金では買えないものだからね」

 アレーは叱った。それが無事運ばれるまで、一瞬たりとも目をはなさなかった。

 盆はカウチの横の棚におかれた。ふたつの茶杯(日本でいう湯のみ)が盆の上で湯気をたてていた。

 アレーはボアンカに礼をいってさがらせると、深呼吸をして神経をとぎすました。そして茶杯を手にとると、獰猛そうな指に似合わない優雅なしぐさで湯気を鼻にたぐりよせ香りを確かめ、寝息をたてている夕子のくちに一滴ずつ黄色い液体を流しこんでいった――。

柱時計が午前一時をうった。室内にはなにも変化がないようにみえた。

 だが、赤いカウチの上では静かな変化がおこっていた。

いま、江田夕子の身になにかがおこっている――。


 目をさましたとき、夕子は左手に手鏡をにぎらされていた。一瞥するなり口をほら穴のようにあけて、食いいるようにのぞきこみ、

「これ、鏡・・・・・・?」

 といった。その声がたしかに自分の口からでたのに、きいたこともない声だったので、目だけでなく耳も疑った。

「私の顔じゃないし、私の声じゃない・・・・・・」

 するとアレーがいった。

「声はあなたの声、鏡に映ってるのはあなたの顔」

「ちがう、私のじゃない・・・・・・」

 きいたこともない、きれいな声が口からでる。それより鏡――どうみても信じられない。

 そこに映っているのは、どうみても夕子ではなかった。くっきりとした二重瞼、高い鼻、花のような唇、かたちのいい顎、ほっそりとして長い首。まるでちがう、顔のどこをとっても自分ではない。

 別人だ。

 にもかかわらず、鏡のなかの顔は、夕子がまばたきすればまばたきし、手を顔にあてれば手を顔にあてた。しかも感触は、夕子のそれではなく、鏡の顔のものに一致した。

「これはいったい、どういうこと・・・・・・」

「もっとほかにも驚くことがあるだろう。全体をみてよ全体を」

 アレーにいわれ、自分の体をみた夕子は目をみひらいた。驚愕のあまり手鏡を離して立ちあがった。

「うそ」

 胸が大きくなっている。ブラウスがはちきれんばかりだ。脚も長くなっている。

「どう、気に入った? 僕の魔術」

「・・・・・・」

「あなた、外見に劣等感をもってたでしょ。ちょっと変身させてあげた。朝飯前の魔術だよ」

 そういって夕子を全身鏡の前におしやった。

「ようくみて。自分がどれだけ美しくなったか」

「・・・・・・!」

 夕子は思わず嘆息した。

銀幕からぬけだしたような美女が、鏡に映っていた。頭は小さく卵形で、瞳は切れ長できらきらと黒曜石のように輝き、腰は蜂のようにくびれ、手足は細長く鞭のようにしなっている。

 すばらしい顔、すばらしい体型。どんな優れた整形技術をもってしてもなしえない変化だ。

 髪型も変化している。耳までの断髪にパーマネント・ウェーブ。あれほどいやがっていたパーマネントだけど、こうしてみると悪くない。悪くないどころか、うっとりする。

 この顔と体なら、なにをしてもさまになる。地味な服だってすてきにみえる。仏頂面や猫背だって絵になる。

 そんな顔に生まれ変わりたいと何度思ってきたかしれない。いま、それが現実になっている。――いや待てよ、と夕子は思った。これが現実という保証はない。魔術師アレーのやることだ、変身したとみえるのは単なるトリックかもしれない。

「ほんとに魔術で変身したんですか」

 アレーはその問いにはこたえず、いった。

「持続時間は十二時間。十二時間たつと、自動的にもとの姿に戻る。お望みなら、いますぐ戻すこともできますよ。それ用の魔術で」

「すぐ戻りたいわけじゃ・・・・・・」

 夕子がいうと、

「それなら、こっちへ」

 アレーは夕子を円卓に座らせて、

「実はあなたの変化はこれだけじゃないんですよ」

 そういって中国語新聞をみせた。

「どこでもいいから声にだして読んでごらん」

「私、中国語はできません」

 英語で拒否する夕子に、

「いいから」

 アレーはひらいた紙面をつきつけた。夕子は仕方なくみた。文字を目にいれた。するとふしぎなことに内容がするすると頭に入ってくる。気づいたら声にだして読んでいた。

「銀華デパート会長巧月生氏の家廟落成式が八月二十二日に行われることがきまった・・・・・・」

 以上のような文章を夕子は中国語で読んだ。一度も勉強したことのない発音が、口からすらすらとでてくるのだ。それも自分のではない声で。

「どう?」アレーがニヤニヤしていった。

「これも僕の魔術、理解できない言葉を理解できるようになる。いまから十二時間、あなたは母国語同様に北京語が使えます」

「・・・・・・」

 けおされている夕子に、アレーはふいにあらたまった調子でいった。

「江田夕子さん。あなたが僕の依頼をひきうけてくれるなら、以下を約束しましょう。一、あなたを変身させること。 一、資金を提供すること」

「え?」

 唐突すぎて、なにをいわれたのかよくわからなかった。

「僕にはいつでもあなたに夢の時間を提供する用意がある、といってるんです。ミス摩登コンテストの合宿期間中は、僕の手にかかれば、美貌もお金も思いのままになりますよ」

 夕子は唾をのみこんだ。アレーのいった意味をよく考えようとした。それからいった。

「依頼をひきうけたら、私はこの姿で合宿所に行けるんですか」

「それは、できません」

 アレーは言下に否定した。

「でもいま、『思いのまま』って・・・・・・」

「ええ、合宿所以外でだったら、すべて思いのままにはからいます。美貌も贅沢もなんだってあなたに提供します。それが依頼の報酬ですから。僕がたのみたいのは、江田夕子さんにしかできないことです。それも合宿所でなければできないことなんで」

「それって、さっきいってたことですか」

「そうです、合宿所でスパイを探してもらいたいんです。スパイはファイナリストのなかにいます」

「スパイ・・・・・・ほんとにいるんですか。なんのスパイですか」

 アレーはそれにはこたえずに、

「だいじょうぶ。スパイ探しといったって、たいして難しくはない。ある印をひとりひとりにみせて、その反応をみるだけですよ」

「・・・・・・」

「スパイなら、その印をみれば、必ず反応する。もっともすぐに反応をみせるとはかぎらない。ある程度時間をおいてからということも考えられる。だれがどう反応するか、合宿期間中とおして、みる必要がある」

「反応ってどう・・・・・・」

「いろいろ考えられる。小さな反応から大きな反応まで。あなたへの攻撃というのもありえます」

「え」

「スパイは自分の身を守ろうとする。最悪あなたを排除しようとするかもしれない」

「排除・・・・・・」

 夕子の美しい唇が白くなった。

「いずれにしても依頼を実行すれば、合宿所での江田夕子さんはいま以上に、不安定な立場におかれることになります」

「そんな・・・・・・話がちがう、と思います」

 夕子は美しい瞳をアレーにすえていった。

「私は合宿初日からもう苦しんでます。それを救ってもらえるときいたから、ここにきたんですけど」

「誤解があったのならあやまります。だけど『あなたを救えます。あなたを変えられます』といった僕の言葉にうそはありません。合宿所以外の場所ではあなたに富と美を約束します」

「・・・・・・」

 夕子の顔に迷いが生じたのをみて、アレーは口の端に笑いをきざんでいった。

「こんないい話はないと思いますよ。やることといったら、印をみせて反応を待つだけ。期間は四か月あるから急ぐこともない。考えようによっちゃ楽なもんだよ」

「でもなんで私に・・・・・・」

「どうして江田夕子さんに依頼するか。さっきもいったけど、まだききたい? じゃ教えてあげよう」

 アレーはパイプをつかんでいった。

「スパイってのはね、つねに構えてる。特に手ごわいとみなしてる相手の前では、隙をみせることはありえない。手ごわくなくても、自分と対等以上の人間の目があると思われる場では、気をぬけないようになってる」

 パイプに火をつけた。

「でも見下してる人間にたいしてはどうか? 眼中にない人間にたいしてはどうか?」

 煙を吸い、吐きだした。

「正直な反応をみせるものだよ。こういっちゃ悪いけど、あなたは幸か不幸か、ファイナリストたちに見下されている。あなたならスパイを油断させられる。そこをみこんでの依頼ですよ」

 煙に目を細めて夕子をじっとみつめた。

「あの、スパイってどんなスパイなんですか。どうしてみつける必要があるんですか」

 夕子はあらがうようにいった。

「フフ・・・・・・それはいえませんよ。依頼をひきうけてもらわないと」

「でも、そのスパイって、魔術でみつけられないんですか」

「見当はついてますよ、だれがスパイか」

「だれですか」

「だからそれは依頼をひきうけたらいいます」

「・・・・・・」

「ひきうければ、得るものは大きいと思いますよ。苦しいのは合宿所内だけ。外ではあなたは別人となって羽をのばせるどころか、美しさを武器になんでも思いどおりにできるようになる」

「でも・・・・・・。合宿所でこれ以上つらい思いをするのは・・・・・・」

「いいものを紹介しよう」

 魔術師は立ちあがって窓をあけた。雨音のむこうから、ワルツの調べがきこえてきた。

「ごらん」

 手招きされ、いわれるままに、夕子は窓ぎわにならんで立った。宵闇に皓々とした灯がみえた。みおろすと、とおりのむこうにローマの神殿のような建物がうかんでいる。白亜の二階建てでどこまでも奥行きがある。

「フランス・クラブですよ」

 アレーは鼻をうごめかしていった。 

「上流階級のための社交場としてつくられた。フランス人にかぎらず、蒙古の王女やアメリカ領事なんかも出入りしてます。土曜の夜はいつもあのとおり」

 二階が燦然と輝いている。巨大なガラス窓は長方形で上が半円になっている。琥珀色の灯光とともに、笑い声やステップの音がもれている。

「あのなかは、とにかく広くて豪華。ダンスホールだからね。天井にはびっくりするぐらい巨大な楕円の宝石みたいな照明があるんですよ、その照明がアールデコ調のステンドグラス」

 アレーの声はうたうようだった。夕子はいつしかうっとりと耳をかたむけている。

「そのステンドグラスがこう、外からみても想像できると思うけど、アイスティーのような光をフロアいっぱいにそそいでるんだな。いや、ダンスホール全体が、氷とレモンごとかきまぜられるアイスティーのような色に変わるといったほうがいいかな」

 その色を適確に思い描けたとはいいがたいけれど、夕子は魅了された。憧れの目をきらめく建物にむけた。

「あれだけの建物と敷地だから、ほかにもいろいろある。レストランはもとより、プール、ボーリング場。イギリスのクラブとちがって、女性でも中国人でもその資格があれば会員になれる。あなたもなれる。その気になりさえすれば」

 アレーはささやいた。

「あちらの人間になりたくはないか? その美しい体にきらびやかな衣装をまとって華やかな世界にでたくはないか?」

 夕子の耳から雨の音が消えた。

 アレーはささやく。

「上流社会に入りたくはないか?」

 耳にワルツの音がいっぱいにひろがる。上品なさざめきが、高級グラスのかちあう音がきこえる。

「僕の魔術をもってすれば、あなたにその気さえあれば、夢を現実にできる」

「でも、私なんて・・・・・・きれいになっても中身が・・・・・・人見知りで話下手ですし・・・・・・」

 夕子は否定した。だがその語気は弱かった。

「だいじょうぶ。あなたの内なる才能を磨けば」

 アレーはいった。

「内なる才能?」

「たとえば、あなたは小山内千冬が好きかな?」

「・・・・・・いえ」

 きょとんとこたえる夕子に、

「僕も嫌い」と、アレーは同調して悪口をいった。

「小山内千冬は予選で何度かみたけど、中身がないね。変に甲高い声で笑ったり、いつもだれかに媚びをうったり、うるさいだけだよ」

 思わず夕子は目を笑わせた。自分以外の人間が千冬の悪口をいったのが、うれしくてたまらなかった。それをみてアレーはすかさずきいた。

「あなたはどこが気にいらない?」

 夕子は言下にこたえた。

「えらぶってるところです。伯父が将軍だからってエライ気でいる。女学校時代よくお嬢様風を吹かせてたけど、品性のかけらもない。強い人間には媚びるけど、弱い人間には目もあてられない行動をするんですからね。小悪魔とかいわれていい気になってるけど、私にいわせれば本物の悪魔ですよ」

 すらすらと一語もつかえることなく、いった。

「ほら、しゃべれる」アレーが手をたたいた。

「あなたは悪口になると立て板に水。声も大きくなって滑舌もよくなる。ふだんは話せないあなたが能弁になる。悪口はあなたの才能ですよ」

 いわれてみれば思いあたった。夕子は恥らって頬をそめた。

「自信をもったほうがいい。あなたの才能を、その姿で生かすべきだ。江田夕子ではむりでも、その姿でなら、できないことはない」

 夕子は全身鏡に目をやった。映った姿をくいいるようにみつめる。

「依頼をひきうければ、その姿はあなたのものです。しかし断れば、その美貌とは永遠のお別れ、いままでどおり江田夕子として不幸な生活を送るだけです」

 アレーはカーテンをしめた。

「さあ、うけるかうけないか決めてほしい」

 目を光らせ、せまった。

「人生最大のチャンスを逃がすも逃がさないも、あなたしだい」

「・・・・・・わかりました」

 夕子は観念したようにいった。

「ひきうけます」

「よし」

 毛むくじゃらの手が夕子の前にさしだされた。アレーは握手を求めた。夕子がおずおずと自分のではない白い手をさしだすと、その手をかたくにぎって、

「よしよし」

 と、アレーはしきりとくりかえした。その瞬間、夕子はふしぎと安心感につつまれた。あたたかい手の感触がそうさせたのかもしれない。ここにきて新しい保護者をえたような、このマンションの一室がこれから自分の居場所になるような、そんな気がした。

「わが新人に、さっそく名前をつけてやらなきゃな」

 アレーはにこにこして書き物机にむかった。そして一枚の紙をとって円卓に戻ってくると夕子にみせていった。

「ここから好きな名前、選んでよ」

 「香蓮、花蓮、玉蘭、木蘭」等々、紙面にならんでいるのは、どれも中国名だった。

「日本名じゃ、だめなんですか」

「せっかく変身してるんだから、中国人ということにしたほうが楽しいし便利だよ」

 そういうものかと納得して、夕子は深く考えもせず、「白蘭」という文字をきれいな爪でさして、

「じゃあこの、バイランで」と北京語読みで読みあげた。

「上海語読みだとバーレイね。名前は決まりと。国籍は中国と」

 いつのまに用意したのかアレーは履歴書のような書類をひろげ、名前の欄に「白蘭」という文字をを鷲ペンで埋めると、映画会社の人間が新人女優の経歴を作るような調子でいった。

「特技はなんにしとく? なんでもひとつ。江田夕子さんにできないことでも、その姿に変身したら特技になるように魔術でできるからさ」

 そういわれても夕子はおおいに戸惑ったが、とっさに、

「簫」

 とこたえた。簫とは中国の笛である。女学校時代に音楽の授業で知ったものだ。

「なるほど、簫ね」

 アレーはあっさりとうなずいて鷲ペンを走らせる。

「それと簡単な経歴も考えておこっか。くわしくはまたあとで熟慮するけど、すこしでも早めにきめておいたほうがなにかといいから」

 アレーはすっかりはりきって、

「最初は謎にしておくのもいいか、神秘的な女性って思わせて、人をひきつける」

 夕子の困惑などおかまいなしに、とんとん話をすすめる。そうして項目をある程度うめると、

「新人の基本的な心得はボアンカが教えてくれる」

 と、いって、隣室にむけて手をたたいた。すると、

「失礼します」

 声がして、草色のカーテンから白人女性があらわれた。

 顔をみて、夕子はあっと思った。やっぱり、あの女性だ。その人は予想どおり、先週西和舞台前でビラを配っていた人だった。

 ただし雰囲気はそのときとはまったくちがう。このまえは髪をひとつに結い、黒いスマートな服をきていたせいか男性的だったのだが、いまは髪を長くおろし、ワンピースの上に真白なフリルがたくさんあるエプロンを着ているので女性的どころか、すごく可愛らしい感じだった。

「これがボアンカ、僕の助手をしている。二十六歳」

 アレーが紹介すると、。ボアンカは、

「ハーイ、ナイス・トゥ・ミーチュー」

 といって、にこっと笑った。あどけない笑顔である。二十六歳にはみえない。

「ボアンカは英語以外にフランス語、ロシア語ができる」

 アレーが説明した。

「中国語と日本語はできない」

「え、でもこの前、西和舞台で・・・・・・」

 夕子のいわんとすることをアレーは察していった。

「宣伝してたの、きいた? あれは僕の魔術でしゃべれただけ」

 ボアンカは横でうなずいている。

「ちなみに、ボアンカはいま本来の姿だからね。変身してないってこと。でもたまにほかの姿に変身させることもある。とにかく彼女は先輩として今後あなたになにかと教えてくれるよ」

 夕子は頭を下げた。この前ボアンカのビラをうけとらなかったことを思いだして恐縮し、あやまった。

「このまえは・・・・・・すみませんでした」

「え、なんのこと・・・・・・?」

 ボアンカはきょとんとして緑色の目をしばたいた。

「先週ボアンカが街頭で配ってたビラをうけとらなかったことをあやまってるんだよ」

 アレーが横から解説すると、ボアンカはなるほどといった顔をして夕子をみて、

「そんなこと気にしてません。ていうかビラを拒否した人の顔なんていちいち覚えてませんから」

 そういってまた、にっと微笑した。しかし目は笑っていない。じっと夕子を観察している感じがあった。ボアンカはあどけないようでいて、二十代とは思えない落ちつきもそなえていた。三十女のような色気もある。十七歳の夕子からみると、おそろしい、こわい女性にみえた。

 そのとき柱時計が二時をうった。いままで非現実的な事態に心を奪われ、眠気も忘れていた夕子だが、時刻を知ると驚いて、

「あの、門限をもう一時間すぎてます」

 さすがに焦りをあらわしていった。するとボアンカがいった。

「平気ですよ。アレーさんが医師の診断書を用意してくれましたから」

「医師の診断書?」

「そうです」

「僕のつくる証明書にぬかりはない」アレーがひきとった。

「租界のはずれに夜間営業の歯科がある。花園からだと片道一時間はたっぷりかかる。あなたは歯痛のあまり門限前に出発し、そこにかけこんだが、患者が多くて待たされ、治療にも時間がかかったということにすればいい」

「これがその診断書です」ボアンカが渡した。

「今日はもう帰っていい。今後のうちあわせは明日しよう。日曜日だから来られるだろ?」

 ぎらりと光る目をむけられて、夕子はおじけづいて、うなずいた。

「・・・・・・は、はい。雑用係の仕事も日曜日はほとんどないそうですから」

「じゃ、午前中に来て。新人歓迎の意味で租界案内もしたいから。このあたりも夜と朝とじゃ雰囲気が全然ちがうよ」

 アレーは地球儀をまわしながらいった。

「明日朝九時に蘇州河沿いの今日僕が声をかけた場所に立っててくれる? いまから七時間後だけど、若いから平気だな。ボアンカが自動車で迎えにいく」

 ボアンカがうなずく。

「そしたら十時にはここにつくだろ、それからいろいろ打ち合わせしたり、変身に時間がかったりしても、外をまわる時間はじゅうぶんある」

 アレーはいかにも新人をもてなすのが楽しみといった顔をし、勝手に話をすすめた。

「ボアンカの教育は租界見学のあとでもまにあうな。スパイ探しのための印もそのときに、ここで渡す」

 回る地球儀をとめ、アレーは夕子をみすえていった。

「それと、ここでの話はいうまでもないけど口外禁止ね。もし破ったら、あなたの将来はない」

 そういったときの眼には単なる脅しではない光が冴えていた。


 夕子をもとの姿に戻して帰したあと、助手ボアンカはシャンパンにきらめくグラスをかたむけながら、アレーにいった。

「『合宿所のスパイ探り』なんて口実ですよね。あの娘を使うための」

 それにはこたえず、

「彼女は必要だよ」

 おちついた低い声でアレーはいった。けれどボアンカはいまは不服そうな顔をしなかった。すっかりアルコールの浸透した声で、

「考えてみればあの娘もかわいそうですね。テストで不合格になった娘、破滅させられた娘をたくさんみてきた私からすると」

 と、つぶやいた。「あの娘」とはむろん江田夕子のことである。

「まったく人材発掘には苦労させられるよ。君みたいに望みどおりの人間はなかなかいないからさ」

 そのとき、ドアがあく音がして、

「さっき外でみかけたが、明日使うコマというのは、あの娘か?」

 だれかが中国語でそういったかと思うと、勝手に応接間に入ってきた。にもかかわらず、当然のようにシャンパンをのんでいるふたりをこれまた当然のようにみわたして、

「やあ」

 男は軽くあいさつすると、アレーにむかって、

「ほんとうにいけるのか、あんな娘で?」

 ときいた。大耳の男である。

「うまくいけば役に立ってくれるでしょう」

 アレーは椅子に座ったままこたえた。

「うまくいけば、だと?」

 大耳の男は着ている長衫(男性の中国服)を波うたせた。

「ええ」

「たよりない返事だな。やっぱり自信がないんじゃないか」

「なにごともやらせてみなきゃわかりませんよ。それに明日は『テスト』の意味もあります」

「明日はただのファッション・ショーとはちがうんだ。わかってるだろう」

 大耳の男はにらむようにアレーをみた。

「もちろんです。だからこそまかせてください。けっして悪いようにはしません。なにしろ彼女は日本人です。中国人にばけさせはしますが」

 そういってアレーがニヤリと笑うと、大耳の男もニヤリと笑っていった。

「いいだろう。君を信用している」

 大耳の男の名は巧月生(チャオ・ユエション)。銀華デパート会長である。しかしそれは表の肩書きで、裏にはべつの顔があった。

 その巧月生と魔術師アレーが意味深長な視線と言葉をかわしている。

 ふたりは明日の銀華デパートのファッション・ショーで、なにかをおこそうとしていた。

 江田夕子を使って、である。

 魔術師アレーが江田夕子に目をつけたのは、今日にはじまったことではない。一か月以上前のことだった。一週間前のファイナリスト発表会後、夕子を尾行した男ふたりのうちひとりは李龍平だったが、もうひとりはこのアレーだった。

 巧月生はそれを知っている。なにもかも承知の上だった――。

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