第一章 ファイナリスト選考会

 一九三一年五月二日、上海・バンド通り。

「まいどありがとう」

 料金をうけとった花売り娘は上海語でいった。黄色い繻子の靴をはき、腕に白い竹かごをさげている。竹かごには、玫瑰の花や茉莉の花が、枯れないように底にしかれた濡れた白いハンカチのうえにきれいにならべられてある。

「どれがよろしい?」

「どれでも、私に似あう花をたのんだ」

 客の日本人娘は上海語で陽気にいった。花売り娘が花を選ぶあいだ、足もとにおちている新聞に目をとめた。中国語新聞の『上海時報』だ。イベント欄が上になっている。

「今日だったなあ・・・・・・ファイナリスト発表」

 見出しをみて感慨ぶかげにつぶやいた。

「ミス摩登(モダン)コンテストのこと?」

 花売り娘がきくと、日本人娘は変に重々しくうなずいて、

「うん。今日ファイナリストがきまる、十二人」

「へえ、くわしい」

「私、応募したから。――わ、すてき」

 一輪の花を手わたされた日本人娘の目が輝いた。花は白蘭花だった。白い蕾はほころんでまもない。花の首に通してある針がねを、日本人娘はさっそくパーマネント・ウェーブで波うつ髪に挿して、

「どう?」

 しなをつくってきいた。

 いまをときめく女明星(映画スター)胡月に似ているといえなくもない。すくなくとも日本人にはとてもみえない。身にまとっているのは和服でも洋服でもなく、旗袍(チーパオ※チャイナドレス)だ。オリエンタルブルーの生地も、白蘭花も五月のさわやかな風にそよぎ、きらきらと輝いている。

「きれい」花売り娘は微笑していった。「ミス摩登になれるよ」

「あはは、私はとっくに落ちたよ。しかも書類落ち」

 苦笑をうかべる日本人娘に、花売り娘は一瞬言葉を失ったが、

「・・・・・・でも、応募したなんてすごい。私なんて英語ができないからとても」

「英語なんて私もたいしてできないよ。お客の米英人から多少学んだだけで。笑えるでしょ、私みたいな日本出身の落魄して野鶏(ヤーチー※街娼)になった女がよく挑戦したって。十六から二十歳までの女子なら国籍は問わず、だれでも応募できるって話にのせられたのよ。まあ、賞品ほしさ」

 日本人ときいても驚かないところをみると、この花売り娘は知っていたものらしい。それよりも、大きくうなずいていった。

「すごいんだってね賞品」

「うん、暗記しちゃった。だって副賞は高級時計に高級ブランドの洋服、靴、鞄だけじゃない、ロンドンで演劇を学ぶための奨学金、一流雑誌のファッションモデルの権利、映画主演の権利までもらえるんだよ。これだけのものが手に入ったと想像してごらん・・・・・・」

 日本娘は夢みるような顔で空をふりあおぐ。

 みあげた先、高い高い記念碑の頂点には、平和の女神像がある。ブロンズの女神のひろげる翼のむこうには、初夏の午後の陽ざしにきらめく黄浦江がひろがり、ひろいひろい黄濁色の河面には無数の大小の船が航行している。

 濃いにおいがする。

 白蘭花の香りだけではない。河の水の生ぐささと苦力(クーリー※肉体労働者)の汗と黄包車(ワンポーツ※人力車)のたてる埃と、客船の煙と各国女性の香水と高級自動車のガソリンと、野性と最新文化のまじりあったような、この街特有のにおいがする。

 ここは上海、河港ぞいの通り――バンドであった。

「上海でスターになれる。それってこの都市が手に入るも同然だと思わない?」

 バンドにはずらりと、煉瓦造りのビルディングが河を抱くようにならんでいる。

 ビルディングの屋上には威容をほこる各国旗――三色旗、ユニオンジャック、星条旗がはためいてた。

「上海を手に入れる、か――。イギリスもフランスも手に入れる気分になれるかな」

 花売り娘は平和の女神像をみあげていった。この像の正式名称は「ザ・ウォー・メモリアル(欧戦記念碑)」である。第一次世界大戦で戦死した欧米居留民をとむらうためにイギリス人が建てたものだ。英米共同租界とフランス租界の境界付近に立っている。

 一九三一年、上海は外国に支配された都市だった。

 もともと元・明・清時代から港町としてそれなりに栄えてはいたが、外観的には緑あふれる一漁村といったおもむきしかなかったこの田舎町を、一八四〇年代に開港し、最初に近代都市に開発したのはイギリス人だった。

 東シナ海に通じる長江の支流、黄浦江沿岸に位置する地の利ならぬ、水の利のいい港にもともと目をつけていた彼らは、母国がアヘン戦争に勝利するなり、沿岸の土地を「永久租借」し、イギリス人居留地にしたてあげた。それに負けじとまもなくアメリカ人がやってきた、フランス人がやってきた。

上海には黄浦江がS字型に流れている。最初の湾曲部からは横に支流がでている。この支流は黄浦江西岸を東西に走り、蘇州河というが、この蘇州河をはさんで十九世紀半ばに租界ができた。大まかにいうと、蘇州河北岸と南岸にイギリスとアメリカの共同租界が、その下(南)に隣接してフランス租界が、もともとあった県城(中国人居住区)の半周をおおうようにつくられた。

 こうして黄浦江西岸には「リトル・ロンドン」、「リトル・ニューヨーク」、「リトル・パリ」というべき街ができ、それに周縁の「チャイナタウン」がくわわって、大国際都市に成長した。

 租界建設から七十年がたった一九三一年、上海は繁栄をきわめていた。

そのころ上海は冒険家の楽園といわれた。

 二年前からの世界恐慌の影響も感じさせない、独特の活気がここにはあった。世界じゅうの起業家が、あるいは亡命家が集まる上海、ジャズにハリウッド映画にわく上海――。

「ミス摩登になれたらなあ・・・・・・」

 日本人野鶏は嘆息した。

「グランプリ決定は秋だっけ」

 花売り娘の言葉に大きくうなずいていう。

「そう、九月十三日。どんな人がなるか、考えると、くやしい。ああ・・・・・・審査に通ってたらなあ、いまごろは会場にいて、ちがう世界がひらけてたろうになあ。夢のまた夢に終わっちゃった」

 この野鶏は日本の農村で売られた娘だった。東京で数年売春婦をしていたが、不況であぶれ、上海に出稼ぎにきたのだった。国際都市への憧れもあった。ここでも街娼におちぶれたが、まだ若く、上海ドリームは捨てきれていなかった。

「べつのオーディションがあるよ。映画女優になれる顔してるんだから、あきらめないで」

 花売り娘が元気づける。

「ありがと、お世辞でもうれしい」

「お客さんだもん、いいこといっとかなきゃ」

「そんなこといって」

 ふたりは笑いあう。同じ貧しい者同士、慰めあう仲だった。ふたりはたがいの国を意識していない。

 しかしこのころ日本と中国はなにかと対立しあう仲だった。

 日本は満州をほしがっていた。内地は不況と飢饉でゆきづまっていた。希望の目は外地にむけられた。満州を手に入れなければ救われない、というような考えが軍人を中心にひろがっていた。

 中国は国権回復をめざしていた。列強の支配から解放されたがっていた。それを日本がなにかにつけて邪魔しようとする。軍閥への資金援助しつつ内政に干渉し、満州をのっとろうとする。排日感情は高まる一方だった。

 日中はいつなにをきっかけに衝突するかわからなかった。そんななかで利害関係なしに日本人と中国人が交際することは、とても貴重だといえた。

「ねえ、あの自動車」

 ふと花売り娘が声をあげた。車道の一点を指さしている。フォードである。運転席の窓をみていった。

「運転してる人、私の知ってる記者さんだ」

「へえ、いい男。どこの記者?」

「上海時報だよ。自動車に社旗がついてるでしょ。あの人、四馬路でよく花を買ってくれた」

 その運転手がクラクションを鳴らした。花売り娘にではない。前の三輪車にである。三輪車は停車していた。走行中に積荷をおとしたらしい。

「記者さん、いらだってるね、足どめされて。ミス摩登コンテストの取材にでも行くところかも」

「そうかな? そうかな?」日本娘は目を輝かせた。自動車の進行方向をみて、

「方向はあってるよ。会場はガーデン・ブリッジの先だから」

 ガーデン・ブリッジとは黄浦江の支流、蘇州河にかけられた橋のことだ。蘇州河は英米共同租界を北と南に分断している。南は華やかだが、北は郊外といった感じで、地名を虹口といった。

「会場、虹口なの? 意外」

 花売り娘がきく。

「虹口のどこ?」

「北四川路。自動車なら橋渡ってすぐだけど、足どめをくらってるから、ほんとに取材なら遅刻かも。ファイナリスト発表会って二時前には始まってるらしいから」

 いわれて野鶏は時計をみた。

「あ、もう二時半すぎてる。とっくに遅刻だよ」

「じゃ、ちがったかな。コンテストの取材じゃないのか」

 そのとき三輪車の運転手が荷物をやっと拾いおえた。やっと走りだした。足どめをくっていた上海時報の自動車は待ってましたとばかりに発車した。猛烈な勢いで走り、ガーデン・ブリッジのほうへ遠ざかっていく。

「玫瑰花、白蘭花」

 いつしか花売り娘はふたたび声をはりあげて道ゆく人びとに呼びかけている。白蘭花を買った日本人野鶏はいつのまにどこやらへ去っている。

 花売り娘は声をはりあげる。ピンク色のリボンを初夏の風になびかせて。

「メークイホー、デーデーホー、バーレーホッホ、バーレーホ・・・・・・」

 うたうような声はまわりにとけていく。バンドはあいかわらず、にぎやかだった。上陸した船客に蠅のようにむらがる人力車夫の叫びと、貨物を荷揚げする苦力のかけ声と、インド人巡査の怒号と、ロシア水兵のはやし声、上海娘の笑い声のなかに、花売娘の声はとけていく――。

平和の女神像は巨大な翼をひろげ、すべての模様を、はるかな高みからみおろしている。

ガーデン・ブリッジの下では一台の自動車が、鉄骨の大梁をもれる陽光に、黒い車体をきらめかせていた。橋をつっきっているのは上海時報の自動車である。蟻のようにはう黄包車、鈴をならす路面電車、往来する旗袍姿、洋服姿、和服姿、サリー姿の各国人のあいだを自動車はぬうように走っている。

めざすはミス摩登コンテストのファイナリスト発表会場だった。


「小龍(シャオロン)!」

 たったいまファイナリスト発表会場のロビーに入ってきた新聞記者の青年に、ひとりの中年婦人がシルクの旗袍からたるんだ腕をのばして追いかけ、呼びかけた。

「ねえシャオロン、ねえって」

 青年記者は無反応だ。いかつい背をむけたまま、前かがみでホールの扉へと急ぎ、ふりかえろうともしない。はじめは無視しているのかと疑ったが、ほんとうにきこえていないらしい。だからスーツの上からやさしく叩いてみたが、筋肉が厚いせいか、それさえも気づいてもらえなかった。しかたなく、こぶしですこし強めに突くようにしたら、やっと気づいてもらえた。

 ふりかえった青年をみて婦人はぎょっとした。たしか明朗快活な少年のはずだったけれど――。小龍は美しいにはいまも美しい。眉りりしく、彫深く、肌は西洋人のように色白く、顔だちは以前のままで、そのうえ二十代半ばらしくみごとな体格に成長している。

 だがその顔は無表情だった。というより、うつろだった。濁った暗い目――婦人と再会したというのに、その目にはなんの表情もあらわれていない。以上は婦人の脳裏に一瞬にかすめた印象であった。彼女はすぐになつかしそうな顔になっていった。

「ひさしぶりねえ」

 青年の顔はたちまち醜くゆがんだ。ゆがんだというより、意図的に作り笑いをうかべたのだった。それにしても極端だ。唇のはしを耳までつりあげ、顔じゅうの筋肉をもちあげて、まるでピエロの仮面をはりつけたような顔をして、

「これはこれは呉太太(※太太は夫人のこと)」

 泥酔した人間のような、おそろしく調子のいい声をはっした。

 ふつうの場合なら、呉太太は首をかしげたにちがいない。だがいまは、ふつうの場合ではなかった。ほかに心を奪われていることがあった。だから返事をもらっただけでよしとして、すぐに自分のいいたいことをいった。

「じきファイナリストの発表よ! どうしましょう」

 いかにものぼせた声だった。青年はピエロの顔のままで、

「今日は娘さんの応援で?」

 これまた調子のいい声でいった。その実、声には無関心のひびきがあったのだが、呉太太は気づくよゆうもない興奮した顔で、

「そうよ、そうよ。ね、麗生は受かるわよね? もうドキドキで。お母さんひとりで騒ぎすぎだって丹那と字磨(夫人の次女、三男の名)にからかわれちゃった」

「みなさんお元気ですか」

 青年は太太の目はみず、襟元のダイヤをみていった。

 小肥りの体にぴたりとまといついた旗袍は中年の女性らしく地味めのマーブル模様ではあったが、その生地は高級シルクで、襟もとのとめ具はダイヤで耳環のダイヤとセットになっている。

 呉太太は銀行家の夫をもつ、いまでは上流階級の三男二女の母であり、子ども全員に一流の教育をさずけているが、本人にはどこかあかぬけしきれないところがあった。出身が蘇州の中流の家だからか、それにしては女子にめずらしく学校をでているが、嫁いでからも外国に行ったことはなく外国語を話せないのもあって、欧米帰りのめずらしくない上海の社交界ではいまだに田舎者のようにみられている。けれど本人は特別気にするようではなく、子どもの成長を誇り、一種のずうずしさも手伝って人生を十分楽しんでいる感じがあった。

 小龍と呼ばれた青年は正式には李龍平(リー・ロンピン)という名の中国人である。小龍というのはあだ名で、日本語でいえば「龍ちゃん」というようなものだ。彼は呉家の下の子どもたちが小学生だったころ、高校生で近所に住んでいたので、同じフランス租界で遊んでやったこともあり、当時は呉太太に家によばれて子どもたちと同じ席で食事をふるまわれたこともすくなくなかったから、たがいによく知った仲ではあった。

「おかげさまでみな元気よ。それより小龍、どうせくるなら、もうすこし早くきたらよかったのに。そしたら麗生と会って話せたのよ。あの子、あなたと話せたら、きっと落ちつけたと思うわ」

「いやあ遅刻しちゃいましてね、仕事なのに。ですからもう記者席にいかないと」

 龍平はいまにもその場を去りたいようすをみせていったが、呉太太には通じなかった。

「そういえば小龍、上海時報の記者になったんだって。もう何年? 二年近く? りっぱじゃない。昔から賢かったものね、龍ちゃんは、うちの子たちにもいろいろ教えてくれたし、これからどんどんえらくなるわよ」

 呉太太は自分が育てでもしたようにいったかと思うと、ふいに顔を輝かせて、

「そうだ、記者なら楽屋に入れない? 私さっきまでなかにいたんだけど、時間だからって追いだされちゃったの。麗生に会って勇気づけてくれない? ねえ、どうにかなるでしょ」

 上目づかいに龍平をみた。ファイナリスト発表の幕があがるまで、まだ五分のよゆうがあった。だが龍平は首を横にふっていった。

「むりですね」

 冷たい声だった。顔は笑っているのに目は笑っていない。小龍はやはり昔とはちがう、と思った呉太太はそれ以上むりにたのむことはせず、かわりにこう遠慮がちにいった。

「お母さまのことはなんといったらいいか・・・・・ほんとうお気の毒だったわ。あらためてお悔やみをいわせてください。お葬式には参列したかったのだけど、お香典を送るぐらいしかできなくて――」

「葬儀は身内だけですませてしまいましたからね。おわったことですよ、もう」

 龍平はごく軽い口調でいった。顔にはピエロの笑顔をはりつけたままだ。

「でも真相はわかってないんでしょう? 警察は経営者の過失とかいってたけど、お母さんがそんなことするわけないわよね、自分のお店を爆破なんて――ねえ?」

 龍平の母親は李花齢である。「お店」とは読書室リラダンのことだった。

「いや、案外やったかもしれませんよ、自殺目的で。あの人はしょっちゅう、これ以上年をとりたくないっていってましたから」

 龍平は他人ごとのようにいった。

「おばあさんになるまえに死ねてよかったんじゃないですか」

その言葉に呉太太は思わず目をむいていった。

「おばあさんだなんて。お母さんはまだ若かったわ、四十四歳だったのよ」

「四十四歳が若いですか? ――あ、呉太太も同い年でしたっけ。これは失礼しました」

 頭に手をやって龍平は呉太太の前から去っていった。顔はあくまで笑ったままだった。しかし心のなかではすこしも笑っていなかった。

 他人ごとどころか! 

 今日龍平がここにきたのは、なにを隠そう、リラダン事件の真相にすこしでもせまりたいがためだった。

 昨夜、龍平宛に一本の匿名電話がかかってきた。作り声らしく、変に高い男の声だった。北京語を使っていたが、訛りがあった。男はこういった――ミス摩登コンテストの通過者にリラダン事件の実行犯がまぎれこんでいる。その娘は明日ファイナリストに選ばれることになっている、と。

 電話の男は、自分はIAAの事情を知る人間だといった。名前をたずねると、電話はきれた。

 龍平はこれを単なるいたずら電話としては片づけられなかった。

 男がIAAの関係者らしいと感じたためもある。男の北京語には英語訛りが感じられた。

 IAAは、International Academy of Arts(国際芸術協会)の略称だ。国際と銘打ってはいるが、役員は上海在住の有力イギリス人で占められている。金とひまにものをいわせてつくった団体だけあって、今年になってミス摩登コンテストの開催などはじめたが、なにがねらいかわかったものではなかった。「東洋の人材発掘」、「国際親善」が目的というのは、表むきだろう。

 それだけに、実行犯をファイナリストに選ぶ、ということもありえることのように思われた。もっともその目的はわからない。

 しかしIAAはなんらかのかたちでリラダン事件に関与しているかもしれなかった。

 電話のあと、龍平の頭には、リラダン事件後に爆弾の点火スイッチの発見された外虹橋(ワイホンチャオ)付近で三人の人間が目撃されたという話がうかんだ。うち一人は旗袍をきた娘だったという。

 リラダン事件後、爆薬の点火スイッチが、外虹橋の橋脚下で発見された。外虹橋は虹口クリークにかけられた橋だが、リラダンから五メートルと離れていない。導線はそこからリラダンの読書室Aにひかれていたものとみられた。

 爆破直後、その橋脚からあやしい人間が三人でてきたのが目撃されたという。いずれも中国人らしく、国民革命軍の男二人と、旗袍をきた女一人だった。三人つれたって現場付近を飛ぶように離れていくのを通行人がみている。

 しかしみためどおりに中国人だったかは判然としなかった。

 このことが公にでると、日系とイギリス系の両新聞は、リラダンを爆破したのは中国国民党だと書きたてたが、中国側はすぐに反発、日本軍の謀略だと主張した。日本軍が革命軍の制服をきて中国人をよそおい、リラダンを爆破したというのだ。

 一九三一年三月末といえば、満州事変のおこる半年前である。このころ日本と中国はなにかと対立する傾向にあった。

リラダン事件の犯人をめぐっても日中はたがいにひかなかった。だがこの対立によって、双方の軍がなんらかのかたちで事件にからんでいることが、かえって露呈したかたちになった。

 電話の男のいう実行犯の娘は、なに人なのか。日本人なのか中国人なのか。男はいわなかったので、わからない。それがIAAとどう結びつくかは、もっとわからない。しかし電話の男に、その娘がファイナリストに選ばれることになっている、ときいて、龍平はコンテスト会場にでむいてたしかめずにはいられなくなった。

 電話の情報はガセかもしれなかったが、とにかく行ってこの目でみてみないことには、なにもわからない。今日選ばれる十二人のファイナリストのなかに、それらしい娘がいるかどうか、龍平は調べる気になった。

 幸い龍平は文化部記者でファイナリスト発表会の取材担当だった。この機会を利用しない手はない。龍平は意気ごんだ。こんなに力が入るのは、ひさしぶりだった。この一か月、仕事はしていたが、心は仕事にうちこめなかった。

 やはりリラダン事件が原因だった。認めたくはないが、あの事件は思わぬ影を龍平の心におとしている。文化部所属とはいえ、事件の真相を探ろうと思えば探れたのに動かなかったのは、そんな気もおこらないほどショックが大きかったからだ。

 むりもない、母親を殺されたのだ。龍平は母親とそれほど仲良くはなかったが、あのようなかたちで失うと、喪失感は大きかった。現実をうけいれられない日々がつづいた。

 もともと虚無的な感じがあった龍平はいっそう虚無的になって、容易に人をよせつけなくなった。たまにしゃべってると思えばピエロのような仮面で本心を隠し、しまりのない遊び人のような口をきいたりした。

 そんな龍平が自分からなにかしようという気になったのは今日が事件後初めてのことだった。記者席に座ると、自然と顔がひきしまった。

 会場のサンチャゴ劇場は、二十年前の一九一〇年にスペイン人が開場した、トタン貼りの二階建てで、『Santiago』というアルファベットの金看板がむなしいような小劇場である。一階席しかなく、楕円形の卵をたてに切って半分をねかせたような空間に五百人分の椅子が所狭しとならんでいる。

 IAAはなぜこんな貧乏たらしいところを、わざわざ会場にしたのか。場所も変わっている。租界の中心地からはおよそ遠い。蘇州河以北の虹口にある、虹口といえば、読書室リラダンがあったのも虹口だ。いちどIAAに懐疑心を抱いたせいか、IAAが虹口を選んだことが、なにか意味があることのように思えてきた。

 そのとき、客席に一条の光がさした。

 光はロビーからさしこんでいる。扉があいたのだ。新たにだれかが入ってくる。それだけのことだが、異様なざわめきが周囲からおこったので、龍平もふりかえった。

 光のなかを歩んでくるのは、霧にけぶる鶴のようなひとりの女性だった。その女性は護衛三人を従え、ほかの客に注目されながらも、ひっそりと前から二列目に腰かけた。それがだれだか知って龍平も目をみはった。

 蒋介石夫人宋美齢(ソン・メイリン)だ。まぎれもない国民政府主席の妻、すなわち中国のファーストレディーである。ファーストレディーにしては若い。三十六才だが、それよりさらに十歳は若くみえる。ファッション誌からとびだしてきたような外見をしている。貴族の髪型にゆいあげられた黒髪、白地に淡紅色の海棠を咲かせたシルクの旗袍――華やかさではこれから登場する娘たちに劣らないだろう。

 宋美齢が最終選考会の特別審査員に選ばれたことは知っていたが、今日はまだファイナリスト発表会だし、まさか予告なしにこのさえない会場にあらわれるとは予想もしていなかった。

 やはりIAA主催のイベントだ。財力はもとより政治力もはんぱでない。審査員も集まるわけだ。ハリウッドの某スターが今度の審査員になるという噂も、このぶんだとほんとうだろう。

客席には宋美齢以外にも要人の姿がすでにちらほらみえていた。イギリス人資本家をはじめ、中国国民党員や日本軍人・・・・・・。右前方にいるのは蒼刀会の劉虎だ。蒼刀会は蒋介石の保護下にある中国マフィアである。劉虎はその幹部だ。席からすると宋美齢の護衛によばれたわけではないらしい。なにしにきたのだろう。表情からはなにもよみとれない。――まずい、目があうところだった。

 それとあっちの背広。背広ではあるが、日本軍人くさい。どこかでみた顔だ。陸軍少将の小山内駿吉かもしれない。ほおづえをついて、なにを考えているのか。

 しかしまもなく、どの顔もみえなくなった。客席の照明が消えたからだ。かわりに舞台が明るくなり、マイクをとおして司会の英語が場内にひびきわたった。

「ただいまより、ミス摩登コンテスト三次予選通過者を発表いたします」

 幕があがった。

 幕のむこうには白いドレスをきた娘が五十人、鼻をならべてずらりと整列していた。

いずれも一次、二次と勝ち残ってきた、匂うばかりの娘たちだ。

このなかで残るのは十二人のみ。はたしてそのなかにリラダン事件に関与した娘がいるのか、李龍平は目を鋭く光らせる。

「ファイナリストに選ばれましたのは――」

 呉太太は身をかたくし、両手をにぎりしめた。ぴんとはりつめた空気のなか、最初のひとりの名がよばれた。

「エントリーナンバー一二五八番、ロレーヌ・バリーさん」

 選ばれて当然といった表情で一歩まえにふみだしたのは、大柄のフランス王妃のような娘である。

 華美で、人をよせつけない気品のあるフランス人、十九歳だった。

 つづいて二人目の名前がよみあげられる。

「エントリーナンバー七七八番、小山内千冬(おさない・ちふゆ)さん」

 まえにでたのは、驚きに輝いた表情がいたずらっ子の笑顔のようにみえた娘である。

 一重のくりっとした瞳、玉を刻んだような顔、小柄だが手足は長く、小悪魔的な魅力にあふれた日本人、十八歳だった。

 つづいて三人目。娘の名はまだか――呉太太は両腕をもみねじらんばかりだった。ちなみにエントリーナンバー順によばれないのは、成績順だからだ。三人目まではいわばトップ3に入る。

「エントリーナンバー二十二番、呉麗生(ウー・リーション)さん」

 呉太太はとびあがらんばかりになった。舞台で一歩ふみだしたのは、まぎれもない愛娘だ。

 呉麗生は肌は小麦色、胸丸く、腰くびれ、グラマーでラテン美人のような娘である。

 健康的な笑顔、こぼれる白い歯をもつ、陽気を絵にしたような中国人、十九歳だった。

 これでなぜ三位なのか、人をひきつける力はばつぐんだ。二位の小山内千冬の笑顔がどこか人工的なのにたいし、麗生の笑顔はとても自然な魅力にあふれている。

 場内はわきたった。

 そのなかで李龍平だけが鋭い目を光らせている。知りあいだろうが、美しかろうが関係ない。犯罪者かどうかをみきわめようとする厳しい記者の目だった。

 そのあとも通過者の名は続々とよみあげられた。カナダ人、台湾人、アメリカ人、日本人、中国人・・・・・・いずれも二十歳前の美しい娘たちだった。このなかにほんとうに犯罪者がいるのか――いずれも犯罪者とは思えない顔ばかりである。

ちなみに麗生より魅力的な娘はあとにでてこなかった。あとになるほど成績が低いのだから当然だが、それでも麗生と同じくらい観衆の目をひきつけた娘がふたりいる。

「エントリーナンバー二七七九番、蘇丁香(スー・ディンシャン)さん」

 清麗妖美ともいうべく娘である。目もとは楚々として涼しく、体つきは可憐だが、どこか妖しいなまめかしさがある。

 ロレーヌ・バリーがフランス人形ならばこちらは中国の人形、小山内千冬が小悪魔ならばこちらは妖精、呉麗生が陽ならばこちらは陰といった感じで、どこか神秘的。

 とはいえいっけんすると清純な感じの中国人、十九歳である。

 龍平の目つきは変わらない。どの娘をも同じ鋭い目で観察する。その目に突然驚きの色があらわれた。

「エントリーナンバー四四四番、江田夕子(えだ・ゆうこ)さん」

 最後によばれた娘をみたときである。

驚いたのは龍平だけではなかった。客席のだれもが目を疑った。舞台で前にふみだしたのが、あまりに平凡な娘だったからだ。

 どこからどうみても十人並み、ふつうなのだ。

醜いわけではなかった。街なかにいたら、ある程度は男の目をひくだろうと思われる容姿ではある。

だが、ここはミス摩登コンテストの舞台だ。ほかのファイナリストとならぶと、あきらかに見劣りがした。みなより頭が大きいし、胴は長いし、足は太く短い。選ばれなかった娘のほうがよっぽどきれいだ。

 本人もいごこちが悪いのか、笑顔をうかべるどころか申しわけなさそうな顔をしている。落ちつきがなく、おずおずしている。性格が魅力的だから採用されたというわけでもないようだ。むしろ陰気な感じだった。

 どこからみても、場ちがいな娘である。

 書類選考で落ちてしかるべきと思われるが、それが一次予選、二次予選と通過して、ファイナリストにまで選抜されるとは、なにかのまちがい、いたずらではないかと見物が首をかしげたのもむりはない。

 この娘こそ、あやしいかもしれない、と龍平は思った。江田夕子、日本人、十七歳――と手帳に鉛筆で強く書きとめると、

「それではここでIAA顧問T・W・ガッブ氏より、ごあいさつをいただきます」

 司会の声を合図に、舞台袖から小柄な燕尾服姿の老人がでてきた。鼻の下に白い髭を歯ブラシのようにたくわえているが、髪はすくなく頭にむりやりなでつけてある。マイクの前に立つと、いかにももったいぶった感じで金縁の鼻眼鏡をかけてから、にこりともせずいった。

「本日はお忙しいところ、おこしいただきまして、誠にありがとうございました」

 イギリス英語のせいか、よけいに気どってきこえる。

「当ミス摩登コンテストは、国際親善、東洋の人材発掘を目的として開催されました。本年が記念すべき第一回目となります。開催にあたっては、工部局財政局、上海納税人協会、ケンブリッジ財団等、多くの団体にご協力をいただきました」

 書類の棒読みである。手もとの紙ばかりみて、顔をほとんどあげない。

「本日は、ファイナリスト発表会であります。書類選考、三月の一次予選、四月の二次予選を勝ちぬいた五十名のなかから選ばれた十二名が、発表されたわけでございます」

 内容のなさをごまかすためか、一語一語のあいだにやたらともったいぶった間をいれる。

「この十二名のなかから、ひとりだけが、四か月後、栄冠を勝ちとるわけでございます。優勝賞品ですが、副賞はすでに発表したとおりでございますが、正賞の内容は、これまでは発表を、ひかえさえていただいておりました」

 ここで突然顧問の声のトーンが変わった。目を書類から離して、客席をみた。

「正賞の内容は、本日初めて発表させていただきます」

 ここでIAA顧問は、それまで以上に長い間をいれた。どこか緊張した面持ちで、咳払いをしてからやっと決心がついたようにいった。

「――正賞は鳳凰のかたちをした茶器でございます」

 一気にいって、うかがうように客席をみた。

 客に目立った反応はない。もっとも、ふしぎそうな顔をした人はすくなくない。正賞はふつうはトロフィーなのに、なぜ茶器なのか。しかもなぜ「鳳凰のかたちをした茶器」などと、まわりくどいいい方をするのか。

 記者龍平も疑問に思った。だが、このときはそれ以上深くは考えなかった。それよりも実行犯のことに頭を奪われていた。正賞にひそむ重要な意味などには気づくべくもなかった。

「ファイナリストに選ばれたみなさん、おめでとう」

 やがてIAA顧問はいった。舞台の十二名をあらためてみわたしている。語調はもとどおりになっている。

「みなさんは一週間後から、合同合宿に入ることになります。そこで約四か月間にわたってトレーニングをうけるわけです。合宿所は東虹口のIAA花園(ヴィラ)、通称レスター花園にあります。そこでライバルと競争し、自分を磨くことになるでしょう。いまみなさんは新たなスタートラインに立ったわけです。合宿のすごし方で、九月の最終選考会の結果は変わります。いい方をかえれば、今日は上位でなかった人にもいくらでもチャンスがあるということになります――」


 江田夕子はサンチャゴ劇場をでると、ひとり逃げるように北四川路をわたった。

 そのあとを李龍平はこっそりつけている。

 江田夕子、十七歳――やはりあの娘が十二人のなかでいちばんあやしい。およそファイナリストにふさわしくない娘である。それが選ばれたのには、きっとわけがある。ありふれた容貌だけに犯罪者の仲間にはみえない。そこがIAAのねらいなのかもしれなかった。

 あの娘は閉会後、だれとも言葉をかわさなかった。ほかの娘は客のひいたロビーで輪をつくって、おしゃべりに熱中していたが、あの娘はひとりでその輪からはずれ、こっそり会場をでていった。仲間はずれになっているのが耐えられなくてでたようにもみえるが、俺はだまされない、と龍平は思った。気弱そうな顔は表だけかもしれない。あの娘は会場をでてどこへいくか、わかったものではない。考えてみれば、応援の家族がきていなかったらしいのも不審だ。

 だから龍平は江田夕子のあとをつけている。その龍平をうしろからつける者があった。龍平はそれに気づいていなかった。

 江田夕子はふたりの尾行者を従え、北四川路をわたり、横道の文路に入った。白い麻のブラウスに紺のロングスカートと地味な服に着がえたその姿は、周囲に違和感なくとけこんでいる。だれもこの娘をコンテストのファイナリストとは思わないにちがいない。小石をしきつめた道をしばらくいくと、やがてどこからか割れんばかりの声がきこえた。

「ご通行中の皆さま、魔術師アレーの大魔術ショー、チケット販売のお知らせです。こちら西和舞台でおこなわれます大魔術ショー、明日午後六時よりのチケットは、おかげさまで残りわずか」

 興行の宣伝らしい。同じ口上をひとりの人間が、英中日語、三ヶ国語でかわるがわるくりかえしている。

「みなさまへの感謝をこめて、ただいまチケット半額にいたしております。ありがとうございます! お買いあげありがとうございます」

 声の主は若い女だった。美人で、西和舞台前から笑顔をふりまいている。年は二十代前半、肌は小麦色で色っぽい。どこか呉麗生を思わせるが、こちらはあきらかに西洋人である。それにしては日本語と中国語がうまい。三か国語を実にたくみにあやつる。通る人間によって使う言葉をきりかえている。

「いかがです、残りわずかですよ」

 いまは日本語になった。白いブラウスに紺のスカートの娘が通ったからだ。日本人とみぬいたようで、

「ほらどうです、アレーの魔術、みないと損しますよ。チャンスはいま」

 行く手をさえぎるようにチラシをつきだした。気弱そうな娘とみてか、おしつけがましい態度にでた。江田夕子はチラシにみむきもせず、猛然と去っていった。呼び売りの女は意外な顔をしたが、すぐに次のターゲットにむかって中国語でいった。

「いかがですか、チケットの残り、わずかですよ」

 『パブリック・スクール・フォー・ガールズ』と『トルコ風呂』のあいだを歩く江田夕子を追いつつ、龍平はうけとったチラシをひろげてみた。

 「魔術師アレー 一流大魔術ショウ」――斜めに走るタイトルとともに、どぎつい男のイラストが描かれてある。あぶらをぬったタヌキみたいな顔、それがもっともらしい髭を鼻の下とあごにはやし、額に金色のねじり鉢巻、体に魚や鳥の模様のそめだされた布をまきつけ、一輪の白い花で飾り、右手に金の杖をにぎって怪笑をうかべている。これがいま上海で知らない者はない魔術師だ。

 たしかに妖気はある。この四月から突如上海にあらわれ、注目を集めたのもうなずける。それにしてもこの男の画像をみるたび、うさんくささを感じる。出身はどこなのだろうと疑いたくなる。茶色い顔はいかにも国籍不明で、アジア系にもラテン系にもアラブ系にもみえるのだ。

龍平がチラシをみているあいだに、あたりの風景はだいぶ日本人街然としてきた。『六三亭』、『篠崎医院』、『日本堂書店』――日本語の看板が次々に目にとびこんでくる。

 日本は列強に遅れをとってはいたが、上海にも着実に進出していた。日清日露戦争の勝利、一次大戦による西欧列強の中国からの後退がきっかけとなった。

 上海に日本租界こそないものの、一九三一年には外国人居住者に占める日本人の割合は大幅にふえ、五割近くにのぼっている。約三万人の日本人が上海に住み、そのほとんどが、この虹口に集まっていた。

 虹口は英米共同租界の一部ではある。だがここには日本陸戦隊本部があり、日本人のつくった病院や学校、公園、寺院に神社まであり、日系企業や商店がたくさんあった。

だから日本人の多くはここに住むと、虹口を日本租界も同然と思うようになる。もとより虹口にも中国人はいっぱい住んでいる。というより中国人の方が圧倒的に多いのだが、それを忘れたようになる。外国は蘇州河より南の「河むこう」で、河の北側の虹口は日本、「長崎県上海市」とでも思いたくなる。

 そんな傾向をよく思わない龍平でも、前方にあらわれた『日本人倶楽部』の建物をみると、日本の勢いを感じずにはいられない。

 四階建ての赤煉瓦には東京駅を思わせる威容があった。日本に留学したことがある龍平は東京駅を知っていた。日本人倶楽部は在留邦人の社交場である。ひるがえる日の丸をみると、どこにいるのかわからなくなる。まして西和舞台から日本語の宣伝文句がきこえてくるにおいてをやだ、と思ったときだった。

 前を行く江田夕子が突然、ふりかえった。

 龍平はぎくっとした。気づかれた、と思った。尾行していたとはいえ三メートル近い距離をとっていたが、娘は鋭い目をして、あきらかにこっちをにらんでいる。しかも江田夕子は唐突にいった。

「うっせんだよ」

 ぎょっとした。注意しなければききとれないような声だったが、そういったのはまちがいない。江田夕子はなおも一点をにらみつけていたが、やがて前にむきなおると、ふたたび歩きだした。歩きながらぶつぶついっているのがきこえた。

「まったく、なに様のつもりだよ」

 吐きだすような声だった。

「毎回毎回宣伝ばっかり派手にしくさって。くだらんショーにくだらん予言、うさんくさいんだよ」

 どうやら魔術師アレーのことをいっているらしい。龍平のことではなかった。娘がふりかえってにらんだのは自分ではなく西和舞台だったのだ。

「なあにが『みなさまのおかげで』だ、偽善者め。あいつの、あのアレーの魂胆はみえみえなんだよ。権力者に名をうって最終的には自分も権力者になりたいだけだろうが」

 これが気弱な娘のいうことだろうか。その正体への疑惑は深まった。そのあとの江田夕子のつぶやきは龍平の耳には入らなかった。

「上海なんて、大っきらい・・・・・・」

 その声は横断歩道の喧騒にかき消された。


 江田夕子は『虹口マーケット』の角に立っている。

 虹口マーケットはこの当時東洋一といわれた大マーケットだ。世界各国の食品がそろえられている。早朝から正午のピークの時間帯は、毎日日本の年末のアメ横なみに買い物客でごった返し、各国語がとびかった。

 別名『三角市場』ともいう。三角形の敷地にたっている三角形の建物で、一階には壁がなく、吹き抜けになっている。どこからでも荷が運べ、出入り可能だった。

 江田夕子はもう二十分も前からここにたたずんでいる。立っている場所は、もっとも人通りの多い角の入口の前である。角は大通りに面しているから、正面玄関のようになっていた。

 それでもいまは午後四時前で、ピーク時間帯はすぎているせいか、主婦の波はひいている。そのかわり阿媽たちが店のまわりをうろついていた。

阿媽とは金持ちの家に雇われている女中で、あいている時間に主人の食事用とはべつに自分たちの食事のたしに、ただで手に入る食材をここに求めにくる。業者が荷を運ぶ途中でよく路上に野菜や魚をおとすから、それ目当てでくるのだった。それも急いでとらないと、行き交う黄包車や路面電車の車輪にふみつぶされてしまう。

 人通りがたえない。

 そのマーケット前に江田夕子は立ちつづけている。いったいなにが目的か。龍平は首をかしげた。龍平は五メートルほど離れた入口に立っていた。マーケットの品物をのぞくふりをしながら、絶えず夕子に視線をそそいでいる。

 人を待っているにしては、江田夕子のふるまいは妙だった。人をいっさいみようとしないのだ。だれかが近づいてくるたびに、顔を反対方向へそむける。だれとも視線をあわせようとしない。

 なのに夕子は移動せず、同じ場所に頑固に立ちつづけている。そのうち顔をそむけつづけるのには疲れたか、天をあおぎだした。視線はトロリーバス(無軌道電車)の架線におちついたようだ。しかし心はおちつかないらしい。激しくまばたきをしたり、唇をなめたりかんだり、指をもみねじったりしている。やはり周囲の人間が気になるらしい。やはりだれかに声をかけられるのを待っているようだ。

 ――すこし早くつきすぎたかもしれない、と夕子は心に思っていた。もう何度もトロリーバスのアンテナが架線を通っていったのに、まだ声をかけられない。

 人がたくさんいて目のやり場に困るから、ずっと上をみてる。つまらないトロリーバスの架線をみつめつづけている。

 まわりの気配は音でわかる。家族づれの話し声、荷車のきしみ、交通巡査のどなり声、遠くかすかに汽笛の音。

 八角の匂いがする。

 また風がふきつけてきた。

 足もとがすこし、すうすうする。まだまぶしいくらい明るいのに、風は冷たい。朝からの疲れもあり、ずっと立っていると、おなかが痛くなりそうだ。

 そのとき耳なれた声が耳に入ってきた。

「ついたよ」

 待っていた声だ。一気にほっとしたが、夕子はわざと相手をみようとせず、架線をみたまま、なにもいわずにいた。すると、

「なに見てるの」

 相手はいった。視界のすみに団子鼻がみえる。

「なんにも」

 夕子はいった。声はぶっきらぼうだが、顔はうれしそうだった。

「変な人」

 呼応するように相手はいった。その声は笑っている。

 夕子も笑って、相手をみた。

 たちまち視界に妹が入った。名は今日子という。四つ年下で虹口の日本高等女学校の二年生。今年やっと十四歳になるが、こうして洋服をきて外にいるのをみると、自分と同い年ぐらいにみえる。それでいて姉妹なのにぜんぜん似ていない。妹は姉とはちがう、ととのった顔を笑わせていう。

「ほんと変な人、だから面白いんだけど」

 そういわれて夕子は怒るどころか、声をだして笑った。妹は愛情をもって自分を茶化してくれるからいい。

「これ、粒あんの今川焼。なかで買ってきたの。お腹すいたでしょ」

 妹が紙袋からだしてさしだすのを、昼食ぬきだった夕子は礼もいわずにもぎとっていった。

「よく買えたね」

「平気だよ、おじさんとは顔見知りになってるからね」

 虹口マーケットで今川焼きを売っているのは日本人男性だ。粒あん、こしあん、白あんの三種類を焼いている。

「よく家からでて来られたね」

 背中を丸めて、卵色の皮にふう、ふう、と息を吹きかけながら夕子はいう。熱いからそうしているのだが、周囲の人間の視線を避けるためにしているふしもある。

「友だちと約束があるといってきたから」

 妹はそういうと、姉になにかききたそうな顔をした。とてもききたくてたまらないが、きくか、きくまいか迷っているようすだ。なにをそんなに知りたいのか、わかりきっていたが、夕子はあえて知らないふりをして、焼きたての皮をきつつきのようにかじっていたが、案の定妹はきいてきた。

「コンテスト、どうたった」

 夕子は皮をあわててのみこみ、いったんむせたが、急に厳しい目つきをして、妹の目をのぞきこんでいった。

「お母さんにいってないよね」

「いってないよ」

「そう、いまからいうことも秘密だよ。――おねえちゃん、ファイナリストになった」

「うそ、やった、すごい。ほらほら、私のいうとおりになった」

 人目もはばからず手をたたいて、たいへんなよろこびようだ。

「だけど合宿に参加しなくちゃいけないんだよ」

「いいじゃない、合宿でがんばれば決勝に出られるんでしょう」

「よろこんでばかりもいられないよ。合宿代はIAAがだすから問題ないけど・・・・・・」

「お母さんにいってないことが問題?」

「それも・・・・・・ある」

 姉の口調がうわずっていることに気づいて、「うん」とうなずくだけにとどめる気づかいをみせた妹に、夕子はおびえた顔を隠そうともせずにいった。

「お母さん、なにしてた」

「怒ってるよ。お姉ちゃんが黙って家をでたから」

 さすがは十三歳らしく正直にこたえる。夕子は空腹などふきとんだ顔で、

「どのくらい怒ってる」

「文句ぶつぶついってたよ、『引越しの用意、まだぜんぜん終わってないのに、いったいどこ行ったの』って。いまもおねえちゃんの帰りを家で待ってる」

「怖い顔で?」

「うん。許さないといってた」

「最悪」

「あっ」ふいに今日子が叫んだ。夕子の白いブラウスの一点をさして、

「おねえちゃん!」

「なに」

「あんこ、こぼれてる、そこに」

「やだ、ほんとだ」

 白いブラウスにあんこのしみができている。食べかけの今川焼きを強くにぎったせいだろう、粒あんがおされてとびでてブラウスにおちている。

「もう、これでお母さんにもっと怒られるよ」

 あきれる妹にたいし、姉はおろおろと、

「どうしよう、この汚れ、落ちないかな」

 と、いってるそばからまた、驚いたはずみで今川焼きを強くにぎったせいか、ぼとっとあんこがおちた。今度は片方の手の甲であやうくとめたが、

「熱っ」

「気をつけて。ほら、ハンカチ。いま持ってないんでしょ」

「あ、どうも」

「ふいたら、とにかく今は帰ろう」

「え? やだよ」

「服もそんな汚れたし、あとで出かけるにしても、いま帰らないときっともっとお母さん、たいへんになるよ」

「わかるけど・・・・・・」

「もう。日が暮れちゃうよ」

 今日子は歩きだした。よろめくように夕子は追いかける。まったくどっちが姉でどっちが妹だかわからない。

「ほらバス、ちょうどきたよ」

 鈴の音が鳴りわたっている。

 チリンチリン・・・・・・架線に細長いアンテナをすべらせて、近くの停留所にやってくるトロリーバスの先頭には行き先「施高塔路 SCOTT ROAD(スコット・ロード)」の表示があった。スコット・ロードは姉妹の家のまえの通りだ。

「乗ろう」

 今日子はすでに走りだしている。

 バスはくるときは十分、二十分おきにくるが、こないときは一時間以上も待つことがある。

「ちょうどくるなんて、運がいい」

 バスはまだ停留所についていない。虹口マーケット前の渋滞にはまっている。姉妹が停留所についたあと、到着した。今日子は悠々とのりこんだ。夕子もそのはずだった。が、今日子につづいて乗車口にあがろうとしたとたん、脇腹になにかがつっこんできた。

 かごだ。

 石炭がいっぱいにつまれた、大きなかごを、男が横からぶつけてきた。かごをかついだその男はバス停の列を無視して、とおりぬけようとしていた。

「ウェイ!」

 どけ、といわんばかりに怒鳴り、夕子にかごをいっそう強くおしつけてきた。あんまりおされると白いブラウスが汚れる、でもいま乗車口からどいたらバスは行ってしまう、と夕子が躊躇していると、

「エイ、エイ」

 左からべつの声にどなられた。今度はなにかと左をみると、信じられないことに生きた子豚がいる。かごに入って、天秤棒にぶらさがっている。天秤棒をかついでいるのは肥った女だった。それが石炭の男とは反対側からつっこんできて、とおらせろ、とわめいている。まったくマナーもなにもあったものではない。だが夕子には文句をいう勇気も、豚をおしのけてバスに乗りこむ勇気もなかった。肥った女の鬼瓦のような顔をみたら金縛りにあったようになって動けなくなった。

 夕子は人の流れをせきとめる岩になってしまった。ラッシュアワーの改札で立ち止まって大顰蹙をかっているようなものだ。バスの運転手もいつまでも乗ってこない客にしびれをきらして、どなりだした。

「ウェイエイエイ!」

 前後左右から『邪魔だ』とわめかれる。豚が自分の腹すれすれでゆれる。臭い。かごの粗い目から黒い湿った鼻がとびだしている。その鼻がふとしたはずみに、夕子の手にふれた。

 ぎょっとして反射的にとびのいて、バランスをくずした。背後の四角い電柱の角に頭をぶつけたと思った。けれども夕子はその寸前におきあがっていた。奇妙なことに、自分でもわからないうちに、体が勝手に体勢をたて直したとしかいいようがなかった。倒れる寸前に自分をうしろからふわりとはねあげた力があったような気もするが、それがなんだったか考えるよゆうはなかった。それよりも目の前の事態に心を奪われていた。

食べかけの今川焼きがおちてしまったのだ。倒れそうになったとき、手を離してしまった。一度手を離れたそれは、直下のかごにむかっておち、網目をとおって子豚の口のなかにホール・イン・ワンした。とたんに豚は目を細め、むしゃむしゃと旨そうに口を動かした。夕子は茫然自失し、

「あーあ・・・・・・」

 と、思わず声をだしてため息をついた。

「おねえちゃん、早く」

 今日子によばれて我に返った。扉付近に立ち、夕子に手をさしのべている。姉は妹の手をつかんだ。妹がひっぱりあげる。そのあとから男性客がふたり、のりこんできたようだったが、姉妹は自分たちのことに夢中で気づかなかった。

 夕子の背中で扉がしまった。スコット・ロード行きのトロリーバスは虹口マーケットを発車した。ほっとする間もなく、しかめっ面をした車掌が、

「あん?」

 と、怒っているとしか思えない声をだして、乗りこんだばかりの夕子に右手をつきつけてきた。いっけんやくざの因縁としか思われないが、これでも車掌だ。ちゃんと制服をきている。右手をだしたのは料金を払えといっているのだ。「あん?」と怒鳴ったのは、乗客がのってくるたびに「行き先までの料金をお支払いください」というのが面倒なので、「料金を」と短縮していうようになったのが、いつのまにかそれさえも面倒になって単に声をだすだけになったものだ。これだと、ちゃんと払えという威嚇にもなって、だいぶ便利らしい。

 夕子は上海在住歴四年だから、その意味はもちろん知っている。だから必死で鞄をまさぐって財布を探した。けれど鞄のなかはいつも以上にぐちゃぐちゃで、どこになにがあるのかまったくわからない。

「あん?!」

 威嚇にふるえる手から、つかんだ手鏡が、ピンが、しわくちゃのスカーフがおちた。やっとの思いで財布をみつけだしたが、蝦蟇口にほつれたリボンの糸がまきついていて、ほどこうと力まかせにひっぱったら、蝦蟇口がひらいたはいいが、小銭が勢いよくとびだして床に散乱してしまった。パニックになった瞬間、

「終点まで」

 妹が上海語で車掌にいった。姉の分の料金を自分の財布からだして渡してくれている。

 車掌はおとなしく切符をわたし、ひきさがっていった。やれやれと思ったのもつかのま、次の瞬間、バスが大きくカーブして体がひっぱられた。おとした物を拾おうと中腰になっていた夕子はたちまちよろけて、そのままうしろの座席に尻もちをついた。

「・・・・・・頭にくることばっかり」

 バスが安定してから、おとした物をどうにか拾いあげ、今日子と二人がけの席に座り直した夕子はどっとため息をついて、

「やんなっちゃう」

 と、こぼしながら、妹の顔に隠れて、こっそり車内に視線をめぐらせた。進行方向をむいて二列、二人がけの椅子がずらりと奥までならんでいる。窓をとおる日差しが、床に光のじゅうたんと影をつくっていた。立っている乗客はいない。

 斜め後方には子どもを膝上にのせて座る白い麻の上衣をきた中国人らしい母親が座っている。うしろにはカンカン帽に中山服の男性、さらにうしろには大声で会話する旗袍姿の上海娘がいた。日本人はいないようだ。いっけん区別のつきにくい男性もいたが、中国語の大衆紙を読んでいるしちがうだろう。夕子はまわりに日本人がいると、おちついてしゃべれない。話をきかれると思うからだ。でもこのバスには妹以外に、日本語がわかりそうな人間はいない。そう思うと自由にしゃべれた。

「ああ、おなかすいた」

 思わず大きな声がでた。

「ぜんぶ食べたかったのに今川焼き、まさか豚にとられるなんて」

「あれは奇跡だった。おねえちゃんの困ってる顔、みものだったよ。いつもどおりにね」

「笑わなくてもいいのに」

 夕子は頬をふくらませた。それをみて破顔したのは、妹だけではなかった。もうひとりいたのである。それは後方で中国語の新聞をひろげている青年だった。笑った目が新聞の上からのぞいている。

李龍平だった。夕子のあとからバスにのりこんでいたのである。彼は日本に留学した経験があるので日本語がわかった。夕子を観察しているうちに自分が自然と笑顔になっているのがわかった。バス停で倒れそうになった夕子をうしろからこっそり助けおこしたのもそのためかもしれない。

 もとより江田夕子への疑惑は捨てたわけではない。じゅうぶんあやしい人間だ。だからこそつけている。が、ともすれば、それを忘れそうになる。それぐらい姉妹のやりとりは、ほほえましく思えた。

 だがまさか江田夕子を観察している人間が自分以外にいようとは、龍平は思ってもいなかった。その男は龍平とちがって冷静な観察に徹している。龍平といっしょに夕子のあとからバスにのりこんだ男だった。龍平は乗車時にその男をみていちど首をひねっている。どこかでみたような顔だと思ったのだ。だが、どうしても思い出せなかった。それからは男の存在は意識の外に追いやられた。龍平は江田夕子とその妹らしき少女のみに気をとられている。

なにも知らない夕子は日本語で大声でいった。

「早くこの街をぬけだしたい」

 バスは日本風の木造家屋が軒をならべる大通りを北上していた。

 さすがは呉淞路――北四川路につぐ虹口の大通りである。日本語の看板が目に入らないときはない。『井筒屋服店』、『甘栗太郎』、『白鶴』の看板、その先には『薬房 くすりや 仁寿堂』の旗。店頭ガラスには『新時代の胃腸強壮栄養剤 錠剤わかもと』のポスターがはられ、イラストの日本紳士たちが『此の外国で日本薬品が大流行とは我が日本人の肩身が広いよ』と宣伝している。

「ぬけだしたい、こんなところから、一刻も早く」

 姉がこぼすと、妹がいった。

「ファイナリストになったから、ぬけだせるんじゃない?」

「優勝しなくちゃ難しいよ。――ねえ、ほんとにいけると思う?」

「大丈夫だよ。おねえちゃんは個性的なんだから」

 妹は力強くいった。だが姉はぼそぼそといった。

「きょうちゃんは、そういうけどさ。おねえちゃんは顔もスタイルも、性格もぱっとしないから」

 個性的な歯並びをした口を動かしていう。

「予選に通過したのはやっぱり神様のいたずらとしか思えないんだよね」

 卑屈な目で今日子をみた。きょうちゃんのほうが顔も小さいし、よほどコンテスト向きだよ、とでもいいたげである。

「そんなこといって。私が勝手におねえちゃんの応募書類を送ったから、やる気がでないの?」

「いや、送ってもらってよかったとは思ってる。合宿はたしかにありがたくはあるよ。参加しさえすれば確実に親から離れられるからね」

「その合宿でグランプリをめざさないの?」

「・・・・・・」

 バスは海寧路に左折しようとしていた。交通巡査の旗があがるのを待っている。

 角の『至誠堂書店 書籍雑誌文具』の金看板が、傾きはじめた陽にきらめいている。店頭の日本語雑誌のまえには、水玉模様の着物姿の日本女性が立ち、『別冊付録 一目でわかる 生花の獨習法』とある表紙の婦人雑誌を眺めている。袖の白い水玉模様が雑誌に手をのばした瞬間ゆらめいた。

 歩道には下駄にぞうり、あるいは鳥打帽に絣の着物姿でせかせかと先をいそぐ日本人男性の姿がみられる。中国人が手鼻をかんでは電柱に鼻水をこすりつけるかたわら、ほこりを防ぐため白い手ぬぐいを鼻と口にあてる赤い着物姿の女性は、いかにも清潔好きの日本人らしい。

 姉が質問にこたえてくれないので、妹はじれていった。

「おねえちゃん、日本には帰国しないってきめたよね」

「・・・・・・」

 江田家は一週間後に本帰国をひかえていた。姉妹の父親は日本の大手商社の社員である。四年前に上海勤務を命じられ、家族をつれて上海に駐在したが、二週間前唐突に本社勤務をいいわたされて東京に帰ることになった。そのため母親はいま日本に船で送る引越しの荷物をまとめるのにおおわらわなのだ。だが夕子には家族と帰国する気はなかった。その気持ちは妹にだけは伝えていた。

「こっちで一旗あげるって、いってたよね?」

 姉はこたえない。また幽霊みたいな顔をしている、と今日子は思う。といって別にばかにしているわけではない。おねえちゃんは弱そうでいて変に凄みがある。その凄みは怒りや恨みからくるもののようだ。もとより妹はそこまで分析しているわけではないが、漠然とそう感じている。その姉がやっと口をひらいた。

「べつに永遠に帰国しないわけじゃないよ」

 逃げ腰な口調だった。

「おねえちゃんは親といっしょに帰りたくないだけ。その点合宿があるのは好都合ってだけ」

「だからって合宿をいいかげんにすごすつもりじゃないよね」

「・・・・・・まあね」

 外で鳴る交通巡査の笛の音がとぎれるのを待って、夕子はいった。

「そりゃ優勝はしたいよ。こんな顔でと世間の人は笑うだろうし、夢みたいな話だけど、将来が保証されるから。いまのところほかにひとり暮らしする手段もないし。ほんとは日本人女学校を卒業してすぐ家をでたかったけどね、思うように就職先が決まらなくてお金が手に入らなかったから」

「就職先が決まらなかったのは、えり好みしてたからだよね」

「親のコネで入れるところなんていやだったから。かといってコネ以外で楽な仕事を探すのはたいへんだし。店の売り子やウエイトレスはしたくないからね、性格がむいてないから」

 いいたい放題いう姉に、

「じゃ、なにがよかったの?」

 妹はからかうようにきいた。

「芸術に関すること、かな。絵を描くこととか。美術得意だったし・・・・・・」

 本人もよくわかっていないらしい。

 ボボボというエンジン音とともに、トロリーバスは左折を開始した。窓の外を流れる『大阪毎日・東京日日新聞』のビルディングを背景に、上下にゆれる姉の顔をみて、

「絵の勉強するなら東京のがいいんじゃないの」

 妹はいった。実はこの手の問答はいままでになんどもかわしていたが、姉の反応がおもしろいのもあって、わざとのように刺激するのだ。姉は案の定、目くじらたてていった。

「だめ。親と一緒に住んでる限り、描けない。毎日毎日『結婚しろ』っていわれるんだよ。『見合いしろ』ってね。それだけならまだしも、一日じゅう人の行動を監視して家のなかに閉じこめようとするんだから。そんな生活、もううんざり」

「でも東京に帰れば、良家の男子がいっぱいいるんでしょ」

 今日子はなおもからかい口調でいう。

「お母さんに洗脳された?」

 夕子は鋭くいった。文句をいうときだけ、姉の口調ははっきりする。

「おねえちゃんは結婚なんてどうでもいいの。ミス摩登コンテストがうまくいかなかったら、ヨーロッパに行きたい。芸術と自由の都で好きに暮らしたい。学校をでてぐだぐだしてたのは、夢を実行にうつす方法が思いつかなかったからだけなの」

「芸術と自由って――上海じゃだめなの? 上海だって河むこうにいけば外国でしょ」

「だめ、もう上海なんてうんざり、四年も住めば十分だよ、あきあきした」

 いつもの顔になった、と今日子は思う。悪口をいうときの顔。せばまってピクピク動く眉、まぶしそうにまばたきをくりかえす一重まぶた。薄いくちびるがとがり、出っ歯がのぞく。姉の顔は面白い。いくらみても飽きない。なにかしらひきつけるものがある。妹は誇らしくなって歌うようにいった。

「でもおねえちゃんは今日ファイナリストになりました」

 妹の明るさに、夕子はあきれたような顔をしたが、その目は怒っていない。むしろ笑いさえおびている。

 バスはいつしか『横浜橋』と名づけられた橋を越えた。右の窓を『上海歌舞伎座』の建物につづき、今日子も通った『日本尋常高等小学校』の煉瓦造りの校舎が流れていく。

次の停車駅についたとき、夕子の目がけわしくなった。バス停にいる、ひと目で日本人とわかる三人の娘が、ファイナリストの日本人の顔にみえたのだ。数も合う。夕子のほかにファイナリストになった日本人は三人だった。

 夕子は停車駅で、新たな乗客がのりこむたびに、びくびくしていた。知った人間がのりこんでくることを、ことのほか恐れているのだ。幸い三人の娘はファイナリストではなく、バスにものってこなかった。人心地がつくと夕子はさっそく不満を吐き出した。

「狭い日本人社会。日本人は三万人しかいないから、どこで知ってる人間に会うかわからない。そもそもろくな人間がいない。ここは日本じゃないから当然だけどね。故郷のマネしてつくったニセモノの町なんだから。ほんとなにもかも中途半端だよ」

 妹はなにもいわない。この手の愚痴は耳にたこができるほど聞いてきた。姉はあきもせずにくりかえす。

「上海にくる前は、日本がいやだった。つまんないと思ってた。本や雑誌で知った外国に憧れてた。だから最初は一応外国の上海にこられてうれしかったけど、こっちに来て用意されてたのはミニ日本人社会での生活。日本人学校、町内会、日本人のためにつくった神社での行事。実際に体験してみると、東京よりよっぽどきゅうくつ。子どもは中国人の住宅街にいってはだめ、ガーデン・ブリッジを渡ってはだめ、生水を飲んではだめ。禁止事項が多すぎる。おかげで本当の上海を知るまえから、この街のいやな面しか目に入らない」

「でもコンテストの合宿にでたら、日本人社会からはぬけられるでしょ」

 今日子はなだめすかすようにいう。

「おねえちゃん、初めてほんとうの外国にふれられるね」

「そうかな・・・・・・」

 夕子は気もそぞろにいった。窓の外に『川久食堂』がみえたからだ。終点はすぐそこだった。その先には家がある。家には怒った母親が待ちうけている。

「ああ、緊張する」

 ついに終着駅に到着した。『内山書店』の目の前である。たったいま内山書店からでてきた髭の濃い中年中国人が有名な作家魯迅とも知らず、夕子は妹について悄然とトロリーバスをおりた。

「じゃ、ここで」

 「施高塔路/SCOTT ROAD」と書かれた標識を背に、今日子はいった。

「いっしょに帰ったらまずいでしょ。おねえちゃんに会いにいったのお母さん知らないから」

「だからって、ひとりで帰るのは・・・・・・」

 姉はいかにも心細そうにいった。

「私これから友だちと会う約束、ほんとにしてるから。遅れちゃうよ」

「いまから遊びにいくの?」

「夜ご飯はうちで食べる。お母さんにもいってある」

 母親は妹には甘い。姉にはあまり許してくれない外出も妹には許可する。多少帰りが遅れても、それほど怒らない。そのたびに夕子は不公平と思う。いつもなら妹にいやみのひとつやふたついうのだが、本帰国の前に友だちと遊んでおきたい妹の気持ちもわかるし、なによりいまはひとりで帰らなくてはならないと知ったショックが大きくて、

「そう」

 と、しかいえなかった。

「おねえちゃん」ふいに妹が真顔で確認するようにいった。

「あと一週間は、いっしょに暮らせるよね」

「まあね・・・・・・」

「じゃ、あとでね」

今日子の去っていった西の方角には、日本陸戦隊本部の建物にかかげられた旭日旗がはためいている。

 夕子は北の道をとらなくてはならない。たのみの妹と別れ、意気消沈して家路につく姿は亡者さながらだった。道の両側の煉瓦塀も、若葉も、夕陽も、とろけた餅のようなちぎれ雲も目に入らない。ふくろうの鳴き声も、耳に入らない。家で待ちうけているものへの恐怖が夕子の頭を完全にしびれさせていた。もとよりうしろからひとり、さらにそのうしろからもうひとり男が足音を殺してついてきているとは、気づくわけもなかった。

 途中、極端なまでに顔をそむけたのは、通行人から目をそむけたというよりも、右手の日本高等女学校が視界に入らないようにするためだった。四年間通ったその学校には、いやな思い出しかなく、みただけで不快な気分になる。

 しかしそれよりももっと夕子がみたくないものがあった――我が家である。

 といっても、こればかりは目にいれないわけにはいかない。永遠にみえてほしくなかった物体のひとつがまず、目の前にあらわれた。

 アーチ型の鉄門である。デザインはしゃれている。スコット・ロードはこれでなかなかの高級住宅地なのだ。

 夕子は住民のくせに、泥棒のようにこっそり内部をうかがった。高い鉄門のむこうには、赤煉瓦の三階建ての家が十三軒、二列にわかれ、整然とむかいあってならんでいる。北の列の奥から三番目が、江田の家だ。

 家人が出ている気配はない。ないが、鼓動がはやまり、冷や汗がにじみだした。それ以上みると心臓がとびでそうだった。耐えきれずに門を離れ、鉄柵にそって外側から家々の裏手の方角に歩きだした。柵と各家の裏側のあいだはすきまがあるので、ちょっとした路地となっており、近づくと女の甲高い上海語、若い男の歌声、子どもの声がきこえた。

 上海語は阿媽たちだ。各家は奥のキッチンから裏の「路地」へでられるようになっているから、阿媽たちはそこで地面にたらいを置いて野菜を洗ったり、つみ重ねた煉瓦の上にまな板をのせて魚をさばいたりする。いまは夕食のしたごしらえの真最中だ。

 遊んでいるのは日本人の子どもたちだ。そのひとりが外に立っている夕子に気づきそうになったので、夕子は逃げるようにひき返した。また門付近にでると、

「ハロー」

 と、声をかけられた。中国人の守衛だ。しわで埋まった顔を門の脇の守衛室からのぞかせて、親しげに微笑みかけている。さっきあいさつしてこなかったのは、ほかのことに気をとられていたかららしい。いまは満面に笑みをうかべて、声をかけてくる。住民の顔を全部覚えているのだ。夕子は泣き笑いのような顔をむけて、

「ハロー」

 と、返事をかえした。守衛はたのみもしないのに鉄門をあけてくれた。

 もう逃げられない。

 緊張しすぎて、心臓がとまったみたいだ。

 夕子はまさしく幽霊のように音をたてずにドアから家に入り、廊下をしのび歩きした。廊下の左に階段、右に畳の部屋がみえる。

 畳の部屋なのに、その奥にベニヤ板がみえるのは、もともとあった西洋式の暖炉のマントルピースから風が入らないようにうちつけてあるからだ。そもそもその部屋は和室などではなく、洋式の応接間だったのだが、母親が引越してきたときに大工に壁をぬりかえさせ、畳を敷かせて、和室に変えてしまったのである。そんな母の都合で変えられた部屋を夕子は毛嫌いしていた。

 その部屋で母はいま割烹着をきて、縫い物をしていた。白いフェルトだけをみつめ針をいれている。

 今日の引越しの用意がひと段落ついたので、四年にわたる上海駐在中になにかと世話になった居留民団(在留日本人の自治団体)に贈呈するための少女人形を作っているのだ。

 だがそれはみせかけで、全注意は耳にあるのを夕子は知っている。母は娘が帰ったのは気配で気づいている。その証拠に二階へ逃げようとしたとたん、声が矢のようにとんできた。

「どこ行ってたの」

 たちまち夕子は全身を呪縛されたようになった。顔が意思に反して母のいる部屋にむいた。

「知ってるんだからね」

 母は針をとめ、顔をあげている。夕子は自分をからめとろうとする蛇のようにねちっこい視線をみていない。はじめから目をそらしている。にもかかわらず金しばりにあったように動けない。

「松本さんからきいたわよ。あんたが今朝バスで北四川路行きのバスにのったのみたって」

「・・・・・・」

「ブラウス汚して。黒いしみ、どこでつけてきたの。うちで食べないで、いったいなにしてたのよ?」

 いいながら母は立ちあがった。作りかけの人形が手をはなれ、布製の足が割烹着のポケットにひっかかった。母が歩むごとにさかさになった毛糸の髪がゆれる。ぶらさがった少女の黒いぬれたような目が夕子をみつめた。

「こたえなさい」

「・・・・・・」

 夕子はおしだまっている。黒光りする人形の瞳をみつめたまま。

「ぶらぶらしてたんでしょ。引越しの用意もせずに。無断外出は禁止といったの忘れた? 引越しの用意が終わるまで家からださないからね。そのつもりで覚悟しなさい」

 人形の足がポケットからはずれた。落下して、畳に衝突してころがった。フェルトの胴体から白い綿が腸のようにとびだした。

「いや・・・・・」

 夕子は蚊の鳴くような声でいった。

「え、なんていったの、きこえないわよ」

 母はこれみよがしに耳に手をあてた。夕子の頭にかっと血がのぼった。次の瞬間、別人のような声で叫んでいた。

「日本になんか帰らないっていってんだよ! 引越しの準備なんかしないからっ」

 そのとき階段をバタバタとおりてくる足音がきこえた。

「夕子、やっと帰ってきたのか。もう五時だぞ。昼飯も食べないで、おなかすいたろ」

 まのぬけた声をかけたのは和服姿の父親である。娘に甘い父親は、顔をみただけで安心したように表情をゆるめている。

「ちょっとお父さん、遅いわよ。もっと早く降りてきてよね」

「電話してたんだ、得意先に」

「お父さんはね、あんたが勝手に出かけたのが気になって。午後の予定はキャンセルしたのよ」

 母親は夕子を責めたが、父親は朗らかに、

「だいじょうぶだよ。明日に延ばしてもらったから。なに、日本人の画家の卵を六三亭に連れていく予定だったんだけどな。時間ならいくらでもある連中だから」

「あら、そんな予定だったの。キャンセルして正解よ。本来送別されるべき側なのに、お金のない芸術家にごちそうしにいくなんて。帰国してから変にたよりにされても困るでしょ。今世界は不況なんだから。お父さんの会社はうまくいってるからいいけど――それよりきいてよ、この子、日本に帰らないなんていうのよ」

「ほんとか、夕子?」

 夕子はうなずいた。

 娘のただならぬ表情をなんと考えたか、父親はいったん難しい数学の問題をまえにしたような顔をしたが、

「そりゃな、こっちに四年もいれば愛着もわくだろう、日本に帰りたくないという気持ちにもなるわな」

 娘の泣きそうな顔は上海への未練のせいと早合点したらしく、本国に帰りたがらない後輩を激励するようにいった。

「でも日本はおまえの故郷だ。日本人は日本で暮らすのがいちばんだ」

「・・・・・・」

「東京はいいぞ、上海なんかよりよっぽど平和で安全に暮らせる――」

 父親の声は突然さえぎられた。娘が叫んだからだ。

「そんなわけないっ!」

「お父さんになんて口をきくの」

 母親の叱咤もきこえないかに夕子は敢然といった。

「家族といっしょにいたら平和になんか暮らせっこない」

 父親は初めて顔色を変えた。

「なにいってるんだ・・・・・・」

「私は家族といたら平和に暮らせないんだよっ。だから一緒に帰らないといってるの!」

「いったでしょ、お父さん。この子、ひとりで上海に残るつもりでいるのよ」

「そんなことは許さないぞ、夕子」

「許さなくたって私はやる」

「一人前のつもりなのよ。笑っちゃうでしょ」

「十八歳なんて世間では大人だよ」

「まだ十八歳になってないじゃないの。だいたいあんたは、なんにもわかっちゃいない。ひとりで暮らすことが、どういうことか。上海でやっていくことが、どういうことか」

「これからわかる、ひとりになれば」

「親のありがたみをわかってないんだから。あんたがこの四年、上海で平和に暮らせたのは、お父さんとお母さんのおかげなのよ」

「そっちこそ私のこと、なんにもわかってなかったくせにっ! 私が平和に生活してたと、本気で思ってるの? この四年、地獄だったんだよ。学校も地獄、家も地獄。私が学校で仲間はずれにされてるって知ってた? せめて家では、ほっとしたかった。なのにお母さんは私の気持ちなんておかまいなしに、いつも文句ばっかりいって、自分のストレスを解消するためだけに私を怒って・・・・・・。私はこの家にいて、一日たりとも、やすらげたことなんてなかった」

「・・・・・・」

 母は黙った。ショックをうけたのだ。娘がそんなふうに思っていたとは、実際知らなかったのだ。学校のこともいまはじめて知り、申し訳ない気持ちになった。

 一方で腹もたった。「地獄」という言葉を投げつけられ、自分が親として娘のためを思ってしてきたことのすべてを否定された気がした。

「上海でどうやって暮らすの。この家にはもう住めないわよ」

 気づいたら、怒った口調でそういっていた。娘を心配する心からでた言葉だったが、通じなかった。

「そんなのわかってる」

 つっぱねるようにいわれ、母の理性はふっとんだ。

「まさか貧民街に住むつもり? 貧民街になんていったら犯罪者になるわよ。あんた、人を殺したいの?」

「・・・・・・」

 娘はこたえるかわりに、にらみつけてくる。ふだん親の目をみようともしないくせに、たまにみたと思ったら、これだ。母の血は逆流した。頭がかあっとのぼせて、

「なんで人殺しになるかわかんないの? 生きるためには働かなきゃいけない。働くためには河むこうの租界に行くことになるのよ。外国人の世界にね。あっちは百鬼夜行の街よ。阿片の匂いでいっぱいの、人殺しが支配しているマフィアの土地よ。あんた、マフィアに身を売りたいの? 悪人にさせられて人殺しになってお母さんたちを死ぬまで苦しめたいの?」

 気づいたら、激情のままにわけのわからないことを口走っていた。

 娘はこたえない。目が憎悪で光っているのをみると、さらに感情的になった。

「そんなのいやだからねっ! お願いだから恥ずかしくない子になってちょうだい。ただでさえ、あんたは恥ずかしい人間なんだから。そのうえ女学校を卒業してただぶらぶらして。だからもらってくれる人だってみつからなかったのよ。あんたと見合いしてもいいなんて男の人はね、正直いって全然いないのよ。いままでいわなかったけどね、お母さん、北四川路で買い物するたびに、いろんなお店の人たちに、うちの子を雇ってもらう可能性がないか、それとなくきいてまわってたのよ。内地に帰国命令がでるってわかる前はいっつも。あんたがぶらぶらしてても仕方ないからと思って。でも、どこでもていよく断られたわ。どうしてかわかる? あんたがだめな娘だと日本人居留民団のあいだに知れわたってるからよ。ああ、恥ずかしい。あんたは陰で物笑いの種にされてるんだから。どうしてもっと人さまに必要とされる子に育ってくれなかったの」

 横できいてて、さすがにあんまりだと感じたのか、ふだん妻に頭のあがらない夫だが、さえぎった。

「そんな噂、お父さんは別にきいたことはないぞ」

「うそよ、あるでしょう。だいたいね、夕子みたいな勘ちがいの恩知らずは、だれも好きになれないのよ」

「・・・・・・」

「生まれ変わりなさい。すこしは妹を見習ったらどう? 明るくて素直で、家のこともできる。それにくらべてあんたは料理も洗濯も掃除もできない。あんたは自分のことさえまともにできない。それでひとりで暮らすなんて、きいてあきれるわよ」

「ひとりのほうが、やる気になる。努力もする。料理だってなんだってできる」

「できっこないでしょ、あんたに努力なんて。体力がない人はなにをやってもだめ。すこしでも無理したら熱をだしたりおなかをこわしたりするんだから。いい人をみつけて結婚するのがいちばんよ。そしたら楽できるから」

 夕子は軽蔑の目を投げつけ、

「そんな人生、生きるに値しない」

 と、いいきった。母親は色を失った。吐き捨てるようにいった。

「あんたなんてね、野たれ死ぬだけよ。お父さんとお母さんがいなかったら、そこら辺の犬みたいに。それが望みなら、上海で野たれ死ねば?」

 夕子は肩をふるわせた。目が真っ赤にそまっている。大粒の涙があとからあとから頬をつたい、こぼれおち、畳をぬらした。

 父親がたまりかねていった。

「お母さんはね、おまえが心配なんだよ。上海でひとりで暮らすなんていうから。おまえは知らないけど、現実は甘くないぞ。だからいっしょに日本に帰りなさい。自活するにしても上海では無理なんだから、な、とにかく家族で東京に帰る、話はそれからだ」

 夕子は黙って泣きつづけている。

「お父さんのいうとおりよ。わかったら、さっさと引越しの用意をしなさい。あんただけよ、まだなにもやってないのは」

 そのとき、すっかりうちのめされたかにみえた娘が顔をあげ、きっぱりといった。

「できないっ!」

 声にはいままでとはちがうひびきがあった。

「いつまでわがまま――」

 母親が怒鳴りつけようとしたときだった。娘はいった。

「私、選ばれたから。ミス摩登コンテストのファイナリストに」

「・・・・・・!?」

 思いがけない話に、口をあけたまま茫然とする両親に、夕子はうちあけた――妹の今日子がミス摩登コンテストに夕子の名で書類を送ったこと。それが通過し、夕子は審査会場にいき、一次、二次と予選にうかったこと。今日の三次予選つまりファイナリスト選考会にも通ってファイナリストになったこと。来週から最終選考会にむけた約四か月間にわたる合同合宿がはじまるので参加するつもりだということ。

 きいているあいだ目を白黒させていた両親は、コンテストのパンフレットなどをみてようやく信じたようすだったが、次には当然のごとく「そんな大変なことをなぜいままで黙っていたのか」と責め、しばらくの問答のすえ、父親がいった。

「まあ、おまえは日本に帰ることだし、これは、ここまでの思い出にするんだな。ミス摩登コンテストの合宿にでたところで、長い目でみたら、おまえのためにはならない。あきらめなさい」

「いや」

 夕子はかぶりをふった。ほんの寸刻前までグランプリをめざす気などなかったのに、父親にとめられて、へそをまげ、かえって燃えあがった。

「だめだ、夕子。ファイナリストになれただけで満足しなさい」

「私はミス摩登になりたい。きょうちゃんだって私が優勝するの、楽しみにしてるんだから」

 夕子がこれだけわめいているのに母親はなぜかずっと無言である。黙っているのが、かえって不気味だった。母親のかわりに父親がいう。

「夕子、おまえはお姉さんなんだぞ。目をさましなさい。今日子にはお父さんからいっておく」

 母親はなお黙っている。うつむいて、作りかけの人形をじっとみつめている。夕子はこわくなった。恐怖をはらいのけるようにわめいた。

「親のいうことなんか、きかない!」

「だめなもんはだめだぞ」

 父親はめずらしく威厳をみせた。ふだん頭のあがらない妻にも怒ったようにいった。

「お母さん、なんとかいってやったらどうだ」

 すると母親は顔をあげ、いった。

「いいわよ」

 夕子は耳を疑った。母親は怒るどころか、うきうきとした調子でいった。

「やってみれば? コンテストの合宿いきなさいよ」

 棒をのんだような顔をする父親に、母親はミス摩登コンテストの書類を指さして、

「だってお父さん、これみて。主催は国際芸術協会(IAA)、スポンサーは工部局財政局、ケンブリッジ財団、最終審査の特別審査員はあの蒋介石夫人ですって。それにみてこの副賞、すごいわよ」

 はしゃいだようにいった。

「そうだけども・・・・・・」

 父親は急に弱くなった。母親は自分におされ気味になった夫にはかまわず、娘にむかって、楽しそうにいった。

「合宿所、東虹口のレスター花園ってあるけど、あそこはいい場所よ。お母さん、日本人会の集まりで領事夫人に案内されて一回だけ入ったことがあるの。豪華な設備だったわ。そこに無料で四か月も泊れるなんて――いいわ、いいわ」

 あまりの態度の変わりように夕子はあいた口がふさがらなかった。

「お母さんは許可するわ。ただし条件がある。合宿が終わったら、あんたもあとから東京に帰ってきなさいね。それだけの費用はだしてあげるから」

 母親はすっかりのり気だ。夕子は逆に意気ごみを失った。が、いちどグランプリになりたいといった手前、いまさらひくわけにはいかない。ふてくされたようにいった。

「合宿終わってすぐ帰国なんてムリだから」

「あんた、なんか勘ちがいしてない? 自分がグランプリになれると思ってるんなら、まちがいよ。あんたなんか、ムリよ、ムリ。ほかの娘のほうが美人にきまってるんだから。ここまで残れたのはただの運よ」

「じゃ、なんで――」

「人脈作りに利用できるからよ」

 母はいった。自分の思いつきに夢中な顔で、

「このパンフレットみると、IAAの役員や講師の方はもとより、ファイナリストの人たちも上流の子ばっかりね、各国の良家の子女が大半。お母さんね、前からあんたに、そういう令嬢たちと友だちになってほしかったの」

「おまえ・・・・・・」

「お父さんは黙って。これはいい嫁ぎ先をみつけるチャンスよ。いいわね、夕子。人生、人脈よ人脈。合宿所にいったら、お友だちをつくることだけを考えなさい。いつもみたいに人見知りしたらだめだからね。ひとりでも多くのお友だちをつくって、いい男の人を紹介してもらう機会をつくるのよ。四か月後、あんたが日本に帰ってきたら、お母さん、ちゃんとチェックするからね」

 否定を許さない目をして母親はいった。

「帰国したら人脈を作った証拠をみせるのよ。お母さんはお母さんで東京であんたのためにいい嫁ぎ先がないか探しておくからね。お母さん、婿候補のリスト作るから。それと四か月後のあんたが作ったリストとを照合して、どっちがいいか検討するのよ。そのつもりでね。――いいわね、わかったわね?」

「・・・・・・」

 娘は合意したものとみなして、母親はいった。

「そうそう、それとひとついっとくけどね、今日子にはもうコンテストの話はしないでちょうだい。変な期待をさせたらだめよ。あの子、あんたを変にかってるけど、影響与えたくないの」

「・・・・・・」

「あと七日は、うちにいるんだから、引越しの手伝いはしてちょうだいね。自分の部屋のもやるのよ。いくらいっしょに帰国しないといっても、あんたの荷物だけぜんぶ置いていくわけにはいかないんだから」

「・・・・・・」

「それと合宿までせっかく時間があるんだから、いまのうちにおしゃべりの仕方を勉強しておきなさい。英語はできるからだいじょうぶだろうけど、外交術がないんだから。お友だちを作るまえに嗤われたりしたらおしまいだからね」

「・・・・・・」

「それじゃ部屋に行って、引越しの用意をしてきなさい。それから残りの日、みっちり人づきあいの訓練をさせるから、そのつもりでね」

 母親は微笑さえうかべていった。その微笑を夕子は憎悪をこめてにらみつけた。大きくため息をつき、

「ああいやだ」

 呪うような声で、吐きだすようにいった。

「この家はあと七日もがまんできない」

 たちまち母親は悪鬼の形相に戻って、

「かんちがいしないでよっ」ひっさくように叫んだ。

「あんたなんか人間失格なんだから」

 次の瞬間、夕子は猛烈な勢いで部屋をとびだし、階段をかけのぼった。きこえよがしに足音をたてた。二階の自室のドアを思いっきり大きな音をたててしめると、床を割るばかりに踏みつけ、机の前に立ち、

「人間失格はあんただよ」

 つぶやいて、

「娘をなんだと思ってる」

 椅子をもちあげ、下にひびくようにわざと床にたたきつけた。

「自分の気持ちばっかり主張して」

 怒りにふるえる手で定規をにぎり、磨きぬかれた机につきたてた。

「私の気持ちなんかなんにも考えてない」

 母のかわりに机を傷つけようと、つきたてた定規を思いきりひいた。傷ついたのは定規のほうだった。

「なにが人づきあいの訓練だ」

 定規をまっぷたつに割ろうとしたが、割れないので、かわりにノートをひらいてページを破りすてた。

「さっさと消えろ」

 力まかせに破っては丸める。

「日本にでもどこへでも、さっさと行け! さっさと消えろっ」

 丸めた紙をいちいち、めちゃくちゃにほうり投げた。紙は、部屋のあちこちにぶつかった――本棚に、パリの絵葉書のエッフェル塔に、日本にいる小学校時代の友人からの手紙に。なによりも大切にしていたビラにもあたった。イギリス映画『黄昏の皇帝』のビラである。夕子はその映画をみたことがなかった。けれども四年前、街でポスターをみて、ひとめぼれしたのだ、ポスターの俳優ルドルフ・ルイスに。

 四年前、上海にきたばかりだった十四歳の夕子は、皇帝姿のルドルフ・ルイスの写真に恋をした。

 新しい学校にもなじめず、つらいことばかりに思えた生活のなかで、夕子はこの皇帝役の俳優とつきあうことを夢みた。ルドルフ・ルイスほどの男性でなければ交際しないと心に誓いさえした。毎晩寝る前、「私は将来必ずルドルフ・ルイスに出会って交際する。出会えなければ彼そっくりな人に出会って交際する」と念仏のように唱えたものだった。

 その一年後、ルドルフがまだ若いのにイギリス映画界を隠退したと知ったときはショックだったが、そのすぐあと夕子はよろこんだ。ルドルフが上海に移住したからである。自分の祈りが通じたと思い、彼に会える日はまぢかいと思ってから、いちども会えずにもう二年以上たつ。そのあいだ夕子は十七歳になり、もう十四歳のころの熱は冷めていたけども、それでもまだ好きには好きだったし、どうせ同じ上海にいるなら会ってみたいという気持ちは強く残っている。

 その憧れの俳優の写真にいま紙がぶつかったというのに、怒りでのぼせあがった夕子は気づかない。

窓は黄昏の光で輝き、カーテンは風にゆれていた。

「母ちゃん、こっちこっち。猫がいるよ」

 窓の外から幼い男の子の声がきこえてくる。

「あら、ほんとねえ」

 男の子の母親らしい、やさしい声がつづけてきこえてきた。

夕子は無意識に窓をみた。カーテンのむこうには、幸せの見本のような近所の親子の図があった。

 その図から遠くない敷地内に住民ではないふたりの男がいて、夕子の部屋のほうをみあげていたが、もとよりそれには気づかず、夕子はカーテンを憎々しげに平手打ちすると、なにを思ったかラジオのスイッチをいれた。

 たちまち蜂の大群がうなるような音響が部屋いっぱいに鳴りひびいた。ラジオはクラシック音楽を流した。曲は交響詩『はげ山の一夜』である。烈しい曲だった。夕子は最大音量にした。外の親子の声はかき消された。

 夕子は曲にあわせてブラウスのボタンを次々とはずしていった。あんこのしみがついたそのブラウスは、母のおさがりだった。ブラウスを脱ぐと、雑巾のように丸めて片手ににぎった。ふりかぶって、寝台に叩きつけた。怒りにまかせて叩きつけた。何度も何度も叩きつけた。

 曲はしだいにもりあがっていく。魔女の饗宴を表現したという交響詩である。

 そのとき、曲とはたしかに別の音が、階段のほうからきこえた。足音だ。足音は階段をのぼり、廊下を通り、自室に近づいてくる。一心不乱にブラウスをふりまわしながらも、夕子はたしかに感覚した。足音は、夕子の部屋の前でとまった。

 母親だ。

母親がきたのだ。ドアをそうっとあけて、わずかな隙間から自分をのぞいているのが感じとれる。母親はいつものようにこっそり部屋をのぞいて自分を監視している。

 みられているのを意識しつつ、夕子は母親のおさがりのブラウスを、それまでどおりに、いや、それまで以上に烈しく叩きつけた。母親の執拗な視線をはらいのけようとするかに。

 こんなブラウス砕けて散れよといわんばかりに、これみよがしに叩きつけた。はげ山の魔女のひとりになったように、髪ふり乱し、腕ふりまわした。

 「魔女の饗宴」は最高潮に高まった。そのときだった。

「うるさいッ!」

 獣の咆哮に似た声が耳をうった。

 母親が、いつのまに部屋に入っている。夜叉のような顔をして、蛇のように目を光らせている。

 曲がとまった。――いや、とまったのではない。母親がラジオのスイッチを切ったのだ。と思うと母親は両手を夕子の棚にかけて、

「荷物まとめなさいヨッ」

 狂ったように絶叫し、なかのものを叩きおとした。帽子、鞄、貝殻・・・・・・すべておちた。棚のみならず、そこらじゅうにあるものすべて両手でなぎたおし、床に叩きつけた。さっきの娘そっくりに腕ふりまわし、髪ふり乱して――。

 茫然とする娘のまえで、気がすむまで部屋のものをぶちまけると、足の踏み場もないほどちらかった床をみわたして母親はいった。

「あんたって・・・・・・こんなにだらしない」

 酔ったような光を目にひからせ、荒い息を吐いた。

「かたづけるのよ、終わるまで食事も睡眠も禁止」

 いい捨てて、去っていった。

 唯一、母が落とさなかったものがある。東の窓にある花瓶とその花。花は数日ごとに母の好みで置きかえられる。いまは一輪の真っ赤な薔薇の花が、笑うように風にゆれていた。

 夕子はその窓によろよろと無意識に近づいていった。

花瓶を叩き割った。

 鋭い音たてて砕け散った破片に傷ついた薔薇をみて、夕子は泣いた。寝台に顔をおしつけ、声をあげて泣いた。涙はあとからあとからとめどもなくあふれでた。

 切り傷のできた人差指でつかんだブラウスに、真っ赤な血がしみた。

 泣き声はいつまでもつづいた。十七歳の娘のものとは思えない、低い、獣の呻きのような泣き声だった。


 藍色の河にゆがんだ月がただよっている。

 汽笛がきこえる。風にのって蘇州河南岸の午前零時を告げるチャイムがきこえる。

 いつのまにか、そんな音がきこえる場所にまできていた。

 夕子は蘇州河の北岸を河にそって歩いていた。この真夜中、ここまでこようとしてきたわけではなかった。ただ家をでたかった。つい二時間まえまで自分を監視していた母親はいまは眠りについている。両親が寝しずまったの知ると、片づけを放棄して夕子は発作的に家をとびだした。そんなことをするのは四年間上海にいて初めて、いや、生まれて初めてのことだった。どこまでトロリーバスに乗ったのか、どこから歩いたのか、よく覚えていない。無我夢中で家から遠ざかっていたら虹口の最南端――北岸の租界との境にまできていた。

 ガーデン・ブリッジがもう、そこにみえる。右手のアスター・ハウス・ホテル同様、きらきらしくライトアップされている。土曜の夜らしくにぎやかだ。もう日づけも変わったというのに、橋の欄干でたくさんの人が夜景を楽しんでいる。白人の船乗りや国籍さまざまの野鶏、タキシード姿の中国人青年にドレス姿の白人娘――ほとんどが夕子と年のかわらない若者だった。みな友や恋人とよりそい、あるいははしゃぎ、笑っている。

 ガーデン・ブリッジ――河むこうの「外国」につながる鉄骨橋。この四年間、渡りたくても渡れなかった橋。渡るどころか、ふみいれることさえできなかった橋。

 この際自分もふみいれてみようか、と夕子は思った。でもそうしようとするとものすごい罪悪感におそわれる。「あの橋は絶対に渡ってはいけない」という親の声が耳の奥でして動けなくなる。

「小姐(シャオジエ)」

 ふいに声をかけられた。びくっとしてふりかえった。みると横に坊主頭のやつれた男がニヤニヤして立っている。ひと目で人力車夫とわかる風貌をしている。ここまでカモにならないよう無事にきたが、ついにねらいをつけられたかと思い、夕子は全身を凍りつかせた。無視をきめ、ふるえる膝を動かして蘇州河沿いを歩きだしたが、

「 去 儿(ニーツーナー)」

 男はそういって追いかけてきた。夕子にはなにをいっているかわからなかったが、数少ない知っている中国語のひとつ、

「不要(プーヤオ)(いらない)」

 を連発して逃げ足を早めた。だが効果はまったくなかった。男は蠅のようにまつわりついてくる。

「ウェイ」

 そういわれてまた不要といおうとした瞬間、グーと腹が鳴った。夕方今川焼きを食べそこねて以来、なにも食べていなかったせいだ。その音をしっかり耳にとめた男はニヤッと笑って、

「おいしいもの、やろう」

 という意味の中国語をいって、突然夕子の腕をつかんだ。あばただらけの男の目は好色の光でぎらついている。もがいても男の力は強力だった。不幸にも周囲は塀にかこまれ、通行人はなく、助けの求めようがなかった。そばにとめてある黄包車に夕子は力ずくでひっぱられていく。

 もうだめだ――とあきらめかけた瞬間だった。車夫がぐおっというような奇声を発してのけぞり、あおむけにひっくり返った。なにが起ったかわからず目を白黒させる夕子に突然、

「なにしてる」

 だれかが日本語でどなった。背の高い男の人がいつのまに、黄包車の横に立っていた。スーツをきた若い男の人――この人が車夫を倒してくれたのだろうか。問おうとする夕子に男の人は日本語で叫んだ。

「逃げろ、早く」

 切れ長の目が凄いくらい光っている。

「いいから早く」

 はじかれたように夕子は走りだした。頭は真っ白だった。ただめちゃくちゃに足を動かしていたら、ガーデン・ブリッジのたもとを横ぎり、知らぬまに蘇州河ぞいに達していた。

 いちだんと暗い場所だった。蘇州河は黄浦江とはちがう。河幅もそうだが、景観と雰囲気もだ。夜ともなれば、小型船や 板が何艘も列をなして停泊し、狭い河の半ばを埋めつくす。船上生活者たちが寝るために集まってくるからだ。どの船も屋根がわりにボロ布でおおいをしたり、すりきれた板をたてかけてあったりしているため、闇に沈むと幽霊船のようにみえる。夕子はこわくなり、足をすくませた。

 そのときだった。

 うしろから足音がきこえた。夕子は総毛だった。その人間は夕子を追いこした。そして行く手をふさぐように立った。といっても露骨にそうしたわけではなく、欄干にもたれ、腰をつきだす体勢になった。

 さっきの男の人だった。どうして私の行く手をさえぎるのか、という夕子の疑問はすぐに隅に追いやられた。べつのことに心を奪われたからだ。

 街灯に照らされた男の人の横顔は、『黄昏の皇帝』のポスターの顔にそっくりだった。

 ――この人、もしかしてルドルフ・ルイス!?

 夕子はかつて毎晩のように「将来私はルドルフ・ルイスに出会って交際する」と念じた。その念がいまになって通じたのかもしれない、と思った。神さまが私のもとにルドルフ・ルイスをつかわしてくれ、車夫から守ってくれたのだろうか。興奮が我を失わせた。男の人がさっき日本語を使ったことも忘れ、夕子は気づいたら英語で、

「あの」

 と、声をかけていた。男の人は動かなかった。それでもいった。

「さっきはありがとうございました。助けてくださった方ですよね・・・・・・」

 声が尻すぼみになったのは、途中でそのひとがルドルフ・ルイスではないことに気づいたからだった。

 この人は白人でない、東洋人だ。

 とはいえルドルフ・ルイスとまちがえたほどの美男にはちがいない。彫深く、鼻筋がとおっている。背も高く体格もすばらしい。ここで別れるなんてもったいない。夕子は以前「ルドルフ・ルイスと出会えなければ彼にそっくりな人に出会って交際する」と念じた。それだけに目の前の人とつながりたい気持ちになった。

 けれども男の人はなにもこたえてはくれない。夕子のほうをみもしない。にがみばしった横顔をむけるばかりだ。夕子は自分をはげましていった。

「日本語使ってましたけど・・・・・・日本人の方ですか?」

「・・・・・・」

 男の人はこたえない。なぜ無視するのだろう、ほんとうにこの人が私を助けてくれたのだろうか。しだいに夕子は冷静になった。やっぱりかんちがいだったのかもしれない。こんな格好いい人が私みたいな娘を相手にするわけがない。そう思って立ち去りかけたときだった。

「殺風景だなあ」

 声が耳に入った。男の人が日本語でつぶやいている。

「せっかくだからもっと明るいところにいこう」

 ひとりごとなのか、夕子にきかせるようにいったのか、河ぞいにスタスタと歩きだした。ガーデン・ブリッジのほうへ引きかえしていく。夕子は迷ったが、追いかけることにした。

 男の人は橋の手前で立ちどまった。と思うとふりかえって夕子をみた。夕子はびっくりした。男の人は手招きをしている。笑顔ではなく、真顔である。夕子はおずおずと近づいた。すると男の人はまじめくさった調子でいった。

「もらってくれるとありがたい」

 そういって、いきなり温かい紙袋を夕子ににぎらせた。

「・・・・・・!」

 紙袋にはパンがひとつ入っていた。夕子は思わずわきあがる唾をのみこんだ。男の人は照れたようにいった。

「買いすぎて余っちゃって」

 買いすぎたといったが、袋は一個用で、どうみても自分用に買ったもののようだった。それを自分にくれたとわかって夕子は、

「あ、ありがとうございます」

 思わず目を輝かせて礼をいった。男の人がなぜパンをくれたかはわからない。けれど空腹だったし、二重にうれしかった。

 夕子は知らなかったが、この男性は上海時報記者李龍平だった。

 龍平は同僚と共同租界で十一時まで飲んでいたが、その同僚がなじみの芸妓とよろしくやりだしたから、ひとりでてきたのだ。酔いざましのつもりでバンドまで歩き、途中空腹を感じて深夜営業のパン屋に寄ったりしているうちに、いつのまにガーデン・ブリッジを渡って虹口にまできていた。

 江田夕子を助けたのはまったくの偶然だった。河ぞいに歩いていると、車夫が若い娘をむりやり黄包車にひきずりこもうとしている現場に遭遇した。黙ってみていられず、好色な車夫を殴り倒した。そのあとはじめて若い娘が江田夕子だったことに気づいた。

 逃げろ、と日本語でいったのはそのためだ。龍平も車夫に息があるのを確認すると、面倒を避けるため、すぐに現場をはなれた。そのあと江田夕子が危険区域に入っているのをみつけ、放っておけずに、近づいたのだった。そのわりには声をかけるどころか、声をかけられてもそっぽをむいていたのは、照れくさかったからだ。

「いま食べれば、まだあったかい」

 龍平はぶっきらぼうにいった。そのアクセントが日本人とは微妙にちがうことに夕子ははじめて気づいた。この人は中国人だろうか。ききたかったが、男の人は質問はうけつけないといったように、そっぽをむいている。

だがこのとき夕子は確信した――私を車夫から守ってくれたのはこの人だ、と。胸が高鳴って、思わずきいた。

「あの、お名前は?」

 男の人は夕子の問いに重なるようにいった。

「カササギ、いないかな」

「は?」

「鳶でもいいんだけど。いないか」

 なんのことをいわれたか、わからなかった。男の人は黄浦江をみつめている。夕子はそれ以上名前をきけず、しかたなく自分も黄浦江をみつめた。

 黄浦江は蘇州河にかかるガーデン・ブリッジを越えた先にみえる。右に大きくカーブしているのが、沿岸の灯りでわかる。

ライトアップされた桟橋、停泊中の軍艦や豪華客船、灯映りして玉のように光る船窓。それらにそうようにバンドの洋館群がある。煌々と宝石のようにつらなっている。その光を水面が反射している。

黄浦江はさながら闇にうかぶ天の河だった。

「ああ、河むこうにいってみたい」

 夕子は思わず口にだしていった。すると男の人がいった。

「行けるよ、いつでも」

 男の人の横顔を光が照らした。イタリアの貨物船がすぐそばをとおっている。汽笛が鳴った。

波が河にうちよせ、岸にあたってしぶきをあげる。

彼のネクタイが風になびく。ワイシャツがはためく。

永遠にこの時間がつづいてほしい――夕子がそう思ったときだった。

「みつけたぞ、夕子」

 大声が耳をうった。父親の声だった。寝たはずだったが、夕子を探してここまできたのだ。トイレにでも起きて娘の不在に気づいたのだろう。一瞬でそうと察した夕子は全身を硬直させて無視をきめこんだが、

「おい、夕子。探したぞ」

 父親は近づいてくる。男の人とのあいだに割りこんできそうな勢いなので夕子は制するようにいった。

「探さなくていいのに」

 龍平に話したときとは別人のような声がでた。

「いいから車にのりなさい」

 うしろから母親がぴしりといった。

 その母親をみて、目をみひらいたのは、夕子よりも龍平だった。昼間夕子をつけて自宅まで行った龍平は、外から夕子の母親の声はきいたが、顔はみていなかった。いま初めてみて、衝撃をうけた。

 自分の母親――李花齢に似ていたからだ。もとより見た目はまったくちがう。いったら悪いが夕子の母親が太り気味なのにたいして、李花齢はグラマーで、ひきしまるべきところはひきしまっていた。にもかかわらず花齢かとみまがえたのは、夜で暗いせいもあるが、雰囲気が酷似していたからだった。

「ほら、夕子」

 父親は娘の腕をとった。横の青年のことはわざと無視している。

「早く乗りなさい」

 憮然とする娘に母親はいらだった声でいった。 

「パンなんか買って。お腹すいたんなら片づけを先に終わらせなさいといったでしょう」

 青年の視線が妻にそそがれつづけているのを不審に思ったか、

「あんた、なんだ」

 夕子の父親は龍平にいまさらのように、くってかかった。

「どこの社員かってきいてるんだ」

 日本語である。龍平の服装や顔つきから判断して日本人駐在員と判断したようだ。龍平はふつうだったらこんな態度をとられると鼻であしらうが、いまはなぜか、ちがった。

「上海時報の社員です」

 そう日本語ですなおにこたえた。

「なんだ、中国人か」

 父親のほうが軽蔑的な目つきをしていった。差別意識をむきだしにしている。

「中国人記者とな。ミス摩登コンテストのであれか、ファイナリストとかいうのを追ってるのか」

「・・・・・・」

 龍平は返事につまった。夕子の父親のいうことは、まったくの見当ちがいではなかったが、いまはそれがねらいで江田夕子に近づいたわけではなかった。弁明しようとも考えたが、

「よけいなこと、してくれるなよ」

 夕子の父親に釘をさすようにいわれて、言葉を失った。

江田夕子は両親に自動車にのせられ、日本人街へと去っていく――。



 

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