好かれたい病

吉津安武

プロローグ

 炎が舞う、白煙があがる、あらゆる破片が舞いちる、地面が焼ける――。

 時は一九三一年三月三〇日、午後四時四十九分。

 突然とどろいた轟音とともに一瞬にして悪夢の光景を展開した敷地内の、ただひとつ残っている建物から、その男はひとりの女を背負って、必死の形相ででてきた。

 うしろにはなお吹きあれる炎と煙、くずれゆく建物とがある。

 場所は上海の虹口、日本人街からすこしはずれたブロードウェイ・ロードの一角。

 通りを往来していた人びとはふいの爆音に肝をつぶし、音の震源をみて凍りついた。

 定休日の『読書室リラダン』が燃えている。広い敷地内の六つの建物は半ばが炎にさらされている。炎は勢いがあった。外のものまで呑みこみそうだ。一帯は樹木でかこまれていたので、実際には通りに被害がおよぶことはなかったが、冷静に判断するよゆうはなかった。地鳴りのような轟音を耳にしたショックが大きかった。建物にしかけられた爆弾が爆発したと知るまでもなく、人びとはいっせいに恐慌をきたし、逃げまどった。

 だれも自分の身を守るのでせいいっぱいだったせいか、だれも正門からひとりの男がでてきたことには気づかなかった。

 リラダンの正門は表通りではなく、人目につきにくい東側の横道に面していたせいもある。

 でてきたのは、さっき建物から女を背負ってあらわれた男と同一人である。しかし、いま、男は女を背負ってはいなかった。かわりにリアカーをひいている。

 女はどうしたのか? リアカーにはなにが入っているのか?

 そもそもこの男はいったい何者か。

 リラダンの経営者でないことはたしかだ。経営者は四十代女性である。となると、この男は従業員か? それとも爆破犯か?

 年はみたところ四十代半ばぐらい。中国人らしく碗帽に長衫(チャンサン※ひとえで丈がすそまである男性用中国服)を身につけている。顔は煤けているのと黒眼鏡に隠れているのとでよくわからない。

 騒ぎにまぎれ、リアカーをひいた男は現場を離れていく――。


 同じころ、そこから一キロほど離れた日本人街のメインストリートでは、ひとりの日本人少女が、自分の不幸はなにもかもまわりのせいという顔をして歩いていた。

 おととい卒業した日本高等女学校の制服を着ての、企業面接の帰りである。もう三月も終わりだというのに就職活動はまだ終わっていない。

 なにをみても、頭にきた。

 なにもかもが、憎かった。

 もしこの手に銃があったなら、とっくに乱射していただろう。

 どいつもこいつも邪魔だ邪魔だ邪魔だ。のんびり散歩してる老白人夫婦も、うなぎ屋の前で鼻をぴくつかせている中国人も、ロシア人娼婦に鼻の下のばしてる日本人会社員もみんなみんな消えてなくなればいい。

 少女の暗い顔にたいして、上海の日本人街は明るい光でいっぱいだった。

 春の黄昏どきである。やわらかな、のどかな風がふいている。

 緑色の路面電車も客をのせた黄包車(ワンポーツ※人力車の上海での俗称)も陽炎のなかを走っているようで、たちならぶ二、三階建ての日系商店につらなる旗は虚空をなでるようにゆったりゆらゆらゆれている。

 その下には、あたたかさに酔っぱらったような顔があふれていた。中国人に日本人、白人と歩いている人種は一様ではないが、上着をぬいでにこにこしている点では共通している。月曜だというのに家路を急ぐ気配もない。

 少女の前には旗袍(チャイナドレス)姿のにぎやかな三人づれが歩いていた。

 その三人が突然立ちどまった。キャッキャッと騒ぎだした。永沢写真館の外壁の貼り紙に目をとめたらしい。

 「ミス摩登(モダン)コンテスト開催」と三か国語である。中国語で「募集要項」と書かれてあるところを指さしあい、興奮してなにかしゃべっている。

 行く手をふさがれて少女は動けなくなった。「通ります」と断りをいれる勇気はない。背中をにらみつけた。

 にらむとき、少女はいつも、自分の両目から特異な光線が照射されて相手を消してくれる、という幻覚をみる。だから念じる。

 ――邪魔だ、消えろ。

 強く念じれば対象をほんとうに消せるような気がする。

 少女は目に痛くなるほど力をこめ、しばらくじいっと待った。

 しかし、いくらにらんでも、消えない。三人は旗袍のすそを春風にめくらせたまま、話に夢中になっている。黄、白、碧、三つの旗袍のすそが春風にめくれてひらひらと舞い、蝶の群れのようだ。スリットから見え隠れする脚はすらりと長い。年は少女と変わらない、十八、九だろう。三人とも容姿端麗である。ミス摩登コンテストに応募したとしても、おかしくはない。

 少女は劣等感にひたされていく。同じ年ごろなのに少女はいかにも地味だ。制服と、おさげ髪のせいもあるが、なにより容姿に華やかさがない。いわゆる十人並みで、これといった特徴もない。

 人びとはうしろからどんどん少女を追いこしていく。少女は動けない。

 ちんちん、ちんちん――。路面電車がおどけたように鈴の音を鳴らしてとおりすぎていく。笑い声があちこちからきこえる。

 だれもが気楽そうに笑っている。あっちにも、こっちにも白い歯、白い歯、白い歯――。

 絵までもが笑っている。三星啤酒(サッポロビール)の月份牌(ポスター)だ。露出度の高い旗袍をきた女明星(スター)が、みんなの視線をあびて得意げにビールをかかげている。モデルになっているのは、いまをときめく胡月(女優名)。うっとり微笑む唇をなぞってすぎる人があとをたたない

 それもあれも消えろとばかりに少女はにらみつける。みんなみんな消えればいい。

 しかし、なにもだれも消えてくれはしない。

 それどころかだれも自分の視線に気づいてさえいない。

 失望して少女は天を仰ぐ。

 明るい。春の上海の空は黄昏どきなのになおも青かった。底ぬけに明るかった。

 その明るさ青さが少女は気にくわない。空にまでばかにされたような気がしたどころか、空こそ不幸の根源のような気がしてきて、仇敵のようににらみつけた。自分の視線で空を焦がそうとでもするように――。

 すると赤いものが視界の下のほうに入った。一キロほど先だろうか。甍の波のむこうの一点が真っ赤に燃えている。

 夕陽ではない。あっちは南だ。しかし、赤い。赤黒いといっていいほどだ。黒いのは、あれは煙か、――黒煙だ。

 赤いのは、――炎だ。

 火事だ、と思った少女の顔に今日はじめての笑みがひろがった。どこかの建物が確実に燃えている。自分の念が通じたように思った。

 ざまあみろ。みんな燃えればいい、みんな焼けてしまえ。そしたらみんな不幸になる。私みたいに不幸になる。

 私は今日もみじめだった。思いだすのも苦痛な日商丸泉上海支社の事務職の面接のせいで――。

 私はマナーが身についてないし、緊張するとふつうのこともまともにできない。今日もこなせたのはドアをあける作法までで、面接官が四人もいるのをみたら動転して、一礼しなきゃいけないのに体がちゃんとまがってくれなくて頭を面接官ではなく観葉植物にむけてお辞儀したら、みんな凍りついてるのがわかった。失敗したと思ったら視界がかすんで、むやみに前進して適当な場所でとまったから椅子の位置がよくわかってなくて、面接官に座れといわれてその場に腰をおろしたら、椅子は十センチもうしろにあって、膝がガックンとなってよろけて尻餅をつきそうになった。

 みんなが失笑をこらえているのがわかった。

 体勢はどうにかたて直したけれど、気持ちはそうはいかなくて手がふるえて、鞄を床におかなきゃならないのに椅子の横にたてられなくて何度も倒したあげく自分の足でふんでしまった。

 やっとたてなおして顔をあげたとき、面接官の顔は石のようにかたまっていた。そのあとは、ろくに質問もしてくれなかった。

 渡辺という紡績課の課長が私を推薦してくれているにもかかわらずだ。

 そう、私が面接をうけられたのは父親の学生時代の友人に丸泉の課長がいる関係で――いわゆるコネがあるからだった。

 それでも自分は軽くみられているだろうとは思っていた。

 女学校の成績もそれほどよくはなかったし、なにより私はもう卒業生だからだ。それにすでに内定をもらっているのは、部長よりもっと上の役員クラスの推薦をうけた人間ばかりだときいていた。

 それにしても、あの面接官は意地悪だった。私が知人の縁故できているのを知っていて、平気で人を傷つける言葉を口にした。「君、声が小さいねえ」、「うちでは、やってけないよ」、「口もまともにきけないとは、幽霊みたいだね」・・・・・・。

 ショックだった。私は自分という人間そのものを否定された気がした。そして情けなくも「すみません」を連発して帰ったのだった。

 この顛末を親に話せば、どうなるか。

 母親は必ず父親の面子をつぶされたと憤るだろう。渡辺さんに顔むけできない、と嘆くだろう。

「いつも親に恥かかせてばっかりで。コネをぜんぶむだにして」

 そういったあとで母親はいつものように、こういうにきまっている、

「あんたみたいな、人の気持ちのわからない、自分のことしか考えられない人間なんて、どこだって通用しないのよ」

 傷ついた私をさらに傷つける言葉をふりそそいだあげく、最後にあの捨て台詞を吐くのがきまりだ。

「あんたなんか、人間失格」

 突然、少女は車道に駆けだしていた。たちまち黄包車にぶつかりそうになり、罵声をあび、路面電車に警笛を鳴らされた。頭のなかに呪文のような文句がぐるぐるまわった――路面電車の鈴の声、庶民無情の響あり。傾国美人の肌の色、醜女必敗の理をあらわす。遅れる者に光りあたらず、ただ春の夜の夢をみるのみ。猛き人らはいつに滅びる、ひといきに風の前の塵となれ・・・・・・。

 足がとまらない。少女は車道をつっきっている。

 いつしか路地に迷いこんでいた。

 すうっと冷気が手足にしみた。

 細く狭い裏路である。両側には黒い壁がつらなっている。むこう側から汚れた中国人の子どもたちがやってきて、わーっといいながらかけぬけていった。表どおりとは雰囲気がちがう。けれども少女は走りつづけた。夕餉のしたくの音や口笛、広東語やロシア語のラジオ、バイオリンの練習曲の流れる道を。

 路地はいりくみ、奥深かった。もういくつ角を折れたか、いっこうにつきない。

 ふいに音がぴたりとやんだ。ふりかえれば路には人ひとりいない。自分の靴音ばかりが壁にあたっては、はねかえる。

 我に返って少女は立ちどまった。

 そこへ、右の横道から、ひとりの男があらわれた。破れた碗帽をかぶり、煤けた長衫をきて、リアカーをひいている。雪がつもっているとみえたのは、白い花だった。無数の白い花がいっぱいリアカーに積まれている。それを男は慎重に運び、路地の奥へむかっていた。少女には気づかないのか、みる気配もない。

 花だけを積んでいるにしてはリアカーは重たそうだった。

 花の下になにかほかのものが入っているのだろうか?

 なんとはなしにあとを追っていた少女の頭上に突然、なにかがふってきた。ひたいをぬぐい、手についたものをみた少女は瞠目した。それは桜の花びらだった。

 視界は突然にひらけた。菜の花と雑草とが風にそよいでいる。そのむこうに立っているのは満開の桜の木だった。

 そこは昔、裕福な日本人が住んでいた屋敷跡だった。桜は明治時代、上海で一旗あげ、財をなした日本商人が移植させたものだった。少女はそんなことは知らない。ただ目の前の光景に目を奪われた。

 桜にむかって男はリアカーをひいている。男の影が斜陽に長くのびて、雑草に線をひいた車輪の跡に重なっていく。ほかに人影はない。前にもうしろにもあるのは花と緑ばかり。きこえるのは車輪の響きと、鳥の鳴き声ばかり。――いや、どこからか、のどかな明るい歌が流れてくる。どこかで蓄音機がまわっている。路地の家に日本人が住んでいるのかもしれない、歌詞は日本語だった。

  日暮れて 辿(たど)るは わが家の細道

  せまいながらも 楽しい我家――

 たちまち少女は眉をよせた。大嫌いな歌だった。タイトルは「私の青空」。原題は「My Blue Heaven(私の青い天国)」。日本にいた三年前、ラジオでしょっちゅう流れていた。そのたびにラジオを消したい衝動にかられたおぼえがある。

 家が天国なんて、私をばかにしてる。なにが「楽しい我家」だ。私にとって家は地獄。私の自尊心と自信を根こそぎ奪う場所なんだ。

 少女は腹だちまぎれに雑草をむしりとり、空にむかってなげつけた。

 軽い葉はいくらもとばずに落下して、自分の体にふりかかってくる。よけいに頭にきて、てあたりしだいに草葉をちぎった。夢中になるあまり、少女は男が視界から消えていることに気づかなかった。曲は鳴りつづけている。

  せまいながらも 楽しい我家

  愛の灯影(ほかげ)の さすところ――

 男は桜の木のむこうにいた。

 すこしいくと小屋がある。そこに男はリアカーを横づけにした。

 そして人目が届かないことを確認すると、リアカーの荷台に両手をつっこみ、花の下からなにかを抱きおこす体勢になった。

 すると霜のような白い花の山を割って、人の顔があらわれた。西洋人的に彫りの深い、四十代女性の顔である。美しく化粧されてはいるが、生気はない。目も口もかたくとじている。

 首から下の花も男はなでるようにとりのけた。女性の豊満な胸をつつむシルクの旗袍があらわれた。白い生地はしかし真っ赤にそまっていた。血痕である。胸の下には小刀がつきささっていた。刃は心臓をひと刺しにしている。つまり女性は死んでいた。

 女性の名は李花齢(リー・ファーリン)。読書室リラダンの経営者で、男の愛する女性だった。

 男が約束もないのに、定休日のリラダンを訪れたのは、虫が知らせたためだった。花齢はこのごろは定休日でもリラダンにでることが多かった。

 愛する女性に会うために、中庭をかこむ六つある建物をすべてまわるつもりで事務所Aを訪れたとき、男は変わり果てた花齢と対面した。

 花齢はソファの上で刺殺されていた。そばにかけよろうとした瞬間、中庭をはさんだむかいの読書室Aで突然の爆破がおこった。男はとっさに愛する女性の遺体を守るため、事務所Aにひきかえし、背中に背負って、からくも脱出してきたのだった。リアカーに入れて花で隠したのは、だれかにみられた場合の面倒を避けるためだった。

 しかしここに運んできたのは、なんのためか。

 いま男は冷たくなった女性の手をにぎり、しばらくたたずんでいたが、なにをするつもりか、にわかに全身をひきしめた。そして身をかがめ、リアカーの遺体に両手をのばした。

革のように黒光りする男の指が、冷たく蒼い女性の顔をしずかになでる。指はやがて下におり、衿にふれた。旗袍の立衿は紅玉の留め金でとめてある。その留め金を男の指がひとつひとつはずしていく。

 はだけた衿から、白磁のような肌があらわれた。首には、銀の鎖がきらめいている。首飾りを男はすくいあげた。鎖には白い石がぶらさがっている。

 男は右手で石を、左手で女性の手を力いっぱいにぎりしめると、北京語でいった。

「もう・・・・・・だいじょうぶだよ」

 むせぶような声だった。男の鼻と唇が激情にふるえた。

「これでおたがい、生まれ変われる・・・・・・」

 黒眼鏡からひとすじの涙がつたった。

 男はいったいなにをいっているのか。首飾りの石が、死者を救うとでもいうのか。

 男はいったん両手を自由にすると、遺体にむかってかたく合掌した。

 それからあらためて石を手にとった。

 白い石は女性の耳ほどの大きさで、真中に切れこみがある。

 石の両端に両手で力をいれると、石は切れ込みからパキッと、真っ二つに割れた。

 なかは空洞になっているが、カラではない。さらさらとした塩のような白い粉が入っている。

 男は驚いたようすもなくそれを確認すると、ふたつになった石を両手にもち、女性の両耳にもっていった。

 いったいなにが目的か、深呼吸すると、にわかに石の中身を耳の穴に流しこんだ。

 白い粉は半分ずつすべて遺体の鼓膜に吸収されていく。

 それを確認すると、男はふたたび死んだ女性の手をにぎりしめ、その顔をくいいるようにみつめた。

 陽はようやく沈みつつあった。

 遺体にありうべからざる不可解な現象がおこったのは、まもなくのことだった。

 皮膚が青白い光をおびだしたのである。燐光のようにもみえた。しかしそれにしては青白さは強さをましていく。

夕陽のもとで、あきらかに非科学的な現象がおきていた。遺体はまばゆいほどの光を放射している。まるで毛穴のひとつひとつが発光器と化したかのように――。

 いまや遺体を底として光の柱がたちつつあった。

 いったいこれはどういうことか、なにが起きているのか。

 男にはわかっているらしい。遺体をみまもっていた顔には驚きよりも安堵の色がうかんでいる。と思うとリアカーの底に手をいれて、水筒をとりだし、口にあてた。一気に飲みほし、目をとじた。

 なにを飲んだのか?

 男は発光体と化した女性の手をかたくにぎりしめ、目をとじている。なにごとかを待っている。

 時間が経過する。一分、二分・・・・・・。

 傾いた夕陽が桜の花を絨毯にして真っ赤に輝いている。

 奇怪な現象がおこったのは、まもなくのことだった。

 遺体に生じた現象も常軌を逸していたが、男に生じた異変もそれに劣らなかった。もし少女がいまの男をみたら、度肝をぬかれ、自分の怒りさえ忘れたにちがいない。

 男の顔はひとしれず変化をとげていた。

 こんなことがありえるのか――皮膚が勝手に動いている。粘土細工のようにある部分はひろがり、ある部分はちぢんで、すじのとおった鼻はあぐら鼻に、うすい唇はぶあつく、かたちを変えている。

 いや、動いているのは皮膚だけではない、体内も――骨や内臓までもが粘土のように自在に伸縮しているとみえる。

 ひいでた額はせまくなり、むだのなかった顎は丸くなり――頭はちぢみ、横にひろがり丸くなっている。

原因は、男がさっき飲んだものにあるのだろうか? 体型も同様、手足がちぢみ、腹がつきでて、長身痩躯が短躯肥満体にと変化していた。

 一方、遺体から放射される光の柱は小屋の屋根にまで達しつつあった。

 日は沈んだが、西空はなお残照にきらめいている。そのあいだも、どこかの家の蓄音機はなおも回りつづけ、同じ歌をくりかえし流しつづけている。

  夕暮れに 仰ぎ見る 輝く青空

  日暮れて 辿(たど)るは わが家の細道――

 空はしだいに朱から紫にそまっていく。

 男は依然、黒眼鏡の下でまぶたをとじている。おのれの体を変化させるにまかせ、愛する女性の冷たい手をにぎりしめている。

 そのとき小屋の上に、飛鳥のごとくポッとはねあがったものがあった。

 光の玉だ。

 光は遺体からでた。光の柱が結集して小さな玉のかたちをなしたらしい。それにしても遺体はどこへいったのか。リアカーの上にその姿はあとかたもない。もしや遺体は光へと姿を変えてしまったのか。そんなことがこの世にありえるのか。

 光の玉は、打ち上げ花火のようにぐんぐん朱色の残る空にのぼっている。

 そして中天にあがると、パッとふたつにはじけた。

 ひとつは青く、夕空に鳶のかたちを刺青のように描いたかと思うと、ふたたび結集して南西の空へとおちていった。

 ひとつは白く、流星のように南東へとおちていった。ちょうど爆破現場のあたりへ――。

 すべて一瞬のできごとだった。

 少女はみなかった。――いや、なにか光るものが黒煙をかすめたようなのはみたが、気にはとめなかった。色は煙炎にとけてうすかったし、いまは視覚よりも聴覚に神経が集まっていた。さっきから耳に入る歌のせいである。レコードは同じ歌詞をくりかえしくりかえし流しつづけていた。

  せまいながらも 楽しい我家

  愛の灯影(ほかげ)の さすところ

  恋しい家こそ 私の青空

 少女はいらいらして、菜の花からなにから手あたりしだいにむしっている。夢中になるあまり、少女は気づかなかった。

男がふたたび姿をあらわしたことに――。

 桜の下の薄闇にぼうっと碗帽、黒眼鏡、長衫のシルエットがうきあがっている。隣にはさっきと同じようにリアカーの輪郭。

リアカーをひいて男はなにごともなかったように、もときた道をひきかえしてくる。虚空をひらひらと淡雪のように白く舞うものが、桜の花びらから葉っぱにかわったとき、男はハッとなって歩みをとめた。人の気配に、いまさらのように気づいたのだった。

 その人間は草むらで動いていた。少女である。うつむいて葉っぱをちぎっている。と、その動きがとまった。少女はハッとした顔になった。

 少女と男は闇のなかでむきあった。

たがいに動きを封じられたかたちで、石像のように立ちすくんだ。

 五秒がたったとき、男が動いた。歩いてずんずん少女との距離を縮めた。目の前にくると、歩調をゆるめ、黒眼鏡のなかの目をぎろりと光らせた。

 男は身につけているものこそさっきと同じだが、体はさっきとはまるきり別人だ。さっきは美青年の面影ある中年男だったのが、いまは小肥りの醜い中年男になっている。だから男は、少女が自分をみて、ハッとした顔をしたのは、自分がさっきとは別人になっているのをみぬいたからだ、と思いこんだ。少女は自分の変身を目撃した、ときめつけた。

 男は勘ちがいしている。少女はなにも気づいてはいなかった。男をじろじろみたのは、自分の顔をじろじろとみられた反動にすぎない。男の体型がさっきとはなんとなくちがうような気もしたが、自分の観察力に自信がなかったから、べつになにも疑わなかった。男が変身しているとは想像もしなかった。少女はただ、さっきの男がリアカーをひいて戻ってくる、と思っただけだった。

 ――とは男は知らない。少女がここであったことをなにもかも目撃したと思いこみ、鋭い目を光らせ、闇をすかしみて、少女の顔をみえるかぎり記憶しようとつとめている。

 あとで素性をつきとめ、しかるべき処理をするためである。いまは急いでいるからなにもできないが、あとで必ず――。

幸いこの少女は制服をきている。どこのだれかわかるまで、たいした苦労はいらなそうだ。

 そんな目で自分をみていようとは、少女は知らなかった。

目の前の男が自分の人生に重大な変化をもたらそうとは、夢にも思っていなかった。

 少女の名は江田夕子、このとき十七歳だった。


 読書室リラダンの火は、消防隊の懸命の消火活動で、日没後ようやくおさまった。

 まわりに木があったのと、風がほとんどなかったのとで、近所への飛び火だけは避けられたが、リラダン内の惨状にはやはり目を覆わせるものがあった。

 読書室リラダンは現代でいうブックカフェとギャラリーをあわせたような個人経営の店だった。古い中国屋敷を改造したもので、中庭を中心に東に展示室、西に読書室Aと倉庫、南に事務所Aと事務所B、北に読書室Bと阿片吸引室があった。

 西側の建物はほぼ全焼した。爆弾がしかけられたのは読書室Aである。火は中庭をはさんだ南北の棟にも燃えうつり、まともに残ったのは東の展示室だけだった。

 定休日だったのはある意味幸いだった。事件発生時、客も従業員もいなかった。

 死者はひとりだった。経営者の李花齢である。遺体は事務所Aの焼けた側にあった。

 ふしぎなのは、遺体に焼けたあとがまったくなかったことだ。カーテンやソファ、まわりぜんぶが焼け焦げて黒く変色したなかで、遺体だけがなぜか白く美しいまま残っていたのである。ナイフの刃の刺さった所をのぞけば皮膚はすべてもとのまま、生きてるようにみずみずしかった。目をとじてあおむけになっているようすは、まるで眠れる王妃だった。しかしそれはたしかに死体だった。

 死体に火傷のあとがなかったことからすると、李花齢は現場ではなくべつの場所で絶命し、死体となってから何者かによって火の消えた現場に運ばれたという可能性があった。だが現場にいた消防隊員や警官はだれも事務所Aにあやしい人間が入ったのをみていない。鎮火してから現場検証が行われるまでのあいだは、ほんのわずかな時間だった。事務所Aの入口付近には何人も人がいた。なのにだれひとりとして死体を運んだ人間をみていないのだ。まるで宙から突然あらわれたかのようだった。

いったい李花齢の死体はどこからきたのか。

謎はそれだけでない。ほかにもあった。自殺か、他殺か、判然としないのだ。

他殺だとすれば、犯人はなぜ李花齢を刺殺し、そのあとリラダンを爆破したのか? 犯人の目的はなにか?

 李花齢は華やかな女性だった。享年四十四歳だったが結婚したことはなく、アメリカ人領事と交際中に二十一歳で息子を香港で産み、領事と別れたあとは上海でユダヤ人ビジネスマンやフランス人弁護士の愛人となって豪奢な生活を送ってきた。いちばん最近ではウィリアム・ハルトンをパトロンにしていた。ハルトンはイギリス人資本家で上海の有力者である。読書室リラダン開店の資金はこの男がだしたといわれている。

 李花齢は写真家でもあった。六年前、ひとり息子が外国に留学にいったのを機に本格的にカメラを初め、賞をとって以来評価されていた。その作品をみに、中国国民党政権のトップ・蒋介石や、日本陸軍少将(上海特務機関長)の小山内駿吉がわざわざリラダンを訪れている。

 李花齢は日中の要人ともつながりがあった。そのような女性が今回変死し、店を爆破されたのである。事件には政治の匂いが感じられた。

事件後、現場付近から逃走する男女三人が目撃されている。男二人は中国国民党の制服を着ていて、女は旗袍を着ていたという。これによって犯人は一時国民党員の中国人とみられたが、のちに国民党員をよそおった日本人とする説がでてきた。

 いずれにせよ、犯人は日本軍と国民党の秘密組織のどちらかと目されるようになった。だが捜査は四月半ばで打ち切りになった。犯人側が権力を使って警察に圧力をかけたとされる。事件は謎のまま残った。

同じころ、ミス摩登コンテストが予選の佳境をむかえていた。

 五月二日にはファイナリスト十二人が決まる。

その十二人の娘たちが、李花齢を襲ったのと同様の組織にねらわれ、運命を狂わされることになろうとは、当時の人びとは想像もしていなかった。江田夕子もそのひとりである。江田夕子にとっては、自分がファイナリストになること自体、想像のほかにあった――。

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