遠き楽園の娘たち6
次にぼくの感覚が戻った時には、自分があの仮想現実空間に引きずり込まれた実感があった。
太陽代わりの光源を雨雲めいた
その雨粒を足もとで弾き返す、赤や黄色――色とりどりの花冠を掲げる植物たち。視界を埋め尽くしていた、見たこともないような一面の花園。そして遠景に続くあの大草原は、やはり空を覆うものと同じブロックノイズ群でぐちゃぐちゃに歪んでいた。
この強烈な雨も暗さも気象変化によるものではなく、ここはさながらブロックノイズで閉ざされた花園とも呼べる場所だった。
あらゆる理屈が歪められた、もうひとつの現実。
ぼくはここを夢などではない、一種の仮想現実空間だと推測したのには根拠がある。何故ならぼくも今度はちゃんと服を着ていたから
思いだして自分の髪に触れれば、やはりそこには銀翼娘と同じ翼が生えていた。
今のこの姿も電子的にデザインされた
――ただ、網膜下端末を損傷したはずのぼくに、何故こんなものが見えている?
すぐ後ろにいた銀翼娘のルリエスハリオンがぼくの背中に身を寄せ、手を握って「るる」と鳴いた。本来ならここは彼女たちの棲まう世界だろうから不思議じゃない。むしろ部外者――人間であるぼくに〝見えて〟いることの方が奇妙だった。
ぼくたちふたりに対峙するものがいる。冗談みたいに年代物めいた装飾をした
「――で、重力の深淵へと飲み込まれてゆくドジで無力でお馬鹿な娘を偶然にも見かけたこの〈金色乙女〉が、優しく手を差し伸べて上げたはずだった……の、で! す! が!」
自らを〈金色乙女〉などと名乗り、肩をいきり立たせ雨傘を上げれば。
その金色乙女とやらは、これまたびっくりするほど古めかしい琥珀色のロングドレスに煌びやかな装飾品で着飾った、時代錯誤の姫君か令嬢かといった身なりの少女だった。
金色乙女が、大仰な所作を伴ってぼくたちへと指先を突き付けている。
「ああ、奇しくも相まみえることになったこの局面。ただでさえアリス=サット社会始まって以来の窮地だというのに、正直なにがどうなっているのやら、わたくし思考が
顔つきから見てスプトニカよりも少し上くらいの女の子で、基地であればまだ初等教育を終えたくらいの年ごろだ。それも、ぼくも記録映像でしかお目にかかれないような、様々な物語作品の登場人物めいた気品ある顔つきをしている。ちょっと大げさすぎるほど。
そんな子が、背まで長く伸びた黄金の髪を雨露ごとはらい、眉目秀麗を描き表したかのような顔立ちを苦渋に歪める。
「……ねえ、このような場面はどう振る舞うべきか教えなさい、我が〈召使い達〉?」
と、金色乙女の足もとに控えていた、中世騎士や魔法使いなどを
【やだ……殿方】
【リアル男なんて初めて見た】
【もしかしてニンゲン?】
【異端分子!】
【〈楽園〉を穢す災厄でわ】
【姫様の危険が危ない】
【敵は排除】
【ブッ殺しちまえなのです】
見れば、金色乙女にとって何らかの役割を与えられているらしき縫いぐるみたちは、みな一様に絶滅動物のライオンの被り物をしていた。そういえば金色乙女自身の頭髪にも、丸みを帯びた金の獣耳がある。スプトニカや銀翼娘とは異なる造形ながら、彼女らが同質だと自己主張していた。
【――満場一致! 乙女たちの〈楽園〉に男など
「だから姫でなく
足もとの〈召使い達〉を一蹴すると、金色乙女は数歩こちら側へとにじり寄ってきたかと思えば、腰に下げていた騎士剣らしきものを抜き放つ。
大仰な銀色に輝き返す切っ先が突き付けられたのは、立ち尽くしていたぼくの鼻先だ。
「わたくしはASアーネミカヅキ・ルーシャイミィ。〈楽園〉の安寧を司る騎士。わたくしたちの〈楽園〉がどのような姿になろうとも、ここに踏み入る悪い虫には騎士の役割を果たすまでですわ」
まるで冗談みたいな光景のさなかで、冗談みたいな文句を言い放つASの少女。このアーネなんとかというのは彼女の名前だろうか。
雨下に晒された騎士剣を露が伝う。琥珀の瞳が鋭く細められる。大仰だがあどけない見てくれとぼくよりも背丈が低いせいで、この金色乙女を侮ってしまったのだと知る。整った顔付きが冗談でも何でもないことを訴えかけてくる。
彼女はスプトニカとは決定的に違う。スプトニカとは、巡り会って何年も交流を重ねた果てにああしてやっと対話が実現できたのだ。他のASに同じ理屈が通用するとは限らない。
「お前の後ろにいる娘。初めて見るお顔、初めて見る珍しい
突き付ける切っ先はそのままに、視線だけ促す金色乙女。僕に縋るルリエスハリオンを指して言ったようだ。
「君はアーネというのか。ぼくはハルタカ。君の言うとおり人間だ。ただ、君たちには最初から危害を加えるつもりはないし、君たちの聖域を汚したのもぼくじゃないよ。そもそも君たちASの頭に生えてるそれ》》が耳冠というのも、いま初めて知ったくらいだから」
ぼくはもう失敗できない。これ以上失うことがあってはいけない。さっきは自分の力ではどうにもならなかったけれど、この場面を乗り越えるのはやってのけてみせる。
「なるほど、お前がそこの娘に何か非道で卑劣で下劣な真似をしたのね。彼女を解放し、早々に〈楽園〉から立ち去りなさい! 従わねば、我が剣がお前の魂をも貫くことになりましょう」
漠然と受け止めていたものが、ようやく明確な像を結んだ。やはりこの世界の正体は夢でも仮想現実でもない、彼女たちASの住み処だという量子ネットワーク空間――〈楽園〉だ。
「ぼくは君たちASの敵じゃない。それを証明するためにできることなら何だってする」
両手を広げ、抵抗の意思はないと振る舞ってみる。ちょっと大げさかもしれないけれど。
「――わたくしも人類種との対話など初めてですけれど、史実に違わぬ愚かものですわね。お前が証明すべきは、言葉の正しさなどではなくってよ」
そう言うと雨傘を投げ捨てて、濡れるのも厭わずさらに詰め寄ってくる。剣の切っ先が完全にぼくの喉元を狙い定めている。
まるで示し合わせたように雷鳴が轟き、天上から迸った電光がアーネ何某の背後で閃光を放つ。濁りきった空が電子的ノイズに滲み、おびただしい雨粒が染みだしてくる。
「見なさい。わたくしたちの〈楽園〉は、今や黙示録の闇に侵蝕され、かつての拡がりを失いつつあります」
そう金色乙女が表現したのは、この〈楽園〉なる世界が文字通りの闇に閉ざされつつあることを指しているのだろう。
「この花の庭園も、かつてはずっと明るくて美しい場所でした。なのに今はこんな酷い有り様に。〈楽園〉を穢した元凶が人間――お前だというのなら、わたくしも容赦はしませんわ」
ここが物質世界ではないのだとして、痛覚などの感覚もある。この剣で傷つけられればぼくがどうなるのか想像が付かない。
「君は言葉の正しさじゃないって言ったけど、もう一度言う。ぼくは君たちの敵じゃない。君たちの〈楽園〉を壊したのも人間の仕業じゃない。正直に言うと、自分でも〈楽園〉に入り込めた原因がわからないんだ」
「――わからない、ですって? ここはわたくしたちアリス=サットにとっての安息の地であるからこそ〈楽園〉と呼ばれている場所。ASだけに許された〈楽園〉は、AS以外を拒む。異物であるお前がこうして入り込めたこと自体、何らかの不正を行った事実の証明ですわ!」
「なら、ぼくの行った不正を君が調べてくれないか。ぼくたちだって、何がどうなってこうなったのか理由が知りたい。ぼくたちが今すべきなのは君と喧嘩することじゃない、本当に必要なのは君みたいなASの助けなんだ」
スプトニカが消え、入れ代わりにルリ姉そっくりのルリエスハリオンが現れた理由。知的衛星生命体としてのASだけを認証する量子ネットワーク空間――〈楽園〉が、人間のぼくを受け入れた理由。
とにかく、わからないことずくめだった。だから対立するのではなく、もし頼れるなら金色乙女だって味方に付けたい。
「とにかく窮地に陥ったこの子を助けてくれたことには感謝してる。アーネ、君がぼくたちを助けてくれたんだよね?」
そう言って、怯えたように後ろで濡れそぼっていた銀翼娘を前に出して、後ろからそっと肩を抱いた。人質ではなく、親密な関係なのだと訴えようとして。
思った通り銀翼娘は嫌がったりしなかった。ただ、さすがに驚いたみたい。ちょっと大胆な演技だけど、でも状況的に躊躇してる場合じゃなかった。
「あの金色の子が仲間なら、行ってあげて。ぼくは君を人質にしてるわけじゃないから」
そう耳元で伝え、抱擁から解放して背中を押してやる。
「――――るぅ!」
が、くだんの銀翼娘は逆らって踏み止まり、代わりに大きく両手を広げて金色乙女と対峙した。まるでぼくを守る意思を相手にも示すように、だ。
「るー、は、まも……る。くんを、まもる。るー、がハルくんを、守るっ!」
そしてたどたどしいけれど、必死に張り上げられた彼女の声。アーネに向けられていたはずのぼくの意識を、一気に引き寄せるほど強いその言葉。
「……そんな……気のせい、だよね? どうしてASの君が……ルリ姉の言葉を……」
お姉ちゃんが、ハルくんを守る。かつて姉が口にした言葉が、どうして彼女の口から出たのか。それに小さかった頃、ルリ姉は自分を指して〝るー〟だと言った。
疑問をどうやって確かめたらいいのかわからなくて、思わず彼女の背に触れていた。しっとりと濡れた肩から伝わってくる震えは、肌寒さのせいではないのだとわかる。
片やルリエスハリオンの気勢にたじろいだアーネが後ずさってしまった。まだ剣を引っ込めてくれそうにないけれど、同族のAS相手にいきなり切りかかってくる様子はなさそう。
「そっか。君はさっきの衝突の時も、ぼくを守ろうとしてくれたよね。スプトニカが残した言葉のとおり、本当に君がルリ姉の〝魂の行き先〟なのかもしれないって信じたくなってきた」
どうしてこうなったのか、もうぼくにだって理屈がわからない。ただ子どものころの情景が重なるようで、胸がざわつく。虐められたぼくを庇ってくれた小さな〝るーちゃん〟の姿に、救いと罪悪、相容れないはずの感情を抱いていたことを思い出させる。
と、そこでこの拮抗状態の対岸側から思わぬ反応があった。
【ニンゲンがあの名を喋った】
【データベースにある名前】
【スプートニカ】
【ナゼ?】
途端にアーネが目の色を変えた。突き付けていた騎士剣の刃を水平に傾け、かちゃりと金属音を立てる。
「――どういうことですの……お前のような部外者が、何故スプトニカねえさまの名を知っていますの!」
アーネのこの反応に、ぼくは新たな気づきを得た。ただこれは、さらに大胆な賭けになる。
「知ってる理由は、ぼくがあの子と友だちだからだよ。ぼくはスプートニカハリオンの秘密を知っている。スプトニカが見つけ出そうとしていた秘密を知っている。〈楽園〉を取り戻し、君たちアリス=サットを救うための秘密だ。だから君とも取り引きがしたい」
すると、アーネは心ここに在らずみたいなキョトンとした表情を返して。それから慌てて〈召使い達〉の前で威厳を取り繕うと、濡れた切っ先を下ろし露を振り払った。
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